広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)―薬師如
来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・兜跋毘
沙門天像の宗教的性格―
著者
濱田 恒志
雑誌名
美術史学
号
42
ページ
1-25
発行年
2021-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00131207
広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)
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薬師如来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・兜跋毘沙門天像の宗教的性格―
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薬師如来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・
兜跋毘沙門天像の宗教的性格
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これまで本稿筆者は本誌などにおいて、広島県三原市に所在する 善根寺収蔵庫の諸像に関する考察を重ねてきた (1 ( 。そこでは、薬師如 来坐像ほか主要尊像の制作年代が平安時代前期、九世紀後半から十 世紀前半と考えられ、諸像は古代のこの地に豊かな仏教文化があっ たことを示す貴重な存在であること、またその造像主体者には在地 有力者層が想定され、当時の平安京における公的な薬師信仰を在地 社会に応じた形で導入していたとみられることを指摘した。 さらに、 諸像のうち僧形坐像については、当時の公的な薬師信仰の形成に大 きな役割を担ったとみられる僧・善珠の姿が反映していることも指 摘した。 本稿では以上の論考の続編として、薬師如来坐像以外の主要尊像 八軀、すなわち現在、同像を囲む形で安置されている、梵天と思わ れる天部立像、帝釈天立像、四天王立像、吉祥天立像、兜跋毘沙門 天立像の性格を検討したい。うち兜跋毘沙門天立像の存在は善根寺 諸像の尊像構成を特色づけるものといえ、一方、他の七尊は古代の 護法神像としてたびたびあらわれる。したがってこれら八尊の性格 を 検 討 す る こ と は、 善 根 寺 諸 像 の 平 安 前 期 彫 刻 と し て の 普 遍 性 と、 同群像ならではの特殊性とを理解することに繋がるであろう。さら にその検討をふまえ、これまでの論考のまとめとして、善根寺諸像 全体の特質を改めて考えたい。日本における中国絵画史研究の動向とその展望
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宋元時代を中心に
改訂増補版(上)
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小
川
裕
充
美 術 史 学 第四十二号美 術 史 学 第四十二号
一、薬師如来坐像(前稿までの概要・補足)
八尊を検討する前に、まずそれらの主尊である薬師如来坐像(図 版は本誌第三十五号の挿図 1を参照 ( について、これまで述べてき たことを中心に、またその後に考えたことも含めて、概略をまとめ ておく。 善根寺のように、 平安時代前期の半丈六薬師如来坐像を主尊とし、 さらに等身大の両脇侍像や帝釈天、四天王、吉祥天像などを備える 群像は、それらをどの程度備えるかに若干の異同がありつつも、岩 手・ 黒 石 寺、 福 島・ 勝 常 寺、 静 岡・ 南 禅 寺、 広 島・ 古 保 利 薬 師 堂、 島根・萬福寺(大寺薬師 ( など各地に類例がある。また、茨城・妙 法 寺 に は 阿 弥 陀 如 来 と さ れ る 如 来 坐 像 を 中 心 と す る 諸 像 が 伝 わ る が、主尊が本来は薬師如来像として造像されたという説がある (2 ( 。い ずれも高い造形水準を示す等身大以上の群像であることから、古代 にはそれぞれの地域において、当地の代表的な仏像としての意味を 有していたとみられる。 こ れ ら の 作 品 群 の 中 に は、 造 像 主 体 者 を 推 測 可 能 な も の が あ る。 古 保 利 薬 師 堂 や 大 寺 薬 師 は 在 地 豪 族 を 埋 葬 し た と み ら れ る 古 墳 に、 妙法寺の旧地は郡衙遺構にそれぞれ近接しており、したがってそれ らの造像には郡司を勤め得る在地有力者の関わりが想定できる。さ らに複数氏族の名がみえる黒石寺像の胎内銘を参考にすれば、複数 の在地有力者「層」による知識のような造像事情も想定することが できる (( ( 。 九世紀に書かれた『東大寺諷誦文稿』は、当時の在地有力者によ る薬師信仰の実際を伝えている。そこでは、檀主が滅罪のうえ薬師 如来の功徳を願って法会を行うことが表明され、この法会の功徳に より父母が往生するとともに、自らも善事により災難を除き、薬師 浄土に往生したいという願いが綴られている。加えて、村里の道俗 も護念され、福寿を増長するようにとも願われている (( ( 。望む功徳は 浄土往生や除災、安寧であり、功徳の望まれる範囲は、在地有力者 とその一族、そして有力者の治める地域の人々に対してであった。 彼らがこうした祈りの対象として薬師如来を選択した時代背景は 次のようなものが考えられる。まず当時が三時説のうち像法にあた ると理解され (( ( 、薬師の像法における救済が『薬師琉璃光如来本願功 徳経』 (以下『本願功徳経』 ( に説かれていること、そして桓武朝期 の平安京を中心に、災厄を除く護国的な役割が薬師如来へ強く期待 されていたことである。 薬師如来へのこうした期待は、平安京の新たな官寺である東寺の 主尊に丈六薬師如来坐像が選ばれたことや、桓武の護持僧・善珠が 『 本 願 功 徳 経 』 の 注 釈 書『 本 願 薬 師 経 鈔 』 を 著 し、 薬 師 悔 過 が 国 家 護持のために重要だと考えていたこと (( ( などに強く表れている。 また、広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)
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薬師如来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・兜跋毘沙門天像の宗教的性格―
東寺像と像容が共通し、同像以前に公的性格を有した奈良・薬師寺 金堂薬師如来坐像や (( ( 、像法における救済を願って最澄により造像さ れ た と い う 比 叡 山 根 本 中 堂 本 尊 薬 師 如 来 立 像 (( ( の 存 在 も 注 目 さ れ る。 国分寺ほか諸寺ではたびたび薬師悔過が挙行され、そこでは災厄を 除くという薬師如来の護国的性格に期待が寄せられていた (( ( 。 以上のような薬師信仰の隆盛をうけて、その功徳が全国的に理解 されていき、各地の在地有力者層も独自に薬師如来像を造像し始め た と 考 え ら れ る。 そ の 大 き な 理 由 は、 『 東 大 寺 諷 誦 文 稿 』 に も あ る 通り、災厄を除くという薬師の護国的な利益を在地社会においても 期待したからであろう。一族や村里の人々の安寧が望まれるだけで なく、国司や他の中央勢力のはざまで在地社会における立場が揺動 していた彼らにとって ((1 ( 、在地有力者の行いにより薬師の利益が在地 社会にもたらされる、 という構造は、 在地支配にあたっても有効だっ たとみられる ((( ( 。 以上でみてきたように、在地有力者たちは一族や在地社会の平穏 を祈るために、またそれを通じて在地における優位を維持するため に、当時の公的な薬師信仰を縮小・変容した形で地域に導入し、在 地の薬師信仰を構成したとみられる。そうした信仰の場で造像され たのが、善根寺諸像や各地に伝わる平安時代前期の薬師如来坐像で あったと考えられる。二、梵天・帝釈天・四天王・吉祥天立像
(一) 『金光明最勝王経』の諸尊 善根寺収蔵庫には、薬師如来坐像と同時期の作である等身大の帝 釈天・四天王・吉祥天立像が伝わっている(図版は本誌第三十五号 の 挿 図 (~ (を 参 照 (。 さ ら に も う 一 軀、 像 高 の 近 い 天 部 立 像 が 伝 わ っ て お り( 図 1、 図 版 は 本 誌 第 三 十 五 号 の 挿 図 (0も 参 照 (、 こ れ は江戸時代に大きく改変されているものの、当初表現が残された側 面部や背面部から元々の制作年代は主要尊像と同時期とみられ、各 部法量は特に帝釈天立像と近似している ((1 ( 。左側面や背面の当初部に は袈裟が、右側面には大袖衣と鰭袖衣が認められるので、元は梵天 像だった可能性が高い。つまり本来、善根寺の薬師如来坐像は、吉 祥天立像と共に梵釈四天王立像も備えていたのである。前稿と重複 する部分もあるが、本章では、この七尊について改めて考えたい。 奈 良 時 代 に は 都 の 官 大 寺 で 梵 釈 四 天 王 像 が 一 具 と し て 造 像 さ れ、 東 大 寺 法 華 堂 や 唐 招 提 寺 金 堂 な ど に 現 存 す る。 『 続 日 本 紀 』 天 平 宝 字元年(七五七 ( と神護景雲三年(七六九 ( の二つの宣命には、謀 叛 の 罪 を 明 ら か に し た 神 仏 と し て、 盧 舎 那 仏 や 観 音 と と も に、 「 護 法善神」としての梵釈四天王が挙げられている ((1 ( 。長岡龍作氏は、こ の 組 み 合 わ せ が 当 時 の 主 要 な 護 国 教 典 で あ り 国 分 寺 の 典 拠 で あ る美 術 史 学 第四十二号 『 金 光 明 最 勝 王 経 』 に 基 づ く も の で あ り、 こ れ ら の 諸 尊 に は 人 々 の 行いの観察と違犯した場合の懲罰という機能が期待されていたと指 摘 し た ((1 ( 。 こ こ で 注 意 し た い の は、 『 最 勝 王 経 』 の 内 容 に 準 ず る な ら ばこれら六尊の主尊となるべき尊格は釈迦如来のはずだが、奈良時 代の現存作例や資財帳を見ると、六尊の主尊となる尊格は必ずしも 一定していない点である ((1 ( 。この六尊は『最勝王経』に依拠しながら も、早い段階から主尊が何であるかは厳格に問わず、その周囲に安 置されるべき護法神像のいわば定型として理解されていたとみられ る。 また、奈良時代から始まる吉祥天像の造像やそれを主尊とする吉 祥 悔 過 も、 『 最 勝 王 経 』 の「 大 吉 祥 天 女 品 」 や「 大 吉 祥 天 女 増 長 財 物 品 」 に 基 づ く。 『 続 日 本 紀 』 に よ れ ば 神 護 景 雲 元 年( 七 六 七 ( 正 月に諸国国分寺で吉祥悔過が、宮中で『最勝王経』講讃と吉祥悔過 が行われたことが窺え ((1 ( 、後に宮中の法会は「御斎会」として整備さ れ、国分寺でも翌二年から『最勝王経』奉読と吉祥悔過が正月の恒 例行事とされた ((1 ( 。これに関して地方造像の観点から注目したいのは、 『 日 本 三 代 実 録 』 元 慶 元 年( 八 七 七 ( 八 月 二 十 二 日 条 の 次 の 記 述 で ある。 出雲国言さく、神護景雲二年正月二十四日の官符を奉るに、吉 祥天像一舗を画き、国分寺に安置し、毎年正月、その法を薫修 せよ、と。年序やや久しくして、丹青銷落つ。貞観十三年講師 伝 灯 満 位 僧 薬 海、 木 像 高 五 尺 に 改 造 す、 と。 こ の 日、 そ の 料、 三宝の布施として穀三百斛を宛つ ((1 ( 。 神護景雲二年(七六八 ( の太政官符により吉祥天画像を国分寺に 安 置 し、 毎 年 正 月 に「 そ の 法 」( 吉 祥 悔 過 ( を 修 し て い た が、 出 雲 国のそれは経年により彩色が剥落し傷んでしまったので、貞観十三 年(八七一 ( に高五尺の木彫像に改めたという。この記事が重要な のは、先述の通り国分寺における吉祥悔過が平安時代前期には毎年 の恒例行事となっていたことに加え、地方において、そのための吉 祥天彫像を造像した具体例を示す点にある。 かつて本稿筆者は、広島・古保利薬師堂伝来の吉祥天立像につい て、材質、像高、制作年代の上でこれにかなり近似することを指摘 した ((1 ( 。このことは善根寺の吉祥天立像にも当てはまる。これは国分 寺(後には国庁 (11 ( ( で恒例となっていた吉祥悔過が、国分寺以外の諸 寺にも波及していたことを示唆しており、興味深い。地方の『最勝 王経』奉読と吉祥悔過の担い手については、国分寺僧が専ら前者を 担い、国庁の吉祥悔過は国分寺僧以外の「部内諸寺の僧」を請じて 行われていたことが『延喜式』玄蕃寮より判明する (1( ( 。国分寺と国分 寺 以 外 の 僧 が 協 働 し て 一 組 の 法 会 を 催 行 す る 点 に 特 色 が あ る と い え (11 ( 、ここに、吉祥悔過をはじめとした『最勝王経』関係の行儀が国
広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)
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薬師如来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・兜跋毘沙門天像の宗教的性格―
分寺以外の地方寺院にも広まり得る環境を認めることができるだろ う。 こ の よ う に、 奈 良 時 代 だ け で な く 平 安 時 代 前 期 に 至 っ て も な お、 『 最 勝 王 経 』 所 説 の 尊 像 や 儀 礼 が 地 方 寺 院 に お い て も 重 視 さ れ 得 た ことを改めて指摘しておきたい。善根寺の梵釈四天王や吉祥天の七 尊像は、当時のそうした意識のもとに造像されたと考えられる。 (二) 薬 師 如 来 に 梵 釈 四 天 王 と 吉 祥 天 が 備 わ る 尊 像 構 成 の 成 立 ところで善根寺諸像や各地の類例の主尊に薬師如来が選択された 理由は本稿第一章にて振り返った通りで、七尊の典拠である『最勝 王経』とは直接の関係は無い。七尊のうち一部の尊格は薬師経典に 擁護者として登場するが、造像の典拠をそこに求めるだけでは不十 分に思える (11 ( 。この七尊は、なぜ薬師如来に加えられ、一具の群像を 形成するに至ったのだろうか。 長岡氏は前述の妙法寺諸像を検討する中で、薬師悔過の主尊たる 薬師如来像と、六齋日などで人々の行いを観察し違犯者を懲罰する とされる梵釈四天王像には、滅罪と持戒清浄のために働く尊種とし て機能上の共通性があることを指摘した (11 ( 。吉祥天もまた当時重視さ れ た 悔 過 儀 礼 の 本 尊 だ っ た こ と は 先 述 し た 通 り で あ る。 両 者 に は、 まずこうした尊種の性格上・原理上の親近性がある。 加えて指摘したいのは、この組み合わせが平安時代前期という時 代ならではということだ。薬師如来は、それまでの釈迦如来や盧舎 那仏に替わり、平安時代前期の公的仏教において新たに主要な尊格 と位置づけられた。一方、梵釈四天王や吉祥天の典拠である『最勝 王経』は、平安時代に入ってもなお護国仏教の主要な典拠であり続 けた。両者の組み合わせからなる群像は、当時の公的仏教において 両者への崇敬が重なり合う平安時代前期だからこそ、全国で造像さ れ得たと考えられる。 ここでもう一つ考えたい。この時代、各地に公的な仏教を担う寺 院として国分寺が既にあったにも拘らず、前述のような意味のある 仏像群が新たに造像されたのは、どのような要請があったためなの だろうか。 考えられる可能性は、国分寺とは離れた場所で、国分寺とは異な る尊像構成の仏像を有したそれらの寺院は、在地社会において国分 寺 に 替 わ る 新 た な 中 心 寺 院 と し て の 機 能 を 求 め ら れ た と い う こ と だ。 平安時代前期には中央権力の地方支配が弛緩し、管理が行き届か なくなり始めていたことは前稿で紹介した通りである。国分寺をは じめとした各種の寺院政策も同様であり、在地における国分寺の機 能は鈍化していたことが指摘されている (11 ( 。こうした状況に対して在 地有力者が取り得るアプローチは二つの方向が想定できる。一つは 国分寺の修造や在地寺院の国分寺化など、旧来の公的寺院である国美 術 史 学 第四十二号 分寺の再整備に積極的に参画することであり (11 ( 、もう一つは在地社会 における新たな中心寺院の整備である。 善根寺諸像や各地の類例は、 後者の性格を有した寺院の仏像だったと考えることができよう。 そこでは確かに、平安京における当時主流の尊像として、薬師如 来や『最勝王経』の諸尊が採用された。ただしこの場合、尊格の選 択は中央からではなくそれぞれの在地社会からの要請によるものと みられ、各地の例の尊像構成に緩やかな異同があるのもそれが理由 だと考えられる。 このように考えたとき、善根寺の尊像構成を特徴付ける兜跋毘沙 門天立像(図 2、図版は本誌第三十五号の挿図 10も参照 ( の存在が 改めて注目される。同像は本群像中にあってどのような性格を有し て い た の で あ ろ う か。 兜 跋 毘 沙 門 天 像 の 造 像 史 を 振 り 返 り な が ら、 次にこのことについて考えていきたい。
三、兜跋毘沙門天立像
(一)日本における兜跋毘沙門天像の造像略史 四天王のうち特に多聞天を信仰することや、多聞天を独尊の毘沙 門天として造像することは、日本においては奈良時代に史料上の初 期的事例が確認され始めるが (11 ( 、本格的になるのは平安時代初期、九 世紀頃からである。唐代の毘沙門天信仰の隆盛をうけ、入唐八家が 毘沙門天関係儀軌を請来して日本にも拡大していったと考えられて いる (11 ( 。 日 本 に お い て、 毘 沙 門 天 の 足 を 地 天 が 受 け、 そ の 両 側 に 尼 藍 婆・ 毘藍婆の二鬼が備わる、という形の毘沙門天像が現れたのは、この 時期とさほど隔たらない。いま一般に兜跋毘沙門天像と呼ばれるこ の一群の作例については豊富な研究史があり、そこでは「兜跋」の 意 味 と は 何 か (11 ( 、 あ る い は こ う し た 毘 沙 門 天 像 を「 兜 跋 毘 沙 門 天 像 」 と総称するのは適切かどうか (11 ( 、という根本的な議論も行われている が、これについては本稿ではひとまず措きたい。日本においては遅 くとも平安時代末期頃から、毘沙門天の足下を地天が支えるという 共通の特徴をもって、その像を「屠半」 「都抜」 「兜抜」などの語を 使いながら通常とは別の毘沙門天像と認識していたようである (1( ( 。 こうした地天上に立つ兜跋毘沙門天像は、その着衣表現から三種 に 大 別 で き る。 方 形 の 宝 冠、 金 鎖 の 外 套 状 の 甲、 海 老 籠 手 を 着 け、 大袖の衣を着けない西域風の形制の像、四天王と同一の唐風の甲を まとう像、そして両者の折衷風の像である。 周知のように、西域風の像の代表的な古例というべきは京都・東 寺の兜跋毘沙門天立像(図 (( である。同像の制作年代は、西域風 に中国的な要素も混合した甲制から九世紀半ば以降と考えられてお り (11 ( 、その頃に中国で造られたのち、入唐八家周辺によって日本へ請 来 さ れ た と 考 え ら れ て い る (11 ( 。『 東 宝 記 』 に よ れ ば、 東 寺 像 は 元 は 平広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)
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薬師如来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・兜跋毘沙門天像の宗教的性格―
安京の羅城門の楼上にあり、門が倒壊した際に東寺へ移されたとい う。同像の羅城門安置が事実か否かについては議論があるが (11 ( 、唐の 玄宗皇帝の時代、安西城の城門楼上に毘沙門天が現れ敵兵を駆逐し たという霊験譚が元にあると理解されている (11 ( 。それゆえか平安時代 後期までには著名な像と認識されたらしく、京都・清凉寺や奈良国 立博物館(興福寺旧蔵 (11 ( ( などに当時の模刻像が伝わっている。 一方、通常の四天王像と変わらないような唐風の甲をまとう作例 は大陸では確認できないとされ (11 ( 、日本において成立したようだ。独 尊像ではないが、地天と二鬼を備える唐甲制像の初期的作例に、承 和十一年(八四四 ( に開眼供養されたと近年考えられている東寺講 堂諸像 (11 ( のうち四天王像の一軀、多聞天立像(図 (( がある。同像に ついてはかつて後補部分が多いと考えられたこともあったが (11 ( 、近時 行われた修理によれば表面仕上げは後補であるものの彫刻面は概ね 健全であるという (11 ( 。 同 像 の 形 姿 に つ い て は、 『 東 宝 記 』 講 堂 条 の 多 聞 天 像 に つ い て の 註に、 「此天形像、依大師請来般若輪三蔵儀軌被造立歟。 」と、空海 請来の『摩訶吠室囉末那野提婆喝囉闍陀羅尼儀軌』に依るかとされ て い る。 同 儀 軌「 画 像 品 第 一 」 で は、 吠 室 囉 末 那 野 提 婆( 多 聞 天 ( の画像について、 「其の脚の下に三夜叉鬼を踏む、 中央を地天と名け、 亦歓喜天とも名く、左辺を尼藍婆と名け、右辺を毘藍婆と名く (1( ( 」と ある。東寺講堂四天王立像の姿は『陀羅尼集経』が基本にあるとさ れるが (11 ( 、多聞天立像には請来経典などの新知識をもとに、足元へ地 天・二鬼が部分的に導入されたとみられている (11 ( 。 唐甲制像で平安時代前期の古例としては、他に九世紀の作と考え られている福岡・観世音寺像(図 (( や、十世紀の中で諸説ある岩 手・成島毘沙門堂像がある。両像の造像事情については直接的に示 す史料が無く、定説をみていないが、関係する可能性のあるものと して研究史上で注目されてきたのが、比叡山文殊堂に安置されてい たという二軀の兜跋毘沙門天像である。 文 殊 堂 像 は 現 存 し な い が、 『 叡 岳 要 記 』、 『 山 門 堂 舎 記 』、 『 九 院 仏 閣抄』などによると、 同堂には屠半(兜跋 ( の毘沙門天立像が二軀、 安置されていた (11 ( 。一軀は身が細く、根本中堂の薬師如来像と同じく 虚空蔵尾の倒木から最澄自ら造像したと伝える像。もう一つは身が 太く、延暦寺俗別当をつとめた伴国道が発願・造立、ないし行基作 で国道の家に伝わったのを比叡山に安置したと伝える像である。後 者 は『 九 院 仏 閣 抄 』 に よ れ ば「 大 ア ラ メ ノ 鎧 」( 大 荒 目 の 鎧。 幅 の 広い札に幅広の緒で粗くおどした鎧 ( をまとっていたという。 この文殊堂像の姿を伝えるのが、仁和寺本『別尊雑記』に収録さ れた毘沙門天図像の一つである(図 ((。本図像は唐風の甲を着け、 上半身には大袖衣、下半身には裙をまとい、左足を下げて地天上に 坐る毘沙門天であり、傍らに「叡山前唐院毘沙門之像/又文殊堂毘 沙門此様立像」と注記がある。美 術 史 学 第四十二号 本図像は兜跋毘沙門天の研究で古くから注目されてきたが (11 ( 、特に 久野健氏は、唐風の甲制や本体と地天の服制などから本図像と成島 毘沙門堂像との類似に注目し、雄大な体軀を有する成島毘沙門堂像 は比叡山文殊堂の「身太」の像の像容に相当するのではないかと指 摘 し た (11 ( 。 ま た 松 浦 正 昭 氏 は、 『 別 尊 雑 記 』 所 収 図 像 と 観 世 音 寺 像 の 類似を指摘した。すなわち地天の手の構えのほか、地天の背後から 様子を窺うように半身をのぞかせた左右二鬼の姿も同じであること を 指 摘 し、 観 世 音 寺 像 は、 『 別 尊 雑 記 』 所 収 図 像 の「 此 様 立 像 」 と される比叡山文殊堂像(身太の像 ( の形状と一致することを指摘し たのである (11 ( 。 このように先行研究においては、観世音寺像や成島毘沙門堂像の ような唐甲制の兜跋毘沙門天像の祖型として比叡山文殊堂像が想定 され、さらに各地の唐甲制兜跋毘沙門天像の造像背景にも当地への 天台の教線拡大が想定される傾向になっていった。ただ、文殊堂の 二軀のうちどちらが(あるいはどちらもが ( 唐甲制だったかは、 『別 尊雑記』からは断定し得ない。また近年になり、平安時代末期に描 かれた『別尊雑記』の図像が、前唐院像の実際をどの程度正確に反 映 し て い る か を 疑 問 視 す る 見 解 も 提 示 さ れ (11 ( 、『 別 尊 雑 記 』 を 頼 り に し て 唐 甲 制 兜 跋 毘 沙 門 天 立 像 の 祖 型 を 直 ち に 比 叡 山 に 求 め る こ と は、以前に比して難しくなっている。 不明な点も多いが、唐甲制兜跋毘沙門天像は、以上のように九世 紀から天台 ・ 真言周辺でその造像が本格化されたようである。他に、 大袖衣を着けないなど折衷風の服制を示す例として滋賀・石山寺像 があり、十世紀頃の作例には、兵庫・達身寺の一部の像や、直立す る姿勢が特徴的な和歌山・道成寺像などがある。十一世紀以降は唐 風 あ る い は 折 衷 風 の 像 が、 東 北、 九 州、 近 畿 の ほ か、 関 東、 若 狭、 山陰、山陽地方など各地で広く造像された。 (二)善根寺像の位置づけ 過去の拙稿で紹介した通り、善根寺像は同寺の四天王立像と像高 や作風が近似し、共に九世紀後半から十世紀前半頃、同じ環境のも とで造像されたと考えられる (11 ( 。ここで補足として、善根寺像の位置 づけに関わるいくつかの点を挙げておきたい。 まず本体の姿勢についてである。やや左斜めを向き、四天王と同 じ く 腰 を 大 き く 捻 っ て 片 足 を 踏 み 出 す 躍 動 感 に 大 き な 特 徴 が あ る。 一般に、十一世紀以降の地方の兜跋毘沙門天立像は腰を捻らずに直 立する作例が多いが、本像はこうした例と一線を画するといえ、む し ろ 初 期 作 例 で あ る 観 世 音 寺 像 の 動 感 に あ ふ れ る 姿 勢 に こ そ 通 ず る。腰を大きく捻る点は成島毘沙門堂像とも共通する。 また頭部にも注目したい。現状では頭頂部が水平に切断され、そ こに後補の天冠台と方形の冠が乗っている。これは後世に東寺像な どを通じて、兜跋毘沙門天は頭頂に方形の冠を被るべきものとの認
広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)
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薬師如来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・兜跋毘沙門天像の宗教的性格―
識が広まったため、そのように修正されたのであろう。裏を返せば 本 像 の 頭 頂 部 は、 元 々 は 方 形 の 冠 を 本 体 と 共 木 か ら 彫 出 し て い な かった可能性が考えられ、であれば本来は、観世音寺像や成島毘沙 門堂像のように髻を彫出していたのではなかろうか。そして、方形 の冠は着けなかったか、別材製のものを戴いていたのであろう。 体部の甲制は唐風のもので、細部まで善根寺の四天王立像とほぼ 同じである。両肩から先は全て後補であり、当初の両袖の形状は不 明である。 地天の形制にも注目したい。平安時代の兜跋毘沙門天像の地天の 形状は同時代の女神像のそれと通じ、時代が降るにつれて女神像の 形状が変化するのに伴ってか、地天も平安時代後期には髪を中央で 振り分ける和装の形制に近づいたり (11 ( 、面部や着衣の細部表現を大き く省略する傾向がみられる (1( ( 。しかしながら本像の地天像にはそうし た傾向はあまり見られない。特に頭頂に団子状の単髻を結う点は唐 風の形制を反映していると思われ、この特徴は後世の作にも認めら れることがあるものの、 観世音寺像などの古例に通ずる特徴である。 過去の拙稿で言及したことに加え、以上のような点からも、本像 は平安時代前期の作であり、観世音寺像や成島毘沙門堂像など唐甲 制像の初期作例に連なるものとして位置づけることができる。 さて、地天を備えることを除けば、本像の姿は善根寺の四天王立 像と変わらない。しかし本像は四天王像とは別に、あえて独尊の毘 沙門天像として同時に造像された。つまり本像には、一具の像とし ての四天王像とは異なる役割が期待されたと考えられる。では、そ の役割にはどのようなものが想定されるであろうか。 (三)仏道修行者の守護神としての毘沙門天 一般に、毘沙門天像には護国的、とりわけ国境などの境界を守護 する性格が期待されていたと考えられることが多い。確かに『毘沙 門天王経』など、不空(七〇五~七七四 ( 訳の(ないし不空訳に仮 託された ( 毘沙門天関係経典・儀軌には毘沙門天の護国的性格がた びたび説かれている。ただ、中国で毘沙門天に護国的性格が強く期 待されるようになったのは安史の乱(七五五~七六三 ( 以降との指 摘があり (11 ( 、必ずしも毘沙門天の本来的な性格とは言えないようであ る。 むしろより本質的と思われるのは、仏道修行者を守護するという 性 格 だ。 橋 本 章 彦 氏 は『 大 蔵 経 』 史 伝 部 の 説 話 や『 法 華 験 記 』『 今 昔物語集』その他の毘沙門天関連説話を通覧したうえで、この性格 が中国、ひいては日本において、時代を通じて毘沙門天に最も期待 されたものだと指摘した (11 ( 。 日本の兜跋毘沙門天像の初期作例にも、 こうした性格を認めうる。 例えば比叡山文殊堂に安置されていた二軀のうち伴国道寄進の像は 「 鎮 護 国 家 霊 仏 」( 『 九 院 仏 閣 抄 』 他 ( と さ れ る こ と も あ る が、 最 澄美 術 史 学 第四十二号 自刻像にはむしろ修行者が帰依する対象としての性格を読み取るこ とが可能であろう。また、東寺講堂四天王立像のうち多聞天に地天 を備える新渡の図像が採用されたのは、空海の毘沙門天信仰を反映 してのことだという指摘がある (11 ( 。 毘沙門天のこうした性格を説く経典として、 橋本氏は『最勝王経』 と『法華経』を挙げている。両経は周知の通り古代日本で重視され ただけでなく、これから述べるように毘沙門天の中でも兜跋毘沙門 天とより深く関わるとみられるため、本稿でも改めて注目したい。 まず 『最勝王経』 を確認したい。同経の 「四天王護国品」 では 「国 分 寺 建 立 の 詔 」 に も 引 用 さ れ て い る 通 り、 『 最 勝 王 経 』 を 流 布 す る 者 を 四 天 王 が 擁 護 す べ き こ と が 説 か れ る。 経 説 で は こ れ に 続 け て、 代表して多聞天が座から立ち上がり、自身が有する陀羅尼法につい て述べてゆく。それは、受持する者を「我常に擁護して彼の衆生を し て 苦 を 離 れ 楽 を 得 て、 能 く 福 智 二 種 の 資 糧 を 成 ぜ し め ん (11 ( 。」 も の だという。この陀羅尼法を語る中で、多聞天の王子である禅膩師と のやりとりを通じ、三宝を供養しようとする僧が多聞天に対して供 養のための財物の施与を願い、所願の財物を得られるさまが述べら れる。 時に薜室囉末拏(本稿筆者注、多聞天 ( 王子あり、其の名を 禅膩師と名く、童子形を現じ来たりて其の所に至り、問うて言 く、 「何故に我が父を喚ぶことを須うるや」 と。即ち報えて言く、 「 我 供 養 三 宝 の 事 の た め に 財 物 を 須 う、 願 わ く ば 当 に 施 与 す べ し 」 と。 時 に 禅 膩 師、 是 の 語 を 聞 き 已 り、 即 ち 父 の 所 に 還 り、 其 の 父 に 白 し て 言 く、 「 今 善 人 あ り。 至 誠 心 を 発 し、 三 宝 を 供 養するも財物少乏をもて斯の請召を為す」と。其の父答えて曰 く、 「汝速やかに去りて、日日彼に一百迦利沙波拏を与うべし」 と。其の持呪の者、 是の相を見已りて、 事の成るを得るを知り、 当に須らく独り浄室に処し、香を焼きて臥し、床辺に於て一香 篋を置くべし。天暁に至る毎に、其の篋中を観て、求むる所の 物を得よ。物を得る時毎に、当に日に即ち須らく三宝に香花飲 食を供養し、兼て貧乏に施し、皆罄尽せしむべし。停留するこ とを得ざれ。諸の有情に於て慈悲の念を起し、瞋誑諂害の心を 生ずること勿れ。若し瞋を起さば即ち神験を失せん。常に心を 護るべし。瞋恚せしむること勿れ (11 ( 。 この箇所は一見、人々に財物を施与する福神としての毘沙門天の 性格を述べているようにみえる。しかし橋本氏は、ここで毘沙門天 の示す現世利益の機能が、あくまでも仏道修行を完遂するためとい う条件のもとで実現するとされている点を指摘した (11 ( 。毘沙門天が財 物を施与するのは修行者の行いを助けるためであり、それこそが毘 沙門天のより本質的な性格だと考えられる。
広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)
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薬師如来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・兜跋毘沙門天像の宗教的性格―
さて同品ではこの後、持呪の際の具体的な作画法、それに国王の 擁護や国土の安穏など『最勝王経』の功徳が改めて明らかにされて いき、最後に四天王が仏に対して、この経の説法者を擁護 ・ 助衛し、 忘れさせず、陀羅尼の法門を与えて具足させること、また衆生のた めにこの経を広宣流布することを誓う。 世尊、我等四王、各五百の薬叉の眷属あり。常に当に処処に是 の 経、 及 び 説 法 の 師 を 擁 護 し、 智 光 明 を 以 て 助 衛 を 為 す べ し。 此の経の所有句義において忘失の処あらば、我皆彼をして憶念 して忘れざらしめ、并に陀羅尼殊勝の法門を与えて、具足する ことを得しめん。復た此の最勝経王所在の処をして、諸の衆生 のために、広宣流布して速やかに隠没せざらしめん (11 ( 。 このように「四天王護国品」の末尾にまとめられた四天王の性格 は、説法者を擁護し同経の広宣流布に努めることである。そして同 品では、こうした性格を持つ四天王の代表として、陀羅尼法を持つ 多聞天が位置づけられているのである。 さ て、 『 最 勝 王 経 』 に 関 し て も う 一 つ 注 目 し た い の が、 兜 跋 毘 沙 門天の足下を支える地天と、同経「堅牢地神品」にある堅牢地神と の 類 似 で あ る。 同 品 で 繰 り 返 し 述 べ ら れ る 堅 牢 地 神 の 姿 や 性 格 は、 本身を隠して地下から『最勝王経』の説法者の足下を戴き擁護する というもので (11 ( 、同神が女神であることは同じく『最勝王経』の「王 法正論品」に明記されている (11 ( 。こうした堅牢地神の姿が、兜跋毘沙 門天の足下の地天の姿に一致することは先行研究でたびたび指摘さ れており、特に松本榮一氏は、毘沙門天の足下に堅牢地神のような 地天がいるということは毘沙門天が『最勝王経』の擁護者として認 識されていたことを示すと指摘した (1( ( 。ちなみに「王法正論品」での 堅牢地神は、人王が国を治めるために必要な「王法正論」を釈迦か ら聞き出す役割を担っている。 以上のように、堅牢地神に通ずる姿をもつ地天もまた、仏法の広 宣や説法者の擁護にかかわる性格を有していた可能性が高い。そし て そ の よ う な 地 天 を 備 え る 兜 跋 毘 沙 門 天 こ そ、 『 最 勝 王 経 』 の 内 容 を色濃く反映している可能性が認められよう (11 ( 。 次に『法華経』を確認したい。同経「陀羅尼品」では、まず薬王 菩薩、 次に勇施菩薩が『法華経』説法者を護るために陀羅尼を説く。 毘沙門天はその次にあらわれ、仏に「世尊よ、われも亦、衆生を愍 念み、この法師を擁護らんがための故に、この陀羅尼を説かん」と 言 っ て 陀 羅 尼 を 説 く。 そ し て、 「 世 尊 よ、 こ の 神 呪 を 以 っ て 法 師 を 擁護らん。われも亦、自ら当にこの経を持たん者を擁護りて、百由 旬の内に諸の衰患なからしむべし」と、この陀羅尼により法師を擁 護し、百由旬内に患いを無くすであろうと誓願している (11 ( 。 そして「陀羅尼品」もまた、兜跋毘沙門天と深く関わる可能性が美 術 史 学 第四十二号 ある。同品では毘沙門天に続けて持国天、さらに十羅刹女も『法華 経』持経者を擁護するために陀羅尼を説くのだが、その第一の羅刹 女の名が藍婆、第二が毘藍婆という。先学が指摘するように、兜跋 毘沙門天の足下の地天に付属する尼藍婆、毘藍婆はこれを典拠にし ているとみられる (11 ( 。 以上のことから、毘沙門天像の中でも地天を備える兜跋毘沙門天 像こそ『最勝王経』や『法華経』にある仏道修行者・説法者の守護 という性格を色濃く反映している可能性があり、そして本節の冒頭 で示したように、 その性格は日本における信仰の初期にも認めうる。 国域や国境の守護という性格は、おそらくは東寺像の羅城門安置伝 承などを通じて、その上に加えられていったものとみるべきであろ う。この検討をふまえ、改めて善根寺像の性格を考えたい。 (四)善根寺像の性格と古代日本の唐甲制兜跋毘沙門天像 善根寺は安芸と備後の国境近くに所在するため、善根寺像に国境 守護の性格を想定することも可能ではあるだろう。だが、平安時代 前期にこの国境がとりわけ重視されたような歴史的事実は見出し難 い。 また、善根寺諸像とその原所在寺院にも国境守護の性格は見出し 難い。過去に検討した通り、諸像の原所在寺院では薬師如来の利益 が 在 地 有 力 者 の み な ら ず 地 域 の 人 々 へ も 廻 向 さ れ る こ と が 期 待 さ れ、僧形坐像はそこでの僧たちの行いの規範を示す役割を有してい たとみられる。つまり諸像の原所在寺院は、在俗の人であれ僧であ れ、 多 く の 人 々 の 参 集 を 前 提 と し て 利 益 の 享 受 を 願 う 寺 院 だ っ た。 諸像や原所在寺院のこうした性格を前提として考えるならば、善根 寺の兜跋毘沙門天立像に期待された性格は、そこに集う多くの仏教 者たちの擁護と、それを通じた仏法の広宣にこそあったとみるべき であろう。 かつて指摘したように、古代の善根寺周辺は、陸・水の主要交通 路が通る要衝でもあった (11 ( 。国境近くであるだけでなく、そこが人々 の往来の多い要衝として発展したことに、諸像の安置場所としての 意味があったと考えたい。このような性格の場所においてこそ、兜 跋毘沙門天ほか諸像に対して、人々の参集を前提とした機能が期待 されうるからだ (11 ( 。善根寺像は、平安時代前期に遡る兜跋毘沙門天像 として、現時点では広島県下における唯一の存在とされる。このこ とはすなわち、善根寺諸像の原所在寺院が、平安時代前期における 当地方の主要な布教拠点でもあったことを示すと考えられよう。 さて、善根寺像の性格を以上のように考えたとき、他の唐甲制兜 跋 毘 沙 門 天 像 に つ い て は ど の よ う に 考 え ら れ る だ ろ う か。 今 一 度、 主要な現存作例に目を向けてみたい。 観世音寺像は江戸時代になって初めて同寺での伝来が確かめられ るため、当初の安置場所や中世以前の伝来は不明である。しかし観
広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)
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薬師如来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・兜跋毘沙門天像の宗教的性格―
世音寺像を模したとみられる平安時代の多聞天立像が九州地方に所 在することが報告されており (11 ( 、したがって同像は元来、九州地方に おける象徴的な像だったのであろう。原所在地については、天満宮 安楽寺で天暦元年(九四七 ( に造立安置された毘沙門天像を関連付 ける見解や (11 ( 、大宰府の北東に聳える竃門山(宝満山 ( などを想定す る説があるが (11 ( 、明確な結論をみていない。 成島毘沙門堂は、征夷大将軍として中央政権の東北進出にあたっ た坂上田村麻呂(七五八~八一一 ( が造営し、鎮守府が置かれた胆 沢城の約二〇㎞北に所在する。そのため成島毘沙門堂像の性格につ いては、田村麻呂が後に毘沙門天の化身として英雄視されたことと 関連付ける説がある (11 ( 。あるいは蝦夷の鎮圧や、四天王の中での多聞 天の性格である北方鎮護という性格が想定されることも多い (1( ( 。しか し 神 田 雅 章 氏 は、 当 時 の 陸 奥 は 北 国 で は な く 東 国 に あ た る こ と や、 蝦夷反乱の記事が既に見られなくなっていることなどから、そうし た説に疑問を呈している (11 ( 。 以上のように、 両像の造像事情はいまだ詳らかでない部分が多い。 国境守護や外敵調伏のような直接的な護国的機能は、特に成島毘沙 門堂像に対しては想定しにくいのかもしれない。だが、平安時代前 期に大宰府と胆沢城の北、つまり中央政権にとって東西の支配拠点 それぞれに象徴的な兜跋毘沙門天像が安置されたことには、明確な 意味があったと想定するべきであろう。であるならば、今ここで両 像の性格を詳細に論ずる余裕はないものの、両像にも善根寺像と同 様に『最勝王経』の多聞天の性格を想起し、両像に期待された役割 として、中央政権にとっての国家仏教の広宣や教化と、その前線に いる仏教者たちの擁護があったとみることも可能だろう。これは広 義の護国的性格といえるかもしれない。特に大宰府が外交だけでな く西海道の行政拠点であり、観世音寺にもまた、天平宝字五年(七 六一 ( の戒壇設置により西海道における国家仏教護持の拠点として の役割が新たに付与されたことは (11 ( 、当地に安置された兜跋毘沙門天 像の性格を考える上でも注目される。また、おおよそ九世紀頃を境 として、中央政権の対蝦夷政策が武力による征討から移民による同 化政策に変化していくことも (11 ( 、陸奥に安置された兜跋毘沙門天の機 能に、国家仏教に基づく教化やそれを担う者の擁護を想定する一つ の根拠となり得よう。 十世紀から平安時代の終わりにかけて、兜跋毘沙門天像の造像は 各地で盛んに行われ、唐甲制像のほか、東寺像への理解が広まった ためか多彩な折衷様の像も造像された。こうした作例に対し、一律 に護国的な性格を想定するのは難しい。国家守護より規模を縮小し た地域守護や、仏道修行者の擁護といった性格を適宜想定すること によって、作例に応じた穏当な解釈が可能となるだろう (11 ( 。そして平 安時代の終わりとともに兜跋毘沙門天像はほとんど造像されなくな る が、 そ れ は こ の 時 期、 『 最 勝 王 経 』 な ど を 思 想 的 基 盤 と し た 旧 来美 術 史 学 第四十二号 の仏教や、それを担う仏教者の擁護という役割への期待が、在地社 会においてついに消失したことを暗示しているのかもしれない。
おわりに―善根寺諸像の特質
未だ残した問題は多いものの、以上により、善根寺諸像の主尊で ある薬師如来坐像と、それを囲む主要尊像の性格について取り敢え ずは論じ終えた。ここで改めて、善根寺諸像にはいかなる特質が認 められるかを考え、現時点における一応の結論としたい。 平安時代前期当時、薬師如来は、悔過儀礼を通じて災厄を除く利 益をもたらす尊格として、平安京のみならず各地の在地仏教におい ても最も信仰を集め、在地寺院では多くの人々の参集が期待されて いた。そうした礼拝者の行いを観察し、違犯した者を懲罰する役割 を持つ梵釈四天王や、 薬師と同じく悔過儀礼の本尊である吉祥天は、 平 安 時 代 前 期 に 至 っ て も な お、 『 最 勝 王 経 』 に 基 づ き 崇 敬 さ れ た 尊 格であった。聖僧像は僧たちの行いの規範としての性格を持ち、し か も 善 根 寺 の 僧 形 坐 像 は、 当 時 の 公 的 な 薬 師 信 仰 を 形 作 っ た 高 僧・ 善珠の姿が投影されていた。そして兜跋毘沙門天立像には、参集す る人々の仏道修行を擁護する役割が期待されたと考えられる。総じ て善根寺の主要尊像の構成は、当時の平安京を中心に展開した正統 的な仏教を、教義に対して忠実に導入して成立し、かつ、それら各 像の機能は薬師如来を中心として連関するものであったと考えられ よう。 ところで、ここで一つ問題となるのは、兜跋毘沙門天像が基本的 に天台・真言において造像された尊格とみられる一方、善根寺には 法 相 宗 の 僧・ 善 珠 の 姿 が 反 映 し た 僧 形 坐 像 も 共 に あ る と い う 点 だ。 特に法相と天台は平安時代に激しく対立した時期のあったことが知 られている。両宗にまつわる尊像が共存することを、どのように解 釈すれば良いのであろうか。 平安時代前期の地方寺院を考える上で重要な観点の一つは、その 地方寺院を運営する僧の宗派が一つに限定されないという点だ。西 口順子氏は、伊勢国の在地有力者である飯高氏が建立した近長谷寺 の 資 財 帳( 天 暦 七 年〔 九 五 三 〕( を 取 り 上 げ、 そ こ で 同 寺 の 座 主 が 東大寺僧泰俊、別当が延暦寺僧聖増とされることに着目し、元来地 方寺院にあって僧侶は一つの宗派に限定されないものであったと指 摘した (11 ( 。地方寺院の運営に関わる僧は、その土地の在地有力者層か ら出た者、あるいは在地有力者が屈請した僧やその門弟であったこ とは度々指摘がある (11 ( 。つまり地方寺院において、運営に関わる僧が 選択されるのに際して大きな要素となったのは檀越たる在地有力者 との関係であり、必ずしも宗派ではなかったとみられる。地方寺院 の宗派が一つに限定される現象が、大寺院による別院・末寺の形成 と軌を一にするとすれば、初期的事例は九世紀にあるとはいえ、全広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)
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薬師如来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・兜跋毘沙門天像の宗教的性格―
国的に広がりをみせるのは院政期以降とみるべきであろう (11 ( 。 つまり平安時代前期の地方では、異なる宗派で崇敬されていた尊 像が一つの寺院に共存する余地があった。そのような地方寺院にお いて、中央の仏教のうちどの部分を導入するかという点は、それぞ れの在地社会の状況、具体的には在地有力者と彼らに屈請された僧 の学識に大きく影響されたと考えられる。 各地に薬師如来を主尊とした群像があるものの、 尊像構成や規模、 作 風 に 緩 や か な 差 異 が あ る こ と は こ れ ま で に 論 じ た。 こ の 点 こ そ、 当 時 の 地 方 仏 教 が 中 央 か ら 地 方 へ の 画 一 的 伝 播 に よ る も の で は な く、中央仏教の導入の主体があくまでも地方にあったことを示すと 考えられる。それぞれの在地社会の状況に応じた祈願内容と、祈願 の主体者であった在地有力者の積極性、その要請に応じた僧の学識 を主な要因として、各地の作例に地域差が現れているのだろう。 であるならば、薬師如来坐像に加えて梵釈四天王の六尊像を欠く ことなく備え、当時公的に崇敬された吉祥天立像や聖僧坐像、兜跋 毘 沙 門 天 立 像、 そ の 他 特 色 あ る 像 に よ り 構 成 さ れ る 善 根 寺 諸 像 は、 在地社会のために当時の正統的な仏教を積極的に導入しただけでな く、薬師如来を中心として相互に補完しながら機能するように宗派 を亘って幅広く尊格を導入した、稀有な大規模群像であると意味付 けられよう。このように理解することにより、同諸像の原所在寺院 が当時の重要地帯であった瀬戸内海沿岸地域 (11 ( における在地仏教の中 心的存在であり、同諸像は、像の数や出来映えだけでなく、込めら れた宗教的意味において、この時代に独自の展開をみせた地方造像 の一つの結晶であるとみなされるのである。これこそが、善根寺諸 像の特質であると結論したい。 ところで以上のように考えたとき、平安時代前期、九・十世紀と いう時代において、地方寺院では、まず寺院や仏像の発願者、寺院 運 営 の 実 際 を 担 っ た 僧、 そ し て 個 性 的 な 作 例 を 制 作 し た 仏 師 ま で (11 ( 、 造寺造仏の主体があくまでも地方の側にあったという状況が見えて くる。こうした状況は、都を中心として各地に統一的な護国仏教体 制が構築された奈良時代とも、都の大寺院が地方の末寺を経営する に伴い定朝様のような穏やかな様式が各地へ画一的にもたらされた 平安時代後期とも違う。善根寺諸像や各地の類例は、日本彫刻史上 に稀な、いわば「地方仏の時代」が存在したのではないか、という 視座を、あらためて私たちに与えてくれるだろう。 【注】 ( 1( 主なものは次の通り。 ・ 濱 田 恒 志「 広 島・ 善 根 寺 収 蔵 庫 の 諸 像 に つ い て 」、 『 美 術 史 学 』 第三十五号、二〇一四年 ・ 三原市教育委員会文化課編『三原の仏像』 、三原市教育委員会、 二〇一四年 ・ 濱田恒志「広島・善根寺収蔵庫の諸像について( 二( ―薬師如美 術 史 学 第四十二号 来坐像を中心とした群像と平安時代前期の地域社会―」 、『美術 史学』第三十八号、二〇一七年 ・ 濱田恒志「広島・善根寺収蔵庫の木造僧形坐像をめぐって―用 材 の 節 と 善 珠 の 面 影 ―」 、 肥 田 路 美 編『 古 代 文 学 と 隣 接 諸 学 六 古代寺院の芸術世界』 、竹林舎、二〇一九年 ( 2( 長岡龍作「楽法寺蔵 観音菩薩立像 妙法寺蔵 伝阿弥陀如来坐 像 ・ 伝観音菩薩立像 ・ 伝虚空蔵菩薩立像」 、『国華』第一三二六号、 二〇〇六年、四十~四十一頁。 ( (( 西木政統 「岩手 ・ 黒石寺薬師如来坐像と像内銘記」 、『MUSEUM』 第六五九号、二〇一五年、十四・十九~二十頁。 ( (( 『東大寺諷誦文稿』八十~一一一行。 ( (( 『 東 大 寺 諷 誦 文 稿 』 に 当 時 が 像 法 に あ た る と い う 理 解 が 記 さ れ て いることから、こうした理解は地方へも伝わっていた可能性が高 い。 濱田恒志 「西極仏像論―島根に遺る平安時代彫刻の一側面―」 、 島根県立古代出雲歴史博物館編 『島根の仏像―平安時代のほとけ ・ 人・祈り―』図録、同館、二〇一七年、一三四頁。 ( (( 名畑崇「善珠について」 、『大谷学報』五十二巻四号、 一九七三年、 八十三頁。 ( (( 薬 師 寺 像 と 東 寺 像 の 像 容 の 類 似 に つ い て は、 『 図 像 抄 』 に「 揚 右 手垂左手。 是東寺金堂并南京薬師寺像也。 但以左足押右 坐像也」 (『 大 正 図 像 』 三 ― 六 c ( と の 記 載 が あ る。 薬 師 寺 像 の 平 城 京 に おける護国的性格については、中野聰「薬師寺金堂薬師三尊像の 機 能 と 霊 験 」、 肥 田 路 美 編『 古 代 文 学 と 隣 接 諸 学 六 古 代 寺 院 の 芸 術 世 界 』、 竹 林 舎、 二 〇 一 九 年 で 論 じ ら れ て い る。 ま た、 薬 師寺では天長七年(八三〇 ( に『金光明最勝王経』の講会である 最勝会が創始されたり( 『類従三代格』巻二、経論并法会請僧事、 天 長 七 年 九 月 十 四 日 付 太 政 官 符 (、 天 武 所 縁 の 同 寺 が 桓 武 の 皇 統 である天智との関わりを強調する傾向を示す (前掲太政官符や 『今 昔 物 語 集 』( な ど、 平 安 時 代 初 期 に 薬 師 寺 自 体 が 護 国 的 性 格 を 強 めていくことも指摘されている。中本由美「薬師寺最勝会の成立 に関する一考察」 、同氏『平安初期における南都仏教の展開』 、学 位(博士 ( 請求論文、龍谷大学、二〇一六年(初出は『史聚』第 四十九号、二〇一六年 ( 一六〇~一六三頁参照。このことは、こ の時期に薬師寺金堂像が改めて注目される契機になったかもしれ ない。 ( (( 永観二年(九八四 ( の『三宝絵』 「比叡懺法」など参照。 ( (( 諸国分寺ないし諸国で除災のための薬師悔過が行われたことにつ い て は、 『 続 日 本 後 紀 』 の 天 長 十 年( 八 三 三 ( 六 月 八 日 条 や 承 和 元年(八三四 ( 四月六日条、同四年(八三七 ( 六月二十一日条な どに記されている。また承和四年 (八三七 ( 四月二十五日条では、 僧綱の奏上の中で、頻発する災異への対応として薬師悔過を行っ て国家の恩に報いたい、という意が述べられ、薬師悔過の護国的 側面が示されている。 ( 10( 山口英男「十世紀の国郡行政機構―在庁官人制成立の歴史的前提 ―」 、『史学雑誌』第一〇〇編第九号、一九九一年、磐下徹「郡司 任 用 制 度 の 考 察 ― 郡 司・ 郡 司 層 と 天 皇 ―」 、 同 氏『 日 本 古 代 の 郡 司 と 天 皇 』、 吉 川 弘 文 館、 二 〇 一 六 年( 初 出 は 二 〇 一 三 年 ( な ど 参照。 ( 11( 鈴木景二「都鄙間交通と在地秩序―奈良・平安初期の仏教を素材 として―」 、『日本史研究』第三七九号、一九九四年、四十五頁な どに指摘がある。 ( 12( 前掲注 1拙稿「広島・善根寺収蔵庫の諸像について」の注 1(。
広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)
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薬師如来像を囲む梵天・帝釈天・四天王・吉祥天・兜跋毘沙門天像の宗教的性格―
( 1(( 天 平 宝 字 元 年 七 月 十 二 日 条 に は、 橘 奈 良 麻 呂 ら の 謀 叛 に つ い て、 「 ま た、 盧 舎 那 如 来、 観 世 音 菩 薩、 護 法 梵 王 帝 釈 四 大 天 王 の 不 可 思議威神の力に依りてし、 此の逆に在る悪しき奴等は顕れ出でて、 悉 く 罪 に 伏 し ぬ ら し と な も、 」 と あ り、 神 護 景 雲 三 年 五 月 二 十 九 日 条 に は、 県 犬 養 姉 女 ら に よ る 厭 魅 呪 詛 に つ い て、 「 然 れ ど も、 盧舎那如来、最勝王経、観世音菩薩、護法善神梵王帝釈四大天王 の不可思議威神の力、挂けまくも畏き開闢けてより已来御宇しし 天皇の御霊、天地の神たちの護り助け奉りつる力に依りて、其等 が 穢 く 謀 り て 為 る 厭 魅 事 皆 悉 く 発 覚 れ ぬ。 」 と あ る( 読 み 下 し は 青木和夫ほか校注『新日本古典文学大系 続日本紀』三・四、岩 波書店、一九九二年・一九九五年を参考にした (。 ( 1(( 長岡龍作「悔過と仏像」 、『鹿園雑集』第八号、 二〇〇六年、 八頁。 ( 1(( 東大寺法華堂の梵釈四天王・金剛力士立像は、原所在堂宇には議 論があるが、長く同堂本尊不空羂索観音菩薩立像と共に安置され てきた。東大寺西大門勅額には「金光明四天王護国之寺」と刻ま れた寺名を囲む形で梵釈四天王・金剛力士立像が取り付けられて い る( 現 存 像 は 鎌 倉 時 代 の 再 興 像 (。 唐 招 提 寺 金 堂 で は 梵 釈 四 天 王立像が盧舎那仏坐像、千手観音菩薩立像、薬師如来立像の三尊 を囲む。また、宝亀十一年(七八〇 ( の『西大寺資財流記帳』に よれば、同寺薬師金堂には主尊の薬師如来坐像や種々の変化観音 菩薩像に加えて、 梵釈四天王像が安置されていたことが知られる。 竹 内 理 三 編『 寧 楽 遺 文 中 巻 』、 東 京 堂 出 版、 訂 正 版 発 行 一 九 六 二年、三九九~四〇〇頁。 ( 1(( 『 続 日 本 紀 』 神 護 景 雲 元 年 正 月 八 日 の 勅、 な ら び に、 同 年 八 月 十 六日条の神護景雲改元の詔。 ( 1(( 『 日 本 三 代 実 録 』 元 慶 元 年( 八 七 七 ( 八 月 二 十 二 日 条( 内 容 は 本 文後掲の通り ( や『続日本後紀』承和六年(八三九 ( 九月二十一 日条の「勅。如聞。所以神護景雲二年以還。令諸国国分寺。毎年 起正月八日至于十四日。奉読最勝王経。并修吉祥悔過者。為消除 不 祥。 保 安 国 家 也。 」 と い う 記 述 に よ り、 神 護 景 雲 二 年 の 太 政 官 符を機に恒例行事となったことが示唆される。吉田一彦「御斎会 の研究」 、同氏『日本古代社会と仏教』 、吉川弘文館、一九九五年 (初出は一九九三年 (、一五三頁。このほか本稿では、御斎会や国 分寺での『最勝王経』奉読・吉祥悔過について吉田氏論文から多 くを参考にした。 ( 1(( 書き下しは、 松江市史編集委員会編『松江市史 史料編三 古代 ・ 中世Ⅰ』 、松江市、二〇一三年を参考にした。 ( 1(( 濱田恒志「 『出雲国風土記』から考える古代の仏像」 、島根県立古 代出雲歴史博物館編 『出雲国風土記―語り継がれる古代の出雲―』 図録、同館、二〇一七年、六十八~六十九頁。 ( 20( 『 続 日 本 後 紀 』 承 和 六 年( 八 三 九 ( 九 月 二 十 一 日 条 の 勅 で は、 前 掲注 1(の引用部分に続けてこの法会を国分寺から国庁へ移す旨が 述べられている。なお、注 21に後掲する『延喜式』玄蕃寮には依 然 と し て『 最 勝 王 経 』 転 読 が 国 分 寺 の 儀 と さ れ て い る こ と か ら、 実際に移されたのは吉祥悔過のみだったと考えられている。前掲 注 1(吉田氏論文、一八八頁。 ( 21( 『 延 喜 式 』 玄 蕃 寮 に「 凡 そ 諸 国、 正 月 八 日 よ り 十 四 日 ま で、 部 内 諸寺の僧を国庁に請じて、吉祥悔過を修せよ〔国分寺僧は専ら最 勝 王 経 を 読 み、 こ の 法 に 預 か ら ざ れ 〕。 」 と あ る。 〔 〕 内 は 注。 引 用 は、 虎 尾 俊 哉 編『 訳 注 日 本 史 料 延 喜 式 中 』、 集 英 社、 二 〇〇七年、六七一頁による。 ( 22( 前掲注 1(吉田氏論文、一九〇頁に指摘がある。美 術 史 学 第四十二号 ( 2(( 『 本 願 功 徳 経 』 で は 同 経 の 供 養 者 を 四 天 王 と そ の 眷 属 お よ び 天 衆 が守護すると説かれ( 『大正蔵』十四―四〇六b~c (、また『七 仏薬師経』では、執金剛菩薩ならびに梵釈四天王が擁護すると説 か れ る( 同 十 四 ― 四 一 七 b (。 四 天 王 以 外 の「 天 衆 」 を 詳 ら か に しない『本願功徳経』は、善根寺の七尊の典拠とするには不十分 であり、また、擁護者の筆頭である執金剛菩薩に相当する尊像が 見当たらないため『七仏薬師経』に根拠を求めるのも難しい。加 えて吉祥天立像も備えていることを勘案すれば、 善根寺の七尊は、 前節で確認したような『最勝王経』に基づく奈良時代以来の性格 を受け継いでいた可能性が高いだろう。 ( 2(( 前掲注 2長岡氏論文、四十二~四十三頁。 ( 2(( 堀池春峰「国分寺の歴史」 、『仏教芸術』一〇三号、一九七五年な ど。 ( 2(( これについては前掲注 1拙稿「広島・善根寺収蔵庫の木造僧形坐 像をめぐって」一八八頁で言及した。 ( 2(( 天 平 勝 宝 八 年( 七 五 六 (、 光 明 皇 后 に よ っ て 東 大 寺 に 施 入 さ れ た 聖武天皇宸翰 『雑集』 所収 「鏡中釈霊実集」 の 「毘沙門天讃一首」 や、 『 続 日 本 紀 』 天 平 神 護 二 年( 七 六 六 ( 十 月 二 十 日 条 に あ る 隅 寺安置像、宝亀十一年(七八〇 ( の『西大寺資財流記帳』にある 同寺十一面堂の「金銅毘沙門天王像」など。 ( 2(( 以上の経緯は、神田雅章「城門楼上の毘沙門天について―東寺兜 跋毘沙門天立像の羅城門安置をめぐって―」 、『美術史学』第十六 号、一九九五年、四十七~四十九頁などにまとめられている。 ( 2(( 先行研究においては、発音の類似から吐蕃(チベット ( に由来す る と み る 説 が 多 い が、 こ れ に 対 し「 兜 婆 」( 塔 婆 ( つ ま り 毘 沙 門 天の持物の宝塔に由来するという説もある。以上の研究史は、田 辺 勝 美『 毘 沙 門 天 像 の 誕 生 シ ル ク ロ ー ド の 東 西 文 化 交 流 』、 吉 川 弘 文 館( 歴 史 文 化 ラ イ ブ ラ リ ー (、 一 九 九 九 年、 十 一 ~ 二 十 二 頁など参照。 ( (0( 岡田健氏は中国で毘沙門天像を称してトバツあるいはトハンとし た例はなく、少なくとも中国作品をそのように称するのは適当で はないと指摘している。岡田健「東寺毘沙門天像―羅城門安置説 と 造 立 年 代 に 関 す る 考 察 ―( 下 (」 、『 美 術 研 究 』 第 三 七 一 号、 一 九九九年、七十六頁。 ( (1( 猪 川 和 子「 地 天 に 支 え ら れ た 毘 沙 門 天 彫 像 」、 同 氏『 日 本 古 彫 刻 史論』 、講談社、一九七五年(初出は一九六三年 (、二二九~二三 一頁(なお善根寺像は同論文において、鳥形を強調した宝冠を戴 く 像 と し て 簡 単 に 紹 介 さ れ て い る (。 ま た 佐 藤 有 希 子 氏 は 書 写 山 圓教寺の『延照記』を取り上げ、十一世紀初頭には「兜抜」の名 称が用いられていたことを指摘している。佐藤有希子「京都・清 凉寺毘沙門天立像の位置―その造形と製作背景について―」 、『美 術史』第一六六冊、二〇〇九年、三〇一頁の注 (。 ( (2( 前掲注 (0岡田氏論文、七十八~八十三頁。 ( ((( 請来者についての研究史は前掲注 2(神田氏論文、五十三~五十四 頁など参照。 ( ((( 岡田氏は否定的な見解を示す一方、松浦正昭氏は肯定的な見解を 示している。岡田健「東寺毘沙門天像―羅城門安置説と造立年代 に関する考察―(上 (」 、松浦正昭「毘沙門天法の請来と羅城門安 置像」 、ともに『美術研究』第三七〇号、一九九八年。 ( ((( 『 東 宝 記 』 第 一、 仏 宝 上、 食 堂 条 の 中 で、 東 寺 像 と 関 係 し て 安 西 城の伝承が採り上げられている。藤田經世編『校刊美術史料 寺 院 篇 中 巻 』、 中 央 公 論 美 術 出 版、 一 九 七 五 年、 四 〇 〇 ~ 四 〇 一
広島・善根寺収蔵庫の諸像について(三)