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[Land Use in the Dry Zone of Madagascar ]

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東南 アジア研究 26巻4号 1989年3月

マ ダガス カル乾 燥地 帯 の土地 利用

雄 *

IJ&nd Use in the Dry Zone ofM&d&g&SC&r

Hisao FuRUKAWA*

Land in the drier partofMadagascar is predominantly used asgrassland,which has beencreatedthroughpastoralism.Africanpas・ toralists like Cushites and Nilotes are sup・ posedtohavemlgratedtoMadagascarinthe earlypartofthefirstmillenium,andtohave engagedinpastoralism andmilletcultivation. They also broughtin culturalelementslike the megalithic tomb,the notched stele,and theoffering ofa greatnumberofcattle to thedead.

Milletwas perhaps cultivated in two dif・ ferent ways:irrigated cultivation and dry cropping.Vary tsipy,which isnow practiced bytheBaratribe,givesacluetounderstand・ ing how the early mlgrantS practiced irri・ gatedmilletcultivation.Thecharacteristicfeat turesliein thecombination of(1)irrigation

Ⅰ 牧 畜 景 観 1 草 原 森林景観 を見なれた者に とって, マ ダガス カル全体 にひろが る草原景観 は全 く異国的で あ る。なだ らかな起伏 の高原は見わたす限 り *京都大学東南 アジア研究センター;TheCenter forSoutheastAsianStudies,KyotoUniver・ sity

352

on sloping ground, (2)cattle・trampling,(3) broadcasting ofseeds,and (4)treading・in of the broadcast seeds by another trampling. Asiatic rice, which probably reached to Madagascarlaterinthecourseoftradingcon・ tacts with Malayo・Polynesian peoples

,

was incorporatedintothismilletcultivationsystem・ Wetricecultivation seemstohaveexpanded tothevalleyRooronlyrecently.

DrycropplngOfmillethasbeendoneinthe driersouthandsouthwesternpartswherean・ nualrainfallislessthan500mm.Thechar ac-teristicfeaturesare(l)Scraping off ofgras・ seswithapaddle・shapedhoe,(2)dibblingof seeds into holes made by the hoe,(3)fe一一 tilizing soilswith cattledung which areap・ pliedbypennlngCattleinthegarden.

禾本科草原であ る。大陸的で単調 な地平線に は林が全 く見当た らない。 この景観 は人工的 な創 出に違 いない。人 と環境 の関係は,薄暗 い林 に とりか こまれた東南 アジア島峡部 と全 く達 うだろ う。 これ が 私 の 第一印象 で あ っ た。人工 とい うのは,林が成立 しえない程 の 乾燥気候 ではないか らであ る。 西南部 の半乾

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古川 :マ ダガス カル乾燥地帯 の土地利用 燥気候地帯で雨量 が

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を切 るのを除 く と,西部平原 と中央高原 の多 くは少 な くとも

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の 雨 が 降 る。 東 部 沿 岸 で は

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の雨 が降 る。 実際,林 は在 る。例 えば,ア ンタナナ リグォ

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か ら フ ィア ナ ラ ン ツァ

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へ 向か う国道 は, 数 カ所 で 林 を通過す る。 しか しこれ らの林 は 自然林 で な く,すべ て植林 した人工林 であ る。樹種 は きわ めて単純 で, ユーカ リ, ミモザ,松, ギ ンネ ムであ る。 フランス植民地 時代 に植林 さ れた と思われ る大木 も少数 あ るが,多 くは最 近 の植林事業 で植 え られた ものであ る。植林 事業 が始 まる前 の景観 は,それ こそ完全 な草 原だ った ろ う。草原 は多湿気候 の東岸 に も広 い。 この ことか らも,草原が人工景観 であ る こ とが判 る。 自然林 は2種類 あ る。ひ とつ は 東岸斜面 に, スマ トラや ボルネオには比較 し うべ くも ないが,熱帯降雨林 があ る。 も うひ とつは西 岸か ら南西部 の 沿岸地帯 に あ る 乾燥低木林 で,バ オバ ブや,多種 の- -フ ォル ピアが 目 立つ。 ファンツ ィルチ ャ

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, ユ ーフォル ピア の 一種)や,長 い 猫 の 尻尾状 で, ニ ラニ ラと風にゆれ て, ビロー ドの よ う に柔 らか く見え るが,そ の実,硬 い幹 に長 い トゲが密生 した ス ソゴ

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0, --フ ォル ピアの一種 で マ ダガス カルの固有種) な ど奇 妙 な種 があ る。 フ ァラフ ァツ

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と い って,バ オバ ブに似 た落葉樹 は比較的高 く な る。 これは材質が丁度バ ルサに似 て,柔 ら か く軽い ので,漁民 の ヴェズ

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族 が ア ウ トリッガー付 きの くりぬ き帆船 を作 るの に使 う。 マジ ュンガ

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の東部 に あ る石灰岩 台地 には シャッタ ナ

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といわれ る

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ヤシの一種が密生す る サバ ンナ景観 があ る。西南部乾燥地帯 には多 肉 の葉 を もつ小低木や, トゲ低木, きわめて 小型 の葉 を もつ低木 (常線 と思われ る)がふ える。 西か ら東へ横断的に見 る と,西岸部 には半 落葉低木林 が数

km

か ら 数十

km

の帯 を作 り, 内陸へ進 む と, あ る所 で突然,草原 に移 り変わ る。 この草原は中央高地 まで続 く。東 岸斜面 には丈 の低 い熱帯降雨林帯があ る。樹 高は

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を こえない。そ の林 にはべ ツ ミサ

ラカ

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や タナ ラ

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の人 々が行 う焼畑地 があ る。焼畑頻度が強 ま る と,旅 人木 の疎林 にお き代わ る。東岸沿岸 部 には, ライチ,丁字, コー ヒー, ヴァニラ 等 の園地 がかな り広 い。 しか し草原 も広 い。 この よ うに見て くる と,草原が 自然植生 で な く,森林 を破壊 して作 り出 した人為的植生 であ る ことが一層は っき りす る。 沿岸部,殊 に西岸 に 自然植生が広 く残 って い るのは, いかに も人為的で,残す ことには 明瞭 な意 図があ る と思 う。西岸 の半落葉低木 林 に住むサ カラヴァ

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や マ- フ ァ リ

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の人 々の話 しぶ りで注意 をひ くのは,林 を伐 開す ることに対 して異常 な恐怖感 を示す こ とだ。私 は これ を奴隷狩 り が行われていた時代 の遺風 と考 えてい る。林 のベル トは奴隷狩 りか ら身 をか くす シ ェル タ ーであ り, また無人地帯 を装 うカモ フラージ ュで もあ った ろ う。 2 牧畜- 草原景観 を作 る生業 マ ダガス カルの草原景観 を見た時, これは 牧畜景観だ, とい うのが私 の受 けた印象 であ った。 この ことは後 に農民 との対話で証 明 さ れ る。 問題 は多 くの研究者が この草原を焼畑 の結果 と考 えてい る ことであ る。 この見解 は 全 く間違 ってい る。焼畑耕作民 は これ程徹底 的に林 を根絶す る ことは決 してない。林 の再 生が速や かに進む ことを意 図 して,木株 を残 す のが普通だか らであ る。 林 の可及的速やか な再生 は,耕作期 間中にはび こった革 を退治 す る最 も効率的 な方法 なのであ る。 また,焼 353

(3)

東南 アジア研究 26巻 4号 畑耕作民 の伐開は これ 程 大面横 に は 及 ば な い。木 を伐 り倒 して よ く焼 くことが必要 なの で, この ことが伐開可能面積 を制限す るか ら であ る。 マダガス カルの場合, タナ ラ族 の住む地域 が焼畑景観 の典型例 を示す。景観 は全体 とし ては林 であ るが,高木林, ヤプ,焼畑地 な ど が い りま じ り, まだ らであ るO ア ラ (ala)と 言われ る高木林が最 も遷移 の 進 ん だ も の だ が, これはそれ程広 くない。最 も広 いのはサ グカ (savoka)といわれ るヤ プであ る。 これ は最近 の焼畑跡地 であ るが,放棄後

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年 もす る と

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を超 える低木常線林 にな る。遠望す る と,アラの深 い線,古 いサ グカの浅 い線,焼 畑作付地 に土 の褐色 な どが見れ る。 これ らが 斑点状 にい りま じる。それぞれ の斑点 の形 は はっき りした輪 郭を見せ る。 これ は伐開 ・火 入れ の際に火止め帯 を作 るので, その形 がお のずか ら休閑地 の輪 郭を きめ るか らであ る。 これ に対 し,サ カラヴァや バ ラ

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の よ うな牧畜民が行 う森林伐 開はそ の意 図が 全 く異な る,牧畜民は林 よ りも草原 を必要 と す る。最大 の理 由は見通 しの良 さを求め るこ とであ る。家畜 を飼 い,管理す るには,遠方 まで見通せ ることが何 よ りも必要 であ る。線 の草原をバ ックにす る と,群か らは ぐれた家 畜 を遠方か ら見つけ出せ る。林 は この点,都 合が悪 い。 したが って牧畜民 は林 を徹底的に 焼 き,広大 な草原を作 る。 乾季 の終わ る

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月中旬,草原 に火がはなた れ る。古 くなった禾本科 の草は葉が黄色 く枯 れ て硬 くな り,家畜が くわ な くなる。 また家 畜 の 目を突 く。そ こで,地上部 を焼 いて柔 ら かい新芽 を出 させ ることが必要であ る。黄色 く枯れた草原に火をはなつ と,火はた ちまち 草原 を走 る。 家 のまわ りのみは草 を刈 って火 止め帯を作 るが,それ以外 では火は 自由に走 る。政府 は地表植生 を焼 くことは,林 も草原 も禁止 してい るが, これは牧畜が マダガス カ 354 ル の重要 な生業 であ ることを全 く忘れた措置 であ り,人 々は この禁止を全 く無視せ ざるを えない。慣習ではむ しろ逆 に,草原焼 きのた めに誰かが放 った火は途 中で消 してはいけな い

。1

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月か ら

1

1月にかけ て草原焼 きが全国的 に行われ る。雨季 の雨が始 ま り,

2

週間 もす ると地下 に残 った地下茎か ら新芽が出て,草 原は柔 らかな新線 に変わ り始め る。 この事焼 きは毎年 くり返 され る。そ してそ の結果 は, 視線を さえぎるものの全 くない,地平線 まで つづ く草原を生む。 禾本科 の草は ブジャカ (bozaka)と総称 さ れ, Cymbobogon,Pasbalum,Androbogon

な どの草を主体 としてい るよ うに思 う。多 く の地域 では草 の株 と株 は連続 していて一面 の 草原だが,乾燥が厳 しい地方 は,革 の株が点 在 して,

1m

2当た り数珠程度 にな る. こ う な る と火を放 って も火が走 らず,草焼 きがで きない。西南部乾燥地帯 には こんな地域が広 い。牛はベ アソ (bean)とい うスべ リヒエに 似た多肉の草 を食 う。 ここには また, ジャケ ツイバ ラの類がふ える。点在す るタマ リン ド の葉 はヤギ, ヒツジが好 んで食 う。 こんな乾 燥地 は トゲ低木, ア ロエ, そ れ に シャク ア (sakoa) といい, イ ン ドネ シアのカ ドン ド ン (Kadongdong,

S

bondiasspp.) に似た 低木 の 目立つサバ ンナ景観が成立す る。 さて,牧畜 の作 り出す草原景観 は東 アフ リ カのケニアや タ ンザ ニアに も広大であ る。 ケ ニアの住民は農耕パ ンツ-

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と牧畜 を 行 う クシュ系

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部族が主体 と考 え られ て い る

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]。 マ ダガス カル の草原景観 をアフ リカ系 の牧畜民 の所産 と考 えるのは ご く自然だ と思われ る。 クシュ語族 が ケニア, タンザ ニアへ浸透 した のは紀元前

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年紀以前, ナイ ロー トやバ ンツーは紀元 後

3

世紀 には同 じく東 アフ リカ一帯 に到達 し ていた と考 え られ てい る [同所]。そ し て,

(4)

古川 :マダガス カル乾燥地帯 の土地利用

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の教 科書 では これ らの ア フ リカ系 部族 が マ ダガス カルへ直接移住 す るのでは な くて,紀元 前後 に イ ン ドネ シア系部族 とクシ ュ ・ナ イ ロー ト系 の混血 が束 ア フ リカ東 岸 で 生 じて, そ の子孫 が マ ダガス カル-移 住 した と考 え られ てい る。 彼 の想定す る移住 経過 は 大体 承服 で きる線 だが ,そ の年 代 は遥 か に さ か上 るだ ろ うと私 は思 ってい る。 いずれ に し て も クシ ュ ・ナ イ ロー ト系部族 が古 くマ ダガ ス カルに移住 し,牧畜 が主 で農耕 も行 う生 業 を形成 し, そ の過程 で, マ ダガス カル の草原 化 が生 じた と考 え られ る。 支 配部族 であ る メ リナ

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が 中央 高地 にや って来 た 時,森林 は既 に完全 に消失 し て い た で あ ろ う。彼 等 は定住 的農 耕民 で あ り,森 林 を これ 程完全 に根絶す る動 機 をそ の生業 に求 め られ ない。 ここで問題 にな るのは,牧畜 草原景観 -クシ ュ ・ナ イ ロー ト系 とい う図式 の適用可能 な地理 的範 囲であ る。 とい うのは, マ ダガス カル住 民 に イ ン ドネ シア要 素 が強 く, そ して 東 イ ン ドネ シアの フ ロー レス, ス ソバ, テ ィ モ ールな どにや は り牧畜 と草原景観 が広 い事 実 を考 え合わせ る と,上記 図式 が東 イ ン ドネ シアに もあては まるのか とい う疑 問が生 ず る わ け であ る。 要す るに,牧畜 を生 業 とす る ク シ ュ ・ナ イ ロー ト系部族 が マ ダガス カルを通 りこ して東 イ ン ドネ シア迄 広 が った のか,逮 に,東 イ ン ドネ シアの牧畜 が マ ダガス カル-伝わ った のか。私 が もつ イ メージは,西 か ら 東 へ 人 と牧畜 景観 が伝播 した とす る も の だ が, そ の道 に,東 か ら西へ の 伝 播 の 可 能 性 も, 今 の処 ,完全 には消 し去 れ ない。 とい う のは 巨石墓 と重合 した家畜 の大 量供蟻 が マ ダ ガス カルで よ く知 られ てい るが, これ は イ ン ドネ シアに事例 が多 い。私 自身 も観察 して い る。 東 ア フ リカで も報告 は あ る。 しか し, こ れ は 自分 の 目で は見ていない。 上記 の問題 点 をかか えてい るので, あい ま い さが残 るが,現時点 では一応 次 の図式 で現 在 のマ ダガス カルを とらえてい る。 ア フ リカ大陸要素 :草原景観, 肉食 (雑穀 食 ),牧畜民 アジア島峡 要素 :森 林 景観 ,米食 ,農耕民 雑穀食 に カ ッコをつ けた のは現在 のマ ダガ ス カル には殆 ど消失 して い るが,近 い過 去 ま では あ った とい う意 味 で あ る。 雑穀 は,米 が 卓越 化 す る前 のマ ダガス カルで重要 な作物 で あ った と推定 し,調査 中, た えず そ の有無 を 農民 にたずね たが ,必 ず しも肯 定 的 返 答 は え られ なか った。 ソル ガ ム が トゥリア ー ル

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近 くのマ シ ュ クール

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族 の常畑 で栽培 され てい るのを 見た程 度 であ る。 しか し, マ ダガス カル対 岸 の ケ ニアでは シ コ クビェや トウジ ン ビ-, ソル ガ ムが広 く 栽培 され てい る。 ポ コ ッ ト

(

Pokot

)

族地域 では シ コ クビ- のか んが い畑 も見てい る。 こ うい う事例 か ら考 え る とマ ダガス カルで も雑 穀 栽培 が最近迄行 われ ていた とす る想定 には それ程 無理 は ない と思 う。 逆 に,雑穀 の消滅 とい う現象 は, マ レイ圏 の影響 が特別 に強 い マ ダガス カル の特 徴 を指 し示 して もい る。 草原景観 に話 を戻 して, メ リナ族 到来 以前 の森 林 消失,草原化 を想定す る私 の仮説 に付 言 した い。 メ リナ の王 が木造宮 殿 を作 った こ とは, そ の頃 に林 が残 っていた こ とを示す と とらえ られ てい る。 しか し, 私 は 逆 に, こ れ は中央 高原 で木 材資源 が枯 渇 していた こ と を示す ものだ ろ うと考 えてい る。 そ の状況 が あ る故 に,平民 の泥壁 家屋 と顕 著 な対 照 を示 し,王族 の権威 を木造家屋 が象徴 的 に表 現 し た のであ る。

3

大規模牧畜 牧畜 は多 くの住民 に 必須 の 生業要 素 で あ る。 バ ラや サ カ ラヴァの よ うな牧畜民 に とっ 355

(5)

東南 アジア研究 26巻 4号 ては最重要 の位置 を 占め る。家畜はゼ ブ牛が 圧倒的 に重要であ る。 数十頭程度 の小規模 な ものが普通だが,数千頭を もつ大規模 な所有 形態 もあ る。牧畜形態 は規模 に よって全 く異 な る。 千頭以上 の牛を保有す る牛持 ちは,水 田蹄 耕 に使役す る数十頭 を村近 くの 牧場 に お く 外,大多数 の牛は村 か ら遠 く離れた放牧地 に 放牧す る。柵 は全 くない。牛は半ば野生状態 で生活す る。 自分 で仔牛を生み,人間の助力 も干渉 もな く仔牛は育つ。牛は財産 として保 有 され てい るのみであ る。搾乳用や 肉用な ど の用役対象 としては考 え られてはいない。 牛は町役場 に登録 され,一頭 ごとにパスポ ー トが発行 され る。所 有 印を耳 の切 り方 で明 示す る。切 り方 は部族 間で違 いが大 きい。牛 持 ちは放牧頭数 を役場 に申告 して放牧地使用 権 をえ る。土地 の質 に応 じて 広 さ は 変 わ る が

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頚 当た り

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で あ る。 半野生状態 の放牧牛 を捕 える際,牛持 ちは 水場 の水 に特殊 な薬 を まぜ る。そ うす る と牛 は匂 いで主人を見分 け,主人 に つ い て い く が,他人が捕 え よ うとして も牛は逃げ る。 こ うした牧歌的牧畜 は, しか し,今,大変 化を受 け よ うとしてい る。それは大規模 な牛 強盗団 の出現であ る。 有名 な牧畜地 帯である イホ シ

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で次 の よ うな話を聞いた。 この地域 の住民バ ラ族 には,成人儀礼 の一種 に,2,3頭 の牛を盗む習慣があ った。 これ は結婚す るには是非必要 な ことだ った。 とこ ろが,1983年頃か ら状況は一変 し,銃 で装備 し,車 を使 った強盗団が出現 した。強盗は一 時に数百頭 もの牛を盗む。持主が少 しで も抵 抗す る と銃 で うつ。人 々は明瞭 には言わ ない が強盗団は メ リナ族だ と思 ってい る。 メ リナ 族が,かつては他部族 の人間を掃 えて奴隷商 人に一人 あた り銃 1丁 で売 っていた頃の記憶 が よみが えった のであ る。 356 この武装強盗団は今や全国的傾 向にな って い る。その結果生 じつつあ る事態は,大規模 牛持 ち と牛を失 った牧畜民へ の分極であ る。 大牛持 ちは更 に牛がふ え る。 何故 か とい う と,強盗団は盗んだ牛 の移動 と販売に牛 のパ スポー トが必要 であ る。 しか し盗 んだ牛には 当然 パスポー トが ない。そ こで大牛持 ちに, 盗んだ牛 とパスポー トつ き牛 の交換 を依頼す る。交換率は

1

1

ではな く,大牛持 ちが儲 け る。大牛持 ちは非合法 の牛 を 放 牧 地 に 入 れ,暫 くおいて増加分 を新生仔牛 として登録 し,パ スポー トを える. この仕組みで,

5

千 頭以上 の牛持 ち も現れた といわれ る。 牛強 盗団の出現 に よって よみが えった人 々 の記憶 は,支配部族 メ リナ族が マ ダガスカル で 占めていた位置 を考 える上で大変示唆的で あ る。 メ リナの全国支配は18世紀 に完成す る が,そ の中核地域 には戦闘に関す る地名が き わめて多 い。征服民族 として, メ リナ族 は強 力な戦 闘集団を もち,その力で全 国を統一 し た。 もっ とも実際 の戦闘は少 な く,戦力を誇 示 した威嚇 と友好 を求め る外交技術で屈服 さ せた と言われ る。そ の戦力は奴隷狩 りに よっ てえた銃 火器 であ った。か つ て は 人間 を 捕 え,今は牛を盗む。征服民族た る由縁であ る。 4 小規模牧畜 普通規模 の牧畜 の様子を次に見 よ う。 イホ シの アムバ ララタ (Am

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村 のバ ラ 族 の事例 であ る。 この村 は小 さな シンクホー ル (直径 数

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程 度)が無数に あ る平坦草原 にあ る。中央高原か ら西南岸 の トゥリアールへ向か う国道沿 いに数列並 んだ 土壁家 の背後 に牛柵 があ る。牛 の頭数 は算 え られ るもの (合法的牛 ?)が約

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頭であ る。それ以外に放牧牛 もい る。人 口約

5

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人 の村 の村長 の話は次 の とお りであ る。 1) 朝,牛柵 (vala)か ら牛 (omby) を 出 す 。牛柵 は

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個 あ る

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柵 には

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頭 の

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古川 :マダガスカル乾漁地帯の土地利用 牛 を収 容す るo雄牛 は殆 ど去勢牛 (vosiira) であ る。種牛 (ombilahy) は 雌牛 と 同 じ 牛柵 に入れ る。仔牛 (zanakomby) と母牛 は柵外 につ な ぐ。 2) 柵か ら出 して,昼 間は牧場 (kizana) に お く。 種牛一雌 牛群 と去勢牛 はや は り別 の 場所 にお く。 一昔前 は牧場 で見張 りは しな か ったが, 今は短 い槍 と牧 杖 を もった牧童 が見張 る。 牧場 の草は豊富 にあ り,草場 争 いはない。 3) 一年 の重要 な仕事 は,11月-3月が水 田蹄 耕,仔牛 の出産が10月-3月,去勢 を 行 う のが 4月-8月,搾乳 は12月-7月。牛 の生 育段 階毎 の呼称 は,乳 は なれ の終わ った仔 牛 が maota,

1

歳半 か ら

5

歳 まで を ti m-boay, 5歳か ら6歳牛 を sakana, そ の後 雌牛 は妊娠 可能 とな り,tamana という . 雌牛 で仔牛 を産 めない ものは sakaira とい って去勢牛 と一緒 に して,蹄耕 に使 う。

4

) 5,6

歳以上 の

t

amanaは毎年 出産す る。 出産後 一週 間 の ミル クは黄 色 く,飲 め な い。 これ は煮 固め て食べ る。 ミル クは最近 迄無料 で,誰 の牛 を搾乳 して も許 された。 しか し,今は状況が変わ り,搾乳 した ミル クは売 る。 搾乳 の際 の 容器 は ヒ ョウ タ ン (lima) を使 う。 酸乳 (abobo) 作 りもヒ ョウタ ンを使 う。 これ は ミル クを

2

日お く とで きる。毎 日食べ残 した abobo に ミル クをつ ぎ足 していれば腐 る こ とは な い。 abobo は往時は重要 な食料だ った。 5) 牛持 ちが亡 くな る と,牛 は供犠 し, 肉は 葬儀参会者 に配 る。 角 は墓 の積 み石 の上 に 並べ る。 6) 雨季,去勢牛 は水 田蹄耕 (manosy)に使 役す る。作業 は11月に始 め る。蹄耕 で地拾 えす る と,移植す る。 しか しこの地域 では 農業 はそれ程重要 な位置 は 占めていなか っ た。最近迄 はあそび程度だ った。彼等は 自 分達 を牛飼 いだ と思 ってい る。 牛 を飼 う目 的は販売用 とか, ミル ク, 肉の利用 の為 で はない。牛 を飼 うことが生活 そ の ものであ る。 牛 を売 ることはあ るが,それ は病人 に 金がかか る とか,服 を買 うとか,祭儀 に出 費がい るな どの場合 であ る。 したが って牛 の数 は次第 にふ えるのが普通 であ る。 とこ ろが最近,牛 が減 って きた。主食 の米 を買 うには牛 を売 らねば な らない。牛 を売 りた くないので,米作 りに も力を さ くよ うにな った。 この よ うに,個 々の牛飼 いが売 る牛 の数は 一定 していない し,少数 であ るが,村 々を巡 回す る牛 の仲買人がい る。仲買人は多 くの村 か ら牛 を買 い集め,牛市 -運ぶ。各地 に大小 多 くの牛市 が あ る が,最大 の 牛市 は 2ヵ所 で,南部地 域 の牛市 のセ ンタ-のア ンバ ラヴ ァオ

(

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と, 西部 の牛市 のセ ン ター, ツ ィル ア ヌマ ンデ ィデ ィ

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であ る。 数 百頭 の牛 キ ャラバ ン が牛市へ数百

km

の行程 を歩 く光景 は 日常的 に見かけ る。 ア ンバ ラヴァオの町 の南 はずれで,牛市 の 前 日にキ ャンプを張 っていた

3

人 の牧童か ら 聞いた話 は次 の よ うな ものであ る。 1) この牛 キ ャラバ ンは南部 の ア ンポ グォン べ

(

Ambovombe)

か らアンバ ラヴァオの 牛市 へ運ぶ500頭 であ る。数十 人 の仲買人 が加わ る合 同キ ャラバ ンで,

3

人 の牧童 の ボスの牛は

2

0

頭。 アンタナナ リグ ォの仲買 人か ら注文 を受 け て, べチエ カ

(

Bet

r

oka)

で集 めた。 ア ンノミラヴァオの牛市 で注文主 に引 き渡す 。 2) 牧 童が牛 キ ャラバ ンに従事す るのは月に 1回であ る。 ア ンボ グォン べ か らの キ ャ ラバ ンに2週 間かか り,牛市 に 3日滞在す る。村へ戻 る と牛集 めに10日費やす。残 り の

3

日は村 で耕作 の仕事 をす る。 3) キ ャラバ ンで運ぶ牛 の用途 は, 肉用, カ ソヅメ用,蹄耕 用,牽 引用, それ に雌牛 は 357

(7)

東南 アジア研究 26巻4号 搾乳 用 もあ る。

4

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べ ツィレオ地 域 のア ンツ ィラべ

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の農民 はキ ャンプ時 の牛糞 を集 めて 肥料 にす る。そ の為 に牛柵 を 用 意 し て い て, キ ャラバ ンの牛 をそ こで宿 泊 させた牧 童 に食事 の接待 をす る。 以上 の二つ の話 で語 られ る牧畜 の内容 は, ケ ニアな どで よ く知 られ てい る牧畜 の内容 と はか な り異 な り, む しろ,東 イ ン ドネ シアの それ に最 もよ く似 てい る。東 アフ リカの事例 との相違点 を ま とめ る と,第 1にマ ダガス カ ルで は乳製 品の利用 が限 られ てお り,酸乳 と 生乳 の利用程度 であ る。 ギ ーや チ ーズは アフ リカの牧畜 では ご く一般的 らしいが, これ ら はマ ダガス カルには な さそ うだ。尤 も搾乳 と ミル クの短期保 存 に ヒ ョウタ ン容器 を使 うの は同 じだ。東 ア フ リカでは これ をギ ー作 りの 際 の振 りまぜ操 作 に も使 う。第2に ミニチ ュ アの弓矢 で牛 の頚部 を刺 し,血 を ヒ ョウタ ン に受 け て, ミル ク同様食料 にす る とい った習 慣 はマ ダガス カルにない。第

3

に移牧 が殆 ど 行われ ない。村 も移動 しない。原則 として牧 畜 は村近 くの牧場 で行 う。乾燥 が強 く,草が 不足す る年 にのみ,草 を求めて移動 し,牧童 のみが村 か らはなれ てキ ャンプ生活 をす る。 第

4

に牛 を牛革 の牽 引用 に使 うが, これは東 ア フ リカでは稀 であ る。 以上 の相違点 に も拘 わ らず, マ ダガス カル の牧畜 は東 アフ リカの牧畜 の影響下 に成 立 し た ものだ とい う想定 は消 えない。最 も大 きな 共通 の要素 は両者 に またが る広大 な草原景観 であ る。 これ は共通 の祖先 が作 り出 した景観 だ と思 う。私 の想定 してい るのはナ イ ロー ト 系 の部族 で あ る。彼等 は牧畜 を主体 とす るが 穀作 も行 な っていた とされ る。 南下 した ナイ ロー ト系部族 が東 アフ リカか らマ ダガス カル に展 開 し,環境適応 の形 で,地域毎 に異 な る 生業形 態 に移行 した のではなか ろ うか 。例 え ば, トウル カナ

(

Tur

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族 や, マサ イ 358

(

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)

族 は牧畜 を継東 し,特化 させた の に対 し, ポ コ ッ ト族や メル

(

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族 は雑 穀栽培 を発展 させ た。 ポ コ ッ トの雑穀栽培 に はか んが いす ら見 られ る。同様 にマ ダガス カ ルでは,例 えばバ ラ族 は牧畜 とかんがい雑穀 栽培 を複合 したが, よ り乾燥 の厳 しい西南部 の トゲ低木林 に住 む ア ン タ ン ル イ

(

Ant

an-dr

oy)

族 は乾燥農法 で行 う雑穀 栽培 を発展 さ せた と想定 してい る。 巨石文化 の影響 を示す葬墓 と,牛 の大量供 犠 が マ ダガス カルか ら東 イ ン ドネ シアにかけ て分布す るが, 同様 の民俗例 は ナイ ロー ト系 諸部族 につ いて詳細 な 報 告 が あ る

[

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1932]。それ に よる と, ス

トソ ・サ ー クルや ドル メン,犠牲 牛 の角 をか け る柱,彫刻 を施 した基柱,葬儀 の牛供儀 な どが ス ーダンのナ イ ロー ト系部族 の シル ック

(

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,デ ィソカ

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,バ リ

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(

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な どに見 られ る。 スー ダ ン ・ウガ ンダ国境地域

(

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の ボ ンゴ

(

Bongo)

,モ ロ

(

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族 の墓 は報 告書 の写真か ら見 る と,大量 の石 を積み,切 りこみ を入れた墓柱,人物像 を刻 んだ墓柱 を 立 て るな ど, マ ダガス カ ル の 状況 に 幣 似 す る。 彼等 の生業 は 牧畜 と雑穀 栽培 で,例 え ば, アザ ソデ

(

Az

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族 は崖敷地 の まわ りに トウモ ロコシ,ミレ ッ ト,エ ン ドウマ メ, 油料作物 を, 中央部 にサ ツマイモ, ア ロール ー ト,バ ナナ, イチ ジ クを植 え る [同上書 : 498

]

ナイ ロー ト系 の もつ 巨石文化 を

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1959]は巨石 クシュ

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文化 に由来す る と考 えてい る。 巨石 クシ ュ文 化は牧畜 と雑穀栽培 を もち,段畑 ,かん が い,厩肥利用 の技術 な どを紀元前1000年紀 にはエチ オ ピア南部か ら南下 して, ケニア高 原迄 もた らした と考 え られ てい る [岡上書 : 193-203

]

要す るに, クシ ュ ・ナイ ロー ト系 の牧畜 ・

(8)

古川 :マ ダガス カル乾燥地帯 の土地利用 雑穀 栽培文化複合 が古 くに マ ダガス カルに入 って,牧畜景観 を作 り出 して い た と い うの が,私 の現在 の仮説 で あ る。

ヴ 7 リ ・ツ ィピ

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- 稲 作 と牧 畜 の遭 遇 1 ヴァ リ ・ツ ィピとは ? 牧畜 民 の行 う稲作 には我 々の想像 を絶す る ものが あ る。 そ の一例 がバ ラ族 の行 うヴァ リ ・ツィ ピとよばれ る水 田耕作 で あ る。 そ の特 徴 は簡 単 に言 うと乾燥地帯 のか んが い畑作 で あ る。 そ の例 を次 に見てみ よ う。 ア ンバ ラヴ ァオか らイホ シ- 向か う国道 は イホシ附近 で きわ めてゆ るい波状地 草原 を通 過す る。 あ とで判 った ことだが, ここに もヴ ァ リ ・ツ ィ ピ田が あ った の だ。 イ ホ シ の 西 で,一挙 に

3

0

0m

の崖 を登 る と,そ こは また ゆ るい波状地 の大平原 であ る。 乾季 には ここ は完全 な草原 で あ る。 しか しよ く見 る とあ ち こちに奇妙 な穴 が あ る。 直径10乃至20m, 深 さ

5

0c

m

以下 の これ らの穴 は シン クホ ール であ る。 地 質 は片麻岩 だが, そ の中 の石灰分 が溶食 され て生 じた穴 であ る。 そ こには稲 ワ ラや株 が残 ってい る。 幾 つか の穴 は細 い溝 で 結 ばれ ていた り,凧 の ア シの如 く伸 びた溝 を もってい る。 これ は地表 水 を集 め て穴 にか ん が い水 をた め よ うとい う工夫 であ る。雨季 に は,周 囲の草原 の放牧牛 に踏 ませ て地 拓 えを し, そ こに散播 した り,苗 を移植 す る。 この大平原 は 約

3

0km

西 の イ シャ ロ (Ⅰ・

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の森 まで

1

枚板 の片麻岩 であ る。 節理 部分 には谷が刻 まれ ている 。 谷 は平担面 か ら 約20m 程 の深 さだ。谷 の両側 のゆ る い 斜 面 は乾季 には禾本科 の草原 であ る。 しか し雨季 に は,この斜面 が水 田に変貌す る。 この水 田 を ヴァ リ ・ツ ィ ピとい う。 イ ヴァル

(

var

o)

の村 で見た ヴ ァ リ ・ツ ィ どの見取 図 をあげ ておいた。谷 の数

km

上 図1 バ ラ族のヴァリ・ツィピ田模式図 イホシ西のイヴァル村 流 に堰上 げ堤 を作 り, 幅

1

.

5m

,深 さ

5

0c

m

程 の小 さな水路 で水 を引 く。水路 は丁度 谷 の 肩 口につけ る。谷 の両側 には こんな水路 が何

km

も続 く。 水路 には谷側 の壁 に小 さな水 口 を切 る。 この水 口か ら水が とび出 る。 この ま まだ と水勢 が強す ぎるので,水路沿 いに1枚 だけ棚 田を付 け る。 ここで水勢 を弱め られ た 水 は,

2

,3m

お きに切 られた水 口 か ら斜面 を流れ下 る。始 めは細 い水流だが,す ぐ扇状 に開 いて,斜面 を薄 い水膜 で覆 う。 この濯 水 を行 う前 に草 を刈 っては いけ ない。草 が あ る ことは障害 ではな く,草 の根 が土 を しっか り と保持 して, 流れ下 る水 で侵蝕が起 こ らない よ うに, む しろ必要 とされ る。 水路 の末端 を 見 る と実 に面 白い。水路 は草原 の中で唐突 に 終わ ってい る。 そ こか ら先 は元 々そ うであ っ た よ うに草原 であ る。 流れ下 る水膜 で うるお され た所 までが水 田であ る。 そ の境 には畦 も 溝 も何 もない。 359

(9)

東南 アジア研究 26巻4号 半 日,草原斜面 を潅水す る。斜面 の土は平 頂部 の赤 い ラテ ライ ト質土 と違 って黒 い粘土 であ る。黒粘土は水を吸 ってふ くれ る。そ う する と,周 囲の草原か ら牛を集め る。 放牧地 だか ら,牛 は沢山い る。 これを潅水 した斜面 に追 い こみ,追 う。我 々が見た蹄耕 では,実 に

3

0

0

頭 の牛が

1

0

列編隊で,行 きつ戻 りつ し ていた。大勢 の牧童が これを追 う。時 には背 中の コプに右腕 を まわ してかか え こむ。牛は これ を嫌 って角 を振 り,す ぐ前列 の牛 のす き 間へ も ぐりこも うとす る。牧童 は叫び声をあ げ なが らとびの く。 これだけ多 くの牛蹄で踏 まれ る と,黒粘土は忽 ち泥 にな る。

3

町歩が 1時間程 で地掃 え終了す る。 そ うす る と, カ ゴに入れた乾燥粗 を泥 の上にば らま く。 これ も大変能率 よく進む。ば らまきが終わ る と, も う一度,牛群 を追 い こ ん で,泥 を 踏 ませ る。 これ は,粗 を泥 の中にお しこむためであ る。 この覆土用 の蹄耕 は東南 アジアには見な いが,古代 エ ジプ トや メ ソポタ ミアでは知 ら れ てい る。 2 棚 田その他 の技術 ヴァ リ ・ツィピは作業が簡単で,手 間がか か らない。 しか し欠点 もあ る。それは,土壌 侵蝕 の危険があ るので連続的植付けがで きな い ことであ る。 3年植 え付け る と,2年休閑 して,草 の根が張 るのを まつ必要があ る。 も し連続的植付けを行 いたい場合は土額侵蝕を 防 ぐ方策 を施す。その方策 とは棚 田を作 るこ とであ る。 棚 田は大変細長い。地 な らしは全 く行わない。瞳 を盛 るだけであ る。地掠 えは ヴァ リ ・ツィどの場合 と同様 に行 う。植付け は移植 と散播 と両方が あ る。移植 の場合 の苗 代 は水苗代 であ る。 米の品種 は, イ ヴァルの ヴァ リ ・ツィピ田 では長粒 のイ ンデ ィカ種

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とよ ばれていた)が使われていた。勿論, マダガ ス カル全体 を見 る と丸 い粒形,長粒形 な ど様 360 々であ るo伝統種 で

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つ ま りマ ダ ガスカルの米 とよばれ て い る も の は 大粒形 で,淡赤 色 の皮があ る。 ヴァ リ ・ツィどの収穫 は

4

月に鎌 で行われ る。刃に鋸歯 はない。脱穀 は2方法 あ る。ひ とつは稲束 を石 に打 ちつけ る。他 の方法は脱 穀場 に稲束 をつみ,牛 にそれ を 踏 ませ る方 汰,つ ま り牛蹄脱穀であ る0枚 は カゴ

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に入れ,高床米倉 に納め る。

3

ヴァ リ ・ツィピ田の分布 イヴ ァル村 の定着は

1

91

9

年だ とい う。現在 国会議員 の レニッィ氏が村長 に推 された のは

1

9

61

年 であった。氏に よる と,当時既 にあ っ た水路 を延 長 した と言 う

。1

9

5

8

年編集 の地形 図で見 る とイ ヴァルの ヴァ リ ・ツィピ田はか な り小規模だ った よ うだ (図2)。 しか し, ヴァ リ ・ツィピ型 の稲作 は きわめて古 い と考 え られ る。 イホ シのアンキ リ郡郡長は, ヴァ リ ・ツィ ピをバ ラ族 の稲作法だ とい う。そ の分布 は, 西は ラヌヒラ

(

Ranohi

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,北 はザザ フツィ

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2

0km

北 ま で,東 は ヴソ ドゥル ズ

(

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で囲 まれた地域 に 且 られ, 中心は イ ヴォヒべ

(

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)

であ る。地形 図を見 る と, イ ヴォヒべ地域 は トレ リス模様 の小川が無数 にあ り, ヴァ リ ・ツィ ピを行 うのにいかに も適 当な立地 であ る。 郡長はバ ラ族 の稲作 とい うが,同様 の稲作 法は ツ ミ-テ ィ

(

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y)

族 に もあ る。 平坦谷底-下 り切 る手前 の斜面が本来 の水 田 立地 と考 え られてい る。 この斜面上端 の傾斜 変換線 に水路を通 して,その水路か らやは り 同様 に水を流下 させ て蹄耕す るのだそ うだ。 しか し,散播後 の覆土用蹄排は行わ ない。現 在は谷底低地 に も水田が開かれ てい るが, こ れは新 しい ものであ る。 バ ラ地域へ移住 した べ ツィレオ族 もヴァ リ ・ツ ィどの変形法 を行 なってい る。イホシの

(10)

古川 :マダガスカル乾燥地帯の土地利用

2

ヴァリ・ツィピ田の分布 (網部分)

(CartedeMadagascarau 100,000E,1958.∫-56国幅により作成)0

等高線は50m 間隔。

東 , ア ンカ ラメナ

(

Ankar

ame

na)

周辺 には べ ツ ィレオ族 の移住 者 が多 い。 この地 域 は山 が ちで あ り, 山麓斜面 上部 は棚 田で あ るが, 下部 と谷 の斜面 には所 々傾 斜草地 が あ る。 こ こをか んが い ・蹄耕後 ,水 の流 れ下 る田に苗 を移植 す るのであ る。 草地 か ら棚 田へ の変 換 が生 じた のは最近 だ と思わ れ るが,最初 の段 階 はバ ラ流 の ヴ ァ リ ・ツ ィ ピを行 な っていた ので あ る。 棚 田- の 変換 は斜面 上部 か ら始 まってい る こ とが面 白 い。 これ は ヴ ァ リ ・ツ ィピ田 の水路 を山麓 斜 面 上端 の傾斜変換 線 に とおす こ とと関係 して い る と思 う。 上記 の例 は マ ダガス カル の水 田 の初期形 態 とそ の拡大過程 に示 唆 を与 え る。 メ リナや べ ツ ィレオ族 が渡 来 した時,行 わ れ ていた のは 多分 牧畜 民 に よる ヴァ リ ・ツ ィ ピ型 の雑穀 栽 培 であ った ろ う。 メ リナや, べ ツ ィレオは陸 稲栽培 を もた らす が, やが て, ヴァ リ ・ツ ィ ピ型 か んが い畑 で の稲 栽培 を始 め, 草地 にそ の耕地 を開 き始 めた 。水路 を山麓 斜面 上端 の 傾 斜変換 線 に引 き, 水路 よ り下 の斜面 で ヴ ァ リ ・ツ ィ ピ栽培 を行 う。後 には, これ は棚 田 に変換 された。谷底湿地 は この よ うな変換過 程 の最後 に水 田化 された と思われ る。 ア ソジ

アナ ムポイ ニ メ リナ 王

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が ア ン タ ナ ナ リ グ ォ の イ クパ

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川 の後 背湿地 を排 水 して水 田を開 い た故 事 は この最後 の過程 を示 す ものだ 。

4

ヴァ リ ・ツ ィ どの解釈 ヴァ リ ・ツ ィ どの特徴 を整理 してみ よ う。 ① 畦 のない山成 りの傾斜 草地 で ② 水路 か んが いを行 な って稲 を栽培す る 361

(11)

東南 アジア研究 26巻4号 ⑧ 地拷 えは牛 の蹄耕 に よる (参 散播法で播種す る (参 粗踏み こみを蹄耕 で行 う この稲作は ど う位置づけ られ るのか。いわ ゆ るマ レイ型稲作 とど うい う関係 に な る の か。 この議論を きちん と展開す るには,多 く の要素 の地理的分布 を整理す る必要があ る。 例 え ば 収穫法, 脱穀法, 貯蔵法, 稲品種 な ど,稲作 の技術的 な面, また炊飯法,醸造法 な ど米 の利用 に関す る技術,それ に儀礼や神 話 な ど民俗的な側面 の整理 も必要であ る。 し か し,それは この小論 の枠 をは るかに超 えて い る。 ここでは上記5点に限 って検討を加 え よ う。 かんがい と地捧 えの廊耕 はて レイ地域 に広 く見 られ る。 しか し蹄耕後 の散播 は東 イ ン ド ネ シアに見 られ る他は少数例だ。覆土用 の蹄 耕 はマ レイ地域 では全 く事例がない。 ここで 議論 の分 岐点は蹄耕が マ レイ農耕起源 なのか 否か とい う点であ る。要す るにマ ダガスカル の蹄耕 はマ レイ世界か ら受け とった ものか, それ とも他 の地域か ら来た ものかであ る。 蹄 耕は,牧畜,つ ま り家畜 の馴化 と穀物栽培 の 素地 の上 に発生 しえる技術であ る。 世界的に 見 る と牧畜 も穀物栽培 も最 も古 い歴史 を もつ のは西 アジアであ る。かんがいに よる穀類栽 培が紀元前6000年 にはそ こ で 完成 され て い る

牽 引牛 に よる筆耕 の証拠 は紀元前4000年 紀には出土 してい る。西 アジアの穀類栽培 は この時代 に完成 された方法で現在 も行われ て い る。蹄耕 の記塚 は紀元前3000年紀 の メソポ タ ミアにあ る。歴史 をふ まえる と,蹄耕 は西 アジアか ら穀物栽培 と一緒 に他 の世界へ伝播 した と考 えるのが最 も素直 な解釈 であ る。 マ レイ農耕 と私 は書いたが, この言葉 には 二重 のまやか しがあ る。ひ とつはマ レイ とい う単一 の民族要素があ るか の如 き錯覚 を与 え るが,実際にはマ レイ人を定義す ることは き わめて難 しい。バ タ ック,ス ソダ, ジ ャワ, 362 マル クーな どと細分 し,且つ,中国系, ア ラ ブ系, イラン系, イ ン ド系, チ ャムパ系,パ プア系, ポ リネ シア系 な どとい う形容詞をつ け ざるをえず,そ うなる とマ レイ とい う言葉 は不要 であ る。マ レイ とい うのはマ レイ語が 通用す る 「場」 を指す分 には使 えるが,単一 の民族要素 を含意す るには甚だ都合 の悪 い言 葉であ るC また マ レイ世界 の生態環境 を表現 す る場合 も問題が生ず る。スマ トラ, ボルネ オの如 き熱帯降雨林 と中 ・東部 ジャ ワか ら小 ス ソダ列 島のサバ ンナ気候が含 まれ, どち ら を指 してい るのか判 ら な い。雨林 マ レ イ と か,サバ ンナマ レイ, な どと区別 しない と, 「マ レイ農耕」 の内容は何 を さしてい るか全 く意味不 明であ る。雨林 マ レイを意味す る場 令,現在で もその農業 は森林産物 の抽 出を主 な内容 とす る。 そ こは元来農耕 の世界 とは次 元が異な る。 サバ ンナマ レイ を 意 味 す る場 令,穀作 の農耕要素は西 7.プア, アフ リカの サバ ンナ農耕か ら受け とった ものがすべ てで あ って, 「マ レイ農耕」 に起源す る穀作要素 は まず ない。穀作を対象 に 「マ レイ農耕」 で マ レイ独 自の耕作 を合意す る の は 無 理 が あ る。 穀作,かんがい,多数 のゼ プ牛蹄耕,散播 とい う要素は乾煉サバ ンナ地帯の,牧畜 とか んがい穀作農耕 を もつ文化 に由来す るものだ ろ う。 このタイプの生業はナイ ロー ト・クシ ュ系諸部族 に よって グレー ト・リフ ト・ヴァ リ-へ,更 にマ ダガスカルへ伝播 された と私 は想定 してい る。 米が到来す る以前 の穀物 は多分 キ ビ, ソル ガム, シコクビ-な どだ った ろ う。そ して, 斜面でのかんがい,蹄耕 ,散播,種子 の潜み 込みな どは既 にその時点で確立 していただろ ラ, くり返すが,蹄耕 を稲作 との関係でのみ 考 えるのは まちがいだ とい うことであ る。そ れは古代 のメソポタ ミアやエ ジプ トで麦栽培 に使われた技術 なのだ。

(12)

古川:マダガスカル乾燥地帯の土地利用 米が マ ダガス カルへ渡 来 した年代 につ いて 考古的資料 は何 もない。 しか し, 草原景観 , 巨石墓 と複合 した大 量 の家畜供儀 ,牧畜形 態 な どを考 え る と,東 イ ン ドネ シア とクシ ュ ・ ナ イ ロー ト系 の類似性 が注 目され るO 東 ア フ リカか らマ ダガス カル,東 イ ン ドネ シアの地 域 にわ た って, 巨石文化期 以降 には確実 に共 通 の文 化 圏が存在 し, そ してそ の中で東 イ ン ドネ シア とマ ダガス カル にはぼ 同時期 に米 が 伝播 した と考 えた い。米 は雑穀 の一種 として 受 け入れ られ, か んが い,蹄耕 ,散播 ,牛蹄 脱穀 を行 う雑穀 栽培体 系 の中 に組 み こまれ た ものだ。

乾 燥低 木 林 で の乾燥農耕 - ア ンタンル イの事例 1 ア ンバ ニ ヒ (Ampanihy)村 西 岸及 び西南 岸 に乾燥低木林 の帯 が続 くこ とは先 にふれ た 。植生 相観 は落 葉及 び中葉常 緑樹 か ら成 る。バ オバ ブ, ユ ー フ ォル ピア, ア ロエ の頻度 が高 い。海 岸美 近 で は 植 生 は

Ⅹerophytic-halophytic (極 竜一塩生植生 ) 相 を示 し,畢生 化 と極小 葉 常線樹 ,ーそれ に ト ゲ低 木 が 目立 つ 。 この乾燥低木林 に も数部族 が居住 し,乾燥 農耕 と牧畜 を行 な ってい る。 ア ンタ ンル イ と マ- フ ァ リの部族 であ る。 ア ンタ ンル イは文 字通 りには トゲ低 木林 に住 む 人 々の意 味 で あ る。 バ ラ族 の地 域 が比較 的大 きい雨 量 を もつ のに対 し, ア ンタ ンル イ族 の地域 は500mm 以下 で あ る。そ のため に この地 域 の川 は ワジ 川 が多 く,地表 流 か んが い農業 は不 可能 で, 乾 燥農耕 に依存 せ ざるを えない。 牧畜 は も う ひ とつ の主要 な生 業 で あ る。 重要 な ポイ ン ト は農 ・牧 複合 に よって この常 畑 の肥沃度維 持 が はか られ て い る こ とで あ る。 農 ・牧 複合 の 生 業形 態 は メ リナや べ ツ ィレオの場 合 と同 じ で あ るが, 農 ・牧 複合 の形 態 が異 な る。 メ リ ナや べ ツ ィレオは屋 敷地 に石 囲い の牛舎 を作 り,牛糞 を畑や水 田の肥料 に利用 す る。 しか し, ア ンタ ンル イ, マ- フ ァ リには牛糞施肥 の慣行 は ない。 これ はあ とで述べ るが, サ ボ テ ンをめ ぐら した常畑 が 同時 に牧 場 で もあ る とい う状 況 に よる。 農 ・牧 複合 に も種 々の形 態 が あ る こ とがわ か る。整理 してみ る と次 の よ うな図式 に な ろ う。 バ ラ :草原,牧 畜主体 , か んが い畑 作 (雑 穀 ) の延 長線上 にあ る稲 作 を もつ ア ンタ ンル イ, マ- フ ァ リ :トゲ低 木林, 牧 ・農複合,乾燥 農耕 に よる根栽 ・ 雑穀栽培 ,畑 -牛柵 メ リナ, べ ツ ィレオ :草原 と林, 農 ・牧 複 合 ,畑 とか んが い水 田,屋敷地 に牛 舎,但 し牛 柵 ・畑輪換 もあ る。 結 論 が先 走 ったが,西南部 の ア ンバ ニ ヒ村 で乾 燥農耕 の状況 を見 よ う。畑 の見取 図は図 3に示す 。 この畑 の耕 作法 は以下 の とお りで あ る。 1) 主食 は マ ニオ ク, トウモ ロコシ, サ ツマ イモであ る。 畑 はサ ボテ ン, ユ ー フ ォル ピ ア,低木 で 囲 まれ る。畑 に は ヴ ア ネ ソバ (voanemba

,

Pha.qeolousの類), ピーナ 、ソ ツ, ス イ カ も植 え る。 こ の 畑 は 施肥 も牛 柵一畑輪換 もな しに永年耕 作 を す る。 そ の 他 の野 菜 (換 金作物) は ワジ川 の近 くに作 った柵 囲い畑 に植 える。 そ の畑 は牛糞 を施 肥 す る。 2) 雨季 の初 め,畑 を ア ンガデ ィ (angady) で耕作す る。 ア ンガデ ィは マ ダガス カルで 最 も主要 な農 具 で,

1

.

8m

程 の長 い柄 をつ けた擢 型鋤 で あ る。 土 の上 に座 りこんで, 長 い柄 を水平 に く り出 し, ア ンガデ ィを水 平 に前後 させ て,草 の生 えた表 土 を削 る。 この ア ンガデ ィ操 作 を ミシ ュ-ル カ (mis -oroka)とい う。土 は砂 質 で あ るので, 掘 り 起 こす こ とは しない。 ア ンガデ ィで土 塊 を 掘 り起 こす操 作 は ミヤ シャ (miasa) とい 363

(13)

東南 アジア研究 26巻4号

Euphorbia

サボ テ ン マ ンゴ タマ リン ド .-_TI._= 堆砂 100 M v 作付地 ↓レ 革地

Jatropha 十l十 木柵

置石 図3 ア ンタ ンル イ族 の乾 燥農耕 畑模 式 図 ア ンバ こ ヒ近 郊 (1986年 12月4日)0 畑 1豆 , ピー ナ ッツ, マ ニオ ク 2 マ ニオ ク, 豆 , ピー ナ ッ ツ 3 マ ニオ ク, 豆 , ピー ナ ッツ 4 マ ニオ ク, 豆 5 マ ニオ ク, 若 い トウモ ロ コ シ 6 マ ニオ ク, 若 い トウモ ロ コ シ 7 若 い トウモ Tlコ シ, ス イ カ 8 若 い トウモ p コ シ 9 マ ニオ ク, 若 い トウモ ロ コ シ 10 若 い トウモ ロ コ シ, マ ニ オ ク 11 若 い トウモ ロ コ シ 12 マ ニオ ク

(14)

古川:マダガスカル乾燥地帯の土地利用 われ ,水 田や粘土 質 の畑 で広 く行 わ れ る。

3

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2

月 に,

1

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程 に切 り揃 えた マ ニオ ク の茎 を植 え る。雨 が充分 あ りそ うだ と, トウモ ロコシを点播す る。 ア ンガデ ィを突 き立 て,柄 を軽 く前 へ押 して穴 をあけ るの で,若 干 の耕起効果 が生 まれ る。 この穴 -3粒 の トウモ ロコシを播 く。

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中耕 を,や は りミシ ュール カ操 作 で数 回 行 う。 そ の狙 いは除草だ と農民 は言 う。 こ れ は実 際 には も うひ とつ の効果 を もつ 。そ れ は地表 の クラス トを砕 き,土 が雨 を吸 い こむ のを助 け る。雨 のあ と乾燥 が厳 しい気 候 条件 の為 に,地表 には クラス トが形成 さ れ る。 これ をそ の ままに してお くと,次 の 雨 は土 中に吸 い こまれず ,表 面流去 水 とな って流れ去 り, 同時 に表 土流 失 をひ きお こ す 。図3の中央右側 に示 す よ うに,低 み に は実際 に流失 土 がた まってい る。 5) トウモ ロコシは3カ月で実 るが,更 に1 カ月,畑 にお いて乾燥 させ る。 マ ニオ クは 8カ月後 に収 穫 で きる。豊 作 だ と一部 は地 上部 を切 ってそ の まま畑 にお く。収 穫 した マ ニオ クは, 高床倉

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に納 め る。高 床 の高 さは

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以下 で あ る。 倉 は居宅 か ら離す 。 6) 生 のマ ニオ クの食 い方 は,皮 をむ い て輪 切 りに し, 水 に ミル クを加 えて煮 る。 干 し た マ ニオ クは, ミル ク, ヴアネ ソバ豆 を加 えて煮 る。 マ ニオ クの葉 は白に入 れ て杵 で つ き, 水 を しぼ って煮 る。 これ は主要 な葉 菜 であ る。牛 肉を加 えて煮 る こ ともあ る。 7) 牛 は夜 間,家 の近 くにお き,昼 間 は連 れ 出す 。一 戸 当た り

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頭 か ら

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頭 の 牛 を も つ 。 この小村 の全頭数 は

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頭 であ る。牧 場 はな い。図

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の よ うな トゲ林 囲い の畑 で 草 を食 わせ る。つ ま り畑 が 同時 に牧場 で あ る。そ こに繋牧 す る。乾燥 が強 く草 が不足 す る と, 囲 いのサ ボ テ ンを食 わす 。枯 れ草 をサ ボテ ンの上 につ み火 をつ け る と, サ ボ テ ンの トゲが焼 け お ちて,牛が食 える。サ ボテ ソ囲いは葉 を地 上 に並べ るだけで簡単 に作 れ,乾燥年 の重要 な飼料 で あ る。図3 で低 木 囲 い の部分 も元 々はサ ボテ ン囲 いだ ったが,

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年 が厳 しい乾燥年 で,飼料 に 使 った のだ 。極端 な乾燥年 には,草 を求 め て移動 す る。 そ の時 は牧童 のみ村 か らはな れ て くらす 。 8) 生 乳 を飲 み, また, アブ ブ (酸乳) を作 る。 ミル クをふ りまぜ てギ -を とる こ とは ない。 自分 の牛 を食 うこ とは稀 で, 肉を食 うこ と自体 少 ない。そ の時 は市場 で買 う。

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ア ムポテ ツ ィ

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の村 西南部 で も海 岸沿 いは と りわ け乾燥 が厳 し く,生活環 境 は想像 を絶 す る。 西南部 の ツ ィ ウソべ

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近 く, ア ンポチ ツ ィ郡 のキ リ トカ ラ

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村 で聞 いた生 活 の状況 は次 の よ うな ものだ 。地 表 は乾 い てサ ラサ ラ とした砂 で,草叢 は ない。 ユ ー フ ォル ピア, サ ボテ ン, タマ リン ドが疎 らに点在 す るにす ぎない。 ユ - フ ォル ピアの茎 を縦 に並 べ て壁 に し,わず か に カヤを並べ て屋根 に し た,鳥小屋 の よ うな 家 が

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軒 程 並 ん で い る。 砂 の上 に じかに立つ平 床 であ る。 強 風が 吹 くと舞 い上 が る砂塵 の中 に小屋 は消 える。 畑 は丘 のふ も との ワジ川 沿 い と,永年 川 の マナ ムプ ヴォ

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川 沿 いにあ る。主食 は サ ツマイモ, トウモ ロコシ とマ ニ オ クで あ る。 他 にサ トウキ ビ, カ バ ル

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とい うイ ンゲ ンマ メ, ヴアネ ソバ豆 , ア ンペ ビ (am

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, メ ンバ ラ豆, ど-ナ ッツ, 油用 の ヒマ, それ に 換 金作物 の トマ トとアナマ ラオ

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を植 え る。 テ ィウカナ ナ

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とよばれ る東 風 が吹 くと, どれ も枯 れ て しま う。食 うも の が な く な る と, 人間 もサ ボテ ンを食 う。最後 の雨 は4年 前 に降 った き りだ という 。 村 人 は, 人 間 (徳 365

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東南 アジア研究 26巻 4号 等 を指す らしい) が犯 した多 く の 罪 の た め に, この干ばつ に 見舞わ れた のだ とい う。 牛 はサ ボテ ン囲い の牛柵 に夜 は お き,昼 , 疎 らな低木 の まわ り-下草 を食 わせ に連 れ て い く。サ ボテ ン同様 , ユ ー フ ォル ピアの一種 も トゲを焼 いて飼料 にす る。 ミル ク搾 りには 干 し ヒョウタ ンの容器 を使 うO 祭 儀 Cioro)の 際 には牛 を供犠す る。牛 のの どを切 り,血 を つか み 出 し,長老 に渡 す 。長老 は指 をそ の血 にひた し,祈願 を行 う人 の胸 に呪 印 (tsodra・ no)を措 く。牛持 ちが亡 くな る と, そ の牛 を 全 て供 犠 す る。 この時 は脇腹 か ら槍 を刺 して 心臓 を突 く。婿 あ るいは嫁 が 肉を切 り分 け, 葬 儀参会 者 に配 る。 角 は墓 の敷 石 の上 に並 べ る。 生前 の家 は見すぼ らしい小屋 だが,墓 は き わ め て立 派 で あ る。 そ の対 照 は鮮烈 であ る。 墓 は四角形 で,ほ ぼ20mx20m,周 囲 は 人 頭大 の石 をつ み,各辺 の隅や 中央部 には 1m の立石 を立 て る。石 囲 いの内部 は磯 を1m横 衣,供犠 され た牛 の角 をそ の上 に並 べ る。 牛 供犠 は死後 の世 界 にお いて死者 の生 活 を助 け る と考 え られ てい る。牛 角 の数 は死者 の勲功 を示 し,100頭 の角 を もつ墓 も珍 し くほ ない。 中央 には石壇 を作 り,豪華 に飾 られ た棺 が お かれ る。現世 の生 活 は質素 で苦難 に満 ちて い るが,墓 は立派 に仕上 げ,来世 にお いては, 苦難 か ら永 遠 に解放 され た生 活 を約束 され て い るので あ る。

結 論 1) 中央 高原 と西部平 原 は牧畜景観 で あ る。 東 ア フ リカか らの牧畜民 の移動 を この景観 が示 して い る。 366 2) この牧畜 民 の生業 は牧畜 を主 とし,農 耕 を伴 な った と思わ れ る。農耕 は ア フ リカ由 来 の雑穀 と東 南 ア ジア由来 の根 菜栽培 で あ った ろ う。 この牧畜 民 は紀元 前1000年 紀 以 前 に南 下 した ナ イ ロー ト及 び クシ ュ系部族 で あ った と想定 され る。 マ レイ ・ポ リネ シ ア水域 か らの移 民 はそ の後 ,紀元前数世 紀 の間 に顕在化 した。 3) ゼ ブ系 コプ牛 は,他 の資料 か ら紀元後600 年 頃 にマ ダガス カル-渡 来 した と考 え られ て い る。 か んが い畑 ,蹄耕 , 雑穀散播 とそ の牛蹄踏 み こみ はそれ 以前 に確 立 していた と考 えてい る。 4) マ レー水域 か らの航海民 は紀 元前後 には ア ジア稲 を もた らしただ ろ う。 5) アジア稲 は先 述 の牧畜民 に よって雑穀 の 一種 として受 け入 れ られ,既 存 の栽培体 系 の中に導入 され た 。それが ヴ ァ リ ・ツ ィ ピ で あ る。 しか し,乾燥 トゲ低 木林 に住 む人 々は乾燥 農耕 に よる雑穀 栽培 を保 持 し続 け た。 6) 征服 部族 メ リナ及 び べ ツ ィレオは後 に, 多分12,13世 紀 に到来 した。彼等 は畑作 を 行 な っていたが,後 に, 中央 高原 で ヴァ リ ・ツ ィ ピ型 の稲栽培 を始 め,傾 斜 草地 を棚 田に変換 した。 参 考 文 献

Murdock,G.P.1959.Afn'ca.'ZEsPcobLesand TheirCuEtuyeHistory.New York:McGraw・ Hill.Inc.

Seligman,C.G.&Seligman,B.Z.1932.Pagan TribcsoftheNiloticSudan.London:Rout・ ledge& KeganPaulLtd.

図 2 ヴァリ・ツィピ田の分布 ( 網部分)

参照

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