ベトナムの安全保障とASEAN (特集 ドイモイ30年
-- 模索するベトナム)
著者
小笠原 高雪
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
257
ページ
20-23
発行年
2017-02
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00048532
ベトナムがASEAN(東南ア ジア諸国連合)に加盟してから今 夏で二二年になる。ASEANの メンバーシップなくして、ドイモ イがここまで成果をあげることは なかっただろう。それはベトナム の国際経済への統合を促進しただ けではない。経済発展に不可欠な 安定した環境維持にも貢献してき た。ベトナムの安全保障政策にお いてASEANはどのような位置 を占めているのか。それは安全保 障情勢が変動するなかにおいても 有用であり続けるのか。
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歴史的にみるならば、ベトナム は東アジアの南端に発祥した国家 である。インド洋と太平洋を結ぶ 海域世界を東南アジアと考える場 合、そこにインドシナ半島北部は 含まれない。数世紀に亘る南進の 結果、ベトナムも東南アジアと接 触を開始するが、フランスに植民 地化されるまでは中国との朝貢関 係が継続していた。 第二次大戦後の独立以降も、ベ トナムは社会主義国家としてソ連 や中国との関係が深く、東南アジ アへの関心は限られていた。一九 六七年に発足したASEANに対 し、ベトナムは批判的な言辞も向 けたが、その焦点はアメリカ軍基 地の存在であった。ASEAN諸 国そのものは、ベトナム戦争の勝 利 に 意 気 あ が る 自 国 と 対 照 的 に、 多くの矛盾と弱点を抱えた存在で あるというのが当時の東南アジア 観であった。 他方、隣接するラオスとカンボ ジアに関しては、ベトナムは勢力 圏とみなす傾向があった。一九七 〇年代後半にカンボジアとの国境 紛争が激化すると、ベトナムは同 国を軍事占領下に置いた。このこ とはカンボジアを支援していた中 国との関係のみならず、ASEA Nとの関係をも悪化させた。当時 のインドシナ三国は、ソ連を中心 とする社会主義国の「飛び地」の ような存在だったのである。 しかし以上のような対外政策は、 ソ連の衰退とともに大きく転換し はじめる。一九八四年には、ベト ナムの指導部も、社会主義圏と資 本主義圏が相互に依存し、不可分 の関係にあることを認めるように なった。こうした「一つの世界市 場」論の提起は二年後の党大会で のドイモイの公式表明、とりわけ 経済における改革開放路線の伏線 となったといえる。 発想の転換は安全保障分野にも 及んでいった。一九八八年の政治 局決議は、科学技術革命が世界を 根底から変えつつあると強調した小
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のち、現代における安全と発展の 条件として「強力な経済」 、「適度 な国防力」 、「国際協力の拡大」を 指摘した。これはカンボジアの占 領が敵を増やし、ベトナムの安全 を阻害してきた側面を認め、対外 的な融和を説いたものであった。 対外政策の転換は東南アジア観 の変化によっても促された。一九 八〇年代の末までに、タイをはじ めとする近隣諸国は順調な経済成 長を遂げ、政治的にも安定してい た。ソ連型の社会主義こそ最善と 信じてきたが、それが唯一の道で あったのか。ASEANとその加 盟国の経験からも、学ぶべき教訓 はないのだろうか。そうした静か な自問自答がベトナム内部で進行 していた。 以上の帰結として、ベトナムが ASEAN加盟の希望を表明した のは、一九九〇年のことであった。 ベトナムは東南アジア友好協力条 約(TAC)に署名し、ASEA Nのオブザーバーの地位を得ると ともに、ASEAN地域フォーラ ム(ARF)の発足にも関わった。 ベトナムとASEAN諸国は交流 を深め、共通のアイデンティティ を育んでいった。 それでも一九九五年に加盟が実特 集
ドイモイ 30 年
―模索するベトナム―現したのは、大方の予想よりも早 かった。このことは、一九九一年 にソ連が崩壊し、社会主義圏が消 滅したことと無関係ではないだろ う。 ま た 中 国 が 一 九 九 二 年 以 降、 領海法の制定やフィリピン支配下 の環礁の占拠など、南シナ海に進 出しはじめたことによっても加速 されたと考えられる。
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ASEAN加盟当時、ハノイの 指導者たちの期待の中心にあった のは、それがベトナムの世界経済 参入の突破口となることであった。 日本の政府開発援助(ODA)は 一九九二年に再開されたが、国際 社会との連絡がよいASEANの 一員となれば、さらに多くの機会 が広がるものと期待された。 一九九三年に合意された対外政 策の新方針は「拡大・多様化・多 角化」であった。拡大は政治社会 体制の相違を超えた友好を、多様 化は経済や文化などを含む包括的 関係を、多角化は多国間制度への 参加をそれぞれ意味した。この方 針を具体化したのがアメリカとの 関 係 正 常 化 で あ り、 A S E A N、 ア ジ ア 太 平 洋 経 済 協 力( A P E C )、 世 界 貿 易 機 関( W T O ) な どへの加盟であった。 しかし経済発展を続けるために は国内的にも対外的にも、安定し た環境の維持が不可欠である。何 を、どの程度まで、いかなる手段 で守るかは、時代とともに変化す る。しかし安全保障が必要でなく なることは、ドイモイの前にも後 にもありえない。そしてASEA N 加 盟 は 安 全 保 障 の 観 点 か ら も、 いくつかの点で有益だった。 第一は国内の安定である。ソ連 を中心とする社会主義圏の崩壊は ハノイにも衝撃を与え、ドイモイ への慎重論を生み出していた。し かしASEANは内政不干渉を原 則の一つとしており、人権・民主 化をめぐる欧米諸国の批判には他 の加盟国でも反発があった。それ ゆえASEAN加盟には指導部も 不安を抱かなかったし、むしろ欧 米諸国への防波堤となりうること も期待された。 また共産党の正統性を保つため には経済発展が不可欠であり、ド イモイを継続するべきであるとの 基本的な考え方も、指導部内では 維持されていた。そうした考え方 に立つならば、ASEAN加盟は 経済発展をつうじ、国内の安定に 貢献してきたことになる。 第二はインドシナの安定である。 戦略的縦深性を持たず、北部と南 部に国力が分極し、山岳地帯に多 数の少数民族を抱えるベトナムに とって、ラオスおよびカンボジア との関係は安全保障に直結する問 題である。とりわけカンボジアと の国境紛争の再燃回避は重要度が 高いといえる。 このようにみるならば、ラオス とカンボジアの加盟にベトナムが 賛同し、後押しもした理由の一部 を推測できる。ASEAN諸国は 善隣外交に注力し、相互関係を安 定させ、国民統合と経済発展に多 くの資源を投入するのに成功して いた。こうした紛争管理こそはA SEANの最大の達成であり、イ ンドシナのASEAN化の狙いも そこにあったと考えられる。 第三の、そして最も根本的な課 題は、対中関係の安定である。ベ トナムが東アジアの南端に発祥し たということは、それが中国の強 大な影響力にさらされながら、同 時に自立を追求することによって 自己を形成してきたことを物語る。 ベトナムにとって、中国の脅威は 陸上や海上の国境線でも発生しう るし、南シナ海の島嶼をめぐって も発生しうる。中国との安全保障 におけるASEANの位置につい て、次節以下で概観したい。●
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安全保障政策は、 「均衡」 (バラ ン シ ン グ ) と「 関 与 」( エ ン ゲ イ ジメント)の組み合わせとして説 明されることがある。均衡政策は、 国力の強化や同盟の締結によって 有利な力関係を形成し、相手の能 力を制約する試みである。関与政 策は、さまざまな対話や交流を重 ねながら規範の共有を図り、相手 の 意 図 を 変 化 さ せ る 試 み で あ る。 二つの組み合わせ方が状況により 異なることはいうまでもない。 一九八八年に南シナ海で中越が 衝突したとき、対中改善を模索し ていたソ連は事態を傍観した。こ の出来事が、ソ越同盟を基盤に均 衡政策を追求していたベトナムに とって、衝撃でなかったはずはな い。当時のグエン・コ・タク外相 が、アメリカとの関係正常化を切 望していたことは広く知られる。 ところが一九九一年秋、外相退 任直後のタク氏は筆者のインタビ ュ ー に 対 し、 「 中 国 と の 関 係 を め ぐりアメリカや日本の助力を求め る 動 機 は ベ ト ナ ム に は 全 く な い 」 と述べるとともに、その理由として「中国も今後二〇年間は経済発 展のため国際環境の安定を望むで あろう」ことを挙げた。前段がタ ク氏の真意であったかどうかは疑 わしい。しかし後段は当時の国際 社 会 に 広 く み ら れ た 認 識 で あ り、 それ自体にはタク氏も同意してい たようである。 ベトナムはその後、中国への関 与政策を追求するが、それに一定 の展望を与えていたのがASEA Nの存在であった。南シナ海問題 は、マレーシア、フィリピン、ブ ルネイも直接の当事者であり、一 九九二年の外相会議(AMM)も 取り上げていた。 ASEANはまた、日本からも 促されつつ、アジア太平洋の安全 保障対話に取り組んでいた。アメ リカと中国を巻き込みながら形成 されたARFの狙いの一つは、南 シナ海に関する多国間協議の実現 であった。南シナ海はインド洋と 太平洋を結ぶ海上交通の要衝であ る。アメリカや日本などは、島嶼 の領有権については直接の当事者 ではないが、海洋の安全保障につ いては正統な利害関係者に含まれ る。 しかしARFをつうじた関与は 容易に進展しなかった。南シナ海 問題について、中国が二国間協議 を主張したためである。ASEA Nとしては、中国とASEANの みの協議のなかで、南シナ海問題 を取り上げることを基本とせざる を得なかった。相手が応じなけれ ば協議は成立しないのだから、や むを得ない対応であっただろう。 ASEAN+中国による関与は 一定の成果を挙げた。ASEAN と中国は、数年間に及ぶ協議を経 て、二〇〇二年に南シナ海行動宣 言(DOC)に合意した。信頼醸 成措置の促進、海上協力のための 実際的な措置、そして次の段階と しての、拘束力を有する南シナ海 行動規範(COC)の制定に向け た協議などが合意された。 DOCの合意当時、ベトナムの 識者たちは「我々は南シナ海問題 の多角化を追求するが、国際化は 支持しない」との表現で、ASE AN+中国による関与を肯定して いた。この場合の国際化はアメリ カや日本などの域外大国を含めた 協 議 を 意 味 し、 「 そ れ は 中 越 関 係 を複雑にするだけである」という のが彼らの説明であった。
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題
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国
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しかしCOCの制定に向けた協 議は掛け声ばかりで容易に進展し なかった。ASEANにとって痛 恨事であったのは、協議の停滞中 に、中国の南シナ海進出が加速し たことである。二〇〇七年一一月、 中国政府は海南省に「南沙市」を 新設し、その行政範囲に南シナ海 の三つの島嶼を含めた。二〇一〇 年前後からは、ベトナムの漁船や 調 査 船 が 中 国 側 か ら 妨 害、 発 砲、 拿捕を受ける事案が急増し、中越 関係を緊張させた。 こうしたなかでベトナムは、南 シ ナ 海 問 題 の 国 際 化 へ 舵 を 切 り、 そのことのために二〇一〇年のA SEAN議長国の立場を積極的に 利用した。七月のARFにおいて は中国の不興を承知のうえで、南 シナ海問題を取り上げた。アメリ カのクリントン国務長官も、南シ ナ海における「航行の自由」はア メリカの国益であると応じ、同席 の中国の外相を激怒させたと伝え られる。 ベトナムはまた、ASEAN国 防相会議(ADMM)に米露を含 む八カ国を加えた拡大国防相会議 ( A D M M + ) を、 一 〇 月 に 初 開 催した。これが南シナ海問題をめ ぐり、期待ほどに機能してこなか ったARFへの代替措置であった ことは明白である。出席したアメ リカのゲイツ国防長官は、COC に関するASEAN+中国の協議 に対し「仲介的役割」を果たす用 意があると述べた。 こうした流れは二〇一一年に継 承された。一一月に開催された東 アジア首脳会議(EAS)も米露 を含むように拡大された。その非 公式セッションにおいて、一八カ 国のうち一六カ国が海洋安全保障 を提起した。中国はそうした話題 はEASに適していないと反論し たが、議長国のインドネシアは怯 むことなく議事を進めた。 しかし南シナ海問題の国際化に 中国はあくまでも反対であり、ま もなく露骨なASEAN分断策に 乗り出した。二〇一二年の議長国 にカンボジアが就任すると、中国 は 同 国 へ の 巨 額 の 援 助 を 約 束 し、 A S E A N を 間 接 的 に 制 御 し た。 七月のAMMは南シナ海問題をめ ぐって紛糾し、共同声明を発出で きないというASEANが始まっ て以来の事態となった。 一一月のEASではカンボジア が、南シナ海問題の国際化に反対 する議長声明を出した。これはベ トナムやそれと同じく国際化に前 向 き だ っ た フ ィ リ ピ ン に と っ て、大きな痛手であっただろう。 以 上 か ら 明 ら か に な る こ と は、 南シナ海問題をめぐり、ASEA Nがディレンマに直面しているこ とである。すなわち他の大国を直 接的には介在させず、ASEAN のみで中国を動かすことは荷が重 い。さりとて国際化へのコンセン サスを内部に形成するのも、中国 の姿勢が変わらなければ不可能に 近い。こうしたなかでベトナムは 何をしようとしているか。