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戦前の史料にみるケラマジカの記述: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

戦前の史料にみるケラマジカの記述

Author(s)

城間, 恒宏

Citation

史料編集室紀要(24): 95-116

Issue Date

1999-03-26

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/7522

Rights

沖縄県教育委員会

(2)

史料 編 集室 紀 要 第24号 (1999)

戦 前 の 史 料 に み る ケ ラ マ ジ カ の 記 述

城 間 恒宏☆

は じめ に

ケラマ ジカ

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は、沖縄県下、慶 良問諸島の阿嘉島、屋嘉比島、 慶留 間島お よび外地島に棲息するニホンジカ

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の-亜種 である。1955年 (昭 和30) に琉球政府 によって天然記念物 に指定 され、1972年 (昭和47)の沖縄 の 日本復帰 に 伴 い、指定名称 『ケラマジカ及 びその生息地』として国指定の天然記念物 となった。現在 、 屋嘉比 島 と慶留間島の一部の地域 に棲息す る個体群が保護の対象 となっているo ケラマ ジ カは もともと、九州か ら人為的に移入 された個体 に由来す る とされている。 しか しそれ に もかか わ らず本土のシカに比 して、体サ イズや枝角が よ り小 さ く、体色が よ り暗色 を帯 び る とい った特徴 を示す とされている。 (川島,1980;大泰司,1986)0 ケ ラマ ジカの古い記録 としては1713年 (廉興52)に編集 された 『琉球国由来記』中の 「是 崇禎年 間、尚氏金武王子朝貞、従薩州帯来、慶 良間島ノ内、古場島二放飼也」 (外 聞 ・波 照 間,1997)、す なわち 「崇禎年 間 (1628-1644年) に金武王子朝貞が薩摩 よ り鹿 を持 ち 帰 り慶 良問諸島の古場 島 (久場 島)へ放 した」 との記述が挙 げ られる。 これがケラマジカ に関す る最古の記録 とされている。 また、 よ り新 しい歴史的文献等 をみてみ ると、中国 よ り琉球へ渡 島 した脚封債が記 した珊封使録や、明治、大正期 の新聞 に もしば しばケラマ ジ カが登場す る。 これ までに もケラマ ジカに関す る記録、新 聞記事等 については自然科学系 の報告書 でい くつか紹介 されて きたが (座 間味村,1976;沖縄県教育委員会,1979,1996;座 間味村史 編集委 員会,1989a等)、戦前 (明治 。大正)の新 開が抜 けている等、歴史資料 としては まだ不充分 であった。そ こで今回、 自然科学系の文献 を除いた戦前のケラマジカの記録 に ついて調査 し、整理 してみ ることに した。調査期 間が短期 であったため、 ここで紹介す る 記録 の リス トは完全 な もの とは言 えないか も知れないが、ケ ラマジカに関す る戦前の資料 を検索す るに当たっての一助 として、今後 の研究の発展 に役立 てていただければ幸いであ る。 ☆しろま つねひろ (史料締集室)

(3)

-95-戦 前 の史料 にみ るケラマ ジカの記述

史料調査 は、沖縄県公文書館史料編集室 に所蔵 されてい る脚封便 録、沖縄県史 または市 町村 史収 録 の新 聞集成 お よび新 聞記事 (琉球新報 ・沖縄 毎 日新 聞) の紙焼 き版

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B4

版) 中の、 シカに関す る記事 を探 す方法 で行 なった。 抜 き出 した記事 は、その内容 を もとに して便宜的 に 「琉球語」「物産」「鹿 狩 り」「交易」 「有 害獣駆 除

「その他」 の

6

つ に分 けた。新 聞記事 については、新 聞紙名 、発行 年月 日、 紙面 、見 出 し、筆 者、本文 の順 で示 した。それ以外 の もの については、基本 的に文献名、 発 行 年、"/" して解題文献 、編著者 、見 出 し、本文 の順 に記 した。本文 はなるべ く原文 の まま掲載 し、原 文 中の記号

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㊨""

◎""A "もその ままに した. しか し、一部 の旧漢字 は新 漢字 に置 き換 え、文章 の内容 で鹿 とは関わ りのない部分 は省 略 した。 また印刷不 良な どで判読 で きない文字 は "□"で示 した。 Ⅰ 「琉球 語」にみるケラマジカ Ⅰ-① 使琉球録(1534)/陳侃 (普)巾原 田高雄 (訳注)(1995) 陳侃 夷語 附 鹿 (加 目) Ⅰ-② 中山俸信録 巻第六(1721) /企画部市史編集室(1977) 徐裸光 琉球語 鳥獣 鹿 (阿倍失失 ) 【解説と考察 】 どち らも、 中国か ら琉球 に派遣 され た脚封使 によって記 された冊封使録 で、滞在 中に見 聞 した琉球 の風俗 習慣 や言語 ・地理 ・歴史 な どを紹介 した ものであ る。上記 は琉球語 を紹 介 した もので、 意味 と発音が記 されてい る。 陳侃 の便 録 (ト① ) をみ る と、 当時 「加 目」 と発音 され る鹿 を示す琉 球語が あ った こ とが わか る。原 田

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は陳侃 の時代 とは異 なる危険性 を認 めつつ も、現代北京語の発 音 の ローマ字表記 を基 に、 これ に 「jia・m山 との発音 を付 してい る。後 に渡来 した徐楳光 は鹿 の琉球語 を 「吋曙失失」 と紹介 し (ト② )、 その発音 は那覇市企画部市史編集室

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で は コオ シシ と付 されてい る. しか し、 これの北京語読 み は 「h昌一wd-shi-shi」であ る。現在 で はケ ラマ ジカの方言名 は阿嘉 島 :コーナシ (当山

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、首 里 :コ-ヌシシ

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『沖縄古語大辞典』編集委 員会

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、座 間味村 :コ-ヌシ または コー ナシ (座 間味村

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6-史料 編 集 室紀 要 第24号 (1999) 史編集委貞会

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a)

と され て い る。 これ らの方 言 は数 百 年 前 に徐 裸 光 が記 した 「阿 晴 夫 失 」 と類 似 してお り、 同一 の系 統 と と らえ る こ とが で きる。 一方 、 陳侃 が来 流 した当時

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年 ) と、徐 模光 の釆琉 時

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年) とで は鹿 を示 す 方 言 に違 いが み られ る。 両者 の 間 には約 二百 年 ほ どの 開 きが あ るが、鹿 を示 す方 言 の変 遷 の 中で生 じた この ギ ャ ップは非常 に興 味 深 い もの で、鹿 を意味 す る方 言 の二 つ の系 統 が異 時 的 に存 在 した こ とが示 唆 され る。 この こ とにつ い て は、 また後 ほ ど触 れ る こ とに したい。

琉 球 の 「物 産 」にみ るケラマジカ Ⅱ-① 使琉球録(1579) /那覇市企画部市史編集室(1977) 粛崇 業 ・

茶 「大明一統志」 を受けて 野に熊、熊、財、虎、狼、豹の猛獣鮮 し。而 して滞 り鹿 を出すのみ。且つ馬、牛、羊、家、 難に富むも、形多 く痩削、其 の債極めて廉 し。 Ⅱ-② 使琉球録(1606) /那覇 市企画部市史編集室 (1977) 夏子陽 ・王士禎 「大明一統志」 を受けて 野 に惟れ鹿鮮 し。其の飴は、則 ち馬 ・牛 ・羊 ・家 ・雄、族類多 く、両 も慣 また廉 きこと甚 だ し。 Ⅱ-③ 中山博信録 巻第 四(1721) / 那覇市企画部市史編集室 (1977) 徐裸光 琉球三十六島 正西三島 馬歯二山ハ、中山ノ正西一百三十里こアリ。乗馬歯山ハ、大小五島こシテ、牛 ・馬 ・莱 ・布 ・文月螺 ・怪石 ヲ産ス。西馬薗山ハ大小四島ニシテ、座間味 ・渡嘉敷等 ノ間切 アリ。 西山尤モ暁痔、罪人多 ク此 二流ス。人多 ク黒色ニシテ漁 ヲ善 クス。能 ク潤水深 ク没 シ、久 々こシテ乃チ出ツ。山下ノ海中梅松 ヲ産ス。山人能ク永二オヨ掴 キテ之 レヲ取 ル。姑達佳

津奇奴マ タ梅松 アリ。馬薗二産スルモ ノ、色久 クシテ退 カザル ヲ良 トス。魚螺 ヲ産 シ、 山こ鹿多シ。姑米山こ近クシテ、 コバシマ 姑巴溜麻山アリ。亦鹿多 ク入居ナシ。 【大意】 /徐裸光 (著)・原田両雄 (訳注)

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馬歯 (きらま)二山 (慶良問諸島)。沖縄 の正西百三十里 にある。乗馬歯山は大小五つの 島か らな り、牛、馬、粟、布、文月、螺、怪石 を産する。西馬歯 山は大小四つの島か らな る。座間味 (ざまみ)、渡嘉敷 (とうか しち)などの間切 (まじり)がある。西の島は最 も 土地がやせてお り、罪人は多 くここへ流罪 とする。色の黒い人が多 く、漁が うまい。水 に お よいで深 くもぐりかな りしてか ら出て くる。島の周辺の海中には梅松 (おおいそばな) を産する。鳥人が上手 にもぐりこれを採取する。久高や津堅にも梅松 (おおいそばな)が あるが、馬歯 (きらま)産の ものは長い間色があせないので良質である。魚や螺 もとれる。 山に鹿が多い。久米島に近 く姑巴溜麻 山 (久場島)があって、ここに も鹿が多 いが人はい ない。

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-97-戦前の史料 にみ るケラマ ジカの記述

Ⅱ-

④ 中山俸信録 巻第六

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) /那覇市企画部市史編集室 (

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徐採光 月令 六 月、悌 桑空 ヲ焼 ク (三月間キテ冬 二至 ル此 ノ月尤 モ盛 ン)掛 蘭香 シ (意亦 コノ月二於 テ、 花 ア リ)桔 梗 花 ア リ。 央 明開 ク。禾畢 ク場 二登 ル。縁 豆収 ム。鹿水 二人 テ魚 トナル (沙魚 岸 二躍 り化 シテ鹿 トナル。鹿熱 ヲ畏 ル舌 ヲ以 テ水 ヲ唯 フ。亦化 シテ沙魚 トナ ル。) 【大意 】 /徐採光 (普)・原田高雄 (訳注)

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仏 桑 (ぶ っそ うげ)空 を焼 く (三月 に開 き冬 まで咲 くが この月 もっ とも盛 ん )。掛 蘭かんば しい (意 もこの月 にはなひ ら く)。桔梗 は な さ く。央 明 (えびす ぐさ) は なひ ら く。穀物す べ て乾場 にひ ろげ る。緑豆 (ぶ ん どう) を収穫 す る。鹿水 に入 って魚 とな る (沙魚 が岸 に 躍 って鹿 とな り、鹿 は熱 さをおそれ舌 で水 を吸 って また化 して沙魚 となる )0 物産 猷 二牛 ・馬 ・羊 ・家 ・犬

猫 ・鹿 ・猿 ・山猪 ア リ。虎 ・免

猪 ナ シ。(明 ノ一統志 二言 7、 ソノ土産熊 ・熊

財狼 ア リ ト.今考 フルニ皆之 レナ シo) 【大 意】 /徐楳光 (著)・原田高雄 (訳注)

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獣 は、牛 ・馬 ・羊 ・家 (ぶ た)・犬 ・猫 ・鹿 ・猿 ・山猪 (い の しし)がい る。虎 ・兎

猪 (の ろ) はい ない (『明一統志』 に 「その土産 に熊 .熊 ・財 ・狼 が あ る」 とあ るが、現在 し らべ てみ て、すべ てい ない )0

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琉球 圃 志略

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/那覇市企画部市史編集室 (

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) 周燈 巻十四 物産 獣の屈 鹿 (姑 達 任 、 西馬歯 、魚螺 山、姑 巴潤麻 山 に皆 之 れ有 り。盛 夏裟 魚 海岸 に躍 り、化 して鹿 と為 る。鹿 は熱 を畏 れ、舌 を以 て水 を噛 り、亦化 して裟魚 と為 る

。)

【大意 】 /周蛭 (著)・平田嗣仝 (訳注)

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鹿 は、 姑 達 佳 ・西馬薗 (西慶 良 問)・魚螺 山 (慶 良 間島)・姑 巴洞麻 山 (久 場 島) には皆 、 之が い る。 盛 夏 に裟魚 が海岸 に躍 り上 って、鹿 に なった もので あ る。鹿 は熱 を こわが り、 舌 で以 て水 をすす ってお り、亦 、裟魚 に変 るこ ともあ る。

Ⅱ-

⑥ 使琉 球記

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/那覇市企画部市史編集室

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)

李鼎元 素慶五年 十 月 二十 日、 己巳、晴、東森朝 天暴 、鷹ぜ ず <中略 > 午刻 、 雨 、碁 に入 る も止 まず。彩 長 、暴有 らん こ とを恐 れ 、馬薗 山、安護 浦 に収 め て下桂 す。 山勢 は横 衰 二 十里 、犬牙相錯 して海 中 に出没 し、噺ず るが若 く緩 くが 若 く、東 、西二 島 に分 れ、中山第一の外 障 た り。泊虞 は青 山囲続 して、出路無 し。鹿 の山 間 に見 ゆる有 り。 疑ふ ら くは亦 海魚 の化す る所 か と。雨景大 い に任 し。

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史料 編集室紀 要 第

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【大意】 /李鼎元 (若い 原田高雄 (訳注)

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午の刻 に雨。夕方 になっても雨はやまなかった。移長は暴風 を心配 して、馬歯山 (きらま) の安護浦 に入 って碇 を下 した。島は、周囲二十里 、海岸線 はヂグザグで海中に出没 し、断 続 を くりかえ している。東西の二島にわかれ、中山第-の外降である。碇泊 した場所は、 青 々とした山をめ ぐらせ、出口はみえない。鹿が山の中にみえた。海魚が変化 した もの と いわれるが信 じがたい。雨景は実にいい。 二十二 日、幸夫、雨、風偽ほ西北、午刻、暗 く中略 > 馬歯の人は善 く潤 ぐ。習、然 らしむるな り。時 を移 し、土人二鹿 を以て進む。毛洩 くして 小。眼、魚 に似 た り。魚化する所な り。始めて悟 る鷹化 して鳩 と為 るを。識者猶ほ其の眼 を憎む も、眼 を以て化する能はざるな り。 く中略 > 坐 間、鄭得功 に問ひて日 く、夏録に云ふ、此 の地、牛、馬、粟、布文貝螺、怪石 を産す、 海に産す る ものは知 るべか らず。陸に産する もの何 ぞ未だ之を見 ざるや、 と。得功 日 く、 陸産は惟鹿のみ。豊、惟だ菜無 く、並 に薯無 きのみならんや。余 日 く、唐人安 んぞ食せ ん や。得功 日 く、銑樹の根 を食す、<後略 > E大意】 /李鼎元 (著)・原田丙雄 (訳注)

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馬歯の人は泳 ぎが うまく、その日常がそ うさせ るのであろう0 時をす ごしていると、土地の者が鹿 を二頭献上 してきた。毛色が浅 く、小柄 で、眼が魚 の ようであった。魚が変化 した ものである。鷹が鳩 に変化することも、は じめで悟った。 識者 はなおその眼を憎むが、眼まで変化で きないのである。 <中略 > 席上、鄭得功 にたずねた。 「この地 には、牛 ・馬 ・莱 ・布 ・宝月 。巻貝 ・怪石 を産出すると 『夏録』 にある。海か ら とれる ものはわか らないとしても、陸上では産するものがなぜ見あたらないのか」 得功が答 えた。 「陸上では、鹿 が とれるだけで ございます。菜な どあろうはず もございません し、薯 もご ざいません」 「住民 は何 を食べているのか」 「蘇鉄の根 を食べてお ります。<後略 > 【解説 と考 察 】 これ ら もす べ て脚 封 使 録 で あ る。蔚崇 業 ・謝 茶 (Ⅲ-(∋) と夏子 陽 ・王 士禎

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Ⅲ-② ) は 琉 球 の物 産 と して鹿 を記 して い るが、具体 的 な産 地 につ い て は触 れ て い ない。 また、夏 子 陽 は鹿 を 「鮮 (す くな) し」 と し、個 体 数 が少 なか ったか又 は存在 してい なか った と して い る

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Ⅲ-② )。徐 裸 光 の便 録以 降 は鹿 の産 地 と して慶 良 間 島や久場 島が示 され て い る (

Ⅲ-③ ⑤ ⑥ )。周 燈 は鹿 の産 地 と して姑 達任 (久 高 島) も挙 げ て い るが

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Ⅲ-⑤ )、 そ れ を示 す 知見 は他 に まだ得 られ てお らず 、真 偽 は定 か で は ない。 中 山博 信 録 以 降 、 ほ とん どの脚 封便 録 で 「裟 魚 / 沙 魚 」 (フカ また はハ ゼ の意 ) と鹿 の 関連性 が 紹 介 され て い る (II・④ ⑤ ⑥ ). これ は鹿 の "島渡 り" を目撃 した 当時 の 島民 が 魚 にお きか えて語 り伝 え た の で は ないか と解釈 で きる。 ケ ラマ ジカは、 しば しば近 隣 の 島 に

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9-戦前 の史料 にみ るケ ラマ ジ カの記述 泳 ぎ渡 る "島渡 り" とい う行 動 を示 す こ とが あ る。近 年 に もい くつ か観 察 例 が あ り (琉 球 新 報 :

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日,琉 球新 報 :

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日な ど)、長期 にお よぶ 干 ばつ に よる餌 や 水 の不 足 (座 間味 村

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や繁殖 期 の雄 ジ カの 移動 分 散 (沖縄 県 教 育 委 員 会

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な どが 海 を渡 る理 由 と して考 え られ る。 こ こで は、 「六 月

」(Ⅲ-

④ ) また は 「盛 夏

」(Ⅲ-

⑤)

とい った時 期 の記 述 か らむ しろ前 者 との 関連 が 強 い の で は ない か と思 われ る。 Ⅲ ケラ苛ジカの 「交 易 」に関 する記 述 Ⅲ-① 使琉球記

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/那覇市企画部市史編集室

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李鼎元 素慶五年 十月 二十二 日、辛未、雨、風偽 は西北、午刻、晴 酋長、間上鹿或 は石松 を以て薯 を中山に易ふ る も、貧民 は得 ざるな り。 【大意】 島の長 は、時 には鹿や石松 を沖縄 で薯 と交換 いた しますが、貧民 は手 に入れることはかな い ませ ん Ⅲ-② 仲尾次政隆翁 日誌

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/谷川健

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1) 仲尾次政 隆 一、七月廿五 日、愛 許之船 出帆之由承 候付、宿元江状並釣得置候干塩小魚拾五枚、糸網与 申所 よ り拾取置候月 な し物壱壷、徳高江洲 よ り到来之す りるな し物入壷 魚置口焼酎六合斗、 宿元 よ り下置候 か らか ら入付差登候孝二而、荷作等 いた し置候処、当村上納物一件こ付今 日者 出帆不相成候段承 、念遣いた し、外之慶留 間机 より、当村徳高江洲 を以、明 日那覇江 可罷登候 間、宿元江状相持侯様、且阿真相江、小鹿取得置候処、私可致買入哉与有之候付、 早速 まっ高江洲頼入、供牛与両人差遣致相談 させ候処、代金者四拾五貫文 二而候 由、右二 付 まつ高江洲者、余高直与存 なか ら、小鹿者外之慶留 間宅江引参、いつれ江見分 させ候得 者 、いつれ之見分こ も、此程比等者大既生掛拾五六斤位可有之、左候得者代金弐拾五貫文 二而可致相応与有之候付、慶留 間存寄こ、小鹿者当村こ も数 ミ取得、売払為致者 とも罷在 候 間、猶 聞合候上直切 ナシ明日可致候 間、鹿者慶留 間宅江留置候様被 申候付、弥其通為致 段 、 まつ高江洲並供牛 よ り返答承、夫 よ り兼而調置候状品二右鹿 を付添、慶留 間便 より差 登候考 二両候 附 鹿代之儀、追付主 より催促有之候処、直切未 二付而者、直二難渡 、 まつ高江洲相 談之上、明朝慶留間宅江参 り可受取与、差帰侯 本文鹿 肉代金之儀 間切中壱斤二弐貫五百文之走代こ而候由 一、七 月甘五 日、下 り口本阿真帆 よ り、鹿 肉五斤位到来有之候付 、早速外之慶留 間宅れ相送候 事 <中略 > 同廿六 日 雨天西風未之方九ツ時分 より晴天 一、同 日五 ツ時分、外之慶留 間江徳高江洲 を以て、鹿代 と/金四拾五貫文引口添而持 シ候処 (昨

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史料 編 集 室紀 要 第24号 (1999) 日私 は)高直 なか ら此億 よ り差登呉度、私 よ り分ケ而之頼有之、状之上書こ も、鹿 も差登 候段相見得候故、四拾貫文二而買取候両横登候間、其心得可致与、慶留問返答為有之段並 慶留間乗船同四ツ過時分出帆為致段 も、右高江洲 よ り八 ツ頭時分返答承候事 附 川之端之本阿真帆、夜前 より病気差発候付、不罷登由 <中略 > 同廿 日、晴天北風亥之万上 -、同 日五 ツ時分、外之慶留間之船 出帆二付、次男 も便乗こ而罷登候故干塩魚六枚 、鹿小壱疋 差登候、尤代金之儀者、鹿主首里筑登之 も船頭二両罷登候故、於那覇直切いた し候積、次 男並首里江 申含置候事 附 仲村事積病気差発候故、去ル十五 日私宿江引移 シ致養生候筋地頭代江相達、地頭 代 も同意こ而候故、内 ミ次男一同差登候 <中略 > 同廿五 日 晴天東風貴之万 一、同 日、阿佐相小唐船之頭与那嶺机、先 日大風之時、仮宿為致候礼儀 として、和素めん拾六 結、刻煙草壱巻、同い りロ本阿真之阿んま江先 日、鹿肉到来之礼 と/、宝蔵壱 ツ、和素め ん拾三結、同高江洲的之阿んま江、冬瓜壱粒到来之返礼 と/、和素めん拾結、宝蔵壱 ツ、 川之端之本阿美外江見舞 と/、七結、同元宿主は阿阿江、同七結、供牛 を以相送候事 <中略 > 十一月朔 日 晴天西風 申之方 -、同 日五 ツ時分、夏元之船三根並阿美船 も当泊 より一同出帆こ付、外之慶留間之船 より宿主 淀江、宿元江状並昨 日阿真前地頭代 より到来之鹿肉煮立塩入 させ、干塩魚壱枚持登 させ候、 尤右船者、阿佐之大浜江廻船、宿主綻、新木積入候而直二致出帆候段承候 糸数父子 も内 ミ罷登候故、首里大屋子船借入、半過運ちん者糸数差出、半方者阿義之下人 散大提之仁お う、薪木等積登候段剰 戻事 附 阿佐船 も彼 の後 より出帆いた し候由承候 <中略 > 十一月六 日 曇天東風辰之万 一、同 日六 ツ過時分、御歳暮用之鹿取得方二付 き、久場島江参候 間、真苅並知念牛 とも見物こ 参候様、昨夜首里大屋子 よ り挨拶有之候付 、弁当小梅相調、昼飯 も用意二而、右首里大屋 子一同罷渡 させ候処、阿慶名宿 と申所迄乗渡、風時強、久場島迄者難乗渡由二両罷返、後 日天気見合、重而取得方二罷渡候段承候事 <中略 > 一、同 日、鹿肉弐枚骨 とも五斤位役 ミ中より到来有之候事 <中略 > 十二月廿二 日 晴天南風未之万上、入相時分 より成之方相成雨 一、同 日未明、阿佐船彼之泊 より出帆二付、首里大屋子、歳暮之鹿上用 として罷登候付、宿元 -1

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01-戦前 の史料 にみ るケ ラマ ジカの記 述 江状並桑之摺木かつ ゝえむきこ而作置候杖、鹿角大小七ツ、内弐ツヅ 、者次男三男、三ツ ツツハ宿元江、右首里大屋子を以差登させ候事

Ⅲ-

③ 琉球紀行(1876)/琉球政府(1965) 河原 田 盛美 島中鹿多シ久場島ヨリ猟穫シテ歳尾年頭こ一頭ツ ゝ藩王へ献セルヲ以テ例 トス 【解説と考察】 後 に示す 「鹿狩 り」 や 「有 害獣駆 除」 の記述 とともに、 これ らの文書 か ら当時 の島民の 生活 の中で ケラマ ジカが どの様 な位 置 を占めていたのか を知 る ことがで きる。李鼎元 の脚 封便録 か ら、当時、 ケ ラマ ジカを交易 に資す ることがあ った こ とが わか る (Ⅲ-① ). ただ し、その交換 品は貧民 には得 られ なか った ようである (Ⅲ-(∋)0 Ⅲ-(さの著 者 で あ る仲尾 次 政隆 は、当時琉球王府 が禁制 と した浄土真宗 を信仰 ・布教 し た各 に よ り、八重 山-無期 の流刑 を言 い渡 された

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年か ら

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865

年 に赦免 とされ るまで に記録 した 日記が、 この 『配流 日記』 であ り、最初 の一年 間は慶 良問での流刑生活が示 さ れてい る。 その なか に鹿 肉の売買 に関す る記録が認 め られ、定価 が-斤 につ き二貰五百文 とされてい た ようであ る。 また、年の瀬 には鹿 をお歳暮用 として連れ帰 る こともあった こ とが うかが える。 『琉球紀行 』(III-(釘)は明治政府 の役 人であ った河原 田が内務省 出張所 に赴任 した際 に、 琉球藩の諸事情 を記 した ものであ る。 ここには、久場 島 よ り獲 たケ ラマ ジカを年末 と年頭 に一頭づ つ、藩王へ献納す る しきた りが示 されてい る (Ⅲ-③ )D黒岩

(

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は、毎年山 中 に火 を放 ってシカを狩猟 し、慶 良問 よ り琉球王 に献納す る制度 が あ った こ とを報告 して い る。 しか し、その ような制度がいつ頃か ら存在 し、 どの ような 目的 に依 ったのかは不 明 である。 李鼎元 の 『使琉球記』 には、鹿 の形態 について 「毛浅 くして小」 と述べ 、慶良 問の鹿が 中国の鹿 よ りも小柄 であ った ことが うかが える (Ⅲ-① )。 ここで、 ケ ラマ ジカの形態 につ いて少 し触 れてお く。東 アジアに分布 す るニホ ンジカの うち、 日本列 島に産す る ものは顕 著 な体サ イズの地理 的変異 が認 め られ、エ ゾシカやホ ンシュウジカ とい った他 の 日本産亜 種 の内で もケ ラマ ジカは最 も小 さい とされ る (太秦司

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。 中国産 のニ ホ ンジカの大 きさはホ ンシュウジカ と同程度 といわれ (大泰司

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、李 鼎元 が ケ ラマ ジカ をみて小 柄 であ る と感想 を もつの も理解 で きる。 Ⅳ 慶 良問の「鹿狩り」に関する文書および新聞記事 Ⅳ-① 祖姓家譜 二世比嘉親雲上 良治 (原本) 小谷家(1689-1700頃) /那覇市企画部市史編集 室 (1983) 著者不 明 ・1

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02-史料編集室紀要 第

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六世良治 (安里筑登之親雲上) 康照九年庚成 二月御在番奉行岩切彦兵衛殿付衆加世 田弥五左衛 門殿為鹿狩航子慶良間島之 時為案内者到干彼地方同月蹄帆

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② 球陽

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/球陽研究会

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著者不明 巻十八 尚穆王 渡嘉敷郡地頭代小嶺親雲上の功労 を褒賞す。 上届 己卯年、太平 山地船、慶良間島宇 良泊洋面 に在 りて停泊の時、風暴 し浪猛 に、錠二頭 を加投す。而 して其 の一頭 は、風波 の為 に切断せ られ、甚 だ驚験 を為す。其の本船 を以て 港 内に駕入せ ん と欲 し、力 を尽 くし心 を濁す と錐 も、奈 んせん津 口に熟す る者無 く、慌忙 の際、幸 に小嶺 、鹿 を狩 りて外 に在 る有 り。其の慌相 を見 て、即刻人丁 を引率 して小舟 に 駕 し、彼 の処 に漕 ぎ到 りて、意慮 を押 して、港内 に弔入 し、以て危難 を免 るる を得 しむ。 【大意】 /渡嘉敷村史編集委員会

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去 る己卯 の年

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年、尚穆

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年、乾隆

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のこと、宮古島の船が慶 良問の字 良泊に停泊 中猛烈 な台風 に遭遇 した.錨 を二つ も投 げ入れたが、その うちの一つは波 によって切断 さ れて しまった。何 とか船 を港内 に入れ ようと したのだが、水路 に詳 しい人がい なかったの で難渋 していた。 ち ょうどその ころ、鹿 を捕 らえるため に山野 を歩いていた小嶺親雲上 は、眼下 にこの光 景 を見 て直 ちに人 を集めて現場 に急行 し、小船 に乗 って宮古島の船 に接近す る とともに、 その船 を港内に入れて乗組員を救助 した。 Ⅳ-③ 仲尾次政 隆翁 日誌

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/谷川健 - (

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1) 仲尾 次政隆 一、同 日六 ツ時分 よ り、鷹狩 と/首里大屋子、大淀、頭 /三ケ村之百姓 中大船両娘 よ り阿東村 江被渡、阿嘉、慶留間弐村之百姓 中一同、久場島江罷渡候 間、真苅、知念、牛 も見物こ罷 渡 させ候 両者如何 、弥罷渡候ハ ヾ惣山当 も罷渡候而可相済 と有之焼付 、一同差越 させ候、 右こ付酉頭時分罷帰候、尤雨天相成候故、鹿者壱疋狩取候 由承候事 <中略> 十一月甘四 日 晴天北風子之方、七 ツ頭時分 よ り丑之万 一、同 日五 ツ時分、い り之宮里筑登之妻参 り、右宮里 とも今 日屋嘉比江鷹狩二参候処、茶、下 味噌払底 二付差 支候間、借入 させ度有之候付上茶 四拾 目、下味噌五合借相渡候付 、早速罷 渡候由承候尊 く中略 > -、同 日未明、鹿狩 と して久場島江、首里大屋子、大淀、頭 して三ケ村之百姓中阿佐船 よ り阿 嘉村江罷渡、阿嘉、慶留問百姓 中一同罷涯、同酉時分七疋狩取候而尉 爵候段承候事 Ⅳ-④ 琉球新報 明治

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日 2面 ⑳中学生 の慶 良問旅行 県下中学生一同に於 ては修業旅行費鹿猟 の篤 め明 日出港 の運輸丸 に搭 し慶 良間島へ向け渡航す る由

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03-戦前の史料 にみるケラマ ジカの記述 Ⅳ-⑤ 琉球新 報 明治33年(1900)4月11日 2面 ⑳座 間味 だ よ り 師範学 校 は鹿 狩 兼 動植物採 集 のため去 月二 十六 日生徒 九十余 人職員十余 人来座 し翌二 十七 日には雨 を冒 して鹿狩 をな し其翌二 十八 日午前 には八 時過 よ り座 間味相 模 連 に於 て兵式体 操 (中隊教 練 蔑 火 演習) を施行 し右 演習終 りて四年生 は職員君 千人 と共 に小 舟七娘 よ り離 島へ他 は 陸路 方 々へ動植物採 集 に行 き夕方 よ り間切役 場 に於 て幻 燈骨 を施 行 して人民 を誘 導 し又其 翌 二十九 日に出座 帰校 の途 に就 きた り<後略 > Ⅳ-⑥ 琉球新 報 明治33年(1900)4月13日 2面 ⑳ 師範学 校 の鹿 奉 納 師範学校 に於 てハ薬 きに慶 良 間島修学旅行 の際該 島 に於 て捕獲 せ る 鹿 二頭此程 波 の上官 幣小社 へ奉納 した りと云ふ Ⅳ-⑦ 琉球新 報 明治35年(1902)12月19日 3面 ◎慶 良 問み やげ (下) 某生識 <中略> 翌八 日ハ 間切全 体 の催 しにて鹿狩 あ りた り知事 以 下 も亦 臨場 の□ な りしか ば其 前 日よ り準 備 に余 念 な き模様 な りLが払暁総指揮役松 田 間切 長 は巳 に夫 々令 を伝 へ た るが如 く午前七 時 頃 にハ或 ハ 陸 に よ り或 は海路 を取 り狩場 を指 して馳せ 向ふ もの続 々 と して絶 ゆ る こ とな し乃 ち朝 嚢 を喫 し結束 して起 ち出て ゝ海浜 に至 れハ舟夫舟 を嬢 して待 ちつ 、あ り乃 ち直 ち に発 す舟 は矢 の如 く馳せ少 時 に して阿佐相 大岳 の麓 に達す到 れ ば己口参 集せ る もの無慮 数 百 人網 を携 ふ る ものあ り斧 を提 くものあ り棒 を持 つ もの あ り銃亦 数挺 あ り宛然 戦 陣 の如 く 富 士 野巻 狩 の昔 を忍 ばれ最 とゆか し く感せ られ た り暫 くして部 署 己 に定 ま り各 自路 を分 っ て順次 繰 出せ り知 事 の一行 ハ網代 の背面 なる-荊 路 を取 り荊殊 を排 して進 む こ と数 町漸 く に して大 岳頂 上 の網代 に達 した り乃 ち案 内者 の注意 に依 り網代 の前 面 に廻 り蒲葵 の葉 を採 りて背後 に樹 を以 て身 を蔽 ふ これぞ鹿 に対 す る隠 の術 と知 られ け り、 身 を縮 め声 を潜 め て 待 つ こ と少 時背 面 の彼 方 に於 て連 りにほ-ほ -ほ -の声 す る よ口 聞 く間 に弓手 の方 十数 間 の所 に於 て一大 晒城 の声 あ り続 て取 れた取 れ た三頭 一所 に取 れ た と大 呼す る ものあ り余等 は愈快 々 々 と耳語 しっ ゝ尚彼 地此地 に 目を配 りつ ゝあ りLに又 々背後 に於 てホ-ホ- と疾 呼 し来 る者 数名 あ りさてハ と恩ふ瞬 間一口 の牡鹿 飛 鳥 の如 く躍 り来 りて網 に罷 るや否一大 歓 呼 と共 に勢子 数 名 の手 に揃へ られ続 て□□鹿 一頭 を獲都 合大小 五 頭 の鹿 は四足 を縛 せ ら れ た る儀 知 事 の前 に並べ らる時正 に正午乃 ち-先 網 を撤 して山 を下 り昼食 を喫 す余 これ よ り都合 あ りて早 く帰 りた りしが後 にて再 たび中岳 に一 回 を試 み Lに此 時新藤郡 長銃 にて大 鹿 一頭 を致 せ Lとぞ これぞ 当 日の首切 に して中原 の鹿 な らで中岳 の鹿 は遂 に氏 の手 に落 ち た るぞ羨 しけれ <中略> 因 に記 す鹿 狩 は毎 年二 回許之 を行 ひ毎 回獲 る所 大抵 五六頭 を下 らず多 きは十余 頭 を獲 るこ とあ りといふ Ⅳ-⑧ 琉球新 報 明治40年(1907)1月9日 3面 ◎慶 良 間島鹿狩旅行 (-) 第四小 隊 第二分 隊 晩舟子 ◎ 昨年 十二 月の冬 季休 暇 を利用 して我 が県立 中学校 で は慶 良間島へ鹿 狩 り旅行 の催 しあ り 定 員二 百名 之 れ を四小 隊 に分 ち-小 隊 を三分 隊 とす往復 目数 四 日の予 定旅 費一 人前金一 円 _10

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4-史料 編 集室 紀 要 第

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(学校納附)実 に殖民生活の気風 を養成する奮闘的野宿同様 の旅行 なりき ◎借 て吾等の一行二百名 は去る十二月二十三 日午前八時に那覇港水上警察の構 内に集合す 皆 々軽装 して喜色満面 にあふれ何れ も鹿 を生捕 りせ んばか りの気勢先生達 も二三の先生が 残 られたばか りで総出掛け殊 に白か ら跡 に残 て留守番すると宣言せ られた大久保校長が当 日になっては肉躍 りけん水筒 を肩 に さげて来 られた放 てはは ぎはざ見送 りに来 られたか な ?否否堪えきれなかったのだ ◎港内には平壌丸、球陽丸、辰鳥丸 などが碇泊 して居 る沖 を見れば風 は強 く波 は高 く実に 寒い不穏 なる天気である彼是する内 に辰島丸 は危いか ら出帆見合せ とな り今先 き押出 した 球陽丸 に乗 る事 とせ り午後一時我が第四小隊は最終の伝馬船 によ りて知事 閣下 に見送 られ つ 、沖 なる船 に上船す午後三時那覇港出帆船の進行す るに伴 ひて海は益 々荒れ船は動揺は げ し別 に空ゐたる船室 も無 ければ潮風の寒 く吹 き飛 ばす上 甲板ロ上里三時間の海路 を立往 生 甲板 は至 る所外套枕 に寝 ころんで汚物 をは き散 らしてすべ る程 である船 は進 んで次第に 遠 くな り行 く那覇の市街や本島の連山など眺めつ船 中を見歩いた今は本島 も雲 か山かにな り慶良問の離島が明かに見 え初めて来た慶良間島は無数の島々よ り成 りて島中殆ん ど山ば か りの様 に見 えた島 と島 との間を通 りつ ゝ阿護の浦 に近 く陸地 よ り-町位 の海即 ち黒潮の 流れ に船が入った海水濃紫色で ま-水深何百丈あるだろ-か船の動揺一層 はげ し先生初め 二百名の生徒皆 な生気無 し ◎程 な く舷は阿護の浦 に差 しか ゝる眺むれば港口には過 ぎに し暴風 の折 り沈没せ し糸満丸 が峰石の上に横 にな り其の向ふ砂浜 に平安丸 は乗 り上げ られて居 る夫れよ り舷 は港内に入 る丁度夕方六時港 は広 くして水深 く四周山轡高 く聾 えて良い港である日は次第 に暮れ行 き て陸面 は只だ黒 く見えるのみ海浜 には灯火一つ も光 らず全 く無人島の如 し上陸するのは今 か今かの待兼ぬれ共港内には伝馬船無 し僅 に鰹船が一隻海浜 にあるのみ夫れ も夜の十一時 頃満潮 の時を待 たぎれば浮ばず との事いままた嫌な甲板 に立た さるのか腹 は滅て来 る寒気 は増 して来る夫れは夫れはつ らい ◎時 Lも舷の前方では大勢 より集 まって軍歌会が初 まる渋い口で勇気 を奮 ひ起 して叫び歌 った中には船員の室、下等室諸先生の居 らる ゝ中等室、本多博士、校長、「アモア」先生等 の休息 されて居 る上等室 に迄で詰めかけ押 しよせ来 りて寒 さを防 ぐ者あ り其の内に船中大 騒動が起 た何か と恩へば夕飯が出来たそ-だ其れは其れは喜ば しい事だとわやわや押 しよ せ来 りて手に取て見れば大 きな撞飯 の中に梅干ニ ッてある悉 く平 らげて夜 の十二時頃漸 く 鰹船 は来 た然 るに第四小隊は此の次の便 よ りとの事で第一、第二、第三、小隊の上陸する 迄で待 て との命令が出た大欠伸 をして苦情 を鳴 らす夜 は更け行 きてやつ と一時頃に争って 鰹船 に飛 び込み球陽丸 を後 に陸 に向けてこき行 く此の地の舟子の掛声 は異様 な調子で 「ア ンシーア ンシー」 とうたふ波静けき阿護の浦 こぎ行 く櫓 の音勇 ま しく晴を破って響 く眠る 千鳥の夢驚 したるならん岸 に着 き上陸す ◎先発隊が燃 し残 したる焚火に枯れ木や阿旦葉 を くべ て盛んに火 を起 し身体 を暖む夫 よ り 人員 を調べて宿舎のある座 間味へ出発す約七合山路 を越 えて行 く由提灯 は無 し暗 さは暗 し 疲 れて眠むた くもあ り寒 くもあ り道は狭 く阪である互 ひに しっか り□手 をにぎ り合て先頭 の和 田先生が大声で山の中か ら右 にまがれ左 は絶壁 だぞ□声 を便 りて登 り行 く漸 く村の入 口 と覚 しく 「座 間味」 と書いた提灯 を照 して迎 ひか来た其の時にはほんとに生 きた様 な心 地が した丁度四時頃第五宿舎に投ず

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⑨ 琉球新報 明治

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面 ◎慶良間島鹿狩旅行 (二) 第四小隊第二分隊 晩舟子 ◎明 くれば二十四 日朝八時頃□□ き出で井戸 を探 して顔 など洗 ひ外套 ひっかぶって二三名 打 ち連れて村内 を散歩す今 日も天気 は悪 くって寒い村 の人々は非常 に親切 で家 々が清潔で ある海岸 に出で見 れば砂原がずつ と打 ち続いて鰹船が五六隻浜 に上げてある四周の山岳高

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05-戦前の史料 にみるケラマジカの記述 く連 なって波 にうつる自分達は さなが ら西洋画の中にある様 な心地が した ◎其 れか ら諸先生及び第-、第二、小 隊の宿舎 なる座 間味小学校へ行 くと兵端部 の炊事番 が厘 に包 まれつ ゝ真黒 になって朝飯 をたいて居 る実 に可哀相 な りき乃 て友達 と打 ち連れて 缶 詰工場 に行 き缶詰 を買 ひ宿舎 に戻 る程無 く分隊長が戸板 に飯 を盛った碗 をならべて持て 来 た見れ ば赤い唐米の半煮飯 に梅干一つ之れを食ふ と腹の工合が悪い と一 同大不平然 も之 れで朝飯兼昼飯 なる由分隊長は一同をなだめて日 く 「球陽丸か らは通船が無 くって運んで 来 た米 を未 だおろ してないか ら今 日は之れでが まん して くれ其 の代 り晩飯 には御馳走 して 上 げるか ら」 と ◎其れか ら草牡のひもを しめ服 を整へて種 々の準備 を済 して学校 に集合す小隊長の号令で 人員検査 をな し全員及 びや とひたる村人 と共 に運動場で写真 をとる其れか ら歩調勇 ましく 学校 を出発 し第一回鹿狩 りへ と出掛 けた ◎仰 げは高 き山岳 をうね りうねって登 り又下 る二百の黒服の学生鳴呼何 た る壮観ぞや不図 見 れば昨夜 半頃通 た山道 らしい村 人 に間ふて見れば果 してそ うてあったいや こんな深い谷 底 に落 ころんだ ら大変だ らうこう危 い危い と云ふて渡 た橋 は此 の小 さな土塙 だ よな ど話 し 合 ひっ ゝ上陸の際焚火 した所 を過 ぎ阿護 の浦の演 に出だ ◎港 内 を見渡せ は実 に広 くて沙洲姻渚斜 に遠 く連 る球陽丸 も尚ほ碇舶 して居 た其れか ら砂 演で一時間程休息 して愈々左方 の山に登 る ◎ 第-第二第三小隊は山の頂 きよ り遠 く追 ひま くって第四小 隊は側面 に散 開 して包 囲 し山 間の谷 に縄綱 を張て村人等が番 を して鹿 の追 はれ来 るを待 て居 る我が第四小隊は草 の中に 隠れてひそか に形勢 を見て居 た山の奥で早や閲の声が起 るヤー千-見 えた見 えた どんどん 迫へ各小 隊 は次第 に接近 して包 囲線 を縮 める今 は吾等 も前進 しっ 、大声 で叫ぶやれ一つ鹿 が走 た吾 れ一番 に功名せ ん と一時 にどっ と皆 な近 よると遺憾 なるかな囲み は破れて鹿は逃 げ出す併 しやつ との事で一匹小 さな鹿 を生捕った ◎其 れか ら集合 ラッパ と共 に山 を下 り今度 はズーツと右の端 の島様 になっ た所 に行 て散 々 に探 したが一匹 も居 ない住 に角一本 を拾 たばか りな りき最早や 日も暮 れか ,り来たればい ざ今 日はやめ にして楕合 に戻 らんと疲れたる足 を引ずって帰路 をいそ ぐ ◎ 日没 と共 に着 き直 ぐ学校 に集 ま り夕食 をなす小 隊毎 に運動場へ戸板 を敷 き其 の ぐる りを ズー ツと取 り巻いて一所 にワヤ ワヤ云ひっ ゝ食べ る大根 を刻 ざみ こんだ味 噌汁は実 に実 に 甘 かった其れか ら各 々椀 と箸 とを持 て宿舎 に帰 り草軽 をと り手足 を清めて内に上 りランプ を真 申に さげて丸 くなってつかれはてたる体 を休めつ ゝ互 に談笑す る真 に愉快 な りき十時 頃寝 に就 く Ⅳ-⑩ 琉球新報 明治40年(1907)1月H El 3面 ◎慶 良間島鹿狩旅行 (≡) 第四小 隊第二分隊 晩舟子 ◎翌二十五 日朝早 く起 き出で ゝ親 しき友 と手 をとりて附近 を遭遥す集合 ラッパ と共 に同宿 の者揃 って例 の如 く碗箸 を持 ち学校 に行 き朝飯 を戴 く聞けば炊事番 は今 日は三時頃か ら起 きて仕度せ しとか間 くだに有難 し其れ よ り昼飯 の撞飯 を受取 り宿舎 に帰 り出発準備 をして 集合す ◎八時頃学校 を出で昨 日通 りし山道 を越 えて沙演 に出て今度 は中央の欝蒼 と繁 た大 きな山 を囲む山中に分 け入 りてラッパ の声 を合 図に閑の声 をあげて迫ふ此の山 は甚だ険 しくして 従 て大 きな鹿沢山あ り樹木 をた ゝく音か ちかち と遠 く響 き くぼの葉 を打 つ音 は丁度鉄砲 に 似 た り其 時一匹の角 の大 きな鹿が小谷 になった所 に沿ふて囲み を破 て一 目散 に逃 げ行 く走 て生捕 にせ ん とすれ ども中々及 ばず奔馬の飛ぶが如 し漸 くして集合 ラッパ と共 に網 を張れ る所 に行 て見れば大 きな肥 ゑた鹿一匹がか ゝつて居 た ◎更 に転 じて隣の山を物色す山中物す ごき程繁 り合 ひて殆 ど人跡 を絶つ木 の枝 に服や帽子 に撞飯 が ひっ掛って早 くは進み難 し久菓樹 の下かげな どに至 れば鹿 の休 み し跡 と見 えて糞 _1

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06-史料編集室紀 要 第24号 (1999) が沢山散 てある此 の頃 よ りは大分馴 れて経験 をつみ来って居 るか ら包囲 も好 良で鹿 も全体 とれそ うであったが肥大 なる大鹿 は大胆 にも死物狂 ひになって肝心 なる網 を破 て逃げ走 り ぬ丁度三匹であった実 に返す返す も残念の極みなれ ◎借てに ぎりめ Lをたべ又勇気 をふ るい起 して後方の山を とり巻いたが只一匹 もをらぬ影 さえ見 えぬ骨折 り損 を した分隊長は日 く空城 を攻 めたるに等 しと然 り一度 な らず二度迄で とは実 に馬鹿 馬鹿 し直ちに落葉の積 る山の細路 を便 て海浜 に出で宿舎 に引 きか え し学校 に 行 きて晩飯 を食す美味云ふ可 らず味噌汁 にきざみ大根 を入れ牛 肉や鹿 肉 も混ぜ り大 きな肉 を当て大喜 びす る奴 も居れば骨が這入てると云ふて小言云ふ者 あ り食後鹿 の内蔵 を森安先 生が運動場で説明 された宿舎 に帰て親 しき同窓の友相集 りて昼間の功名談 に夜 の更 けるの を知 らなつかた Ⅳ-⑪ 琉球新報 明治40年(1907)1月12日 3面 ◎慶良間島鹿狩旅行 (四) 第四小隊第二分隊 晩舟子 ◎二十六 日今 日は愈 々帰 る可 き日とはなれ り朝早 く目を覚 し皆 な皆 な打 ち連れて学校 なる 兵端部へ行 きて朝飯 を食べ腹 をこ しらえ静かに宿舎 に帰 る示達 あ り 「今午前十一時 に辰 鳥 丸 に乗 り込 むに付 き手荷物 な ども仕度 して遠 くへ遊 びに行かない様 にすべ し」 とされ ど先 生 に間へ ば 「辰 烏丸 は昨 日吾等が山奥 で鹿狩 の最 中に久米島へ向け出帆 したれ は今入港 は 午後遅 くなるべ しよ し入った虚 て今 日は出帆 させ ま じ天気 も悪 ければ」 と果 して然 り十一 時過 ぎて も来ず一同安心 して三々五 々相携へ て所 々を遊歩す海浜 に出で ゝ白砂 の中よ り貝 を拾ふや さしき人あ り小舟 をあやつ りて知 らす海面 をさまよう生徒 あ り小高 き丘 に登 りて 離れ小 島の山光水色 を 「スケッチ」す る風雅 なる学生あ り宿舎 に外套 ひっかぶって寝 ころ んで那覇か ら菓子 を包 んで来 た古新聞 を読 む者 あ り終 日遊 んで暮 らす先生達 も散歩 なされ て居 るのを見受 けた ◎余等 は二人の学友 と連れ立 ちて缶詰工場 に行 き製造作業の有様 を見吏 らに同工場の水道 に沿ふて直 ぐ上 の丘 に登 る僅 か三十間位 の山腹 に至 りて悉 く土 を掘 りて一間四方の水溜 を 設 け覆物 かぶせず水 中には 「イモ リ」 と云ふ動物 三四匹あ り湧泉少 き様 な り下 りて宿舎 に 戻 れば徐 々 と友達 も帰 り来て或 は 「スケッチ ブック」 を出 して着色す るあ り美 しき奇形 な る月が らをな らべ て楽 むあ り時 に汽笛 の昔海浜 に聞ゆ之れ辰鳥丸が直 ぐ座 間味村 の海 に入 港せ るな り ◎ 日も暮 れか 、れば人 に後 くれ じと学校 に行 き晩飯 をす ま し帰宿 して内に上れば一同胡座 をかいて ぐる りと座 し互 に談笑する も今夜か ぎ りなれば とて各 々胸襟 を開いて語 り和気室 内 にあふれ笑声 門外 に漏 る九時 よ り他 の小隊の宿舎訪問 をなす人あ り海岸 に出でて悲憤 な る詩 を吟ずる人あ り十一時頃寝 る ◎翌二十七 日早朝起 き出で洗面朝食 をす まし服装 を正 し革鞄 な ど整 ひて九時頃 よ り海辺 に 集合 し二隻 の鰹船 に分乗 しなつか しき慶 良問離 島の地 を放 して辰 鳥丸 に乗 り込 み出帆す顧 みれば二百の健児 が数 日蚊渉せ し島の山河 甲板 につ なが り居 る幼 き子鹿の心情 や如何 に残 れる山中の群鹿 は走 り行 く船影 を拝 んで悪魔 は去れ りと喜ぶ ならん Ⅳ-⑫ 琉球新報 明治40年(1907)1月13日 3面 ◎慶良間島鹿狩旅行 (四 [五]) 第四小 隊第二分隊 晩舟子 ◎程 な く舷 は沖つ 白波 の中に出づ遥か に向ふ を眺 むれば水 天法珊 たる水平線上 に横 はる本 島舷 は進み進み て今 は那覇市街、排 ケ岳、エ ーヂ岳 など明かに見 え来 りぬ斯 くて波路静 け く那覇の港 に入 る丁度正午十二時 にて港 内には南都丸外二隻 の蒸汽船あ りて荷物 の上 げ下 ろ しに多 忙気 に見 えた り -1

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07-戦前 の史料 にみるケラマ ジカの記述 ◎借 て水 上警 察 の通船 に よ り何 回 とな く運 ばれて上 陸 し別 れ を告 げて 日数 をいへ は僅 か に 四五 日の事 なが ら久 し く恋 しき家 に帰 りぬ捕獲せ し子鹿 は博 物 教 室助 手小 川が車 にて直 ち に学校へ持 ち行 其 の ま 、飼養す る事 とせ り ◎此 の旅行 や便 船 の都 合 に よ り予定後 る ゝ一 日鹿狩 りの 回数五 回獲 物 の数 二匹割合 に少 き は昨二三年 来 の暴風 な どの為 め に草 木 が枯 れ従 て鹿 の群 れが離 散 し加 ふ る に天候不 良 な り し故 にて しか た な し然 れ共 あ らゆ る困難 と戦 ひて体 躯 を鍛 へ意気 を試 めせ Lは大い に益 す る所 あ りと云 ふべ し吾 人 か二 日間慶 良問の山 中 を抜 渉す る に其 の樹 木 の繁 茂せ る木 を伐 り 倒 して取 る人無 く空 し くくち落 葉 の積 る事 の五寸 に及 ぶ所 あ り其 の薪材豊 か なる以 て知 ら る可 し又 島 中 は只 だ一 ヶ所 の小 間物店 あ るのみ其 れす ら缶 詰 、手 掛 、酒類 の外何 物 も無 し 実 に寂 しき島 な り沖縄 の俗語 に 「泣 く児 は慶 良問責 りす」 とは誠 に至 当の言 な りと思ふ ◎終 りに臨み吾 人 は安里 氏 、間切 長 、村 人等 が親切 に世話 して志気 を鼓舞 され た る好 意 を 深謝 す (をは り)

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⑬ 琉球新報 明治44年(1911)7月11日 2面 ◎慶 良問一斑 (六) 愛鹿 <中略> A 狩猟 は営利 的 に行 っ て は居 ない時 々鹿 を捕獲 す るのみ で あ る冬季 □ 閑 に鹿狩 をなす は之 を販責 に供 す ばか りで な く作物 の被 害 を減ず るので一挙 両得 が あ る

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⑭ 琉球新報 大正2年(1913)10月31日 3面 慶 良問巡 島記 (-) 竹 雨生 息遊猟 と保養 <中略> 各 島鹿 の栖 息す るを以 て銃猟家 の も多大 の興趣 あ るべ し く後略> Ⅳ-⑮ 琉球新報 大 正2年(1913)11月9日 2面 慶 良 問巡 島記 (八 ) 竹 雨生 息 十 月二十六 日 <中略> 斎藤郡長 は革 靴 脚杵 に足 を固め二 十八番 の猟 銃 を肩 にせ りあ は よ くば大岳 の鹿 で も打倒 さ ん との望み な らん <後 略> Ⅳ-⑯ 琉球新報 大正6年(1917)9月24日 13面 廿五 年前 の印象 伊波普猷 <中略> この年 の冬 は例 年 と風 奨 りな旅行 が試 み られ た。三年生 以上 の有 志者 三十 鎗名 は気 を養 ひ 体 を練 り傍博 物 を採集 す る 目的 で五名 の教 員 が牽 ゐ られ 、十 二 月 の未 に後 慶 良問の座 間味 島 に渡航 して 、鹿 狩 りをやっ た。嶋 人三百人 も一行 に加 はっ て、 山谷 を駈 廻 り突城 鼓曝 し て、鹿 を追 ひ ま く り、 と うとう十一頭 を生檎 して、一頭 を銃獲 した、年 内 に帰校 の隷走 で -1

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08-史料 編 集室紀 要 第24号 (1999) あっ たが、天候不穏 の馬 、鈴儀 な く彼 の嶋で新年 を迎へ るこ とになっ た. <後略> Ⅳ-⑰ 沖縄教 育 10月賦 NO.165昭和2年(1927) /蒙三武郎 (1927) 慶 良 間島寸感 晩感 灰爾 兄- 送 る鹿 狩 日記 蒙 三武朗 <中略> 明朝 午前 三時 出帆 の掲示 が書 か れ る、三時が 三時半 になっ たの は惰 眠性 の僕 には何 よ りの滋養 で あ り督善 で あ り慰 安 で あ る。二 時過 ぎまで楽 しい酒 に親 しまれ た公 達 には午 前 三時 は徹夜 も同様 の意 気 で ウサ グワ-の酌 と甘露 の面影 を忘 れて盃 は囲坐 をかけ ぐ り廻 る。 出帆 の時刻 は魚船 の都合 であ る、餌 を まきに行 く時刻 で あ る、鹿 狩 は朝 夕 の二刻 を善 し と し幸 ひ船 も朝 の を利 用 す る事 になっ たが、夜 十 一 時過 ぎまで 出費 の時 間 を報 じて なか っ たの は、漁船 との交 渉が中々暇 とっ たか らだ との事 だっ た。 夕飯 が済 ん だ後 、誰言ふ とな く賄部 の不平 が ブ ツブツ漏 れ て来 る。 水 が不 自由、桶 拝借 困難 、合計係 の外 出中 たわ し一 つ掛 で頁 らん、 ラ ンプは借 りたが石 油 も掛 で買 えぬ つ るべ も紐 は借 きぬ と申 し候 、茶碗 が不 足 、茶器不 揃 、飽 丁狙 もや うい に 御座 らぬ。 不平 は後 か ら後 か らケ ンケ ンコ ンコ ンワイワイ ワィ 。 未 明、 中原 な らぬ慶 留 間の鹿 を 目ざ して維 出動 、睡魔 のい たづ らは 甲板 を床 の延長 に化 し、監 視 され た支 那移 民 の光景 を演 じた、それが避 雷 な比 倫 で なかっ た ら原始 人 の移住 そ の ま 、だ。 朝 は混 沌 の空模様 を舞 っ て雲 は意地悪 の秋波 を送 っ て四方 を戯 弄 してゐ る、波 はたわい ない愛撫 を持 て船 と もつれ て ぢやれ合 っ てゐる

海 は誘惑 の老船 長 の顔 だ。 船 は数 十分 の後 慶留 間の向 ひ島 に着 き朝飯 の用 意 が 出来座 間味 校 長 の鹿 狩 の心得 を噛 ん で含 め られ、雨 に降 られ、朝飯 を済 ま し、午前 六 時 であ る。 愈 々劉 舟 で慶 留 間 に上陸 、村 の青年 十数名 の鷹接 で銃 一丁 犬 三 匹で山 を巻 い て戦線 は張 られ獲 物 を待 つ こ と二 三時 間、慶留 間の鹿 は銘苅子 で あ る、普 天 間槽厳 で あ る、見 つか る 恐 れ の ない もの で あ る、 ドラ鐘 や ブ リキ錘 の響 は山の蛙 の聾 よ りも細 く哀 れで あっ た、 下 手兵法 に怪我 な くて一 同下 山、視嬰 は二度 の戦 線 を布告 す 、再度 の待伏 せ は開始 さる、喉 の渇 を草 葉 の露 に漏 は した者 は強 ち僕 一人で は なかっ た、犬 が駆 け廻 っ たのが鹿 に見 られ 後 の人 の手 を揃 へ て鹿 の後足 だっ た と幽霊屋 敷 の話 のや うな話 が もち きられ遂 々断念 して 人家 のあ る島裏 に落 ちのび る まで になっ た。 <中略> 山羊 の舌 み たい な鹿 の角 を三 園で買 え とい ひ。 まだ寵 なれ も しない 目白 を五 十鏡 で要 ってゐ る。 <中略> 学術 研 究 の馬 め か、 若 くは害 獣駆 除願 だっ たか未 だ許可 が なかっ たの を後 は どうにか な る との 出番 ば、鹿 が居 な くて今 は事件構成不 能 とな り警察側 の気 休 め に もなっ た と思 ふ 。 家 で は柱 時計 が夜 を半分緩 め た事 だ。母へ の御 土 産が石。 【解 説 と考 察 】

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年 の 系 図 座 の 設 置 と と も に士 族 の 家 系 と各 人 の 経 歴 を記 録 した 『家 譜 』 が つ ぎつ ぎ ・1

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09-戦前 の史料 にみ るケ ラマ ジカの記 述 と作成 された。作成 は

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年頃 まで続 き、沖縄本 島系で約

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系統、約

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冊の家譜が存 在す る (田名

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。その内の一つである 『祖姓家譜』 か ら、康

興9

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月に鹿 狩 りがあ ったこ とがわかる (Ⅳ-① )。慶良問における鹿狩 りの具体 的な記述 としては現時 点 において最 も古 い ものである。鹿狩 りの記述 は琉球の正史である 『球陽』にも認め られ、 尚穆王代 の己卯年

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の ことである

(

Ⅳ-(診)。 その後、仲尾次政隆の 『配流 日記』や明治、大正、昭和初期 の新聞記事 な どに しば しば 慶 良問の鹿狩 りに関す る記事 をみ ることがで きる (Ⅳ-(彰∼⑰)。慶 良問諸 島は 「各 島鹿の 栖 息す るを以て銃猟家 の も多大の興趣 あるべ し」 と紹介 され

(

Ⅳ-⑭)、県内では唯一の鹿 の狩猟場 であった。鹿狩 りは、島民 に とって特 に営利 を目的 とした ものでは無か った よう だが、 これ によ り、鹿 による作物-の被害 を減少 させ ることがで きると、その有用性が唱 え られてい る (Ⅳ-⑬)。鹿狩 りは 『慶良間島鹿狩旅行』などの新 聞記事 に見 られるように、 師範学校 や中学校 の修学旅行

(

Ⅳ-④ ∼⑥ ,⑧ ∼⑫,⑯)、 または県知事 な どが来 島 した際 の歓迎の催 しとして も行 われてお り (Ⅳ-(む⑮)、修学旅行 の記事 では軍事教練の一貫 とし ての鹿狩 りをうかがい知 ることもで きる。 また、捕獲 した鹿 を波之上官-奉納す ることも あったこ とがわか る

(

Ⅳ-

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む)

。鹿狩 りでは多数の勢子 を使 った大がか りな追 い込み法や銃 を使 った銃猟 が行 われてい るが、座 間味村史編集委員会

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による と、昭和 の初期 までは猟銃 や猟犬 をつかった鹿の駆除や、山中に径三尺、深 さ七尺の落 と し穴 を掘 って捕 獲する方法 もとられた とい う。 奈良の鹿 は春 日大神 の神鹿 として

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年以上 も保護 され、 また中国では

2,

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年以上 も 前 の漠朝 の頃 には、鹿茸 を目的 とした養鹿が行 われていた と考 え られてい る。 また 「鹿

は 「禄」 と音が通ず ることか らめでたい獣 とされ、漆器 の装飾 には どこされ るな ど、人 と 鹿 との関わ りはい くつか知 られてい る。 ケラマ ジカの場合、薩摩か らの移入の本来の 目的 は今の ところ不明だが、移入後 は主 に狩猟獣 として位置づ け られ、明治期以 降には鹿狩 り は鹿 肉 を得 ることだけでな く、催 しや軍事教練 としての要素 も含 んでいた ことが うかがえ る。

「有害獣駆除」とケラマジカ

Ⅴ-

① 琉球新報 明治42年(1909)7月15日 1面 ◎鳥と鹿を駆除す 慶良問嶋座間味村長松田利三郎は村民を代表 し同村阿佐三十九番地輿 那嶺次良をして有害鳥獣の内鳥百羽鹿五十頭を駆除する旨願ひ出てたるに付□一昨日許可 せられたり

Ⅴ-

② 琉球新報 明治44年(1911)7月2日 2両 ◎慶良問一斑 (-) 愛鹿 <中略> 息山中には鹿が棲息 して多 く接木林の中を砺裡 して居るこれは生活状態から来たので鹿の -110I

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史料 編集 室紀 要 第24号 (1999) 好んで食する草木は多 く矯木林中にあるからである鹿の棲息は本県で唯慶良問あるのみで あるから動物分布上から云へば大いに保護すべ きであるが農作物に害するには酬い奴で寧 書駆除を行ふべ きである <後略> 【解説と考察】 鹿 に よる農作物へ の被害が頻繁であ った ことが うかが える。記事 に も害獣 と してその駆 除 を求め る ものがみ られ、座 間味村 は明治

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年 に鹿

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0

頭 を駆 除す る旨を申請 し、許可 を得 てい る

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Ⅴ-

(

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。 ケ ラマ ジ カは現在 、屋嘉比 島、慶留 間島、阿嘉 島お よび外地 島に分布す るが、 かつ ては 座 間味 島 と渡嘉敷 島 に も棲息 していた ようである。 これ らの島々では、農作物被 害 を くい 止 め るため に昭和 の初期 まで猟銃や落 と し穴 を使 った駆 除が行 われ、鹿 はほ とん ど獲 りつ くされた とい う (座 間味村,1976)。阿嘉 島の鹿 は、1970年代 よ り目撃 され る よ うにな り、 その後個体数 が増加 し現在 に至 った もので、近 隣の慶留 間島や屋嘉比 島か ら泳 ぎ渡 った も の と考 え られ てい る。 上 の記事 で は鹿 の保 護 について もふれ られているが、当時 は農作物へ の被害軽 減が最重 要視 され てい るこ とが わか る

(

V-

②)

。戦後 、 ケ ラマ ジカは天然記念物 と して保 護 されて きたが、聞 き込み調査 な どによる と、戦前 に も保護 されていたことがあ り、大正 の末期 に は屋 嘉比 島 と外 地島 に 「鹿 の捕獲禁止 区域一 農商務省」 の立 て札 がたて られてい た とい う (座 間味村 史編 集委 員 会,1989a)。 また、鹿 の保 護 地城 に指定 されてい た屋 嘉 比 島 には 政府 か らイモ代 の補助 もあ った といい (座 間味村 史編 集委 員会,1989a)、保 護 政 策 もと られ ていた よ うであ る。ゆえに、ケラマ ジカ保護へ の関心 は、戦前 か らも存在 していた こ とが わか る。 Ⅵ 「その他」のケラマジカに関する記述 Ⅵ-① 沖縄 毎 日新 聞 明治44年(1911)5月4日 2面 ⑳渡嘉敷便 り <中略 > 屋比久訓導先づ新任の挨拶をなし莞蘭 として掛囲により孟母の三遷を話 し母たるものの職 責に及ぶ其の話や短か しと雛も其目的は充分に達せ られLと見受申候聞合せ Lは十一時半 合貞一同満足の意を表 し狭 き慶良問の天地に歓呼の聾溢れ山にいななく鹿の聾 も慶 と聞え 名残 を惜 しむ春の花 も再び咲かんずる有様 にて候ひき <後略 > Ⅵ-② 琉球 新報 明治44年(1911)7月6日 2面 ◎慶良問一斑 (≡) 愛鹿 <中略> -111・

(19)

戦前の史料にみるケラマジカの記述 首地ではこの燃木の伐採は多 く女の手によって出るので出船前になると花盛の娘連が大 き な山刀 を腰 に鹿で も只ならぬ荊棟の間口分け霧深 き山奥で鴬の聾が幽□洩れるの もいと可 憐である <後略> Ⅵ-③ 沖縄 毎 日新聞 大正2年(1913)11月18日 2面 嶋影清響 (痩) 素位 .&秋 日和 <中略> マーカー峠の辺、大岳等は山容能 く整ひ森々たるものである。心ある友だちと山宿 をなし、 月明に鹿の声 を聴 くも、亦興あることと恩ふ。 <後 略> Ⅵ-④ 沖縄 教育 10月覗 NO.165昭和2年(1927) /蒙三武郎 (1927) 慶 良間島寸感 晩感 灰爾兄へ送る鹿狩 日記 蒙 三武朗 <中略> 午後二時、排天丸入港、一行はいそいそ と乗 り込んだ、海凪 ぎ、アゴの裏に寅向って船 は又泊った雌鹿が来るとの事である、那覇附属校の雄鹿の年来の申出 らしい、雄鹿に取っ ては寓願成就の 日だ待人未の方か ら乗たるの御口である、犬 もあるけば棒 に普る風格であ る、仲人は比嘉視撃、結納金二十囲也、御披露は各 自々宅に晩餐の用意あ り。それにして も久米島に持ち越 した酒樽はどうなっただらう。 鹿 を乗せて船は進路 をいそぎ、細 く長引いてゐる本島へ糸を引かされた凧のやうに次第 に近づいて行 く

港の那覇呑気な住家に船は停止 した。 【解説と考察】 慶 良 問諸 島 に関す る記事 の 中 には、鹿 が登場 し、沖縄 県 では唯一鹿 の棲 息す る島である とい う特徴 が述べ られ てい る、 この よ うにケ ラマ ジカは慶 良問諸 島の象徴 的 な存在 になっ てい た とい え よ う。

ま とめ

自然 科学系 の文献 で は、 ケ ラマ ジカ由来 につ いての最古 の記録 は

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年編集 の 『琉球 国 由来記 』 にあ り、崇禎 年 間

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年)の薩摩 か らの人為 的移入 に よる とされ る。 し か し今 回、 それ よ りも古 い時代 に琉球 で 「鹿」 の語 が使用 されてい た こ とが

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年 に編 集 され た陳侃 の 『使 琉球録』 内での発 見 に よって明 らか にな り、 この分 野 で は初 めての報 告 とな った (表 1)。 これ は 『琉 球 国由来記』 の鹿 が移 入 され た とす る崇 禎 年 間 よ り

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年 ちか くもさか の ぼ る もので、生物学 的 に も注 目すべ き記述 とい え る。す な わち、 も し仮 に この時点 で、 す で に琉 球 にシ カが移入 されてい た とす る と、 同一種 の シ カの何頭 かが、亜 熱帯 島峡 の隔離 環境 におかれ てか ら現在 までの期 間が、 これ まで考 え られ て きた値 よ りも .11

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2-史料 編 集 室 紀 要 第24号 (1999) 少 な くとも

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年近 く長 い ことにな り、種 の分化の重要 な課程 であ る遺伝 的交 流の分 断 と それ に ともな う遺伝 的変異 の蓄積 にかかった時間が、従来 よ りも長い ことになるか らであ る。 さらに、 これ ら最初 の個体群 は薩摩 由来 とは限 らず、崇禎年間の薩摩 か らの移入 によ り異 なる起源の個体群 が交雑 し、現在 のケラマジカの遺伝 的特徴 をもた らしてい る可能性 も否定 で きな くなる。つ ま り、ケラマジカの遺伝子 は純粋 に鹿児 島の シカのそれ を背景 と した ものではな くな り、ケ ラマジカ と本土のシカ、特 に鹿児 島のシカ との遺伝 的変異や形 態的 な違い を導 く要因 について も再検討が必要 となろ う。ただ し、陳現 は鹿 を意味す る琉 球語 として 「鹿」 を記録 しているのみで、琉球語 と しては 「鹿」があったが実際 に鹿が棲 息 していたか どうか を知 る手がか りは示 されていない。 シカの棲息 を、最初 に、具体的 に記 したのは

、1

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年 に渡来 した青票業 と謝茶 である。 その便録の中で 「野 に熊 、熊、財 、虎 、狼 、豹 の猛獣鮮 し。而 して濁 り鹿 を出すのみ。」 とし、具体的な地域名 な どは明示 されていないが、シカが存在 したことを示す記録 である。 一方

、1

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年渡来の夏子 陽 。王士禎 は 「野 に惟 れ鹿鮮 し」 と した。「鮮」 とは 「少 ない

とい う意味 を もつが、粛崇業 ・謝茶の文 を考慮す る と 「無い、居 ない」 とい う意味 に もと れ る。 これ らの記述が正 しい とす る と、『琉球 国由来記』 にみ られ るシカの移入以前 に も 琉球 にシカの個体群が存在 したこと、ただ しこの個体群 は夏子陽 ・王士禎 の渡 島す る頃 に は激減 ない し絶滅 に瀕 していたことも考 え られる。 琉球列島で も多 くの シカの化石が発見 されて きたが、 これ らは第四紀更新世の 中期 に繁 栄 した もの とされてお り (大域

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)

、現在慶良問諸島に棲息す るシカ とは全 く関係 な い と考 えられ る。では、 『琉球 国由来記』の シカの移入以前 に記録 のあるこれ らのシカは どこか らきたのであろ うか。 「琉球語」 の項で もふれたが、「鹿」 を意味す る琉球語が陳侃 の頃 と、徐採光 の時 とで 大 き く異 なっているのは注 目に値す る。それは琉球のシカの起源 とも関連 してい るか もし れないか らである。鹿児 島の方言では鹿 の ことを 「シシ」 といい、日本 では古 く 「カ

「カ ノシシ

「サ ヲシカ」な どと も呼んだ (舌川弘文館

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)

「シシ」とは 「獅」または 「肉

を意味す る

(

『沖縄古語大辞典』編集委員会

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5)

。琉球語の 「コ-シシ」 は これ らの鹿 を示す 日本古来の言葉 を原語 とした もの と思 われ、薩摩か らのシカの移入 とともにもた ら された と考 え られる。では、「加 目

」(

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は どうであろ うか。 もし、 この シカも外 地 か ら移入 された ものであれば、起源 となる地方の言葉の影響 を受 けているか もしれない。 本稿 ではそれ を検証す る まで には至 らないが、参考 までに、中国ではニホ ンジカのことを 「梅花鹿」 と書いて

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左心 " と発音 し、 さらに別名では 「花鹿」、

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と発音 す るo後者 は母音 と音節 が

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と類似 してい るように も思 われ る. もし"ji

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が 「花鹿」 を語源 とす るのであれば、薩摩か らの移入以前 に、 シカが 中国か ら移入 されて いた可能性 も考 え られ よう。 残念 なが ら、今の ところ これ らは憶測 の城 を出ない。それ に加 え 『中山侍信録』では物 産 と して 「猿」が存在 した とされ るな ど、 これ らの古文書が どれほ ど正確 な記録 を残 して ー11

(21)

3-戦前の史料にみるケラマジカの記述 い るか とい うこ とに も疑 問 の余地 が残 る。 したが って、本 当 にかの時代 に琉球 にシカが存 在 したか について は更 なる調査 が必 要 で あ る。 玉手 (1996)は ミ トコ ン ドリアDNAを用 い た 日本 産 ニ ホ ンジカの系 統 推定 の結果 につ い て報 告 してお り、大 き く北 方 と南 方 の

2

つ に分 け られ るニ ホ ンジ カの遺伝 的 グループの うち、 ケ ラマ ジカ は後 者 に属 す る こ とを示 した。 またそれ に加 えて、 ケ ラマ ジカは他 の亜 種 には見 られ ない塩 基 配列 を持 つ こ とを示唆 した。今後 、 この よ うな分子 系統学 的手法 に よってケ ラマ ジカ と鹿児 島県 や 中国のニ ホ ンジカ との比較 を行 うこ とで、 ここに述べ た謎 を解 明す る糸 口が見 つ か るか もしれ ない。 最後 に、本稿 を ま とめ る にあた って史料編集室 の当山 昌直、小 野 まさ子 、中村 高一、鳥 山淳 、水 間八重、喜納 ひ とみ、下 地智子 お よび地主 園亮 の各氏 、 また亜 熱帯生物 圏研 究 セ ンター西原研 究室 助教授 の太 田英利 氏 には多大 なご助言 とご指 導 を賜 った。 この場 をか り て、深 くお礼 を申 し上 げ ます 。 参考文献 陳侃 (普)・原 田両雄 (訳注)(1995)訳注 『陳侃 便琉球録』 .格樹社 .288p. 田名真之 (1983)家譜.沖縄大百科事典 上巻,747-748. 川島由次 (1980)ケラマジカ.動物 と自然,10(8):9-13. 球陽研究会 (1995)沖縄文化史料集成5 球陽 読み下 し編.角川書店.793p. 外聞守善 ・波照間永吉 (1997)定本 琉球国由来記.角川書店.692p. 徐採光 (著)・原田丙雄 (訳注)(1982)完訳 『中山伝信録』 .言叢社 .397p. 黒岩恒 (1894)琉球諸島の野獣,動物学雑誌,6:308. 蒙三武郎 (1927)慶良間島寸感晩感 灰爾兄へ送る鹿狩 日記.沖縄教育 十月既, (165):60-66. 那覇市企画部市史編集室 (1977)那覇市史 資料篇 第1巻3.那覇市役所.43p. 那覇市企画部市史編集室 (1983)那覇市史 資料篇第1巻8家譜資料四 那覇 ・泊系.那覇市企画部 市史編集室.872p. 玉手英利 (1996)ケラマジカの分子系統学的位置付 け.沖縄県天然記念物調査 シリーズ第35集 ケ ラマジカ保護対策緊急実態調査報告書,56・57. 谷川健一 (1981)仲尾次政隆翁 日誌.日本庶民生活史料集成 第27巻 三国交流誌,534-562. 渡嘉敷村史編集委員会 (1987)渡嘉敷村史 資料編.渡嘉敷村役場.629p. 当山昌直(1983)阿嘉島の動物の方言 について.県立博物館総合調査報告書Ⅲ一座間味村-,23-29. 沖縄県教育委員会 (1979)沖縄県天然記念物調査 シリーズ第17集 ケラマジカ実態調査報告Ⅳ.沖 縄県教育委員会.148p. -11

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