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研究所プロジェクト(第1年次) グローバル化時代の境域社会における民族再編のダイナミクス : 東南アジア・東アジアの地域間比較 利用統計を見る

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(1)

境域社会における民族再編のダイナミクス : 東南

アジア・東アジアの地域間比較

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

49

ページ

302-274

発行年

2014

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007400/

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グローバル化時代の境域社会における

民族再編のダイナミクス

――東南アジア・東アジアの地域間比較――

Dynamics of Ethnic Re/Formation among the Border Societies: Comparative Area Studies on Southeast Asia and East Asia

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グローバル化時代の境域社会における

民族再編のダイナミクス

―― 東南アジア・東アジアの地域間比較 ――

長 津 一 史

* カテゴリー 井上円了記念助成金共同研究 研究期間 2014 年度∼ 2016 年 研究分担者 井出弘毅(アジア文化研究所客員研究員) 石井正子(大阪大学グローバルコラボレーションセンター准教授) 植野弘子(社会学部教授) 後藤武秀(法学部教授) 松本誠一(社会学部教授) 宮下良子(アジア文化研究所客員研究員) 山本須美子(社会学部教授) 研究連携 本研究は,東洋大学アジア文化研究所研究班「トランスナショナリティ研究」(代表: 松本誠一)の活動の一環をなす。また,長津一史を代表者とする科学研究費補助金・基盤 B(海外)「東 南アジア島嶼部における国境管理レジームと境域社会の変容―地域間比較の視点から」と連携して おこなわれている。 研究の背景と目的 1990 年代初頭の冷戦終結とそれ以降のグローバル化の過程で,東南アジア・東アジア各国の国 境管理をめぐる制度・政策や国家間関係は劇的に変化した。その契機としては,(1)地域経済圏 構想等に基づく国境地帯での開発の実施,(2)テロ等の国境を跨ぐ脅威に対する,非伝統的安全 保障を目的とした国家間連携の必要性の増大,(3)難民や越境就労者等の人の移動をめぐる国家 間の対立,(4)国境・領海画定をめぐる対立等があげられる。東南アジア・東アジアの国境管理は, こうした国境域における国家間の「協力」と「対立」および国境の「開放」と「囲い込み」という それぞれ相反するベクトルを内包するものとして,1990 年代以降,再構築されてきた(次ページ の図参照)。 他方,管理の対象とされた国境地帯には,トランスナショナルな生業生活圏,社会交流圏,言語

東洋大学アジア文化研究所所員;Asian Cultures Research Institute, Toyo University, 5-28-20,

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1  プロジェクトの紹介 文化圏をローカル・レベルで維持してきた 境域社会(Border Society)が存在する。 東南アジア・東アジアの境域社会は,いま 述べた過去約 20 年間の国境管理体制の再 構築過程で著しい変容を遂げてきた。 本研究の目的は,そうした東南アジア・ 東アジアの境域社会の変容を,民族の再編 過程に焦点をおいて動態的に捉え,地域間 比較の視点から分析・解明することにある。 比較の対象は,東南アジア島嶼部(フィリ ピン・マレーシア・シンガポール・インド ネシア)の国境域と,東アジア沿海部(日本・ 韓国・台湾・中国)の国境域である。具体 的には,国境管理については,対象とする 2 つの地域の出入国管理や国境警備等に関 わる制度と実践の変化を,境域の民族動態 については,国境をまたぐ生活圏を生きてきた民族集団の社会空間・ネットワークの変化と,かれ らのエスニシティにかかわる自己表象の変化をそれぞれ考察の対象とする。2 つの地域の境域社会 の諸民族は,1990 年代のグローバル化以降,国境管理体制が変動するなかでいかに自らを再編し てきたのか,その過程とパターンにはどのような異同ないし地域性が見出されるのか――これらが 本研究の根底をなす問いである。 研究計画・方法 研究組織は,国境管理体制の再編過程の解明を課題とする「国境管理体制」の研究者 2 名と, 境域社会における民族編成のダイナミクスの比較検討を課題とする「境域の民族動態」担当者 7 名からなる。ただし,代表者は双方を兼担するので,総人数は 8 名になる。 「国境管理体制」の担当者は,東南アジアと東アジアの国境管理体制の再編過程にかかわる次の 諸点を,主に文献資料に基づいて明らかにする。(a)各国ないし各国間の,出入国管理,国境警備, 国境画定等に関わる規範,制度,実践(慣行を含む),(b)国境管理に関わる公的・非公的な言説, (c)これらの歴史的な連続性と非連続性。 「境域の民族動態」担当者が焦点をおくのは,それぞれの境域社会で国境をまたぐ生活圏を維持 してきた次の人々である。 東南アジア:フィリピン,マレーシア,インドネシアの 3 カ国に跨って居住する海民サマ人,フィ リピン南部のムスリム(モロ人),シンガポールの華人 東アジア:在日韓国人,日韓の移動行商人,韓国南部の国境域の離島住民,台湾・沖縄・中国南 部間の移民・移動商人 担当者は,これらの民族を対象として,フィールド調査で得た一次資料を基に,次の問題群を明 らかにする。(a)生業・経済活動や文化実践の圏域・ネットワーク,(b)自らの集団や文化に関 わる表象・カテゴリー・境界,(c)これらの歴史的な連続性と非連続性。 両担当者は,共同研究会を通じて互いの知見・分析を交換し,国境の多面的な意味をふまえて自 らの調査結果を相対化・再検討する。

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1  プロジェクトの紹介 研究の経過 2014 年 1 月∼ 12 月の主な研究活動は次のとおりである。なお,1 月∼ 3 月の期間については, 前記の科研プロジェクト(基盤 B)で実施された研究活動を記す。4 月∼ 12 月の活動の一部も, 同科研とあわせて実施されている。 (1)シンガポール・インドネシア国境調査 調査者:長津一史・加藤剛(アジア文化研究所客員研究員/科研分担者) 期間:2014 年 2 月 22 ∼ 26 日 出張先:シンガポール,インドネシア・リアウ島嶼州 目的:①リアウ島嶼域の越境移動に関する調査,②マレー人の文化復興に関する調査 概要

シンガポールには,タナ・メラ(Tanah Merah)港とハーバー・フロント(Harbor Front) の 2 つの国際港がある。2 月 23 日,調査者らは,タナ・メラ港からインドネシア・リアウ島嶼州 ビンタン(Bintan)島に船で渡った。シンガポールに隣接するインドネシア領のビンタン島,バ タム(Batam)島,カリムン・ブサル(Karimun Besar,以下,カリムン)島は,自由貿易圏(Free Trade Zone)および経済特区(Special Economic Zone)に指定されており,シンガポールと の間の経済活動に関して様々な優遇措置が与えられている。また,シンガポール人らにとっての人 気の旅行先でもある。そのためシンガポールからこれらの島々へは,多数の高速船が運航している。 出入国の通関は,同国の空港同様に簡素である。通関後のエリアには小規模ながら免税店があり, アルコール類などが売られている。高速船の定員は 300 人。満席で,ほぼすべての乗客が観光客 であった。料金は 45 シンガポール・ドル(約 3600 円)であった。船は 1 時間弱でビンタン島北 岸のトゥルク・セボン(Teluk Sebong)港に到着した。ビンタン島には,他に州都のタンジュン・ ピナン(Tanjung Pinang)にも国際港がある。こちらへの航行時間は 2 時間である。 トゥルク・セボンの通関は,インドネシアの他の出入国地点同様に混雑をきわめていた。到着ビ ザ代(25 米ドル)の支払い窓口は,支払通貨別に,つまり米ドル支払窓口とその他の通貨支払窓 口とにわかれる。通関窓口はそれぞれの先にある。トゥルク・セボン一帯はリゾートホテル群になっ ている。通関を済ませた船客の多くは,送迎バスでそれぞれのホテルに向かった。私たちはチャー ターした車でタンジュン・ピナンに向かった。タンジュン・ピナンでは,プルサダ大学講師のイル ワン・ジャマルディン氏と落ち合った。イルワン講師には調査のアレンジを依頼すると同時に,以 後の調査に同行,協力してもらった。 タンジュン・ピナン市内では,沿岸の華人居住区を観察し,また華人海産物商から話を聞いた。 市街地の一部は広大な海上集落からなる。華人居住区の多くも海上集落である。タンジュン・ピナ ンでは,潮州系の華人が人口の多数を占める。海産物店には,サワラやヒラアジなどの塩干魚,ジャ コ(乾燥ウルメイワシ),スルメなどが売られている。ナマコ,フカヒレ,干しトコブシなどの稀 少海産物はあまりみかけない。粥や麺を供する華人の簡易食堂には,チャーシューや焼き鴨が吊る されている。入り口には中国語の看板が出されている。こうした食堂のスタイルは,インドネシア では珍しい。シンガポールやマレーシアのそれとよく似ている。 到着日を含め 2 日間,島の東岸の複数の村落において,ブギス人・ブトン人等のスラウェシ系 移民の親族ネットワーク,これらの移民と在地のマレー人,オラン・ラウト(「海の人」の意),潮 州・客家・福建等の華人系民族間の関係,それらの歴史的変遷にかかわる聞き取り調査をおこなっ た。ブギス人やブトン人のリアウ地域への移住は,遅くとも 17 世紀までには始まっている。かれ

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1  プロジェクトの紹介 らのビンタン島とスラウェシ島との間の往来はいまも盛んである。海をわたるブギス人らのネット ワークは,合法,非合法双方の交易に活かされている。 島の北部では,オラン・ラウトの杭上集落,ブラキト(Berakit)村を訪問した。この集落は, 2006 年に政府が移動生活を営むオラン・ラウトの定住化を促進するために建設した。現在,約 100 世帯が住む。集落横にはモスクと教会が建てられている。その脇には高さ 5 m,半径 2 mほ どのレンガ製のドーム型の炭焼き窯が 3 つ残されている。華人の所有で,2006 年までマングロー ブ炭を製造するために使われていたという。現在は使われていない。マングローブ炭はシンガポー ルに輸出されていた。正規に輸出されたものも,不法に輸出されたものもあったという。その一部 は日本に輸出されていた。現在,ビンタン島はエコ・ツアーを観光の材料にしようとしている。そ うした事情もあり,マングローブの伐採は全面的に禁止されている。 25 日には,タンジュン・ピナン港から,シンガポールにより近接するカリムン・ブサル島に船 で移動した。船は,3 時間で同島の中心地タンジュン・バライ(Tanjung Balai)に到着した。タ ンジュン・バライには,シンガポールからの主に観光客が食事や買い物をするために訪れる。港の 周辺には,そうした観光客を対象とするホテルや船会社のエージェント,土産物店がコンパクトに 集まっている。島には,かれら対象としたシーフードレストランが多い。 到着後,港の食堂において,マレー人とブギス人の商人から密貿易や越境就労等についての話を 聞いた。島は 1990 年代までは密貿易の拠点として栄えた。密貿易の品目は,タバコ,砂糖,古着 からボーキサイト原石まで多種多様だったらしい。2000 年代以降はインドネシア側がパトロール を強化したため密貿易は衰退した。とはいえ,カリムン島近辺で密貿易船が当局に拿捕されたこと を伝える新聞記事はいまも少なくない。密輸品の主要品目には,日本で集荷された古着も含まれる。 インドネシアは古着の輸入を禁止している。古着はマレーシアのジョホル州などで選別され,そこ からカリムン島などの周辺の島々を経由して,インドネシアに密輸出される。 後,借上した車で島を一周し,複数の村落でビンタン島同様の民族間関係に関する聞き取り調査 をおこなった。民族構成でいえば,島には在地のマレー人,スラウェシからの移民であるブギス人, 潮州系を主とする華人が住む。短時間で確認できたのは,3 つの民族の間にあまり明確な経済的な 格差がみられないことである。この島では,華人すなわち経営者・商売人とはかならずしもいえな い。華人の漁民や単純労働者も少なくない。 島は,遠浅で泥質の海に囲まれている。そのため,漁村は長さ 20 メートルほどの長大な杭上露 台をともなっている。杭上露台の合間には,大型の漁船が停泊していた。底引き網や巻き網が主な 漁法のようである。漁民によればオーストラリア近海にまで出漁するという。 26 日,タンジュン・バライから高速船でシンガポールに戻った。通関は混雑もなくスムースであっ た。料金は 18 万ルピア(約 1800 円)であった。マラッカ海峡を往来するタンカーの合間をぬっ て航行し,1 時間半ほどでシンガポールのハーバーフロント港に到着した。 今回の調査では,訪問した2つの島において共生的と呼びうる民族間関係が築かれていることが みてとれた。1990 年代末,タンジュン・バライには,スハルト政権崩壊時の混乱をさけて,ジャ カルタなどから大量の華人が逃げてきたという。華人はカリムン島を安全な避難先とみなしていた のである。その出来事は,同島における華人とムスリムの在地住民との関係が,古くから比較的良 好であったことを示唆している。そうした関係が築かれてきた理由としては,リアウ島嶼域におけ る移民受け入れ経験の時間的長さと人口に占める移民の多さ(=先住者の少なさ)に加え,民族別 の差異が階級と一致していなこと,つまり民族間の経済的格差が比較的小さいことが挙げられよう。 なお,本調査の目的②については,後の加藤報告を参照されたい。

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1  プロジェクトの紹介 (2)マレーシア・インドネシア国境調査 調査者:長津一史・伊藤眞(首都大学東京人文科学研究科教授/科研分担者) 期間:7 月 30 日∼ 8 月 13 日 出張先:マレーシア・サバ州,インドネシア・北カリマンタン州 目的:①ボルネオ島北東岸の越境移動に関する調査,②ブギス人民族団体に関する調査 概要 7 月 31 ∼ 8 月 1 日,サバ州東岸のタワウの埠頭,税関等において,船でインドネシアの北カリ マンタン州ヌヌカンに渡るための情報を収集した。8 月 2 ∼ 3 日,センポルナにおいて,2013 年 のスル王国軍事件とその後の国境取り締まりの強化,同年のマレーシア,フィリピン両国の総選挙 等との関連に特に着目しつつ,サマ・バジャウ人らの越境移動の展開と近年の変化に関する聞き取 りをおこなった。近年,センポルナ地域の住民の越境移動はいま述べたマクロな出来事等の影響を 受け,厳しく制限されるようになっている。しかしながら,漁民や商人は国境管理をくぐり抜けて 越境移動を継続し,この海域でトランスナショナルな社会関係を維持している。興味深かったのは, 1990 年代末から商品化されたトラフジャコ(Lysiosquilla maculata)の採捕漁業が隣接するイ ンドネシアの北カリマンタン州にまで広がり,その採捕のためにセンポルナのサマ・バジャウ漁民 が同州のマラトゥア諸島などに越境出漁していたことである。この移動は,別の観点からは,海産 資源フロンティアの拡大として理解することもできる。 4 日,コタキナバルのインドネシア領事館でビザを申請した。ヌヌカンは到着ビザを取得できる 国際港に指定されていない。ビザは半日で発給された。カテゴリーは「社会訪問(Social Visit)」, 期間は2カ月,費用は 170 マレーシア・リンギト(RM,約 5100 円)であった。5 日,コタキナ バルのマレーシア・サバ大学(UMS)においてボルネオ調査協会(Borneo Research Council: BRC)第 12 回研究大会に参加,特別セッションにおいて口頭発表をおこなった(成果を参照)。 6 日,タワウから国際航路でインドネシア・北カリマンタン州ヌヌカンに渡る。タワウとヌヌカ ンの間には 1 日 6 便,高速船が運航している。タラカンとの間にも,1 日 1 便の高速船が運航し ている。これらの高速船は,シンガポールと周辺の島々を結んでいるような最新型ではなく,中古 の古い型の船である(写真 2)。乗客定員は 200 人ほどと思われる。マレーシア人とインドネシ人は, パスポートがあれば,当然,この航路を使って両国間を自由に移動できる。タワウと北カリマンタ ン州北部の在地住民は,地方政府が発行する「越境パス(Pas Lintas Batas)」のみで両地域間を 往来することができる。もっとも,この航路を利用する人の大多数はインドネシア人,特にスラウェ シ南部出身の人びとである。かれらは就労機会を求めてサバ州に渡っている。

写真 1 セバティク島インドネシア側の国境     写真 2 ヌヌカン港とタワウを結ぶ国際航路      警備隊と国境の基準点

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1  プロジェクトの紹介 こうした状況を反映して,タワウ側の出入国審査は厳格におこなわれていた。出国の通関まで 2 時間以上を要した。他方,ヌヌカン側の入国手続きはスムースであった。タワウからヌヌカンまで の航行時間は 2 時間,料金は 75RM であった。 8 日,ヌヌカンの中心街から陸路でスンガイ・ジュプン(Sg. Jepun)に向かった。そこから ボートで対岸のセバティク(Sebatik)島に渡り,さらに陸路で北岸の国境の町,スンガイ・ニャ ムク(Sungai Nyamuk)に到達した。同島中央の東西には,マレーシアとの国境線が引かれてい る。スンガイ・ニャムクの町は,その国境に接している。町の北側の国境線まで行ってみた。そこ には,インドネシア軍の小さな小屋と国境線であることを示す小さなコンクリート製の「基準点」 があるだけである(写真 1)。緊張感はまったくない。住民はほぼ自由に往来できる。スンガイ・ニャ ムクの海岸からは,海を挟んでタワウの町がはっきりとみえる。その距離は 10 キロメートル弱で しかない。住民はスピードボートでその間を頻繁に往来している。スンガイ・ニャムクでは,在地 住民の越境移動と越境交易,特に古着の交易に関する調査をおこなった。 10 日から 12 日までは,マレーシア・ジョホル州において古着工場を経営する華人商人から聞 き取りをおこなった。既述のように,古着は日本で集められてジョホルに輸出される。ジョホルで 詳細に選別された古着は,インドネシアに出荷される。その一部はタワウを経由して出荷される。 マレーシアから出荷される段階では古着の流通は合法である。しかし,インドネシア国内からは密 輸とみなされる。その運搬と売買は,ブギス人やブトン人などのスラウェシ島出身の海民によって 担われることが多い。そのルートは,かれらが数世紀にわたり維持してきた海のネットワークの一 部を辿っている。なお,本調査の目的②については,後の伊藤報告を参照されたい。 (3)対馬・韓国調査 調査者: <双方に参加>長津一史・加藤剛・伊藤眞 <対馬調査のみ参加>石井正子・青山和佳(東京大学東洋文化研究所准教授)・福武慎太郎(上智 大学総合グローバル学部准教授)・本名純(立命館大学国際関係学部教授) 期間:9 月 26 日∼ 30 日 出張先:長崎,対馬,プサン 目的:日韓国境の社会動態に関する調査,臨地研究セミナーの開催 概要 9 月 27 日,対馬市役所 4 階会議室にて,臨地研究セミナー「2000 年以降の東南アジア島嶼部 における国境社会 のダイナミクス」を開催した。同セミナーには財部能成対馬市長にも参加して いただいた。プログラムは後に掲載したとおりである。28 日,対馬歴史民俗資料館,和多都美神社, 烏帽子岳展望台などを巡検した。いずれにおいても多数の韓国人観光客を目にした。16:00,比田 勝港からプサンに渡る。比田勝とプサンの間には 1 日 2 ∼ 3 便,ジェットフォイルの高速船が就 航している。対馬では他に厳原港も国際港になっている。利用者は圧倒的に韓国人が多い。運航は プサンを朝出港,比田勝を夕方出港する時間に設定されている。日帰りで対馬を往来する韓国人客 への便宜をはかってのことである。1 便の乗客定員は 200 人。私たちが利用した便は満席であった。 比田勝からプサンまではわずか 1 時間強であった。 プサンでは,国際市場の概略について間き取り調査をおこなった。この市場は,1950 年の朝鮮 戦争以降,米軍部隊からの 流出品や釜山港から入ってきたヤミ物資,中古製品などを避難民が売 リ始めたことにはじまる典型的な越境市場である。29 日には,チャガルチ市場などを観察した後, 東亜大学校人文科学大学中国・日本学部の崔仁宅教授を訪問,国境を跨いで生活する人々とそのネッ

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1  プロジェクトの紹介 トワークに関する研究について意見交換をおこなった。30 日には国際航路でプサンから福岡に帰 国した。 (4)宮城県気仙沼市調査 1 調査者:長津一史 期間:10 月 6 日∼ 8 日 出張先:宮城県気仙沼市 目的:気仙沼市の復興過程とその過程における外国人の役割に関する調査 概要 10 月 6 日,気仙沼市インドネシア・フェスティバルの組織者,鈴木敦夫氏から市内のインドネ シア人コミュニティに関する概略を伺い,続いてショッピングセンターでインドネシア人漁業研修 生と引あわせていただいた。そこで,ジャワ島やスンバワ島出身の漁業研修生から来日の経緯につ いて聞き取り調査をおこなった。同日は台風がちょうど気仙沼沖合を通過したところであった。そ のため多くの漁船が気仙沼港に避難していたのである。 7 日,気仙沼内湾地区漁船停泊地において,インドネシア人研修生の案内で漁船内を見学,あ わせて研修生の就労状況について話を聞いた。後,市内喫茶店において,日本での生活を支援しあ うフィリピン人の NPO 組織「Bayanihan フィリピノ・コミュニティ」の高橋レイシェル氏らと 面会した。彼女たちからは,同 NPO の活動内容,日本人との関係,震災を契機とする地域社会と の関係の再構築等について話を聞いた。夕方,市内の震災復興屋台村において計 10 人のインドネ シア人研修生を対象に,経歴等に関する聞き取り調査をおこなった。8 日,毎日新聞気仙沼支局の 井田純氏から,気仙沼の復興過程における外国人の役割について意見を伺った。 (5)日韓国境調査 調査者:松本誠一・井出弘毅 期間:2014 年 8 月 6 日∼ 12 日 出張先:韓国・巨済市,泗川市,釜山広域市 目的:韓国の巨済島・泗川・釜山におけるトランスナショナリズムに関する調査 概要:後掲の松本・井出報告を参照 (6)韓国調査 調査者:宮下良子 期間:2014 年 12 月 7 ∼ 9 日 出張先:ソウル市 目的:韓国の宗教活動における在日コリアンの役割に関する調査 概要 調査者は,これまでの在日コリアン社会における民間信仰および仏教における儀礼の場,またそ の宗教形態を指す名称として「朝鮮寺」と呼称されていたものを「在日コリアン寺院」と改称した。 そして,在日コリアン寺院に属する彼らのネットワークから,在日コリアン社会における民間信仰 および仏教の体系化を試みた。同時に,彼らの日韓をまたぐトランスナショナルな動向に注目して きたが,現在,韓国と在日の宗教者の間でその具体的な宗教活動の萌芽がある。それは,在日コリ アン寺院の宝巌寺の住職が韓国仏教太古宗の仏教寺院で禅の教義を伝授しようというものだ。今回 はその提案のための訪問に同行することが主な目的であった。以下,調査日程に従い,時系列にま

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1  プロジェクトの紹介 とめてみたい。 12 月 7 日,ソウル市内のホテルロビーにて宝巌寺の住職夫妻と調査の打ち合わせをおこなった。 8 日,午後に,宝巌寺の住職の知人である太古宗僧侶の運転で,宝巌寺の住職夫妻と報告者の 4 人 で仁寺洞まで移動し,そこで同じく宝巌寺の住職の知人である曹渓宗僧侶 2 人に会う。彼らは全 員,宝巌寺の住職がかつて広島の国際禅寺の住職の時代に修行した経験があり,それ以来,数十年 の親交のある旧知の仲である。報告者は会食を通して,彼らの現在の活動状況の聞き取りをおこなっ た。また,当日の午前中は報告者一人で東大門市場の巡検をおこなった。9 日,午前中に宝巌寺の 住職と韓国仏教太古宗総本山である奉元寺(西大門区奉元洞)へ行き,大雄殿等を巡検する。その 後,住職たちが会議のために集まっている太古宗総務院へ移動し,宝巌寺の住職が作成した先述の 禅の教義を通した仏教活動交流の提案書を奉元寺住職および総務院の教務部長に提示する場に同行 した。その後,別室で教務部長にインタビューをおこなった。教務部長,宝巌寺住職,報告者の 3 人で昼食を共にし,午後からは,南大門市場を報告者一人で巡検した。(文責:宮下良子) (7)マレーシア・サバ州調査 調査者:石井正子 期間:12 月 6 日∼ 16 日 出張先:サンダカン 目的:フィリピン・マレーシア間の国境社会の動態に関する調査 概要 2013 年 2 月から 3 月にかけて,マレーシアのサバ州ラハダトゥのタンドゥオ村に,「スル王国軍」 が侵攻し,マレーシアの治安部隊と衝突するという事件が起きた。死者数は 60 人以上にのぼった。 そのためこの事件は,フィリピン,マレーシアの双方のメディアにおいて注目された。事件はフィ リピンとマレーシアの間の海域世界で発生した。スル王国軍の兵士は,フィリピンのスル諸島出身 で,海域の国境をわたってマレーシア側に侵入した。この事件の主な原因については,フィリピン 側のメディアでは,1)スル王国軍が,かつて現在のサバ州にまで広がっていたスル王国の先祖伝 来の土地の領有権を主張して侵攻したこと,2)フィリピン政府と MILF(モロイスラム解放戦線) の和平交渉から阻害されたスルの勢力が自らの存在を示すために起こしたこと,などと報じられた。 今回の出張は,この事件をめぐる,現地の人びとの認識を調査するために行われた。 調査で得られた成果としては,現地の人びとの認識はフィリピンのメディアで報じられたものと 異なるというものであった。事件をめぐっては,様ざまな解釈が有り,事実の捉え方も一つではな いが,一致していたことは,2)の理由は該当しない,ということであった。さらに,フィリピン 側のメディアでは,今回の事件に MNLF(モロ民族解放戦線)が関わっていることが報じられたが, そのような事実関係はない,という意見でも一致していた。これに対して様ざまな意見が聞かれた のが1)に関する意見であった。1)が原因であることに同意する意見もあったが,むしろ彼らが 主張していたことは,侵攻の理由はフィリピン側の勢力だけにあるのではなく,マレーシア当局が 様ざまに絡んでいた,ということであった。 また,調査の結果,フィリピン南部のミンダナオ島では高く評価されているフィリピン政府と MILF との和平交渉は,マレーシア側のスル諸島出身のフィリピン系住民の間では,希望が持て ないものとして捉えられている事も分かった。かつて,1970 年代から 1980 年代には,多くの MNLF 関係者が,フィリピン南部の独立をめざし,その運動の一つの拠点としてサバ州に移動し たが,今日では彼らは,フィリピン南部の和平交渉についても,一筋縄ではいかない意見を持って いることが改めて分かった。(文責:石井正子)

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1  プロジェクトの紹介 (8)宮城県気仙沼市調査 2 調査者:長津一史 期間:12 月 11 日∼ 13 日 出張先:宮城県気仙沼市 目的:気仙沼市の復興過程とその過程における外国人の役割に関する調査 概要 12 月 11 日,到着後,気仙沼市インドネシア・パレード組織委員代表の鈴木敦夫氏と調査打ち 合わせをおこなった。後,気仙沼市観光コンベンションセンターにおいて,同市の観光政策,漁業, 外国人労働者の概要について聞き取りをおこなった。またコンベンションセンター課長の紹介をう けて,気仙沼市役所の水産課・まちづくり課を訪問し,水産統計等の資料を閲覧・収集した。12 日, 唐桑地区舞根の NPO 法人「森は海の恋人」代表・畠山信氏を訪問し,同 NPO の歴史やフィリピン・ ミンドロ島における協力活動について聞き取りをおこなった。夕方,市内水産加工業で「研修」す るインドネシア人研修生から経歴等に関する聞き取り調査をおこなった。12 月 13 日,コンベンショ ンセンター役員の案内により魚市場を見学した。午後には,株式会社石渡商店において,気仙沼市 のフカヒレ加工業の発展,原料確保のための国際ネットワーク等に関する聞き取り調査をおこなっ た。 研究の成果 研究開始年度にあたるため,論文による成果はまだ公表されていない。しかし口頭での発表はい くつかなされている。代表者による口頭発表を下に記す。

Nagatsu, Kazufumi. 2014a. “New Maneuver through Old Network: Maritime Folks’ Trading of Sea Turtle and Used Clothes in Wallacea,” presented at “Asian CORE Program Seminar “Interface, Negotiation, and Interaction in Southeast Asia,” February 11, 2014, Kyoto:

CSEAS, Kyoto University.

Nagatsu, Kazufumi. 2014b. “Ethnogenesis of the Bajau as a Maritime Creole and its Socio-ecological Contexts in Wallacean Sea, Southeast Asia” presented at IUAES: International Union of Anthropological and Ethnological Sciences, May 29, 2014, Chiba: Makuhari Messe. Nagatsu, Kazufumi. 2014c.“The Bajau as a Maritime Creole: Periphery, Mobility and Ethnic

Process in Wallacean Sea, Southeast Asia,” presented at International Borneo Research Council Conference (BRC 2014), August 5, 2014, Kota Kinabalu: Universiti Malaysia Sabah (UMS).

長津一史 . 2014d. 「研究工具としての空間情報――インドネシア・フィリピンにおける民族動態を題材に」 東南アジア学会関東例会(2014 年度第5回),2014 年 11 月 22 日,東京:東京外国語大学本郷サテ ライト.

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2.韓国調査報告

韓国・巨済市,泗川市,釜山広域市調査

松 本 誠 一

・井 出 弘 毅

** 2014 年 8 月 6 日∼ 12 日,韓国・コジェ(巨済)島及びサチョン(泗川)市と釜山について日 本との関わりを中心に調査を行なった。そのためコジェ島の中心地であるコヒョン(古縣)ではなく, 日本に近い側の港の 1 つであるチャンスンポ(長承浦)をベースとした。以下,その概略である。 8 月 6 日,空路,釜山の金海国際空港に入り,バスにて宿のあるコジェ島のチャンスンポに移動 した。数年前からこのルートを利用しているが,今回初めて車内で日本人と出会った。オッポ(玉 浦)の造船所で働いている日本人男性の妻子であった。休みのたびに来ており,1年間の単身赴任 ももう少しで終わるということだった。 翌日巨済文化院を再訪した(写真①)。院長からこの 1 年間に刊行された書籍や出来事などにつ いて聴いた。『巨済古文献叢書』I ∼ III 巻,『巨済文化』7 巻,『研究所総会資料』を贈呈して頂いた。 その他にも『巨済地域独立運動史料収集事業報告書』を見せて頂いた。また文化院の総会資料も頂 き,その予算規模や運営についてなど,これまで聴いていなかった点についても知ることができた。 キリスト教会を再訪したが,教会のあるはずの場所に到着しても教会の建物を見ることができな かった(写真②)。日本を発つ前にキリスト教会新聞の web サイトで,今年 7 月 20 日に教会建設 起工礼拝が行なわれたことは知っていたが,既に古い建物が壊されていることは知らなかった。昨 年訪問した際には,教会内の人間関係が原因で教会再建は延期したとの話を聴いていた。牧師に連 絡をとったところ,現在はすぐ近くのアパートに住んでいるということであった。そこで訪問して, 教会建て替えについて話を聴かせて頂いた。新しい教会は 3 階建てとなり,デザインも非常にモ ダンなものである(写真③)。また前の日に信徒の葬儀があり,翌日の出棺の儀礼に立ち会っても 良いとのことで,次の日に同行させて頂くこととした。建設中は近くの山の方にある祈祷所におい て礼拝をしているとのことで,その祈祷所にて信者たちから話を聴いた。 また牧師の兄弟である金東光客員研究員がオーストラリアの大学に学位論文を提出し,現在はソ ウル市内に住んでいることを教えて頂き,連絡をとった。 3 日目は出棺の儀礼に同行した。この儀礼はパリン(發靷)と言う。まず病院附属のパリン室に て礼拝が行なわれ,その後埋葬場所に移動した。移動の際,故人が住んでいた地域を車で 1 周し 埋葬場所に向かった。埋葬場所では業者の重機によって既に墓穴が用意されており,礼拝後棺桶を 墓穴に納めた(写真④)。墓所では遠い先祖ほど山の上の方に土饅頭があり,今回亡くなった方はもっ とも下の場所に埋葬された。 その後,かつての任那地域の西部にあたるサチョン市に市外バスにて移動した。ここは植民地時 代当時の日本人の移住先の 1 つである。街中に残る日本式家屋などを巡検した(写真⑤)。現在は

東洋大学アジア文化研究所所員;Asian Cultures Research Institute, Toyo University, 5-28-20,

Hakusan, Bunkyo, Tokyo, 112-8606 / [email protected]

** 東洋大学アジア文化研究所客員研究員;Asian Cultures Research Institute, Toyo University,

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2  韓国調査報告 基地の町でもあり,訓練機が絶え間なくタッチアンドゴーを繰り返していた。また航空宇宙産業の 町でもあった。 4 日目は仏教寺院 A 庵を再訪し,ポサルニム(菩薩:信徒代表)の女性とその娘さん,そして スニム(僧侶)と会った。ポサルニムの亡夫は昔日本に留学して電気技術を学び,韓国に帰国後, 国産第 1 号となるラジオを作り商品化した方である。この流れは現在の LG エレクトロニクスに なっている。娘さんは現在ソウルで医療関係の仕事をしているが,今回は 1 週間の休みをとって 帰省していた。彼女は父親の日記を元に『お父さんのラジオ』という本を執筆し,それがテレビド ラマ化された。また彼女のご主人は,かつて民主化運動で逮捕・投獄され無期懲役の判決を受けた が,その後ノムヒョン(盧武鉉)大統領の時に恩赦で釈放された有名な詩人・写真家であることも 分かった。彼については日本の NHK がドキュメンタリー番組を作っている。母娘とも夫が日韓両 方のテレビで紹介されたという共通点を持った親子であった。 スニムの男性には今回初めてお会いした。A 庵の先代の住職であったポサルニムの夫の姉が亡く なった後は,スニムが儀礼を行なう時のみ通って来ていたが,今年 1 月から A 庵に住むようになっ たとのことであった。 A 庵の境内にある舎利塔の銘板に列挙された名前の筆頭には,先代住職の友人で土地を寄進して くれた方の名前があり,次いで娘さんの名前があった。ポサルニムによると,将来は娘さんが自分 の後を継ぐということである。またここには日本人の名前もあった。これは亡夫が電気関係で親し くなった日本人である。 この A 庵では翌日のペクチュン(百中)という盂蘭盆会に信者が多数集まるとのことで,我々 も参加しても良いとのお話を頂いた。 その後,宿のあるチャンスンポ(写真⑥)と同様にかつて日本人移住地の1つであったクジョラ (舊助羅)(写真⑦)を巡検し,いくつかの日本式家屋を見た(写真⑧⑨)。 翌5日目も A 庵を訪問し,お盆の法要を観察(写真⑩)した後に食事を頂いた。今回の調査では, 図らずも韓国のキリスト教と仏教の儀礼に参加し観察することができた。 食後にふと海の方を眺めていると,対馬らしき山並みが見えた(写真⑪)。台風 11 号により対 馬側の雲が取り払われていたためか,水平線上にうっすらとではあったが,確かに対馬の山並みを 見ることができた。最初は雲の誤認だとも思ったが,インターネット上に掲載されていたコジェ島 から撮った対馬の写真と比較したところ,明らかに山並みが一致した。コジェ島の調査を始めて7 年目にして初の快挙である。これで対馬と巨済の両方からお互いの姿をこの目で確認することがで きた。 その後かつての日本人移住地の 1 つであるチセッポ(知世浦)を巡検した。島根県の元教師達 の集まりである「日韓古代の海の道をたどる会(からむし会)」が丸木船を作り,今年 6 月にチセッ ポ港から対馬に向けて出港したが,7 時間後国境を超える前に横転し,断念したという情報があっ た。そこで,造船海洋文化館,漁村民俗展示館,ヨット学校,警察などで情報を求めたが叶わず, 日本のニュースサイトの写真から出港場所を特定した(写真⑫)。 6 日目はバスにて釜山に移動し,チャイナタウンを巡検した(写真⑬)。その後釜山税関博物館 を再訪し,館長から昨年刊行されたばかりの『釜山税関博物館』を贈呈頂いた。以前訪問した際よ りも博物館の内容がリニューアルされており,展示品もかなり増加していた(写真⑭)。館長からは, 朝鮮時代に日本人がコムンド(巨文島)とサムチョンポ(三千浦)で漁をすることが認められてい たという話を聴いた。偶然にもサムチョンポは今回 3 日目に訪れたサチョン市であった。1995 年 にサムチョンポ市とサチョン郡が合併して現在のサチョン市となっている。 その後釜山のマリンリゾートであるヘウンデ(海雲台)を巡検した。そこには対馬展望台が設置

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2  韓国調査報告 されており,掲示を見つけた(写真⑮)。以前にも目にしたことがある内容であった。「釜山から対 馬が見える日は1年中で平均 60 日ほどである。" 釜山から見える対馬は地域間の気温差によって 光の屈折現象が起こす一種の蜃気楼の可能性が高い " と言う学説がある。」と。つまり地球の丸さ と釜山と対馬との距離,対馬の山の高さなどを考えると,釜山から見て対馬の山並みは水平線から 少しだけ見えるはずであり,山の下の部分は本来見ることはできない。それゆえ蜃気楼によって見 えているだけだとの主張である。この掲示には釜山から撮った対馬の写真もあったが,もしもこれ が蜃気楼によるものであるならば,水平線と山並みとの間に空間があるはずだと思われるが,それ 大学(市民大学)前にて院長(右)と

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2  韓国調査報告 を見ることはできない。 最終日は当初研究協力者の崔仁宅氏(東亜大学校教授)と研究動向について意見交換する予定で あったが,先方の親族に急な不幸があり残念ながら叶わなかった。そのため,急きょ釜山駅周辺の 古くからある市場などを巡検した。日本式家屋などを多数見ることができた(写真⑯)。     (文・写真 井出弘毅)

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3.臨地研究セミナー(プログラムと報告要旨) 2000 年以降の東南アジア島嶼部における国境社会のダイナミクス 主催: 2014 年度東洋大学井上記念研究助成「グローバル化時代の境域社会における民族再編のダ イナミクス―東南アジア・東アジアの地域間比較」/科研費基盤 B「東南アジア島嶼部にお ける国境管理レジームと境域社会の変容―地域間比較の視点から」 日時:2014 年 9 月 27 日 -28 日 場所:長崎県対馬市役所本庁 協力:長崎県対馬市上県地域活性化センター地域支援課・対馬市島おこし協働隊 プログラム < 9 月 27 日> 13:00 − 13:15 趣旨説明 長津一史(東洋大学社会学部・准教授) 13:15 − 13:55 「インドネシアにおける領海ガバナンスの政治」  本名純(立命館大学・国際関係学部・教授) 13:55 − 14:35 「フィリピンとマレーシアのあいだの海域世界――スルゾーンを生きる人びと」 石井正子(大阪大学人間科学研究科・准教授) 14:50 − 15:20 「<調査報告>リアウ島嶼州調査」 加藤剛(京都大学名誉教授・東洋大学アジア文化研究所客員研究員) 15:20 − 15:50 「<調査報告>東ティモール/インドネシア国境周辺」 福武慎太郎(上智大学総合グローバル学部・准教授) 15:50 − 16:20 「<調査報告>ダバオ市のサマ人に関わるキリスト教布教とその影響」 青山和佳(東京大学・東洋文化研究所・准教授) 16:20 − 16:50 「<調査報告>サバのブギス移民と民族団体」 伊藤眞(首都大学東京・人文科学研究科・教授) 16:50 − 17:20 総合討論 17:30 − 18:10 「対馬市島おこし協働隊」 細貝瑞季(対馬市島おこし協働隊民間伝承保全担当) 「対馬における日韓観光交流のインパクト」 前田剛(対馬市しまづくり戦略本部新政策推進課) 18:10 − 18:30 対馬市長からのご挨拶 財部能成(対馬市長) < 9 月 28 日> 対馬歴史民俗資料館,和多都美神社,烏帽子岳展望台などを訪問。後,一部 は韓国・プサンに移動。

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3  臨地研究セミナー <報告要旨 1 >

インドネシアにおける領海ガバナンスの政治

本 名   純

* 違法漁業や違法海洋資源発掘,違法海洋投棄,人身取引や麻薬取引といった海洋を舞台に行われ る密輸ビジネスは,新しいものではない。17 世紀の主権国家体制の成立により,国境を許可なく 越える人やモノの取引は「密輸」として犯罪化されたが,それ以前にも中世の時代から違法な海洋 での奴隷取引は存在した。しかし現在,グローバル化時代のなか,テクノロジーの飛躍的な進歩に より,国境を越える海の犯罪活動は,かつてない規模で広がっている。とくに通信情報技術(ICT) の発展は,世界各地で組織犯罪のネットワーク化と越境的活動を推進するのに貢献してきた。 海洋犯罪の多様な収益活動のなかでも,越境的なネットワーク化が最も進んでいるビジネスが麻 薬と人身取引(Human Trafficking)である。とりわけ後者は犯罪に関与するアクターも被害者 の数も多く,問題の構造も複雑である。例えば女性や子どもの性的搾取を目的とした人身取引ビジ ネスの場合,まず都市や地方で女性や子どもをリクルートするブローカーがおり,偽造旅券・書類 を準備するエージェントがあり,海を渡って送り先国に届ける船があり,その国で性産業を営み, 売られてきた女性と子どもを暴力と脅迫で支配する犯罪者たちがいる。この三位一体の越境ビジネ スが,世界各地で拡大しており,特にアジアにおいて,人身取引と麻薬取引は組織犯罪の巨大収入 源になっている。 その犯罪の性格から,厳密な統計を取ることは極めて困難であるものの,数多くの国際機関や非 政府組織(NGO)が,海洋犯罪の規模を把握しようと試みてきた。それらの分析では,東南アジ アは海洋犯罪のホットスポットと認識されている。特にインドネシアは地域で最大の海域を擁する ことから,海洋犯罪の温床と理解されている。 この深刻化する海洋犯罪に対する対策は,どのようにグローバルな課題として位置づけられてき たのか。大きな転換期となったのが 2000 年である。同年,「国際的な組織犯罪の防止に対する国 際連合条約」(略称:国際組織犯罪防止条約)が採択され,イタリア・マフィアの拠点の一つとし て名高いシチリア島の都市パレルモで,147 カ国が集まり署名会議が行われた。この国際組織犯 罪防止条約がグローバルなレベルで初めて法的拘束力を持った越境犯罪対策のイニシアティブであ り,締結国は国内の法的整備を強化し,撲滅に向けての国際的な協力を推進していくことが求めら れるようになった。 この 2000 年を境に,海洋犯罪の問題は,明確に越境組織犯罪(Transnational Organized Crime)との戦いという文脈に位置づけられていく。同時に,ポスト冷戦に伴う安全保障パラダイ ムの変化と共鳴することで,越境組織犯罪に対する取組は,「非伝統的安全保障」に関わるグロー バルなアジェンダとして認知されていく。この論理に伴い,越境組織犯罪の問題を,もはや単なる 犯罪ではなく安全保障の問題に「格上げ」し,各国が政策的なプライオリティを高めるべきである という言説も普及していく。このセキュリタイゼーションの結果,海洋犯罪の問題は,越境犯罪の

立命館大学国際関係学部;The College of International Relations, Ritsumeikan University, 56-1

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3  臨地研究セミナー 文脈で,非伝統的安全保障のパラダイムの中に組み込まれていった。 そのフレーミングによって,海洋犯罪の深刻な実態が浮き彫りになり,国際協力の推進によって, 解決に向けての前進がみられたのだろうか。むしろその逆のことが起きている,というのが本研究 の議論である。セキュリタイゼーションされたことで,多くの問題が不可視化しており,それを意 図的に野放しにしている実態がインドネシアに見られる。なぜ野放しにされるのか。それは国内の 治安機関の間の政治的駆け引きの産物で,それを理解することが重要になる。本研究では,その治 安アクターたちの政治力学を明らかにする。 インドネシアは,ティモール・レステ,パプアニューギニア,パラオ,フィリピン,ベトナム, タイ,マレーシア,シンガポール,そしてインドという 10 カ国と海の国境を有している。このイ ンドネシアの海洋領域は 580 万平方キロメートルと広大であり,排他的経済圏(EEZ)は米国,オー ストラリアに次ぐ世界第 3 位の規模を誇る。この巨大な海域のガバナンスには,当然,国家の海 洋監視能力が高さが期待されるが,インドネシアには,その能力は備わっていない。海洋犯罪対策 で国際的な圧力を受けてきたインドネシアは,その圧力を巧みに利用し,治安アクターたちは国内 での権限や予算を増やしていった。その展開について分析するのが本研究である。 <報告要旨 2 >

フィリピンとマレーシアのあいだの海域世界

―― スル・ゾーンを生きる人びと ――

石 井 正 子

* 本報告では,フィリピンとマレーシアのあいだの海域に焦点をあて,同海域が植民地勢力や国民 国家によって分断されたあとのフィリピン側の動向を述べた。この海域は,18 世紀∼ 19 世紀前 半にかけてスル王国を中心にもっとも繁栄した。歴史家のワレンは,この海域をスルゾーン(Sulu Zone)と呼び,当時の生き生きとした生活世界を描いた[Warren 1985]。 しかし 19 世紀半ばになると,マニラに植民地政庁をおいていたスペインは,スル王国と他ヨー ロッパ勢力との海洋交易を抑えるため,相次ぐ攻撃をおこなった。また蒸気船を導入してスルゾー ンの海賊を取り締まるようになった。シンガポールや香港などが近代的な港湾施設や通信網を整備 させると,スル王国の重要性は低下し,19 世紀半ばに勢力が衰えた[早瀬 2003:27-30]。その後は, スペイン植民地勢力の影響下におかれるが,米西戦争終結すると,1898 年にスペインに勝利した アメリカの植民地体制下に組み込まれることになった。 アメリカ植民体制下においてスル王国はアメリカの主権を認め,次第にフィリピン国民国家の周 縁部に位置づけられていった。こうした流れに抵抗したムスリムの指導者もいたが,アメリカの植

大阪大学グローバルコラボレーションセンター;Global Collaboration Center, Osaka University, 2-7

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3  臨地研究セミナー 民地支配体制や独立したフィリピン政府に協力する指導層の存在もあり,彼らを通じて,南部のム スリム社会はマニラを中心とするフィリピンの行政統治下に包摂されていった。 しかし,1960 年代になると,中央政府に協力してきた指導者層の不満の高まり,若手知識層や 宗教的指導者の台頭,北部のキリスト教徒の大量流入などにより,南部のムスリムの社会は大き な転換期を迎えることとなった。そのような状況のなかから,スル出身のヌル・ミスアリ(Nur Misuari)が率いるモロ民族解放戦線(Moro National Liberation Front:MNLF)を中心として, 南部の自決権を求める武力闘争が展開されることとなった。現在 MNLF のヌル・ミスアリ派は,フィ リピン政府との 2 度の和平合意が事実上破たんしたのち,拠点をスルに移し,フィリピン政府と モロイスラム解放戦線(Moro Islamic Liberation Front:MILF)の和平プロセスに反対を唱え ている。2013 年 9 月には,サンボアンガ市において MNLF の旗を掲揚しようとしたところ,政 府軍と衝突し,死者数が 100 人以上にのぼる事件に発展した。その事件の 7 か月前には,スル王 国軍を名乗る武装集団がサバ州の領有権を主張して,マレーシアのラトゥハダを侵攻するなど,ス ルゾーンは,今なお,国家との関係において流動的な状態にある。 本報告では,まず海域交易によってスルゾーンが繁栄した時代に,今日にいたるマレーシアとの あいだの領土問題の原因が形成されたことを述べ,その後,アメリカ植民地期から独立期にかけて, 次第に同地域が周縁化していった経緯を振り返った。そして,1970 年前後に MNLF が結成され てからの同解放戦線の動向と,2013 年のサンボアンガでの武力衝突,スル王国軍によるサバ州侵 攻などの事件が発生している状況に言及した。 報告者は,2011 年 1 月 10 日から 22 日までフィリピンとマレーシアのあいだの海域をめぐる 調査旅行をおこなった。海旅を通じて出会った人びとは,それぞれの立場から歴史を語り継ぎ,現 状を理解し,未来の選択を行おうとしていた。本報告では,旅で出会った人びとの語りを挿入しつ つ,今なお,国家との関係において流動的な状態にあるこの海域世界を紹介した。 参考文献 早瀬晋三. 2003.『海域イスラーム社会の歴史』東京:岩波書店.

Warren, James F. 1985. The Sulu Zone 1786-1898: The Dynamics of External Trade, Slavery, and Ethnicity in the Transformation of a Southeast Asian Maritime State. Quezon City: New Day Publishers.

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4.フィールド・レポート

インドネシア国リアウ島嶼州への旅で考えたこと

―― 海と陸,フローとストック ――

加 藤   剛

* 2014 年 2 月 23(日)から 26 日(水)という限られた日数だったが,シンガポールを足場にイ ンドネシア国リアウ島嶼州(日本語ではリアウ群島州や諸島州とも表記される)のビンタン島とカ リムン島を訪れた(地図1)。もっとも訪れたといっても,ビンタン島では州都のタンジュンピナ ン,カリムン島ではカリムン県の県都タン ジュンバレを中心とする訪問だった。この 訪問は科研プロジェクト「東南アジア島嶼 部における国境管理レジームと境域社会の 変容――地域間比較の視点から」(代表者・ 長津一史)に関係したもので,長津氏なら びにリアウ島嶼州出身で現在はジャカルタ にあるプルサダ大学で日本学を教えている イルワン・ジャマルディン氏と一緒だった。 今 回 の わ た し に と っ て の 旅 の 目 的 は, 1998 年のスハルト政権崩壊後に中スマト ラ東海岸にあるリアウ州から分離独立した リアウ島嶼州(地図 2,以後「島嶼州」と表記)において,新しい行政単位の文化的独自性がいか に表現されているかを,主として人目につき易い文化表象,つまりは公の文化表象である地方行政 府関係建物の建築デザインや文化政治的モニュメントを手掛かりに見て回ろう,というものだっ た。ふたつの州の人口はいずれも多民族から成り,2010 年現在,その最大構成要素はそれぞれの 州人口中 35 パーセント前後を占めるムラユ(マレー)である。州人口の半数をかなり下回るとは いえ,リアウ州の東海岸地域および島嶼州西部,そしてマレー半島は,歴史的にムラユの活動域で あり,文化的・民族的ムラユ・アイデンティティはこの地域全域に広く見られる。他所からの移民 の流入により人口中のムラユの割合が低下すればするほど,ある意味,ムラユの文化表象が顕著に なるともいえる。これはとくに,ムラユが地方行政や政治において他民族よりも大きな力を維持し, ムラユに対抗する他の民族間の政治連携が進展しない限り,よく見られる現象のように思う。いわ ば人口比の縮小を文化表象の声を大きくすることにより補おうということだ。事実,1960 年代に 州都を島嶼域のタンジュンピナンから内陸のプカンバル(地図 2 の⑤)に移した旧リアウ州では, 1980 年代に州の経済発展が進捗し他所からの出稼ぎ・移民の流入が増大するなかで,地方官僚が 儀礼式典で纏う民族衣装や政府関係建物に用いられる「伝統建築」が「ムラユ様式」なるものに標 準化されることにより,民間の建築物(例えばレストラン,一般家屋)や結婚衣装にも盛んに取り

東洋大学アジア文化研究所客員研究員;Asian Cultures Research Institute, Toyo University,

5-28-20, Hakusan, Bunkyo, Tokyo, 112-8606 / [email protected]

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4  フィールド・レポート 入れられて,州の文化的・民族的アイデ ンティティはムラユだとする認識が広く 行き亘るようになった。 上のような状況がすでに 30 年近く展開 した 2002 年,島嶼州は旧リアウ州から 分離独立したのである。歴史的にいえば, じつはムラユの中心,就中ムラカ(マラッ カ)王国がポルトガルの攻撃により瓦解 した 1511 年以降のムラユ王権の拠点は, マレー半島南部のジョホールや島嶼州の 島の間を移動した。つまり本来ムラユは, 現在の国民国家インドネシア,マレーシ ア,シンガポール3国に跨る,島と海の 世界を活躍の舞台としていたのである。 にもかかわらず約一世代に亘り,リアウ 州内陸部のプカンバルを中心にムラユ性の表象様式が形を整え,発展したことになる。(そもそも タンジュンピナンからプカンバルへの州都の移転は,ムラユをトランスナショナルな島と海の世界 から引き離しインドネシアに係留するための施策だったといえる。)この状況を受け,島嶼州の地 方行政権を握ったムラユの政治家や官僚は新州の文化表象をどのように展開しているのか,それは リアウ州におけるムラユ性の表象とどのように異なるのか,これを見たいというのが,今回の短い 訪問の目的だった。さて結果はどうだったか。 結論からいうと,なんとも拍子抜けしたことに,この点に関する目立った動きを 3 泊 4 日の州 都と1県都を中心とする旅の間に垣間見ることはなかった。島嶼州のムラユ性を主張する文化表象 をほとんど見掛けなかったのである。どうしてなのか? ひとつの可能性は時間である。分立から まだたったの 12 年,それも分立後,誰が州知事となるかをめぐり内紛が続き,州知事代行が任命 されたのが 2004 年,代行が正式な州知事に選任されたのは 2005 年である。つまり島嶼州の行政 は,実質 10 年ほどしか主体性を持って動いていないことになる。また一般に,新たに分立した州 の行政にとって,文化政治の優先順位は必ずしも高くはないだろう。こうしたことを考えると,今 後,時間が経ち,新州の政治経済的案件がそれなりに方が付いた段階で,文化政治をめぐる動きが 活発化してくる可能性はあるにはある。ただし一方で,新州の発足時には多くの政府関連建物が建 設され,さらに政治的な儀式も多く執り行われると想像されるゆえ,これらにおける建築デザイン や服装をどうするかは,蔑にできない問題だと思うのだが。付言すると,1970 年代半ばにジャカ ルタ郊外に「ミニチュア版〈麗しのインドネシア〉公園」がオープンし,州毎にパビリオンを建設 して州の文化的アイデンティティの基となる伝統家屋や衣装が展示されるようになって以来,イン ドネシアでは州を枠組みとする「文化の創造」が盛んに行なわれてきた。東南アジアを見渡しても, 州庁舎などの建物,とくにその屋根が,地元の「伝統家屋」スタイルを模している姿をごく一般的 に見るのは,おそらくインドネシアだけではないだろうか。 旅を終え,シンガポール経由で当時滞在していたマレーシアのクアラ・ルンプールに戻って暫ら くの間,旅の「発見」というかその欠如を一体どう理解したものかと考えていた。時間は確かに重 要だろう。しかし時間だけで「発見」の欠如を説明することはできるのだろうか。第一,島嶼州に おけるムラユ性に関わる文化表象の欠如を時間の要素だけに帰するのはどうみても面白くない。 旅から戻りこの疑問に思いを巡らせていた。現在考えているのは次のようなことだ。そもそもム

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4  フィールド・レポート ラユ性の表象のあり方は,島嶼州とリアウ州では異なるのではないか。具体的には,海の世界と陸 の世界,フローの世界とストックの世界では富のあり方や文化表象のあり方は違うのではないか, ということである。インドネシアの例でいうと,陸の世界,ストックの世界の代表は中ジャワであ る。ストック的富や文化表象の例としては,米とボロブドゥール遺跡やジョクジャカルタの宮殿が 頭に浮かぶ。それに対して,海の世界,フローの世界の代表といえるのが島嶼州ということになる。 富の源泉としての漁業,海運業,海賊行為,文化表象としては,外からの侵略や海上商業路の変化 に対応する高い移動性を示す王権,そして移動・運搬に耐える王権の象徴としてのレガリアの重要 性や宮廷内の仕来たり(アダット),身分秩序を反映するタイトルなどが連想される。リアウ州の ムラユ性の表出形態は,海の世界そのものの形態ではなく,いわば陸に上がったムラユ,より適切 には陸に上げられたムラユのものだと考えたい。この点で,1980 年代に旧リアウ州におけるムラ ユ性の文化表象を指導したのが,スハルト体制下の総選挙において与党組織ゴルカルへのムラユ支 持を取り付けることに腐心した,軍出身のジャワ人州知事だったことは象徴的だ。ジャワ人州知事 が,陸に上がったムラユ性,インドネシアに係留されたムラユ性の文化政治表象モデルの創出を推 進し,そのモデルが踏襲されてきたのではないか,ということだ。これに対して,海の世界,フロー の世界である島嶼州では,建築物やモニュメント,つまりストック的な媒体を通してムラユ性を表 象するといった意識が(まだ?)希薄なのではないか。興味深いことに,インドネシアの首都ジャ カルタに比べると,マレーシアの首都クアラ・ルンプールは,モニュメントなどのストック的な文 化表象に乏しい。その代わりに,国家レベルならびに州レベルで重要なのが,ムラユの王ないしス ルタンである。これと対照的に,リアウ州でも島嶼州でも,ムラユ王はもはや存在せず,その象徴 的な重要性もきわめて限定的なものにとどまる。 海と陸,フロートとストックといった二項対立の図式には物事を単純化してしまう傾向が内在す る。それを十分承知した上で,しかしなお,上の図式はとても魅力的に感じられるのだ。カール・シュ ミットの『陸と海――世界史的一考察』(慈学社,2006 年復刊)を参考にしながら,この図式を どこまで推し進められるかをいま少し突き詰めてみたい。

東ティモール / インドネシア国境周辺

福 武 慎 太 郎

* 1 東西ティモール国境 1-1 宗教および言語 マレー語で「東(Timur)」を意味するティモール島は,その名が示す通りインドシナのマレー 半島から巨大な弧を描いて連なるスンダ列島の東端に浮かぶ,東西に約 470 キロメートル,南 北は最大で 110 キロメートル程の島である。島の西半分はインドネシア共和国の一部,東半分は 2002 年に国連暫定行政期を経て正式独立した東ティモール民主共和国である。 東ティモール民主共和国の国民の 98 パーセントはカトリックの信徒である。東ティモールは,

上智大学総合グローバル学部;Faculty of Global Studies, Sophia University, 7-1 Kioi-cho,

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4  フィールド・レポート ポルトガル人が到来した 16 世紀以来のカトリック社会であると理解されてきた。そのことから東 ティモール問題とは,世界最大のムスリム人口を抱えるインドネシア共和国と住民のほとんどがカ トリックの信徒である元ポルトガル領という宗教対立であると誤解されることが多かった。しかし 実際は,インドネシアによる侵略を受けた当時,東ティモールのカトリック人口は 3 割に満たず, 人口の 72 パーセントは祖先祭祀を中心とする信仰体系を保っていた。 むしろオランダ領東インドであったティモール島西部において,カトリック化が先に進んだ。オ ランダは 1808 年からフローレス島におけるカトリックの布教を解禁,イエズス会の宣教師が,ティ モール島西部で布教活動を展開した。1913 年よりドイツで設立された修道会である神言会が引き 継ぎ,活発に布教活動を展開した。 また東ティモールではバチカン直轄区となり典礼言語としてテトゥン語が採用されたことから, テトゥン語の共通語化が進行した。他方で,非テトゥン語圏である東部ではカトリックの浸透が緩 やかであった。結果として,東西国境周辺地域に,「テトゥン=カトリック」を特徴とする社会が 形成されることになった。人口規模は西ティモールに約 20 万人,東ティモールで 25 ∼ 30 万人 とされる。 1-2 独立後の国境事情 2002 年の東ティモール民主共和国の正 式独立後,国境を超えるためにはパスポー トが必要となった。これはティモール島 の歴史上,おそらくはじめてのことであっ た(ポルトガル領時代は,国境を接する 行政自治体が発行する通行許可証があれ ば可能であった)。パスポート申請は首都 のディリのみ可能で,パスポート申請費用 60USD のほかに,ビザ査証代 25USD が 必要である。現金収入の少ない地元住民にとってこれは実質国境をこえることが不可能であること を意味した。そのため Jalan Tikus(ネズミの道)と呼ばれる抜け道を使い非合法の往来がおこな われていた。 しかし 2012 年よりボーダーパス(Pass de Fronteira)による通行が可能になった。これにつ いては申請費用不要で,当該自治体における取得が可能(コバリマ県,ボボナロ県)となった。 2 飛び地(オイクシ) ティモール島西部にある東ティモール 民主共和国の飛び地であるオイクシ県の 主要民族集団は,ダワン語を母語とする ダワン(アトニ)人である。独立後,東 ティモールとの結びつきが強くなり,ディ リ−オイクシ(ポンテマカッサル)間の 300 人乗フェリー(週 2 便,片道 8USD) を利用し,多くの若者がディリの大学に 通う。テトゥン語も普及しつつある。 地図 1 ティモール島の言語分布 地図 2 ウェハリ王国の領域(16C)

参照

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