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帝国主義と世界の変容

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Academic year: 2021

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地理歴史科学習指導案

広島県立広島皆実高等学校 増井 宏明

1 科目名 世界史B

2 学年 第2学年

3 単元名 「帝国主義と世界の変容」

4 単元の目的 19世紀以降の世界の一体化を構造的に説明する帝国主義の理論に基づく

総合的理論を,批判的に吟味・検証しながら探究させる。

5 単元の目標

ア ヨーロッパ諸国によるアジア地域の植民地化についての理論的知識1「資本主義列

強は,製品市場・原料供給地を確保するために,軍事的・政治的・経済的に優位な立

場を利用してアジア地域の植民地化を進めた。

」を発見し,吟味・検証する。

イ 資本主義列強による植民地の拡大・維持についての理論的知識2

「資本主義列強は,

植民地を拡大し維持するために,植民地政策を進める一方,植民地支配層の統治への

協力を得て植民地・半植民地のモノカルチャー経済化を推し進めた。

」を発見し,吟味・

検証する。

ウ ア・イの上位の理論的知識「19世紀以降の世界の一体化とは,資本主義列強が,他

の地域を植民地化・半植民地化して,それを拡大し維持したため,人・物・金が世界

規模で移動するようになったことである。

」を発見し,吟味・検証する。

6 単元の評価規準

ア 歴 史 的 事 象へ の関 心・意欲・態度 イ 歴史的な思考・ 判断 ウ 資料活用の技能・表現 エ 歴史的事象につ いての知識・理解 ○ 現代社会の諸問題の 背景の一つとして,19 世紀以降の世界の一体 化への関心を高め,意欲 的に追究しようとして いる。 ○ 当時の他の植民地や 他の資本主義列強にも 関心を広げ,意欲的に追 究しようとしている。 ○ 19世紀以降の世 界の一体化を説明 す る 総 合 的 理 論 を , 批 判 的 に 吟 味・検証している。 ○ さまざまな資料を適 切に活用して,19世紀以 降の世界の一体化に関 する総合的理論を批判 的に吟味・検証し,その 結果を正しく説明して いる。 ○ 19世紀以降の世 界の一体化を説明 する総合的理論を, 理解している。

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7 指導計画(全6時間)

観点 時 学習過程 ア イ ウ エ 評価規準 評価方法 1 ・導入 事実的知識の提示 ・学習課題の設定 ◎ ○ 19世紀前後から20世紀にかけての貿易 額や移民数の推移を示す資料から19世 紀後半以降の世界の一体化の事実を読 み取っている。 19世紀以降の世界の一体化に関心を持 ち,その理由を追究しようとしている。 質疑応答 行動観察 行動観察 2 ・学習問題と仮説の 設定Ⅰ ・検証 ・まとめる ○ ○ ○ ○ ◎ ○ ○ 資本主義列強が植民地を求めた理由を 考察している。 資料から,植民地の条件として最も適 した地域がアジアであったことを読み 取っている。 資本主義列強が植民地を求めた理由を まとめている。 アジアの植民地化により,人・物・金 の動きについて考察している。 質疑応答 行動観察 質疑応答 質疑応答 行動観察 質疑応答 行動観察 3 ・ 4 ・ 5 ・学習問題と仮説の 設定Ⅱ ・検証 ・まとめる ○ ○ ○ ◎ ◎ ○ ○ 資本主義列強が植民地支配を維持・拡 大できた理由を考察している。 資料から,インド鉄道が列強の鉄道と 異なり工業発展につながらなかったこ とを読み取っている。 資料から,列強のコスト削減要求が, 植民地のモノカルチャー経済化を進め たことを読み取っている。 資本主義列強が植民地支配を維持・拡 大できた理由をまとめている。 資本主義列強の植民地支配の維持・拡 大による人・物・金の動きについて考 察している。 質疑応答 行動観察 質疑応答 質疑応答 行動観察 質疑応答 行動観察 6 ・学習課題のまとめ ◎ ◎ 19世紀から,特にその後半以降から 人・物・金が動くようになった理由を まとめている。 質疑応答 ポ ス ト テ スト

8 知識の構造図(次頁)

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【 構造図 】

【人・物・ 金の移動】 5)-1 植民地支配により,植民地は支配国へ多額 の支払いをしなければならなかったから。 7)-2b 列強間のコスト削減競争は,より安 価な食料・原料を生み出すプランテー ション経営や鉱山経営を促した。 7)-3 植民地の拡大は,列強が植民地ごとに 利益率の高い特定商品を生産させること を可能にしたから。 7)-2a 列強での独占資本 の形成は,大規 模な資本輸出を容易にした 。 【なぜ支配国の人々は支配正当化を受け入れたのか。】 【なぜ植民地支配層による統治への協力が得ら れたのか 。】 【なぜ資本主義列強は製品市場・原料供給地を 必要としていたのか 。】 【なぜアジア地域は製品市場として有望だったのか。】 1) 大量生産を行う産業革命期 だったから 。 2) アジアは人口密集地域 だったから 。 【なぜアジア地域は原料供給地として 適合してい たのか。】 3) 綿花・インド 藍など原料には熱帯性植物 が多かったから 。 1) 資本主義列強は,製品市 場・原料供給地を必要として いたから。<植民地の必要性> 2) アジア地域は,製品市場と して有望であったから。 <製品市場としての適合性> 【 な ぜ 資 本 主 義 列 強 は 他 地 域 の 植 民 地 化 を 行ったのか。】 ① 資本主義列強 は,植民地化 により ,自国 を 製 品 輸 出 国,植民地 を 製品市場,原 料供給地にし て,利益を上 げることがで きるから。 ︻ なぜそういえるのか 。 ︼ 19世紀以降 の 世界 の 一体化 とは 、 帝国主義 により 人 ・ 物 ・ 金 が 世界規模 で 移動 するようになったことである 。 資本主義列強 が 他 の 地域 を 植民地 ・ 半植民地化 して 、 それを 拡大 し 維持 したため 、 人 ・ 物 ・ 金 が 世界規模 で 移動 するようになったからである 。 4) 資本主義列強は近代軍事 技術・集権的な国民国家体 制・生産性の高い資本主義国 家体制により,アジア地域よ り圧倒的に優位な立場にあ ったから。<軍事的・政治 的・経済的優位性> 3) アジア地域は,原料供給地 としての自然条件に適合し ていたから。 <原料供給地としての適合性> 【なぜ資本主義列強はアジア地域よりも優位な 立場にあったのか。】 【なぜ植民地支配は植民地側の発展を阻害したのか。】 4)-2 資本主義列強は近代国民国家への移行期 で,強力な集権国家体制を築きつつあったの に対して,アジアの各王朝は,皇帝専制の下 で,衰退期に入っていたから。<政治面> 4)-3 資本主義列強は,資本主義国家体制の下で 交易圏の拡大・工業化の開始により経済力が 増大していたのに対して,アジアの各王朝 は,旧来の伝統的な手工業中心で経済力が停 滞したままであったから。 <経済面> 4)-1 資本主義列強は火砲の破壊力向上など軍 事技術が進歩していたのに対して,アジア側 は旧来の技術であったから。 <軍事面> 【なぜ植民地の人々は支配正当化を受け入れたのか。】 7)-1a スエズ 運河開通や汽船・鉄道の広 が り は,輸 送 価 格 と時 間を低下 さ せ,安全性を高めた。 7)-2 列強からの資本輸出による開発で,一次産 品の産業構造に固定化されていったから。 7)-1c 安価な穀物を植民地 に依存したた め,生活できなくなったヨーロッパ農 民の合衆国への大量移住が起こった。 7)-1b 通信の発達は,利益獲得 に有利な 情報を列強にもたらした。 《上位の理論的知識 》 《 下 位 の 理 論 的知識1》 【 な ぜ 資 本 主 義 列 強 は 植 民 地 を 拡 大 し 維 持 できたのか。】 8) 植 民 地 支 配が 植 民 地 支 配 層 の 生 活 安 定 化 と富 裕 化をもたらした 結果,彼ら の 統 治 への 協 力が 得ら れ たから。<植民地支配層の 統治協力体制の確立> 7) 19世 紀 後 半か ら の① 交 通・通信手段の発達,②列 強 に よ る大 規 模な 資 本 輸 出,③植民地の拡大は,植 民 地 の モ ノ カ ル チ ャ ー 経 済化をもたらしたから。< モノカルチャー 経済化> 5) 列強の植民地支配は,植民 地を原料・食料供給地に特化 させ,工業化につながる発展 を抑制したから。<原料・食 料供給地への特化> 6) 列強と半植民地化した国 との不平等条約 や戦争賠償 金は,半植民地化した国の発 展を大きく阻害するもので あったから。<関税協定と利 権供与による発展抑制> 9) 支 配 国 側 と植 民 地 側 双 方 に 支 配 正 当 化の 論理 を 受 け 入 れ さ せ る こ と が で きたから。<支配正当化の 論理の注入> 【なぜ不平等条約や賠償金は半植民地側の発展 を阻害したのか 。】 【 な ぜ 19 世 紀 後 半 以 降 に 植 民 地 の モ ノ カ ル チ ャ ー 経 済 化 が進 み 固 定 化 さ れ た の か 。】 6)-1 関税の低率固定化と商業活動自由化は列 強に対する貿易赤字をもたらしたから。 9)-2 支配国側では,白人優位 の人種差別に よる支配正当化 の論理が広まったから 。 <社会進化論の広まり> 9)-1 植民地側では,文明化されていないこ とによる支配正当化 の論理を受け入れた から。 5)-3 植民地での港湾整備や鉄道建設は,支 配国への原料・食料輸送,製品輸入を促 進するものであり,植民地 の開発や工業 化を促すものではなかったから 。 6)-2 戦争賠償金支払いのための借款は,資本主 義列強への利権供与と利潤をもたらし,利権 開発に伴う利益は国外へ流出したから。 人 物 金 金 金 物 人 金 金 物 金 物 金 物 7)-1 交通・通信手段の発達は,人・物・金の移 動を容易にして,植民地の原料・食料供給 地・製品市場としての価値を高めたから。 物 金 5)-2 支配国は植民地に製品を販売するため に植民地の産業発展 を阻止するか ,支配 国の資本の支配下に置いたから 。 8)-2 商品作物の栽培や鉱山経営は,一部の 植民地側流通業者を富裕化 させたから 。 <世界市場化 に伴う新支配層 の形成> 物 人 金 8)-1 間接統治のしくみは,伝統的首長 や領 主の地位と生活を保障するものであった から。 <間接統治による旧支配層の温 金 物 ② 資本主義列強 は,植民地支 配を正当化 す る論理を背景 に,植民地側 の経済負担 を 利用して植民 地のモノカル チャー 経済化 を進め,政治 的・経済的優 位性を維持し たから。 《 下 位 の 理 論 的知識2》

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授業展開 第1限・第2限

教師の指示・発問

教 授 ・ 学 習 活 動 資 料

生徒から引き出したい知識,定着させたい知識

導 入 1 事例(チョコレート)をもとに世界的規模での物の移動の事実を問う。 1) このチョコレートの原料の原産地は? 2) 製品のチョコレートの値段はいくらだろうか。 3) ガーナからカカオ豆を船便で輸入するとその代金は? 4) なぜ製品のチョコレート を,こ ん な に安く買えるのだろう か。 2 解答の提示 3 単元全体の中心発問の提示 「なぜ,19世紀後半から,人・物・ 金が大量に移 動するように なったのか。」 T: 商 品 を 配 布 ・ 提 示 し , 発 問 す る S: 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: 予 想 し 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: 考 え る ①a ①b 1) カカオ豆 日本の輸入相手…約3/4はガーナから。 2)300 円くらい。 3)2000円はする。 4)(予想される回答)「わからない」or「大量に売買されているから。」 ……etc. ↓(正解の提示) 「19世紀から,特にその後半以降から人・物・金が大量に 移動する ようになったためである。」 展 開 4 本当に19世紀から,特にその後 半 以 降 から人・ 物・金が大量 に移動するようになっているのか事実を確認する。 1) 現代,世界的な規模で移動しているものとして,他にどのよ うな事例が考えられるだろうか(新聞・雑誌などを活用)。 2) 「このような世界的規模の人・物・金の移動はいつから始ま ったのだろうか。スクリーン(プリント資料)のグラフ・表・図 から考えてみよう 。」 3) 19世紀には,世界で何が起きていたのだろうか。 S: 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 発 問 す る S: 資 料 を 見 て , 答 え る T: 発 問 し , 説 明 す る S: 調 べ て , 確 認 す る ②a ②b ②c ②d ②e 教 科 書 P247 P250 P266 人(移民・出稼ぎ労働者,海外赴任・移住)や物(商品,被災時の援助物 資)・金(支払い,政府開発援助等)も移動している。 19世紀〔特に後半〕以降急速に進んだ。 イギリスなどヨーロッパ諸国による植民地化(アジア,アフリカ) 大まかにはインド →東南アジア→アフリカの順で植民地化 終結 「なぜヨーロッパ諸 国が他の地域を 植民地化す る と,人・物・ 金が移動するのだろうか」 T: 発 問 す る S: 考 え る ヒントの提示…「なぜヨーロッパがアジアを植民地にしたのか」を 考えていく。 展 開 1 「なぜヨ ー ロ ッ パ諸国は,他の 地域を植民地化 したのだろう か。イギリスを例に考えてみよう。」 1) 19世紀に入る頃のイギリスはどのような社会状況だったか。 2) さまざまな発明・改良は何のためだったか。 3) 大きな利益を得るための条件とは何か。また発明・工夫はそ のどの条件を満たすものだったか。 4) 大量生産した製品をどこに売ればよいか(製品市場の確保)。 ア 製品市場の条件とは? イ どこがその条件を満たしていたか。 ウ ヨーロッパとアジアではどちらの条件がよかったか。 5) イギリスは,実際にはどんな製品をどこに販売したのか。 6) なぜイギリス は近いヨーロッパよ り も遠方のインドや中国 を綿布の製品市場 にしたのか。 ア なぜヨーロッパ向けが伸びなかったのだろうか。 イ インドへの綿布の輸出量が増えたのはなぜか。 7) なぜイギリスは,ヨーロッパ諸国でなくインドなどのアジア 諸地域を植民地化 したのか。 ア ヨーロッパ とアジアでは軍 事 面 で ど の よ う な違いがあっ たか。 イ いくら軍事技術で優位に立っていたとしても,なぜわず かな人数で植民地化を進めることができたのだろうか 。 8) 植民地の役割は,他にはなかったのだろうか。 ア イギリスの 綿 花 輸 入 相 手 地 域のグラフを見 て,大きな変 化が起こっているのはいつ頃でどのような変化か。 イ 1860 年代後半にイ ン ド からの 綿花輸入が増 えたのはなぜ か。 ウ イギリスは ,植民地のイ ン ドにどのような 役割を持たせ たか。 9) このような植民地支配はイギリスだけだろうか。 T: 発 問 す る T: 発 問 し , 説 明 す る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 発 問 す る S:グ ラフ を も と に 答 え る T: 発 問 し , 説 明 す る T: 発 問 し , 資 料 を も と に 説 明 す る T: 発 問 す る S: グ ラ フ を も と に 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 し , 説 明 す る ③a ③b ③c ③d ③e ③f 教 科 書 P247 別紙 資料 ③g ③h ③i 産業革命期に入っていた。カートライトの力織機の発明1785 ワットの蒸気機関の改良1765 ∼69 交通革命1800年代以降 より大きな利益を得るため(資本主義経済下) a一個当たりの製造価格を安くできる(低コスト)←大量生産 b一個当たりの販売価格を高くできる(高付加価値) c大量に販売できる(広大な製品市場 の確保) a(コストの低下)とb品質向上(ミュール紡績機の事例) 国内市場には限界がある。海外へ(資本主義的国際体制の拡大)。 人口が多い(購買力がある)地域。 ヨーロッパとアジア(インド・中国など) ヨーロッパの方がよい→気候条件や好みが近いので,国内用と似た 物を作れば売れる。 輸送しやすい(早く,安く,安全である)。 18世紀末∼19世紀前半 綿布をヨーロッパ中心に販売。 19世紀半ば∼ 綿布をアジアのインド,中国中心に販売。 ヨーロッパ向けが減少したのではなく,インドや中国向けの販売量 が飛躍的に伸びた。 欧米諸国は,自国での産業革命を促進するためイギリス製品の流入 量を抑えた。 イギリスがインド を植民地として支配し, 製品輸出先 としての役割 を押しつけたから 。 ヨーロッパ諸国…度重なる戦争で火砲等の兵器の性能が向上した。 勢力均衡政策により,一国による他国支配は難しかった。 アジア地域…ムガル帝国・オスマン帝国は衰退期,清朝も農民反乱 で陰りが見え始めた。 セポイ20万人が英東インド会社の傭兵として征服戦争 に従事した。 ヨーロッパ諸国…議会政治・国民国家の成立→より多くの国民の声 を反映・統一性の強化,大西洋貿易・産業革命による 富の蓄積。 アジア地域…皇帝やスルタンによる専制支配体制,民族・宗教対立, 経済活動による 富は皇帝(スルタン )個人の財産になった。 1860年代後半だけ合衆国からの輸入量が減り,インド からの輸入量 が急増して減少分 をカバーしている。 南北戦争の影響で合衆国からの輸入量が減ったため,インドからの 綿花輸入量を増大させた。→綿花の作付面積拡大の強制 他にも綿布の染料藍の原料(インテ ゙ィゴ)はインドからの輸入に頼るな ど 原料供給地としての役割 を持たせた。 オランダの蘭領東 インド(現インドネシア),フランス のアルジェリ ア,ヴェトナム支配など。 終結 まとめ 問い…なぜヨ ー ロ ッ パはアジア地域 を植民地支配するようになっ たのか。 T: 発 問 す る S: プ リ ン ト に 記 入 す る ヨーロッパ諸国は,(人口が多く温暖なアジア地域を)製品市場・原料供給地にしようとしたから(植民地支配を行うようになった)。 2

教師の指示・発問

教 授 ・ 学 習 活 動 資 料

生徒から引き出したい知識,定着させたい知識

物の移動 ②aイギリスの輸出入額は19世紀(特に40年代)以降急伸 している。 ②b世界貿易額 は,1820年代まではわずかで,1820→1913で33倍。 人の移動 ②c1500∼1820までの移動と1820∼1940までの移動を比較した図で は,後の120年間の方が人数も多く世界的規模 で動いている。 ②dヨーロッパ →海外 1801∼1850 500万人,1851∼1900 2400万人 (1900∼1910 1200万人) ②eインド→海外 1841∼1970 323万人 1871∼1900 1003万人

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授業展開 第3時

教師の指示・発問

教 授 ・ 学 習 活 動 資 料

生徒から引き出したい知識,定着させたい知識

導 入 前時は,ヨーロッパ 諸国の植 民 地 支 配の理由が強 制 的 に製品市 場にするためであったことを確認した 。では,なぜ ヨーロッパ諸 国は他の地域を植民地 として支配し続 けることができたのか。ま ず,植民地側の工業化の問題から考えよう。 資料④を読むと,イ ギ リ ス がインド のためによい 支配を行った という主張が出さ れてい る。この主張 が正しければ ,インドが工 業化しなかったのはイ ン ド 側の問題だ と考えられる 。本当にそう だろうか。インド の鉄道建設の事例を中心に考えてみよう。 T: 発 問 す る S: 考 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: 考 え る ④a ④b 「インドに港・鉄道・道路をつけたのはイギリスである」「インドの 近代化はイギリス 統治のおかげである」という主張がある。 インドの19世紀後半の主要な輸出品は原料・食料である。 展開 1 1 なぜインドの鉄道建設は工業化に結びつかなかったのか。 1) インドの鉄道建設はどのように拡大しているか。 ア どのように鉄道は分布しているか。 イ 建設の時期は? ウ 建設のスピードは? エ 鉄道建設の急 速な拡大にもかかわらず,イ ン ド の工業化 が進まなかったのはなぜか。 2) なぜインドでは急速に鉄道が建設されたのか。 ア 鉄道はどのような都市から広がっているか イ それらの 都市からどの方面へ広がっているか 。 ウ 何を目的とする鉄道建設であったか。 エ その目的どおりの結果になっているか。 オ なぜインドの 人々は鉄道網を 国内産業発展 のために利用 しなかったのだろうか。 再掲…なぜインド の鉄道建設は工業化に結びつかなかったのか。 T: 発 問 す る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: ま と め る ⑤a ⑤b ⑤a ⑤a ⑤c ⑤d ⑤e 鉄道網と呼べるほどの網の目状の広がり,1853 年にアジア初の鉄道 がインドで建設された。 ロシア以外のヨーロッパ 諸国や日本を上回るペース で建設されている。 (1882年以降は東京−博多間以上の距離が毎年建設された計算) 鉄道建設の目的が他国と違っていたからではないか。 複数の路線が広がっているのはボンベイ・マドラス・カルカッタ (イギリスの拠点となった都市,港) デカン高原・アッサム地方・ペシャワール地方 (綿花栽培地域,茶栽培地域,アフガニスタン方面への交通路) イギリス・インド 間での貿易を拡大させる目的 (ペシャワール地方についてはアフガニスタン向けの軍事的目的) →実際にイギリス からインドへの輸出拡大につながっている。 原料産地−貿易港間の鉄道のレール幅とその鉄道と交差し て い る 他 社のレール幅が違っているため,貨物の積換えが必要 な上にその ための施設や人員が準備されていなかった。また積換 えると割引 がなくなるしくみであった。→国内利用に不便なしくみであった。 →インド植民地政府は,インドの工業化を進め る た め で な くイギリ スとの貿易を拡大させるためだけに鉄道を建設し た か らインドの 工業化に結びつかなかった。 展開 2 2 資料⑥aのグラフでは,インドは常に貿易黒字になっている。 なぜインドは貿 易 黒 字による利益を 産業発展につなげられなか ったのか。 1) インドの貿易黒字分の利益は何に使われたのだろうか。 ア 貿易以外 にお金が動いているのだろうか。 イ インドの場合は,貿易外収支がどのようになっていたか。 ウ 本国費とはどのようなものか。 エ 本国費など貿 易 以 外 でインド からイギリス に流出したお 金はどれくらいか 。貿易黒字額はどれくらいか。 オ なぜ貿易黒字を産業発展に繋げられなかったのか。 2) なぜ鉄道投資への元利支払いが本国費の中心になっていた のか。 ア インドの鉄 道 建 設が多くのヨ ー ロッ パ諸国よ り も 早く進 んだ理由の一つは潤 沢な建設資金 であった。そ の資金はど こから出ていたか 。 イ なぜ建設資金 が十分に集まったのか。 ウ その結果,会社経営はどのように行われたか。 3) 本国費は,何のための負担金であったか。 再掲…なぜインドは貿 易 黒 字 による利 益を産業発展 に繋げられな かったのか。 T: 発 問 す る T: 発 問 す る S: 予 想 し て 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: 予 想 し て 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 し 説 明 す る T: 発 問 す る S: ま と め る ⑥a ⑥b ⑥c ⑥c ⑥c ⑥a ⑥d ⑥e ⑥c 貿易外収支による 移動がある。イギリスの場合は,19世紀後半は貿 易赤字であったが 貿易外収支(海運・保険・貿易業務など)が大幅 な黒字であったため,全体(経常収支 )は黒字になっていた。 本国費という支出が必要だった(歳出額の約4分の1)。 インド植民地政府 から本国に送金されるもので,鉄道投資への元利 を合わせたものが 最大,他の公債の利子も含めると半分以上 本国費が2000万ポンド,政庁経由以外を併せると約3000 万ポンド 貿易黒字額は1000 万ポンド(1897/98) ∼4000 万ポンド(1913/14) 貿易黒字分がイギリスに支払う本国費に充てられたため。 イギリス人による インド鉄道証券への投資資金 他よりも利率のよい5%とインド政府による利子までの保証 会社は利益確保が不必要→利益は出なくても鉄道建設 を拡大 貨物の大量輸送 が可能に+イギリス人の高給 →会社は赤字になってもイギリスのために経営し,赤字分はイン ドが支払うしくみであった。 鉄道証券・他の公債への元利支払い金が55%,イギリス 人役人・軍人 への退職手当や恩給等に28%,陸海軍事費5%(1893 −1913年平 均)であるから,イギリス人の利益やインド支配のためのお金であ った。 インドは,イギリスの利益のために多額の支払いを強制されたから (貿易黒字の利益をインドの発展に繋げられなかった)。 展開 3 3 インド人側の工 業 化への努力も足 りなかったのだろうか。な ぜインド人は工業化を進めなかったのか。 1) 鉄道建設距離が拡大により,蒸気機関車やレールが大量に必 要になった。それらをどのようにまかなったのだろうか。 ア インドは鉄道建設に必要な資材をどこでまかなったか。 イ なぜインドでつくらなかったのか。 2) 他の産業についてもイギリス側のインド工業化阻止の政策 がとられたのか。 ア 造船業についてはどうだったか。 イ 綿織物業 についてはどうだったか。 再掲…なぜインド 人は工業化を進められなかったのか 。 T: 発 問 す る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 発 問 す る S: ま と め る ⑦a ⑦b ⑦c イギリスからの輸入 イギリスの利益を優先するイギリスと植民地政府の方針 イギリス本国の造船業と対立した結果,停止されてしまった。 インドの綿織物業 に不安を抱いた本国議会が抑止,あるいはイギリ ス資本支配下へ組み込んでいった。 支配国イギリスにより,イギリス産業保護のためインドの工業化が 阻止されたから。 終 結 まとめ 1 なぜ工業化に つなが る鉄道などの 設備が建設されたにもかか わらず,インドは工業化などの発展を遂げられなかったのか。 2 1の結果,人・物・金はどのように移動したか。 T: 発 問 す る S: ま と め る イギリスの植民地政策は,自国の発展のために植民地を原 料や食料 供給地・製品市場化する政策であり,工業化に つ な が る発展を促 すものではなく,逆に阻害する政策であったから。 ① 鉄道建設などで本国植民地間の物の移動が活発化 した。 ② 植民地支配の中で植民地の多額の金が本国へ移動した。 ③ 20世紀初めにかけて,イギリスへの送金のために,原 料・食料 がイギリス以外の国へも大量に移動するようになった 。

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授業展開 第4時

教師の指示・発問

教 授 ・ 学 習 活 動 資 料

生徒から引き出したい知識,定着させたい知識

導 入 ○前時の復習と確認 ①イギリスの植民地支配政策とは, 植民地の工 業 化を妨げ,原 料や食料供給地・製 品 市 場 の役割 を持たせ続けるものであっ た。 ②その植 民 地 支 配 政 策によって,物 や金が大量に 移動するよう になった。 ○本時の課題の提示 資料⑧は,19世紀末のアジア・オ セ アニ ア地域の 主な輸出品を 示したものである 。どのような共通点がみられるか。 なぜ,植民地ではモノカルチャー経済化が進んだのか。 T: 発 問 す る S: 答 え る T: 発 問 す る S: 考 え る ⑧ いずれも食料中心 の輸出である。 展開 1 1 19世紀後半の世界貿易額の停滞 ⑨aのグラフは,世界 の貿易額の推移 を示している 。このグラフ では,1895年まで貿易額,そのうち 特に工業品の 貿易額が余り 伸びず停滞している 。なぜ19世紀後半に世界の貿 易 額 ・工業品 の貿易額は停滞したのか。 1) 生産量が停滞したのか。 ア 工業生産 はどう動いたか。 イ 原料生産 はどう動いたか。 ウ 量が順調に伸びているのに,金額が減る理由は何か。 エ 当時の物価はどう動いたか。 オ この時期の特徴は何か。 2) 欧米列強になぜ大不況期がおとずれたか。 ア なぜ物が売れなくなったのか。 イ ドイツの鋼生産量がイギリスを追い抜いた理由は? ウ ドイツの鋼価格がイギリスよりも安くなった 理由は? 再掲…なぜ19世紀後半に世界の貿易額 ・工業品の貿 易 額 は停滞し たのか。 T: 発 問 す る S: 答 え る T: 説 明 す る ⑨a ⑨b ⑨c ⑨d ⑨e ⑨f ⑨g ⑨h ⑨i 工業生産量は停滞していない。ほぼ順調に伸びている 。 原料生産も停滞していない(※資料は輸入量)。 一定量あたりの価格が下がった。 この期間は物価が下がっている。 →大不況期(1873-96)。長期にわたる深刻な不況。 従来イギリス中心→アメリカ・ドイツ等の生産急増で「需要<生産」 ドイツ製品の方がイギリス製品よりも輸出価格が安くなったから。 労賃のコストに大きな差があったから。 イギリスを合衆国・ドイツなど他の列強が追い上げて,工 業 生 産 が 膨張しすぎて長期不況期に入ったため。 展開 2 2 資本主義列強 の対策 資本主義列強は,長期不況(大不況期)を乗り切るために,どのよ うな対策をとったのか。 1) 製品価格の低下でも利益を得る方法はないだろうか。 ア 製品価格 には利益以外に何が含まれるか。 イ コストを下げるには,どうすればよいと考えられたか。 ウ 食料費は実際に下がったのか。 2) なぜ食料費を下げることができたのか 。 ア 工業品と農産物との違いは? イ では,どうすれば安い小麦を確保できるか。 ウ ⑩cのグラフ から何がわかるか。 3) なぜ安く小麦を輸入できるようになったのか。 [A 輸送コストの低下] ア どのような 地域からの輸入か。 イ 輸送費が負担になるのではないか。 イ なぜ⑩dの 資料で187 3→1883 の時期に も っ と も輸送費が 下がったか。 ウ なぜその後も下がっていったのか。 エ 港までどうやって大量の小麦を運ぶことができたのか。 [B 安価な生産地域の選択] オ なぜ⑩cのグ ラ フで小麦の輸 入 先 1位がたびたび 変わっ ているのか。 カ なぜイギリス が遠方の食料生産地域の安い 食料情報をつ かみ確保できたのか。 [C 生産コストの低下] キ 安価な食料を生産するにはどうすればよいか。 ク プランテーション開発の条件とは? ケ ヨーロッパ資本主義列強は ど こ の 地域に植 民 地を拡大し ていったか。 コ アフリカ分割が急速に進んだのはなぜか。 オ 植民地の拡大 は,植民地支配 にどのような 影響を与えた か。 4) アジア・南米・オーストラリアからの食料の流入はヨーロ ッパにどのような 影響を与えたか。 ア 19世 紀 後 半 ま で西 欧 諸 国 の 食料 は ど こ で確 保 し て い た か。 イ 他地域からの 安価な食料の流 入はこれらの 地域に何をも たらしたか。 ウ 余った農民たちは,どうしたか。 再掲…資本主義列強は,長期不況(大不況期)を乗り切るために,ど のような対策をとったのか。 T: 発 問 す る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: 答 え る ⑩a ⑩a ⑩b ⑩a ⑩c ⑩d ⑩e ⑩f ⑩g ⑩h ⑩i ⑩j ⑩k 教 科 書 P266 上 ⑩c ⑩l ⑩l ⑩m コスト(原料費・賃金など) 原料費は下がっているので,賃金コストを下げる。そのためには, 食料費を下げればよい。 実際に下がった(パンの価格は1872→1913 で6割に低下)。 (予想される答え)大量生産ではないか。 土壌・気候・土地の広大さ等条件が厳しく,単純に生産量を増やす ことは難しい。 安い小麦の輸入量 を増やす。 小麦の輸入量の増大と輸入先の拡大(イギリスの小麦の例ではアル ゼンチン・インド ・オーストラリアからも輸入) 地球の裏側に近い遠方の地域 3分の1から4分の1(ジャワ(砂糖)やミャンマー(米)→イギリス) 6分の1(インド(小麦)→イギリス)(別データから)に変化 スエズ運河株式会社株のエジプトからの買収(1875 年)で安くスエズ 運河経由で食料を運べるようになったから。 輸送船が帆船から汽船に替わって一度に大量に速く運べるようにな ったから。 鉄道を建設していったから。(インド でもそうであった。) 他の植民地での鉄道もインドやアルゼンチンと同じように食料や原 料を港まで輸送するために建設している。 その年のもっとも 安価な地域の小麦を輸入するようになったから。 世界的な電信網が形成されて,生産地とほぼ同じ時期に最新情報を つかめるようになったから。 大規模なプランテーション経営で気候条件にあった食料を単一栽培 する。 ⑩jの③→大規模 な資本の存在…重工業が発達した19世紀末以降の 欧米諸国だけが可能。 ⑩jの④,⑤→植民地でないと難しい。→植民地拡大 へ アフリカ地域 ①1885年のベルリン会議で,「最初に軍事支配した国が支配できる」 とする植民地化の原則がヨーロッパ諸国間で取り決められたか ら。 ②安価な食料や原料の獲得のために投資先としてさらに植民地が必 要となったから。 それぞれの植民地 に適した商品作物の栽培や鉱山開発 を進めたた め,植民地側のモノカルチャー経済化が進行した。 東欧(ロシア・プロイセン),イギリスはアイルランド も 農業の商業化,牧畜業への移行。→農民が余るようになった。 合衆国へ移住するか,都市へ出て労働者となった。→ヨーロッパの 工業国化の進展 コスト削減(安価な原料・食料の獲得)のために,交通・通信手段の発 達を背景に植民地獲得と大規模な資本投資によるプランテーショ ン経営を進めた。 終結 再掲…なぜ植民地 では,モノカルチャー経済化が進んだのか。 T: 発 問 す る S: ノ ー ト に ま と め る 資本主義列強が,コスト削減のために植民地を拡大してプランテー ション経営を進めていったから。 →結果として,植民地のモノカルチャー経済化が進んだ。

(7)

授業展開 第5時

導 入 ○前時の復習と確認 ①資本主義列強が,コスト削減のために植民地を拡大してプラ ンテーション経営を進めていったので,結果として,植民地 のモノカルチャー 経済化が進んだ。 ②その過程で,ヨ ーロッ パの農 業 地 域から合衆国 へ多くの人々 が移住していった 。 ○本時の課題の提示 ⑪の資料は,インド での飢饉による 死亡者数の推 移を示してい る。いつ頃から死者が増加しているか。 植民地側の人々は, このような植 民 地支 配に対し て,一致団結 して抵抗しなかったのだろうか。 なぜ,ヨーロッパ資本主義列強は植民地支配を維持できたのか。 T: 発 問 す る S: 答 え る T: 発 問 す る S: 考 え る T: 発 問 す る ⑪ イギリスがインド 支配をするようになってから急増している。 展開 1 1 植民地支配層 の統治協力体制の確立 1) なぜ飢饉による死亡者数が急増したのか。 ア なぜ食糧を十分確保しなかったのだろうか。 イ なぜ商品作物に切換える必要があったのか。 ウ なぜ植 民 地 政 府は商 品 作 物 栽 培の広がりや 飢饉対策を放 置したのか。 2) なぜ植民地側の人々は一致団結して抵抗しなかったのか。 ア イギリスは, なぜ限られた人 口 数 で世界中 の多くの地域 を支配できたのか 。 イ 支配国に協力的な人々は,旧支配層だけだったか。 ウ 植民地の中 間支配 層は,植民地支配構造の 中で,どのよ うな立場であったか。 T: 発 問 す る S: 答 え る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 説 明 す る ⑫a ⑫a ⑫b 図説 ⑫c ⑫d 自分たちの食糧よりも現金化できる商品作物生産に切り換えたた め。 税・小作料などの 支払いで現金を入手する必要があったから。 本国費の負担だけでなく,イギリスとの貿易赤字も拡大していて, その支払いのため 他国への輸出を増やす必要があったから。 →イギリスの植民地政策が重要な原因 旧支配層の生活や地位を保障して旧支配層を中間支配層として組み 込んだから。(インドやガーナの事例) 商品作物の流通業者は,支配国に協力的であった。 モノカルチャー経済化した社会構造の中に生活基盤が築かれていた ため,経済体制を維持する側に立った。 展開 2 2 支配正当化の論理の注入 ○1885年に結成された「インド国民会議」とはどのような組織か。 1) なぜ植民地側中間支配層は,支配国に協力的であったの か。 ア ヨーロッパ資本主義列強は, アジア諸地域 をどのように 捉えていたか。 イ ヨーロッパ資本主義列強は, どのような論 理で支配を正 当化しようとしたか。 ウ なぜ植民地側の人々は支配の正当化を受け入れたのか。 エ 植民地側の中 間支配 層は,文明化使命論に 基づいてどの ようなことを行ったか。 ○イギリスへ留学したガンディーは,その後どうなったか。 2) 支 配 国へ留 学(移住)し た人々 の中か ら民 族 運 動の中 心にな る人々が出たのはなぜか。 ア ヨーロッパ資本主義列強に留 学や移住した 人にどのよう な人がいるか。 イ 彼らは,移住先・留学先でどのような体験をしたか。 ウ 当時ヨ ー ロ ッ パ資本主義列強 で は ど の よ う な考え方が広 まっていたか。 エ 彼らがやがて民族運動の中心になるのはなぜか。 T: 発 問 す る S: 答 え る T: 発 問 す る S: 答 え る T: 説 明 す る T: 発 問 す る S: 答 え る 教 科 書 ⑬a ⑬a ⑬b ⑬c ⑬d ⑬a 植民地政府が,インド人中間支配層をイギリスへの協力者として組 み込むための組織 科学技術や軍事技術の遅れの原因を,東洋的なものに 求めた。 (オリエンタリズム) 西洋化を受け入れ文明化するまでは,支配して導く必要があるとい う論理を主張した。(文明化使命論) イギリス側の主張する科学・軍事技術の差に基づく文明化使命論を 受け入れたため。(文明化されれば支配は終わると認識) 子どもたちを支配国に留学させた。 南アフリカで弁護士として活動した後,反英民族運動 の中心になっ ていった。(インド国民会議派) ガンディー→イギリス 孫文→ハワイ(日本も) ホー=チ=ミン→フランス 周恩来→フランス(日本も) ヨーロッパ資本主義列強の人々からの差別体験。 白人が人種的に優性であるとの人種差別論が広まっていた。 (社会進化論(社会ダーウィニズム)) 社会進化論の考えが,永続的な植民地支配を正当化される論理で受 け入れられなかったため。 まとめ 再掲…なぜ,ヨ ー ロ ッ パ資本主義列強 は植民地支配 を維持できた のか。 T: 発 問 す る S: ノ ー ト に ま と め , 発 表 す る 資本主義列強は,植民地支配を正当化する論理を背景に, 植民地側 の経済負担を利用して,植民地のモノカルチャー経 済 化を進め, 中間支配層を支配構造に組み込むことで,政治的・経済的優位性 を維持したから。 終 結 全体のまとめ 再掲 なぜ,19世紀後半から,人・物・金が 大量に移動するようになっ たのか。 T: 発 問 す る S: ノ ー ト に ま と め 発 表 す る 資本主義列強が多くの地域を・植民地・半植民地化して, それを拡 大し維持したため,人・物・金が世界規模で移動するようになっ たからである。

使用教科書 『詳説世界史B』 山川出版社

使用副教材(図説) 『最新世界史図説 タペストリー 三訂版』 帝国書院

【資料】

①a 日本チョコレート・ココア協会HP資料のデータをもとに作成

①b 袋入りチョコレート(近所のディスカウント・ショップで購入)→

ガーナから日本へ 1㎏未満の国際郵便料金(船便) 2000円

②a 松井透,『世界市場の形成』,岩波書店,1991,p.293の図46,p.316の図53より

②b 宮崎犀一他編 ,『近代国際経済要覧』,東京大学出版会,1981,p.90のデータを

もとに作成

②c 杉原薫,「近代世界システムと人間の移動」,岩波講座『世界歴史 19 移動と

移民―地域を結ぶダイナミズム』,岩波書店,1999,p.11

②d 木谷勤,『世界史リブレット 40 帝国主義と世界の一体化』,山川出版社,

1997,p43のデータをもとに作成

②e 木谷勤,前掲書,p.49をもとに作成

③a 図説,p.166 ③b,③cは書き込み枠

(8)

③e 河野健二他編 ,『世界資本主義 の歴史構造』,岩波書店,1970,p.69のデータをもとに 作成

③f 松井透,前掲書,p.226の2つのグラフの高さを輸出金額が揃うように変更したもの

③g ヨーロッパの大砲の弾とアジアの大砲の弾の違いを,わかりやすく説明するために比喩的に用いた生卵とゆで卵の図(文字の枠の

下には,割れた卵(ヨーロッパの弾)と,そのままの卵(アジアの大砲の弾)の図を隠している )

③h 浅田実 『東インド会社―巨大商業資本の盛衰』(講談社現代新書 ),1989

③i 宮崎犀一他編 ,前掲書,p.69のデータをもとに作成

④a 吉岡昭彦,『インドとイギリス 』(岩波新書934),1975,p.3

④b 山本達郎編,『世界各国史 Ⅹ インド史』,山川出版社,p.267

⑤a 脇村孝平,「インドの鉄道建設 」『週刊朝日百科 世界の歴史 102』,1990,p.B664

⑤b 宮崎犀一他編 ,前掲書,p.22

⑤c 脇村孝平,前掲書,p.B664

⑤d 河野健二他編 ,前掲書,p.204のデータをもとに作成

⑤e 松井透,前掲書,pp.366-367

⑥a 山本達郎編,前掲書,p.266

⑥b 宮崎犀一他編 ,前掲書,p.91のデータをもとに作成

⑥c 脇村孝平,前掲書,p.B665

⑥d 脇村孝平,前掲書,p.B664

⑥e 松井透,前掲書,p.371

⑦a 河野健二他編 ,前掲書,p.137

⑦b 河野健二他編 ,前掲書,pp.132-133(引用文),p.132のデータをもとに作成(グラフ)

⑦c 河野健二他編 ,前掲書,p.83(引用文),p.84のデータをもとに作成(グラフ)

⑦d 河野健二他編 ,前掲書,p.83

⑧ 宮崎犀一他編 ,前掲書,p.30のデータをもとに作成

⑨a 宮崎犀一他編 ,前掲書,p.90のデータをもとに作成

⑨b 宮崎犀一他編 ,前掲書,p.88のデータをもとに作成

⑨c 入江節次郎編 ,『講座 西洋経済史 Ⅲ 帝国主義』,同文館,1980,p.25のデータをもとに作成

⑨d 入江節次郎編 ,前掲書,p.25のデータをもとに作成

⑨e 入江節次郎編 ,前掲書,p.19のデータをもとに作成

⑨f 入江節次郎編 ,前掲書,p.18

⑨g 宮崎犀一他編 ,前掲書,p.88のデータをもとに作成

⑨h 河野健二他編 ,前掲書,p.185のデータをもとに作成

⑨i 河野健二他編 ,前掲書,p.186のデータをもとに作成

⑩a 河野健二他編 ,前掲書,pp.185-187

⑩b 入江節次郎編 ,前掲書,p.27のデータをもとに作成

⑩c 河野健二他編 ,前掲書,p.167のデータをもとに作成

⑩d 入江節次郎編 ,前掲書,p.43のデータをもとに作成

⑩e 河野健二他編 ,前掲書,p.165のデータをもとに作成

⑩f 入江節次郎編 ,前掲書,p.42のデータをもとに作成

⑩g 入江節次郎編 ,前掲書,p.37のデータをもとに作成

⑩h 入江節次郎編 ,前掲書,pp.39-41の表から作成

⑩i 入江節次郎編 ,前掲書,p.45の表から作成

⑩j 松井透,前掲書,pp.254-261を要約

⑩k 河野健二他編 ,前掲書,pp.175-178

⑩l 杉原薫,前掲,p.22

⑩m 杉原薫,前掲,p.11

⑪ 山本達郎編,前掲書,p.257

⑫a 吉岡昭彦,前掲書,pp.56-58

⑫b 入江節次郎編 ,前掲書,p.237

⑫c 高根務,『ガーナ―混乱と希望の国』,アジア経済研究所,2003,pp.59-60

⑫d 入江節次郎編 ,前掲書,pp.243-244

⑬a E・サイード (今沢紀子訳),

『オリエンタリズム 上』,平凡社,1993,pp.83-85

⑬b 木谷勤,前掲書,pp.55-56

⑬c 古田元夫,『世界史リブレット 42 アジアのナショナリズム』,山川出版社,1996,pp.7-10

⑬d 古田元夫,前掲書,pp.11-12

⑬e 木谷勤,前掲書,p.58,p.61

(9)

9

①a ①b 近所で 購入したチョコレート(277円,297円)

(cf.カカオ豆0.5kgの郵送料(2000 円(国際郵便))

②a

②b

②d

②c

②e

ヨーロッパからの移民数の推移

0

500

1000

1500

2000

2500

3000

3500

1801-50

1851-1900

1900-51

日本のカカオ豆の輸入先

2004年

日本のカカオ豆の輸入先

2004年

世界貿易の推移(1913年=100)

0 50 100 150 200 250 300 1820 1830 1840 1850 1860 1870 1880 1890 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 年 指 数

インドの 出 国 者 数

0 50 100 150 200 250 300 350 400 450 500 1841-50 1851-60 1861-70 1871-80 1881-90 1891-1900 1901-10 年 万 人

ガーナ

エクアドル

(10)

10

③a ③b

③c

③d ③f

③e

③g

③h

③i

製品で[ ]を 得るための 条件と は? a b c 発明・ 改良は どうするか? 条件は ? イギリス綿製品の輸出先 0% 10% 20% 30% 40% 50% 60% 70% 80% 90% 100% 1820 1850 1880 年 割 合 その他 中国・日本 などの ア ジア インド 合衆国 合衆国以 外のアメリ カ トルコ・エ ジプト・ア フリカ ヨーロッパ イギリス の 原 綿 輸 入 量 と輸 入 相 手 地 域 0 5 0 0 1 0 0 0 1 5 0 0 2 0 0 0 2 5 0 0 3 0 0 0 3 5 0 0 4 0 0 0 1 8 0 6 - 1 0 1 8 1 6 - 2 0 1 8 2 6 - 3 0 1 8 3 6 - 4 0 1 8 4 6 - 5 0 1 8 5 6 - 6 0 1 8 6 6 - 7 0 1 8 7 6 - 8 0 年 4 0 万 ポ ン ド そ の 他 イン ド地 域 合 衆 国 イ ギ リ スのイ ン ド 征服に 貢献 した人 々 インドを植民地として支配する契機となったプラッ シ ーの戦いは1757 年のことであったが,こ のときイギリス東 インド会社軍の指揮者であつたクライヴがはじめて, インド人兵士を傭兵として採用した。こ のインド人傭兵の ことを,イギリス人は「セポイ」と呼んだのだが, …… (中略)…… プラッシーの戦いから1857年の「セポイ」の反乱までは ちょうど100年だが,この100 年の間にイギリスはつぎつぎ と各地方への征服戦争をくりひろげ,つ い に は インド全士 を支配することになる。そのような東イ ン ド 会社のインド 征服の尖兵として,「セポイ」は戦ったのである。 当初から金で雇われてイギリス東インド会社側に立 っ て戦い,インドの同胞を征服するのに貢献したわけであ り,しかもそれらの戦いではなはだ好 成 績をおさめたので ある。 征服戦争が拡大していくなかで人数も増え,はじめ20 00人であつた「セポイ」は100 年後には20万人の大軍にふく れ上がっていた。(浅田実 『東インド 会社―巨大商業資 本の盛衰』講談社現代新書,1989)

生卵 ゆで卵

1804/06 年

1854/56 年

左の 2 種類

の卵がもし

大砲の弾だ

として,足

下に落とさ

れるとすれ

ばどちらの

方がいやだ

ろうか?

ヨーロッパ

の ア ー ム ス ト

ロング砲の弾

アジア の 大 砲

の弾

(11)

11

④a ④b

⑤a

⑤b

⑤c

※ 1900 年(1位米 2位独 3位露 4位イント ゙) 1920 年(1位米 2位露 3位カナタ ゙ 4位インド)

⑤d

⑤e

⑥a

⑥b

各国の鉄道敷設距離の変遷 0 5 10 15 20 25 30 35 40 45 50 1840 1860 1880 1900 1920 年 千 マ イ ル イギリス フランス ロシア インド 日本 インド の鉄 道 敷 設 図 インド の主 要 輸 出 品 イ ギ リ ス人の 主張 彼女(オーストラリア在住のイギリス人 女 教 師…引用者注)は, 自分の 生徒 に教 え諭 す よ う な 調子 で ゆ っ く り と し ゃ べ り は じ め た。 「あなたは,イ ギ リ スがインドに進んだ文明を も た ら し,良い 統治をもちこんだことを忘れてはいけません 。考えてごらんなさ い。インドに港をつくり,鉄道を敷設 し,道路をつけたのはイギ リス人です。インド人に近代的な工業技術 を教えたのもイギリス 人です 。あ な た が こ れ か らイ ン ド を旅 行し て み る と わ か り ま す が,英語は,インドの どこでも通用する唯一の言葉で す よ。それ から,インドに政治的統一をもたらしたのはイ ギ リ ス ですし,法 による統治・代議制による政治を教えたのもイ ギ リ スです。」 ※太字は引用者による(以下同じ) (吉岡昭彦『インドとイギリス』岩波新書 934 1975 p.3) インド の鉄道敷設 の目的 aダージリン 鉄道 トイ・トレインと呼 ばれる軌間610㍉ の登山鉄道。開通は1881年。標高約2000 ㍍,ヒマラヤ山麓のダージリンは,イギ リス人が開いた避暑地であるとともに, 有名な茶の産地であり,19世紀末には, イギリスへの輸出が急増した。この登山 鉄 道も , 紅 茶の 出 荷 の た め に 建設 さ れ た。 bインドの鉄道建設においてマンチェス ターなどの綿業資本が果たした役割は, 小さ く な か っ た。特 に南 北 戦 争 (1861∼ 1865 年)の際 にア メ リ カ 産綿花 の確保が 困難になると,彼らはインド内陸部の綿 花地帯への路線建設に向けて積極的 に動いた。(ともに脇村孝平「インドの鉄道 建設」『週刊朝日百科世界の歴史102』 1990 p.B664) インド 鉄道網 の盲 点 港市から放射状に延びてゆく鉄道路線が ,やがて内陸で互いに 交差し連続して地図の上では網の目状となっても ,この特色に大 きな変化が生じにくかったのである。 ……(中略)……インドでは本線・地方的路線・支線 などに様々 の軌間距離が採用されたが,この場合地図の上 では連続・交差し ている路線でも,相互の連絡に非常な困難が伴 った。車両の大き さが違うから乗換え,積換えの必要が生じたが ,それは単に時間 がかかるという話ですまないことが多かった 。そのための施設や 人員の準備が十分には整えられていなかったからである。 ……(中略)……一般的にいって,港 市と内陸とをつないで貨物 を輸送 する 特定 の場 合に 限っ て き わ め て有 利な 割 引 料 金 が適用 されていた。たとえば長距離割引が同 一 会社 線の中だけに限られ ており,いくつかの会社の路線を乗り継い で輸送されるような場 合には,たとい全体として長距離輸送になっていてもぜんぜん割 引特典にあずかれず,ひどい場合には逆に 料金割増しすら請求さ れたという。結果はつねに「港市志向」型の割 引 制 度であった。 (松井透『世界市場の形成』岩波書店 1991 pp.366−367) イギリスの対インド貿易額 0 5 10 15 20 25 30 35 40 45 50 1876-80 1886-90 1896-1900 1906-10 年平均 百 万 ポ ン ド -4 -2 0 2 4 6 8 10 12 百 万 ポ ン ド 輸入 輸出 貿易 収支 イギリスの国際収支の推移 -150 -100 -50 0 50 100 150 200 250 300 1875-79 1885-89 1895-99 1905-09 5カ年平均 百 万 ポ ン ド 貿易 収支 貿易 外収 支 経常 収支

19 世紀後半のインドの貿易収支

(12)

12

⑥c ⑥d

⑥e

⑦a

⑦b

⑦c

⑦d

インド の鉄道建設

この急速な成長を可能にした主 な理由は,インド政庁(植民 地政府)が行った鉄道証券 の元 利 保 証 制 度にあった。 鉄道の建 設・運営は,民間鉄道会社によって進められたが,植民地政府 は5㌫の利潤を得ることができない会社に対しては ,その差額 を保証したのである。これによって,鉄 道 会 社 は5㌫の配当を 約束されたことにもなり,イギリスでの資 本 調 達 はきわめて容 易なものとなった。インドにおける鉄道投資の 大半は,イギリ スで調達されたものであり,インド人に よ る投資はごくわずか であった。……(中略)…… この元利保証政策は,民間鉄道会社の放 漫 経 営 を招くことに なり,実際には5㌫の利潤を得ることができない会社が大半で あった。したがって,インド政庁はその差 額 分 を補給するため の思い財政負担を背負ったのである。 (脇村孝平 前掲書 p.B664) インド の鉄道経営 ……軌間距離の問題であるが,初期においてその標準と定めら れたものが,……(中略)……日本の新幹線やイギリス 本国の標準 的鉄道と比べて,二四センチも広かった。いうまでもなく当時に おけるこのような広軌は異例というの他なく ,その建設には非常 な費用を要した。土台の建設,車両,機関車,駅の施設など,ど れをとっても金がかかった。三倍から一〇 倍にも及ぶ建設コスト であったという。……(中略)……イ ン ドの経済的水準 から見て不 釣合い・不必要な浪費というに近かった。このような広軌鉄道を 多くの「私企業」が出 費もかまわず建設し ,経営不振が続いても 意に介さずいられたのは,いうまでもなくただ元利保証制度ある がゆえであった。 鉄道会社社員についても同様であった。す な わ ち ,これらの会 社は一般に,多少なりとも技術を要し,責 任を分担するような地 位にはすべてヨーロッパ人を雇い,これに イギリス本国とは比較 にならぬ高給を支給して長く改めなかった 。そのような高給を払 う必要のないインド人を雇用すること,その た めに インド人被雇 用者の教育に努めることなどほとんど顧みられなかった。そこに は企 業 努 力 の い ち じ る し く欠 如し た放 漫な 経営 を指 摘す る こ と ができる。これもまた元利保証制度のなせるわざであった。 (松井透 前掲書 p.371) インド の貿易黒字 の ゆ く え 本国費は,インド政庁の財政からイギリス 本国へ送金されるも のであり,20世紀初めには歳出額の約4分の1に達していた。そ の最大の項目は,鉄道投資に対する利子の支払い(年賦金の返済を 含む)で あ っ た。これに他の 公債に 対する 利 子 支 払いを合 わせる と,歳出額全体の過半を占める。さらに,軍人・官吏年金,政庁 の本国からの物資購入代金,行政費 ・軍事費などが加わ っ て ,20 世紀初頭における本国費の総額は2000 万? に達した。その他,イ ンド政庁の財政を通さない送金もあったから,実際の「富の 流出」 の総額は,約3000万? に及んだ。 こうした「富の流出」は,国際収支の上では,貿易外収支の赤 字分として現れる。実はこれが,同じ時期 における貿易収支の黒 字と対 応し て い た の で あ る。19世 紀 後 半∼20世 紀 初 めの インド は,イギリスの工業製品の一大販売市場で あ っ たので,インドの イギリスに対する貿 易 収 支 は入超(輸入額が輸出額を上回る こ と) であった。一方,ヨーロッパ諸国,アメリカ,日本に対する貿易 収支は,大幅に出超であった。……(中略)…… 結局,両者を合計してみても,インドの貿 易 収 支 はなお大幅な 黒字を記録しており,もし,それがインド 国内に投資されるので あれば,富が蓄積されていったはずである。ところが ,実際には 貿易の黒字分に見合う額がイギリスに送金さ れ て い たのであり, 逆に「富の流出」が進んでいった。(脇村孝平 前掲書 p.B665) ボ ン ベ イの 船 舶 建 造 の 推 移 0 5 1 0 1 5 2 0 2 5 3 0 3 5 4 0 1 8 1 5 - 2 4 1 8 2 5 - 3 4 1 8 3 5 - 4 4 1 8 4 5 - 5 4 1 8 5 5 ・ 5 6 年 隻 当時,ボンベイ商人の王とよばれたJ・ジジバーイーは,1783 年,貧しい家庭に生れ,十九世紀の三〇年 代にアヘン貿易で三〇 〇万ルピーの資産をつくり上げた。彼はそれを造 船 業に投じて, 巨大なドックをつくり,三千人の労 働 者 を雇用した。当 時,イン ドで造られる船舶は,イギリス製よりも堅牢で ,かつ費用は四分 の一以下であったから,彼の造船業は大いに繁栄した。……(中略) ……しかし,東インド会社の廃止後は,次 第にイギリス本国の造 船業と鋭く対立することになり,一 八 五 七 年 以 後は,インドにお ける造船業は,まったく停止されてしまう。 (河野健二,飯沼二郎編 ,前掲書 ,p.83)

インドの鉄道建設資材の調達方法

インドへの資本輸出(インド鉄道証券への投資…引用者注)は, 同時に建設資材・機械・技術者・労働者の丸ごとの輸出を意味し た。すべての機関車,橋や電信用のワイヤ,は じ め は枕木さえ, また煉瓦造りの職人にいたるまで,こ と ごと く六九年のスエズ運 河の開通以前は,ケープタウン経由で運ばれた。 (河野健二,飯沼二郎編 『世界資本主義の歴史構造』 岩波書店 1970 p.137) イ ギ リ ス 蒸 気 機 関 車 の 海 外 販 売 台 数 ( 8 9 5 7 台 ) 中 南 米 1 2 % そ の 他 6 % イ ン ド 3 8 % ヨ ー ロ ッ パ 2 8 % イ ン ド 以 外 の 大 英 帝 国 圏 1 6 % イ ギ リ ス蒸 気 機 関 車の輸 出 先 この時代の偉大な世界的鉄道建設ブームは ,ヨーロッパおよび アメリカ合衆国を中心に起こっているにかかわらず ,イギリスの 蒸気機関車のアメリカへの輸出は全くこの表(⑦aの元データの 表…引用者注)に現れないばかりか,第二位を占めるヨーロッパへ の輸出も,……(中略)……実にとるに足りない数字であることが 明らかである。いいかえれば,十九世紀後半の鉄道建設ブ ー ムは, 世界資本主義形成の指導的役割を果たしてきたイ ギ リ ス にとっ てほとんど潤すところとならず,もっぱら 後進資本主義諸国の工 業発展を導き,イギリス資本から解放さ れ た自立的経済発展の道 を開くことに貢献したのである。だからイ ギ リ ス資本は,鉄道そ のものを内的要求として必要としなかった非資本主義国に対し て,これを強制するという強引な市場開拓 の手段をとることとな る。……(中略)……インド市場が第一位を占めているのは,こう した販売強制と市場独占の結果である。 (河野健二,飯沼二郎編 ,前掲書 ,pp.132−133)

インド綿織物業の近代化

インド最初の紡績工場は,イギリス綿糸を 中国に再輸出してい た一インド商人の手によって,一八五一年に ボンベイにおいて設 立され,一八五四年二月に操業を開始し,一 八 五七 年 には第二工 場を設けるまでに成功した。インド最初の機械織布工場も,イン ド商人の手によって一八六〇年にボンベイに設立さ れ た 。……(中 略)……イギリス本国の議会は,このようなインド国内の動きに大 きな不安を示し,それらを抑止するか,あ る い は イギリス資本の 支配下におこうとした。その結果 ,たとえば一八九八年に は,イ ンドにおける株式資本三五五〇万ポンドの内 ,二五五〇万ポンド はイギリスの手中にぞくし,わずかに一〇 〇 〇万ポンドがインド 人にぞくするにすぎなかった。 (河野健二,飯沼二郎編 ,前掲書 ,p.83)

(13)

13

⑧ ⑨a

⑨b ⑨c

⑨d ⑨e

⑨f ⑨g

⑨h

⑨i

⑩a

⑩b

イ ギ リ ス の 鉄 鉱 石 輸 入 の 推 移 0 1 0 0 2 0 0 3 0 0 4 0 0 5 0 0 6 0 0 7 0 0 8 0 0 9 0 0 1 0 0 0 1 8 7 2 1 8 8 1 1 8 8 9 1 8 9 9 1 9 0 6 1 9 1 3 年 指 数 輸 入 量 の 指 数 輸 入 額 の 指 数 19 世紀末 のア ジ アの 主要輸出品 地域 支配国 内容 セイロン イギリス コーヒー,茶 中国 なし 茶,絹 蘭領東イン ド オランダ 砂糖,コーヒー 仏領インド シナ フランス 米 フィリピン スペイン→ 合衆国 砂糖,大麻 シャム(タ イ) なし 米 インド イギリス 穀物,綿花,搾油用種子 世 界 貿 易 の 推 移 0 5 0 1 0 0 1 5 0 2 0 0 2 5 0 3 0 0 3 5 0 4 0 0 4 5 0 1 8 7 6 -8 0 1 8 8 1 -8 5 1 8 8 6 -9 0 1 8 9 1 -9 5 1 8 9 6 -1 9 0 0 1 9 0 1 -0 5 1 9 0 6 -1 0 1 9 1 1 -1 3 年 億 ド ル 一 次 産 品 工 業 品 銑 鉄 と鋼 の 世 界 生 産 量 の 推 移 0 1 0 2 0 3 0 4 0 5 0 6 0 7 0 8 0 1 8 7 0 - 7 9 1 8 8 0 - 8 9 1 8 9 0 - 9 9 1 9 0 0 - 0 9 1 9 1 0 - 1 4 年 百 万 ト ン 銑 鉄 鋼 イギリス とドイツの 棒 鉄 価 格 の 推 移 100 105 110 115 120 125 130 135 140 145 150 1 8 9 1 - 9 5 1 8 9 6 - 1 9 0 0 1 9 0 1 - 0 5 1 9 0 6 - 1 0 年 シ リ ン グ / ト ン ドイツ 国 内 ドイツ 輸 出 イギ リス 輸 出 大 不 況 期(1873−96 年)の 特徴

この23年間には,1873年恐慌,1882年恐慌,そして1890

年恐慌と3つの経済恐慌が勃発した。 特色のある点は,

それ以前の恐慌のときとは異なって, これらの恐慌後の

不況の期間がいずれも異常に長引いた ことであった。そ

のために,この23年間は,1880年代の初めと終わりとに

おけるそれぞれ2,3年間の比 較的緩 慢な回復期によっ

て中断されたとはいえ,長期間にわたって深刻な恐慌と

不況とが続いた時期であったと いえよ う。それは,きわ

めて巨視的にとらえれば,長期的慢性不況として特徴づ

けられる時期であった。

(大不況期 )と称されるゆえんで

ある。

コスト抑制の手段

① 装甲板・薄板・ブ リ キ といった,品質的 にイギリスの優位が 維持されたいくつかの品目はあった。ともあれ ,一般製品につ いては,イギリス鉄鋼製品の価格高が,早くも「大不況」期の 過程で指摘された。イギリス鉄鋼製品のコ ス ト高を克服せよと いう形で,イギリス資本家の代弁者た ち に よ っ て こ の高価格 は,口を酸くして論難され続けたのである。 ② 賃金を抑制する一つの政策的方向が,生 活 費 の大きな内容を なす食料費の低価格に求められることはいうまでもない。 ③ 工業とは異なって農業のばあい,土壌条件,気候条件 ,土地 の広大さをベースとする,いわゆる「資本に よ っ て 独占されう る自然力」の差に規制されて,資本の投下に よ るそ の 生産力の 発展は,特有の限定性をあたえられざるをえないからである 。 農業部門は,いよいよ重工業資本主義国からはみでていく存在 にならざるをえなくなるのである。(河野健二,飯沼二郎編 『世界 資本主義の歴史構造』 岩波書店 1970,pp.185-187) イ ギ リ ス の 鉄 鉱 石 輸 入 量 の 推 移 0 1 0 0 2 0 0 3 0 0 4 0 0 5 0 0 6 0 0 7 0 0 8 0 0 1 8 7 2 1 8 8 1 1 8 8 9 1 8 9 9 1 9 0 6 1 9 1 3 年 万 ト ン 主 要 国 に お け る 卸 売 物 価 指 数 0 1 0 2 0 3 0 4 0 5 0 6 0 7 0 8 0 9 0 1 0 0 1 8 7 3 1 8 8 2 1 8 9 0 1 8 9 6 1 9 0 0 1 9 0 7 1 9 1 3 年 指 数 イギ リス 合 衆 国 ドイ ツ フラ ンス イギリス=100としたときのドイツの鉄鋼業賃金比較 (1879-80年) 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 一人当たりの生産高 平均日賃金 労賃コスト イ ギ リ ス= 1 0 0 転 炉 部 門 軌 条 部 門 ロ ン ド ン に お け る パ ン の 価 格 の 推 移 ( 1 8 7 2 年 を 1 0 0 と す る ) 0 1 0 2 0 3 0 4 0 5 0 6 0 7 0 8 0 9 0 1 0 0 1 8 7 2 1 8 7 7 1 8 8 3 1 8 9 2 1 9 0 9 1 9 1 3 年 指 数 世 界 の 鋼 の 生 産 量 の 推 移 0 1 0 2 0 3 0 4 0 5 0 6 0 7 0 1 8 7 0 - 7 9 1 8 8 0 - 8 9 1 8 9 0 - 9 9 1 9 0 0 - 0 9 1 9 1 0 - 1 4 年 百 万 ト ン そ の 他 ア メ リカ ドイ ツ フラ ンス イギ リス

参照

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