日本家業医療史文献目録I
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(2) 108. 北. 原. 龍. 二. でこの目録に収録する作業を続けた。とはいえ,少数の例外を除けば,家業医療の記録 として意識的に編纂された文献(2)があるわけではなく,私の問題関心に即して探索する うちに収録範囲は次第に広がり,およそ家業医療の視点から日本の医療を見るときに有 用なものは出来るだけ拾うこととなった。そしてそれらを後掲の編成方針にしたがって 配列したのがこの目録である。 以下,なぜ家業医療を主題としながら,このような文献を収録することとなったかの 事情の一端をまず述べたい。なお歯科医師・歯科医業もまた家業歯科医業であることを 充分承知しているが,今回は検討の対象に含めず,また同じく家業としての営みを常態 としてきた助産婦についても,言及しなしナ. 1. 医学と医療. 「医学」と呼ばれるもの自体はきわめて荘漠たるものである.現代の医学校が,それ を基礎医学・臨床医学・社会医学にわけながらも,なお包括的には「医学」とし,その 学校を「医科大学」. ・. 「医学部」と呼び続けているのも,おおむね伝統的・慣習的理由か. らであると思われるが,それが医療科学ないし医療学となることを想定するのも,当面 は非現実的であろうから,ここでは便宜的に「医療」に対比して「医学」と呼ぶことと する。. これまでのところ医学は一個の体系的な学であり,その学に基づく(とされる)技術・ 技能であり,それは社会生活との広大な結合を介さずしても,ひとつの固有の世界の形 成が可能であると考えられてきた。医学史研究においては,ひとつの術式・技法・用具・ 薬剤などが創始され,改善されること自体が,歴史に記録され記念さるべき事実であっ た。その事実がきわめて特異的,突出的であり,人体の全体からみれば局部的であり, 社会的意義がほとんど不明であっても,医学史的には重視された。医学史的価値あるも のは,いずれは医療史的にも意味を持っという安易な,また一種の科学信仰的「善意」 が-この「善意」と過度なそれに随伴しがちな「無知」とが,ときに「悪魔」の営み を生み,残忍な人体実験や無謀な施術を許容する基礎ともなったが-,支配的であっ たのである。. だが,医療・医療史にとって事情は大いに異なる。. 「医療は医学の社会的適用である」. という広く聞かれる一般的説明は,医学と医療との間にある不調和・緊張・対立の関係 をほとんど自覚していない。医学の成果が医療に作用する過程には,まず医師が介在し, 医師という人間の営みを介して医療が実現する(とはいえ,医学なきところにも医療は 厳然として存在してきたのであるが)。この医師がどういう人々であるかは,医療の実 質を大きく規定する。このほかにも,医療を規定する社会的要因はおびただしい数にの ばる。医学の発達と医療の充実とは,本質的に別物である。 医師は近代においては法制化された諸制度のもとにあるから,この制度群の考察を, 医療の研究は欠かすことはできない。しかし,制度は法制化され法文集に見られるよう なものばかりではなく,慣行・風習・流儀・作法などとして確立された多数・多様な様 式においても存在する。医療を考える上で,このような制度の把握・検討はすこぶる重.
(3) 日本家業医療史文献日録Ⅰ. 109. 要な意味を持っ。 2. 教室制度. <1> 上述の意味において医師を規定する諸制度の中で,枢要の位置にあるのは医学校の教 室制度,とりわけ臨床医学系の教室制度である。たしかに,今日の日本において医師は, 医学校を卒業し医師国家試験に合格し医籍に登録されれば,医師として法制的には完成 する。この過程にも多くの研究課題があり,この過程を特徴づける諸指標から,日本の 医師と医療との特徴を説明する方法が形成される。また,この過程・制度の歴史的変化 を叙述すれば,日本医療史,日本医療制度史などとなると信じる考えもある。 だが,ことばにしてみれば格別のことでもないように思えるが,法制上の医師となっ た段階のままの彼ら(女性を含む,以下同じ)は,研修中に医療に参加することはあっ ても,主役となって医療を担当することはほとんどない。彼らには2年間の臨床研修が 求められており(医師法 第一六条の二),その際,あるいはその途上で,彼らは特定 の医学校の特定の教室に所属する(その所属の開始を入局ともいう)。そしてここより 法制上ではともかく,日本社会における「初級医師」としての第一歩が始まる。 ここでいう教室,それはおそらくどの医学校においても公式の組織図に位置を持っこ とはないが,きわめて強固に確立された単位制度体である。医学校はこの教室群の連合 体として構成・運営されており,医学校の拡充・整備はおおむね教室の増設を目指す形 頂点にその教室の教授 をとる。また教室は医局・講座という側面を同時に併せ持ち(恥 を置く三角錘構造によって教育・診療・研究を軸とする多様な活動を続合し,医学とと もに医療の実質を左右する重要な根源となる。教室は累代の継承発展を希求し,教室の 別始者(初代教授)からの系譜性の強弱・濃淡をもって個人を説明し位置づけ,秩序の 根底にすえる。外科系の教室などでは,初代教授執刀の最初の手術日が「教室記念日」 とされたり,そのさい使用のメスが「教室宝」として保存されたりもする。 このように教室は個人をはるかに超越した存在であるから,代々の教授はどのように 強大な権限を保持していても,おのれと教室との関係を説明するとき好んで使うのは 「教室を預かる」ということばである。 近年,改築・新築によってほとんど姿を消してしまったが,教室は本来建造物として も独立した存在であった。医学校の古い建物配置図や各建物の平面図をみれば了解され るように,それぞれの教室は,しかるべき人物の書になる教室名を記した大型の木札の かかる玄関を構え,名誉教授室・教授室・助教授講師室・医局・研究室・実験室・標本 室・図書室・会議室・事務室・臨床講堂・手術室・看護婦室・賄い室・入院病室・外来. 診察室・屍室・解剖室などを持ち,外観上もそれぞれの個性をあらわした建物群として, 医学校キャンパス内に散在した。建物の改築によって病棟と研究棟とが分離して伝統的 姿を失い,大きな建物の各部分に各教室が所在するようになったのちも,教室名の旧来 の木札が保存され,研究棟の廊下の一隅などに掲げられて,教室ごとの境界が明示され ている例も稀ではない.教室は「一国-城」の構えを備えるべきものと,観念されてい.
(4) 北. 110. 原. 龍. 二. るのである。. 教室がなみなみならぬ力を持つのは,教室を離れて医師が存在できないからである。 とりわけ「初級医師」は教室・医局・講座において教育され,訓練され,なんらかの 「専門的研究」の課題を与えられて研究の末端に連なり,診療陣の裾野を形成し,教授 を頂点とする教室内階続的組織の中に位置を与えられ,おのれの「分限」とその変動の 様相を体得し,医師らしき行動様式に習熟し(医師集団ないし特定の教室の一員である ことを象徴するさまざまな隠語の修得を含む),かつこの修行中に何度か繰り返される 関連病院への派遣と教室への復帰(帰局)を通じて臨床体験を多様化し,教室の研究主 題に有益な症例を豊富化し,生計の道を講L:,教室の勢力圏の維持と発展とに貢献し, 教授が会長として主宰する学会・研究集会の準備・運営に献身し,. 「中級」. ・. 「上級」と. 昇進するに応C,彼らに続く新たな「初級医師」の教育・訓練にあたり,次第に「腰掛 け」ではない長期的な就業の様式(勤務医か開業医か,開業でも新規開業か家業継承か, 勤務医でも第三次医療機関と言われ広域医療圏の中核にすわる大病院か,さらにはその 科長か部長かとりあえずは「ひら」か,教授の友人が経営する民間中型病院の副院長格 か,無床診療所の長か,・あるいはその教室の講師・助教授か,それとも他の医学校に教 授として赴任する8年先輩に同行して助教授かなど,選択肢は一見多数であるが)につ いてその見通しと適性を悟り(悟らされ),落ち着くべきところにやがて落ち着く。こ の落着の前後に,一つの区切りとして医学博士の学位の授受がおこなわれる。遠隔であっ たり,小規模であったりして,学位のための研究の継続のむずかしい関連病院などに出 ざるをえない(教室のためにそのポストを確保せねばならない)場合などには,学位授 与の事前の約束が行われたりするf4). <2> ジッツ(Sitz)とも呼ばれる関連病院とは,もとより慣行的呼び名であり,かつ主と して医学校側が用いる呼び方である。その一典型は,医学校附属病院ならざるある病院 の全ての診療科の全ての医師が,ひとつの医学校の対応するそれぞれの教室の出身者に よって占められている姿をとる。しかしそのような例は現実には多くなく,ある病院の /. ひとっないしいくつかの診療科の医師が,おおむねひとつの医学校の対応する教室出身 医師に串って構成されている形,すなわち関連病院といっても実はその特定の診療科の ことである形をとる。ここでは,前者を完全関連病院,後者を関連病院診療科と呼んで 区別する。 完全関連病院は,そもそも病院設立の際に(時には,既設の病院がなんらかの事情に よってそれまで医師の供給を受けていた医学校と「絶縁」して,あるいは「絶縁」され て)特定医学校に医師供給を求め,潤沢な供給を保証されるための諸条件を受け入れた 場合に生じる。そして,たいていはまず院長にその医学校の名誉教授を迎えることの内 定から始まる。さきに述べたように医学校は教室連合体であるから,退職して名誉教授 となる人物のうちより特定のものをその病院に送り,併せて各教室が医師派遣の真に任 ずる体制をとるには,非公式とはいえ教室間で相当の協議・協定が行われるのは当然で.
(5) iFfl. 日本家業医療史文献目録Ⅰ. あり,その医学校と病院の関係は全面的・固定的となる。はなはだしい場合には,それ 「医師の人事は が公立病院であり,その職員たる医師は公務員であるにもかかわらず, その医学校の意向に従う」旨の念書が交わされたりもする。 しかし,ある医学校が,多くの病院を長期にわたって完全関連病院として配下に収め おくのは,容易ではない。医師の養成・供給を量と質の両面において十分に維持するこ とのむずかしさ,他の医学校・教室からの進出を阻止・抑制することのむずかしさがあ る。医学校の新設が盛んな時期には,その病院の至近の地点に立地した新しい医学校と 争って敗退したり,なんらかの理由による教室の低迷期(5)のなかで,協議によって特定 A医学校を主要な母体としてB医 の診療科だけを別の医学校・教室に「惜譲」したり, 「移管」 学校が新設された場合に, C完全関連病院の一部の診療科がB医学校に「分与」 ・. A医学校の当該教室とB医学校の当該教室の され,あるいはC病院のある診療科は, 「共有・共同管理」.下におかれたりするなかで,完全関連病院は次第に関連病院診療科 連合に推移する。. 関連病院診療科は,もっとも広くみられる形である。教皇はその診療科に必要な医師 を常時供給することが期待される。必要なというのは,臨床経験15年以上程度の科長ク ラスとか, 10年程度の医長クラスとか, 「肝炎に強い若手」とかという意味も含まれる。 同時にここには,教室側の事情から「しばらく出しておきたい人物」や,. 「ちょっと厄. 介な存在」の処遇上の工夫も織り込まれる。必要な医師の供給が不可能なときは,. 「代. 務」という方法がとられる。何人かの医師が短期・交代制で派遣されるのである。教室 においてこのような「人事」の采配を振り,勤務条件や報酬に関する教室側の「要求」 を相手にのませ,派遣される医師の苦情を処理し,関連病院診療科の面倒を適切にみる のは,たいていは医局長の仕事である。教室の時代区分の指標は教授の交代であるが, そのなかの小区分は,代々の医局長によって象徴される。 <3> ひとりの医師にとって教室は原則的に生涯不変の「原籍」である。卒業した医学校の 教室がそれとなる例も多いが,卒業期に改めて他の医学校の教室が選択される例も少な くない.選択の基準も-様ではなく,専攻ないし研究主題が基軸となること(血液内科 をやりたいからこの教室にきた)もあれば,自分が出生し高等学校までの教育を受けた 都道府県(いわゆる出身地)の医学校を,将来の就業・開業の利便から選ぶこともあり, そこにまた「教授が父の先輩」とか,医学校の序列の中で入学時に達成できなかった目 標(入試不合格)を補強する(出たのはD医学校だがE医学校の第三外科で修行して一 人前になる)ためなどの要因も重なり合う(6).ただしこの選択の過程の詳細はなお不分 明である。. 「原籍」となる教室には,教室「出身者」による「同門会」. (その構成員は旧教室員な. どと呼ばれる。また時に,教授の代替りごとに,同門会内に下位組織を設ける例もある。 会の固有名詞はさまざまである)が組織されるから,彼らはその会員となり終生「同門」 としての処遇を期待できる。ただし,その医学校の卒業生と他の医学校の卒業生との間.
(6) 北. 112. に,. 原. 龍. 二. 「同門」とはいえ微妙な処遇の差が稀ならず生まれる。新設のF医学校のある教室. (たとえば,第二外科)に,. G医学校の教室(同じく第二外科)の助教授が教授として. 赴任するさい,. G医学校から何人かの「中級医師」を同伴し,彼らを中核として教室を 創設する例ほ広くみられるが,この創設期の人々と,のちにF医学校を卒業して教室に 所属する人々との間にも,当然相当の差が生まれる。彼らは,実はG医学校第二外科教 室の「同門」でもあるからである。 同門であれば,教室からのちのちもさまざまな支援が提供される。手に余る患者を持 ち込むことも,休日当番医の代務者をうることも,やや大きい手術のさいの介助者を派 遣してもらうことも,急速に陳腐化する知識や技能の刷新も,とりわけ新開発の医療機 器・機材・薬剤の情報の入手も,外科一般の開業医が過一日だけ小児外科の「専門医」 を用意して患者を吸引したいときも,なによりも「教室のお世話」を受け,. 「教室のお. 蔭」をこうむることによって可能となる。また教室の発展,名声の高まりなどは,日常 的には縁遠くなった出身者にも「栄光」を与える。 いうまでもないことだが,以下の三点もあわせて承知しておかなければならない。ま ず第一点, 「教室のお世話」の恩恵に与れるのは,教室に対する常々の奉仕・貢献の反 対給付としてである。そこに等価的やりとりがあるわけではないが,たえず教室に尽く すことを欠かしてはならない。教室への尽くし方は多様であるが,最低阪,所属意識を 保持し同門の利益を排他的に守ることであろう。教室の記念行事(H教授開講10周年と か教授の退官など)さいの物的・人的貢献も重要である。第二点,このような関係がす べての「出身者」との間に等質・等量に長期間維持されるわけではない。様々な理由か ら次第に疎遠となるものもいる。遠隔地への赴任によって,教室からの支援を得がたく なれば,依存できる近辺の医学校の教室に接近し「準教室員」程度の関係と地位を確保 することも必要となるが,それがもとの教室の紹介なり了解なりを経ないものであれば, 疎速度は高まる。また時には,. 「伝統ある教室の名誉を傷っけ」たり,同門の「捷」に. 背いたりして, 「出入り差し止め」とか「破門」ともいうべき処遇を受けるものもある。. 第三点,教授の交代は,教室および同内の一大転機である。同門中より「順調に」後任 教授が選ばれる場合,同門ならざる後任者の着任をめぐって同門内の対立・抗争から亀 裂が生じ,しばらくの停滞期を迎える場合,逆にその同門ならざる後任者に反対する点 で同門会が強固に団結し,教室と敵対する場合とでは,雲泥の差があろうが,いずれに せよ同門の再編成が進行する。教授の交代が問題なく進行した場合でち,前任教授時代 の教室員や同門の者は,教室の利害圏の中枢から離れ,次第に前時代の人となって行く ことは避けがたいであろう。医学校の紛議や争乱の大部分は,教授の交代に絡んで発生 し,容易ならぬ深刻化・泥沼化を呈することがある。 <4> このような叙述を読む人が,社会学における「いえ」の研究に多少とも通じているな らば,ただちにこの教室がまさに「いえ」であることに気が付くであろう。私はただ描 写の手法として, 「いえ」の社会学的研究の定着した言い回しを借用しているのではな.
(7) 113. 日本家業医療史文献目録Ⅰ. い。. 「いえ」を念頭に置かずとも,医学校の教室を語ればそれが「いえ」であること,. ますます明白となるのである。 家業医療の有力な源泉は,医学校の教室にあり,ノ医師は「いえ」の構成員としてここ で育成されるのである。彼らひとりびとりが「開業医」となるかいなかにかかわりなく, 彼らは「いえ」たる教室の業を担う成員として医師になり,医療を家業として営む精神 と行動様式を深く身につける。 3. 教室と医療. <1> 以上のような教室のあり方から,次のことがいえる。教室にはそれぞれ固有の医療が あり,医師はそれを学び身につけて医師となるのである。. 「医学」という学の体系その. ものではなく,教室が確立し培ってきた独自の医療の方式が個々の医師の医療を競走す る。患者に向けて営まれる(患者が受ける)のはまさにこの意味での医療である。. 教室の医療の動向を決定するのは,教室のそのときどきの研究テーマである。これが 定まる過程には,教授の研究関心や能力,学会(学界)の動き,とりわけ宿題報告の担 当,教室員の構成,資金,設備,他の医学校の同種教室との提携・競争・対立,社会的 要請などが作用し,簡単な説明を許さないが,注視すべきはここに働く功名心であろう。. 研究テーマの重要度・緊奉度はいわばどのようにでも説明のつくものであり,決定的な 正当性が常にあるわけではないから,いくつもの選択肢のなかからひとつを選び,さら にそこに研究方法上の選択を重ねていく過程は,相当に慈恵的でもある。だがそれが基 礎的研究であって,人間の医療と離れたところに成立しているものであっても,医学校 の教室での研究は医療上の「成果」をいずれは目指すものであるから,功名心はその 「成果」を求めて燃焼する。患者の選別,症状の観察と記録,検体の採取,薬剤の変更, 術式の選択などは,研究テーマによって左右される。戦前期の医学校附属病院を特徴付 けた「学用患者」. (患者は医療費の負担を求められなかったが,全くといっていいほど. 権利の保証はなく,かつ死後の病理解剖が当然視された)は,社会保険制度の普及によっ て大幅に後景に退いたが,医学校における医療の原型は依然としてここにある。医療情 報は一般的にも専門家支配のもとにあるが,医学校附属病院の提供する医療は最高級の ものであるという患者(国民)の「幻想」も作用して,医師養成機関であるからには, そこでの医療はもっとも厳正な批判に晒されるべきであるにもかかわらず,現実はその 逆となっているのであり,功名心が医療を引きずるのである。 「初級医師」が初めて遭 遇するのはこのような医療である。彼の医師としての成熟はこのような医療の填でおこ なわれる。珍しい症例,特異な経過への関心も,事例数を増やすための患者争奪(7)もこ のなかで次第に身につき習性となる。 教室を離れた医師が,このような習性をどの程度維持するかには,大きな差異があろ う。それは医師の側の志向により,あるいは彼の置かれた状況により一様ではない。研 究テーマに従属した医療から急速に離脱し,眼前の患者の治療に専念する医師像の模索 が始まるかも知れない。 「研究熱心」と評されるあり方を,いっまでも追い求めるかも.
(8) 114. 北. 原. 龍. 二. 知れない。いずれにせよ所属する組織が小さくなるはど,教室から遠ぎかるほどそれは 進行し,究極的には自分が当主となって診療所を経営するときに,完了することとなる。 そして,あらたな習性として形成されるのは,経営上の,自噸的にいう「水商売」とし ての,工夫や配慮によって彩られた日常であろう。なお学会認定の「専門医」制度がも たらす変容は,これからの問題である。 <2> さて,医療の基本的構成要素をなすのは,医師が担当する診療と看護婦が担当する看 護である。近年あらためて看護婦「不足」が重大問題化し,看護・看護婦の実態が問わ れまた調査され,それにもとづくいろいろな提言や解決策の模索がおこなわれているが, それらの動きの中で,明確な指摘すらなされることなく放置されているのは,看護・看 護婦をめぐる一切の問題群は,医師のあり方,医師の考える医療と深く連動している点 である。. 戦後の諸変革の中で様相は大いに変わったが,看護婦は,とりわけ医学校附属病院に おいては,長く特定の教室に所属する「うち」なる存在であった。彼女らは看護婦資格 取得直後に特定の教室に配属され,職にある限りそこを離れないのを原則とした。看護 とはなんであるかを決定してきたのはその教室の医師である。とはいえ,例えばある教 室に,教授の独断によって,あるいは医師の協議によって,看護の定義が確立されてい るわけではない。無形の規範・慣習として,看護婦の業務の範囲,その遂行の様式,勤. 務の態様,医師との関係,とくに医師への従属の内容と程度,看護婦の自主性の強弱か ら,物腰・言葉遣い,職務外の生活に至るまでもが,教室ごとの個性ある流儀として決 定されていたのである。とりわけ重要なのは,医師による看護業務の定め方は, 性を基本としていた点である。いわば「医師の診療業務以外」,. 「残余」. 「医師が手を出さない部. 分」, 「医師を煩わすほどのことではない」ことごとが,看護業務とされたのである。そ こには当然医療上の重要な仕事が十分に含まれているから,看護婦の責任は重く業務は 労苦・研鋸・献身を強く求めるものとなったが,にもかかわらずその業務の範囲と質を 確定する上での看護婦の主体性と自主性は,本質的に奪われたまま,今日に至っている。 看護婦自身もまた,このような特定教室へ埋没状況によって所属欲求をみたし,教授 以下の教室の医師群を肯定し賛美し,研究優先がもたらしやすい医師による患者の権利. 侵害に協力し,教室の名声を自分たちの名誉と受け止め,教室を全世界とみることを忠 実さや精励の証と信ずるままに存続してきた。甚だしい場合には,病を得て退職する教 授に随伴し,遠方の教授宅まで同行してて病床に「仕え」る例までみられた(8)。彼女ら は医学校附属病院の職員でありながらその永年勤続を教室によって表彰され,逆に教室 に多年「奉職」しながらも「教室史」にまったく登場しないことすらある存在であっ た伽. ここで付言すべきは,教室における女性の処遇である。教室は男性医師のみを「正成 員」とし,女性は医師であっても-段劣位に置くことが稀ではなかった。医局員の称は 男性医師のみに許され,女性医師は「介補」と呼ばれた例や(他の医学校を卒業して入.
(9) 115. 日本家業医療史文献目録Ⅰ. 局した医師も「介補」と呼ばれた例があるのは,示唆的である),第二次大戦中から近 年までの男性医師の不足期にはそれでも医局員になれたが,現今の「医師過剰時代」と なると女性医師の入局を拒む傾向があらわれていることなどが,想起される。この女性 医師を補助者としかみないところには,看護婦にも共通する女性問題があるのである。 だが,だからといって女性医師と看護婦との間に,連帯と同盟の可能性や実例があるわ けではない。. なお,重要なのは,看護婦の養成・供給源とその整備・充実の水準は多様であり,医 学校附属病院が唯一の例を示すものではなかったが,医師はすべて医学校の教室で育成 され供給され,彼らの看護・看護婦に関する教室での蘇体験が医師を介して広がり,医 学校附属病院以外の医療機関にも強制的に持ち込まれた点である。患者ではなく医師を 職務上のサービスの対象とする日本の看護の特質は,このような教室制度によって維持 され普及したのである。それは「いえ」の内にあって,. 「いえの男たち」に仕える「いえ. の女たち」の姿そのものである。 近年の傾向として,とくに大病院においては,内科・外科というような診療科を越え た組織単位が整備された。中央検査室・中央材料室・中央放射線室などや,輸血部・透 析室・救急部・集中治療室(ICU)などがその例である。この「中央化」によって,特 定の教室に属さない看護婦のあり方,業務のあり方が展開されそうな気配もあるが,以 下の理由によって大きな進展に至っていない。すなわち,これらの組織単位における看 護婦の業務は, 「看護本来の仕事」から隔たっていると観念されており,かつ病院全体 の看護婦のなかでそれらの単位に属するものの比重が小さいこと,検査技師・放射線技 師などの法制上の権限が狭小であって,例えば放射線照射についても依然として医師が 実質上も法制上も最大権限を掌握していることなどである。 4. 病院・診療所. <1> 現代日本の医療機関は,法制上は病院と診療所とに区別され,施設等の差異が定めら れており,また病院についてのみ「傷病者が,科学的で且つ適正な診療を受けることが 出来る便宜を与えることを主たる目的として組織され,且つ,運営されるものでなけれ ばならない」. (医療法. 第一粂の二)との規定があるが,医療の境実からみた場合この. 差異はさほど重要ではない。病院も診療所も医師が医業をなす「場所」であって,いか なる巨大病院であっても,医業(診療)を行なっているのは医師個人であり,診療所と 病院とは基本的に同じ次元で並存・競合しているからである。 ここでいう同じ次元とは,次のような意味である。現代日本の病院は1万を数えるが, その大部分が中小規模で帆 有床・大型・診療所とでもいうべきものであること,診療 所と病院は相互転換的であること(診療所がある条件のもとで病院になり,また条件を 失えば病院が診療所になる),. 19床までの有床診療所も多く,それが「同一の患者を四 十八時間をこえて収容しないようにつとめなければならない」 (医療法 第一三条)の 競走を有名無実化し,それ以上の期間にわたって患者を収容し,事実上病院に匹敵する.
(10) 116. 北. 原. 龍. 二. 機能を営んでいること,外来部門(いいかえれば,非入院部門)を持たない病院は例外 的に少ないなどである。 しかし,一層重要な意味は,多くの病院と診療所とは,それが医療法人の経営であろ うとあるまいと,医家の家業として営まれている点にある。家業医療の見やすい姿はい わゆる開業医(個人立の無床診療所)にあり,日常日本語としての通用力も大きく,そ れゆえ私も「開業医制医療」と一時は特徴付けたことがあるが,ここに述べるように, 病院もまた家業である例を大部分とする以上,両者を包括する名称として「開業医制」 を用いるのは適切ではないのである。 さて,現代の家業医療はどのような特徴と問題点とを持っであろうか。その点につい てはすでに別稿他で取り上げたので,以下のように要点を項目的に羅列するにとどめる. <2> 医療を家業とする「いえ」は,農家・商家・工家・造家・漁家と並んで医家と呼ばれ る。医家は当主たる有資格の医師を中心に「いえ」の成員の参加のもとに,医業を営む。 家業としての中軸となる診療科の周辺に,関連業務を包摂し,そこに資格・経験・適性 に応じて成員を配置する。成員に不足ある時は業務を縮小し,あるいは「いえ」の外か ら補助者を繰り入れて対応し,逆に成員に余力ある(従来無資格であった成員が学業を 終え資格を獲得した場合も含む)時は,あらたに業務を拡大し,また外界の状況変化 (出産数の減少・院外処方の高収益化)には業務の再編成(産婦人科に加えて小児科開 設・別法人の薬局設立))によって対処する.このような医業の営みにとって,医師資 格に「専門医制」のないこと,医師資格によってなしうる医療関連業務が広大無辺であ ることは,まことに適切である。. 「いえ」の目標は累代の連続であるから,医家にとって後継者を確保出来るかいなか は重大な問題である。医師資格という「いえ」の論理と馴染まない制度が設けられてか ら,医家は有資格後継者を近親中に確保するという課題に,慢性的に悩まされてきた。 また従来は家事使用人と区別のないような運び方・雇い方・使い方で問題のなかった (と思い込んできた)若年・未婚・女子の非親族成員を,少なくとも一定数は有資格の 看護婦・准看護婦とせねばならない課題も,医家にとっては難問であった。これについ ては,■後述の看護職者の共同養成という対策が生まれる。 医家は競合するあらたな医家の登場を抑制したい。これは家業の維持・発展にとって 当然であり,公正取引委員会の勧告や立ち入り調査によって一時ほどの勢いは失せたが, 「新規開業抑制」は医師会の重要な活動目標である。しかし,抑制論を「いえ」の利害 に即して展開するならば,医療一般について成立している社会的共通理解(公共性・緊 急性・専門職性など)から見て許容されにくいので,多くは「無用な競争が診療内容の 低下を生み,社会的損失,国民的不利益を招く」という論理を掲げる。この論理に従い, 医家は医学校の新設にたいていは反対する。ひとつには医師が増えること自体への反対 であり,ふたっには医学校附属病院が大きな施設と「権威」とによって,患者はもとよ り,自家の「大切な」看護婦をも吸引することへの恐れからである。しかし,自家の後.
(11) 117. 日本家業医療史文献目録Ⅰ. 継者に医師資格を取得させたいという点からは,できるだけ入学・卒業のしやすい医学 校もまたなければならない。いくつかの医学校は,医家がその子弟の為に設立したとい 「地元開業医の子弟 う由来を持ち,また医学校新設に反対する医家の運動に関連して, の優先入学」を掲げる例的などもみられる. 5. 地方医師会. <1> 医師会と呼ばれる団体は標準的には三段階に組織されている。すなわち全国・都道府 県・郡市区市町村である。しかし,医師会は,近隣の医家が折々集まって交涜し親睦を 図るうちに次第に常設の団体となった由来をもつものもあり,この三段階の他に,郡制 廃止や市町村合併ののちも旧来の行政区画などに即して,医師会またはその支部などを 設けている例も少なくない。都道府県郡市区およびこれらの医師会を一括して地方医師 会というが,本稿の主な関心はこの地方医師会に向けられる。 地方医師会とりわけ郡市区町村医師会の本質は,地域単位の医家運合体である。内部 的には医家相互の利害調整と共同事業および「親睦」,外部的には医家の権益擁護と拡 張,関連する他の「いえ」連合体(歯科医師会,薬剤師会,助産婦会,薬品問屋組合な ど)との提携・競合・抗争を主な活動の課題とする。近代行財政制度の整備と拡充,と りわけ社会保険制度の普及のなかで,医家の利害は「政治」の填で争われることが増大 し,それにつれて対議会,対行政機関の活動が医師会の重要事となった。とくに各級の 公職選挙に候補者を擁し,あるいは擁さずとも特定候補者を推し,医家の成員はもとよ り,診療の場面を通じて患者(患家)をも巻き込んで集票にはげむことが広まった。 永く医師会運動史の基軸に座っていた目棲は,全国くまなく医師会を設立し,当該地 域社会内の全ての医師をその会員として統制下におき,さらに都道府県医師会から日本 医師会へと階統的に組織化すること,およびそれを法制的に実現することであった。し かし,医師会の強制設立,医師の医師会への強制加入が法制化されていた期間は意外に 短く(1919-1947年大正8-昭和22年)払. 医師会外に存在する医師に絶えず苛立ちを 覚える長い期間が今日まで続く.この医師会外の医師は,国公立およびその他のさまざ. まな公的病院(非家業病院)の勤務医を中心とするから,.医師会はそのような病院への 敵意・警戒心を抱きながらも,勤務医個人の医師会加入を慾潰する方策を採り,低廉な 別会費制度の創設や前記の集票活動の免除などを試みるが,非家業病院の勤務医の高い 加入率を実現することばできない。. しかし,医学校の教室から派遣されて関連病院診療科に勤務する苛い医師を除削ぎ, 勤務医もいずれは家業医療に従事すると小う選択肢を,実現の可能性は別としながらも 考慮の内に秘めており,またすでに述べたように家業的医療の精神は多くの医師によっ て共有されているから,彼らは時に「俗悪」性に苦々しさを味わうことはあっても,医 師会に公然と敵対することば稀である。 地方医師会を医豪速合体とみることば,別言すればそれを専門職団体とみないことで ある.医師会は様々な機会におのれを学術団体あるいは専門職団体と唱え帆. それにふ.
(12) 118. 北. 原. 龍. 二. さわしい地位や権能を希求する傾向にあるが,近・現代の日本においてそれが実額する 可能性は一貫して存在しなかった。専門職者およびその団体は,一般に職能の独占,資 格に関する自律性,それらの前提としての正規教育に基づく高度な専門的知識と技能, 業務遂行基準としての公共性を備えたものとされているが,日本の医師と医師会はそれ らを大幅に欠いているからである。たしかに医師は「医師でなければ,医業をなしては ならない」. (医師法. 第一七条)によって「医業独占」を達成し,医師以外の者の病院. や診療所の開設についてはそれが制限される条件を確保(医療法. 第七条以下)してい. るが,根本となる医師資格の取得(剥奪)については国家(政府)の管理下にあって自 律性を持たず,公共性についても絶えざる疑問と批判に晒されているのである。医師た ることは政府のもとに掌握されていても,ある特定の州で診療に従事するには,その州 の医師会の審査に合格し,専門診療科を認定され,医師会への入会承認が必要であると いうような医師・医師会関係は,日本では想像することすらむずかしいo9.家業医療・ 医家は,個人を単位とする専門職と調和しないのである。 <2> 医師会の活動の中で注目すべきは,看護職者の共同養成である。医師会が設立・経営 に当たる「看護学校」の例は多数にのぼるが,その中心は准看護婦養成の定時制課程で あり,ここに医家連合体としての医師会の本質と,家業医療が看護職者を「いえ」の内 にとどめ続ける重要な基盤であることの二点が,明瞭に示される。 看護職者を社会的に低位かつ低賃金の「純朴・従順・忠実」な若年女性として固定化 したいとする医師の強固な願望は,個々の医師の単なる好み,偏見,打算より発するも のではない。これこそ家業医療における看護の構造的必然というべきものである。そも そも准看護婦という看護職者の世界を二重化し,絶えざる不調和と混迷を生み出す職種・ 資格自体が,医師会によって創出され支持されてきたものであるが,医師会は単にこの 制度を唱道したのみならず,みずから准看護婦の養成を担ってきたのである。おそらく 「気分」としては,それまで住み込み奉公人として「いえ」の中で, も覚えさせ嫁入り支度の一端まで引き受けてきた「うちの看護婦」. 「しつけ」もし仕事 (もとより彼女らは. 俗称としての看護婦であるが)が,学校に通い試験まで受けねばならなくなった困難か ら救おうという「温情」もあって,相当の経費や労力負担を覚悟の上でこの事業を開始 したのであろう。医師会経営の看護学校の教員陣は,医師会会員たる医家の当主を主力 としており,彼らはほとんど報酬とはいえない低額の報酬で授業を担当し,学校経営の 庶務をも担っているのである。その姿は,. 「近代化」に対応しようとして,多少とも学. のある商店主たちがそれぞれの店の住み込み奉公人を集め,共同で簿記や算盤,時に商 人道を教えようとした往時の「小僧学校」と近似である。 准看護婦学校の学生は,標準的には,医家に住み込み無資格のまま看護業務の底辺な いし周辺に直ちに参加し,午後のみの学校に通うという就労・就学の生活を送る。彼女 らが負担する教育経費は少額であるが,午前と夕刻・夜間の労働の時間とその内容とに 比して賃金も低く,なによりも勉学中の青年に必要な「心と時間の余裕」を大きく欠く.
(13) 日本家業医療史文献目録Ⅰ. 119. 条件下にある。しかも,看護業務の底辺ないし周辺といわれながら,それは彼女らが受 ける評価と彼女らに辛うじて許される法的説明の次元のことであって,当直勤務,採血 導尿などに従事している例もあることからみて,実は看護 注射,血圧測定,勝耽洗軌 業務の中軸にかかわっているのである。彼女らの呼ばれ方は,それでも「学生さん」で あるao.. しかし以上の実状を,彼女らの過酷な運命に同情し,それを許している制度・組織・ 慣行への怒りとしてのみ語るのは適切ではない。おそらく次のような反論が医家の側か らは聞かれるであろう。 「そもそも開業医の暮しとはそういうものだ」, 「うちの女房だっ て,主婦業やりながら薬局やったり包帯の洗濯したり,場合によっては患者の世話まで 「そうやってみんな夜昼となく働いて支えているんだ」と。また「それ もこれもみんな患者のためだ」, 「学生といったってうちの人間なんだから,一緒に働い. やってるんだ」,. てもらわなきゃ」と。. 問題のあり方は簡単ではないが,医療が家業として営まれること自体に,看護・看護 婦問題の基盤があることは確実である。 6. 医家の盛衰. 日本の医療を以上のような側面からみるならば,これを家業医療と特徴付けることは 妥当性を持つと考えられる。だが,十分自覚的に家業としての見地から医療経営を理解 し,長期間系統的に家業発展の努力を続机幸いにも幾世代に及んで医家としての隆盛 を保持した事例が,多数あるとは思われない。その原因が何であるかはさておき,実際 には多数の医家が衰退・消滅し,また多数の医師が新しく家業を開始するのである。創 業初代かぎりで医療から撤収した「いえ」においては,実は医家意識すら形成されず, ただ「親は開業医だったが,息子は一人も医者にならず,サラリーマンとか学校の先生 してるし,娘に医者の婿養子をって,ずいぶん探したらしいけど,その娘も嫁にいっちゃっ た」事例として語られるだけとなる。しかし注意すべきは,このような事例が話題とな 「普通は」, 「以前ならば」医家として継承されてい るのは,その前提として「本来は」, くはずのものという通念が存在している点である。農商漁家以上に医家における家業継 承が当然視されているのである。 近代における医家の盛衰について,事例的にも数量的にもその詳細を明かにしなけれ ばならないが,それは将来の課題とし,ここでは衰退・消失に関する一般的条件につい て述べておく。. 「後継者なし」である。 ある特定の医家の消失をもたらす理由のうち最大のものは, 地方医師会の会報の言卜報欄の末尾に, 「なお診療所は後継者なく廃止」などと記される のがそれである。しかし,. 「後継者なし」がなぜ発生したかについて,それらの記事か. ら知ることはできない。そこに想定されるのは,医師である後継者を実際に欠く場合と, 医師である息子なり娘はいるが,家業医療を継承しない場合とであり,重要なのはいう. までもなく後者である。医師が家業を避机終生の勤轟医を選択するのは,大別して技 術・技能・設備的要素と,経営・管理的要素において課題が大きすぎるからである。医.
(14) 120. 北. 原. 龍. 二. 療技術の高度化は設備の巨大化・高額化をもたらし,また必要な人員の専門化・複数化 をもたらした。相当の報酬を支払って有資格の職員を雇用する場合は,彼らを効率的に, しかもそれなりの自己実現を保証する態様で就業せしめなければならない。看護婦もそ のような職員に変貌しつつある。職員の選考・採用・人事管理などの業務は,医師の診 療業務に随伴する程度であった従前の範域を越えて拡大し,煩雑化する。それを解決し. ようとして,管理・経営の専門者を置けば,医師に対抗する権限の発生を招きやすく, ひとつの医家としての統合性がゆらぐ。医家である以上,医師は唯一最高の地位に居な ければならない。だがそのゆらぎを嫌い,幸いに法的には可能であるのを利して,単独 で診療関連業務をすべて担当しようとすれば,経営の拡大,家業の隆盛を目指すことは できない。また,技術・技能・知識の不足から医療過誤を引き起こし,複雑な財務や税 務処理において失敗を冒す危険がある。医師個人が確保していた専門職「権威」と,そ の「権威」によって糊塗してきたものも,人権・情報公開・異議申し立て・医療訴訟の 趨勢のなかで,実像を現わし始める。 かくして医師とはなるが医家とはならない選択が,相当な魅力をもっこととなり,終 生勤務医(披雇用医師)という,医家なるものから原理的に遠ざかった地点での,医業 の営み方が社会的に標準化される。だがすでに述べた医師法第一七条を基軸とする医療 法制度は,医師の圧倒的な優越を定め,かつその優越した権能を医師個人に付与してお り,そのことと,医師が雇用され医師ならざる他者の管理下に入り,指拝命令に服する こととの間には絶えず不調和・緊張が生まれ,医師感情からいえば「不快」な出来事を 惹起する(「事務がこの薬の投与を認めない」, 「外来で月に500万の売上をと事務局長か ら強要された」)。それらは多くの場合,医師の激憤さ,わがまま,. 「腕は別として,人. 間的には幼児そのもの」といった評し方で語られ,医師もまたある程度はそれを許容し, 管理者の,あるいは中間的管理者(例えば経理係長,婦長)の仕事は,このわがままな る医師をどうあやし,どういいくるめて,うまく仕事に乗せるかであるような理解とな りがちである。いいくるめられたままの医師もいようが,このような状況に見切りをつ け,.医師が「患うように腕を振るうことができる」場面として「開業」を考える医師も いよう。だが,開業し医家となったときに本当に医療面で「脱が振るえる」かどうか, おおよそはじめから明らかである。 近代の初期から,個人資格制度と「いえ」とが経験した矛盾に加えて,現今の,組織 が所有し運営する医療技術と個人資格制度との矛盾が,次第に深刻化しているといえよ う。医家による再統合の展望があるであろうか。.
(15) 日本家業医療史文献目録Ⅰ. 121. 注・引用文献など (1)北原. 龍二「日本医療の転換とその推進力」保健医療社会学研究会編『転換期の保健・医 療・福祉』所収 垣内出版1987 (2)そのような少数例に該当する貴重な書物としては,以下のものが挙げられる。 ① 『大原病院史』大原総合病院1973 ② 『井上眼科病院百年史』井上眼科病院1983 ③ 『永吉の眼科病院』千葉保次著 永吉の眼科病院1990 (3)さらにいえば,教室は附属病院の診療科と対応する。例えば,第三内科(学)教室に対応し て病院に第三内科が設けられる関係である。教授はここでは併任の科長となる。また往時は 診療科名に教授の名を冠し,山田内科,鈴木外科のように呼ぶことも広くみられた。 (4)このようなことが文書に記録されるのは稀である。以下に示すのはその稀な例である. (前略) 「なんとか研究の目安もついたころのある日曜の午後に,用務員に託された教授の お手紙が届いた。 内容は`突然で相済まぬが,今,山形県長井町公立病院外科部長の斉藤博士が辞職したの で,其後任を求めに院長,町長が来ていられるが,教室で仕事の済んだ位の人は貴下他ない が,行って貰えんでしょうか。 待遇は三百七十円,時間外手術手当二割五分,往診半額。 論文は必ず引受ける.但しも少し期間をおかねばならんと思いますが。サ」 (後略) 昭和10年代の終りごろ,東北帝国大学医学部第二外科の若い教室貞が,山形の小さな病院. への赴任を教授から依頼されたときの手紙の一部である.時間外に手術を担当すれば,その 手術に関する病院収益の25%,往診を行なえば同じく50%が医師個人に給される当時一般的 だった制度も説明されていて興味深い。なお, 「教室で仕事の済んだ位の人」とは,この教 室で学位請求論文のはぼ完成した段階の医師をいう。 『桂重次先生』東北大学医学部第二外科教室・瓢木会1971 p.304 (5)名古屋大学医学部小児科学教室は, 1966.4-1974.8の間,前任教授の定年退職後,後任が決 まらず,いわゆる「教授不在時代」を過ごす.その「苦難」の8年間の関連病院対策の記録 は,切実さ,緊迫さに喜んでいる。 『名古屋大学医学部小児科学教室七十年史』名古屋大学医学部小児科学教室・順清会 1979. p.215-. なお同書には, 「坂種病院間題,小児科に不当に高いノルマが課せられたこと,国際学会 旅費の支給問題などから坂種病院を関連病院より除くことを医局会で決定」, 「一宮市民病院 病棟新館の建築設計の中に小児科の特殊性が無視されていることから,種々討論の末に本病 院を医局関連病院よりはずすことを決定した」, 「東海中央病院を名古屋保健衛生大学の関連 病院をすることを確認」, 「木下アキ,大町病院より帰局(同病院を信大ジッツに譲る)」な どの,関連病院に対する教室側の対策・措置を伝える多数の生き生きとした記事があり,育 益である。 (6)例えば「長野市医師会ニ3.-ス」という定期刊行誌には,ときどきの新入会員の自己紹介記 事が掲載される。その内容は多彩であるが,基本事項として述べられるのは,出身池,卒業 医学校,研修病院,入局先,研究主恩,診療歴などであり,それらに添えて,特定の教室と の結び付きの由来が語られることがある. (7) (6)の文献の自己紹介においては,研究上のまた研修中の休験談も登場するが,それは次のよ うな口調で語られる。. ① 「大学では白血病や悪性リンパ腫などの造血器腰痛の化学療法,またDICや肝硬変の 凝固異常などを中心に勉強させていただきましたoその他にも院内感染対策や生体肝移植な どもお手伝いさせてもらいました。大学で得た知識がすぐに応用できるものではないと思い ますが--」 「長野市医師会ニュース」 187号1991.10. ② 「当直以外の日も急患診たさに病院内をウロついておりました」, 「実際我々は誰が一番 早く救急車の前にたどりつくかで,患者を取り合っておりました」, 「医者になって12年,恥.
(16) 122. 北. 原. 龍. 二. ずかしい事ですが医療という観点をあまり意識せずに過ごしてきてしまいました」 「長野市 医師会ニュース」 189号1991.12. (8)教室五十周年記念誌 東北大学医学部第二外科教室・瓢木会1968 p.249-には,病に倒 れ定年退官まで教授室を病室として療養中の初代教授が,いよいよ仙台から東京に帰遺する さい,教室より婦長が退職して同行し,東京の前教授自宅において看護に従事し,その死を 看取るまでの手記が収載されている。 (9)例えば,東京大学医学部眼科学教室百年史 東京大学医学部眼科学教室創立百周年記念事業 準備委員会1989は395ページに及び,教室史としては浩翰の書に属するもののひとつであ るが,この教室で医療を担った看護婦についてなにも述べていない。 nO)現代Ej本の病院総数10,034 (1988年)のうち, 20-99床が46.1%を占め, 500床以上は4.7 %に過ぎない。また開設者が医療法人であるもの38.4%,個人であるもの34%,計72.4% に達する.また病床数では両者で総数約160万の54.3%を占める. ul) (1)の文献 nカ 独協医科大学病院開院5周年記念誌 独協医科大学病院1979には,栃木県に新設を計画し ていた同大学・病院が,栃木県医師会の反対にあって土地取得などに難渋し,医師会理事を 歴訪して同意取り付けに奔走した苦心談と,設立後も「栃木県下の医師の子弟で長男の方は 優先的に入学してもらい,父の業務を受け継いでいただけるよう努めて」いる旨が述べられ ているo. q丑1919. (大正8)年の医師法改正によって,地方医師会の強制設立と医師の医師会加入の義務 化が定められた.しかし,全国レベルの医師会は法定化されず,それは1923 (大正12)年の 次の改正まで待たねばならなかった。だが,そのさいも「道府県医師会ハ日本医師会ヲ設立 スルコトヲ得」 (医師法 第九粂ノ五)とされたにとどまり,全国レベルの強制設立はよう やく1942 (昭和17)年の国民医療法によって実現したo しかし同法は,医療の強力な中央統 制を意図したもので,医師会を全国と道府県に限定して郡市区町村医師会を認めず,さらに 関連勅令にもとづき日本医師会会長は内閣により,道府県医師会会長は厚生大臣により任命 されることとなった.第二次大戦後は,医師会は法制上の根拠を失い,民法第34粂にもとづ く公益法人となったo u4)一例として,社団法人山形市医師会定款のうちより「目的」の部分を示す.このような文言 は,大差なく全国一律にみられる。 「第七条 本会は医道の昂揚,医業,医術の発達普及と公衆衛生の向上を図り社会福祉の 増進を目的とし次の事業を行なう。」 山形市医師会史 後編 山形市医師会史編纂委員会 山形市医師会1980 p.406 nS)一例として,カナダのブリティッシュ・コロンビア州の制度を挙げれば,ここではMedical Practitioners Columbia. required. trainlng, a. and. candedate. qualifications evidence for. 査する委員会を設ける(appoint who, quate. for the. and. Surgeons. この団体のcouncilは,登録希望者が満たすべき条件を定め(deter-. the professional. of. of Physicians. (州医師会に相当)が,医師の診療への従事について審査・登録認許の. 権限を保持しているo minlng bospital. College. Actによって設立されたthe. Britisb. and. of professional. experience, conduct. including and. preregistration. of good. chitizenship,. registration),また会員の技能・知識についてもそれを審 an. investigating. purpose of investigating to practise skill and knowledge. whether. committee a. member. of. one. of the. or. more. college. persons. has. medicine)などの業務を行う。ここに医師の専 門職・自治団体としての実質をみることができる。 86)准看護婦学校の学生については,次の論文が最新の実状を包括的に伝える。 33.3 林千冬「准看護婦養成所学生の現在」看護教育 医学書院1992. ade-.
(17) 日本家業医療史文献目録Ⅰ. 123. 収録・編成方針 1家業医療史の研究に有益な文献,とくに「史」と名乗るもの(「誌」を含む。ただし,逐次 刊行物は原則として除く)を広く収録する。人の次元でいえば,医師・看護職者・患者を中 心とする。 2. 3. 4. 5. 6 7. 8. 9. 10. 具体的な収録範囲は,病院(診療所)史,療養所史,医師会史,医学校史,医学校の教室史, 附属機関史,看護学校史,医師団体史,看護職者団体史,患者団体史,医師・看護職者以外 の保健医療関係者団体史,保健医療関係者・患者(療養者)の随筆・伝記などである。ただ し,身辺雑記の額は除外する.またいわゆる教室業績目録(業績集)の頬については,編集 方針に大差があるので,それが単なる目録を越え,教室史に相当する内容のものである場合 のみ収録する。 文筆家として名をなした人物の著作は原則として含めない。森林太郎,なだいなだ,北 杜夫,加賀乙彦,渡辺博一などが,そのような人物の例である。 これらの文献も 都道府県別にまず分類し配列する.都道府県の順序は厚生省関係の行政・ 統計資料の例による。この目録は編纂の趣旨から全国レベルのものより地方レベルものを重 視するので,まず後者より始め,前者については収録すべきものの範囲などについて引続き 検討する。 都道府県別に分類・配列するさい,ふたっ以上の都道府県に所在する機関・団体については, 主な施設の所在地による。例えば東京の虎ノ門病院溝の口分院(神奈川県)や,東京医科歯 科大学国府台分校(千葉県)は東京都に配列する。 個人については,主として活動した都道府県に配列する. 都道府県内の分類・配列順は,以下によるo ① 病院史など:病院史・診療所史・療養所史など。 ② 医学校史など:医学校史・医学校教室史・看護学校史・その他の保健医療関係学校史, 養成機関史。 ③ 医師会史など:医師会については都道府県レベル,郡市区町村レベルの噸とするが,那 市区町村の順序については基準は設けない。 ④ その他の団体史:厚生農業協同組合,患者団体など。 ⑤ その他:①-④以外のもの. 収録する項目は,書名(サブ・タイトルを含む),編著者名,発行者名,判形,ページ数, 発行年とするo不明の項目は□で示す. 書名について不統一がある場合(表紙:七十五年史,奥付け:75年史のように)は,表紙の 記載による。 編集者名,発行者名は,医師会史の場合しばしば個人名が示されている。それは医師会長あ. るいは編纂委員会委旦長などである。そのような場合,個人名を挙げる意味はないので口で 示し,時にそのあとに( )内に医師会長などと添え書きする. 11通しページの記載がなく,目次・本文・索引・年表など各々にべージ数が示されている場息 10ページ未満は省略する。 12 株式会社, -法人などは,正式に書名に含まれている場合であっても原則として省略する。 13 奥付けを欠く文献については,本文から判断して推定できる項目のみ掲げる。 14 書名に元号が用いられている場合はそれに従うが,発行年についてはすべて西歴に統一する。.
(18) 原. 北. 124. 目 北. 1. ①. 海. 録. 龍. 二. 編. 本. 道. 6. 二十五年の歩み ⊂]札幌医科大学胸部 244p. 1984 外科教室 B5. 病院史など ② 1札幌病院史[コ 44p. 変形B6. 医師会史など. 市立札幌病院 B5. 市立札幌病院九十年史[コ. 2. 院. A5. B5. 4. 5. 18+353p.. 1972. 1960. 函館厚生院六十年史 455p. 厚生院 B5. 1960. 第1巻[コ. 第2巻[コ. 函館病院120年史[コ B5. 409p.. 1129p.. 函館. 函館. 市立函館病院. 2. 新制北海道医師会20年の歩み 北海道 80p. 1967 医師会 北海道医師会 A5. 3. 札幌市医師会史 明治大正編[コ 155十130p. 1978 市医師会 A5. 4. 札幌市医師会史 昭和編 ⊂]札幌市医 34+1405p. 1983 師会 A5. 5. 旭川市医師会史 旭川市医師会 412p. 1960 医師会 B5. 6. 旭川市医師会史 川市医師会 B5. 1982. 医学校史など. 函館市医師会史. 7 A5. 北海道大学 1北海道大学医学部五十年史 医学部五十年史編纂委員会 北海道大学医 学部創立五十周年記念会館建設期成会 553p. 1974 変形A5. 278p.. 3. 1976. IJa Kancero. 理20年記念誌[コ 20年記念会 A5 4. 10. 1982-北大医学部癌研病 北大医学部癌研病理 223p.. 1982. 稔影五十年 ⊂]北海道大学医学部第一 240p. 1978 外科 A4. 15+405p.. A5. 旭川市. 旭川市医師会. 旭. 1980. ⊂]函館市医師会. 441p.. 小樽市医師会. 1957. 小樽市医師会史[コ 会). 札幌. 1956. 413p.. A5. 五十年の歩み 北海道大学医学部第二外 B5 科 北海道大学医学部第二外科. Ⅱ 666p.. 小樽市医師会史[コ. 8. 9 2. 1979. 市立札幌病. 1960. 函館厚生院六十年史 厚生院 B5_ 229p.. 6. ②. 14+391+64p,. 市立札幌病院百年史 口 市立札幌病院. 3. 北海道医師会. 1北海道医師会史[コ. 1929. ⊂】 (小樽市医師. 1978. 帯広市医師会史 帯広市医師会 267p. 1969 医師会 A5. 帯広市. 11金Ill路市医師会史 釧路市医師会史編纂委 173p. 1982 員会 釧路市医師会 A4 12. 岩見沢市医師会史 岩見沢市医師会史編 260p. 纂委員会 岩見沢市医師会 A5 1973. 5. 札幌医科大学創基三十年史 札幌医科大 学創基30年史編集委員会 札幌医科大学 A5 488p. 1975 創基30年史刊行会. 13. 岩見沢市医師会史 第二部 岩見沢市医 師会史編纂委員会 岩見沢市医師会 A5 384p.. 1987.
(19) 125. 日本家業医療史文献目録Ⅰ. 3. 三笠市医師会史 三笠市医師会史編纂委 269p. 1987 員会 三笠市医師会 A4. 14. 苫小牧市医師会史 苫小牧市医師会史編 940p. 纂委員会 苫小牧市医師会 A5. 15. ③. 1978. 室蘭市医師会史 A5. 18. ⊂] □. 1987. (医師会). 43p.. 日高医師会. 360p.. 渡島医師会. 岩手医科大学五十年史. 2. 松本喜久二. 764p.. 口. 岩手医科大. 1978. 上磯町医 3. 創立五十周年記念写真集一岩手医科大 学一 創立五十周年記念写真集編集実行 169p. 1978 委旦会 □ A4. 釧路地方医学史 辻見啓治 釧路市 323p. 1967 (釧路叢書 第八巻) A5. 4. 岩手医科大学六十年史 岩手医科大学六 A5 十年史編纂委員会 岩手医科大学. 青. 2. 182p.. 森. 県. ③. 弘前大学医学部三十年史 弘前大学医学 部三十年史編集委員会 弘前大学医学部三 748p. 1976 十年史刊行会 A5. 2. 一弘前大学保健医学研究会の記録一 前大学保健医学研究会記念集刊行会 232p.. 医師会史など. 1986. 1980. 2. 岩手県医師会史 下 岩手県医師会史編 A5 897p. 纂委員会 岩手県医師会 1980. 明日の健康を求めて1953-1985. B5. 1989. 上 岩手県医師全史編 1岩手県医師会史 A5 852p. 纂委員会 岩手県医師会. 医学校史など 1. A5. 1988. A5. 863p.. ②. 岩手医科大. 渡島医師会. その他 1. 岩手県. 医学校史など 1岩手医科大学四十年史[コ 1968 学 A5 '543p.. 1977. 上磯町医療史 会. ⑤. 県. 日高医師会. 学 22. 手. 1岩手県立病院三十年の歩み[コ 1129p. 1981 医療局 A5. 1978. 21渡島医師会史 A5. 岩. (む 病院史など. ② B5. 八戸. 1977. 創立三十年. 20. 八戸市医師会史 会史編纂委員会 441p. 1972 市医師会 A5. 3. 岩内古宇郡医師会史 岩内古宇郡医師会 史編纂委員会 岩内古宇郡医師会 A5 230p.. 記念誌 99p.. 1972. 508p.. 江別市及び三部医師会史 江別市及び三 B5 郡医師会■江別市及び三郡医師会 141p. 1979 (奥付けなし). 19. 1972. 1弘前市医師会館新築落成記念誌 A4 編集委員会 弘前市医師会. 2 17. 弘前大学医学. 医師会史など. 美唄市医師会史 美唄市医師会史編纂委 262p. 1981 員会 美唄市医師会 A5. 16. 衛生学開講25年誌[コ 241p. 部衛生学教室 B5. 弘. 変形.
(20) 126. 北. 宮. 4. ①. 原. 龍. 県. 城. 二. 7. 気仙沼市医師会史 気仙沼市医師会 A5. 下. 気仙沼市医師会. 1243p.. 1981. 病院史など 1東北労災病院の歩み[コ B5. 2. 103p.. 3. 古川市医師会史 古川市医師会史編纂委 331p. 1973 員会 古川市医師会 A5. 9. 宮城県亘里郡医師会史 亘里郡医師会史 編纂委員会 亘里郡医師会 A5 308p.. 1976. 公立刈田病院史[コ A5. 8. 東北労災病院. 645p.. 公立刈田病院. 1957. 1974. 日本赤十字社宮城支部病院々史[コ 本赤十字社宮城支部病院. A5. 10. 日. 374p.. 栗原郡医師会史 栗原郡医師会史編纂委 308p. 員会 栗原郡医師会 A5 1974. 1933. ⑤ 4. 日本赤十字社宮城支部病院々史 [コ 日本赤十字社宮城支部病院 211p.. その他. 第二輯 A5. 1桂重次先生 外科教室. 1936. 亡]東北大学医学部第二 A5. 472p.. 1971. (塾 医学校史など 秋. 5. 1教室五十周年記念誌[コ 部第二外科教室・瓢木会. 田. 県. 東北大学医学 B5. 363+92p.. ①. 病院史など. 1968 2. 1大館病院沿革史 325p. 病院 A5. 東北大学第一内科同窓会々誌[コ 東北 A5 191+41p. 大学第一内科同窓会 1973. 2. (参 医師会史など 沿革編 A5. 宮城県医師会史 宮城県医師会 A5. 3. 石巻市医師会史 A5. 383p.. 公立大館. 1938. 病院史一創立九十周年記念一 口 A5 256+28p. 立立米内沢総合病院. 宮城県医師会. 857p.. 医療編. 医学校史など 1秋田大学医学部創設十周年記念誌 秋田大学医学部創設十周年記念会. 宮城県医師会. 852p.. □. ②. 1976. 1975. 177p.. 石巻市医師会. 2. 1971. □ B5. 1980. 有道 前多教授退官記念誌編集委員会 B5 249p. 秋田大学外科学教室・有道会 1976. 4. 石巻市医師会史 A5. 5. 6. 450p.. 公. 1981. 1宮城県医師全史 宮城県医師会 2. 安達友彰. 続編. 石巻市医師会. 1986. ③. 角田市医師会史 角田市医師会史編纂委 331p. 1976 員会 角田市医師会史 A5 気仙沼市医師会史 気仙沼市医師会 A5. 上. 気仙沼市医師会. 699p.. 1976. 医師会史など 1秋田県医師全史[コ A4. 463p.. 1980. 仁コ(医師会).
(21) 127. E)本家業医療史文献目録Ⅰ. ④. 梅. 7. その他団体史 秋田県. 1秋田県医療利用組合運動史[コ B5 厚生農菓協同組合連合会. ①. 島. 病院史など. 553p.. 亡コ 大原総合病院. 1大原病院史. 1979. 12+922p.. ⑤. 県. A5. 1973. その他 ② 1秋田県看護史[コ 部会秋田県支部. 6. ①. 山. 形. B5. 524p.. 1983. 1福島県立医科大学史 1107p. 大学 A4. 県. ③. 病院史など 1. 医学校史など. ロ本看護協会看護婦. 医師会史など 正編 福島県医師全史 1福島県医師全史 B5 編纂委員会 福島県医師会. 山形県中央病院八十年史[コ ll+604p. 1980 央病院 A5. 山形県中. 22+711p.. 2 2. 口 ⑨. 白鷹町立病院史一別立二十五周年一 387p. 1980 白鷹町立病院 A5 3. 山形市医師会史 山形市医師会 A5. 前編. 山形市医師会. 490p.. 3. 4. 山形市医師会史 山形市医師会 A5. 後編. 山形市医師会. 567p.. 1980. 寒河江市西村山郡医師会史 寒河江市西村山郡医師会. 寒河江市西村山郡医師会史 寒河江市西村山郡医師会. 第式輯 B5. ⊂]. 86p.. 第参輯 B5. 86p.. 1988. 米沢医界のあゆみ A5. 404p.. 1963. 52p.. 1964. 平市及び石城郡医師会の記録抄(昭和 十二年平市制施行前後) ⊂]平市医師会 B5. 寒河江市西村山郡医師会史 □ 寒河江 69p. 1971 市西村山郡医師会 B5. 6. 平市及び石城郡医師会の記録抄(大正八 年から昭和十一年迄) [コ 平市医師会 B5. 1988. 5. 福島県医師会史 資料編 福島県医師全 882p. 史編纂委員会 福島県医師会 B5. 1979 4. 2. 1980. 1981. 医師会史など 1. ⊂]福島県立医科 1988. ロ[コ(医師会). □. 39p.. 1964. (次号に続く).
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