大学アドミニストレーション研究 第 3 号(2012 年度)
学士課程と研究の関係についての一考察
舘 昭【要旨】
学士課程の概念は、ようやくにして普及し、その強化が図られている。しかし、そ の動向の中にいくつもの憂慮すべき事態が発生しており、その一つが、そこでは学士 課程と研究との関係が取り上げられることなく議論がなされ、政策化されてきている ことである。しかし、ユニバーシティとしての大学は、初中等教育機関とは一線を画 する存在であり、学士課程教育も大学のものとして、それとは性格を異にする存在で ある。本稿では、ユネスコの提示する教育の国際標準分類(ISCED)において学士課 程と研究とがどの様に関係づけられているか、これまでの政策論議において学士課程 と研究の関係がどの様に扱われて来たか、また学習と研究が概念的にどのような関係 にあるか、を検討することを通じて、学士課程が研究と深く関係する必要があること を説いている。 キーワード: 学士課程、研究、大学、ユニバーシティ、教育国際標準分類(ISCED)、 学習、ラーニング1.はじめに
学士課程という言葉は、公式の政策文書としては、1998年の大学審議会答申「21世紀の大学 像と今後の改革方策について」(大学審議会 1998)において、「学部(学士課程)教育」と、学部 に付記される形で細々と登場した。そして、その後、紆余曲折はあったものの、20年後の2008 年には、堂々、学士課程の名称を冠した中央教育審議会答申「学士課程教育の構築に向けて」 (中央教育審議会 2008)が世に出た。学士課程の概念は、ようやくにして普及し、その強化が 図られているのである。 しかし、その動向の中に、いくつもの憂慮すべき事態が発生している。その一つは、そこで は学士課程と研究との関係が取り上げられることなく議論がなされ、政策化されてきているこ とである。そして、そのことと、大学の機能から学士課程だけを切り離して、それを初中等教 育の仕組みに近づけようとするかにみえる、もう一つの憂慮すべき傾向とが併行している。 しかし、ユニバーシティとしての大学は、小中高等学校の初中等教育機関とは一線を画する 存在であり、学士課程教育もまた、大学のものとして、初中等教育とは性格を異にする存在で ある。(舘 2008: 95–6)そして、大学をして、他の中等後教育機関と一線を画する存在にしてい るのが研究機能であり、大学の一部としての学士課程も、それとの関係をもたずに存在できるむはずがない。 2005年の中央教育審議会答申で「今後は,教育の充実の観点から、学部や大学院といった組 織に着目した整理を、学士・修士・博士・専門職学位といった学位を与える課程中心の考え方 に再整理していく必要がある」(中央教育審議会 2005)と提起され、以来「学士課程」の用語 が「学部教育」に替わった。そして、それはユニバーシティとしての大学の全課程にかかわる、 総合的な改革の提起であった。しかし、なぜか、修士・博士課程としての大学院教育の充実の 議論と学士課程の議論は切り離されて進み、先の2008年の答申(中央教育審議会 2008)では、 後に見るように教育と研究の相乗効果は謳っているものの、研究そのものの在り方には踏み込 んでいない。そして、2012 年 3 月の中央教育審議会大学分科会大学教育部会の「審議のまと め」、「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」(中央教育 審議会 2012)にいたっては、研究への言及が全くなされていないのである。 本稿では、筆者が、『IDE現代の高等教育』誌上に、同様の問題意識で執筆した論考「『研究』 を組み込んでこそ大学での学び―教育国際分類(ISCED)2011 年版の示唆するもの―」(舘 2011: 23–9)を、本紀要にふさわしい体裁にアレンジして再提示するとともに、学士課程教育 において通常に使われるようになった「学習」の概念について、かつて『桜美林シナジー』誌に 掲載の「大学関係語彙を吟味する―グローバリゼーションを担える言葉の構築に向けて―」の 該当部分(舘 2009) を用いて、批判的な考察行っている。
2.学士課程の国際的理解と研究
まず、議論をドメスティクなものに止めないために、日本も加盟するユネスコの提示する教 育の国際標準分類において、学士課程と研究とが、どの様に関係づけられているかを、見てみ よう。 2011年 11 月 10 日 の ユ ネ ス コ 総 会 で、 国 際 標 準 教 育 分 類(International Standard Classification of Education)の改訂が決議され、ISCED2011が加盟国へ適用された。ISCED分 類は、国を超えて比較可能なデータを収集・編集・分析する目的で、世界規模での統計に適用 される国連の経済社会国際分類群の一つとされる。これは、教育プログラムを、その内容によ ってレベルと分野の2面から分類するもので、1976年にその初代が作成された。その後に1997 年版が出され、広く普及してきたが、最近の動向が反映されていないとして2007年にその改訂 が提起され、2010年の草案を経て、今回の決議となったのである。 今回の改訂では、分野分類については1997版のままとし、大幅な変更を行ったのはレベルに ついてである。それには、3歳未満のプログラムをも対象としたこと、教育達成の分類を導入 したこと、3段階コードシステムを用いたことなど、いくつもの注目点がある。しかし、最大 の変更点は、レベルの7(0から6)層から9(0から8)層への変更であり、その増分2層がすべ て高等教育のものであるということである。1997版でレベル6としていた「高等教育第二ステ ージ」はレベル8の「博士又は同等」に移行され、レベル5としていた「高等教育第一ステー大学アドミニストレーション研究 第 3 号(2012 年度) ジ」が、新しいレベル5の「短期高等」・レベル6の「学士又は相当」・レベル7の「修士又は相 当」の3レベルに分化した。結果として、表に示した様なレベル設定がなされたのである。 なお、セコンダリー、ターシャリーは、本来はそれぞれ第二段階、第三段階といった意味で、 日本語の中等、高等とは意味を異にするが、ここでは便宜のために後者の訳語を使っている。 表 教育国際標準分類(ISCED)教育プログラムのレベル ISCED2011 ISCED1997 01 早期子供期early childhood(発達development) ― 02 早期子供期early childhood(初等前pre-primary) 0 初等前 1 初等primary 1 初等 2 前期中等lower secondary 2 前期中等 3 後期中等upper secondary 3 後期中等 4 中等後・非高等post-secondary non-tertiary 4 中等後・非高等 5 6 7 短期高等short-cycle tertiary 学士又は同等bachelor or equivalent 修士又は同等master or equivalent 5 高等第一ステージ 8 博士又は同等doctoral or equivalent 6 高等第二ステージ この様に、今回の改訂には、1999年以来のボローニャ・プロセスの進行の結果、これまで茫 漠としていたヨーロッパの高等教育のレベル体系が、アメリカ型に収斂しだしたことを反映し ていると考えられる。 では、ここで、学士課程は、どのようなものとされているのか。レベル6の「学士又は同等」 プログラムは、しばしば中間的な学問的及び/又は専門職的な知識、技能及び諸能力を提供し、 第一学位又は同等資格に導くために設計されている。そして、このレベルのプログラムは、典 型的には理論的に基礎づけられているが、実践的な内容を含むことがあり、かつ、最新・最先 端(state of the art)の研究(research)及び/又は最良の専門職実践を踏まえた内容をもつ。 それは、伝統的には、大学及び同等の高等教育機関によって提供されるとしている。さらに、 このレベルのプログラムは、「研究プロジェクトや研究論文の完了を含む必要はないが、含む 場合は、ISCEDレベル7又は8よりも低い先進性又は独立性のものであり、又はより多くのガ イダンスのもとで行われる。」とされている。 ちなみに、修士に当たるレベル7のプログラムは、「高度な学問的及び/又は専門職的な知 識、技能及び諸能力を提供し、第二学位又は同等資格に導くために設計されている。このレベ ルのプログラムは、実態として研究の要素を含んでいるかもしれないが、博士の資格授与につ ながるものではない。典型的には、このレベルのプログラムは理論的に基礎づけられているが、 実践的な内容を含むことがあり、かつ、最新・最先端の研究及び/又は最良の専門職実践を踏 まえた内容をもつ。それは、伝統的には、大学及び同等の高等教育機関によって提供される」 とし、「レベル6で期待されるものより高度で、レベル8よりは高度ではない研究プロジェクト
高度な研究資格に導くために設計されている。このレベルのプログラムは、進んだスタディと 独創的な研究に徹しており、典型的には、大学の様な研究志向の高等教育機関によってのみ提 供される。博士プログラムは、学問分野と専門職分野の両方で存在する。」としている。 この様に、学士課程は、修士課程及び博士課程の記述法を同じくしており、また両課程との 関係をもって性格づけられている。そこでは、学士課程には、その課程の学修が一定レベルの 研究を含み、含まない場合でも、それが最新・最先端の研究の内容を持った学修であることを 求めている。そして、研究の語が定義中に使われているのは、レベル6 ∼ 8だけである。この ことから、大学が初中等教育機関から一線を画される存在であり、研究を内包していることが その理由で、学士課程は当然にしてその一線の内の存在として位置づけられていることがわか る。 この新標準に沿った最初の国際的なデータの集積は、2014年に設定されている。もし、この まま、日本の学士課程のおける学びの議論が、研究との関係を置き去りにして進められ、それ が実体化してしまったならば、日本の学士課程をレベル6に分類して国際社会に提示すること ができなくなってしまうであろう。
3.学士課程の議論における研究との関連の提起
もっともこのことは、この間の日本の議論の中でも提起されなかったわけではない。という 筆者は、大学教育学会のシンポジウムで「学士課程教育と研究の関係性について」提言し(舘 2007)、また2007年当時の中央教育審議会の学士課程教育小委員会で、先の論考をもとに、凡 そ、次の様な内容のプレゼンテーションを、行った。 (1)学士課程も大学が研究機能を有することを前提 近年の大学改革では教育力の強化が課題とされている。一方で、大学に対する研究力の向上 の要請も強まっている。そんな中で教育と研究とを無関係に議論し、政策を展開するする傾向 が高まっており、極端な場合は、教育と研究の分離を唱える論まである。しかし、これらの議 論はそれぞれの事象に対する印象的な把握をもとに展開されており、とても現実の問題を解決 できるレベルのものとはなってはいない。それぞれの概念の意味と両者の関係について、より 緻密な議論が必要なのである。 結論的に言えば、教育については少なくともエデュケーションとティーチングの異同を、研 究については基礎研究と実践研究、リサーチとより広い創造活動、さらにはスカラシップ全般 との異同を意識して論じなければならない。そして、大学における教育は、大学が研究機能を 有することを前提に成り立つものであり、そのことは学士課程教育においても同様である。 (2)大学はどのように分類されようとも研究機能を持つことが法的前提 中教審答申「我が国の高等教育の将来像」(2005年)は「大学は,全体として 世界的研究・ 教育拠点,高度専門職業人養成,幅広い職業人養成,総合的教養教育,特定の専門的分野(芸大学アドミニストレーション研究 第 3 号(2012 年度) 術,体育等)の教育・研究,地域の生涯学習機会の拠点,社会貢献機能(地域貢献,産学官連 携,国際交流等)等の各種の機能を併有するが,各大学ごとの選択により,保有する機能や比 重の置き方は異なる。その比重の置き方が各機関の個性・特色の表れとなり,各大学は緩やか に機能別に分化していくものと考えられる。(例えば,大学院に重点を置く大学やリベラル・ アーツ・カレッジ型大学等)」としているが、どの機能に特化しようとも、それが大学であるか ぎり教育に加え、研究をも機能としてもっている。 まず、そのことを法的に確認すると、学校教育法は制定以来一貫して「大学は、学術の中心 として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的 能力を展開させることを目的とする。」と規定して、大学に研究の遂行を課している。そして、 2006年に新たな装いで制定された教育基本法は、その第7条(大学)において、「大学は、学術 の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造 し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」と規 定し、真理の探究と新しい知見を創造、つまり研究を大学の役割として、改めて法定している。 すなわち、中教審答申の例示にあるリベラル・アーツ・カレッジ型大学のように学士課程のみ の大学であっても、研究機能は、法的にその存在の前提とされているのである。 (3) 教育と研究の分離論の陥穽 この問題に関するこれまでの議論は、教育については、教員にとって具体的に一定量の時間 を費やす必要のある行為としてのティーチングと、例えば学生を研究に巻き込むことによって も成り立つ包括的な概念としてのエデュケーションとの区別もなしになされてきた。また、研 究についても、狭い意味でのリサーチにのみ関心が集中し、教員の創造的活動全体を見通した、 また分野の特性に配慮した議論とはなっていなかった。 教育と研究の関係において、最も貧困な発想は、「教育と研究の分離」である。教育と研究の 分離と言うとき、大学という機関を研究大学と教育大学とに種別化を指す場合と、大学内の組 織を研究目的のものと教育目的のものとに分離を指す場合がある。前者は、現在のところ政策 提言等の中に見られるが、根幹的な法制度となっているわけではない。すでに見たように学校 教育法は、大学を教育研究の機関と規定しており、片方だけの機能のものを大学とはしてはい ない。しかし、後者については、一部の法規がある意味ではその後押しをして、多くのリーデ ィングと目される大学がそのことを公然と表明し、改革の旗印にしている。 しかし、研究にもとづく教育と教育に刺激された研究こそ大学の本領であって、教育と研究 の分離の標語化は、大学の自殺宣言に等しい。これまで言われてきた「研究と教育の統一」は いささか過剰表現であったにしても、それらの分離を掲げることは、大学の存在根拠を崩壊さ せる。教育と切り離された研究が主眼なら一般の研究所で行えばいいし、研究に裏打ちされな い教育なら専門学校で行えばいいということになる。あるいは、分離の理念にもとづいて大学 を改革してゆくならば、大学といいながらその実は研究所か専門学校であったり、その集まり にすぎなかったりということになる。それを避けようとすれば、辻褄合わせに多大なエネルギ ーを割く必要が生じる。
究の分離など不可能である。研究者志望の学生に研究を経験させないで研究者にすることはで きない。つまり、研究者養成における教育は学生に自立した研究ができるようになる様に指導 することで、学生には研究をさせなければならない。成果としての博士論文とは研究ができた、 これからは自立して研究できるということを示すものであり、研究活動の結果である。つまり、 この場面では教育と研究というのは対立概念ではないのである。 日本の大学の問題は、簡単に言ってしまえば、大学院レベルでは1教員の研究の手伝いに学 生を使って来たこと、学部では個々の教員の研究をそのまま提示することをもって教育として きたことにある。講座制の問題は、1教授の研究に下位教員が隷属させられることにあった。だ とすれば、それは「教育と研究の統一」でもなんでもなく、研究に教育がへばりついていただ けである。個々の教員の研究だけがあって、組織的な教育がなかったのである。 更に言えば、問題は研究が基礎研究なるもの偏り、特に専門職分野で発達させるべき実践研 究をおろそかにしてきたこと、リサーチのイメージにこだわり創造活動全般への配慮が足りな かったことにあるのである。 (4)教育と研究の概念と相互関係についてのより緻密な議論を したがって、その解決は、もともと統一されてもいなかった教育と研究を分離することによ るのではなく、研究を質量ともに広範に展開させ、それとの連関のもとで組織的な教育を確立 することによってもたらされる。そのために必要なのが学位課程概念の明確化である。 学位課程の教育において教員の研究は、学位のレベルと分野の教育に応じて加工して提示さ れなければならない。多くの教育の場面では、自分の研究ではなく、これまでの研究を体系化 して教えることが必要である。そこには、研究を知るものが教えるという、大学であるからこ その意味がある。また、逆に言えば、教育のためには先端研究に従事するだけではなく、既存 の研究の体系化が必要となる。さらには、違う世代や分野の学生から思いもかけない刺激を受 けることもある。こうしたことが、大学の研究を特長づけるものであることは言うまでもない。 ちなみに、スカラシップとは、発見(ディスカバリー)、統合(インテグレーション)、応用(ア プリケーション)、教授(ティーチング)のすべてを含む概念とされる。 この上記のことは、大学においては学生が研究に参画することをも意味する。学生が教員を 刺激するという間接的な研究への関与を越えて、研究者養成の大学院の場合は学生が研究その ものの遂行者であることはすでに述べた。そして、学士課程においても、学生は研究の遂行者 として存在する。そもそも、近年の大学政策で高々と掲げられるようになった課題探求能力や 高い教養にしても、その本来の性質からして、その達成には研究能力の獲得を必要としている。 学生が達成した個々の事柄が学界レベルでの発見となっていなくても、そのプロセスは研究で あり、身に付けたものは研究的な方法なのである。 さらに、学士課程においても、発見レベルのリサーチを含みこむことができる。日本におい ては卒業論文、卒業研究がかつてはそうした地位にあったし、アメリカのほとんどの有力大学 では、学生を学士課程の置いたまま、リサーチに参画させるプログラムをもっている。それは、
大学アドミニストレーション研究 第 3 号(2012 年度) 日本の大学改革において、学士課程としての完成をまたずに大学院に抜いてしまう方法とは、 一線を画す。 ともあれ、今後の大学改革は、教育と研究の関係を問い直しつつ進める必要があり、取り分 け学士課程教育においては、その問いは重要性をおびてきているのである。 この主張の趣旨の一部は、先に言及したように、2008年の中央教育審議会答申では、「学士 力は,課題探求や問題解決等の諸能力を中核としている。学生にそれを達成させるようにする には,既存の知識の一方向的な伝達だけでなく,討論を含む双方向型の授業を行うことや,学 生が自ら研究に準ずる能動的な活動に参加する機会を設けることが不可欠である。研究という 営みを理解し,実践する教員が,学生の実情を踏まえつつ,研究の成果に基づき,自らの知識 を統合して教育に当たるということが改めて大切な意義を有する。すなわち,教育と研究との 相乗効果が発揮される教育内容・方法を追求することが,ユニバーサル段階の大学にとって一 層重要である。その意味で,大衆化した大学における学士課程教育の充実と,教育と研究を活 動の両輪とする大学制度は矛盾するものではない」(中央教育審議会 2008)との記述となって、 反映されている。 今後の学士課程の議論においては、この提起を発展させた形での学びの検討が、ぜひとも必 要とされている。それと同時に、研究の在り方についても、真摯な検討が必要となっているの である。
4.学習とラーニングの異同―「おわりに」に代えて
最後に、学士課程教育において通常に使われるようになった「学習」の概念について、それ と研究との関係について、「おわりに」に代えたい。筆者は、2009年の『桜美林シナジー』誌上 に、「大学関係語彙を吟味する―グローバリゼーションを担える言葉の構築に向けて―」と題 して、大学、教育、学習を、それぞれユニバーシティ、エデュケーションとティーチング、ラ ーニングとスタディとの対比で考察したが、学習については以下の様にラーニングとの異同と 説明し、安易に大学での学生の勉学行為を学習とすることに、警鐘をならした。(舘 2009: 100–1)以下に一部を修正の上、再録する。 学習概念については、これまで、大学生の学業は学習ではなく、学修と表記されることが多 かった。両者を区別する明確な定義があったわけではないが、高等学校までのそれには学習指 導要領という用語が示すように「学習」の語が当てられ、大学においては大学設置基準では学 修の語が使われている。しかし、今回の「学士課程教育の構築に向けて」を含め、政府の答申 類では学習の語が用いられているし、大学内でも一般化していることから、この言葉の持つ意 味を吟味しておく必要がある。 『広辞苑』(2008)は、まず学習の語の出典を「礼記(月例9)・史記(秦始皇本起)」とした上 で、それを「①まなびならうこと。②経験によって新しい知識・技能・態度・行動傾向・認知て行う。②教えを受ける。業を受ける。習う。③学問をする。」、「ならう」を「①たびたび経験 して馴れる。②習慣となる。例となる。③あることのままに従って行う。準ずる。模倣する。 なれ親しむ。」の意味だとしている。
この様に学習という漢語の本来の意味は、すでに存在する価値を模倣し、繰り返すことによ って身につけることにある。ところが、学習に当たる英語とされるラーニング(learning)にそ うした意味は希薄である。『ウェブスター』を引くと(Webster’ 1988)、「1. the acquiring of knowledge or skill 2. acquired knowledge or skill; esp. much knowledge in a special field」と ある様に、それは知識や技能を獲得する、あるいは獲得された知識や技能という意味しかない。 つまり、獲得の方法が「まねる」、模倣するということに限られないと言うことである。したが って、その訳は「研究」とか「学問」とかにしないと通じないときがある。
これは、学習のもう一つの対応英語と考えられるスタディー(study)でも同じで、『ウェブ スター』(Webstters 1982)の名詞の部分を引用すると、「1. the acquiring on knowledge, as by reading 2. careful examination of a subject, event, etc. 3. a branch of learning 4. [pl.] education; schooling 5. earnest effort or deep thought 6. a room for study, etc.」とあり、読書 等の方法によるということでラーニングよりは狭い方法での知識の獲得を意味しているが、 「まねる」といったニュアンスは持っていないのである。このことから、この語も「研究」「学 問」と訳さないと語感が合わないことは、「area studies 」を決して「地域学習」とはせず、「地 域研究」としていることからもわかる。 以上が再録であるが、この様に、学習という言葉の語感には研究は含まれない。しかし、学 士課程における「学習」は、研究をも含んでいる言葉であるラーニングでなければならない。 そして、そのことを意識するという意味において、それ自身は研究の意を含まない文字使いで はあっても、「学修」との表記は、大学でのそれを学習という一般の語感とは区別できるという 意味で、維持する必要があると考えるものである。
参考(引用)文献
広辞苑2008,『広辞苑』(第6版)岩波書店. 中央教育審議会,2005,「我が国の高等教育の将来像(答申)」文部科学省. 中央教育審議会,2008,「学士課程教育の構築に向けて(答申)」文部科学省. 中央教育審議会大学分科会大学教育部会,2012,「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考 える力を育成する大学へ(審議のまとめ)」文部科学省. 大学審議会,1998,「21世紀の大学像と今後の改革方策について(答申)―競争的環境の中で個性が輝 く大学―」 舘昭,2007,「学士課程教育と研究の関係性について」『大学教育研究』第29巻第2号,pp.53 –5. 舘昭,2009,「大学関係語彙を吟味する―グローバリゼーションを担える言葉の構築に向けて―」『桜 美林シナジー』第8号, pp.93–101. 舘昭,2012,「『研究』を組み込んでこそ大学での学び―教育国際分類(ISCED)2011年版の示唆する大学アドミニストレーション研究 第 3 号(2012 年度) もの―」『IDE現代の高等教育』No.543,pp.23–9.
UNESCO, 2011, International Standard Classification of Education 2011.(http://www.uis.unesco.org/ Education/Documents/UNESCO_GC_36C-19_ISCED_EN.pdf, 2012.6.10.)
Webster’s 1982, Webster’s New World Dictionar y of the American Language, Webster Books Paperback Edition, New York: Warner Book.
Webster’ 1988, Webster’s New World Dictionary of American English, Third College Edition, New York: Prentice Hall.