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現代台湾「慰安婦」言説の整理 ——2001年論争以前

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1.はじめに 日本では一般に日本軍「慰安婦」1)問題(以下,「慰安婦」問題と略記)に 関する話題が韓国の「慰安婦」問題(朝鮮人「慰安婦」問題)2)に集中し,「グ ラフ1」がしめすように,台湾人3)「慰安婦」問題についての関心はきわめ て薄い。いわゆる「日韓合意」(2015 年 12 月 28 日)に加え,2021 年 1 月 8 日には韓国ソウル中央地裁が日本政府(被告)に対して,韓国人元「慰安婦」(原 告)への賠償を命じる司法判断を下し,韓国「慰安婦」問題への関心はさら に高まっている。同じ「慰安婦」問題であるにもかかわらず,両地域に対す る関心のギャップは広がる一方だ。巷間には,台湾は「親日」だから「慰安 婦」問題など存在しないのだ,という見方さえある4)。こうした関心の偏り は一般社会のみならず,研究状況にも見られる5)。 グラフ1: 日本の朝日新聞記事データベースによる「台湾&慰安婦」「韓国&慰安 婦」関連記事数(1990-2020年) 縦軸が記事件数6)、横軸は暦年(西暦) 出典:「朝日新聞記事データベース 聞蔵Ⅱ」より作成

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2001 年論争以前

三澤 真美恵

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しかし,台湾にも「慰安婦」問題は存在し,激しい論争もなされてきた。「グ ラフ2」は,問題が浮上した 1990 年代初頭7)から2020 年まで,台湾の大手 新聞『聯合報』系の紙上で「慰安婦」に関するニュースがどの程度取り上げ られたのか量的な推移を概観したものである。ここからは,問題浮上後の「慰 安婦」関連記事量には1992 年,2001 年,2015 年という 3 つのピークがある ことが見てとれる。3 つのピークにはそれぞれ対応する出来事がある。すな わち,①1992 年=台湾「慰安婦」問題の浮上,② 2001 年=小林よしのり作 の漫画『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』(2000 年 11 月初版,小学 館。以下『ゴー宣・台湾論』と略記)の中国語版『台灣論・新傲骨精神』(2001 年2 月,前衛出版社)の台湾での刊行によって惹起された論争(本稿では「2001 年論争」と略記),③2015 年=「高校学習指導要領微調整案反対運動」(中 国語では「反高中課綱微調運動」)8)である。 本稿の課題は,台湾における「慰安婦」問題に関するステレオタイプ化し た支配的言説11)が,どのように編成されたのか,日本では理解されにくい 文脈に注意しながら整理し,ステレオタイプ化した支配的言説によって,何 が不可視化ないし周縁化されることになったのかを,上記のグラフ2 で最大 0 50 100 150 200 250 300 350 400 450 1990199119921993199419951996199719981999200020012002200320042005200620072008200920102011201220132014201520162017201820192020 グラフ2: 台湾の聯合報系新聞データベースにおける「慰安婦」関連記事数(1990-2020年) 縦軸が記事件数9),横軸は暦年(西暦) 出典:「聯合知識庫」(聯合報系新聞データベース)より作成10)

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のピークをなす2001 年論争以前に遡って検討することである。台湾「慰安婦」 問題について関心の薄い日本の現状に鑑みれば,台湾における「慰安婦」言 説について整理検討を行うことには,一定の意味があると考える。ただし,「慰 安婦」問題に関する言説を網羅的に調査するのは筆者の力量を超えることか ら,本稿では支配的な言説が編成される時期において,なお社会的影響力の 大きかった新聞メディアを中心に検討を行うこととする。 「慰安婦」問題については,1990 年代のはじめに問題が広く知られるよう になって以後,問題解決運動の進展とともに,過去の事実を対象とした歴史 研究のみならず,過去の事実をめぐる現在のあり方を対象としたさまざまな 研究が登場した。日本や韓国,中国における運動や研究については,これま での成果を回顧整理した論考も複数刊行されている12)。台湾「慰安婦」に 関する歴史的な事実関係についても,すでに一定の研究蓄積があるが,詳細 な紹介は別稿に譲り,ここでは本稿に関わる範囲で簡単に述べる。 1990 年代初頭,問題浮上後の先駆的な成果として,台湾における「慰安婦」 の徴集と渡航に関する内容も含む資料集『従軍慰安婦資料集』13),台湾「慰 安婦」にも言及した吉見義明の先駆的研究『従軍慰安婦』14)や論文集『日本 軍慰安婦 : 共同研究』15)が刊行された。これら日本での資料や研究成果を参 照し,戦時動員された台湾人の回想など新たな資料を加えた台湾での先駆的 研究が,李國生の修士論文である16)。さらに,婦女救援基金會(後述する ように,「慰安婦」被害者の調査・支援を政府から委託された。以下,「婦援 会」と略記)17)による元「慰安婦」被害女性調査に参加した江美芬の修士論 文18),陳美鈴の研究19),政府の委託を受けて組織的な調査を行った結果を まとめた報告書として婦女救援基金會『台灣慰安婦報告』20)も登場した。こ れらの成果を踏まえて,駒込武21)や朱徳蘭22)らが歴史研究をさらに深化さ せた。台湾先住民族の被害女性に対する聞き取りによる柳本通彦によるノン フィクション23)もある。「慰安婦」制度の前提ともいえる台湾の性売買・公 娼制度については,早川紀代24),張暁旻25),藤永壮26)らの研究があり,最 近では吉見義明によって日本の帝国内で「軍が公認し,隠蔽する性売買専一

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の制度」,すなわち「日本軍慰安婦制度の原型」と見られる施設は,台湾で 最初に設置されたという重要な指摘もなされている27)

さらに,2010 年代の台湾では,ベトナム戦争期に中華民国が米軍向けの Rest and Recuperation Program(休養回復計画)で性売買に関与したことを研 究した宮平杏奈の修士論文28)や,台湾撤退後の中華民国軍に設置された性 売買施設「軍中楽園」に関する姚惠耀の修士論文29)など,「慰安婦」問題に 接続する意欲的な研究が登場した。また,劉夏如は台湾「慰安婦」問題の 把握に関わって,「台湾人は自主的に脱植民地化を行う権利を国民党に奪わ れ」30),日華平和条約では「植民地統治や戦争動員による被害についてはいっ さい言及されなかった」31)という新たな視点を提示している。宮平,姚惠耀, 劉夏如らの研究成果は「轉型正義」(後述)を掲げる民進党政権下での台湾「慰 安婦」問題の解決にとって示唆に富んでいる。 他方,1990 年代初めに問題が浮上して以後の台湾「慰安婦」言説の検討は, 後述するように2001 年論争に集中している。公共の議論が被害者に与える 影響に関する楊麗芳の研究32),被害者の証言ナラティブを扱った彭仁郁の トラウマ研究33),「慰安婦」に関する表象研究34),「歴史記憶の競合」とい う視角から分析したShogo Suzuki35)の研究などにおいても,2001 年論争で ステレオタイプ化した「慰安婦」言説のインパクトについての言及がある。 本稿もまた以上の先行研究に多くを負っているが,2001 年論争以前に着目 して支配的言説の編成を整理し,支配的言説によって不可視化ないし周縁化 された問題を明確にすることで,先行研究に接続し補足する内容をもつ。 なお,「慰安婦」問題にかかわる資料紹介は日台の支援団体が開設したウェ ブサイトが充実しているほか36),「台湾の元『慰安婦』裁判を支援する会」 の会報『50 年の沈黙 Fifty Years of Silence』(1999-) が,日本における台湾「慰 安婦」被害者の裁判闘争を共に歩んだ記録として重要である。

以下,2001 年論争以前の「慰安婦」言説について,問題が浮上した 1992 年以後と以前に時期を分けて整理検討してみたい。

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2.問題浮上後,1990 年代の「慰安婦」言説 台湾「慰安婦」問題が浮上するのは,1992 年 2 月に国会議員の伊東秀子 が防衛庁研究所図書館で3 通の電報を発見し,第二次大戦時の台湾におけ る「慰安婦」募集工作に日本軍が関与したことを明らかにしたことが契機 とされる37)。当時の中華民国(台湾)政府(国民党・李登輝政権)はすぐ に「台湾籍慰安婦専門案件グループ(原文は台籍原慰安婦專案小組)」を組 織し,申請ダイヤルを開設して,台北市婦女救援基金会(以下,婦援会と略 記)に申請者の確認作業と調査訪問を委託した38)。婦援会による調査の結果, 59 名の台湾「慰安婦」の存在が確認された(使用言語の別で見ると,台湾 語39)話者35 名,客家語話者 12 名,台湾先住民族言語話者 12 名)40)。戦時 「慰安婦」制度の前提となる公娼制度は,台湾において日本軍によって導入 されたが,年齢制限は内地が19 歳以上であったのに対して台湾では 16 歳以 上と低く設定されていた41)。同様に,「慰安婦」動員に際して内地では「満 21 歳以上」とされたが,台湾「慰安婦」の場合は婦援会の当初調査対象 48 名のうち当時16 歳―20 歳が半数の 24 名にのぼる42)。それ以前の職業が「酒 家,食堂,芸旦間,旅館,茶室等」だった者は18 名であることから43),必 ずしも性売買に従事していなかった者が過半といえる。また,養女あるいは 童養媳だったものが半数近くの23 名44)。国民学校卒業以上の教育歴を持つ 者は5 名のみで非識字者も多い(当初調査対象 48 名中の 19 名)45)。「植民地 権力と父権的な社会の中で形成された構造的差別により圧倒的に不利な立場 におかれていた女性たち」46)が「慰安婦」の大半を占めていたことがわかる。 2-1:1992 年,台湾社会の反応 問題浮上当初は,同じ植民地期の戦時動員として「慰安婦」問題は元日本 兵の賠償問題と並べて論じられている47)1980 年代には元日本兵の賠償問 題は個人の問題として「政治化すべきでない」という見方があったが48),「慰 安婦」問題浮上時には,両者は同じ基準で補償されるべき,同じ「植民地支

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配による被害」と捉える見方が示されていたことに留意したい49)。同じ植 民地期の戦時動員による被害者という立場から,騙されて「慰安婦」とされ た台湾人女性について台湾人元日本兵が証言する記事もある50)。 ところが,元日本兵によるその「看護婦として台湾で募集され,戦地で「慰 安婦」にされた」という証言内容に対して,翌日には「看護婦」と「慰安婦」 を一緒にするなという元看護婦の言葉が掲載される51)。台湾人元従軍看護 婦は記事内で,メディアに対し,自分たちが「汚れていない(原文は「清 白」)」ことをはっきりさせるよう線引きを要求している。同一ジェンダー内 の差別(性売者=賤業という蔑視)52)を明白に示す言説といえよう。こうし た状況があったがゆえに,元日本兵とは異なって,元「慰安婦」は名乗り出 ることが難しかった。『中國時報』1992 年 01 月 15 日の報道「「慰安婦」索 賠案件傳遍東瀛」によれば,台北縣警局で元日本兵はすでに350 件連絡があ るのに対して,元「慰安婦」だと名乗り出る連絡は0 件であった。1992 年 8 月に婦援会主催で元「慰安婦」が初の記者会見53)を行い日本政府に謝罪と 補償を要求した際にも(日本の裁判所への正式提訴は1999 年 7 月 14 日)54) 出席した3 名55)の元「慰安婦」被害女性は黒い垂れ幕の後ろに顔を隠して いた56)。彼女たちが顔を隠さねばならなかった背景には,植民地支配下の 戦時動員被害者の間ですら,元「慰安婦」被害女性を「汚れた存在」と見な す,上記のような蔑視が社会に広く共有されている現実があった。 2-2:「軍中楽園」との連続性,「強制/志願」による線引き 1992 年 3 月には「慰安婦」問題から中華民国の軍専用の性売買施設「軍 中楽園」57)(当時なお存続していた)を連想するとして,「軍中楽園」は「現 代国家の恥だ」とする大学院生の意見が登場していることも目を引く58) 立法委員(当時)だった陳水扁はすぐさまこれに呼応し,3 月 11 日国防委 員会で「軍中楽園」は「慰安婦」制度ではないのか,と質している59)。こ れに対して総政戦部副主任兼執行官の杜金榮や軍人出身の立法委員・周書府 は,「慰安婦」は「強制」(原文は「強迫」)だが「軍中楽園」は異なるとして,

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「混同してはならない」と反論した60) つまり,問題の浮上とほぼ同時期,2001 年の論争を待たずに,「慰安婦」 制度と「軍中楽園」の連続性を指摘する視点が提示され,「軍中楽園」に対 する批判をかわしたい政府の側から「「慰安婦」制度は強制で,「軍中楽園」 は強制ではない」という論理が登場していた。次項で見るように,「強制か 否か」で両者を線引きする論理が,その後の国民党側による「慰安婦」言説 の方向を規定していくひとつのポイントになる。 この点に関わって確認しておくべきは,「慰安婦」問題が浮上した1992 年の段階では,戒厳令は解除されたものの総動員体制時期は法的にはまだ 終わっておらず61),国民党一党独裁体制もなお維持されていたことである。 ただし,李登輝が進めた憲政改革によって国民党政権の「法統」は実質的に 消滅し,「台独綱領」を採択した民進党の完全合法化によって台湾ナショナ リズムも合法化され,「中華民国」の「台湾化」が進行中であった62)。つまり, 台湾「慰安婦」問題は,国民党のリーダーシップが目に見えて弱体化した時 期に浮上し,軍専用の性売買制度という連続性のなかで国民党政権下の「軍 中楽園」を批判する文脈でも言及されていたのである。 2-3:1997 年,「国民基金」批判と馬英九のアイコン化 このタイミングで台湾「慰安婦」問題を「軍中楽園」批判から切り離し, 「抗戦正義」の文脈で言説化する契機となったのが,「女性のためのアジア 平和国民基金」(以下,「国民基金」と略記。台湾での申請受付・実施期間は 1997 年 05 月 02 日∼ 2002 年 05 月 11 日)63)である。中華民国(台湾)政府(国 民党・李登輝政権)の外交部は,民間組織である同基金の「償い金」は日本 政府の法的責任と国家賠償(State Compensation)を回避するためのものだと して受け入れを拒否していた64)。「国民基金」に対する批判は多岐にわたるが, 受け取るべきか否かをめぐって被害者の間に分断をもたらした点も問題視さ れている65)。当時の台湾で「国民基金」を批判すべく制作されたのが,以 下のような公益広告である。冒頭の字幕は,後年インターネットでの公開に

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あたって付け加えられたものと思われる。出演しているのは,当時国民党の 若手ホープだった馬英九(同年5 月 8 日,白曉燕誘拐殺人事件による政府批 判を受け行政院政務委員を辞任,広告撮影時は官職を離れていた),王清峰(弁 護士,婦援会前董事長), 雨琴(国民党立法委員)の3 人である66) 慰安婦公益廣告67) (以下は日本語訳。元の音声・字幕は中国語) 字 幕:日本政府は1995年「国民基金」[女性のためのアジア平和国民 基金:引用者注]を成立させ民間寄付金でもって私的に解決を図り, 第二次大戦時に慰安婦を強制徴集した歴史事実を覆い隠そうとし た。1997年5月この広告はテレビで放映され,社会に向けて「国民 基金」の不当性を呼びかけた。 王清峰:あら,求人欄を見て仕事でも探しているの? 馬 英九:違うんだ。私は日本の民間団体の広告を見ていたが,読めば 読むほど腹が立ってね。第二次大戦時に日本政府は我々台湾の婦女 を強制的に日本軍のなかに連れて行って慰安婦にし,彼女たちの一 生をめちゃくちゃにしたんだ。 雨琴:五十年來,私たちのこの可哀想なアマは,結婚できなかった り,子供ができなかったり,痛苦と恥辱のなかで生活してきた。に もかかわらず,日本政府は今日までずっと表に出て来ないで,いか なる補償もしていない。 王 清峰:そうよ! いまも日本政府はある民間組織を通じて私たちの アマに少しの金銭を与えて,この問題を終わりにしようとしてい る。 馬 英九:国連の人権委員会はすでに日本政府のこうした行為が戦争犯 罪を構成すると認めている,本質的には南京大虐殺と同じものだ。 (日本は)道義的な責任を負わねばならないだけでなく,さらに法 律的な責任も負わねばならない。日本政府は必ず正式に補償をしな

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ければならない,避けることはできないのだ。 字 幕:日本民間団体の施しを拒絶し 日本政府に表に出て(正式に)責 任を取るよう要求する 字幕:婦女救援基金會 企画  萬利達傳播 無償製作 この広告では「慰安婦」問題を「我々台湾の婦女を強制的に「慰安婦」にした」 「本質的に南京大虐殺と同じ戦争犯罪」と位置づけている。これは,抗戦勝 利が台湾接収の根拠である中華民国(国民党政権)の言説として矛盾がない。 台湾は中華民国の一部であり,台湾の婦女もまた中国人婦女という認識であ る。同時に,「『軍中楽園』は「強制」ではないから『慰安婦』制度とは異な る」という国民党政権の論理を再度強調する内容になっている。また,馬英 九が行政院政務委員を辞任するきっかけとなった白曉燕誘拐殺人事件は性暴 力事件でもあり,このタイミングで日本軍による性暴力被害者である「慰安 婦」のための広告に出演することは,馬英九が女性の性暴力被害に対して声 を上げる政治家であるという政治宣伝の意味をもったと思われる68)。 2-4:周縁化された植民地期経験者の視点 しかし,「抗戦正義」の論理には「植民地支配を受けた我々」という視点 が欠けている。「植民地支配を受けた我々」は,抗日戦争では日本軍の側に 動員されていた。「抗戦正義」の文脈で振り返るならば,「植民地支配を受け た我々(旧「日本人」)は,中華民国(国民党政権)にとって「旧敵」もし くは「漢奸(漢民族の裏切り者)」である。実際に日本軍に動員された台湾 人のなかには,中華民国政府による裁判で日本人「戦犯」としても中国人「漢 奸」としても裁かれ,「2 つの戦争責任を負わされた」者もいる69)。しかる に,「従軍慰安婦」とされた「我々台湾の婦女」が「旧敵」でも「漢奸」で もなく「可哀想な」存在とされるのは,彼女たちが「日本による植民地支配」 を受けたからではなく「抗日戦争による被害」を受けたからであり,なかん

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ずく「(主体性を奪われた)性奴隷」とされたからである。「旧敵(旧「日本 人」)」の汚名が「敵によって性奴隷とされた」という傷によって雪がれた形 である。この点,他の「植民地支配を受けた我々」を免罪したのは,日本に よる植民地教育によって「奴隷化(中国語では「奴化」)された」という傷 である70)。同時に,その奴隷化され「国語」も話せないという傷(植民地 支配による被害)は,傷を負った者から経済的・政治的機会が奪われること(遷 占者支配による被害)が正当化される理由にもなったことは黄英哲,何義麟, 陳翠蓮などの先行研究が示す通りである71)。つまり,台湾における「奴隷」 という語には,日本の文脈では捉えきれない固有の歴史的意味があることに, 十分な注意を払うことが重要である。 こうした植民地経験者の二重に抑圧された立場(日本の植民地支配による 抑圧と戦後の国民党政権による抑圧)からは,「抗戦正義」にもとづく馬英 九の「我々(中華民国の一部としての)台湾の婦女」という語り方には二重 の意味で反発が想定される。一つは「抗戦正義」の文脈において「植民地支 配を受けた我々」が「奴隷化された存在」とみなされることへの反発,もう 一つは「台湾の婦女」が「中華民国の婦女」とみなされることへの反発であ る72)。ここで注意したいのは,女性が「我々の」という所有格で示されて いることである。女性に対する性暴力は,男性の「財産権」73)ないし集団の「名 誉」74)に対する侵害として扱われてきた。「我々の」という表現には「慰安婦」 への共感と同時に,「慰安婦」問題を男性主義的ないし民族主義的な女性の「所 有」に関わる問題として捉える意識が表れているともいえよう。 この広告は記者会見での試写の後,テレビで繰り返し放映された。同年7 月には作家の李敖が「男だからこそ,弱者に関心を寄せる力がある」75)と述 べて「慰安婦」被害者に「国民基金」と同額の補償を提供する目的で,自分 の長年の骨董コレクション100 件をオークションにかけた76)。この「義挙」 は「空前の成功」77)を収め,新聞,雑誌でも盛んに報道された。そして,この「盛 大な企画に協力」78)してタキシード姿で会場に現れたのが公益広告にも出演 した馬英九だった。被害者の要求に応えようとしない日本政府による一方的

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な提案に対する義憤が,こうした著名人によって公の場で相次いで表明され たことは,元「慰安婦」は「被害者」であるという「抗戦正義」の文脈が共 有され,彼女たちに対する蔑視を和らげる効果をもったと思われる。それは 同時に,李敖や馬英九ら男性の中国ナショナリストが「救済者」として,「慰 安婦」は公の場に姿を現すことのできない「可哀想な被害者」として,表象 されることでもあった79) つまり,「国民基金」の台湾での展開に刺激される形で,「慰安婦」問題を「抗 戦正義」の文脈で語る言説が定着し,馬英九はこの問題に関心を寄せる政治 家としてアイコン化したといえる80)。植民地支配を経験した台湾ナショナ リストの側から見れば,それは「想起が当事者たちから剥ぎ取られ」81),抗 戦正義という公式象徴の論理に被植民者の経験が「接収」82)される不快感を 醸成したと思われる。 3.2001 年論争と「慰安婦」言説のステレオタイプ化 国民党政権にとって,自らの正当性を担保する発話の位置が「抗戦勝利の 主体」だとすれば,民進党にとってのそれは,国民党独裁体制に抵抗した「民 主化の主体」にある。そのため,2000 年の総統選挙で陳水扁が勝利し政権 が交代すると,国民党政権下で起きた2.28 事件や白色テロに関する責任を 追求する「轉型正義(transitional justice)」83)の議論が活発になる。政権与党 が掲げる正義の標準が「抗戦正義」から「轉型正義」へと変化したタイミン グで起きたのが,『ゴー宣・台湾論』によって惹起された2001 年論争である。 小林よしのり作の漫画『ゴー宣・台湾論』中国語版が2001 年 2 月に出版 されると,「中国に圧力を受けながらも独立を目指す台湾」という「国産み 神話」(台湾ナショナリズム)に仮託して,「新自由主義史観」にもとづく日 本のナショナリズムを救い出そうとする同書の「植民地支配肯定論」に批 判が集まった84)。特に大きな問題となったのは,小林の取材を受けた蔡焜 燦85)や許文龍86)ら植民地期経験者が「慰安婦」に関して「強制連行などなかっ た」87)と発言した箇所である。元「慰安婦」被害者や支援団体などの批判を

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受けた許文龍は,自分の周囲には貧困ゆえに父母に売られるケースがあった (強制連行ではなかった)と重ねて発言し,火に油を注ぐ結果となった88) 許文龍は陳水扁政権成立の功労者として知られ,「総統府資政」(高級顧問) という政府内の重職についていたため,許文龍批判には「轉型正義」で責任 を追及される国民党が「抗戦正義」によって新政権(民進党)に反撃する意 味合いも加わった。 3-1:ナショナリズム政党制と「対立をつくり出す」メディア 国民党と民進党による「中国ナショナリズムか,台湾ナショナリズムか」 を対抗軸として成立した民主化期の政党システムを,若林正丈は「ナショナ リズム政党制」と捉える。ナショナリズムの言説のロジックは,「現在」の 問題状況に身を置くナショナリストが,あるべき「未来」の政治目標を達成 するために「過去」を探し出すことで構成される89)。史上初の政権交代が 起きた台湾では,二大政党に代表されるそれぞれのナショナリストが,それ ぞれが理想とする「未来」のために,それぞれのイデオロギーにとって有用 な「過去」を探し出そうとしていた。有用な「過去」探しが競われるなかで, 『ゴー宣・台湾論』は台湾ナショナリストにとっては宣伝材料(中国とは異 なる過去をもつ台湾の独立支持論)と映り,中国ナショナリスト(反- 台湾 ナショナリスト)にとっては格好の攻撃材料(「慰安婦」問題発言を極とす る植民地支配肯定論)となった。 また,2001 年論争は,政権交代に伴って勢いを増していた「対立をつく り出す」90)マス・メディアの扇情的な報道によっても強化された。日本のメ ディアもまた,「省籍矛盾」や「統一派と独立派との論争」という対立構図 で論争を報道した91)。焚書や漫画作者の入境禁止など扇情的な話題もあい まって論争は拡大し,2001 年論争を検討する専門書も日台双方で刊行され た92)

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3-2:過度に単純化された「虚構の二項対立」 「抗戦正義」で「慰安婦」を把握する文脈は,1997 年の公益広告やオークショ ンなどの話題である程度定着していたが,2001 年論争で植民地支配を経験 した老世代の問題発言が全面的な批判を受けたことで,これ以後は支配的と いえる位置を獲得した。それは,おおよそ以下のような過度に単純化された 対立構図を前提している93) ▶  独立派(民進党)=親日=植民地支配肯定=「慰安婦」志願説(「軍 中楽園」も「慰安所」ではないか) ▶  反独立派・統一派(国民党)=反日=植民地支配否定=「慰安婦」強 制説(「軍中楽園」は「慰安所」ではない) こうした「虚構の二項対立」94)の上に構築された図式的な理解95)によっ て「決して右翼とは呼べない台湾民族主義者」の存在が無視された,と呉叡 人は指摘する96)。しかも,「左派知識人」による図式的理解の「正確さ」は,「決 して右翼とは呼べない台湾民族主義者」の「沈黙」によって「表面的には実 証」されてしまう97)。では,右派でない台湾ナショナリストはなぜ「植民 地支配について否定的に語ること」を抑制したのか。そこには,許文龍など の植民地期経験者に対する「奴隷化された台湾人」という国民党の公式見解 (汚名化)を上書きする「言説編制上のトラップ(罠)」98)に絡め取られるこ とへの警戒があり,台湾ナショナリストとして「同志」を批判することへの ためらいがあった99) 3-3:「強制連行などなかった」という発言の背景 それにしても,なぜ台湾で「強制か否か」が焦点化され,植民地期経験を もつ老世代の台湾ナショナリストから「強制連行などなかった」という発言 が飛び出し,同様の説が繰り返されるのか100)。日本とは異なる文脈があり, 日本人に誤解されやすい現象だけに,こうした発言が出てくる要因について,

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あらためて以下の点を押さえておきたい。 まずは,問題を「強制連行=物理的,ないし法的な強制力をともなった連行」 の有無に限定する日本の右派による戦略的な言説101)が「国民基金」をめぐ る論争や『ゴー宣・台湾論』などを経由して台湾に持ち込まれたことである。 次いで,「軍中楽園」批判をかわす際,国民党政権の側が「『慰安婦』と違っ て強制でない(だから問題ない)」として,「強制」性の有無による線引きを 強調していたことがある。さらに,陳水扁が台北市長だった1997 年に起き た台北市における公娼制度廃止論争において,当事者女性や女性運動の側か らも,他に収入源のない弱者の「労働権(主体的な選択)」の問題として性 売買を捉える見方が登場していたことの影響も考えられる102) だが,最も重要なのは,黄智慧が指摘したように,日本語世代の台湾人は 声を剥奪された「サバルタン」の類型として理解すべきだ,という点であろ う103)。彼らは国民党政権による「抗戦正義」の論理で「奴隷化された存在」 と見なされ,主体的に語る機会を奪われ続けてきた。政権交代後のこの時期 には,押さえつけられてきた声がさまざまな媒体を通じて湧き出ていた。こ うした欲求は,過去の国民党政権による中国ナショナリズムが植民地期経験 者の主体性をあまりに低く評価してきたことの反動として指摘されるとこ ろであり,本稿でいえば1997 年に馬英九らの公益広告やオークションを通 じて編成された言説に対する反発として理解される。2001 年論争のなかで, 台湾人の「主体性」に関わる議論が多数登場しているのも,こうした情緒の 現れといえる104) 3-4:「奴隷」という語に対する台湾固有の敏感さ 「主体性」の点に関わって,重ねて留意すべきだと思われるのが,この時 期に「慰安婦」を「性奴隷」という語で捉える趨勢が国際的に定着しつつあっ たことである。台湾でも婦援会が1999 年に刊行した『台湾慰安婦報告』に おいて,「慰安婦」は「軍隊の性奴隷(中国語では「軍隊性奴役」)だという 国連人権委員会の認識を紹介している105)

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他方,先に見たように,「奴隷化されたこと」を理由に政治的経済的な機 会を奪われ,サバルタンとして周縁化されてきた植民地期経験者にとって, 「奴隷」は国民党政権によって押し付けられた汚名であり,否定すべき烙印 として捉えられていた。したがって,老世代台湾ナショナリストが「慰安婦」 について「強制連行ではなかった(主体的な選択だった)」と語る際には, 発話者の主観としては「汚名を引き剥がす」意図が込められていた,と考え ることもできる。ただし,ここでもすぐさま,繰り返し言い添えなければな らないのは,そうした発言は,「汚名化」の原因となった被害を,被害者の 主体的選択の結果とみなし,加害者の罪を「なかったこと」にする効果を持っ てしまう,ということである。 すなわち,被植民者(許文龍ら老世代台湾ナショナリストにせよ,「慰安婦」 被害者にせよ)の主体性を肯定することは,その選択可能性を焦点化し,日 本政府や国民党政府や性売買産業の免責を図ることにつながりかねない106) 許文龍を批判もできず,かといって擁護もできずにいた「決して右翼とは呼 べない台湾民族主義者」が「沈黙」した理由もそこにあったはずだ。 3-5:老世代台湾ナショナリストに同情的な人々の声 この点で強調しておきたいのは,2001 年論争において許文龍に同情的な 意見の大半も,よく読めば実は決して許文龍の発言それ自体に同意している わけではない,ということだ107)。民進党内部からも許文龍の誤りを批判す る声は複数挙がっている108)。以下では,論争当時,新聞紙上に現れた具体 的な意見のいくつかを見てみたい。 植民地支配を経験した許昭榮(1928-2008 年)109)は,「為「國軍台籍老兵」 請命」(『自由時報』2001 年 03 月 05 日 15 版)において,次のように言う。「日 本人」にも「CHINA 人」にもなり,「日本兵」にも「国民党兵」にもなり, 「日軍慰安所」にも「国軍軍中楽園」にも行ったことがある「我ら老台湾人」 にとって「親共仇日賣台集団による倒台聯軍」の「新政府批判」[2001 年論 争を指す]は「どうしても耐えられない」110)。また,植民地支配を経験して

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いない世代では,台湾史研究者の李筱峰(1952 年生まれ)が「忽然出現一 推台灣史專家」(『自由時報』2001 年 03 月 05 日 15 版)で次のように述べる。 「馮滬祥や李慶華など植民地期台湾に生まれ育ったわけでもなく台湾史研究 者でもない政治家」が,「自ら植民地期を経験した蔡焜燦や許文龍の慰安婦 に対する認識を責めるのは誤りだ」,「彼ら[許を批判する人々]は決して本 当にアマ[被害女性のおばあさんを指す]に関心があるのではなく,『台湾 論』が台湾の国家主体を肯定し支持することが耐え難いのだ」「政権交代以来, 旧官僚が新政権にする嫌がらせは珍しくもない,これもその一つだ」。また, 香港独立支持者の鐘祖康(1960 年代生まれ,2003 年ノルウェー移住)は「大 惡要教訓小惡」(『自由時報』2001 年 03 月 05 日 15 版)において,「許文龍 の観点は大間違いだ」としつつも,「中共」が組織的に許を批判するのは「大 悪が小悪に説教するようなもの」と反発する。同様に,著名な映画評論家の 李幼新(生年不詳,1970 年代から批評活動)は「愛恨日本非關本省外省」(『自 由時報』2001 年 03 月 02 日 15 版)において,省籍で対日感情を決めつける 不条理を論じた上で,「白色テロで密告した人間」が「現在また賊[許文龍] を捉えようとする」と同情している。 つまり,許文龍の擁護と見える意見の多くは植民地期経験者や台湾ナショ ナリストへの「攻撃に対する反発」であり,許文龍への同情は多くの場合, 彼の歴史認識ではなく,彼の経験や情緒,対立をつくり出すリソースとされ, 批判の標的とされたその立場に向けられている。すなわち,国民党政権が長 年掲げてきた「抗戦正義」で一刀両断にされえない,植民地期を生きざるを えなかった台湾人の苦衷に対する同情である。したがって,彼に同情的な人々 を十把一絡げに「植民地支配肯定論者」と見ることは大きな誤りである。 3-6:元「慰安婦」被害女性を支援する「別様の同盟」 当時の議論の動向を整理分析したShogo Suzuki は,民主化によって複数 の「過去の過ち」が顕在化し,「歴史記憶の競合」が起こるなか,「慰安婦」 問題は「2.28 事件」など他の歴史記憶によって「押しのけられてしまった」

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と指摘する。その結果,現実の元「慰安婦」への福祉という関心が,政党間 の「アイデンティティー・ポリティクスの問題に乗っ取られ」111),それゆえ に「慰安婦」問題は,許文龍の問題発言で論争が盛り上がった2 月,3 月に 一時的な注目を集めた後,早くも4 月(この時,日本では「新しい歴史教科 書をつくる会」の教科書が承認されるという「慰安婦」問題に関する大きな 事件があったにもかかわらず)には関心が失われ,「忘却」されたと見てい る112)。 Suzuki が指摘するように「慰安婦」問題は「歴史記憶の競合」において 重視されたとはいえず,確かにアイデンティティ・ポリティクスに乗っ取ら れたといえる。だが,その後の推移を見ると,「忘却」されたとはいえない。 中国ナショナリスト(反- 台湾ナショナリスト)陣営は,その後も「抗戦正 義」によって自らの正当性を主張する際に,「慰安婦」問題を「想起」の対 象とし続けているからである113) では,Suzuki が「押しのけられた」と見る現実の元「慰安婦」への福祉に 対する関心と対応は,どのように推移していたのか。問題浮上から数ヶ月後 の1992 年 8 月,先述したように被害女性 3 人114)は黒い幕で顔を隠しなが らも,日本政府に賠償を要求した115)。こうした被害女性の声に応えない日 本政府に代わり,台湾の中央政府にも先立って,生活補助の支給を決定した のは,陳水扁(民進党)が市長を務めていた台北市政府である。すなわち, 1995 年 1 月に,婦援会と合同で立法委員の葉菊蘭と翁金珠が「台湾籍『慰安婦』 問題対策公聴会」を開き,相談ホットライン,生活補助,医療ケアの提供な どを決定した116)1996 年 7 月(「国民基金」の台湾での申請受付開始の一 年近く前)から毎月6,000 元の生活補助金が支給され,1997 年 1 月からは生 活補助金は1 万 5,000 元に増額,医療ケアのほかに生活面でのケアや心理カ ウンセリングなども提供されるようになった117)。1997 年 5 月には「国民基 金」を受け取らずに日本政府の正式な謝罪と賠償を受け取るまで中華民国政 府が「慰安婦」被害者に同基金「償い金」(200 万円)の代わりに 50 万元を 立替払いする法案が立法院で可決された118)

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また,「慰安婦」問題解決運動の進展において重要な意味を持つクマラス ワミ報告が採択された国連人権委員会に台湾を代表して参加したのは陳菊 (民進党,上記「慰安婦」被害者への生活補助を決定した当時の台北市政府 社会局局長),范巽緑(民進党立法委員),胡台麗(人類学者,婦援会),荘 国明(弁護士,婦援会)などである119)。 被害者のエンパワメントや被害者同士の国を超えた交流も市民ベースで行 われた。問題が浮上した1992 年の 12 月には,台湾人「慰安婦」被害者が日 本の市民団体に招かれて東京に赴き,韓国,北朝鮮,中国大陸,フィリピン, オランダなど各国被害者が集まる初の証言会に参加して,同じ痛みを持つ多 くの被害者と出会ったという記事がある120)。その後も証言集会での交流は 続き,支援者は台湾人「慰安婦」被害者の意識がこうした交流によって大き く変わったと記す121) 台湾では大きな話題にならなかったが,2001 年論争の前年には「慰安婦」 問題解決運動において画期的な意味を持つ「日本軍性奴隷制を裁く女性国際 戦犯裁判」(日本軍性奴隷制度の被害女性たちが求める責任者処罰の声に応 えようと,加害国日本の市民運動が中心となって,2000 年 12 月に開催され た民衆法廷)にも,台湾人「慰安婦」被害者が各国から招かれた証言者と共 に証言している。検事として荘国明,黄昭元,尤美女なども台湾から参加し ている。 つまり,元「慰安婦」被害者の最も基本的なニーズ(生活不安の解消,心 身のケア,被害に関する真相究明,責任者処罰など)にいち早く応えようと 動いたのは婦援会をはじめとする女性を中心とした連帯といえる。注意した いのは,彼女たちの政治的立場は,ナショナリズムによる対立構図に拘束さ れていないことである(婦援会の王清峰は馬英九と共に先の公益広告に登場 しており,馬英九政権では法務部長となるが,婦援会と共に公聴会を開いた 立法委員2 名は民進党である)122)1996 年 4 月には国会議員の 90%が署名 して日本政府に国連勧告を受け入れるよう求め,同年12 月には超党派の議 員と婦援会スタッフが日本で国家による補償,被害者個人への直接給付,「国

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民基金」ではなく立法による解決の3 点を訴える遊説活動を行った。この点, 李敖や馬英九にスポットライトがあたった先述のオークション(1997 年 7 月) についても,王雅各によれば,「知られていない」123)事実として,施寄青(作 家,フェミニスト運動家)が有力政治家や市議会議員,立法委員など一人一 人に電話をかけて高額購入者を事前に確保していなければ目標を達すること はできなかった,と記している124)。同様に,実は陳水扁も「国民基金」へ の批判が展開されたこの時期に,婦援会を通じて「慰安婦」への寄付を行っ ているのだが,(馬英九や李敖が何度も報道されているのとは対照的に)当 時ほとんど報道されていない125)。 政治的な騒ぎに「押しのけられた」元「慰安婦」被害者の最も基本的なニー ズに,いつ誰が応答したのかに目を向けると,2001 年論争以後に支配的と なる図式的な言説と背反する事実,「決して右派とはいえない」男性主義に 同調しない台湾ナショナリストの「沈黙」を埋める「行為」,中国ナショナ リズム/台湾ナショナリズムという対立構図や日台間の二つのイデオロギー 同盟には収まらない女性を中心とした連帯が見えてくる。 4.問題浮上以前の「慰安婦」言説 では,問題浮上以前,すなわち対立構図が編制される以前には,「慰安婦」 について,どのような語りが存在したのだろうか。1960 ∼ 1990 年を対象に「慰 安婦」というキーワードで新聞記事タイトル検索データベース「TTSweb 報 紙標題索引資料庫」126)を使用してタイトル検索をしても該当する記事は見当 たらない。1951 年からの全文検索が可能な「聯合知識庫」(聯合報系新聞デー タベース)を使用して「慰安婦」でキーワード検索しても,該当する記事は 5 件のみで,翻訳とみられる一件を除けば 1980 年代以後の記事である127) 言説の編成を検討するには検討対象が少なすぎるが,ここでは試みに1980 年代以前に書かれた小説も含め現時点で閲覧できた数点を挙げ,1990 年代 以後の「慰安婦」言説を考察するための参照材料としたい。

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4-1:陳千武『輸送船』(1967)『猟女犯』(1976) 日本陸軍特別志願兵として南洋で4 年間従軍した陳千武(1922-2012 年, 台湾南投県生まれ,詩人・作家)は,「使い慣れた日本語と台湾語を禁止され, 話せない中国語を強制的に押しつけられ」,「終戦22 年後の 1967 年になって 初めて」128)自らの戦争体験を自伝小説として描いた。その『輸送船』(初出 は1967 年 10 月『台湾文芸』17 期発表)に登場するのは「慰安婦」とする ために「捕獲してきたインドネシアの女たち」129)である。「朝鮮P」と「フィ リピンP」も運ばれている130)。『猟女犯』1976 年 7 月『台湾文芸』52,53 期) には福 語を話す現地の女性が登場し,主人公と以下のような会話を交わす。 「もしも,もしあなたが本当に福老人[原文ママ]だったら,どうして日本 の兵士になっているの?」131)……「きみが捕えられて来たのと同じようにぼ くも強迫されてここに送られて来て,兵士なったのだ。誰が本心から自分で 願い出て兵士になんかなるもんか」132) 植民地支配下における「志願」を今日的な意味での「主体的な選択」と理 解することは,被植民者が置かれた暴力的な日常を無視することに他ならな い。戦争に動員された台湾人「志願兵」と捕らえられた「慰安婦」との対話 は端的に,被植民者が置かれた逃げ場のない権力関係においては「志願」が 「強制」に他ならなかったことが示されている。 4-2:龍瑛宗『農婦與日兵』(1984) 植民地期に日本の文学賞を受賞した龍瑛宗(1911-1999 年,台湾新竹市生 まれ,作家)の短編「農婦與日兵」(『聯合報副刊』1984 年 05 月 01 日 08 版) には中国南寧で「慰安婦」の到着を待ちきれない日本軍の上官に現地の女を 探せと命じられた軍夫張本順が主人公である。張本順は数人で捜索する民家 の中二階に農婦を発見する。暗がりから「一人の女が頭を出して張本に向かっ て床にぶつけるように頭を下げながら,唇を指す身振りで,けして日本兵に 知らせてくれるなと頼む。まるで張本順が生き菩薩であるかのように一度, さらにまた一度と頭を下げ,悲愴さが全身に浮かび上がっている。猛然と,

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張本順は故郷を思い出した。」……「『人はいません!』張本順は梯子を降り ながら報告した」。 「主体的な選択」が切り詰められるなかで,どのような「抵抗」が可能な のか。龍瑛宗の小説は,台湾人日本兵と「慰安婦」にされようとする(「我々 台湾の婦女」ではなく)中国大陸の女性との一瞬の出会いを通じて,戦時動 員された被植民者に残されたわずかな「抵抗」を描いている。 4-3:張拓蕪「大夥兒的舊情人」(1980) 中国安徽省生まれで1947 年に国民党軍と共に来台し,一兵卒としての経 験をもとにした現代詩や報道文学の作者として知られる張拓蕪(1928-2018 年,詩人,作家)には,戦後台湾に残された日本軍「慰安所」の様子を描い た小品「大夥兒的舊情人」(『聯合報副刊』1980 年 05 月 20 日 08 版)がある。 以下,長くなるので抄訳を掲げる。 …だが,軍中楽園の雛形は台湾光復間もなく既に存在した。それは 日本軍が逃げた時に残していったもので,時は民国36年の夏,場所 は台中郊外,日本軍の西進基地の廃棄された飛行場だった。飛行場は みすぼらしく,壊れた建物が幾つかと,あとは広い草原だけだった。 こんなところからも敗戦者の惨めな面目が見て取れた。…中略…これ らの慰安婦を接収したのは,我々の部隊21軍で二部隊めか三部隊め だった。…中略…なかには30人もの花の乙女がいて,実は一部はす でに容色の衰え,枯れ萎んだ花もあったが,これらの女性は実に軍部 参謀の人員をして成す術ない思いにさせた。日本人も韓国人もフィリ ピン人もいた,もちろん本省人も高山族もいた。当時の台湾の日本人 はみなすでに本国に送還されたのだが,なぜこの女性たちは残って去 らなかったのか? 誰にもわからなかった。 いったいどれが日本人なのか? フィリピン女性と高山族っぽい者 の他は,まったく区別がつかなかった。そのうえ言葉も通じない,日

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本語,韓国語(当時我々は韓国と言わず,朝鮮あるいは高麗人と呼ん でいた),フィリピン語は全然わからないうえ,高山族の言語や閩南 語ですら,当時の我々には莫宰羊[閩南語で「わからない」]だった。 だがこの場所は,だいたい半年位の間,兵士たちの間で熱い話題の的 だった。 あのころ軍部は台中に駐在していた,すなわち後の干城営房であ る。我々砲兵の営は彰化にあった。兵たちはこの場所に来ることを, 特別休暇をもらうと呼んでいた。軍本部と直属部隊,配属部隊は毎月 特別休暇票を分配した。毎月約30枚で,定期的に営に分配され,営 ではさらにそれを各連隊に分配し,一連隊で少なくとも7,8枚を,各 排,各班に分配する。票が回ってきた者は皆この特別休暇をもらいた くはなかった。これは楽しいことではなく,率直に言って痛苦の懲罰 だった。集団行動であり,長く待たねばならず,早起きまでして間に 合うように行かねばならず,嬉しくもないが,軍部の命令なので,行 かないわけにいかなかったのだ!厳格な規定があり,毎回一人一両 の米,百台湾元の食事代(一枚の特別休暇票は百元)が差し引かれた。 なぜならあの女性たちには軍の糧もなく,軍人家族用の糧もなく,30 数人が食べたり,着たり,小遣い銭もいる。みな我々兵士に頼る他な かったからだ。… 日本軍「慰安婦」があちこちの戦地に取り残された話は聞きとり調査でも 知られるところだが,日本敗戦後の台湾でもこうした状況があったと推察さ れる。1990 年代初頭に「慰安婦」問題が浮上した後には,「抗戦正義」の文 脈で「慰安婦」が語られ,「轉型正義」の文脈で「軍中楽園」が語られる図 式が定着していくが,張拓蕪が描くのは,日本軍「慰安所」と中華民国軍「軍 中楽園」が女性を軍が管理する資材と見なす点で本質的に同じであり,一兵 士たる彼個人の経験の上でも連続していた,という事実である。そこには, 敗戦国の軍隊が置き去りにしたモノ(軍事物資)133)としての「慰安婦」が,

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戦勝国の軍隊によって「接収」される情景が切り取られている。張拓蕪が作 家としての地位を確立した『代馬輸卒』(1975)の題名は「馬の代わり」に 銃器や弾薬を運ぶ兵士を指す語である。「非人間(馬の代わり)」としての兵 士134)と「非人間(遺棄された軍事物資)」としての「慰安婦」の邂逅が渇 いた筆致で「報道」されている。 4-4:林文義「不是望鄉」(1982) しかし,兵士と「慰安婦」との間には決定的に大きな違いがある。この点 で,林文義(1953 年台北市生まれ,作家・漫画家・政治評論家)のエッセ イ「不是望鄉」(聯合報副刊,1982/07/07:08)は示唆的である。赤道に近 いインド洋の島を訪れ,故郷の方角を向いて立つ日本兵(男性)の墓と故郷 に背を向けて立つ日本人女性の墓に出会った彼は,現地の資料で日本人女性 の墓は「慰安婦」のものだったことを知る。林文義が描く二種類の墓の対照 性は,張拓蕪が記録した1947 年(2.28 事件の起きた年)の夏の情景,消え去っ た日本兵(男性)と置き去りにされた「慰安婦」(女性)の対照性と響き合う。 5.おわりに代えて̶̶台湾「慰安婦」言説の複雑さ 本稿での整理を通じ,現代台湾においても「慰安婦」問題が厳然と存在し, 激烈な議論が交わされてきたことが確認された。ナショナリズム政党制が形 成されるなか,政治的対立を「つくり出す」マス・メディアの扇情的報道に よって「慰安婦」問題をめぐる言説は「虚構の二項対立」を前提に,ステレ オタイプ化して流通した。過度に単純化された図式的言説が支配的な位置を 獲得した契機は,多くの先行研究がそのインパクトを指摘する『ゴー宣・台 湾論』によって惹起された2001 年論争である。 だが,2001 年論争における論点の多くは,それ以前にすでに登場してい た。たとえば,「強制か否か」という論点は,1992 年問題浮上時に国民党政 府側が「軍中楽園」批判をかわす発言のなかに確認できる。また,「抗戦正 義」の文脈で「慰安婦」問題を語る言説は,1997 年の「国民基金」批判と

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して説得力をもち,馬英九のアイコン化と共に定着したものである。公益広 告に代表される「抗戦正義」で「慰安婦」問題を捉える言説は,中国ナショ ナリスト(馬英九や李敖)を「救済者」として表象すると同時に,元「慰安 婦」は「汚れた存在」ではなく「被害者」であると表象したが,植民地経験 者の視点が欠如しており,元「日本兵」問題と元「慰安婦」問題を同時に論 じる視点,日本軍「慰安所」と中華民国「軍中楽園」を串刺しに批判する視 点を周縁化するものでもあった。 支配的言説の編成に決定的な影響力を与えた2001 年論争は,政権交代に 伴って新政権が掲げた「轉型正義」に対する「抗戦正義」の反撃という形で 拡大した。反撃材料となったのが『ゴー宣・台湾論』に「植民地肯定」の文 脈で引用された老世代台湾ナショナリストの発言,なかんずく「強制連行な どなかった」という発言である。 老世代台湾ナショナリストの発言は,『ゴー宣・台湾論』では「植民地支 配肯定論」の文脈で使われているが,本稿で確認したのは,「強制性」を否 定する発言の背景には複数の要因があり,とりわけ重要なのは「抗戦正義」 の下で「奴隷化した」という烙印を押され声を奪われてきたサバルタンにとっ ては,「強制性の否定」が「(自分たち被植民者は)奴隷化されなかった,主 体性を奪われていなかった」という主張と重なっていることである。折しも, 「慰安婦」は「性奴隷」であるという見方が共有されつつあった。「奴隷化し た」という烙印に苦しめられた植民地期経験者が「強制連行などなかった」 という場合,そこには日本における同様の発言とは全く異なる,スティグマ を引き剥がそうとする意図が含まれることを理解する必要がある(それでも なお,この発言に問題があることはすでに述べたが,後段でさらに補足する)。 老世代台湾ナショナリストの発言の背景には,「植民地支配肯定論」に回収 できない(してはならない)「奴隷」という語をめぐる台湾固有の歴史的文 脈がある。そしてまた,2001 年論争において老世代台湾ナショナリストに 同情的な人々も,決して「強制連行などなかった」という発言に同意してい るわけではなく,同情は植民地期を生きざるをえなかった台湾人の苦衷に向

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けられていることにも注意が必要である。 2001 年論争後も,「慰安婦」問題は「忘却」されていない。支配的言説は 今日でも影響力をもっている。しかし,政治的な騒ぎに「押しのけられた」 元「慰安婦」被害者の最も基本的なニーズに,いつ誰が応答したのかに目を 向けると,図式的な言説と背反する事実が浮かび上がる。男性主義に同調し ない台湾ナショナリストの「沈黙」を埋める「行為」,中国ナショナリズム /台湾ナショナリズムという対立構図や日台間の二つのイデオロギー同盟に は収まらない女性を中心とした,元「慰安婦」被害女性の支援のために形成 された連帯が見えてくる。 さらに,現時点で確認できる問題浮上前に現れた数少ない台湾「慰安婦」 に関する語りに目を向けると,2001 年以後に支配的となる言説には決して 収まらない声が,より生々しい痛みと共に浮かび上がる。陳千武の小説には, 被植民者が置かれた逃げ場のない権力関係において,「志願」と「強制」の 違いを問うことの残酷が「志願兵」の口から吐き出される135)。戒厳時期に 発表された龍瑛宗の短編には,中国大陸に派遣された被植民者と思しき日本 軍兵士と,「慰安婦」にされそうな中国人女性との間の黙契のうちに,「主体 的な選択」が切り詰められるなかでの「抵抗」がある。かつての被植民者だ けではない。抗戦に勝利した側にあった大陸出身の張拓蕪もまた「非人間(馬 の代わり)」としての兵士と「非人間(遺棄された軍事物資)」として旧敵軍 に置き去りにされた「慰安婦」との共生を記し,「お国のため」というナショ ナリズムの無情さを印象付ける。いずれの作品にも,国籍の異なる男性兵士 と女性との間に共感や黙契や共生が描かれるが,林文義が記すのは南の島で 出会った日本人の男性兵士と日本人「慰安婦」の墓が異なる方角を向いてい る情景である。同じ日本人でありながら,また同じく戦時に南の島に連れて こられた境遇にありながら,男性兵士の墓は「祖国」日本の方角を向き,「慰 安婦」女性の墓は「祖国」日本に背を向ける。林文義が記す情景は,問題浮 上以前(1960 ∼ 80 年代)の「慰安婦」に関する語りが,のちに支配的にな る「強制か否か」という二元論や,政党イデオロギー(ナショナリズム)を

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軸にした対立構図では把握できない陰影を含みながらも,いずれも男性作家 によってなされていることに留意を促す。そこに元「慰安婦」被害女性の声 を聞き取ることはできない。 彼女たちが声を上げるのは,韓国の元「慰安婦」金学順氏が責任を認めな い日本政府の答弁136)に憤り,1991 年に実名で名乗り出て提訴と証言を行っ て以後,のことである137)。それが可能になった背景には,婦援会の地道な 支援活動,韓国や日本の「慰安婦」問題解決運動との連帯がある。しかし, 本稿で検討した2001 年論争以前においては,台湾人「慰安婦」の声は大き な影響力を持ち得ず,「代弁」されるばかりだった。したがって,問題浮上 以後に台湾「慰安婦」に関する支配的言説が編成される過程で,不可視化な いし周縁化されたのは,逆説的ながら,台湾人「慰安婦」自身の声だったと いえる。 彼女たちの声が少しずつ台湾社会に聞かれるようになる2001 年論争以後 については,本稿執筆の契機となった台湾「慰安婦」問題に関する2 本のド キュメンタリーを軸として別稿において論じる予定である138) 最後に再び,老世代台湾ナショナリストの「強制連行などなかった」とい う発言に戻って,若干の補足を述べたい。被植民者の「主体性」を主張する 彼らの言説は,次のような見方を示す朴裕河『帝国の慰安婦』を想起させる。 「植民地となった朝鮮と台湾の「慰安婦」たちは,あくまでも「準日本人」 としての「大日本帝国」の一員であった。もちろん実際には決して「日本人」 ではありえず,差別は存在した。それでも彼女たちが軍人の戦争遂行を助け る存在だったのは確かである」139)。「たとえ表面的といえども,そこに確か に存在した〈自発性〉を無視することはできない」140)。 こうした見方を,中野敏男は「セカンドレイプの言説」であると批判す る141)。生き延びるために物理的抵抗をやめた性暴力被害者に対して,抵抗 をやめて状況を受け入れたのだから「そこには〈合意〉があった」と言うの と同様だ,というのである142)。そして,朝鮮人「慰安婦」と日本軍の関係が「同 じ日本人」としての「同志的関係」143)だと主張できるのは,著者の朴裕河が「慰

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安婦」被害者を「植民地化に起因する貧困ゆえに帝国の動員に自発的に応じ ざるを得なかった存在とは捉えても,性暴力の被害者とは認めていないから に他ならない(被害者の消去だ!)」と分析する144)。この点は,植民地下の 被植民者一般の主体性を肯定する言説と,「慰安婦」にされた被植民者女性 被害者の主体性を肯定することとの間に,決定的な違いがあることを示唆し ており,台湾の問題状況にとって重要である。 さらに,「慰安婦」の「主体性」を理解するにあたっては,朴裕河のいう「同 志的関係」ではなく,長期にわたり元「慰安婦」被害者の裁判支援をするな かで得られた,梁澄子による以下のような知見が参考になる145)。梁澄子は「日 本軍の性的被害にあった女性たちは日本軍人が憎く,性的な表現を忌み嫌う に違いない,という一般的な予想はしばしば裏切られることになる」146)と, 自らが遭遇した経験を語る。そのうえで,ジュディス・L・ハーマンの「外 傷的きずな」147)という概念を参照しつつ,「しかし,この裏切りは,その被 害の深さをさらに思い知らせるものに他ならない」148)と指摘する。なぜなら, 「殴打や性暴力と,ごほうびを効果的に組み合わせて心理的支配を行う監禁 者に対して,被監禁者は依存を深めていく」149)からである。こうした「複雑 性P T S D」を引き起こす「長期反復性外傷」は「犠牲者が加害者の監視下 にあって逃走できない被監禁者である場合に限って生じる」150)。それは,「慰 安婦」が置かれた「奴隷」状態に合致する。したがって,朴裕河が「同志的絆」 と読解したものは,梁澄子が被害者と共に歩んだ 藤と模索の中で,早くも 1990 年代に「外傷的きずな」としてより的確に指摘していたものだといえる。 そして,この視角は,2001 年論争に巻き込まれた老世代台湾ナショナリ ストの「親日」的と見える言動を理解する上でも,有効なのではないか。陳 千武が自伝的小説に描いた台湾人の日本軍「志願兵」のように,長期にわたっ て植民地統治下に置かれた台湾における被植民者,とりわけ総動員体制下の 被植民者は「逃走できない被監禁者」と同様の状態にあったからである151) とはいえ,「慰安婦」とされた被害女性とその他の被植民者(日本兵とさ れた被害者も含めて)を同列に論じることができないことは,先に見た通り

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である。また,この視角を導入することは,台湾においてきわめて敏感な「奴 隷」という語に触れざるを得なくなることを意味する152)。したがって,こ の視角を導入することについては,植民地期経験者の傷に対する深い理解と 敬意をもって,別途あらためて慎重に検討すべき課題として記すにとどめる。 謝辞: 本稿の出発点は「慰安婦」問題も含めた現代台湾における歴史記憶の問題に ついて同志社植民地主義研究会(2016年6月18日)で報告するよう駒込武氏 にお声かけいただいたことである。次いで,台湾人元「慰安婦」サバイバー を記録した2本のドキュメンタリー映画に関し,日本大学文理学部人文学研 究所の定例研究会(2019年2月21日,コメンテーター:金富子氏),日本台 湾学会第21回学術大会(2019年6月8日,コメンテーター:前原志保氏)で 報告する機会を得て大変有益なご意見をいただいた。とりわけ,金富子氏 にはその後も「慰安婦」問題に関する資料やイベントなどについて多くのご 教示をいただいた。また,調査の過程では,「台湾の元「慰安婦」裁判を支 援する会」の柴洋子氏(2017年3月9日),台湾「阿嬤家 和平與女性人權館」 ボランティアの田崎敏孝氏(2017年3月14日),同館館長(当時)の康淑華 氏(2017年3月14日),フェミニズム法学研究者の陳昭如氏(2017年3月14 日),先行研究に挙げた劉夏如氏(2017年3月16日),婦援会董事(当時)の 黃淑玲氏(以上,面会順)にも貴重なお話をうかがった。記して感謝したい。 注 1) 「慰安婦」とは,日本軍が立案・管理・統制した「日本軍の後方施設」(「破綻し つつも,なお生き延びる「日本軍無実論」」中野 敏男・板垣 竜太・金昌祿・岡 有佳・金 富子編著『「慰安婦」問題と未来への責任 : 日韓「合意」に抗して』 2017年,大月書店,117頁)たる軍「慰安所」において「一定期間拘束されて, 日本軍将兵の性行為の相手をさせられた女性」(「Fight for Justice日本軍「慰安 婦」――忘却への抵抗・未来の責任」 http://fightforjustice.info,最終閲覧日: 2021年02月10日閲覧)を指す。今日,研究者の間では「日本軍性奴隷」とい う呼称が使用されており,被害者自身からも「私は『慰安婦』ではない」とい う声がある(「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ,心に刻む集会」 実行委員会編『私は「慰安婦」ではない̶̶日本の侵略と性奴隷』1997年,東

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方書店)。だが,当時の認識や状況を示す歴史上の用語であること,問題が可 視化されて以後マス・メディアを含め一般にこの用語が広く用いられ,この 用語によって現在の問題が構成されていることに鑑み,本稿では批判の意味 を込めて「」を使い「慰安婦」の語を用いる。また,地域としての台湾におけ る台湾人「慰安婦」問題について言及する際には,表題と同様に「台湾『慰安 婦』」と表記する。また,本稿における引用文の日本語訳は特に記載がない限 り筆者による。引用者注は[]で示す。 2) 日本の植民地となった朝鮮半島出身で「慰安婦」とされた朝鮮民族系の被害女 性については,「朝鮮人『慰安婦』」と記すべきところだが,現今の政治的制約 により主として現在の大韓民国(韓国)で運動や研究が推進され,現在の問題 も主として韓国における動向との関わりで構成されてきたという経緯がある。 こうした経緯を踏まえて,本稿では韓国における運動や研究が対象としてき た朝鮮半島出身の被害女性について韓国「慰安婦」と記載する。 3) 本稿でいう「台湾人」とは,中華民国統治下の台湾島・澎湖諸島・金門島・馬 祖島などに居住する現代の台湾住民のみならず,日本植民地統治期に「本島人」 「高砂族」などと呼称された過去の台湾住民もふくめた総称として使用する。 4) たとえば,「保守リベラルからリアリスト左翼まで仲良く」を副題に掲げる ウェブサイトの書き手が「実証的なことは言えない」と断りつつ「台湾にも慰 安婦はいたが,韓国と同じようには問題になっていないように見える」という 前提を質問者と共有して「慰安婦問題で韓国と台湾の対応が違う理由」をコラ ムで回答していることは,日本における一般的な認識を考える上で参考にな る。以下を参照。「かもがわ出版 編集長の冒険」2017年05月09日配信記事。 http://www.kamogawa.co.jp/~hensyutyo_bouken/?p=2931,最終閲覧日:2019年05 月01日。 5) CiNii Articles(国立情報学研究所学術情報ナビゲータ,https://ci.nii.ac.jp)で「台 湾×慰安婦」というキーワードを入力してヒットするのは26件,「朝鮮×慰 安婦」では133件,「韓国×慰安婦」では354件,「中国×慰安婦」では111件 である(最終閲覧日:2021年02月02日)。日本台湾学会作成の「戦後日本に おける台湾関係文献目録」データベース(https://www.koryu.or.jp/publications/ bibliography/)で「慰安婦」というキーワードでヒットするのは18件,うち10件 以上が時事的ないし一般的な雑誌記事で,台湾人「慰安婦」に特化した学術著 書は1件,研究論文は2件である(最終閲覧日:2021年02月02日)。

参照

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