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與謝野晶子の古典研究―『紫式部新考』を中心に―

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奥謝野品子の業絣は、 詩歌、 古典現代語訳、 評論など多方面に わたっているが、 一方で古典研究も手がけ、 箸述も成している。 本秘では、 品子の古典受容の様相の一沿とし て、 その業績の一っ である「紫式部新考」をとらえ、 更にロHII子にとって古典研究がど のような意義をもつものであったかについて考察を加えるもので ある 。 品子の古典研究は、 現在の研究状況から照らして見れば誤りも 散見され、 さほど重要視されてはいない。 が、「紫式部新考」は、 ・ 近 代における紫式部の伝記研究の瑶矢とされており、 他にも古典 及ぴその作者についての少なくない著述が残されてい る。 また、 歌人である品子が「源氏物栢」を現代栢訳し、紫式部の伝記研究 を試みた姿勢及びその背禁について、考察を試みたいと思う。 はじめに、紫式部についての晶子の若述の主なものを年代顛に 列記して整理し、 「源氏物語

j

現代膳訳との前後関係も示してお

「紫式部新考」について

|『紫式部新考」

を中心にー

典謝野晶子の古典研究

明治四五年・大正元年(-九ーニ ) 二月、H初訳源氏物語」(金尾文混溢)の刊行始まる。 上田敏と 森林太郎の序。飛終巻の下の二は大正二年十一月の刊。 大正五年(-九一六) 四月「紫式部の事ど も 」「紫式部と其時代」(「人及ぴ女として」 所収) 七月「紫式部考」(「新繹紫式部日記・新繹和泉式部日記 l 金尾 文淵堂) ↓後`「現代語訳国文学全集第九巻 平安朝女流日記」(昭和十 三年四月 非凡閣)に「蛸蛉日記」を加えて再録される。 但し、「紫式部考」は未収録。 大正六年(一九一七) 十月「紫式部の伝記に関する私の発見」(「愛、 理性及び勇 気』所収)

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美奈子

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大正七年(-九一八) 五月「紫式部の貞操に就て」(「若き友へ」所収) 大正生一年九月 関東大裳災で「源氏物語講義(仮題 )」の原稿 を焼失 昭和三年(-九二八) -1l一月「紫式部新考」を連載(「太陽」) 昭和十年(-九三五) 九月「紫式部ー日本女性列伝」(「婦人 公論」) ↓「晶子古典鑑貨 与謝野品子選梨• 4」( 昭和四二年四月五 日、 春秋社)に再録 昭和十三年(-九三八年 ) 十月1翌年九月、「新新訳源氏物語 J (全六巻)刊行 以上、 表題に「紫式部」または「源氏物語」とあるもののみで、 評論等で紫式部に言及しているものは、 この数ではない。先ず、 これらの著述について、 解説を加えておく。 大正五年七月の「新諜紫式部日記・新 膵和泉式部日記」に付せ られた「紫式部考」は、 同歯の「巻頭に所収。 七一頁にわたる」 (前掲「品子古典鑑貨」 「補注」)もので、「紫式部新考」の冒頭 こ 、 私は大正五年に紫式部の伝記を習いた。其 後に発見した事を 加へてここに「紫式部新考」を書く。 とあるように、「紫式部新考 j の基盤となる内容であった。 また、 大正六年の「紫式部の伝記に関する私の発見」は、 殆どの内容が 「紫式部新 考」で生かさ れている。大 正五年の「紫式部の 事ど も」「紫式部とその時代」 、 大正七年 「紫式部の貞操に就て」は伝 記的な内容を交えながら、 品子自身の見解を述べた小論である。 これらは、「紫式部考」と前後して執節されている。 そして、 雑誌「太陽 j 昭和三年一ーニ月号に掲載された「紫式 部新考」は、 それらをまとめ、 「研究」 としての体裁を整えたも ので、 式部の生涯全般にわたって 論究しており 、 晶 子の紫式部の 伝記研究の集大成であると言える。「紫式部新考 j 執筆を経て、 前著が特に訂正された箇所は無 く、 いずれもかねてより抱いてい た自説を踏嬰あるいは強調した内容になっている。昭和十年「紫 式部1日本女性列伝」には補足的な見解が見られ、 更に、 晩年に あたる昭和十三年の「新新諄源氏物語」のあとがきにおいても、 その説は 変わることはなかったようである。 次に、「紫式部新考」の内容と評価について述べたいと思う。 「紫式部新考」には、 現在でも論じられている紫式部の伝記研究 の諸問題について様々に言及されており、 年代推定も試みられて いる。 生没年、 越前下向の時期、 夫藤原宜孝との結婚など、「紫 式部新考 j のみが特異な説をとっているものもある。 が、 これら の年時には諸説あり、 定説となっているものは寧ろ少ないようで ある。 諸論を概観したものに島田良二氏「紫式部諸説一笈」(「国

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文学ー紫式部 源氏物語論への回路]昭和五七年十月 学燈社) があり、 これは品子の説も検討の対象に含めている(注1)。 後世の「源氏物語」研究者で、 品子の「紫式部新考」を高く評 価し、 紫式部の伝記研究の中に位協づけ、 さらに内容の詳細な検 討までされたのは、 岡 l 男氏である。 • 岡 氏の「源氏物語の甚礎的研究 J (昭和四一年八月二十日増訂 初版/昭和五六年五月-8増訂五版 束京堂出版)の「緒言」に ょ 、 紫式部の伝記については、 その研究の出発点となったものと して安藤為洋翁、 輿謝野品子夫人らに負ふところが多い。 とされている。 また、「晶子古典毀貨 与謝野晶子選集• 4J (前 掲)の月報、「与謝野品子選集の栞」におい ても、 和泉式部については最初の、 紫式部については安藤為章翁以 来の科学的なまた詩人的直観にうらづけられた評価を完成さ れたのであ る。 もちろん、 学問の進歩は無窮であるから、 そ の作品及び 伝記の研究は 文献学的に文芸学的に一層杓級に なって来ているが、それとともに夫人の功績がいちだんと光 卸をまして来ているのも動かすべからざる事実である。 と、 同氏は、 品子の伝記研究の業績を高く評価している。 一方で、 岡氏は品子の研究の内容についても検討、 反論を施している。 具 体的には、「紫式部集」三九香歌、「遠き所へ行きし人の亡(なり にけるを、 親はらからなど帰り来て、 悲しきこと言ひたるに/い づかたの岱路と開かば葬ねましつらはなれたる雁がゆくへを」に ついて、 品子は、 式部の父為時が「惟規の逍骨を携へて帰京し た j 時の歌として、「悲しきこ と」を「惟規の臨終の有様などで あらう」 と解釈している。 それに対して岡氏は、「この歌の詞咎 は、「遠国に行った人 がそこ で死んだのを、 その 人の栽兄弟が 揺って来て、 その悲しみを式部に憩へたので」これを彼女が慰め ての作だとの意にとれる」 とされている。同歌については、「作 者と姉妹の約束をした友達らしい」(新潮日本古典集成「紫式部 日記紫式部集」山本利達校注)、.「親友の死」(鈴木日出男「紫式 部媒全評釈」「国文学 j 昭和五七年十月)とされ、 現在では友人 の死という解釈が一般となっているようである。 もうひとつ、 これは比較的大きな問題とされている、 獨氏が呼 ばれるところの「「藤衷菜」 結末説」 がある。 これは、「藤衷業」 巻までを「源氏物語 j の「前編」、 以下「若菜上」からを「後編」 として、「後編」を式部以外の執策とする説である。 この「後編」 の執鉦者について、晶子は「古 人の云ったやうに大猷三位が母の 文勲を継いだのであらうと想像する外に其人を考へ得ない」(「ー 新考」)としている。根拠として、 人なもとのひかと 前編の主人公源 光の境遇がすぺて円満にめでた<栄華 の頂点を見せて維が結 ばれてゐる。然るに後編の作者は主 みなしとのかをる 人公 源 照を点出して前婿に類例の無い新味ある恋愛小 説を構想し、 蕉を出す為めの準伽として猶前編の主人公の後

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の生活を「若菜」から新たに書きはじめた。「若菜」上下の文章 が前稲に比ぺて遥かに冗没の跡の著しいの は、 後福の作者の苺 が其の苦き始めだけに姑く未熟なのを示してゐるのである。 と、「若菜」以降の文章の冗没さをあげているのは、「新繹源氏物 語」で原文に直接対峙した晶子らしい見解である。昭和十年九月 「婦人公論」掲載の「紫式部ー日本女性列伝」 晩年の執筵であ る「「新 新諜源氏物語 j あと がき」にも同趣旨の内容が繰り返さ ・れ、 生涯変えなかった説のようである。 岡氏が引用されているのは、「紫式部 日本女性列伝」の方だ が、 綸旨はいずれも同じものである。 岡氏の説は、 主として「源 氏物語」の物語構成と、「源氏物語」執節年代及ぴ大弐三位の年 齢の点からの反論になっている。確かに『源氏物語」では、「藤 炎薬」で源氏の栄華の絶頂が描 かれ、 物語としても―つのまとま りを示している。 あが のり 氏が太上天良に上った後のことは金色で塗りつぶしたの のち であったが、 大胆な 後の作者は衰遥に向 かっ 源氏を掛き 出した。 (「新新繹源氏物語 j あとがき) という見解も 、「後の作 者」かどうかを別にすれば、 適切な説解 である。 だが、「藤衷莱」を以て式部は掘箪 し、 更に執紐者が替 わったかどうか、 まし て大弐三位が後を継いだかどうかは確定出 来かねる問題である。少なくとも品子の論では、 決定的な給拠を 欠い.ていることは事実であろう。 反対に、 現在でも割に支持され ている品子の説は、 私は 「源氏」が最初は「帯木」の巻から苗か れ、 余程後に 至って「桐壺」が首巻として加へられたものと感じてゐる。 という部分であり、 稔拠として、「ーつは、「桐壺」の文章の整然 として一点の疵も無く且つ堂堂とした須味を持って完漿の美を示 してゐるのに比べて、 第二巻の「帝木」には渋滞した紐の跡 のあ る事が目に附く」という文章の質の違い、「品定め」の部分が 「符木」巻を「総序」とし得る、 説者の典味を引く内容であるこ と、 さらに「「桐壺」が後に加へられた為めに他の巻と矛盾を生 じた点」を晶子は言っ ている。文平の質の問題は、 やはり「詩人 的直観」によるもので、 客観性に乏しい。が、「帯木」の「矛盾 た点」については、「ー新考」では省節されているが、 年、 六条御息所に関わる年立の不備ということが「紫式部1日本 女性列伝」の方 で具体的にいわ れている。「与謝野品子選集•4」 の補注には「後年国文学者の巾でこれらをさらに発展させて「源 氏物語」全巻の構想綸に発展させて いった。特に戦後著しい」と されている。 また、「ー新考」に、 紫式部の宜孝との結婚を、 うつせみ 『源氏物語』の中の女性空蝉が老い た伊予守に従ふやうな あ&ら IJ 一植の寂しい諦めの心を以 て、 終には宣孝の真実に絆され たらしい。 と空蝉に準えているとする指摘がある。 さらに後年、「紫式部ー うつせみ 日本女性列伝」では、「私は源氏物語の中の空蝉 に、 作者の而影

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。 ろ う を認める」という滞き出し で、「紫式部集」の読解を加え て、 そ の説を発展させたものも見られる。「紫式部集」における「文」 (現在、 手紙、 恋文とされる)を式部の初期習作、「短焼小説の 鷹」と解釈するなどという誤解は含んでいるものの、 空蝉の人 物造型への自己投影の可能性として充分考えられる見解ではなか

晶子の古典研究の意義

以上見てきたように、 現在では紫式部の伝記的考証には諸説立 てられており、 品子の「研究」は` 紫式部の研究論文そのものと しては、 後人に影題は与えたものの、 既に余り注目すべき論とは いえなくなっていることは否めない。そこで 、 こ こでは品子がこ うした伝記研究に取り組んだこ と、 それ自体についての意義につ いて考えてみたい。 晶子にとっての「紫式部新考」は、 私は曽て紫式部の伝記を翡きました。今日から見ると増訂し たい所に気附いて居ますが、 大体に於て私の研究は問違って 居ないと思って居ます。 (「和泉式部新考」/「女性 j 昭和三年一ー三月号 ) とある様に、 この試みを「研究]としており、 安藤為章以来の紫 式部の伝記ということもあり、「紫式部新考」はたいへんな自信 作だったことがうかが われる。「研究」という姿勢は、「文学」に 関しては全くの独学である品子の自信を支える術の一っともな っ たと思われるが、 この自負は、 幼時からの「源氏物語」の熟読に 哀打ちされたものであった。 源氏物語は 我国の古典の中で自分が最も愛読した徘である。 正直に云へば、 この小説を味解する点に就いて自分は一家の 抜き難い自信を有っている。 (「新諜源氏物語の後に 」) 晶子 は、「この女流文豪の口づか ら「 源氏物 語」を授かった」 (「読書、 豊千、 蔵瞥」/「光る邑昭和三年七月)とも言って いる様に、 紫式部自身の著した原文から直接に E 源氏物語」を摂 取し、「新閥源氏物語」という現代語訳を 完成させている。そし てその意識は、 晶子の古典読解 に対する衿持の基盤となるもので あった。 さらに、 自分が源氏物語に対する在来の註釈本の総てに敬意を有って 居ないのは云ふまでもない。中にも湖月抄の如きは寧ろ劇剃 を誤る杜撰の戦だと思って居 る。 (「新謁源氏物語の後に」 ) 古来脈々と綴み続けられてきた「源氏物語」注釈 本、 殊にその集 成として当時最もよく用いられた「源氏物語湖月抄」さえも、 否 定しているのである。それは、 私など不学のものに候へど 式部の沓きしものを直槌に私の 感ぜしところを講義いたさむとおもひ候 式部と私との問に はあらゆる註釈書の著者もなく侯 只和副釦剥のみ私はみと め居り候

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(明治四十二年九月十八日小林天眠宛書簡/「天眠文耶蔵 輿謝野究 晶子啓簡集」昭和五八年六月七 日、 八木咎店) という意識によるものであった。 ただ、 この啓簡の中で品子は、 先学の中では、「源氏物語玉小櫛」の執箪者である本居宣長だけ は特に認めている。が、 このことは、 古注に依らないという古典 に対する基本姿勢と何ら矛府する発言ではな い。 品子は、 宜長の 祠氏物語」の解釈そのものを必ずしも全而的に臨狙していた訳 .ではないと思われる。.例えば、 源氏と藤壺の密通事件について、 物語全体の構成要素の一っとしてとらえようとする宣長の説みと、 源氏と藤壺を一庶の主人公、 女主人公として位低付けようとする 晶子の源氏観は、 相容れない 注2)。が、 晶子のとった、 古典 を説むにあたって従来の古注類に頼らぬという應度は、 実は宜長 の古典研究に対する基本姿勢でもあったのである。本居宜長の源 氏物語論のーつである「紫文要領」に、 次の様にある。 こせ・t· べて古抄の説は、 ただすこしの事をとらへどころにして、 よくも考 へず、 みだりにいへる杜撰のこと多きゆゑに、 . 考へてみればみな相違すること多し。学者その心を得て、 り・うさく だりに注釈を信ずることなかれ。 ・品子は、 独学である自己の説みの方法の実践にあたっ て、 宜長の の姿勢 に或いは学ぴ、 或いは共惑したのではないだろうか。 子の「原箸を誤る杜様の型」などという批判は、 宜長の「杜撰の こと多きゆゑに」という主張と一致する。 このような18説に因らない態度、 西科による論証、 現代語訳を 通しての「源氏物語」本文への読み を基に、 歌人としての感性へ の自負をもって樹立しようとした伝記研究への試みには一貫した ものがある。 女流たちの伝記について、 才女(紫式部、 消少納言、 赤染術門、 小野小町、 和泉式部) たちの名が世の中に知られてゐる割に、 その作物の価俯と其 人の伝記とが十分に広く知られて居ないのを逍憾に思ひます。 但し其れは理由のある事で、 どのオ女に就いても従来の伝記 は祖略な上に誤をも含んで居たのでした。 (「和泉式部新考」) と言っており、 品子の伝記執節は、 従来の伝記の不備をただす意 図を以てなされたことが解る。そし て、 沢山の「オ女」の巾で、 晶子が特に力を 入れたのが紫式部であった。 古来の日本の婦人の中で何と云っても特に大きく輝いて居る 星は、『源氏物語」の作者紫式部です。 逍憾なことには、 人の伝記が今日まで枡確でありませなんだから、 世人は紫式 部の盛名を耳にするだけで其本体を知らずに居ります。私は 此に自分の推定を述べて、 天オの伝記の輪郭だけなりとも明 かにし たいと思ひます。 (「紫式部の伝記に関する私の発見」/「愛、 理性、 及ぴ勇気」 大正六年十月二十五日) このように、 晶子が幼時より耽読した「源氏物語」の作者である

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紫式部の生涯を詳らかにしようという試みには、 単なる知的好奇 心の満足以上の強い意気込みを感じさせられる。 紫式部が少女時代から廿歳までの間に修めた教光の深さと大 きさとは、 その教炎を薪として天才の火を付けて瞥かれた 「源氏物語」が十二分に証明してゐる。其れに対して搬美の . 言 葉を尽した安藤為章の「紫家七論 j さへも猶私には云ひ足 りない気がする。 「I新考』において晶子は、 紫式部への「設美のことば」を「云 ひ足りない」としている。為章の I 紫家七論」における「オ徳兼 備」など、 僻教道徳を前提とした於辞のみでは満足せず、 自身が 「I新考 j に於いて 、さ ら に疫飼を尽くしたいという器気を惑じ る。 このように、 口皿子が式部を称秤して止まないのは何故か。 「源氏 j のやうな写実小説が、 女子の策を以て質も祉も大き な成績を示して出現したのは奇跡的事実と云はねばならない。 (「紫式部新考」) 「源氏物語」を「写実小説」というような近代的な用語で、 自身 の同時代に引き付けて考えようとする発想が感じられ、『源氏」 を「女子の紐」で成した「奇跡」としている。 品子は「新しい詩歌」の先駆者として 、女 である我が身の規範 を、 その様な「奇跡」、 ゆるぎなき価値を持つ「源氏物語」の創 造者、 紫式部に慨いた。「源氏物語」ほどの傑作を著わしたのが、 紫式部という女性だった、 という事英は、 晶子の時代にあっては、 強い精神的支えとなったことだろう。 女であるということが、 文 芸に携わる上で何ら院害にならないことを、千年も以前に証明し てくれた存在が紫式部であったからである。 美を愛づる女にしかず源氏をば男作らず法師の哲かず (拾逍昭和四年23/「キング」昭和四年二月) 日氏物語』を哲いたのは僧でも男でもな く、 女である紫式部で あった、 ということが芸術の美を奥に理解し得るのは女であると いう誇らしげな主張の根拠となっているのである。 この紫式部への強い涼崇の念から晶子は、 平安朝の女流たちを、 文芸の上のみならず同時代の女性全体の規範とするに至るのであ る。例えば晶子は、「紫式部日記」の一節を引いて、「今日の女性 も猶此忠告に耳を仮さなければなりますまい。(中略)今日と其 時代に変りは無いのです」(「平安朝の恋」/「人及ぴ女として」 大正五年四月)と、 現代に通じる 教訓として扱ったりもしている。 また、 品子は紫式部の 時代を「平 安中期の文芸復興期」(「|新 考」)と哲い、 多くのオ女を産んだ盟かな土壌としてとらえてい る 。 消少納言がどんな時代に生れて、 どんなに教育せられたかと 考へると、 又大分にわたしとは違ふ。 わたしは女子に高等教 育を授けるとか授けないとか云ってゐる明治時代に生れたが、 消少納首は女子の高等教育全盛期とも云ふべき平安朝に生れ た。 一体に貨族の女子に裔等教育を授けると云ふことは早く

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神代からの染風で、 其れが奈良朝に至って、 一防奨励せられ、 平安朝に入って益々盛になったのである 。(中略)さうして 当時の教育は今日の如く学校万能教育でもなく、 文部省令に 支配せられる乾煤した画一教育でもなく、 貨族の家庭及ぴ其 社会が 自然に高等教育の機関であった。即ち今日の様に娘は 偶まピヤノを習ってゐるが、 親兄弟は芸術が何やら一向に知 らないと云ふ如き殺風禁な家庭や社会でなく、 宗教も政治も 学問も歌舞音楽も恋愛も一切それらの物が貴族の日常に織込 まれて、 都合よく湖和せられた家庭及ぴ社会に於て教育せら れた のである。 (「消少納言の事ども」/ 「 一隅より」明治四十四年七月) 「女子の高等教育全盛期とも云 ふぺき平安朝」の教育の特色を 「宗教も政治も学問も歌舞音楽も恋愛も一切それらの物が貨族の 日常に織 込まれて、 都合よく調和せられた家庭及ぴ社会に於て教 育せられた 」として、 芸術的な側面が、平安朝の家庭や社会に具 わっており、 それが子女を感化したというので ある。 このように、 品子にとっての平安朝は、 理想郷であった。そし て、 わけても紫 式部こそが、 姫も瑚崇に 値する婦人であっ た。確かに「源氏物 語」の素哨らしさは万人が認めるものである。が、 紫式部の真価 を世間はまだ知らないのだ、 と晶子は主張する。 ママ 古今に互って其忘名な割に其真価がまだ十分日本人に領解さ れて居ないのは紫式部です。 私の観察では` 此人だけの自己 充実と自己表現とを完成した妍人は我国に類例がありません。 世人は単に女流文学者として傑出した人だ位に思って居ます が、 其れが第 i の誤解です。学問、 宗教、 芸術、 政治、 其外 何れの社会にも此人に対立するだけの天才婦人を発見するこ とは困難です。まことに日本 女性史上の唯一人だと思ひます。 (「紫式部の事ども」/ 「 人及ぴ女として j 大正五年四月) つまり、 晶子にとって 紫式部は理想像そのものであり、 人間と しても濡深な人物 で「なければな らなかった」の ではないか。 そ のことの証明としての伝記研究の側面を強く感じる。 一例をあげ てみる。 たとえば「貞操」ということは、 晶子の同時代の女性に とって` 依然として

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たい意味を持つ言葉だった。 彼女は女子の貞操に就い て、 家学の僻教思想に開眼せられて 特殊の見識を持って居たと考 へられる。 自ら宜孝以外の男と 恋愛関係を生ぜず、 多くの男が言ひ寄ったであらうと想はれ る文学オ女が、 「 歌集」で見ると返歌をさへ他の男に与へた 痕跡が無い。彼女の貞操に些少でも疑を挟む人は彼女の『歌 集」を梢読しない人である。 「彼女」は言うまでもなく紫式部のこと で、 右は「ー新考」の最 後の段で述ぺられている。 この 説は大正七年に既に「紫式部の貞 操に就て」という小論 でも主張してい たも のである。 晶子は、 伝 記研究の中でも紫式部の「貞操」の問題にこだわり、 その貞潔さ を強調せずにはいられなかったようである。 この伝記の趣旨は紫

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. 式 部賛美にあり、 その理想化の基準もかなり晶子の同時代におけ る理想的なあり 方に引き寄せられた発想に基づいているのではな いかと考えられる。 しかし、 品子は、「王朝の御代」をひたすら疾望視し、 現状を 嘆いたのでは 決して無 い。「わたし は如何に現代 に不獨な事が . あ っても、 矢張現代の生活の自由を喜ぶ者であ る。 過去を以て現 在を恨む材科にはしたくない」(「清少納言の事ども」既出)とも 言っているように、 漢然と古典の世界を羨むという消極的な態度 は品子のものではなかった。 古典は、 既にゆるぎない価値を持つものである。それに よって、 現代の方の矛盾を突くという積極性も 晶子は発揮 しているのであ る 。 家庭の事情とか 何とかで結婚が遅れた り、 嵩等師範とか女子 大学とかを卒業したりする為に二十七八になると、 もう世間 では老嬢だと云ひ、 本人も亦老嬢の様に思ひ込んでうら寂し い気持になるのは 無残な事だと思ひます。(中略)そんな串 ふる<さ を想ふのは徳川時代の旧臭い考がこぴり 附いてゐるのです ょ。ずっと古 代の女は奈良朝でも平安朝でも二十七八と云ヘ ぱ娘盛りであったぢゃありませんか。源氏物梧で光の君に並 ならぬ恋をせられる朝顔の巻の主人公も、 薫の大将がはげし い恋に陥る宇治の大姫君も、 共に二十七八から三十歳位の婦 人であり乍ら、 若若しい姫君として書かれてあります。又和 泉式部にせよ紫式部消少納言にせよ、其恋をしたり宮仕をし たりして 華華 しい青春時代の生活を楽んでゐたのは何れも 三十歳前後の事なんです。わたしは一概に昔を涼がる者では 無く、 寧ろ何事でも八分までは今の方が普いと考へてゐるの ですけれど、 古い時代の事でも斯う云ふ自分の身に都合の好 い事は今日にも大に学んで好いと思ふのです。 (「婦人の青春時代」/「一隅より j 明治四十四年七月) 「徳川時代の旧臭い考」を覆す根拠に、「古代の女は奈良朝でも 平安朝でも」と、 晶子得意の時代を挙げている。女子の生活、 教 育面でも平安朝のそれを理想として、 近世の遺風を退けようとし た傾向がみられる。 また、 平安朝の女性の華々しい業箱を例にと り、 かつての女に 出来たことが今の女にも出来ない筈が無い、 と同時代の女性たち への激励の材科にもしている。 更級日記の著者は、 東国の田舎に居た娘の時代から文学密を 続んで、 何うか女に生れた上は源氏物語の夕顔や浮舟の様な しばらく 美しい女に成て少時でも光源氏の様な情ある男に思はれ度い つひ と、 専ら其心掛で身を修め、 終に都に上って狭衣の如き小説 を密くに到りました。今の若い女子に是位の自負も無いのは 口惜しう御座います 。 (「離婚について」/「一隅より j 明治四十四年七月) ここでは菅原孝標女が引き合いに出されている。孝様女が実際に

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「源氏物語」を読んだのは、 東国上総から上京の後であった。 「娘時代から文学酋を読んで」などというところは、 品子自身の ことを習っているかのよう である。 徳川時代から明治の今日へ掛けてこそ 女流の作家は出ません が、平安朝以後の文学では男子が皆女の小説を手本にして其 を模倣して及ばざる事を愧ぢて居ります。オ分に宮んだ女が 爽実に自己を発揮したならば、 源氏物語の様な巧な作が此後 とても出来ない とは限りません。紫式部の世いた 女性は何れ も当時の写実であらうと思は れ、 女が見ても面白う御座い ま す。 女の醜い方而も相当に出て居ります。(中略)私は小説 家許で無く、 詩歌 の作者としても亦新しい婦人の出て来られ を るこ とを祈って居るのです。 (「産屋物器」/「一隈より」明治四十四年七月) このように品子は、 平安朝婦人の後裔ともなるべき女流が同時代 に現われることを祈念しているのである。 晶子というと奔放な「新しい女」のイメージが先行しがちであ ・る が、 実際には、 古い商家の散格な家の育ちであり、 結婚後も文 岱平活動を続けな がら、 沢山の子を産み育てた堅実な家庭婦人で .あ った。 一方で、 品子にはもともと、 周囲の「家」制度に包括さ れる前時代的な人々とは、 自分は界なる、 自分は掛物に教えら れ 選ばれた人間であるとい うという誇りがあった。「短歌革新」が 称揚された時代の担い手の一人 としての自負につながる 意識であ る 。 さよはら らよ いしかは いらっ

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みよ ような 消原の女も石川 の郎女 もこの大御代に用無しとする (明治四二年十月「新整J/「春泥集」m) くわんこう によう ll .ったら あたひ 寛弘の 女房達に値す としばしば聞けば そ れもうとまし (明治匹四年六月二四日「腐朝報」/『冑海波 j 磁) 品子が明治という天星親政の新しい「大御代」にあっ て、 同じ く親政であった平安時代の王朝に自身の時代を準えようとする意 識を感じる。 古典作品、 殊に王朝の女性の手になる物語や和歌は、 男性にもその存在を揺るがすことの出来ない、 絶対的な価俯ある 芸術であり、 美の甚準となるものであった。 右の歌からは、 そう した「古典」を自身の深く揺るぎない基盤として獲得し、 更に平 安女 流歌人の再来と評価されるだけではあきたらず、 新たな独自 の世界を確実に構築してい こうとする品子の弛い自負がうかがわ れる 。 だが、 同時に、「新しい」と言われる自身の在り方に不安も感 じていたのではあるま いか。 その遠因として、 自分の教狡が「独 学」であることも智いていると思われる が、 女である為の時代的 な制約も、 極めて大きいものであったと想像される。 その劣等惑 や、 ゆらぎ、 不安を覆い、 自身の思想を支えてたのが古典という 存在であったと考えられる。 古典の絶対的に認められた正統性を もって、 更に積極的に現代の諸相の不合理を突く根拠ともした。 「ひら きぶみ」(「明星」明治三七年十一月)は、 その姫も顕著

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な例として挙げられるかもしれない。「君死に たまふことなかれ」 の詩で品子は「乱臣なり、 賊子なり」という激しい非難を受けた。 その反論として蜜かれたのがこの「ひらきぶみ」であった。 私よくは存ぜぬことながら、 私の好きな王朝の租きもの今に 残り居り候なかには、 かやうに人を死ねと申すことも、 畏お • ほ く勿体なきことかまはずに術きちらしたる文立も見あたら ぬやう心得候。 古典伝統には、「人 を死ね と申 すこと」は無い、 自分はそれに 則っているのだと主張している。自身の正当性を示すよすがとし て、「王朝の沓きもの」の例を引いているのである。 最後に、 古典研究の重要性について、 晶子が次の様に説いてい ることに目を向けておきたい。 外来恩想を批判し、 選択して受容する皿厚な心胸は、 自国の 伝統文化を併せて深く知る事に由って養はれ るものでせう。 戦後の欧州では古典の研究が一層盛んになったと開きます。 (「古典の研究」/窃ウに紺く」大正十四年七月) . こ の評論においては、「明治以来の日本人は欧米の新文化を輪入 する事」にのみ腐心している、 と批判をしているのである。 平安朝の女性を理想とし、 古典藉によって自分自身を啓紫し、 商い自荘心を得て、 さらに、 婦人像や教育環境の理想を平安朝に 求め、 同時代の女性を奨励する規範にもしてきた晶子は、 古典研 究を通じて、 単なる王朝への摘悦ではなく、 同時代を認識し、 新 注 しい潮流をも受容すべく自身を陶冶する基盤を獲得していったの である。 本文は「定本輿謝野晶子全集」(昭和五四年十一月1昭和五六 年十二月、 講談社)によった。18字は新字に改めた。 1 凡 IJJ良二氏「紫式部甜説一覧」では、「1出生年時」「4越前下向の時 期」「5越前から帰京の時期」「6夫藉原宜孝との結婚」「7i出仕え年時」 「9藤式部が紫式部と呼ばれた理由」「10源氏物甜の執箪時」「11紫式部 の没年」といった項目について、「紫式部新考 j から抽出して他説とと もに並記している。 また、 越前下向については、 われも見る源氏の作者をさなくて父と眺めし越前の山 〈「冬柏」昭八年十一月) の歌がある。n由子自身が、 現実の風散や土地に居て、r源氏物語 j や紫 式部を偲ぶ趣向である。「紫式部新考 j には、 紫式部が父為時の任地越前国へ両親に伴はれ行ったのは長徳元年(西 肝九九五〉であった。 私の 推定する彼女の年は其時十八歳であった. と記されている。 父の庇設下にある結婚前の式部を「をさなくて」と詠 んでいる。 2 本 居宜長「紫文要領」に、 この一事(物のまぎれー源氏と藤壺の密通)を別に出だして捻ずぺき

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. 三 七 研究室受贈図書雑誌目録

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湖の本 三五 (かこ みなこ 岡山大学大学院文化科学研究科) ことにはあらず。 これもおのづから物釈匹の中の一事にし て、 物の哀れを 知らさむためのことなれば、 格別に論ずぺきにはあらねども(中略)例 うすぐし にようんん によりてこの源氏の君と洒雲の女院とのこともむけるなるべければ、 さのみ議論もいらぬことなり。 ( 中略)この物語は作り単なれば、 かや うのことむける、 何のことかあらん。別に深き`心あるべきにあらず。 (本文は新潮日本古典染成r本居宜長集}) 源氏と藤壺のことは「物語の中の一小」、 すなわち作中の一要素に過ぎ ないので、 格別に防訊の対象とするはどのものではないと言い、「源氏 物叩 Do] は「作り事」である以上、 そこに「深き心」はないとする。 一方 で品子は、 例えば、「源氏物語租附」(第二期「明星」大正十一年一月) において、 紫の輝く花と日の光おもひ合はではあらじとぞ思ふ と、 源氏(8の光)と朕壺 ( 紫の畑く花)の運命を物面の瓜要な主悶と してとらえ、 その予兆を習頭の「桐壺」の一首に詠むことで象徴的に示 している。 あやつり春風馬堤曲(ク ) 親指のマリア11シドッチと新井白石・ 上(ク) •中(ク) ・下(ク) 安田女子大学言語文化研究叢害2(安田女子大学言語文科研究所) 3( ) 雑誌•紀要 愛知教育大学大 学院国語研究(愛知教育大学大学院国語教育専 攻) 六 愛知教育大学国語国文 学報(愛知教 育大学国語国文学研究室) 五六 愛知淑徳大学国語国文(愛知淑徳大学国文学会) ニ― 愛知大学国文学(愛知大学国文学会) 三七 愛文(愛媛大学法文学部国栢国文学会) 三二 箭山語文(音山学院大学日本文学会) 二八 旭川国文(北海道教育大学旭川校国語国文学会) 一三 アジア ・アフリカ言語文化研究所通信(束京外国語大学アジア ・ アフリカ言語文化研究所) 九二、 九 三 、 九 四 いわき明星 文学・語学(いわき明星大学日本文学会) 五、 六 岩大語文(岩手大学語文学会) 六 字大国語論究(宇都宮大学国語教育学会) 一〇 愛媛国文研究(愛媛国語国文学会) 四六、 四七 愛媛国文と研究(愛媛大学教育学部国語国文学会) i ―10、 ==­ 王朝細流抄(安田女子大学大学院古代中世文学研究会) ク ク 湖の本 一九 八 ク ヶ ク

参照

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