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マールブルク大学の創設 : ドイツ大学の伝統と革新 利用統計を見る

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マールブルク大学の創設 : ドイツ大学の伝統と革

著者名(日)

小倉 欣一

雑誌名

井上円了センター年報

2

ページ

218-189

発行年

1993-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002607/

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マールフ)レク大学の創設

ドイツ大学の伝統と革新

小倉欣一典・嚇

はじめに  1527年5月30日マールブルク大学(Philipps−Universitat Marburg) は、ヘッセン方伯フィリップ豪胆公(Landgraf Philipp der GroBmUtige von Hessen)によって創設された。法学教授でヘッセン宮廷裁判所 (Hofgericht)の判決人ヨハン・アイゼルマン(Johann Eisermann gen. Ferrarius Montanus)が初代学長に任命され、招聰された教授11人と学 生94人、合わせて105人が氏名を大学名簿に登録し、翌月から講義が始 まった。7月1日宰相ヨハン・ファイゲ(Johann Feige)が、開校の記 念式典を挙行した。それは、1517年マルティン・ルターがザクセン選帝 侯国のヴィッテンベルクで宗教改革に着手してから10年後のことであ り、その精神にもとつく世界最初の大学が誕生した。福音派(新教、プ ロテスタント)大学(evangelische od. protestantische Universitat) の出現は、ドイツ大学史上の「革新」を意味した。だがこの大学も、他 方で中世以来の大学の「伝統」を受け継いでいた。本稿で筆者は、わが 東洋大学と学術提携を結ぶマールブルク大学の創設事情を考察し、「ドイ ツ大学の伝統と革新」という課題の一端に取り組んでみたい。 1.ヨーロッパにおける大学の起源  ヨーロッパの大学は、中世キリスト教世界の政治、経済、文化の転換 期である12世紀に起源をもった。前世紀末ローマ教皇は聖地イエルサレ ム奪還を訴え、それに応じた神聖ローマ皇帝、諸国の王は、イスラム教 マールプ・レク大学の創設 3(218)

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世界へ十字軍兵士の派遣を繰り返し、軍事的侵略を敢行した。それは、 地中海地域の都市と商業活動に活気を与え、異文化との接触による新た な見聞、珍しい物産、進んだ技術や知識の流入が人々の生活や思考に大 きな変化をもたらした。この波動は、アルプス山脈を越えて北ヨーロッ パにも到達した。市場経済の浸透につれ荘園領主の農民支配は揺らぎ始 め、大市の開催と都市の交易網が結びつき、ヒト・モノ・カネの流通が 盛んになった。都市においては、商人と手工業者が中心となって自治団 体を構成し、市民の文化が開花した。なかでも商人は、キャラバン隊を 連ね、大量の商品や現金を持ち運ぶ冒険的交易を次第に脱皮し、市内に 店舗を構え、文書の交換によって商品を取引し、為替や手形を利用して 金融を決済するなど、計算と予測にもとつく合理的な経営を発展させて いった。  中世都市の成立以前には、教育はもっぱら聖職者の仕事であった。か れらは、司教座聖堂付属学校や修道院学校で後継者の養成にあたり、文 字の文化、学問と教養を独占した。しかも自らが聖界領主となるほか、 君侯の宮廷書記や役人に登用され、統治の重要な担い手にもなった。そ れゆえ大学の誕i生は、都市の市民が特定集団の独占物を広く世俗の民衆 に解放し、統治や支配の手段を営利や致富、立身出世の手段にも変える という知的革命の性格をもった。多くの都市では初等学校が開かれ市民 の子弟にラテン語、算術などが教えられ、さらに大学の誕生によって高 度の専門的知識を授ける場が整ったのである。その決定的な動機は、や はり都市の市民たちの強烈な「知識への愛」(amor scientiae)、勉学の ためなら遠隔の地へさえ出掛ける熱意にあったとみるべきであろう。ど この大学でも学生の圧倒的多数を市民の子弟が占め、貴族や騎士、農民 身分の学生は少数であった事実が、それを何よりもはっきりと裏付ける。  ヨーロッパ最古の大学として、12世紀にはパリ、モンペリエ、サレル ノ、モデナ、ボローニャ、オックスフォードなど、フランス、イタリア、

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イギリスの都市の名が挙げられる。これらの大学は、聖職者養成の学校 を前身とするほか、法律学や医学の知識や技術を授ける講習所として誕 生し成長をとげたもので、君主の計画的な創設になる以後の大学と異 なっている。商工業の発展がおくれたドイツ語圏には14世紀まで大学が なく、青年たちはもっぱら諸外国で学んだ。1348年神聖ローマ皇帝カー ル四世(Karl IV.)がプラーク(プラハ)に最初の大学を創設した。カー ルはボヘミア王として、帝国東部に自己の領邦国家を建設中であり、そ の首都をパリのような知的、精神的な中心地として繁栄させようとした のである。続いて同じ動機から、オーストリアのハプスブルク家が1368 年ウィーン大学を、ポーランドのヤゲール家が1364年クラカフ大学を設 立した。その後、教会の大分裂(Schisma)やフス派の民族主義的運動の なかでパリとプラークからドイツ人教授が追放され、1386年ハイデルベ ルク大学、1409年ライプツィヒ大学の設立にあたった。この時期には、 1380年ケルン、1392年エルフルト、1419年ローストックのように経済的 に繁栄した都市自身も大学を創設している。  15世紀後半に入ると帝国改造をめざす皇帝と領邦国家の確立に向かう 聖俗諸侯の角逐のなかで、ドイツの大学創設は盛期を迎えた。1456年グ ライフスヴァルト大学、1460年フライブルク・イム・ブライスガウ大学、 1472年インゴールシュタット大学、1477年テユービンゲン大学などが世 俗諸侯によって設立された。聖界の選帝侯のなかでもトゥリアー大司教 が1472年に、マインツ大司教が1477年にそれぞれ大学を創設するにい たった。皇帝マクシミリアンー世(Kaiser Maximilian L)は、自身が 人文主義の保護者であり、1495年のウォルムス帝国議会ですべての諸侯 がその領邦に大学を設立するよう勧めたという。1502年ザクセン選帝侯 フリードリヒ三世(賢公)(KurfUrst Friedrich III.[der Weise]von Sachsen)はヴィッテンベルク大学を、1506年ブランデンブルク選帝侯ヨ アヒムー世(Markgraf Joachim 1. von Brandenburg)はフランクフル

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ト・アン・デア・オーダー大学を創設した。  中世の大学は、多くの場合神学、法学、医学の三つの専門学部を擁iし、 その基礎教育の場として教養学部を設置した。神学部では、聖書と注釈 書、教父の著作、とりわけペトルス・ロンバルドゥス(Petrus Lombar− dus)編の『命題集』(Sententiae)をテキストとし、プラトンやアリスト テレスの哲学を用いて教会の教義を論証した(スコラ学Scholastik)。法 学部では、ユスティニアヌス(Justinianus)の『ローマ法大全』(Corpus Juris Civilis)、グラティアヌス(Gratianus)の『教会法令集』(De− cretum)、それらの注釈書などにより市民法(ローマ法)と教会法(カノ ン法)を講じ、医学部では、ヒポクラテス(Hippocrates)、ガレノス (Galenos)などのギリシア・ローマ医学をとりいれたアラビア医学が伝 授された。教養学部でも、ギリシア・ローマの知的伝統に立ち、ローマ 自由人の教育課程に由来する自由諸学科(artes Iiberales)が教えられ た。すなわち、文法学、修辞学、論理学(弁証法)の三科(trivium)と 算術、幾何学、音楽、天文学の四学(quadrivium)である。これらの大 学は、次第にローマ教皇や神聖ローマ皇帝、国王といった聖俗の最高権 力者による認証を求めた。その権威と保護によって大学自体の存立を確 保し、授与する学位の一般的な通用を望んだからである。それゆえ15、 16世紀のドイツでは、諸侯や都市が自己の権限で大学を創設できるのか、 あるいは神学部については教皇に、ローマ法を教える法学部については 皇帝のみに設立権が留保されているのかをめぐって論議がなされた。大 学の創設者は大きな不安を抱き、できるかぎり教皇と皇帝の双方から大 学の全学部に対して認証状を得るように努め、宗教改革の激動期を迎え た。 2.ヘッセン領邦国家と宗教改革 ヘッセン領邦国家では、方伯ウィルヘルムニ世(Landgraf Wilhelm マr’レプルク大学の創設 7(214)

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II.)が最初に大学の設立を考えたといわれるが、1509年に早くも死去し、 実現をみなかった。その息子フィリップ豪胆公は、1504年にマールブル クで生まれた。幼少時代は母親アンナ(Anna)が摂政を勤め、その尽力 により1518年に13才で皇帝マクシミリアンー世から成人の宣言をうけ、 君主となった。それゆえ、1526年秋にマールブルク大学の創設を企てた ときは、まだ21才の青年であった。  この時代のヘッセン方伯家は、カッセル(Kassel)を中心とする下ヘッ セン(Niederhessen)、マールブルクを中心とする上ヘッセン(Oberhes− sen)に分かれていた。しかし、1450年ツィーゲンハイン伯ヨハンニ世 (Graf Johann IL von Ziegenhain)が死去するやその伯領をレーエン (封)の回収の形で取得し、続いて1479年にカッツェンエルンボーゲン伯 フィリップ(Graf Philipp der Altere von Katzenelnbogen)の死去に 伴ってその領地を相続し、支配領域を拡大した。とりわけカッツェンエ ルンボーゲン伯領は、ザンクト・ゴアール(St.Goar)を中心とする下伯 領(Niedergrafschaft)とダルムシュタット(Darmstadt)を中心とする 上伯領(Obergrafschaft)からなり、交通上・地政上ドイツの大動脈で あるライン川に接したばかりでなく、通航税徴収によって国家財政に多 大な収入をもたらした。ウィルヘルムニ世は、兄弟たちの死去にともな い1500年に分割統治を解消でき、統一した国家領域の全体に対する領邦 高権(Landeshoheit)の確立に取り組んだ。フィリップは、それを引継 ぎ、宗教改革によってヘッセン領邦国家を完成させたのである。  これらの君主の課題は、第一に法と裁判権の掌握であった。中世ヨー ロッパでは法と権力は分裂し、裁判権は狭義の司法権にとどまらず広く 政治権力を意味した。それゆえドイツでは皇帝も諸侯も、統治の根幹に 係わる法と裁判組織の整備、裁判権の一元化を競った。皇帝マクシミリ アンー世は、1495年帝国都市フランクフルトに帝室裁判所(Reichskam− mergericht)を開設し、皇帝の権威によってローマ法の継受を推進し、

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皇帝法(Kaiserrecht)の貫徹を計った。ヘッセン方伯ルートヴィヒニ世 (Ludwig II.)は、1455年下ヘッセンに、方伯ヴィルヘルム三世(Wilhelnl IIL)は、1497年上ヘッセンにそれぞれ領邦=裁判法(Landes−und Ge− richtsordnung)を編纂させていた。ウィルヘルムニ世は、それらを引継 ぎ、1500年ローマ法を取り入れた『ヘッセン改正法典』(Reformations −Ordnung)を発布し、帝室裁判所に倣って宮廷裁判所(Hofgericht)を 設立して、「皇帝ノー般成文法、ナラビニ余ノ領邦オヨビ地域ノ公正デ名 誉アル制定法、勅令、慣習ニヨリ」(nach gemeinen keiserlichen bes− chrieben rechten, auch nach redelichen und erbarn statuten, ordenun− gen tZnd gewonheiten unsers furstentumbs und landschaft)審理をお こなうよう定めた。  宮廷裁判所は、都市裁判所や地方裁判所における10グルデン以上の事 件に対する控訴審であり、さらに騎士身分の者にとっての第一審である とともに、その他の者にとっても裁判の拒否や遅延の際に第一審となっ た。その構成は、一人の裁判官と十二人の判決人からなり、裁判官は騎 士身分、判決人は少なくとも三人が法学博士で、その他は騎士身分の者 と定められた。開廷は、年四回三週間ずつであったが、フィリップの下 で1524年週三回開かれる常設裁判所となった。そのうえ、控訴額は20グ ルデンに切上げられ、聖職者と都市にとっても第一審になり、その最終 判決に対する方伯への控訴が認められた。宮廷裁判所は、短期間で名実 ともに領邦全体の最高法廷となった。この裁判所をはじめ都市裁判所や 地方裁判所は、次第に多くの法学部出身の判決人を任用し、大学創設の 重要な契機をなした。  その設立場所は、統一国家の首都カッセルでなく、方伯居城都市の一 つマールブルクであった。マールブルクは、ライン川からウェーゼル川 にいたる統一ヘッセン国家の中央に位置したのみならず、国政上不可欠 な領土となったカッツェンエルンボーゲン伯領の相続問題とも関係して マールブルク大学の創設 g(212)

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いた。ヘッセン方伯ルートヴィヒー世(Ludwig I.)の息子ハインリヒ三 世(Heinrich lll.)は、1457年カッツェンエルンボーゲン伯フィリップ の唯一の相続者である娘アンナ(Anna)と結婚し、1479年フィリップの 死去にともなって伯領全体がヘッセンに帰属したとき、文書類もマール ブルクの居城に移管された。しかし、この夫妻には男子の相続者がいな いため、ナッサウ・ディレンブルク伯ヨハン五世(Graf Johann V. von Nassau−Dillenburg)とクレーヴェ公ヨハンニ世(Herzog Johann II. von Cleve)に嫁いだフィリップの二人の娘エリザベート(Elisabeth) とメヒティルト(Mechthild)が自分たちの相続権を主張したのである。 それゆえウィルヘルムニ世は、宮廷裁判所でこの訴訟を審理するにあた り必要な文書類を直ちに整えうることをも考慮し、マールブルクを選定 したといわれる。  ウィルヘルムニ世は、幼少の頃に父親を失い、母方の叔父ヴュルテン ベルク伯工一ベルハルト(Graf Eberhard der Altere von Wtirttem− berg)の宮廷で育てられ、豊富な見聞の持ち主であったとみられる。ヴュ ルテンベルクの大学は、1477年首都のウーラッパではなく、テユービン ゲンに創設され、1514年宮廷裁判所も大学所在地に移された。この先例 に従うようにヘッセンでも、その子フィリップは大学を当初から首都の カッセルでなく、宮廷裁判所の所在地マールブルクに創設することに決 めた。それによって宮廷裁判所の裁判官、判決人と法学の教授との兼務 や相互の緊密な交流が可能となった。  第二の課題は、臣民の意識やイデオロギーの統御であり、生活倫理や 道徳の規律化であった。中世後期から諸侯は、国家形成にともない臣民 に忠誠を誓わせ、「領邦の安寧」(Landeswohlfahrt)を掲げて道徳規範の 遵守を求めた。その規範は、しばしば教会の説く倫理教説と一致してい たが、今や聖界諸侯はもちろん世俗諸侯にも同様に遵守を命じたのであ る。ウィルヘルムニ世は、上述の『ヘッセン改正法典』で新たな方針を

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打ち出し、臣民の間に拡がっている乞食行為を止めさせ、夫婦に同居を 義務づけ、司祭の品行を監視し規制した。  息子フィリップは、1524年ヴィッテンベルクの神学者フィリップ・メ ランヒトン(Philipp Melanchton)と出会い、その教示によってルター の精神に共鳴し、宗教改革の決意を固めた。そして直ちに同年『行政規 則』(Polizei−Ordnung)を定め、地方役人に命じて教区教会の司祭がキ リストの福音そのものを純粋に説教するように指導させることにした。 これによりヘッセンの司祭は、君主に仕える者とみなされて臣民教育に 組み込まれ、いわゆる領邦教会制(Landeskirchentum)への第一歩が踏 み出された。1525年フィリップは、ルターの弟子でフルダ司祭のアダム・ クラフト(Adam Krafft)を宮廷説教師に任命して教区を巡察させ、司 祭の教育程度が低く、その養成が焦眉の急であると認識し、大学におけ る神学教育の必要を痛感したと思われる。  しかしながら、司祭のような在俗聖職者ばかりでなく、修道院で共同 生活を送る修道士も倫理的、経済的に堕落していた。諸侯は、15世紀前 半からその改善をはかるとともに、修道院の所領や財産に目をつけ、領 邦国家に役立たせた。ポンメルン公ボギスラフ十世(Herzog Bogislaw X.von Pommern)は旧教徒であったが、1523年最初に修道院を還俗 (Sakularisation)して収用し、その財産を負債の償却に当てた。同じ頃 ルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公に農村の修道院やその所領、 その財産の損失を防ぐため、没収を勧めていた。ブランデンブルク辺境 伯カジミール(Markgraf Kasimir von Brandenburg)は、1525年11月 アウクスブルク帝国議会に重要な建白書を提出した。内容は、司牧者の 教育と「公共の利益」(der gemeine Nutz)のため、教会、修道院の財 産をすべて国家の監視下に置き、そこから聖職者に給与を支払い、大学 への財政的援助に用いられるべきことであった。ここには、新教徒の領 邦諸侯がとった教会・修道院政策の基本構想がすでに含まれていた。 マーtレブ,レクk字の創設 11(210)

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3.マールブルク大学の創設  1526年8月シュパイエル帝国議会で諸侯は、ルターの教説について「神 ト皇帝陛下トニ釈明デキルト期待シ、確信スルトコロニ従ッテ、各々独 自二生活シ、統治シ、振ル舞ウ」(fuer sich alSo zu leben, zu regieren und ZU halten, wie ein元θ庇γsolches gegen Gott, und、Kaeyserl. Ma7’estaet叛励τund vertraut zu verantworten)ことを決i議し、自国で の宗派決定権、すなわち宗教改革を遂行する法的根拠を獲得した。帰国 した方伯フィリップは、宗教改革を実施する計画に着手した。1526年10 月ホンベルクにヘッセン教会会議を招集し、フランツ・ランベルト・フォ ン・アヴィニオン(Franz Lambert von Avignon)が中心となって作成 した教会改革案を提示させて討論を求め、それを12月『ヘッセン教会改 革令』(Reformatio Ecclesiarum Hassiae)と題し、全34章からなる詳 細な宗教改革法令に完成させた。ランベルトは、フィリップがシュパイ アー帝国会議の折りに知り合い、シュトラースブルクから招聰したフラ ンス人宗教改革者であった。この法令は、教義や儀礼、教会制度の改革、 修道院の還俗などと並び、第29章でマールブルク大学の創設を次のよう に定めている。(訳文の[]内は筆者が補った部分である。)       Cap.XXIX. De universali studio Marpurgensi.  Quia placuit Deo movere cor Principis nostri, ut nunc fulgente Evangelii gloria universale studium apud Marpurgum erigere velit, idque maxime necessarium sit, ut in Ecclesiis nostris multiplicentur, qui in verbo et doctrina eisdem praesidere, ac quae recta sunt con− sulere possint;Interdicimus in virtute Dei, ut nihil in ea legatur, quod negotiis regni Dei obesse possit. In ea sint primum, qui sacras literas profiteantur, et id quidem purissime, alioqui deponantur. Deinde sint, qui Leges civiles praelegant, sic tamen ut cautelae impiae Dei verbo

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circumcidantur, et quae Dei verbo non conveniunt, per illud cor・ rigantur. Idcirco vocentur Jure Consulti docti simul et pii, qui sciant Dei verbum omnium doctrinarum adhibere censorem, e quibus si quis nonnulla contra Dei verbum adseruerit et suo ministerio et com− munione privetur. Tertio habeatur ad minus unus Medicinae Profes− sor, doctus simul et pius. Quarto praelegantur artes liberales et politiores literae, adhibito in omnibus, praesertim in Mathematicis, censore tutissimo, nempe sermone Dei. Quinto sint Professores Lin− gua「um・  Porro Jus illud contra fas vocatum Canonicum, omnino legi pro− hibemus. Qui in hoc venerabili studio aliquid contra sanctum verbum decernere ausus fuerit, anathema sit.   [試訳]   第29章 ま一るぶるく大学ニツイテ  ワレラノ君主ハ、今ヤ福音ノ栄光ガ輝ク時、ま一るぶるく二大学ヲ創 設シヨウト決心ナサリ、神ハ嘉トセラレタ。ソレハ、ワレラノ教区民ノ ナカニ[神ノ]御言葉ト教エヲ示シ、正シイ助言ヲ与エウル者ガ増エル タメニモ大イニ必要デアル。ソレユエワレラバ、大学デ神ノ国ノ御業ノ 妨ゲトナリウル何事モ講ゼラレナイヨウ、神ノ御力ニヨッテ禁ズル。大 学ニハ先ズ第一二、聖書ヲ説ク者、シカモ全ク純粋二説ク者ガ任用サレ、 ソウデナイ場合ニハ解職サレルベキデアル。続イテ、市民法ヲ講ズル者 ガ任用サレルベキデアル。ダガ、敬度サヲ欠ク憂慮ハ神ノ御言葉ニヨッ テ取リ除カレ、神ノ御言葉トー致シナイ事柄ハ御言葉ニヨッテ改メラレ ネバナラナイ。ソレユエ法二通暁スル者デ、学識ト敬度サヲ兼ネ備工、 神ノ御言葉ヲモッテ全テノ教エノ規範トスル者ガ招聰サレルベキデア ル。ソノナカニ神ノ御言葉二反スル事ヲ主張スル者ガイルナラバ、コノ 者ハソノ職ト仲間カラ排除サレルベキデアル。第三二、少ナクトモー人 マールプ」レク大学の創設 13(208)

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ノ学識ガアリ、敬度ナ医学ノ教授ガ採用サレルベキデアル。第四二、自 由諸学科ガ講義サレ、コレラノ全テニツイテ、特二数学ニツイテ最モ確 実ナ規範、ツマリ神ノ御言葉ガ適用サレルベキデアル。第五二、諸言語 ノ教授ガ必要デアル。  サラニ、神ノ法二反シテ教会法ト呼バレテキタ法ノ講義ヲ全ク禁ズル。 コノ尊重サレルベキ大学ニオイテ聖ナル御言葉二反スル事ヲ敢エテ主張 シヨウトスル者ハ、呪ワレヨ!  マールブルク大学創設の趣旨は、ヘッセンの教区民に神の御言葉と教 えを伝え、正しい助言のできる人材の養成であった。すなわち、福音派 の領邦国家の建設とその教会のために働く司祭と官僚の教育が主要な目 的であった。教育理念は、きわめて厳格な聖書主義に求められ、神学の みならず、法学や医学、そして実に数学や諸言語に至るまで全ての分野 にわたってその貫徹が要請されていた。それゆえ、神学ではスコラ学と の対決が意図され、法学では旧来の教義と教会組織を基礎づける教会法 の講座が廃止されているが、教授たちに信仰や良心の自由は認められず、 不寛容であった。  大学の創設には、フィリップや宰相ファイゲの構想が反映したと思わ れる。だが、このような厳しい方針は、とりわけランベルトの考えを示 すとみられてきた。近年ヘッセン史家ハイネマイアーは、その内容がル ターの著作『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』(An den christlichen Adel deutscher Nation von des chlistlichen Standes Besserung、1520 年)の主張を採り入れたもので、部分によってはその言葉通りであると いう新説を発表したが、論証を欠いている。宗教改革という新たな精神 にもとづき、宗教教育と世俗教育とを一体化させ、ローマ教皇の権威を 否定し、それによる大学の認証を乞わない。このような福音派大学の創 設は、大学史上明らかに一つの「革新」を意味した。しかし、この大学

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は、聖職者を養成する単科大学ではなく、当時の総合大学であり、神学、 法学、医学、自由諸学科を教える従来の四つの学部組織を基本的に踏襲 した。そのうえ領邦君主が計画し、そのイニシアチヴによって創設され る領邦大学であり、国家高権の確立と大学の創設とが結びついた。これ らの点で、中世後期以来のドイツ大学の「伝統」をも継承していた。  フィリップは、ランベルトら数人の苦心の結晶である教会改革令全体 についてルターの意見を求めた。この宗教改革者は、1527年1月7日の 書簡によって、それを真向から批判した。そして、モーセも律法の大部 分を当時の慣行から採ったのであり、「ソノヨウナ法規ノ山ヲソノヨウナ 強イ言葉デ」(SO ein hauffenn gesetze mit SO mechtigen worten)性急 に導入することは控えること、まず司祭や学校に良い人物を据え、なす べきことを簡潔に口頭でか紙片に記して伝え、同意する司祭を次第に増 やしてゆくようにと忠告した。フィリップはそれに従い、教会改革令の 発布によって宗教改革を一挙に遂行することを断念した。その決断は、 福音派勢力が孤立しかねない政情にあってルターを支援するザクセン選 帝侯との友好関係にも配慮したものであった。だが、大学の創設に関す る基本計画は実行に移した。  大学の創設は、それ単独のものではなく、ヘッセン領邦国家の大規模 な教育改革構想の一環であった。フィリップは、中世後期からヘッセン の諸都市にもみられたラテン語学校に注目し、全国に少年と少女のため の学校の設立を企てた。教会改革令の第30、31章では、それらの学校で 基礎科目と聖書を教え、少年には将来マールブルク大学で学ぶための準 備を、少女には良き家庭婦人となる教育を施すよう定めている。このよ うな学校の設立は、しかし多額の資金を必要とし、実現をみなかった。        Cap.XXX. De Scholis Puerorum In omnibus civitatibus, oppidis et pagis sint puerorum scholae, ubi マールブルク大学の創設 15(206)

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rudimenta et scribendi rationem doceantur, desideraverint apti sunt studio Marpurgensi, et ad illud veniant maiora audituri. Et si in nonnullis pagis omnia rudimenta tradi nequeunt, Episcopi saltem aut eorum adiutores pueros legere et scribere doceant. Viderint autem Ecclesiae, ut aptos huic ministerio eligant, qui et ad bonos mores, et ad laudabilia studia pueros cum efficacia commonefacere possint, quibus de necessariis omnibus provideatur, ut Iiberius se huic negotio totos dedant, et super his visitatores et Episcopi advigilent, quod non parum, imo maxime retulerit, si fidelium iuventus bene instituatur.   Volumus autem, ut a modo in ipsis scholis et mane et vespere cantent unum, duos aut tres psallnos pro voluntate paedagogi, et id quidem latine, sequantur autem omnium psalmorum ordinem, et mox unus legat unum caput ex Bibliis, mane ex veteri, vespere ex novo Instrumento, nihilque dicatur praeter Psalmos et caput unum. Hac ratione volumus pueros sensim in divinis eloquiis exerceri. Hoc fiat mane cum primum ad scholas venerint, et vespere, cum ab eis dis− cedere volunt.    [試訳]    第30章 少年ノ学校ニツイテ   アラユル都市ヤ市場町ヤ村落二少年タチノ学校ガツクラレ、ココデ基 礎科目ト書キ方ガ教エラレ、ま一るぶるく大学デ学ブ能力ヲモチソレヲ 望ム者ハ、ヨリ高度ノ講義ヲ聞クタメニソコニ赴ケルヨウニスルベキデ アル。ソシテ多クノ村落デハ全テノ基礎科目ヲ教エラレナイナラ、少ナ クトモ司祭カソノ補佐ガ少年タチニ読ミ書キヲ教エルベキデアル。シカ シ教区民ガ、コノ職二適シタ者ヲ選ビ、少年タチニ良キ態度ヲトラセ、 褒メルベキ勉学ヲサセルノニ効果ヲアゲルベキデアル。ソレラノ者ガ妨 ゲラレズニコノ仕事ニスベテヲ捧ゲラレルヨウニ、カレラニアラユル必

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要ナモノガ整エラレネバナラナイ。ソレニツイテハ巡察使ト司祭ガ監査 スル。信者ノ若者ガ良イ教育ヲ受ケルコトハ、小サナドコロカ、キワメ テ大キナ関心事ダカラデアル。  トコロデ今後、コレラノ学校デハ教師ノ意向ニヨリ朝タニ詩編ヲーツ、 ニツカ、三ツ斉唱サセタイ。ソレハらてん語デ唱ワレ、シカモ全詩編ノ 順序二従ワネバナラナイ。続イテー人ガ聖書ノー章ヲ、朝ハ旧約聖書カ ラタ刻ハ新約聖書カラ選ンデ朗読シ、コレラノ詩編トー章ヲ除イテサラ ニ何モ聖書カラ取リダシテハナラナイ。コノ方法デ少年タチガ次第二神 ノ御言葉デ育テラレルヨウ望ム。ソウナルト、カレラハ朝マズ学校へ通 イ、夕刻ニソコヲ立チ去ロウトスルデアロウ。         Cap.XXXI. De Scholis Puellarum.  Sint praeterea in Civitatibus et oppidis, si fieri potest etiam in pagis puellarum scholae, quibus doctae, maturae et piae feminae praesint, quae eas doceant fidei principia, item legere, nere −sollicitas ac operosas esse, ut bonae tandem matronae domus sint. Episcopi autem et Visitatores instent, ut haec fiant. Praeterea volumus, ut tam mane quam vespere ipsae puellae exerceantur in divinis literis, ut psalmum unum communiter legant, et una earum caput unum Bibliorum, ut supra de pueris diximus、 Legant autem haec vulgariter.  [試訳]    第31章 少女ノ学校ニツイテ  ソノ他二都市ヤ市場町二、モシデキルナラ村落ニモ、少女タチノ学校 ガツクラレ、ココデ学識アリ、年功ヲ積ミ敬度ナ婦人ガ指導シ、彼女タ チニ信仰ノ基本ト、カツマタ読ムコト、縫ウコト、  ソシテ心遣イト 献身的デアルコトヲ教工、最後二家庭ノ良キ主婦トナルヨウニスベキデ アル。司祭ヤ巡察使モ、ソレガ実現スルヨウニ尽力セネバナラナイ。サ マールブルクft学の創設 17(204)

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ラニ朝モタ刻モソノ少女タチハ神ノ御言葉デ育テラレ、一ツノ詩編ヲ皆 デ朗読シ、一人ノ少女ガ聖書ノー章ヲ、先二少年タチニツイテ述ベタヨ ウニ、朗読サセルヨウ望ム。タダシソノ朗読ハ、民衆語[どいつ語]デ ナサレルベキデアル。  ヘッセンは、他の領邦と比べて貧しい土地であり、大学が創設されて も多くの学生が学資を十分に支出できないという状況にあった。中世の 大学にも、たしかに乞食学生や教会や私的な財団の援助に与かる大勢の 学生がいた。しかし宗教改革者たちは、そもそも乞食行為を攻撃し、乞 食学生にも批判的であり、教会に共同金庫を新設して孤児や貧しい青少 年を扶養するという方策を提案していた。それゆえ、教会改革令は第32 章で、講座が設置された後に俸禄に余裕があるならば、勉学に適した家 屋を建て基金を設け、貧しい学生がそこで暮らせるようにすべきである と記している。その手本は、明らかに中世大学の給費生寮(Burse)であっ た。       Cap. XXX II. De studiosis Pauperibus.  Ordinamus, ut si, fundatis et institutis lectionibus, praebendae nonnullae superfuerint, constituatur et dotetur Marpurgi una domus, studiis apta, in qua certus studiosorum pauperum numerus ad trien− nium ad minus ali possit, hoc est, singuli tribus annis. Interdic{mus autem, ne in ea quisquam recipiatur, si aliunde ali potest. Et qui contra hoc institutum in ea receptus fuerit, quasi raptor substantiae pauperum expellatur, et qui eum recepit, pro Rectorum Universitatis judicio puniatur. [試訳] 第32章 貧シイ学生ニツイテ

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 講座ノ基礎ト制度ガ整ッタ後二、多クノ俸禄ガ残ルナラバ、ま一るぶ るく二勉学二適シター軒ノ家ガ建テラレテ基金ガ設ケラレ、ソコデー定 数ノ貧シイ学生タチガソレゾレ少ナクトモとりえんにうむ、スナワチ三 年間生活デキルヨウニスベキデアル。シカシ、他ノ方法デ生活デキル者 ガイレバ、ソノ者ヲコノ家二収容スルコトヲ禁ジル。ソシテコノ規定二 反シテ収容サレタ者ハ、強盗ノヨウニ貧シイ学生タチノ財産カラ追放サ レ、ソノ者ヲ収容シタ者ハ、大学学長ノ裁判ニヨッテ罰セラレルベキデ アル。 4.修道院の還俗と「公共の利益」  マールブルクは、ヘッセンの宗教的中心地でもあった。聖女エリザベー トを葬る大聖堂は、巡礼地としてヨーロッパ中に知られ、帝国直属のド イツ騎士修道会が駐屯し、守護にあたっていた。さらに教区教会や修道 院、礼拝堂が林立し、領邦全体の聖職者が毎年集う教会会議の開催地で あった。これらの聖職者たちは、租税免除特権を享受し、信者の寄進に よって財産を増やしていたのみならず、しばしば自らも手工業や商業に 関与し、市民の生業と都市の財政に損害を与えていた。  1525年9月市民の代表は、農民戦争の綱領『12力条訴願書』(Zw61f Artikel)に倣ってフィリップに『36力条訴願書』(36 Artikel)を提出し た。第1条では、「聖ナル福音ト神ノ御言葉ガま一るぶるくデ正シク告ゲ ラレ、人々ノ間デ騒擾ガ起コラナイヨウニ、恩寵ニヨッテー人ノ優レタ 教区司祭デ礼拝堂司祭ヲ獲得シ任用シテ下サルコト」(mit einem ge・ schicleten Pferner und caPellanen gnediglich versehen wollenn und verschaffen, das das heilig evangelium undωort gottis eintrechtlich zu MarPurg verkundigt werde, damit leein ufrar unter dem volg entsteen moge)を求め、第6条では、「当市ハ聖職者ニヨッテ余リニモ煩ワサレテ イル。ドウカ恩寵深イ君主様ガソレヲ御覧ニナリ、善処ヲオ講ジクダサ マールブルク大学の創設 1g(202)

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イ。」(lst dise staidt mit geistlichen Personen zuvielろelestigt. Bitten, e. fg. wollen solichs betrachten und zum besten verordnen.)と訴えた。 方伯は、このような市民の動向をもみてとり、マールブルクからヘッセ ンの宗教改革に着手したのである。1526年10月ホンベルク教会会議が終 わるや、管財人(Vogt)と福音派司祭を修道院に派遣し、所有財産にっ いて新たに目録を作成させた。そして年末には居所をカッセルからマー ルブルクに移し、1527年5月宮廷説教師アダム・クラフトも移住した。 しかし、フィリップは、『ヘッセン教会改革令』に対するルターの忠告を 得てからは、宗教改革を慎重に一歩一歩進めた。  1527年1月方伯は、マールブルクの修道院長たちと修道院の還俗と大 学の創設につき話し合いをもった。市内の修道院は近接しており、これ らの建物は容易に大学の学寮(Kollegium)として学生と教師の宿舎や講 義室に転用されうるものであった。数週間後に共同生活兄弟団(Brtider vom gemeinsamen Leben)は、都市の南西にある館「クーゲルハウス」 (Kugelhaus)を明け渡し、修道院生活の中止を望まぬ修道士たちが収容 された。後には奨学生寮となり、その教会は神学部の講義と討論の場と もなった。市内の南東の端に位置するドミニコ会修道院は、4月に修道 士が立ち去るや、眼下の川の名をとって「ラーン学寮」(Collegium Lani) と呼ばれ、大学にとって最初の講義室と学生寮になった。南西の市壁に 沿って立つフランシスコ会修道院では、修道士が抵抗を続けたが、フィ リップの威嚇によって1528年5月末にようやく退去した。建物は「ポメ リウム学寮」(Collegium Pomeii)と名付けられ、1529年に医学部と教養 学部が使用し、後述の高等学校(Padagogium)の一部にもなり、図書館が 併設された。しかし高等学校は、間もなく旧ドミニコ会修道院内に纏め られた。  中世後期にドイツ各地で富裕な市民は、家門の誇示や霊魂の救済のた め都市の施療院や教会などに寄進をおこない、マールブルクでも1476/

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77年参事会員ハインリヒ・イムホーフ(Heinrich Imhof)とその妻が、 かれらの財産を投じてクーゲルハウスを建設した。この名は、兄弟団の 先の尖った帽子に因んだ愛称であり、大学の前身とみなしうる施設で あった。イムホーフは、ライプツィヒ大学で学生生活を送り、修士の学 位を得た後も引続き教鞭をとり、学長にも選ばれた。したがって大学の 学寮について熟知し、自分の都市に同様な勉学と生活の共同体を再現し ようと考えた。共同生活兄弟団は、それに合致し、俗人信徒が修道士の ような生活を送り、聖書の講読や研究によってキリストへの信心を得よ うとするものであった。これは、「新しき信心」(devotio moderna)をス ローガンとする宗教的革新運動として北および低地ドイツで14世紀に始 まり、15世紀に最盛期を迎え、マールブルクにも達したのである。この 館は、次第に来住者が増え、新たな精神による人文主義的研究と教育の 場として有名になった。教皇シクストゥス四世(Sixtus IV.)は、1477 年ヴィッテンベルク伯工一ベルハルトへのテユービンゲン大学と並んで マールブルク市民イムホープにもこの兄弟団の館に対して認証状を交付 した。兄弟団員は、その後他所の仲間たちと同様に、ルターの教説にも 関心と理解を示すようになったのである。  フィリップは、1527年10月カッセル領邦議会で聖職者、貴族、市民の 三身分集団にはじめてヘッセン国内全ての修道院の還俗と収用を提案 し、自由処分権を認められた。この決議は、前文でやはり1526年シュパ イエル帝国議会の合意に触れ、諸侯の宗派自主決定権を法的根拠とした。 そして「従来カラアル修道院生活ハ、非きりすと教的デ、忌マワシク、 神ヲ不快ニサセルモノデアリ、シタガッテ大勢ノ修道士ハコノコトヲ聖 書ノ明確ナ理解カラ自ラ認メ、ソコカラ世間へ出テユクベキデアル」 (dαsCloster−leben, wie es diese zeither gestanden, vncristlich, erger− lich, vnnd Got hoch missefelig ist, derohalben dan der merer Deil der Ordens−Person, die solchs vss clo rem Verstande der Schnfft, selbst マールブノレク大学の創設 21(200)

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befeennen勿応sεη, sich herazes in die We lth begeben.)と明言し、第3 条でマールブルク大学について次のように簡潔に記した。  Zum dritten wollen wir von den Cloister Gefelle die Vniuersitet zu Marpurg erhalten lassen, wilches dan gemeines Nutzes hohe Notturf− ft zuuor erfordert, das gute Kunst vund Tugent im Wesen erhalten werden, vund menniglich seine Kinder zu Eren vund Tugenden ufftzi− hen lossen mugen. [試訳]第三二、余ハ修道院ノ賃租ニヨリま一るぶるく大学ヲ維持サセヨ ウト思ウ。ソレハ、良キ学芸ト美徳ヲ盛ンニシ、多クノ子供タチヲ誉レ 高ク有徳二育テサセルタメデアリ、公共ノ利益ニトッテトリワケ大イニ 必要ナコトデアル。  しかしフィリップは、領邦統治の必要から修道院の還俗について貴族 の了解を得るように尽力した。貴族出身の修道士に多額の補償金を支払 い、二つの修道院にいる8人の貴族婦人に定期給付金を設定し、方伯の 役人である30人の貴族に手当てを支給した。修道院は、貴族の婦女にとっ ての扶養場所でもあり、その還俗にあたってこの問題が充分に解決され ず、貴族から苦情が出されていたからである。修道院還俗の指針は、「公 共の利益」(der gemeine Nutz)であり、「私的な利益」(der Eigennutz) の排除であった。それは、ルターの思想に合致し、具体的な措置をとる うえでは、先述したブランデンブルク辺境伯カジミールの建白書が役 立ったといわれる。マールブルク学長アイゼルマンも、方伯の修道院政 策を積極的に支援した。大学は「公共の利益」に仕するものであり、大 学の将来は教会財産の還俗に依存する。修道院財産は貧しい者に対する 喜捨であり、今やキリスト教権力者によって貧しい者に返還されねばな

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らないと説いた。 5.教授の招聰と開校  修道院の還俗と平行して、1527年1月か2月フィリップの宮廷顧問官 は、大学の講座と対象となる教授リストなどを協議して決定し、招聰の 交渉に入った。  招聰の内容と条件は、①二人の神学者、その一人は少なくともギリシ ア語とヘブライ語に堪能なこと、②二人の法学者、できればラテン語が 良くでき、どちらも実務経験が豊かなこと、③一人の医学者、少なくと もギリシア語ができ、学識あること、④一人の哲学者、ギリシア語がで きること、⑤一人のラテン語教授、⑥一人のギリシア語教授、⑦高等学 校のために、一人の修士(Magister)と二人のギリシア語とラテン語が 堪能な助手(Geselle)、⑧一人の印刷屋(Buchdrucker)、⑨一人の薬種 商(Apotheker)であった。これは、教会改革令の第29章と比べて、ギリ シア語、ラテン語、ヘブライ語の能力を重視した人文主義的色彩が濃く なっている。  ラテン語教授として最初に招聰されたヘルマン・ブシウス(Hermann Buschius)は、大学に高等学校を付設することを強く勧告した。すでに 15世紀にいくつかの大学には高等学校が併設され、教養学部のおこなう、 専門教育の準備としての基礎教育の負担を軽減させていた。しかもメラ ンヒトンが、1526年ニュルンベルクにエギディエン=ギュムナジウム (Agidiengymnasium)を設立し、この学校のために新たにカリキュラム を編成して注目を集めた。ラテン語学校は、人的物的に貧弱で生徒に大 学進学に充分な学力を付けられなかったからである。事情はヘッセンで も同様で、マールブルクの高等学校は、設立されるや領邦唯一の完備し た予備教育機関となった。そのおかげで教養学部の教授は、本来の学術 研究にも打ち込むことができた。 t一ルブルク大学の創設 23(198)

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 大学の開校時期は、1527年の復活祭(4月21日)と予定され、それま でに招聰する教授たちをすべてマールブルクに着任させることになっ た。その際ヘルマン・ブシウスは、ラテン語ではなく古典文芸学と歴史 学を担当することになった。この人物は、西部ドイツの共同生活兄弟団 で勉学を積み、桂冠詩人(Poeta Laureatus)の称号を付与された人文主 義者として有名であり、ルターやメランヒトンなどからも高く評価され ていた。ヴィッテンベルク大学は、当時ドイツ有数の人文主義運動の中 心地でもあった。それゆえ、ラムベルトが著作で「自由諸学科」や、古 代の言語、文芸、歴史などの「人文主義的教育」(humana eruditio)を 重視するあまり、聖書講読にさえ優先させかねない動きを痛烈に批判し、 教会改革令でも上述のように大学教育に厳格な聖書主義を採り入れよう と意図したことに、とりわけ卓越した人文主義者でもあるメランヒトン は反発した。そしてラムベルトの影響がフィリップの教授招聰政策に及 ばないよう画策し、ブシウスに加えて、どちらも優れた詩人で医学者の ヘッセン人エオバヌス・ヘッスス(Eobanus Hessus)とエウリキウス・ コルドゥス(Euricius Cordus)という人文主義者を推薦したのである。 招聰された学者は、大部分がルターの信奉者であり、そのなかに宰相ファ イゲのエルフルト大学時代の学友もおり、ヘッセン出身者が多かった。 神学者の招聰者リストには、メランヒトン、ヨハネス・ブーゲンハーゲ ン(Johannes Bugenhagen)、ユストゥス・ヨナス(Justus Jonas)の名 も挙がっており、成功はしなかったものの、いかに著名な優れた学者を 大学に集めようとしたか、フィリップの情熱がうかがえる。ランベルト は神学教授に就任したが、マールブルク大学の教育理念は、聖書主義に たちながら、しかも人文主義を採り入れたものとなった。 大学と高等学校の創設時のスタッフは、以下の通りであった。

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神学部  フランツ・ランベルト・フォン・アヴィニオン  アダム・クラフト エアフルト大学修士  エアハルト・シュネプフ(Erhard Schnepf)ハイデルベルク大学修   士、エアフルト大学学士 法学部  ヨハン・アイゼルマン 大学長、ヴィッテンベルク大学学士・修士、   宮廷裁判所判決人(ヘッセン国マールブルク近隣アメーネブルク   出身)  ヨハン・エムメリヒ(Johann Emmerich)エアフルト大学両法学博   士、宮廷裁判所判決人(ヘッセン国フランケンベルク出身) 医学部  エウリキウス・コルドゥス エアフルト大学学士・修士、フェララ   大学両医学博士(ヘッセン国ヴェッター近隣ジムツハウゼン出身) 古典文芸学および歴史学  ヘルマン・ブシウス 桂冠詩人 ヘブライ語  アウグストゥス・セバスティアヌス・ヌウツェヌス(Augustus   Sebastianus Nouzenus)レーヴェン大学修士、ヴィッテンベルク   大学修士 ギリシア語  ヨハネス・ロニケルス(Johannes Lonicerus)ヴィッテンベルク大   学修士 詩学  ラインハルドゥス・ロリキウス・ハダマリウス(Reinhardus Lori−   chius Hadamarius)ヴィッテンベルク大学修士(ヘッセン国リン   ブルク・ヴァイルブルク地域出身) マールプルク大学の8i1設 25(196)

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数学  トーマス・ツェーゲル(Thomas Zeger)バーゼル大学医学博士 高等学校  ニコラウス・ヒルトブラント(Nicolaus Hiltbrand)学校長、ハイ   デルベルク大学修士(ヘッセン国カッセル出身)  ヘルマン・ヴィルデナー(Hermann Wildener)ヴィッテンベルク   大学修士(ヘッセン国マールブルク出身)  大学創設を広くヘッセン国内外に知らせるため、ドイツ語とラテン語 で印刷したビラを大勢の人々が集まるフランクフルトの大市の際に配布 する計画がたてられた。しかし1526年早春の大市には間に合わず、秋の 大市に延期された。開校は、1527年5月30日となり、復活祭より遅れた ものの、直ちに授業が始まった。 6.大学の財政  開校はしても多くの問題が未解決であった。なかでも財政問題は深刻 であった。大学は確固たる経済基盤をもたず、必要な経費は領邦君主の 金庫から支出され、しばしば資金難に陥ったからである。教授たちの待 遇は、初年度の年俸が不明であるが、以下のようにかなり高額であった と推定される。しかも試験手当てその他がつき、住宅費は無料か給与さ れ、流通税とワイン消費税が免除され、方伯の山林からの木材採取を許 されたので、マールブルク市民のなかには快く思わない者もいたという。  フィリップは、1529年8月31日の特権付与状(Freiheitsbrief)で学長 に大学構成員に対する裁判権(iurisdictio)を認め、最小限の大学自治を 許した。翌年ようやくマールブルクの旧ドミニコ会修道院の収入から大 学に独自の財源が確保され、教務、学術討論、特別授業などの経費にあ てられるようになった。1532年初めて大学予算が組まれた。なかでも教

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職員の俸給総額は1281グルデンと算出され、それに対して旧修道院の賃 租などからの収入額は1067グルデンと見積もられ、不足額は廃止された 教区の俸禄その他で補うこととされている。教授の年俸は、神学、法学、 医学ではヘッセンの宮廷顧問官、すなわち当時の大臣とほぼ等しい95グ ルデン、教養学部の教授はやや低く、60ないし70グルデンであった。当 時の教区司祭は、都市で70か80グルデン、村落で50か60グルデンを給付 されたという。  1540年10月4日方伯は大学に基本財産寄進状(Dotationsurkunde)を 交付して、11の旧修道院とその他多くの教会財産を引き渡し、大学財政 の安定を計った。大学は、大学基金を設立し、財産管理を行った。その 役職である大学財務官(oeconomus universitatis)に、ヨハン・テンナ アー(Johann Thenner)が任用された。この人物は、1520年以来マール ブルクのクーゲルハウスに居住し、共同生活兄弟団員で管財人であった が、1527年から1547年の死去まで大学財務官の職に留まった。しかも、 大学創設期の困難な課題に取り組んだばかりでなく、その間にマールブ ルク市の参審人や宮廷裁判所の判決人をも兼ね、市政と国政にも貢献を した。  大学基金設立の当初から、貧困学生への奨学助成も意図された。それ は、領邦国家のために働く人材育成という目的に大いに叶っていた。し かし1526年の教会改革令第32章に記されたような給費生寮を、大学が設 けることはなかなか実現しなかった。それでも小さな教会財産からの助 成が始まり、1529年には最初の奨学生規則が定められ、ヘッセンの諸都 市は、在職しない司祭の俸禄や回帰した教会禄を、貧しいが有能な自分 たちの学生に奨学金として給付することになった。その金額は、通常一 人の学生当たり年間15グルデンであり、諸都市には学生の推薦権が与え られた。奨学生は、学業の終了後ヘッセン国内で就職するよう義務づけ られた。奨学金の支払いは1530年から開始されたが、1533年には領邦全 マールブiVク大学の創設 27(194)

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体で回帰した150俸禄のうち、小部分しか奨学金に転用されなかった。諸 都市の財政は潤沢でなく、まず司祭の俸給と貧民・病人の扶助分を優先 し、学校と大学への出費は後回しにせざるを得ないからであった。  1539年に奨学生規則が改定され、資金を確保するために学長と二人の 教授からなる委員会で諸都市からの奨学金を集め、学生に給付すること になった。その金額も年間20グルデンに引き上げられた。1546年に食事 付の奨学生寮が整い、さらに各地の教会金庫や聖界財団との個別契約に よって総額1860グルデンの財源から、1560年には年間60人分の奨学金が 用意された。奨学生の実数は、1536年に26人にすぎなかったが、1539年 43人になり、1566年には50人に達した。奨学金総額は、教職員への俸給 総額のほぼ4分の1に当たり、フィリップの治世に2分の1倍に増えて いる。奨学生は、全学生の約10分の1であった。 おわりに  マールブルク大学は、1527年宗教改革の精神にもとづき世界最初の福 音派大学として創設された。ローマ教皇の権威を否定し、スコラ学との 対決に大学史上の「革新」がみられる。教育理念は、聖書主義にたち、 しかも人文主義を採り入れた。だが、この大学は、君主が計画し、その イニシアチヴによって創設された領邦大学であった。それゆえ、国家高 権の確立と大学の創設とが結びつき、中世後期以来のドイツ大学の「伝 統」をも継承した。  16世紀初頭方伯ヴィルヘルムニ世は、ヘッセン領邦国家を統一し、大 学創設の考えを抱いたが早逝し、息子フィリップ豪胆侯がそれを実現し た。大学は、福音派司祭と領邦官僚の養成を主要な目的とし、その創設 は、大規模な教育改革構想の一環であった。フィリップは、「公共の利益」 という指針のもとに修道院を還俗し、建物を大学の講義室と学寮に転用 し、その所領からの賃租収入などを君主の金庫に納め、大学の維持費と

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して支出した。1529年の特権付与状で大学に裁判権を認め、最小限の大 学自治を許した。1532年初めて大学予算が組まれ、1540年ようやく基本 財産の寄進によって大学財政の安定が計られた。貧しい学生には、当初 から奨学助成が意図された。  マールブルク大学は、神学、法学、医学と自由諸学科を教え、宗教改 革以前に創設された大学と同じ学部構成をとった。それらの大学は、キ リスト教世界の最高権力者、教皇や皇帝から認証を得ていたが、この大 学は当然それらを欠き、授与する学位が一般に通用しないという危惧を 抱いた。それゆえ、宰相ファイゲは皇帝カール五世に懇請を続け、1541 年レーゲンスブルク帝国議会で新旧両宗派の融和が計られた折に、認証 状が与えられた。これによって大学の創設は完了した。だがそれは、フィ リップが前年ザクセン貴族の娘との重婚を強行し、道徳的非難を受けて 声望を失い、1531年福音派の諸侯と都市が結集したシュマルカルデン同 盟の指導者たりえなくなり、皇帝の懐柔策に服し、福音派陣営とヘッセ ン領邦国家の衰退を招いた時期なのであった。 【参照文献】  P.Baumgart, Die deutsche Universitat des 16. Jahrhunderts Das Beispiel Marburg, Hessisches/dlhrbt{ch ftir Landesgeschichte, Bd.28,1978, S.50−79.  G.A.Benrath, Die deutsche evangelische Universittit der Reformations− zeit, H.R6ssler u. G.Franz(hrsg.), Universitnt und Gelehrtenstand 140ひ 1800,Limburg/Lahn 1970,S.63−83.  P.Blickle, Die Reformation im Reich,2.Aufl. Stuttgart 1991.(田中真造・ 増本浩子訳『ドイツの宗教改革』教文館 1991年)。  K.E.Demandt, Geschichte des Landes Hessen,2.Auf1. Kassel u. BaseI 1972.  HDenifle, Die Entstehung derση⑫εパ批吻des Mittelalters bis 1400, Berlin 1885, Neudruck Graz 1956.  F.Gundlach, Die hessischen Zentralbehb’rden von 1247 bis 1604,3Bde., Marburg/Lahn 1930−1932. マー’レブルク大学の創設 2g(192)

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  W.Heinemeyer, Die Bildungspolitik Landgraf Philipps des GroBmUtigen von Hessen, Hess.乃. fLandesgsch. Bd.21,1971, S.100−128.   ders., Zur GrUndung des“universale studium Marpurgense”,W. Heinemeyer, T.Klein u. H.Seier(hrsg.), Academia Marburgensis. Beitrdge zzar Geschichte der PhiliPPs−Universitde’t Marburg, Marburg/Lahn 1977, S. 49−92.   ders., Das>universale studium Marpurgense〈, W.F.vBredow(hrsg.), 450/iZhre PhiliPl)s−Universita’t Marburg. Das Grdr’ndungsj’2イろi似μ〃τ 1977, Marburg/Lahn 1979, S.29−36.   H.Helbig, 1)ie  Entwicklung  der  deμtschen  〔ノitiversitdt  und  ih〃re gegenwde’rtigen Reformen, Tokio u. Kioto 1968. (小倉欣一訳「ドイツの大 学の歴史と現代的諸改革」、東洋大学『経済経営論集』第49号 1968年、131−142 頁)。   H.Hermelink(hrsg.),Reformation der Kirchen Hessens von 1526. Die sogenannte Homberger Kirchenordnung, Marburg/Lahn 1926.   H.Hermelink u. S.A.Kaehler, Die Philipps−Universitdt zuルfarbztrg 1527− 1927,Marburg/Lahn 1927.   B.Hildebrand, Urleundensammlung 励⑫γ die VeOfassung und Ver・ walimng der Universitdit Marburg ttnter PkiliPl)dem Groβmntigen, Mar− burg/Lahn 1848.   S.d’lrsay, Histoire des universiteSs franρaises etετ批㎎επs des ongines∂ nos iours, T.1, Paris 1933. (池端次郎訳『大学史』上 東洋館出版社 1988 年)。   W.Kolbe, Die Einfde’hrung der Reformation in Marburg, Marburg/Lahn 1871.  G.Kaufmann, Geschichte der deutschen Universitde’ten,2Bde. Stuttgart 1888−1896,Neudruck Graz 1958.  K.KrUger, Finanzstaat Hessen 1500−1567, Marburg/Lahn 1981.   F.KUch, Landgraf Philipp und die EinfUhrung der Reformation in Hessen, Zeitschnft des レ’e re inSノ諺γ hessische Geschichte u. Landeskzrnde, Neu Folge Bd.38,1904,S.210−242.  ders., Beitrage zur altesten Geschichte der Marburger Universittit, Z. d. V.f hess. Gesch. u.Lkd., N F Bd.46,1927, S.1−53.  ders., Qztellen zur Rechtsgeschichte der Stadt Marb”rg, Bd.1, Marburg/ Lahn 1918.

(30)

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(31)

 中村賢二郎『宗教改革と国家』ミネルヴァ書房 1976年。  島田雄次郎『ヨーロッパ大学史研究』未来社 1967年。  小倉欣一「ランデスヘルの租税政策と中世都市の自治  ヘッセン方伯居 城都市マールブルクにおける「都市と領邦」論  」、東洋大学創立80周年記 念『経済経営論集』特集号(経済学部編)、1967年11月、109−151頁。 本稿の執筆にあたって明治大学文学部別府昭郎教授からさまざまな御 教示をうけた。記して感謝の意を表する。

(32)

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