<研究ノート>ハプスブルクの「忘れられた植民地(
?)」 : ボスニア・ヘルツェゴヴィナ統治(1878
−1918)をめぐる研究動向
著者
村上 亮
雑誌名
関学西洋史論集
号
36
ページ
53-66
発行年
2013-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/12805
1 第一次世界大戦の終結とともに滅亡したハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガ リー)の特色は、おもなものだけで12を数える多民族による構成、帝国の統合軸とし て機能した王朝、1867年以後の二重帝国(アウスグライヒ)体制に整理できる。さら に、1870年代にはじまる帝国主義時代において、ヨーロッパ列強のなかで唯一、海外 植民地をもたなかったことも加えられるだろう。この点について、ハプスブルク帝国 は帝国内の民族問題に忙殺されたことよって外に目を向けられなかった、とイギリス の現代史家ジョルは論じている2。 とはいえ、近年ザウアーの研究により、ハプスブルク帝国のエジプトやスーダンに おける海外市場の開発、あるいはニコバル(1858年)、サハラ西部(1899年)、アナトリ ア南東部(1913年)などにおける植民地獲得の試みが明らかにされている3。また、 オーストリアの経済史家コムロジーは、ハプスブルク帝国内での政治、経済面での中 心=周辺関係を分析している。そこでは、ハプスブルク帝国では周辺地域が中心地域 の経済的成功に大きく貢献したこと、経済的な発展水準の大きく異なる地域間の分業 体制が帝国全体の統合に明白に役立ったこと、帝国崩壊の要因は経済的な格差そのも のではなく、経済力と政治力の不均衡にあったこと、が述べられている4。 以上に加え、次第に明らかにされつつあるハプスブルク帝国内部の「植民地主義」 には、ファイヒティンガー編纂の論集がさまざまな角度から光をあてている5。その なかでルートナーは、ハプスブルク帝国を「異言語地域を自らの意のままにし、経済 的に搾取するために、帝国主義的に統治した『擬似植民地帝国Pseudo-Kolonialmacht』 (内陸植民地主義innenkontinentaler Kolonialismus)」と規定した。その際に彼は、政治 面や経済面のみならず文化面でもドイツ・オーストリアとハンガリーのそれが支配的 な立場にあったことを指摘するとともに、ハプスブルク帝国のなかで狭義の植民地主 義を適用できるのはボスニア・ヘルツェゴヴィナ(以下、ボスニア)のみであると論
ハプスブルクの「忘れられた植民地(?)
1」
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ統治(1878−1918)をめぐる研究動向
村 上
亮
研究ノート
じている6。
これに関して、イギリスの歴史家テイラーは、ヨーロッパ列強の植民地とボスニア
の類似性を次のように述べている。「この二州〔ボスニア〕は、〔ハプスブルク帝国が〕
『白人の義務white man’s burden』を負った地域であった。他のヨーロッパ列強がその
義務を果たすためにアフリカで植民地をもとめる間に、ハプスブルク帝国はボスニ ア・ヘルツェゴヴィナに自身の余分な知的産物―つまり行政官、道路建設作業員、考 古学者、民族誌学者、それに本国からの送金で暮らす人びとさえも送り込んだのであ る7」。同じく南塚信吾氏は、ボスニア支配にハプスブルク帝国の「帝国主義」を看取 している。すなわち、氏はボスニアにおける既存の共同体的社会の崩壊、市民的権利 や生命財産の保護を装った政治・経済的支配、近代的な行政機構や資本の論理などの 「植民地支配の真髄」の存在を指摘し、日本の韓国支配との類似性にまで言及してい る8。 それに対して、ハプスブルク史の専門家カンは、ボスニア占領(1878年)におけるハ プスブルク帝国の軍事行動や併合(1908年)には批判的であるものの、以下の理由か ら、ボスニアを「白人が有色人種を支配する」海外植民地とは異なると結論づけた。 ①ハプスブルク帝国にも「帝国主義的傾向」は存在したが、それは非効率的かつ無計 画なものであった。②依然として、併合までの30年間は、オスマン帝国がボスニアの 領土主権をもっていた。③ボスニアの立場は帝国両半部に従属していたが、ボスニア 議会(1910年)は相対的に大きな権限をもっていた。④ボスニアが帝国に経済的利益 をもたらさず、過酷な植民地的搾取がおこなわれなかった、の四点である9。 このように、ボスニアが植民地であったかどうかの議論は、いまだ結論をみていな い。もっともこの問題は研究者のスタンスによって大きく左右されるため、一般的な 植民地の概念に基づいて論じても、議論を収束させることは難しいと思われる。むし ろ前出のルートナーが、ハプスブルク統治下ボスニアの「植民地主義」については当 時の状況の詳細な検討が必要である、と述べているように、支配の実態をみることこ そ先決すべき課題ではないだろうか10。そこで本稿では、ハプスブルクのボスニア支 配を分析するための準備作業として、経済政策を論じた研究を取りだし、その全般的 な傾向をつかむことを目指したい11。 2 両大戦間期の研究において、ハプスブルク帝国は総じて消極的に評価されたといわ れる12。その代表格といえるハンガリーの社会経済学者ヤーシは、ボスニア統治につ いても否定的な見解を示す。つまり、軍部の支配下におかれたハプスブルク期ボスニ
アにおける経済活動は、現地住民の利害ではなく、資本主義的な植民地事業の利害に 基づいて行なわれ「資本主義的な植民地capitalistic colony」となったとみる。さらに、 ボスニアの非識字率が90パーセントに達していたこと、ハプスブルク政権の支持基盤 がムスリムの地主がキリスト教徒を支配する農地制度に依拠していたことも指摘して いる13。またイギリスの歴史家ワトソンは、1878年以後の経済発展は認めつつも、初 等教育制度の不備や農地問題の未解決を批判する。このようなヤーシやワトソンによ る批判点は、その後の研究でも広く見られるものである14。本節では、以上のような 流れを汲むハプスブルク統治に批判的なユーゴスラヴィアの研究者の仕事をたどって みよう15。 大戦間期にチョロヴィチは、ハプスブルク期ボスニアの経済に言及した際、国有林 の不当に安い価格での外国企業への払い下げ、現地製造業を圧迫しつつ、外国企業を 優遇した関税政策、地域の利害ではなく、軍事、政治的動機に基づいた鉄道敷設など をふまえ、ボスニアをオーストリアとハンガリーの工業と金融界のために搾取された 「植民地koloniju」と断じている16。 この視角を受け継ぐフレリャは、ボスニアの資源を活用した製材、化学、冶金、煙 草産業の創設、発電所の設置などにみられるように、1878年以後における一定の工業 発展は認めた。一方で彼は、オーストリア工業界がボスニアをイギリス、フランス、 ドイツ工業に対する競争力を強化するための原料供給地や工業製品と資本の輸出先と したこと、当該期のボスニアでは、資源の乱開発、現地の家内産業の圧迫、現地労働 力の搾取など経済的に後進地域への資本主義者の侵略にみられる典型的な特質が認め られることを批判した。また、工業労働者の大半が域内消費用ではなく、帝国本国の 必要に応じた輸出品を製造する企業に雇用されていたことにも言及している。そのう えで彼は、「占領者〔ハプスブルク〕は、植民地kolonije ボスニア・ヘルツェゴヴィナ において、原料資源の獲得と工業製品や資本の輸出を結びつけた」と述べ、その結果 としてボスニアに「負の遺産」が残されたと結論付けた17。 以上のような把握は、当該期ボスニアの社会経済に詳しいユズバシチにも見てとれ る。彼は、ハプスブルク帝国が、ボスニアをバルカン地域の「模範」にすべく、物質 的な繁栄、経済や社会的状況の改善を図ったものの、この前提条件であった農地改革 には予算を振り分けなかったことを批判した。彼はまた、そのために農業生産が停滞 したこと、ならびに農村住民を低い生活水準にとどめた重い税金が、他の分野におけ る開発を実現したにすぎないことも指摘している。それに加えて、彼はボスニアの工 業発展についても、政治面、憲法面での従属的な立場によって著しく阻害されたこと をあげる。より詳しく言えば、オーストリア工業が、原料供給地と製品市場としてボ
スニアを利用した一方、ハンガリーが、製鉄や家畜輸出などにおいてボスニアの経済 発展を妨げたこと、世紀転換期以後、鉄道敷設問題などをめぐるオーストリアとハン ガリーの対立が激化したことにも言及した18。ユズバシチはまた、ハプスブルク帝国 の共通関税領域への編入(1880年)によって、ボスニアが帝国本国の経済・財政制度に 従属させられ、ボスニア市場が本国の製品に独占されたことも記している19。 ユズバシチも言及しているが、ハプスブルク統治のなかで再三にわたり非難の的と なったのは農地制度(クメット制度)にかかわる政策である20。すなわち、ハプスブル ク帝国によるクメット制度の存続が、ベルリン会議(1878年6−7月)で表明した農 地問題解決に関する公約違反であること、それによって農業生産の発展を妨げたこと が批判されている21。たとえば、ユーゴスラヴィアの土地制度の歴史をたどったトマ セヴィチは、ハプスブルク期には、ムスリムに有利なクメット制度が維持されたため に農地問題はほとんど解決されず、それがボスニア農業の発展を遅らせたと批判す る22。 共通財務相カーライKállay(在職:1882−1903年)の統治政策を精査したボスニア のクリャリャチチは、以下の問題点をあげている。①カーライ政権がムスリム地主を もっとも信頼できる社会層とみなし、彼らを保護したこと。②オスマン統治期に由来 する農地制度の維持が、ムスリムとセルビア人の対立、農業生産の沈滞など政治、社 会、経済的に悪影響を引き起こしたこと。③ハンガリーを中心とする帝国内の農業利 害の反対と財源不足のため、農業振興策はかぎられた範囲でしかおこなわれなかった こと。④ハプスブルク期につくられた鉄道、道路、公共建築物、軍事施設は、農民層 からの過酷な徴税によりつくられたことなどである23。さらに、サライェヴォ事件を 詳細に分析したデディエールは、ベルリン会議で約束されたクメット問題の解決が、 地主が強い政治力を持つハンガリーに妨害されたこと、クメット制度を解体しなかっ たことが、サライェヴォ事件の原因のひとつであることを指摘している24。 ここまで見てきた諸研究と若干スタンスが異なるのは、行政府の刊行史料のみなら ず、文書館史料をも駆使したハウプトマンの研究である25。彼はまず、ボスニアでの 工業化政策が本国からの財政支援がないままに始められたにもかかわらず、製材業と 製鉄業を中心に一定の「成果」がみられたこと、しかし、その「成果」がオーストリ アとハンガリーにおける反発を惹起し、とりわけ製鉄業に対するハンガリーの妨害が 激しかったことを指摘する。そのうえで、ハンガリーが、オーストリアとボスニアの 鉄道接続を阻害しただけでなく、鉄道運賃の操作によりオーストリアからボスニアへ の輸出の妨害を試みたこと、ならびに1908年まで「占領」という不安定な国際法的な 立場が投資を妨げ、その結果として国家が投資家と企業家の役割を引き受けざるを得
なかったこともあげている。 もっとも、ハウプトマンの研究の特徴は農業に関する考察にある。彼は、ハプスブ ルク帝国が、1875年以降多くの難民を生み出す原因となったクメット問題を解決せね ばならなかったものの、財政自弁の原則がクメット問題の迅速な解決を妨げたことを 確認した。そのうえで、ボスニアでは住民一人当たりの納税額が帝国他地域と比べて 高かったこと、地主への物納が農業生産の効率化を阻害したため、農産物に課される 10分の1税と農業従事者の増加率が比例しなかったことなどの問題点を論じている。 もっとも、ハウプトマンの議論は以上にとどまらない。そのひとつは、従来の研究 では両者の蜜月関係が再三指摘されている、ハプスブルク政権とムスリム地主層の関 係である。これについてハウプトマンは、ハプスブルク政権が地主とクメットの訴訟 において、地主に不利な裁定をくだすこと、地主が「所有」していた森林が国有林と して没収されることが少なくなかったことを示した26。また彼は、ハプスブルクの施 策を頭から否定せず、クメットが地主の土地を買い取るために公的資金を融資するこ とを定めた法律(1911年)については一定の評価をあたえている27。さらに自由農民 の零細化などクメット制度以外の問題の言及もハウプトマン独自のものといえる。 ハウプトマンの主張を概括的に整理するならば、ボスニアはオーストリアとハンガ リーに対して従属的な立場におかれながらも、ハプスブルク政権によって工業化の基 盤が作り出されたこと、しかしその工業化の成果が、農業部門の停滞によって相殺さ れたことを裏付けたといえる。さらにいえば、ハウプトマンが、クメット制度の維持 を批判するにとどまらず、ボスニア農業のありようをより詳細に分析した点も注目す べきであろう。 3 ここまでユーゴスラヴィアの研究者の著作を中心にみてきたが、オーストリアを含 めた欧米の研究は、ハプスブルク期ボスニア経済をどのように論じてきたのであろう か。その先鞭となったのは、ボスニアのみならず東欧全域を研究対象とするシュガー である。公刊史料のみならず、ウィーン、サライェヴォの文書館史料にも分析の対象 を広げた『1878−1918年間のボスニア・ヘルツェゴヴィナの工業化28』の要点は、以下 の二点に整理できるだろう。 第一は、工業化と民族政策の関連性の指摘である。シュガーは、ハプスブルク期の 鉄道、工業の大半を作り上げた、共通財務大臣カーライの意図を次のように記してい る。「カーライは、本国からの経済支援なしに新領土を治めるという任務を真摯に引 き受けた。彼はまた、威信のため、オーストリア・ハンガリーの外交、主としてバル
カン政策のため、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ行政が可能なかぎり多くの成功をおさ めねばならないと確信していた。つまり、オーストリア・ハンガリーは、ボスニア・ ヘルツェゴヴィナから帝国にとって良き市民を作り出すことによってのみ、南スラヴ 民族の統一を目指す構想を妨げることができたからである29」。この一節は、ボスニア においてハプスブルク政権が直面した課題とともに、彼らの工業化政策が住民に対す る懐柔策としての一面をもっていたことを示唆するものであろう。 第二は、各工業部門の詳細な検討である。シュガーはハプスブルクによる一連の政 策をすべて評価したわけではない。たとえば、製鉄業や製粉業におけるハンガリーの 妨害に加え、製紙産業、蒸留酒や製糖産業の低い収益性といった問題点もあげた。そ の一方、製塩業や煙草製造業、木材精製業や塩化物精製業、域内の生産物を活用した ソーダ製造業に代表される化学工業がボスニアの工業化に貢献した点も指摘する。 シュガーは、カーライが積極的に工業誘致を進めたのに対し、その後継者ブリアーン Burián(在職:1903−12年)が前任者によって設立された企業の多くを「温室植物」と みなし、拡大に消極的であったことも記している。 シュガーは、ハプスブルクの工業化政策に目的と手段の不一致がみられたこと、と くにハンガリーによる妨害が多々みられたことをふまえながらも、工業化の進展に加 え、法と秩序が維持されたこと、彼らが残した道路網や鉄道、発電所、水道設備、工 場施設などがボスニアにとって恒久的な利益となったことをふくめて、帝国の開発政 策に一定の評価を与える見解を示したといえる30。 続いて、イギリスのバルカン経済史家パレレの仕事をみておきたい31。パレレは、 18−20世紀初頭におけるバルカン諸国の経済を取りあげるなかで、比較史的な手法も 用いつつ、ハプスブルク期ボスニアの経済を詳細に考察した。そのあらましは、およ そ四点にまとめることができるだろう。 第一は、オーストリアとハンガリーという二つの「本国」とボスニアの関係につい てである。パレレはまず、「ボスニアは、当局者にとって時代遅れで未開の土地であり、 オーストリア・ハンガリー帝国の文明化の使命を待つものであった。ハプスブルク政 権は、1878年から1918年まで新たな州〔ボスニア〕をオーストリア・ハンガリーの政治 と経済に結合しようと試み、本国の法規にそくして加工される粘土のようにボスニア 経済を扱った」と、その従属的立場を確認する32。そのうえで彼は、鉄道政策だけでは なく、獣疫を理由とするボスニア豚の輸出妨害、製粉業やマッチ製造業の抑止などの ハンガリーの悪影響を述べている。また、カーライがハンガリーからの圧力を無視し て政策を進めたのに対し、ブリアーンがハンガリー経済界からの圧力に屈することが 多かったとする見解も示している。
第二は、1878年以後のボスニア社会の変化についてである。パレレは、鉱工業労働 力の割合、人口一人当たりの鉄道路線や手紙の流通、対外輸出額に関して、周辺国と の比較をおこなった。鉱工業労働者の割合については大戦前夜にはロシアと大差はな く、セルビアやブルガリアを大きく上回っていたこと、鉄道の総延長についてはロシ アには劣るもののブルガリア、セルビアには優っていたこと、手紙の流通量や対外輸 出額については、ロシア、セルビア、ブルガリアよりも多かったことを明らかにした。 もっとも、セルビアやブルガリアよりも相対的に低いボスニアの識字率に見て取れる 「悲惨なまでの教育軽視」、あるいは相対的に高い幼児死亡率から公衆衛生制度の問題 にまで論及していることにも注意しておきたい33。 第三は、農地政策に対する見解についてである。パレレも上で述べた農地政策に対 する批判的見解を踏襲する。つまり、①ハプスブルク行政はクメットの解放を拒否し なかったが、土地所有者への莫大な補償を恐れ抜本的な措置に踏み切らなかった。② 1878年以後、ハプスブルク政権はクメットの権利を保証したが、オスマン帝国の法律 に依拠した規制を図ったため、その改革は不十分であった。③クメット制度が廃止さ れなかったため、農民一人当たりの生産量は、世紀転換期までは上昇傾向にあったが、 それ以後は減少傾向に転じた。さらにクメット制度の維持は、飼料作物の栽培も阻害 したために畜産経営の効率化も妨げた、とする見解である。 第四は、社会経済状況の変化とサライェヴォ事件の関連についてである。パレレは、 ハプスブルクの「悪政」がボスニア住民を抑圧し、それがサライェヴォ事件を引き起 こしたとする見方を否定した。つまりパレレは、「〔ボスニア〕住民はバルカン諸国に 比べると高い水準の交通、通信機関を利用することができ、経済活動は交易を通じて 浸透した。大規模な工業が、その他のバルカン諸国に比べると高い賃金を労働者に支 払った。ボスニアにおける労働者1人あたりの収入は、バルカン諸国の水準から中欧 のそれにまで上昇した」と述べ、経済的成功が政治的緊張を緩和したと把握する34。 そのうえで、サライェヴォ事件はハプスブルク帝国の「文明化の使命」の失敗を意味 せず、むしろその成果がボスニア社会で一般に受容されていたからこそ、暗殺という 過激な手段がとられたと主張した。 以上を総合すると、パレレは農業生産の発展に対しては否定的な評価をくだしたも のの、全体としてはハプスブルク期の経済発展を肯定的に理解した。もっとも、彼が 「1914年までのボスニア経済の発展が例外的であったとしても、これは植民地に類す る干渉に基づく、外部からの強制によるところが非常に大きかったためである」とも 述べているように、経済発展の長所と短所の双方に目を配っていることも指摘されて よいだろう35。
最後に、ハプスブルク帝国の南東欧や小アジアなどへの進出をたどり、その「帝国 主義的」傾向を分析したコルムの著作をあげておこう。コルムは、ボスニア統治に関 する先行研究を整理したうえで、若干の私見を提示した。その要点は下記の三点に集 約できる。 一つ目は、ボスニアと列強諸国の「植民地」との比較である。コルムはまず、共通 関税領域への編入と本国の貨幣制度や専売制度、消費税の導入、交通網の設置、工業 化の進展などをたどり、ボスニア経済における原料輸出の強制と加工産業建設の妨害 という本国と植民地の「慣行」を確認した。そのうえで、18世紀以降の植民地帝国を 分析したフィールドハウスの研究を援用し、一般的な植民地経済との比較を試みてい る。そこからコルムは、財産の略奪やボスニアにおける税収の本国財政への編入、本 国よりも高利率の投資はほとんどみられなかったと判断する。他方で、ボスニアにお ける税収や生産物の借款返済、本国企業の収益、占領経費などへの転用、木材や鉱物 などの天然資源の搾取、本国製の工業製品の流入により現地産業に多大な打撃を与え た不利な通商条件の強制は認めている36。 二つ目は、ハプスブルク帝国とボスニアの地理的関係がもたらす問題である。コル ムは、ハプスブルク帝国にとってもっとも深刻な南スラヴ問題にかかわるセルビアと モンテネグロがボスニアに隣接することを念頭におき、次のように記している。「ボ スニアが遠く海洋を隔てた地域ではなく、ヨーロッパの中心部、そしてオーストリア・ ハンガリーに隣接していたという事実は、当然、その他の帝国主義的列強がその海外 植民地で関知することのなかった、外交、内政にかかわる非常に特殊な問題をもたら すことになった37」。 三つ目は、ボスニアにおけるオーストリアとハンガリーの対立である。これに関し てコルムは、鉄道敷設問題を念頭におきつつ、下のように記している。「その他の植民 地列強に類するオーストリア・ハンガリーの帝国主義は、ボスニアには存在しなかっ た。なぜなら、オーストリアとハンガリーに共通する利害がなかったからである。反 対に、オーストリアとハンガリーの対立は、他所と同じくボスニアにおいても一貫し た帝国主義的政策を妨げた38」。以上のハプスブルク帝国とボスニアの関係について のコルムの考察は、当時のヨーロッパ列強が有していた海外植民地との共通点と相違 点を整理した点で重要である。 4 本稿では、ハプスブルク統治下ボスニア経済に関する研究を分析してきた。それを 整理すると、次のようになるだろう。
第一に、ボスニア統治における経済政策の評価については、どのような立場に立脚 するかにより大きく異なっていたことがわかる。フェアファートによれば、旧ユーゴ スラヴィアの研究は、概してボスニアをハプスブルク帝国による搾取対象にされた「植 民地」とみなしており、そこにはかつての帝国を理想化する「ハプスブルク神話 Habsburgmythos」は見いだせない39。もっとも、これらの研究が用いている史料は限 られた範囲にとどまり、その使用方法にも不満がある。たとえば、ボスニアがオース トリア工業界の原料供給地と販売市場として利用されたという見方は確かに理解しや すいものの、それを具体的に示す証拠が提示されているわけではない。同じことはサ ライェヴォ事件とクメット政策の関係についてもいえる。それとは逆に、ユーゴスラ ヴィア以外の研究は、行政報告や統計資料などを用いることで、当時の変容を「客観 的」に跡づけるとともに、統治政策のもたらした成果と問題の両面を言い当てている ように思われる。 第二に、ボスニアにおける経済政策が、概して帝国本国の利害を最優先におこなわ れた、と捉えられていることもわかる。とくに鉄道や工業化政策、クメット問題に対 するハンガリーの妨害は、すでに見てきたとおりである。今回取りあげた研究から判 断すると、一般的な「近代植民地支配」に付随する現象、すなわち被征服地域におけ る財産や資源の奪取、生産構造の変容、効率的な徴税制度の確立、本国と植民地間の 通商の増加、本国製品の排他的市場化の強制などが、ボスニアにも存在したといえ る40。この背景は、ハプスブルク期ボスニアの経済政策を評価する際に看過してはな らない41。 第三に、コルムも述べているように、西欧列強の海外植民地でみられた事例の一部 がボスニアではみられなかったこともみてとれる。さらに、ハプスブルク帝国には オーストリアとハンガリーという二つの「本国」が存在し、ボスニアがそのどちらに も属していなかったこと、オーストリアとハンガリーの関係も次第に変容したこと、 ボスニアが帝国に隣接していたことなどの相違点にも留意せねばならない。とくに地 理的な隣接関係は、ハプスブルク帝国のかかえる南スラヴ問題ともあいまって、ボス ニア統治に何らかの影響を与えたと推察できる。 もっとも、ボスニア統治については検討すべき課題も残されている。たとえば、先 行研究において批判される農地問題では、ハンガリーの妨害がしばしば指摘されるが その実態はどのようなものだったのであろうか42。またハプスブルク帝国経済におけ るボスニアの役割、あるいはオーストリアとボスニアの関係についても不明瞭な点が 残されている。さらに、ボスニアにおけるオーストリアとハンガリーの対立は、鉄道 問題以外でも生じていたのであろうか。これらの課題については、機会をあらためて
検討することにしたい43。
〈註〉
1 これは、中東欧研究国際学会Internationale Gesellschaft für Mittel- und Osteuropaforschung の主 催で、ウィーンのオーストリア学術協会Österreichische Akademie der Wissenschaften において 開催されたシンポジウムの題名[Österreichs vergessene Kolonie? Bosnien-Herzegowina und die Habsburger Monarchie (1878-1918)](2008年12月11日−13日)を改変したものである。 2 ジェームス・ジョル(池田清訳)『ヨーロッパ100年史』上巻、みすず書房、1975年、119頁。
本稿では、二重帝国体制における西半部を「オーストリア」と表記する。
3 Walter Sauer, “Schwarz-Gelb in Afrika. Habsburgermonarchie und koloniale Frage”, in Walter Sauer (Hg.), K.u.k. kolonial: Habsburgermonarchie und europäische Herrschaft in Afrika, Wien: Böhlau, 2007, S.17-78. とくに、大戦前夜のアナトリアにおける植民地獲得の試みについては、以下を 参照。F.R. Bridge, “Tarde venientibus ossa: Austro-Hungarian Colonial Aspirations in Asia Minor, 1913-14”, Middle Eastern Studies, vol.6-3, 1970, p p .319-330.
4 Andrea Komlosy, “Innere Peripherien als Ersatz für Kolonien? Zentrenbildung und Peripherisierung in der Habsburgermonarchie”, in Hárs Endre (Hg.), Zentren, Peripherien und kollektive Identitäten in
Österreich- Ungarn, Tübingen: Francke, 2006, S.55-78.
5 ハプスブルク帝国の植民地主義については、下記を参照。大井知範「ハプスブルク帝国と『植 民地主義』―ノヴァラ号遠征(1857−59年)にみる『植民地なき植民地主義』―」『歴史学研 究』891号、2012年、17−33頁。
6 Clemens Ruthner, “K.u.k. Kolonialismus als Befund, Befindlichkeit und Metapher: Versuch einer weiteren Klärung”, in Johannes Feichtinger (Hg.), Habsburg Postcolonial: Machtstrukturen und
kollektives Gedächtnis, Innsbruck: Studien-Verlag, 2003, S.111-128. この論集は、ボスニアについ
ても当時の民族誌、演劇などを題材に、植民地主義の言説を分析した論考もおさめている。 またルートナーは下記の論考において、ハプスブルク帝国側、つまり「侵入者」側の言説が、 ボスニアの異質性、後進性を強調したことを示した。Clemens Ruthner, “Kakaniens kleiner Orient. Post/koloniale Lesarten der Peripherie Bosnien-Herzegowina (1878‒1918)”, in Hárs Endre (Hg.), Zentren, Peripherien und kollektive Identitäten in Österreich-Ungarn, Tübingen: Francke, 2006, S.255-283.
7 A. J. P. Taylor, The Habsburg Monarchy 1809-1918. A History of the Austrian Empire and
Austria-Hungary, London: Harper & Row, 1965, p .153.
8 南塚信吾「ハプスブルク帝国と帝国主義―「二州併合」から考える」『帝国と帝国主義(21世 紀歴史学の創造4)』有志舎、2012年、55−161頁。
9 Robert A. Kann, “Trends Toward Colonialism in the Habsburg Empire, 1878-1918: The Case of Bosnia-Hercegovina, 1878-1914”, in Don Karl Rowney, Orchard G. Edward (ed.), Russian and Slavic
History, Ohio: Slavica Publishers, 1977, p p .164-180.
10 Ruthner, “K.u.k. Kolonialismus”, S.115. ハプスブルクのボスニア統治に関する同時代、あるい は研究文献での理解については、下記の論考で若干の解説がなされている。Bojan Aleksov, “Habsburg’s ‘Colonial Experiment’ in Bosnia and Hercegovina revisited”, in Ulf Brunnbauer (Hg.),
Schnittstellen: Gesellschaft, Nation, Konflikt und Erinnerung in Südosteuropa, Munchen: Oldenbourg,
2007, p p .201-216.
11 ハプスブルク支配期のボスニアについては、外交、あるいは民族政策に関する研究が相対的 に多い。外交については、下記を参照。藤由順子『ハプスブルク・オスマン両帝国の外交交 渉』南窓社、2003年;馬場優『オーストリア=ハンガリーとバルカン戦争』法政大学出版局、 2006年。民族政策の近業では、1878年以後の文化、社会面での転換をたどったオーキーの研 究(Robin Okey, Taming Balkan Nationalism: The Habsburg ‘Civilizing Mission’ in Bosnia
1878-1914, Oxford: Oxford University Press, 2007.)が注目される。日本では、柴氏の論考(柴宜弘
「オーストリア=ハンガリー二重王国のボスニア統治と「青年」ボスニア運動」『史観』110号、 1984年、71−85頁。)がある。
12 川村清夫「研究動向 英語圏におけるハプスブルク帝国史研究の動向」『上智史學』47号、 2002年、163−173頁;同「ヨーロッパの後継諸国におけるハプスブルク帝国史の研究動向」 『上智史學』50号、2005年、75−88頁。
13 Oscar Jászi, The Dissolution of the Habsburg Monarchy, Chicago: The University of Chicago Press, 1929, p .413.
14 Robert William Seton-Watson, The Role of Bosnia in international Politics (1875-1914), London: Humphrey Milford, 1932, p p .25-26. これに近い見方をするものとして、セルビアの歴史家バタ コ ヴ ィ チ の 研 究 が あ る。Dušan T. Bataković, “Prelude to Sarajevo: The Serbian Question in Bosnia-Herzegovina 1878-1914”, Balcanica, vol.27, 1996, p p .117-155.
15 以下本稿では、原則として本人あるいはその両親が、「セルビア人・クロアティア人・スロヴェ ニア人王国」、もしくは「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国(1963年以後は、ユーゴスラヴィ ア社会主義連邦共和国)」の出身である場合を、「ユーゴスラヴィア」の研究者とする。 16 Vladimir Ćorović, Bosna i Hercegovina[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ], Beograd: Samostalna
autorska radionica Tanesi, 1925, str.82-83.
17 Kemal Hrelja, Industrija Bosne i Hercegovine do kraja prvog svjetskog rata[第一次世界大戦までの ボスニア・ヘルツェゴヴィナ工業], Beograd: SDEJ, 1961, str.28. ペトロヴィチも、ボスニアが 「海外植民地の代用としての内地植民地」として、帝国の工業界と資本家にとって願わしい存 在 と な っ た と 論 じ て い る。Nikola Petrović, “Der österreichisch-ungarische Ausgleich und die Orientalische Frage”, in L’ udovít Holotík (Hg.), Der österreichisch-ungarische Ausgleich 1867, Bratislava: Verlag der Slowakischen Akademie der Wissenschaften, 1971, S.195-196.
1914. Godine[1878−1914年間のボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける経済発展の特質]”, in Dževad Juzbašić, Politika i privreda u Bosni i Hercegovini pod austrougarskom upravom[オースト リ ア・ハ ン ガ リ ー 統 治 下 ボ ス ニ ア・ヘ ル ツ ェ ゴ ヴ ィ ナ に お け る 政 治 と 経 済], Sarajevo: Akademija nauka i umjetnosti Bosne i Hercegovine, 2002, str.141-153. 鉄道問題についても、下記 の 研 究 が あ る。Dževad Juzbašić (urednik Hamdija Kapidžić), Izgradnja željeznica u Bosni i
Hercegovini u svjetlu austrougarske politike od okupacije do kraja Kállayeve ere[占領からカーライ
政権期ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおけるオーストリア・ハンガリーの鉄道政策], Sarajevo: Akademija nauka i umjetnosti Bosne i Hercegovine, 1974.
19 Dževad Juzbašić, “Die Einbeziehung Bosniens und der Herzegowina in das gemeinsame österreichsch-ungarische Zollgebiet”, Österreichische Osthefte, Bd.30, 1988, S.196-211.
20 このクメット制度とは、おもにムスリムから構成される地主と、おもにキリスト教徒から構 成される分益小作農民(クメット)の地主=小作関係のことである。以下の拙稿を参照。村 上亮「ハプスブルク帝国統治下ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける農地政策―1911年『償 却法』の分析を中心に―」『歴史家協会年報』第2号、2006年、49−63頁。
21 Mustafa Imamović, Privni položaj i untarašnjo-politički razvitak BiH od.1878. do 1918[1878−1914 年間のボスニア・ヘルツェゴヴィナの法的地位と内政の展開], Sarajevo: Magistrat, 20073, str. 59-70.
22 Jozo Tomasevich, Peasants, Politics and Economic Change in Yugoslavia, Stanford: Stanford University Press, 1955, p p .107-111. 次のハジベコヴィチの論考も、トマセヴィチとほぼ同様の 見 解 を 提 示 す る。Ilijas Hadžibegović, “Promjene u Strukturi agrarnog Stanovništva Bosni i Hercegovini (1878-1914)[1878−1914年間のボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける農業人口構 造の変容]”, Jugoslovenski istorijski Časopis, sv.13-1/2, 1973, str.106-114.
23 Tomislav Kraljačić, Kalajev Režim u Bosni i Hercegovini 1882-1903[1882−1903年におけるボス ニア・ヘルツェゴヴィナにおけるカーライ政権], Sarajevo: Veselin Maslesa, 1987, str.483-516. セルビア人の立場からハプスブルク帝国を厳しく批判するヴツィニチもクメット制度の維持 を非難する。Wayne S. Vucinich, “The Serbs in Austria-Hungary”, Austrian History Yearbook, vol. 3, 1967, p p .32-33.
24 Vladimir Dedijer, The Road to Sarajevo, New York: Simon and Schuster, 1966. サライェヴォ事件 とクメット問題の関連は、実行犯のプリンツィプがクメットの子息であったことを念頭にお いたものである。これについて、オーストリアの経済史家ヴェセリーは次のように論じる。 「オーストリア・ハンガリーのボスニア統治についての判断は、両義的である。つまり、経済 的あるいは文化的領域における大きな貢献、経済的な遅れを素早く取戻し、人々の所得を増 やした。その一方で、生産力の不均衡な発展、ボスニアが必要とするものへの支援のためら い、クメット問題のもつ経済的・政治的な作用の誤認である。これら〔の問題〕は、経済面で の 成 果 を 疑 問 視 さ せ、1914 年 の 暗 殺 に よ る 破 滅 に 寄 与 し た」。Kurt Wessely, “Die
wirtschaftliche Entwicklung von Bosnien-Herzegowina”, in Adam Wandruszka / Alois Brusatti (Hg.),
Die Habsburgermonarchie 1848-1918, Bd. 1, Wien: Verlag der Österreichischen Akademie der
Wissenschaften, 1973, S.566.
25 Ferdinand Hauptmann, Die österreichisch-ungarische Herrschaft in Bosnien und der Herzegowina
1878-1918: Wirtschaftspolitik und Wirtschaftsentwicklung, Graz: Inst. f. Geschichte d. Univ. Graz,
Abt. Südosteurop. Geschichte, 1983.
26 これについては、ハウプトマン編纂の史料集を用いた下記も参照。丹羽祥一「一九世紀末の ボスニアにおける土地問題に関する一考察―テスケレジッチの嘆願書の分析を通じて」下村 由一、南塚信吾共編『マイノリティと近代史』彩流社、1996年、118−140頁。森林政策につい ては、下記の拙稿を参照。村上亮「ハプスブルク統治下ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおけ る森林政策―森林用益をめぐる国家規制と慣習的権利の対立と妥協―」『スラヴ研究』第57号、 2010年、97−122頁。 27 これに関しては、前掲拙稿とともに、ハプスブルク統治期ボスニアにおけるベグBeg(ムス リ ム の 大 地 主)家 系 の 土 地 所 有 の 変 遷 を た ど っ た 以 下 の 研 究 が 有 用 で あ る。Husnija Kamberović, Begovski zemljišni posjedi u Bosni i Hercegovini od 1878. do 1918. godine,[1878− 1918年間のボスニア・ヘルツェゴヴィナにおけるベグの所有地]Zagreb: Naučnoistraživački Inst. Ibn Sina, 20052.
28 Peter F. Sugar, Industrialization of Bosnia-Herzegovina, 1878-1918, Seattle: Washington University Press, 1963.
29 Ibid., pp.61-62. 30 Ibid., pp.193-220.
31 Michael Palairet, The Balkan Economies c.1800-1914, Cambridge: Cambridge University Press, 1997, pp.203-212, 217-238.
32 Ibid., p.203.
33 当該期ボスニアの初等教育については、下記を参照。米岡大輔「ハプスブルク統治下ボスニ ア・ヘルツェゴヴィナにおける初等教育政策の展開」『東欧史研究』28号、2006年、24−44頁。 衛 生・医 療 政 策 に つ い て は、下 記 を 参 照。Brigitte Fuchs, “Orientalizing Disease Austro -Hungarian Policies of ‘Race’, Gender, and Hygiene in Bosnia and Herzegovina 1874-1914”, in Christian Promitzer (ed.), Health, Hygiene and Eugenics in Southeastern Europe to 1945, Budapest: Central European University Press, 2011, p p .57-85.
34 Palairet, The Balkan Economies, p .237. 35 Ibid., p.171.
36 Evelyn Kolm, Die Ambitionen Österreich-Ungarns im Zeitalter des Hochimperialismus, Frankfurt am Main: Lang, 2001, S. 235-253(と く に S. 251); D. K. Fieldhouse, The Colonial Empires: A
37 Kolm, Ambitionen, S.239. 38 Ibid., S.240.
39 Stijn Vervaet, “Some Historians from Former Yugoslavia on the Austrohungarian Period in Bosnia and Herzegovina (1878-1918). A Reality of Imperialism versus the Golden Years of the Double Eagle?”, Kakanien Revisited, http://www.kakanien.ac.at/beitr/fallstudie/SVervaet1.pdf(2013年1月 24日)「ハプスブルク神話」については下記を参照。マグリス・クラウディオ(鈴木隆雄、藤 井忠、村山雅人訳)『オーストリア文学とハプスブルク神話』書肆風の薔薇、1990年、17頁。 40 Ania Loomba, Colonialism-postcolonialism, London: Routledge, 1998, p .3f.; Jürgen Osterhammel,
Kolonialismus: Geschichte, Formen, Folgen, München: Beck, 20065, S.78-88. 植民地主義が植民地
経済に与えた影響について、北村次一氏は次のように整理している。「ヨーロッパ文化・思 考・制度の普及は、多くの点において、植民地に対する進歩を意味した。しかしそれは、たと え、原始的なものであったにせよ、現存の文化に破壊的に作用した。土着民の社会構造の破 壊から、結果的に重大な社会的弊害が生じた。それは永続し、二つの文化の衝突に際して、 新旧勢力、新旧観念・制度の混合から、分裂と葛藤を内在する『植民的文化』が成立した。そ れは『植民的経済発展』によって規定され、しかも後者に一定の制約を与えるものであった」。 北村次一『植民地主義と経済発展』啓文社、1970年、22頁。 41 もっともオーストリアの研究者の一部は、この点への意識が希薄であり、ハプスブルクの成 果を過度に強調する傾向が見受けられる。cf. Ernst Bauer, Zwischen Halbmond und Doppeladler.
40 Jahre österreichische Verwaltung in Bosnien-Herzegowina, Wien: Herold, 1971.
42 上述の研究者にくわえ、ハプスブルク帝国の南スラヴ人地域における農業を分析したカ トゥーシュも、ハンガリーの妨害を指摘する。László Katus,“Hauptzüge der kapitalistischen Entwicklung der Landwirtschaft in den südslawischen Gebieten der Österreichisch-Ungarischen Monarchie”, in Sándor Vilmos (Hg.), Studien zur Geschichte der Österreichisch-Ungarischen
Monarchie, Budapest: Akad. Kiádo, 1961, S.113-165(とくに S.143-144).
43 世紀転換期までの農業振興策については、以下の拙稿を参照。村上亮「世紀転換期ボスニア・ ヘルツェゴヴィナにおける農業政策:ハプスブルク帝国による周辺地域開発の展開」『西洋史 学』第234 号、2009 年、38−48 頁。ただし、ここでは大戦前夜の政策については検討できて いない。なお、ボスニアの経済的役割については、下記の拙稿で家畜の重要性を指摘した。 村上亮「ハプスブルク統治下ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける家畜衛生政策―獣疫問題 にみる二重帝国体制の一側面―」『東欧史研究』第35号、2013年(刊行予定)。