−漱石文庫を例に−
著者
菊地 良直
雑誌名
東北大学附属図書館調査研究室年報
号
8
ページ
55-66
発行年
2021-04-23
URL
http://hdl.handle.net/10097/00131563
[活動報告]
1. はじめに 令和元年(2019),当館では,貴重図書指定している 漱石文庫資料の高精細な電子画像を公開するため,「漱 石の肉筆を後世へ!漱石文庫デジタルアーカイブプロ ジェクト」を立ち上げた。資金をクラウドファンディ ングに求め,無事に目標額に達したことから,明けて 令和 2 年(2020),筆者の所属する貴重書係で撮影準備 を開始した。出来上がった電子画像は,同年 12 月 25 日に「東北大学デジタルコレクション」で公開した。 東北大学の漱石文庫は,明治の文豪・夏目漱石(1867-1916 年)の旧蔵書を中心としたコレクションである。 およそ 1,500 点 3,000 冊の蔵書のほか,メモ類や日記な ど 800 点ほどの自筆資料及び身辺資料(以下,「自筆資 料」)を含む。漱石関連資料は継続して収集され,「漱 石文庫」は増え続けている。 本稿は,漱石文庫の自筆資料を事例に,貴重かつ大 量の一枚もの資料に対する保存の取り組みを報告する ものである。保存に関する考え方や手法は時代によっ て変わることがあるため,定期的な見直しが必要であ る。その際の判断材料ともなれば幸いである。 2. 実施体制と指針 息の長い保存業務の現場では,かぎられた時間と予 算,人員体制のなかでいかに最善を果たすか知恵を絞 る日々が続いている。 当係では本事業期間中,コロナ禍による作業中断期 間を挟む実質 2 ヶ月間ほどの間に,漱石文庫の自筆資 料約 800 点 2,000 枚を点検し,目録修正と内訳の細分化, 状態調査,保存手当てを行った。保存用品に使える予 算は,本体事業である電子化撮影に影響しない範囲に とどめられた。主担当は 1 名で,他のスタッフのサポー トを得ながら,日常業務と並行して実施した。 今日の図書館における予防を柱とした保存の考え方 は,欧米の修復家が中心となって作り上げてきた(アン ソニーほか 1993)。修復中心の保存対策では対処できる 数量に限界があり,災害による大量破損のケースはも とより,日常においても一点を修復している間にそれ より多くの資料が破損するという,厳しい状況認識に もとづいている。そもそも修復が必要とならないよう, いかに劣化を予防するかが重視されてくるのである。 この考え方が日本に紹介され取り組みが本格化した のは 1990 年前後とみられ,すでに 30 年を経ている。 増え続ける資料と劣化の進行,人員体制の縮小が課題 となっている今の現場において,この視点はさらに重 要性を増しているのではないか。 本稿の取り組みは,基本知見に立ちかえり,これま での手当てを評価し,かぎられた環境でアップデート を加えたもので,必ずしも十分とはいえない点は今後 さらなる改善につながればと考えている。 図 1 作業経過 3. 保存経歴 諸作業に入る前に,自筆資料のこれまでの保存状況 を確認した。近現代の大量一枚もの資料の保存手当てについて
−漱石文庫を例に −
菊地 良直
表 1 漱石文庫自筆資料の保存経歴 大正 5(1916) 夏目漱石没 大正 6(1917)∼ 『漱石全集』に「日記及び断片」 として一部収録。 昭和 18(1943) 東北大附属図書館(片平)に搬入1。 その後しばらく小宮館長が整理 する予定で別に保管2。 昭和 20(1945) 7 月 10 日,仙台空襲に見舞われ るが,被害を免れる3。 昭和 25(1950) 日記類ほか「夏目漱石試験問題 其他 二袋/一包」など一括して 受入登録。 昭和 37(1962)∼ 附属図書館からの委嘱により, 北住敏夫・村岡勇両教授の手に 移り整理。『漱石文庫目録』(昭 和 46 年)の刊行前には整理終了。 昭和 47(1972) 新営本館(川内)の竣工に合わ せ片平から現在の一号館地下書 庫へ(原田 1976:p.258)4。この 前後に大型の「アルバム」に収 納されたか。 平成元(1989)∼ 二号館竣工後,現在の貴重書庫 へ移動。 平成 9(1997) マイクロフィルム化の前後に, 「アルバム」から現在のフィル ム封筒へ入れ替えたか。 平成 26(2014) 貴重書庫改修。温湿度管理可能に。 図 2 自筆資料を収めていた巨大な「アルバム」 東北大搬入後しばらくは,紙袋状のものに一括して 収められていたのではないかと想像される。本館の川 内地区への移転にともない,漱石文庫も現在の本館一 号館へ移された。この前後にフィルム袋式の大きな「ア ルバム」に移し替えられたとみられる。「アルバム」に は台紙が付属しているが,台紙は袋内ではなく袋と袋 の間の仕切りとして綴られている。「アルバム」は全部 で 22 冊残っており,表 2 の通り主題分けされている。 表 2 「アルバム」内訳(数字は現状を転記) ノート断片 1 ∼ 6(6 冊) 学生時代の受講ノート 1 ∼ 2(2 冊) 英国留学時代のノート 1 ∼ 2(2 冊) 学生時代の試験答案並びに作文 1∼3,6∼7(5冊) 英語試験問題 1 ∼ 5(5 冊) 英書目録 (1 冊) 原稿 草稿 その他 (1 冊) 資料の保存状況を評価するときには,上記のほか, 過去の展示の影響も目配りが必要である。どの資料が どのような環境でどのくらいの期間,展示に使用され てきたか,後に述べる状態調査とならび記録しておき たい項目である。漱石は話題性もあることから,自筆 資料はたびたび展示に使われている。例えば以下の記 録が残っている。 「夏目漱石展」 日時:昭和 41 年 6 月 8 日∼ 9 日(12 時∼ 16 時) 場所:東北大学附属図書館会議室 「漱石文庫新資料展」 日時:昭和 45 年 6 月 9 日∼ 10 日(13 時∼ 16 時) 場所:東北大学附属図書館会議室 「漱石展」 日時:昭和 46 年 10 月 28 日∼ 11 月 27 日 場所:宮城県図書館 以上の例にかぎれば,館内展示の場合は,冷暖房を 使用しない季節であることや,公開時間を限るなど, 資料にかかる負荷は大きくなかったのではと想像され 1 「漱石の蔵書と漱石の日記その他は,昭和 18 年の暮に,岩波茂 雄の尽力で仙台に送られてきた」(小宮 1955:p.19)。 2 「漱石文庫について」(『漱石文庫目録』)。 3 「昭和 20 年の東北大学図書館の山間への貴重書の疎開には漱石 文庫は加えてもらえなかったし,さらに仙台空襲のとき,図書 館には焼夷弾が命中している」。(原田 1976:p.262)。 4 『図書館利用ハンドブック 1974』(東北大学附属図書館本館) の「書庫資料配置図」では,地下書庫 1 階の一室(現在のマイ クロフィルム室)が「貴重書庫1(漱石文庫)」にあてられている。
る。館外のケースでは,展示期間が長いことから,環 境による影響が心配される。当時は,今日のように温 湿度や光,空調など,一定の基準にもとづいた管理は 為し得なかったであろうし,近郊とはいえ運送をどの ように行ったのか気になるところである。展示が資料 に与える影響については,実証的に測定することが難 しいだけに,細心の注意をもって慎重に企画すべきで あろう。当係では資料ごとに過去の展示回数や展示期 間を一覧にまとめる試みを始めている。 以上,自筆資料がたどった保存経歴を概観した。今の 目からみれば必ずしも理想とは言い難い点は当然あるも のの,大きな事故や散逸もなく,時代相応の環境で然る べき注意は払われてきたと思いたい。 4. 目録整備 漱石文庫の中心は旧蔵書だが,自筆資料として図書 以外にも日記や一枚ものが存在する。一枚ものはたと えば学生時代の答案用紙,教師時代の試験問題,身辺 メモ,英国留学時代に思索を綴ったノート,蔵書中の メモ紙などである。ここには押し葉や広告しおり,漱 石以外の人間の手になる書簡(はがき)など「自筆」 とはかぎらないものも一部含まれている。 漱石文庫の内訳を示す目録が冊子として公刊された のは昭和 40 年代に入ってからであった。それまでに館 内で使用されていた目録については,大原(2017)に よる「3.漱石文庫基礎資料」に紹介があるのでゆずり たい。 昭和 46 年(1971)に初めて公刊された『漱石文庫目 録』では,図書は 1 点 1 点タイトルがとられているが, 自筆資料は巻末付近にまとまった分類として示される にとどまっている。 この目録では,漱石文庫は四種の資料群から成ると している。詳細について補足すべきところもあるが, おおむね当初購入分の図書(①)とこれに「附属して いた」図書以外(②),その後の収集になる漱石関連図 書(③)と図書以外(④)となる。本稿で自筆資料と 呼んでいるのは②と④を合わせたものである。 その後,自筆資料の整理にあたった村岡の編になる 『漱石資料 : 文学論ノート』(1976)に,自筆資料の一 部が翻刻され解説付きで収録された。 自筆資料 1 点 1 点の目録が公開されたのは,平成 9 年(1997)に完了をみた漱石文庫マイクロフィルム化 事業においてである。これは『漱石文庫マイクロフィ ルム目録』として刊行された。 さらに修正を加えたとみられるものが,石垣(1999, 2000)により「漱石文庫目録改訂版」として公表され, 平成 11 年(1999)にはデータベースで公開されている5。 なおマイクロフィルム事業以降の目録では,『漱石文 庫目録』にみられた四種の区分は明確には行われてい ない。 表 3 漱石文庫目録の公開 昭和 46(1971) 『漱石文庫目録』刊行。東北大に受入 後,初の公刊目録。自筆資料は概要のみ。 平成 9(1997) 『漱石文庫マイクロフィルム目録』 刊行。自筆資料の全容を初めて収録 したもの。 平成 11(1999) 「漱石文庫目録改訂版」公表。この 成果をもとにインターネット上で検 索できるようになった。 目録は利用サービスのためにも大事だが,実は保存 管理の基礎としても重要である。貴重コレクションの 管理に必要なのは,目録の書誌事項だけでは不十分 で,これにさらに状態記録を加える必要がある(菊地 2018)。本事業を機に,データベースのメタデータを活 用し,状態記録用の目録(リスト)を Excel で作成した。 ただし,最新の目録でも一部まだ未分割であったり, 最近の受け入れ資料が追録されていないなど,若干の 手当ての必要が認められたため,これらの対応を行い, 転記ミスも可能な範囲で訂正した。修正内容はデータ ベースに再反映し,今後も継続してメンテナンスを行っ ていく予定である。 5. 状態調査と記録方法 次に状態調査と記録のとり方について述べる。 一般に目にする記録様式では,調査ポイントごとに 項目を分け,事前に入力ルールが決められる。綴じの 状態,虫損の有無,汚れ具合など,それぞれの観点で 複数の記録項目を用意し,記録用語も統一しておく。 この方法で記録しておけば,劣化箇所の集計や分析 が容易である。突然修理予算がついたときなど,特定 5 現在確認する範囲では,『漱石文庫マイクロフィルム目録』,「漱 石文庫目録改訂版」,データベース目録の 3 種の間に若干の 異同がみられる。例えば請求記号 27-20 の資料は,「フローレ
ンツ博士音声学講義ノート」,「Lectures on Phonetics Sept. 1891 (フローレンツ博士音声学講義の筆記,ノート)」,「Lecure on Phoneties Sept.1891」〔ママ〕といった異同がみられる。
のチェック項目を参照しながら候補を一括抽出できる ため利便性が高い。 しかし今回はこのような整理された項目を用意せ ず,一セルにひたすら記述式でメモしていく簡易な方 式をとった。前述で増補した目録(リスト)に対して, 資料ごとに全体的な劣化程度を大・中・小で示す項目 を一列と,破損箇所や破損程度を自由記述で記録する 一列といった,二列を追加したのみである。チェック すべき項目を整理する時間的余裕がなかったことに加 え,以下の理由がある。 状態調査のための記録様式を定めるときは,作業効 率を考慮し,担当者間の判断の揺れを抑えるため,項 目を絞り記述ルールを明確なものにした方がよいとさ れる。それにしても事前に資料全体の目配りがなけれ ば項目立ての方針を決めがたいことと,一旦は項目が 決まったとして,実際に進めるうちに過不足の見直し が往々にして生じかねない。コレクション内,もしく はコレクション間で,状態調査の記録様式が異なり版 を重ねるなどしてしまうと,一度終了した分を最新の 様式に合わせて変更するか,いくつかの様式を乱立し たまま維持し運用するか,いずれにしても運用に課題 を生じ扱いにくいものとなる恐れがある。 今回はたまたま調査担当者が 1 名で全点の調査にあ たったため,厳密なルールを定めずとも,記録の揺れ が起こりにくいという利点があった。また 2,000 枚とい う数は,1 点 1 点リスト上で目視が可能な範囲である。 余談ではあるが,筆者が就職して間もない頃,ある先 輩に教わったのは,3,000 件程度までであればデータベー スなどで検索するより,直に目で一覧したり Excel の機 能で検索した方が,目的によっては効率的とのことで あった。筆者もそのように考えている。 以上の理由から,漱石文庫自筆資料の状態調査は, 簡便でゆるやかな方式とした。 6. 保存手当て 以上は,保存手当てを行う際の事前準備にあたる。 ここからは,当係で行った保存の取り組みについて報 告する。 6.1. 見直しのきっかけ 貴重資料の手当てをどのような方法でどこまで行う かは,常に難しい判断となる。 自筆資料は,漱石の生きた時代である明治から大正 の初めごろまでの洋紙に,インクや鉛筆で書きつけら れたものである。この機会に従来の手当てを点検し, 見直しを行う理由が二つあった。 一つ目の理由は,従来の資料の保存方法では,損傷 状況とそれに応じた注意を熟知していない作業者が原 本を扱うには支障があったからである。自筆資料は 1 枚 1 枚をフィルム封筒に入れて保管している。中には B4 サイズを超えるほど大きなものがあり,薄くかつ損 傷しているため,フィルム封筒からの出し入れは慎重 に行わなければならなかった。 撮影準備の段階で,念のため撮影業者に実際に出し 入れを試していただいたところ,取り出し時には薄い 用紙がビニール内に貼りついて,そのまま引き出そう とすると裂けてしまう恐れがあった。フィルム封筒へ の戻し入れはさらに困難で,用紙と同サイズの袋に, 折れ目を作ることなく奥から平面に入れ直すには慎重 さと相応の時間を要することがわかったのである。 図 3 フィルム封筒に収められた自筆資料 マイクロフィルムの撮影当時は,撮影業者は直接資 料に触れることなく,職員がすべてその場で取り扱っ たと聞いている。しかし今日の人員体制では,別室の 撮影現場に 1 名が専従するのは難しく,資料の取り扱 いは撮影業者側に委ねるほかなかった。その分,撮影 者の作業効率が落ちてしまうこととなり,当初の見積 もりでは事業前に想定していた価格を大きく上回るも のとなってしまった。このため,職員でなくとも,資
料を傷つけることなくスムーズに取り扱える保存装備 の見直しが必要となったのである。 見直しのきっかけとなったもう一つの課題は酸性紙 問題である。 2004 年,資料保存を専門とする業者に,漱石文庫の 状態をみていただいたことがある。そのときの報告によ れば,漱石文庫の自筆資料は酸性化が進んでおり,現在 のフィルム封筒への封入という措置は,自身から生起し たガスが放散されず内部に集積するため,劣化の速度を 早めている可能性があることを指摘された。またインク 焼け(没食子インクによる酸化劣化や酸性劣化の進行) も危惧され,劣化レベルを全 7 段階に分けた場合,4 ∼ 5 に該当する資料が散見されると指摘されている。 このため,遠からずなんらかの措置を施さなければ ならないとの課題を引き継ぎつつ,今に至っていたの である。 6.2. 課題を取り巻く技術概況 酸性紙対策として,まず思い浮かぶのは脱酸処理で ある。やり方は何種類も存在するが,共通する理屈は, 酸性化した紙をアルカリ性の物質で中和するというも のである。国内では DAE 法やブックキーパー法による 大量脱酸が実績を上げている。 脱酸処理を検討するうえで注意すべき点がいくつか ある。例えば,紙に含まれる成分によっては茶色や黄 色へ変色が進むといわれる。自筆の書き込みがある資 料では,インクへの影響にも留意する必要がある。一 度処置を施すとその後は修理が難しくなるため,必要 があるものは事前に修理を終えておくように指示され る。脱酸処理は紙力を回復させるのではなく劣化の進 行を後らせる目的で行われるものであり,ある程度劣 化が進んでしまった資料には施せないといった限界が ある6。 脱酸処理以外に,劣化した紙自体を強化する方法が ある。たとえば日本で「相剥ぎ」とよばれるペーパー スプリット法で,これは一枚の紙を表裏に裂いてその 間に補強紙を追加する方法である。ほかに和本の虫損 の穴埋めにも使われるリーフキャスティング法があ り,これは欠損部に繊維を充当するものである(鈴木 1993:p.89-96)。 紙の劣化を遅らせるためのより穏当な方法として,保 存容器を活用した予防措置がある。その選択肢のひとつ にフィルム封筒の活用がある。フィルムを使った保存方 法には,フィルム製の袋へ封入するほか,フィルムの四 辺を圧着して密封するフィルムエンキャプレーションと いう技術も紹介されている(相沢ほか 1991:p.51-57)。 フィルムの活用は,外からの汚染物や物理的なスト レスから資料を守るのが主目的である。大気の汚れや マイグレーション(隣接資料からの影響物質の移行)(鈴 木 1993:p.48-53)など,外部の要因から資料を保護す る役割が期待される。 漱石文庫の自筆資料の保管状況を,表 1 によりあら ためて確認すると,今に至る半世紀間,フィルム封筒 に収めた状態で保管されてきた。最初に「アルバム」 のフィルム容器に移された頃,酸性紙問題は日本では まだ十分に認知されていない(鈴木 1993:pp.63)。従っ て当時の判断としては,フィルム容器の前述の特徴, すなわち資料を汚染物や物理的なストレスから守ると いう意図であったろうと想像される。 紙の酸性化の原因がわかってくるにつれ,大気汚染 や水分、温度といった外的な要因にかぎらず,「紙の内 部の酸による化学的な劣化」(相沢ほか 1991:p.55)も 注意されるようになる。紙の内部物質によって酸性劣 化が進行するという。 したがってフィルムエンキャプレーションのように 密封状態とする際は,資料をあらかじめ脱酸処理して おき,「資料といっしょに中性紙(無酸・弱アルカリ性 の紙)を入れることで,資料の内部からの酸による劣 化をかなり防御できる」(同前)といった手当てが推奨 される。 フィルムの活用には別の問題もある。「フィルムが発 生する静電気は他のものを吸い付けるから,この方法 は鉛筆やパステル,木炭で書かれた資料には使えない」 (同前)。今回の状態調査により,自筆資料には鉛筆に よる書入れ資料が 220 枚ほど存在することがわかった。 これは全数の約 1 割となる。書入れを主体とする繊細 な資料の表面が,フィルム面に直接触れて問題ないの か,筆者も以前から不安を抱いていたため,この機に あらためて目配りすることとした。 6.3. 保存環境と劣化の進行性の評価 追加処置を施す前提として,過去半世紀におよぶフィ 6 脱酸処理に関する説明は,業者のウェブサイトに詳しい。実際 に処理を施した実例も図書館側から報告がある
ルム保存の結果を評価することとした。使用されてか ら一世紀も経た紙は当然劣化している。大なり小なり 進行はする。ではこの 50 年間はどの程度進行したのか。 漱石文庫の蔵書については,本学の手に渡る前に既に 相当のダメージが生じていたという証言があることか ら気になるところである(小川 2006)。 もし近年の処置に問題が認められないとすれば,あら ためての追加措置は行わないか補正程度にとどめ,経 過観察を続けるくらいが望ましいであろう。もし問題 がなかったのに手を入れて大きく現状を変えてしまっ たとしたら,かえって劣化の進行をまねくことにもな りかねない。原因が複雑にからみあう紙の劣化現象に おいては,変化自体にリスクが含まれる。筆者の乏し い経験の範囲でも,それまで見向きもされず安置され てきた資料が,突如注目され表に引き出された途端, 引き金を引かれたように劣化が進行するといった場面 に出くわすことがあった。 手を加えるタイミングの問題もある。保存の世界は 技術待ちともいえる。資料の崩壊が目前に迫っていれ ば,次善の策であっても,当座の最善として選択肢す るほかない。一方,まだ猶予があるとみえるならば, より安全な方法が出現するまで待つという選択肢があ る。不可逆的な変更を急いだために,その後でより望 ましい技術が持ちきたされたとき,それが適用できな くなってしまっていた,などという事態も考えられな くはない。処置のタイミングは,資料の劣化程度と劣 化速度にもとづき判断されることになるだろう。 さて今日の当館の保管環境であるが,自筆資料は 1 枚 1 枚がポリプロピレン製のフィルム封筒に入れられ, さらに底の浅い既製品の文書箱内に平置きで積まれて いる。資料同士に重量がかからないよう,箱をなるべ く分割している。既製品の文書箱は文字通りの中性紙 ではなく,酸性化を抑えるために若干アルカリ寄りに 作られている。 書庫内は温度 20 度,湿度 55% に 24 時間保たれてい る。空調は外気と直接の行き来はせず,中間に配した 前室を介して間接的に循環する設計となっている。室 内の吹き出し口も,直接資料に風が当たらぬよう穏や かなエアーソックスダクト方式が採用されている。 劣化状態ではなく進行速度となると,定点的に紙力 を測定し記録でもしておかないかぎり,正確な把握は 難しいだろう。そのようなことができないかぎり,写 真による色味の比較や,過去の破損記録を参考にする 方法で代替するしかないと考えられる。 今回,全点調査を行った際,過去の整理時のメモを 確認したり,彩色のあるものは過去の画像と色味を目 で比較するなどしてみた。破損が気になっていたいく つかの資料については原因を認識できた。以上を経た うえで誤解を恐れずに感触を述べるならば,少なくと も最近の環境下では,それほど進行は早くないかもし れないというものであった。 現在,大きな破損が生じている「貸した本」(27-18)は, かなり以前から大きく損壊していたことが記録からわ かる。「大要(文芸と人生)」(4-9)などにみえる穴は, 一見インク焼けの進行ともみえるが,実際はピンで紙 を貫通してとめた跡とみられる(村岡 1976 : p.viii)。『道 草』の原稿類にみられるインク焼け部の穴は,直接の 原因としては,もともと収められていた写真用アルバ ムの粘着台紙から剥がしたときにできた物理的な損壊 であることが確かめられた。 少なくとも本学に搬入されてから今日までの間,漱 石文庫の自筆資料には,酸性化が極限まで進んで小片 に砕ける崩壊(スローファイヤー)や,インク焼けに よる進行性の自壊欠損も,目立っては見られないとい う事実だけは確認できたのである。 このことから,環境を大きく変えなければ,5 年∼ 10 年といった短期に自壊が突然進むということは考え にくいとの結論に至った。 次に,どのようなタイミングであっても,避けて通 れないのは脱酸に関する判断である。資料が処置にた られる状態でなければ施せないとの注意もあることか ら判断が急がれる。 漱石文庫は蔵書の方が酸性紙問題は深刻であり,破 損修理の際に脱酸処理を施した例がすでにある。筆者 が参加した保存研修や他機関訪問の際に,他館の脱酸 事例を見せたいただいたこともある。 筆者が目にした範囲では,脱酸処理後の資料は独特 の湿ったような軟らかさが紙に加わっており,表面が うっすらと白く膜がかって見える特徴があった。 脱酸後の軟らかい紙面は,以前の硬化による危機を 脱した安心感を与えてくれるものであった。一般に脱 酸では紙力は回復せず,あくまで劣化を遅らせる処置 とされるが,これも現場の印象として耳にする通り, 柔軟性が処置前とくらべて「回復」したようにみえる ケースが多いように思う。その軟らかさには若干不自 然さも感じられ,紙特有のコシや張りが後退してみえ
るのも特色であろう。「治った」というより「変わった」 といった印象である。 もう一つの変化は,紙面に白い膜状の粉のようなも のが残ることである。専門業者によれば,脱酸処理後 もアルカリ化を維持し続けることが重要で,そのため に残留させておく物質との説明であった。これが処置 の結果であるならば,特に書き込みが重要である自筆 資料のような場合には,脱酸処置を加える前に電子化 を済ませておくべきだろう。漱石の書き込み文字を少 しでも鮮明な状態で記録に残したうえで,原本に手を 加える順序とするのがよい。なおついでながら付言す れば,漱石文庫の蔵書には,傍線を「指の爪で引いた りしている」(原田 1976 : p.255)例があるとされる。 以上のような現況確認を経て,今回にかぎっては従 来のフィルム封筒を維持したまま,二つの課題に対し て,部分的な改善を加えるにとどめた。すなわち原本 の出し入れが誰にでも安全に行えるような工夫を追加 することと,フィルム封筒の欠点を補うため,酸性化 ガス及び静電気の影響を抑えた保存空間を,フィルム 内に作ることである。 いずれにしても資料が相応に劣化している現実に変 わりはなく,5 ∼ 10 年後には点検を行い,その時点で 可能な手当てを再度検討するのがよい。 6.4. 手当ての方法 一枚ものを対象とした保存容器には,各種工夫の施 された安全性の高い既製品が販売されている。保護紙 が縦横十文字に開閉する畳紙(たとう紙)や,中性紙 封筒(エンベロープ)を活かしたフォルダー形状のも のなどである。図書館側でも,既製の保存用紙や保存 用封筒を組み合わせ,封筒フォルダーを手作りする試 みが行われている。 図 4 手作りの保存フォルダー 今回自筆資料の保護に充てられる予算は数万円程度 であり,2,000 枚すべてに施すには既製品では無理であっ た。手作りも検討したが,材料費も時間も十分な余裕 がなかった。 最終的に考えた方法は,原本を二つ折りの保護紙で 挟み,もとのフィルム封筒に戻すというごく簡単なも のである。保護紙のうち購入で賄えなかった分は手持 ちの代用品で充てた。 この手当てを追加するにあたって,保存施策にみら れる以下の推奨方法を参考にした。 1)急場の処置として資料を中性紙でくるむ。 「容器を作るための十分な時間・人手・予算等がな い場合には,中性紙で資料をくるんでおくだけで も,環境による劣化要因や取り扱いによる傷みか ら資料を保護することができる」。既存の容器があ ればそれを生かし,「中に入れる資料を中性紙にく るむことで,既存の容器に潜在する劣化要因(容 器素材からの酸など)から守ることができる」。(相 沢ほか 1991:p.40) 2) フィルム内で資料内部から発生するガスの影響を 緩和する。 「資料といっしょに中性紙(無酸・弱アルカリの紙) を入れることで,資料の内部からの酸による劣化 をかなり防御できる」(「12. フィルム・エンキャプ レーション」)。(同前:p.40) 3) 「3F(スリーエフ)フォルダー」(無酸・無アルカリ・ 無サイズ)※既製品 「二つ折りのフォルダー。特にアルカリやサイズ剤 に敏感な一枚ものの資料向け。一枚ずつ資料を挟 み,台差し箱などに入れてご使用ください。版画・ 素描・ポスター・チラシ・生原稿などに。」 (資料保存器材―製品一覧 https://www.hozon.co.jp/archival/product_folder_2.html) 図 5 資料を二つ折りの中性紙に挟む
図 6 フィルム封筒に戻し入れる。 以上の方法によって,誰でも資料を容易かつ安全に 扱えるようになった。資料の保護という点では,汚れ や光の影響も緩和された。 主目的のもう一つである酸性紙対策としては,自身 から発生されるガスの防御にどれほど効果があるか, すぐにはわからない。しばらく経過を注視したい。 以下に使用した製品と手順をまとめる。 <使用製品> ○保護紙 「ピュアガード」(株式会社 TT トレーディング) ・ピュアガード 70(ホワイト色 70 g / m²) B4,A3(二つ折り B5, A4 サイズ用) ・ピュアガード 120(クリーム色 120 g / m²) B3,A2(二つ折り B4, A3 サイズ用) ○フィルム封筒 「透明ポケット」(コレクト) 各サイズ <手当の手順> ① 用意した保護紙を二つ折りし,収める資料の配架 番号やメモを表側に鉛筆で記入する。 ②保護紙に資料を挟み込む。 ③ 通気性を少しでも確保するため,保護紙の折り目 以外の開いた辺が,封筒の開封口にくるようフィ ルムに収める。特に,袋の長辺が開封口となって いる製品の場合は注意。本体と同封されていた職 員等による関連メモ類は,保護紙とフィルムの間 に戻し入れる。 <今後の利用のしかた> 資料を出し入れするときは,資料本体には直接触れ ず,保護紙に挟んだまま保護紙ごと取り出す。 閲覧するときは机に置いた状態で保護紙を開き,裏 面に返す時も一度保護紙を閉じて裏返すなどすれば, 破損した資料でも安全に扱うことができる。 閲覧が終わりフィルムへの戻し入れる際も,資料を 挟んだ状態で保護紙ごと封筒に入れる。職員等による 整理時のメモ類は,資料本体と接しないように,保護 紙とフィルムの間に戻し入れる。 紙を選ぶ 保存専用の容器(保護紙)として販売されている「中 性紙」には二種存在する。一つはアルカリバッファー 紙(アルカリ含有紙)で,厳密には完全な中性ではな くアルカリ側に寄せることで,酸性化を抑制する効果 があるとされる。もう一つは酸もアルカリも含まない 文字通りの中性紙でノンバッファー紙といわれる。原 稿や絵など繊細な一枚ものは,保護紙と直接表面が触 れるためノンバッファー紙が望ましいとされる。 自筆資料はすでに酸性化が進んでいるため,保護紙 にアルカリバッファー紙を使用できればよかったのだ が,今回のやり方では表裏両面が保護紙にじかに触れ るため,大事をとってノンバッファー紙を使用するこ ととした。 保護紙の厚みには留意し,なるべく平面強度をもた せるために,B5 と A4 は 70 g / m² である「ピュアガー ド 70」を,B4 と A3 などの大型の場合は 120 g / m² で 厚めとなる「ピュアガード 120」を使用した。 使用する保護紙のサイズは,資料の大きさではなく, 入れようとするフィルム封筒の大きさに合わせた。こ れによりフィルムと隙間をなるべく作らないようにす る。資料が中で動いて保護紙から脱落してしまうと, 紙の段差にさらされ,またビニールの折り曲げにより 破損する可能性があるためである。 今回選定したコレクト社のフィルム封筒は,名刺大か ら A1 サイズまで幅広く揃っている。使用するサイズを 4 種に絞った理由は,重ねて平置きする都合上,あまり にも大きさがバラバラだと不安定となり,かつ資料間 に生じる段差により原本に負担がかかるからである。 フィルム封筒を選ぶ 前述の通り,本資料群に本格的な手当てを施したの
は四半世紀以前に溯るとみられる。今現在のフィルム 封筒も,10 年以上はゆうに経過しているものとみられ る。今回の再整理で追加の封筒が必要となったことか ら,あらためてフィルムの材質と製品の選定を行うこ ととした。先に結果を書いてしまうと,前情報のない 状態からの比較検討であったにも関わらず,過去とまっ たく同じ製品に行き着いたのは少なからぬ驚きであっ た。 保存容器としてのフィルム材質のメリットは,なんと いってもそれ自身安定していることである。紙にくら べて物理的な損壊や劣化が起きにくく,誤って水や汚 れが付着しても中身の資料まで浸透することはない。 資料に対して有害な物質を発生することも(今のとこ ろ)ないと考えられる。表面が滑らかで摩擦が少ない のも,時と場合によるが資料を傷つけない安心感につ ながる。透明のため開封しなくとも資料の状態を目視 チェックできるのもありがたい。一方で気密性の高さ から問題が指摘されているのは前述の通りである。 一口にフィルムといっても材料や形状の面から種類 がある。資料保存の世界で候補に挙げられる素材には ポリプロピレン(PP),ポリエチレン(PE),ポリエス テルなどがある。同じ原料でもさらに製法のうえで特 性が異なる。例えば 2 軸延伸ポリプロピレン(OPP) と無延伸ポリプロピレン(CPP)では伸縮性に違いあ るなどである。同じ素材でも製品になった際に厚みや 使い勝手といった形状面で違いが存在する。 正直なところ,筆者のような素人の耳にはどれも似た ような響きに聞こえ,特性の違いを完全には理解でき なかった。耐熱性,透明性,耐候性といった視点によ る比較表などウェブ上で見かけるが,筆者なりに良し 悪しの判断を試みたものの,資料の保存にとってどこ まで有意な違いとなるか最後まで確信は得られなかっ た。そこでアプローチを変えて,実際の製品を取り寄 せて手元比較する方法をとることとした。 数ある市販品の中から気になった 5 種類ほどを選び, 手触りや資料の出し入れを確認した結果,コレクト社 の「透明ポケット」が最も扱いやすいという結論に至っ た。もしかしたら過去にも同様の比較が行われ,選択 されたのかもしれない(相沢ほか 1991:p.67 など)。 この製品は,同社の HP によれば発売が昭和 57 年 (1982)とロングセラーである。ポリプロピレンの中 でも OPP といわれる製法のもので,伸縮性はなく平面 に張りがある。厚みが 0.06 ミリ(B5 ∼ A3)と他の製 品にくらべて丈夫そうであった。開封口に切り込みで 段差がつけてあるため資料を出し入れしやすく,サイ ズのバリエーションが豊富である。 フィルムの材質比較では,ポリプロピレンは,丈夫 さ,耐熱性,透明性などは他の材質と比べても良好な 成績だが,気になったのは耐候性である。耐候性とは 聞きなれない言葉だが,太陽光や雨のあたる屋外環境 でどれくらい耐久性があるかを示す指標とのことであ る。劣化すると変色や割れが生じるらしい。この指標 が他の材質にくらべてポリプロピレンが最も低かった。 このことと関係があるのかわからないが,過去の整理 に使われたフィルムは心持ち黄ばんで見える。厚みが あるせいか,何枚も重なると透明性もそれほど高く見 えなかった。今の漱石文庫は,一定の温湿度に機械管 理された空間に保管しており影響の少ないことを祈っ ているが,今後の経過観察のポイントとして付け加え ておく次第である。 7. 保存のための電子化 IFLA(国際図書館連盟)が資料保存の一般的指針と して「資料保存の原則」を作成したのは 1986 年であっ た。1998 年に「予防的保存対策の原則」として改訂し た際,第 7 章「媒体変換」といった大幅な記述の追加 がみられる。来たるべきデジタル化の波を見すえ,資 料保存対策の一角として電子化を位置づけたのである。 7.1. 資料の「電子保存」 今回のクラウドファンディング事業は,全国に漱石 文庫の高精細画像を公開する目的のほか,原本を保護 する意味も含んでいる。しかしその原本は有機物であ り,保存にも限度がある。基本的には今より若返るこ とがない。原本保存に手は尽くすにしても,今の姿を 電子画像に一刻も早く記録する「電子保存」とも呼ぶ べきもう一つの保存の側面が重視される。 一般的な場合では,50 年前の利用者よりも,今の利 用者の方が,同一資料であっても情報量の減少した素 材を相手にしていることとなる。劣化は不可逆的なも のであるから,さらに 50 年後の利用者は,今以上に オリジナルな情報の失われた資料を活用することとな る。研究者が得られる文字情報や試料情報は,不可逆 的に減少する。直接の破損を一次破壊とすると,修復 が二次破壊になるケースもあり得る。したがって,破 損したら治せばよいということではなく,そもそも破
損や劣化をなるべく進行させないための予防が大切で ある。それと同時に,万一に備えた「電子保存」を行っ ていることが将来への保険となろう。 50 年後,原本の状態が悪化し,文字だけでなく形態 も損なわれていれば,電子画像が大きな拠りどころと なる。とすれば電子化の際に心しておくべきは,電子 化は単に原本を保護するための身代わりを生産してい るだけではない。将来の研究にとって拠りどころとな る「底本」を生み出しているともいえる。原本ではな く画像が参考文献に挙げられ,引用に使用されるといっ た拠りどころの転換が起き得よう。 このような考えに立つならば,撮影方法についても, 利用のための撮影と,今の姿を保存するためのそれと では,異なってくるものと考えられる。 以下で両者の違いを比較してみたい。 図 7 資料活用の将来イメージ 7.2.「原形(現形)保存」のための撮影仕様 前述のような電子化の意義の再確認のもと,今回の 漱石文庫の電子化に臨み,これまでとは異なるコンセ プトを試みることとした。それは「原形(現形)保存 のための電子化」とも呼ぶべきもので,電子画像の底 本化を見すえたものである。 自筆資料は,過去に二度,全点撮影が行われている。 一回目は 1997 年に完了したマイクロフィルム化事業で ある。このときはモノクロ撮影であったが,同時に, デジタル時代のさきがけとなるべくカラーフォト CD 化のため,カラー撮影も行っている。CD に収められた 画像は,同じく CD 内に同梱された専用のビューワー によりオフラインで閲覧する仕組みだった。2000 年に 本データをもとにインターネット公開され,これが現 在の「東北大学デジタルコレクション」に引き継がれ ている。 公開から 20 年以上を経て,さすがに解像度やファイ ルフォーマットが今の時代に合わなくなってきた。利 用者に敬遠されたり,自ら費用を負担して再撮影を申 し込むといった事例が増えてきたため,クラウドファ ンディング事業により資金を募り,完全に劣化してし まう前に高精細な画像で残そうと考えたのである。 図 8 マイクロフィルム画像(左)とカラーフォト CD 画像(右) 図 9 今年度あらたに撮影し直した画像(左が表・右が裏) 以下,前回の撮影と今回の撮影の違いを表にまとめた。 表 4 新旧撮影仕様の比較 旧画像 2020 年新画像 ①ファイル形式 1 資 料 に 対 し て,画像が 1 枚 のときは JPEG と し, 複 数 枚 と な る と き は PDF。 全て 1 枚 1 ファ イルの JPEG。 TIFFデータあり。
②撮影範囲 書 き 込 み 箇 所 のみ。 書き込み箇所の ほか,無地の裏 面や手帳の白紙 頁も対象。 ③画像方向 1 資料につき, コ マ ご と に 文 字 内 容 が 読 め る向きに編集。 1 資料につき,文 字内容の縦横方 向に関わらず一 定の向きに固定。 ④指標類 なし。 カラーチャート, スケール。 ⑤キャプション 資料名 請求番号(コマ・ 頁番号) ⑥ 画像の製作情報 なし ターゲットとメ タデータに記録 以上の比較表から,1997 年時の画像は,どちらかと いえば閲覧の利便性を重視した仕様となっていること がわかる。以下,まず旧画像の仕様にみられる考え方 を追ってみる。 ①のファイル形式の点では,複数頁の資料のときは, PDFで1ファイルにまとめている点に工夫がみられる。 資料の順序付けが保たれるようにとの配慮と,1 ファイ ルとしてダウンロードできることで印刷の便を図った ものであることがわかる(日出 2002 : p.9)。今でこそ JPEG や PDF は標準となっているが,2000 年時点では, どの形式が今後のスタンダードになっていくか手探り な面もあったろうと想像される。 ②の空白頁の省略,③の画像方向の補正は,閲覧効 率を高めスムーズな読み心地を実現している。例えば 漱石の癖として,手帳を前表紙と後表紙の両方向から 使用しているケースがある。表紙から頁を繰っていく と,途中で書き込みが終わり空白頁が現れる。それで もしばらく進んでいくと,やがて再び文字が現れる。 これは後表紙の方から書き進んできた記述の最終部に あたるのだが,右開きに使用しているため文字の向き が上下逆転している。旧画像では,こうしたケースで も読みやすいように補正しているのである。 次に新画像の仕様であるが,①について,1 枚 1 枚に 画像ファイルを区切り,順序付けは画面左上に「6-7(2) オモテ」といったように直接埋め込んだ。 ②と③に関して,撮影対象とする範囲は,一枚もの であれば資料の両面,簿冊形態のものは全頁とした。 空白面や空白頁もすべて順番通り撮影した。読む向き が表裏前後で逆さまになったとしても,回転補正を施 さなかった。本仕様は,万一原本が失われることがあっ てもレプリカとして復元できるよう現状記録を優先し た結果である。PDF と違い,JPEG は閲覧者による補 正や加工が容易な点も考慮した。 ④にあるスケールやカラーチャートの並置は,原本 の色味や大きさの再現に必要な情報となっている。そ ればかりではなく,先述したように,劣化の進行具合 を追跡するための指標としても色味は重要である。 ⑤については,新画像では,旧画像のように資料名 は写しこまなかった。先の目録手当ての章で触れた通 り,表記の揺れがまだ残っているからである。これも 理想的には資料名が画面に写り込んでいた方が,画像 印刷した際にも親切だったろうが,かわりに画面左上 に「請求記号 内訳番号(頁) オモテ / ウラ」を写し込むことで, 当該画像を一意に特定できるようにした。旧画像では 空白面を省略しているため,表面/裏面の区別がなく, 日記などは印刷してしまうとそれが何頁ページ目にあ たるかわからなくなっていた。 ⑥の項目は重要で,フィルム撮影の時代からも冒頭 コマに撮影日や撮影者を写しこんでおく方法はよくみ られる。いつの時点の資料の姿なのかわかるよう,新 画像でも冒頭コマに撮影情報を入れつつ,メタデータ にも撮影時期を記録した点が今回初めてとなる。 図 10 事業名と電子化年度を検索結果画面に表示 これまで述べた通り,新画像は保存の観点を重視した ために,旧画像のいくつかの利点を犠牲にせざるを得な かった。通読を前提とした図書ではなく,一枚ものであっ たからこそ選んだ方法ともいえる。画像さえ残ればイン ターフェースは後日組み直すことができよう。ひとつの 試みとして今後のご批判を仰ぎたい。
8. おわりに 延命は可能であっても,「いつかは」と覚悟される近 現代の一枚もの資料に対して,オリジナルなアイデン ティティをどこに求めるかは,図書館として後世に何 を残すべきかといった問いと同義である。書かれた内 容なのか,それともモノとしての構造と組成なのか, 作られた当座のまっさらな状態なのか,それともそこ に刻まれた歴史の痕跡なのか,研究材料としての資料 の価値は多面的である。 そのことは同時に,現場にとっては,現実的に何を 残せるのか,といった選択の問いにもつながる。今後 の技術の進歩に期待するしかないが,今のままでは最 後まで残せる「パーツ」は限られている。今回撮影し た電子画像も,原本の代替物としてみれば,少なから ずある種の情報を捨象したものであるにはちがいない。 もっとも電子画像は,前述のように原資料の代替と みる見方のほかに,それ自体を「画像資料」として独 立したものとみなすことができる。デジタル化の利点 として当初から耳にすることであるが,電子画像は拡 大できるし,加工し分析することができる。肉眼では 見えにくい書き込みを強調したり,色を採取し数値に 置き換えることもできる。複製を距離空間を気にせず 共有したり,大量のサンプルを切り出し機械的な処理 にかけることもできる。「画像資料」は,新たな研究の 可能性を開くものでもあり,素材として原本にない強 みをもっている。 このように考えると,今回の事業の意義は以下の 3 点に総括できよう。すなわち 1)原資料の保護,2)原 形(現形)の記録,3)「画像資料」という新たな研究 素材の生産,である。アーカイブを旨とする図書館で ある以上,現役世代はもちろん,将来世代へ少しでも 多くの情報と素材を届けられればと願っている。 謝辞:本事業に賛同しご寄付をいただいた皆さまに厚 くお礼申し上げます。そのほか応援いただき,力をお 貸しいただきました大勢の方々にもあらためて感謝い たします。本事業が期待にこたえる成果として,社会 に役立てられることを願い謝辞といたします。 (参考文献) 相沢 元子・木部徹・佐藤祐『容器に入れる : 紙資料のた めの保存技術』(シリーズ本を残す 3)日本図書館 協会 , 1991. アン ソニー・ケインズ , パウル・シーアン , キャサリン・ スウィフト著 ; 海野雅央 [ ほか ] 訳・編『「治す」か ら「防ぐ」へ : 西洋古刊本への保存手当て : ダブリ ン・トリニティ・カレッジ図書館における資料保 存』(シリーズ本を残す 5)日本図書館協会 , 1993. 石垣 久四郎(1999)「漱石文庫目録の改訂更新リスト」『東 北大学附属図書館研究年報』31・32, pp.195-316. 石垣 久四郎(2000)「漱石文庫「身辺自筆資料及び漱石 関係収蔵資料」目録リスト」『東北大学附属図書館 研究年報』33, pp.45-83. エド ワード・P. アドコック編 ; 国立国会図書館訳 『IFLA 図書館資料の予防的保存対策の原則』(シ リーズ本を残す 9)日本図書館協会 , 2003 大原 理恵(2017)「漱石文庫和漢書の保存状況について」 『東北大学附属図書館調査研究室年報』4, pp. 27-34. 小川 知幸(2006)「漱石文庫の保存修復」『木這子』 31(3), pp.1-9 菊地 良直(2018)「東北大学における古典資料の保存と 課題」『東北大学附属図書館調査研究室年報』5, pp. 159-171. 小宮豊隆『人のこと自分のこと』角川書店 , 1955. ジャ ンヌ = マリー・デュロー , デビッド・クレメンツ ; 資料保存研究会訳・編『IFLA 資料保存の原則』(シ リーズ本を残す 1)日本図書館協会 , 1987 鈴木 英治『紙の劣化と資料保存』(シリーズ本を残す 4) 日本図書館協会 , 1993. 東北 大学附属図書館『漱石文庫マイクロフィルム目録』 1997. 東北大学附属図書館『漱石文庫目録』1971. 原田 隆吉(1976)「東北大学附属図書館「漱石文庫」の 成立」『東北大学附属図書館研究年報』9, pp.255-265. 日出 弘(2002)「貴重資料の電子化について」『木這子』 27(2), pp.6-12. 村岡勇編『漱石資料 : 文学論ノート』岩波書店 , 1976. (きくち よしなお,東北大学附属図書館 情報サービス課貴重書係)