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文学 芸術 文化 第 27 巻第 2 号 Her Privates We とマニングの自由 大戦文学 を超えて 高 橋 章 夫 序 無名の作家によって執筆された ありふれたテーマの小説を世に売り出すにはど うしたらいいのだろうか 匿名で出版し あたかも大作家によって書かれた作品で ある

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無名の作家によって執筆された、ありふれたテーマの小説を世に売り出すにはど うしたらいいのだろうか。匿名で出版し、あたかも大作家によって書かれた作品で あるかのように宣伝するのはどうだろうか。1930 年、ロンドンで出版業を営むピー ター・デイヴィス(Peter Davies)はこのように考え、著者の名前を伏せたまま大々 的に宣伝し、『我ら運命の女神の二等兵』( 、以下 と略記)を 出版した。そしてデイヴィスの狙い通り、著者の正体を巡って文学界の大きな話題 となった。この小説は第一次世界大戦で西部戦線に従軍した兵士の姿を描いたもの であり、その著者の名はフレデリック・マニング(Frederic Manning)であった。 マニングは 1882 年にシドニーで生まれ、1903 年にイギリスに移住した。戦前の彼の 作品は、T. E. ロレンス(Lawrence)やエズラ・パウンド(Ezra Pound)といった 一部の作家に絶賛されたものの、彼は無名のままであった。大戦が始まると歩兵部 隊の二等兵としてフランスで従軍し、その体験をもとに を執筆した。デイ ヴィスの販売戦略が功を奏したこともあり、 は出版当初から大きな反響を呼 んだのだが、程なく絶版となり忘れ去られた。だが近年、修正主義の台頭に伴う大 戦文学の読み直しの過程で、この作品は再び脚光を浴び、複数の出版社から相次い で再版された。1 直接戦場を経験していない一世代後のジョージ・オーウェル(George Orwell) は、代表的な大戦文学は「犠牲者によって書かれた」ものであり、彼らは「耐える ことしかできなかった」と言う。つまりウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats)の言う、「受動的苦しみ」が従来の大戦文学のキャノンを特徴付ける 要素であった。2 に登場する兵士たちもまた、圧倒的な暴力の前に為す術も

Her Privates We とマニングの自由

―「大戦文学」を超えて

高 橋 章 夫

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なく殺されていく。だがそれだけではない。マニングは戦時中に友人に送った手紙 の中で、軍隊での生活について、「普通に考えれば最小の自由しかないと思えるよう な、まさにそのような状況で最大の自由を感じることが分かった」と記しており、 その思想は にも反映されている。3そのため、この作品に登場する兵士は従 来のキャノンとは異なり、従軍経験を肯定的に捉え、戦争に幻滅していないと論じ る批評が多い。その一方で、「兵士の絆」(comradeship)の限界や、官僚的な軍の 構造といった に描かれている従軍経験の負の側面を論じる批評家もいる。4 何れの立場であれ、このような批評は、 を「大戦文学」という枠組みの中 で表層的に論じているに過ぎない。確かにこの作品には、兵士の置かれた環境につ いて、そして兵士の持つ思想について、それぞれ個別に論じるに値する示唆に富む 記述が数多くある。中には相互に矛盾を来す記述も少なくなく、それがこの作品の 解釈が分かれている原因であろう。だがそれらの根底にあるのは、エピクロス主義 者としてのマニングの思想である。 に描かれているのは、従軍経験から引き 出された思想というよりもむしろ、すでに戦前から彼が持っていた思想の応用と実 践のように思える。さらには を執筆するという行為そのものも、このマニ ングの思想に沿ったものと言えるのではないだろうか。 本稿ではまず、主人公ボーン(Bourne)が置かれた環境を分析する。次にその 環境についてのマニングの見解を探るため、この作品のタイトルについて考察す る。そしてマニングの他の著作と に共通する思想を論じる。最後にマニン グとボーンの相違点を検証し、記憶を改変するために を執筆した可能性に ついて論じる。以上を通してマニングの考える自由という概念を分析し、いかにし て彼が自由を獲得したかを明らかにする。

ボーンの位置

匿名で出版された の著者が誰であるかを巡り様々な憶測が流れ、考えう る著者の一人として、反戦詩人として知られていたシグフリード・サスーン (Siegfried Sassoon)の名前が挙がることもあった。5しかし将校として戦争を経験 したサスーンに対し、 に描かれているのは軍の最下層に位置する二等兵の大

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戦経験である。 二等兵が軍隊の中で置かれる立場は、イギリス軍に農場を荒らされ激怒している フランス人女性への対応から見て取れる。少将は、「その女性の元に誰かを遣って 話させろ」と准将に言い、その命令は、准将から大佐に、大佐から副官に、そして 副官から下級将校に伝えられ、下級将校は二等兵のボーンを「この戦いの先頭に立 たせ」る。この「英国陸軍の責任の連鎖」によって、「上官の失敗の全ての責任は、 最終的に下士官兵の中の二等兵が負わされる」ことになり、ボーンは、この女性の 敵意を一人で受け止めることになる(166)。この女性とイギリス軍との「戦い」 は、現実の戦いの比喩でもあり、上官が犯した作戦上の誤りは下士官兵がその命で 責任を負う。ボーンもまた上官から半ば強制的に志願させられた夜襲で命を落と し、この物語は幕を閉じる。 だがマニングは、二等兵たちを単なる被害者として描いているわけではない。軍 の最下層に位置することによって被る不利益は、「取るに足らないもの」だと語り 手は言う。兵士たちにとって重要なのは、彼らを意のままに操り利用する「不可解 な力」への対処の仕方である。「良心の自由」を求める兵士に対し、不可解な力は、 「お前の自由は私の内にのみあるのだ」と誘惑する(182)。さらに語り手は、「戦争 には人間の本質以外のものなどない。だが人の暴力や情熱の総体は、非人間的で予 測不可能な力となる。それは集合的意志の盲目で非合理的な運動であり、人はそれ を制御することも理解することもできず、ただ耐えることしかできない」と述べる (108-9)。この「不可解な力」とは、原始的、集合的衝動であろう。個々の兵士の 衝動が集積すると非人間的な力となり、その力に操られた兵士たちによって戦争は 遂行される。 語り手によるこの抽象的議論は、兵士たちの交わす会話の中でより具体的に述べ られている。ある兵士は、「俺たちに責任があるのに神を責める奴がいる[……] 戦争を作ったのは人間なんだ」と述べる(150)。また別の兵士は、戦争は命の浪費 だと言う者であっても、武器を与えられ戦場に放り出されれば、「他の奴の命を浪 費することなど気にも留めないぜ。これっぽっちもね。そいつが気にするのは自分 の身の安全だけさ」と言い、さらに、「良心的兵役拒否者であっても追いつめられ たらドブネズミのように戦うぜ。それが人の本質ってもんさ」と主張する(76)。

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戦争を引き起こしたのも、それを継続しているも人間である。個々の兵士は、たと えこの戦争の全体像、大義には無関心であっても、そしてたとえ戦争を憎んでいて も、ひとたび戦場に身を置けば、それまでの主義主張を捨てて「不可解な力」に身 を委ね、自らの身を守るために無我夢中で戦う。そのような兵士の集団が戦争を遂 行する原動力になっており、それゆえ兵士は被害者であると同時に加害者でもあ る。 その詳細は後述するが、ボーンが「不可解な力」の虜になるのは二度だけであ り、それ以外の場面では冷静さを失うことはない。軍の中では同じ階級であって も、ボーンは他の二等兵とは異なる社会階級に属しており、両者が喋る言葉にその 違いが端的に表れている。敵の死体から奪った双眼鏡を部隊長に取り上げられた マートロウ(Martlow)は、ボーンに愚痴をこぼす。

“And now the bastard s wearin the bes pair slung round is own bloody neck. Wouldn t you ve thought the cunt would ’a’ give me vingt frong [20 フラン] for em anyway?”

“Your language is deplorable, Martlow,” said Bourne in ironical reproof; “quite apart from the fact that you are speaking of your commanding officer.

Did you learn all these choice phrases in the army?”

“Not much,” said little Martlow derisively; “all I learnt in the army was me drill an care o bloody arms. I knew all the fuckin patter before I joined.” (37-38) 標準英語を話すボーンとは異なり、他の二等兵はコックニーをはじめとする労働者階 級の英語を喋る。マートロウは、自分の言葉遣いは「入隊前から」のものだという。 平時から危険な仕事に従事している労働者にとって、兵役とは「単によりよい給料を 意味する」に過ぎない(56)。このような二等兵とボーンとでは属する社会階級は大 きく異なる。教養があり、おそらく裕福であろうボーンは将校にふさわしく、二等兵 たちの間では異質な存在である。逆に考えれば、ボーンは、そして読者の多くは平時 では経験できない異質な世界に放り出されたと言える。ボーンは彼自身について語る

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ことはほとんどない。その一方でマートロウの言葉遣いに興味を持ち、質問をし、さ らなる情報を引き出す。冷静で優れた分析力を持つ観察者ボーンと語り手との境界は 曖昧である。 は、語り手/ボーンの目を通して二等兵が経験した戦争を描いて いると言えよう。

ギルデンスターンの自由

ボーンら二等兵が置かれた環境についてのマニングの見解を探るため、この作品 のタイトルを考察する。 というタイトルは、そして『運命の女神 の中心部』( )というオリジナルのタイトルもまた、 『ハムレット』( )の二幕二場で、ハムレットが旧友のギルデンスターンと ローゼンクランツに再開する場面から取ったものである。 GUILDENSTERN: My honoured lord!

ROSENCRANTZ: My most dear lord!

HAMLET: My excellent good friends! How dost thou, Guildenstern? O, Rosencrantz! Good lads, how do you both?

ROSENCRANTZ: As the indifferent children of the earth.

GUILDENSTERN: Happy in that we are not over-happy, On Fortune s cap we are not the very button.

HAMLET: Nor the soles of her shoe? ROSENCRANTZ: Neither, my lord.

HAMLET: Then you live about her waist, or in the middle of her favours? GUILDENSTERN: Faith, her privates we.

HAMLET: In the secret parts of Fortune? O most true̶she is a strumpet. What s the news? 6

従来の研究ではこのタイトルには主に二つの意味があるとされてきた。一つは、運 命の女神にとっては「私人」(private individuals)に過ぎないギルデンスターンら

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と同じく、「二等兵」(private soldiers)は運命に翻弄される存在であるという見方 である。もう一つは、ハムレットがそう解釈したのと同様、このタイトルは運命の 女神の「秘部」(private parts)を表し、二等兵たちが交わす猥雑な会話をそのま ま再現し、彼らのありのままの姿を描写していることを表すという解釈である。7 ここでは、ギルデンスターンという人物を再考することによって前者の解釈を発展 させ、このタイトルに込められた別の意味を探る。  シェイクスピアは、ローゼンクランツとギルデンスターンを描きわけていない。 この引用場面では二人がハムレットに話しかけ、それに対しハムレットは、「二人 とも、調子はどうだ」と、同時に二人に応答する。その後はローゼンクランツとギ ルデンスターンが交互にハムレットと会話を交わす。「私どもは、運命の女神に とっては平民に過ぎません」というローゼンクランツの言葉は、その前の「可もな く不可もなくといったところです」というギルデンスターンの科白に対応する。両 者とも自分たちは平凡な人物であると述べており、自分たちの置かれた境遇に関す る見解を共有している。この二人は常に同時に舞台に登場し、同時に退場する。殆 どの場面で他の登場人物は、この二人を区別せずに同時に語りかける。それゆえこ の二人を異なるアイデンティティを持つ人物として区別することは困難である。 というタイトルは『ハムレット』から取ったものだと即座に気づいた読者で あっても、この台詞を喋ったのは、二人のうちのどちらかを覚えている者など皆無 であろう。  ローゼンクランツとギルデンスターンは、悲劇の舞台に見合う個性も偉大さも備 えていない。そのため二人の死の描写も他の登場人物とは異なる。ハムレットは、 彼を処刑するようにというイギリス国王に宛てたクローディアスの親書を、ローゼ ンクランツとギルデンスターンの処刑を要請する手紙とすり替える。デンマークに 戻った後、ハムレットは旧友二人の命を奪うことになるその行為を次のように正当 化する。

They are not near my conscience. Their defeat Doth by their own insinuation grow.

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Between the pass and fell incensed points Of mighty opposites. 8 ハムレットは二人が命を落とす原因は彼ら自身にあるとして、良心の呵責すら覚え ない。そしてクローディアスとの関係を、「力ある者」同士の決闘へと純化する。 これはまた、自分はクローディアスと対等な立場であるというハムレットの宣言で もあり、父親を暗殺した悪党クローディアスと、その仇を討つハムレットという構 図はもはや成立しない。さらにローゼンクランツたちはその決闘に割って入る「小 物」に過ぎず、その存在は場違いであるとする。この場面の直後に、ハムレット は、さらなる悪事がなされる前に悪党であるクローディアスを殺す必要性を説き、 自己正当化を行うが、ローゼンクランツたちの命を奪ったことに関しては無関心で ある。二人を利用したクローディアス、そして二人を処刑台に送ったハムレットが 舞台上で死んだ後にイギリスの使節によって二人の処刑が報告される。取るに足ら ない「小物」である彼らは、ハムレットとクローディアスの間から排除され、そし てその死すら舞台から消されることとなった。 クローディアスの手先として命じられるがまま任務を遂行し、ハムレットの策略 に嵌まり処刑される二人には自由などないように思える。だが、権力欲に取りつか れてハムレットの復讐を恐れるクローディアスや、父親の亡霊に取りつかれて復讐 に燃えるハムレットにこそ自由はない。なぜなら彼らは、「運命の女神」である作 者シェイクスピアによって定められた強烈な個性に支配されているのだから。その 一方でシェイクスピアは、「小物」であるがゆえにローゼンクランツとギルデンス ターンの個性や心理状態、思想といった内面を描写していない。ゆえに二人は、作 者であるシェイクスピアからも自由なのである。そのため、二人に焦点を当てたト ム・ストッパード(Tom Stoppard)の戯曲、『ローゼンクランツとギルデンス ターンは死んだ』( )のように、シェイク スピアの手を離れて自由にその内面を作り出すことすら可能なのである。 において、ローゼンクランツとギルデンスターンの位置を占めるのが二等 兵たちである。国家、あるいは軍、幕僚という「力ある者」同士の争いである戦争 という大きな悲劇の中では、二等兵一人一人は「小物」に過ぎず、その個性も人格

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も、さらにはその死すら問題にならない。彼らにとっては自分の死が誰によって、 どのような理由でもたらされるのかを理解することは、ローゼンクランツらと同様 に困難であろう。そしてボーンやマートロウの死は、戦争の行く末には何の影響も 与えない。ただ、戦場という舞台から消されただけである。 だからこそ彼らには自由がある。あまりに強大で「制御することも理解すること ができない」「自然の盲目の力のような」戦争から離れ、各々の兵士たちは独自の 世界を築く(42)。二等兵は皆、「周囲の環境に対して武器を取り、死に物狂いで自 分のために戦い、そして結局のところ、自分は孤独であるということを意識して」 いる。このような「自己依存が兵士の絆のまさに中心に位置している」のであ る。そのため、ある将校が「愛国心だの、犠牲だの、義務だのといった話をする と、彼らの視界を曇らせるだけ」であった(149)。愛国心や犠牲といったものは、 国家や連隊といった集団が重視する価値観である。そのような大きな集団の中で は、二等兵の存在はローゼンクランツやギルデンスターンと同様に脇役の「小物」 に過ぎない。だが兵士たちは、ハムレットでも、劇作家シェイクスピアでも、観客 でもない。それぞれがローゼンクランツ、あるいはギルデンスターンとして戦争を 体験する。確かに「力ある者」の前では無力である。だが彼らには他者や国のため ではなく、自分のために戦うという自由がある。たとえその思想や命の価値が、他 者から見たら取るに足らないものであったとしても、彼らは戦争に勝利するためで はなく、飽くまでも「自分のために」戦う。ゆえに兵士たち一人一人は最終的には 「孤立している」のである。 サスーンは自伝的小説の中で、「『偉大な冒険』とやらの中で、我々がいかに取る に足らない存在であるかを、われわれの中で知ることができる者は誰もいなか かった」と言う。9サスーンは兵士個人の持つ影響力の小ささに、そしてその命の 軽さに耐えることができず、反戦声明文を公表することになった。だがマニングに とっては、個と全体との関係性の薄さが、さらにはその命の軽さですら兵士の自由 を保障するものなのである。

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エピクロス主義者マニング

マニングの持つ自由と孤独の概念をより深く理解するために、 以外の彼の 著作を考察する。彼はソンムの戦いを経験した後に数編の詩を書いている。その中 の一つ、「自己充足」(“αὐτὐρκεια”)には、一兵士にとっての戦争目的と、孤独の 重要性が説かれている。       αὐτὐρκεια

I am alone: even ranked with multitudes: And they alone, each man.

So are we free.

For some few friends of me, some earth of mine,

Some shrines, some dreams I dream, some hopes that emerge From the rude stone of life vaguely, and tend

Toward form in me: the progeny of dreams I father; even this England which is mine Whereof no man has seen the loveliness As with mine eyes: and even too, my God Whom none have known as I: for these I fight, For mine own self, that thus in giving self Prodigally, as a mere breath in the air, I may possess myself, and spend me so

Mingling with earth, and dreams, and God: and being In them the master of all these in me,

Perfected thus.

      Fight for your own dreams, you. 10

ルパート・ブルック(Rupert Brooke)やサスーンらによって書かれた初期の大戦 詩と同様、この詩には戦場の具体的な描写は無く、戦争目的のみを語った抽象的な

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内容であり、「無垢な若者」によって書かれた戦争を賛美するロマンティックな詩 として読むことも可能であろう。だが「自己充足」は、語り手の孤独を強調してい る点が独特である。サスーンは「自由のために戦うわれわれは自由だ」と述べ、自 己と他者の境界を取り払い、「われわれ」に共通する戦争目的を付与している。そ れに対してマニングは、個々の兵士が孤独であることを強調し、他者に対しては 「君自身の」夢のために戦うよう促し、明確に自己と他者を区別している。 自分が海外で死ねば、その地は「永遠のイングランド」になるというブルックの 有名な一節は、自らの死によって、彼自身を包含するより大きな存在である国家の 一部として永遠の生を得ることができるとすることで、戦場での死に意義を持たせ ている。11一方マニングは、彼自身が誰よりもその魅力を理解している、そしてそ れゆえ他者と共有不可能な「私のイングランド」のために戦うと言う。マニングは 全体の一部として自己の存在を定義するのではなく、全体を排除し、個人の内部に 存在する固有の友人、大地、聖地、イングランド、神、そして夢のために戦うと言 う。他者の不在によって自己充足した世界を構築し、その世界を守るために戦うの である。 この詩の 15 行目で、「大地と夢と神と入り混じり、それらの中で、私の内にある これら全ての支配者となる」と彼は言う。外部に存在する大地や夢や神といった 「それら」と渾然一体となっている平時の状況では、他者との境界が不明瞭であ り、自己は不完全な存在だ。だが、「それら」の中から価値があると思える要素を 選択し、内部に取り込む。そして外界から遮断した「これら」を守るために戦うこ とによって、排除された「それら」との、さらには他者の戦争目的との境界を明確 化する。それによって自己を完全に把握し自由が得られるとする。このような戦争 目的を持っていたためにマニングは、砲撃を受けながら待避壕で書いた手紙で、 「周囲で起きていることにはほとんど無関心で」あり、「このような場所であっても 私の精神は自由なんだ」と言うことができたのである。12 この詩のタイトルである“αὐτὐρκεια”はエピクロスが重視していた価値観であ る。1926 年に出版された『エピクロスの道徳』( )の序文で、マ ニングはエピクロスとアリスティッポスの快楽主義を比較して次のように言う。

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Pleasure to the followers of Aristippus is nothing but the passive reception by the senses of some stimulus from an external object; and it is worth remarking in this connection, that in all those decisions which a man takes as it were against the sense of the world, in which he feels that he acts most freely and spontaneously, as in some passion of love or heroism, it is precisely at such moments that he ceases to control his action and becomes the irreflective puppet of necessity or fate. To the Epicurean, on the contrary, αὐτὐρκεια, a perfect self-mastery, was the condition of any free activity of the mind, of all the right choice [...]. 13

マニングにとって衝動的行為とは、たとえそれが英雄的行為に見えたとしても、刺 激に反応しただけの受動的行為に過ぎず、衝動に身を任すことは、「必然性や運命 の操り人形」になることである。能動的な選択を行うためには、完全な自制である αὐτὐρκεια の状態を維持することが不可欠であると言う。このエッセイの中でマニ ングは、ルクレティウスを引用し、「たとえほんの僅かであっても、選択の要素の あるところに自由の要素がある」とも論じている。14マニングにとって自由を獲得 するということは、心の平静を保ち、選択肢の存在を見出すこととほぼ同義であろ う。 この思想が にどのように反映されているのかを探るため、兵士たちの 行った選択と英雄的行為について、そして必然性や運命の、すなわち「不可解な 力」の操り人形となるボーンについて考察する。この作品中、最も明確な選択をす るのはミラー(Miller)兵長であろう。彼はソンムの戦いの直前に脱走し、逮捕さ れる。脱走に対する刑罰は軍規では処刑だが、実際に処刑されることは稀であり、 ミラーの死刑判決もまた 20 年の懲役に減刑された。

Miller would not, of course, go at once to gaol, the execution of the sentence would be deferred until the war ended [...]. That was where the absurdity arose, as Bourne understood the matter; because one could foresee that, when peace was restored, a general amnesty would be granted which would

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cover all cases of this kind; and the tragedy, but for the act of unspeakable humiliation which they had just witnessed, became a farce. (168)

仲間に臆病者と謗られる屈辱に耐えることができ、降格されることを厭わないのな らば脱走するリスクはほとんどない。それゆえミラーの軍法会議は「茶番」に過ぎ ない。ミラーの場合は二等兵に降格されたが、そもそも二等兵であるボーンたちが 仮に脱走し、逮捕されたとしても降格される心配はない。元の二等兵に戻るだけで ある。さらにはミラーがそうしたように、再び脱走することも可能だ。身の安全の 確保という観点からは、脱走は有効な選択肢の一つであり、そのことにボーンは気 づいている。つまり兵士たちは脱走しないことを、兵士として戦うことを選択した ことになる。たとえそれが消極的選択であったとしても、マニングの考えでは選択 肢の存在を認識することこそが自由なのである。 ミラーと対照的な存在がウィーパー・スマート(Weeper Smart)である。ウィー パーは敵を殺した記憶に取りつかれ、敵を殺すことを恐れ、戦争に対する不満、不 安を絶えず口にするので仲間から泣き虫というあだ名で呼ばれている。彼は、戦場 では自分の身の安全だけを考えていると、そして運よく負傷したら笑ってイギリス に帰ると公言する。それにもかかわらず、彼は脱走という選択肢を選ばない。その ような彼には「英雄的気質」があるとボーンは考える(194)。ウィーパーの英雄的 気質が発揮されるのは夜襲の場面である。上官がボーンに対し、夜襲に志願するよ う圧力をかけているのを見ていたウィーパーは、彼自身は何の圧力もかけられてい ないにもかかわらずこの作戦に志願する。その理由をボーンに尋ねられると次のよ うに答える。

When a seed that fuckin slave driver look at ee, a said to mysen, A m comin . A ll always say this for thee, tha lt share all th ast got wi us ns, and tha don t call a man by any foolish nicknames. A m comin [...]. (242)

(あのムカつくクソ野郎がお前を睨んでいるのを見て、俺も志願しようって 思ったんだ。俺はいつだってこう言ってやるぜ。お前はなんでも俺たちと分か ち合ってくれるし、他の奴のことを下らねえあだ名で呼んだりしねえ奴だと

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な。俺も行くぜ) ウィーパーは自らの意思で、ボーンを助けるためだけに危険な任務に志願する。そ して瀕死のボーンを背負って塹壕まで連れて帰る。ボーン/マニングの考えでは、 命を危険に晒してまで「自分とは全く無関係な」兵士を助ける行為は、車にひかれ そうな子供を見たらとっさに飛び出すようなものであり、「無意識のうちに行われ る向こう見ず」で「非人間的な」行為であって、英雄的行為ではない(79)。だが ウィーパーにとってボーンは特別な存在であり、ボーンを救うためには命を危険に 晒す価値があると考えた上で志願している。冷静な判断か否かについては疑問が残 るが、これは確固たる決意に基づく行動であり、少なくとも衝動的な行動ではな い。このウィーパーの行為こそがマニングの考えている英雄的行為に近いと言えよ う。 しかしマニングが論じていることは飽くまで理想であり、実生活では、とりわけ 戦場では αὐτὐρκεια の状態を維持し続けることは困難である。マニングの分身と してこのエピクロスの哲学を実践するボーンですら二度自由を失う。一度目はフラ ンス人少女に頼まれ、他のイギリス兵へのラブレターをボーンが英訳する場面にお いてである。少女の話を聞くうちに、「夢遊病のような状態で前線にいるその兵士 の悲惨な状況を完全に理解」したボーンは、その兵士と自分を同一視する。そして その少女から面と向かって、「愛しているわ」という言葉を聞くうちに、思わずそ の少女に抱きつく(117-18)。彼個人のアイデンティティは、会ったこともない他 の兵士によって乗っ取られ、さらに愛情という感情に流された結果、自制を失い、 宿命や運命の操り人形になるのである。 二度目は、マートロウが戦死した場面である。孤独を好むボーンではあるが、 マートロウとシェム(Shem)と常に一緒に行動することにより、「些細な経験の 共有によって強く結び付けられた」絆が芽生える(196)。彼らは「共通点の何一つ ない三人の男たちであった。それでも、彼らを結び付けている必然性ほど強い絆は なかった。彼らがそれぞれの独立を浸食することは一度も無かった」と語り手は彼 らの関係を説明する(232)。この三人を結び付けているのは必然性のみであり、異 動や負傷、死、戦争の終結によって彼らの関係は解消する。友人というより同僚と

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呼ぶ方が近いとも思えるが、それでもその強い絆が断ち切られた瞬間、ボーンの独 立は侵食される。マートロウの死を目撃し、逆上したボーンは次のように言う。

“Kill the buggers! Kill the bloody fucking swine! Kill them!” All the filth and ordure he had ever heard came from his clenched teeth; but his speech was thick and difficult. In a scuffle immediately afterwards a Hun went for Minton, and Bourne got him with the bayonet, under the ribs near the liver, and then unable to wrench the bayonet out again, pulled the trigger, and it came away easily enough.

“Kill the buggers!” he muttered thickly. (217)

銃剣で敵兵を殺害する行為を冷静に詳述する語り手を背景に、普段の冷静さを失 い、「彼が耳にしてきたあらゆる卑猥で下品な言葉」を口走るボーン。語り手/マ ニングから分離したボーンは他の二等兵の言葉を喋る。自己と他者の境界は崩壊 し、不可解な力に身を委ね、己の言動を選択することが不可能な状態でボーンは敵 兵を殺す。 この二つの場面で、他者との境界が消失したボーンは、αὐτὐρκεια を、そして自 由を失い衝動的行動に走る。この衝動的行動の集合体こそが不可解な力となり、戦 争を遂行する原動力となっている。そのことを熟知しているボーンですらその力か ら逃れることはできないのである。

マニングの従軍経験と記憶の改変

ボーンが行った最も重大な選択は、将校になることを頑なに断り続けたことであ る。果たしてこれは正しい選択と言えるのだろうか。エピクロスの教えに従えば、 苦痛を避ける選択をすべきであろう。しかしボーンの行った選択が肉体的苦痛をも たらすことは明白だ。確かにマートロウたちと一緒に行動することで得られる、穏 やかな快楽を求めたと考えれば説明はつく。マートロウはボーンに対し、将校にな る気があるのか尋ねるが、それは「ドイツに投降するのかどうかを聞くようなも

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の」であった(132)。他の兵士と互いの独立を侵害せずに付き合うには対等な関係 でなくてはならない。またボーンは、将校になれば「身動きの取れない非人間的な 機械」の一部になると言う(92)。将校よりも下士官兵の方が、個人の戦争目的、 孤独、そして自由を維持することは容易であろう。だがそれらに加え、マニングの 従軍経験がボーンの選択に影響を及ぼしたのではないだろうか。マニングの戦争体 験を、アーネスト・ヘミングウェイ(Earnest Hemingway)とポール・ファッセル (Paul Fussell)の 評と合わせて考察し、マニングが何を書くことを、そして 何を書かないことを選択したかを検証する。 ヘミングウェイは について次のように述べている。

It is the finest and noblest book of men in war that I have ever read. I read it over once each year to remember how things really were so that I will never lie to myself nor to anyone else about them.

As they get further and further away from a war they have taken part in all men have a tendency to make it more as they wish it had been rather than how it really was. So each year in July, the anniversary of the month when I got the big wound, I read [ ]. 15

イタリア戦線で、赤十字に所属する傷病兵輸送車の運転手であったヘミングウェイ が、西部戦線で、歩兵部隊の二等兵であったボーンを描いた を繰り返し読む という。その理由が、「現実の状況がどうであったかを思い出し、自分自身に、そし て他人に嘘をつかないため」というのは説得力に欠ける。脚色されているとは言え、 ヘミングウェイ自身の体験に基づいた、『武器よさらば』( , 1929) ではなく、なぜ全く異なる体験が描かれている を読むのか。その理由は、彼 自身の不完全な戦争体験を補うため、つまりは嘘をつく0 0 ためではなかろうか。  『アフリカの緑の丘』( , 1935)において、ヘミングウェイは 戦時中に負傷した時のことを次のように振り返っている。

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suddenly how a bulk elk must feel if you break a shoulder and he gets away and in that night I lay and felt it all, the whole thing as it would happen from the shock of the bullet to the end of the business and, being a little out of my head, thought perhaps what I was going through was a punishment for all hunters. Then, getting well, I decided if it was a punishment I had paid it and at least I knew what I was doing. I did nothing that had not been done to me. I had been shot and I had been crippled and gotten away. I expected, always, to be killed by one thing or another and I, truly, did not mind that any more. Since I still loved to hunt I resolved that I would only shoot as long as I could kill cleanly and as soon as I lost that ability I would stop. 16

ヘミングウェイは、負傷した彼自身とヘラジカとを重ね合わせ、「私は自分の身に 降りかからなかったことは何一つやっていない」と主張する。だが彼は戦争で殺さ れてはいないにもかかわらず、動物を殺してきた。狩猟を趣味とする者にとって、 獲物を殺すことはその趣味に必然的に付随する行為であるが、獲物を仕留め損な い、いわゆる半矢状態にして苦痛を与えることは過失であり恥でもある。人間と動 物という違いはあるものの、殺害という行為よりも負傷時の苦しみを重視している ようだ。そして彼が負った傷の苦しみは、彼自身がそれまでに傷を負わせた動物以 上の苦しみであったがために、「全ての」狩猟家に対する罰とする。したがってこ の負傷により彼は十分すぎるほどの「償いを終えた」ことになり、「一発で獲物を 仕留める腕がある限り」つまり獲物に苦痛を与えない限りは狩りを続ける権利があ ると考える。ヘミングウェイの考え方は、 の序文中の、戦争は「人類に対す る犯罪」というだけではなく、「犯罪に対する処罰でもある」というマニングの記 述と共通点がある(vii)。だが殺し、殺される、つまり加害者であると同時に被害 者でもあるボーンとは違い、ヘミングウェイは一方的に銃撃されただけの被害者に 過ぎない。このような体験は、彼にとっては不完全な戦争体験であったのだろ う。そこでボーンの体験を媒介として、狩猟を自身の負傷と結び付け、完結した物 語/記憶を構築しようとしているのではないだろうか。彼は、その言葉とは裏腹 に、自身の戦争体験を「そうあって欲しかったと望む形に変え」ようとしているよ

(17)

うに思える。

 ではマニングの戦争体験は、ボーンのものとどのように異なっているのだろう か。ファッセルは、1990 年に出版された のペンギン版の序文で次のように 言う。

In October 1914, when the war was only a couple of months old, Manning joined the King s Shropshire Light Infantry as a private, refusing a commission, and before long he was in the thick of the fighting on the Somme. Like Siegfried Sassoon and Edmund Blunden and Wilfred Owen and Issac Rosenberg, he was writing “war poems” [ ] in 1917. Later, he was commissioned in the Royal Irish Regiment, but he hated being an officer, and when he was accused of insubordination, it was found that his curious behavior, like Sassoon s, was the result of shell shock, and he was sent to the rear for the remainder of the war. 17

マニングが亡くなった際の新聞各紙の追悼記事にも、自らの意志で将校になること を断って二等兵として従軍したと書かれている。18だがそれは飽くまでボーンの従 軍記録であり、マニングのものではない。 マニングは 1914 年 11 月、イギリス陸軍航空隊の将校に志願したものの、視力が 悪かったためか却下された。19そして 1915 年 10 月にキングス・シュロップシャー 軽歩兵連隊に二等兵として入隊し、南ウェールズで訓練を受けた。1916 年 4 月に ようやく士官候補生となったが、宿舎に禁止されているアルコールを持ち込むとい う軍規違反を犯したため、二等兵のまま前線に送り出され、6 月にソンムの戦いを 経験した。それから約半年間のことが には描かれている。ボーンは嫌々な がら将校に志願し、士官候補生としてイギリスに戻る直前に戦死したのだが、マニ ングはその後どうなったのだろうか。マニングは 1917 年 5 月、ようやく王立アイ ルランド連隊の少尉となり、アイルランドに駐屯する。だが 7 月に、またもや禁止 されていた飲酒が見つかり逮捕された。翌月、彼は軍法会議にかけられ戒告処分を 受けた。その数日後に体調不良を訴えたマニングは、シェル・ショックと診断され 入院することになった。だがそれでも飲酒を止めることはできなかった。周囲の

(18)

人々の助けもあり辛うじて二度目の軍法会議を逃れたマニングは、1918 年 2 月に 軍を去った。彼は、休戦の一月前に再び将校に志願したが却下され、民間人として 休戦を迎えた。休戦の二日前に友人に宛てた手紙の中で、「最後までやり通せな かったことをずっと後悔することになるだろう」と彼は漏らしていた。20 描かれている期間を除き、マニングの従軍経験はアルコール依存症のため、挫折の 連続であり不名誉なものであった。つまり に描かれていないことこそが、 マニングにとって最も思い出したくない大戦経験であったと言えよう。マニングが この事実を語ることはなく、長年の付き合いがあり、戦時中も頻繁に手紙のやり取 りをしていた友人ですら、マニングはボーンと同じく自分の意志で将校になるのを 断ったと信じていた。21 マニングは、戦前に出版した『光景と肖像』( , 1909)の中 で、エピクロス主義の抱えるパラドックスについて、「われわれに穏やかな快楽を 勧める一方で、得ることが不可能な欲望を追い求めるだけであるとして人生すべて を否定する」と指摘する。22これは、エピクロス主義は人生の無意味さを理解した 上で、その苦痛を軽減する方法を示す実践哲学である、という意味でありエピクロ スを批判しているわけではない。マニングにとってエピクロス主義は、望むものを 得られない苦痛から抜け出し、僅かなもので満足するための方策を提示してくれる ものであった。将校として従軍するという、彼の社会階級ならば当然と思われるこ とであっても、時には到達し難い目的になることがある。そのような状況下で心の 平穏を手に入れるため、マニングは自らに課せられた二等兵という立場を受け入 れ、そこに肯定的価値を、つまりは選択肢の存在を見出そうとした。たとえわずか なものであっても、選択肢が存在することが自由である証明になるのだから。さら には二等兵という立場を、自らの意志で選択したと繰り返し述べることによって、 将校になるか、それとも二等兵のままでいるか、という現実には存在しなかった選 択肢を新たに作り出したのである。ヘミングウェイが指摘したように、そしてヘミ ングウェイ自身と同じように、マニングもまた戦争経験を自分の望む形に改変しよ うとしたのである。 ファッセルも例外ではない。彼がこの序文を執筆する二年間に出版されたマニン グの伝記の中で、ジョナサン・マーウェル(Jonathan Marwil)は、非公開の従軍

(19)

記録を閲覧する許可を取り付け、そして関連する資料を収集し、マニングの従軍記 録を明るみに出し、彼が将校の地位に拘泥していたことをすでに突き止めてい た。ではなぜファッセルはマーウェルの伝記の存在を見落としたのか。おそらく彼 は序文を執筆してはいるものの、この作品にあまり興味を惹かれなかったのではな いだろうか。ファッセルは、大戦文学を論じた彼の代表作、『大戦と現代の記憶』 ( , 1975)の中では に言及すらしていな い。23この著作でファッセルは、ノースロップ・フライ(Northrop Frye)の神話 論を援用し、大戦経験を経てロマンスの時代からアイロニーの時代へ移行したと論 じている。彼の論では、「あらゆる戦争は予想していた以上に悪いものである」の で、戦場を経験した兵士は幻滅しなくてはならない。24それゆえ、最後まで幻滅す ることなく死んでいくボーンの思想を消化することができなかったのではないだろ うか。ファッセルは、先述の引用箇所からわかるように、サスーン、ブランデン、 オーウェン、ローゼンバーグといった、彼が『大戦と現代の記憶』の中で好んで論 じた詩人の名前を列挙し、そこにマニングを埋め込むことによってマニングの個性 を希釈し、ファッセルが構築した大戦観の枠組みに強引に埋め込もうとしてい る。 『大戦と現代の記憶』の執筆動機は、ファッセル自身の従軍体験に端を発する。 彼は第二次世界大戦に従軍し、目の前で仲間を失った。戦後、戦争の意味について 苦悩していた折にヴェトナム戦争が勃発した。「歩兵の苦しみを想像することがで きない」メディアの報道に嫌気がさしていた彼は、「何度も泣き叫びながら」『大戦 と現代の記憶』を執筆するという行為を通して、「ふさわしい憐憫の記憶を蘇らせ る」ことに専心した。25この行為を通して、ヴェトナム戦争によって呼び起こされ た第二次世界大戦時の不快な記憶を第一次世界大戦で置き換え、さらにその論の中 心にアイロニーを置くことで、自身の戦争体験から距離を取ろうとしたのではない だろうか。 マニングは、戦闘直後に書いた手紙の中で、「余りに直接的過ぎる」経験を「分 類し、分析することはまだできない」と言う。26余りに大きな物語である戦争の内 部で、非常に限られた視野しか持たない一兵士の経験は、支離滅裂な断片に過ぎな い。その体験を他者に、そして自分自身に語るためには意味のある物語を構築する

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必要がある。その物語の著者には、何を語り、何を語らないかを取捨選択する、さ らには虚構を加える自由がある。ヘミングウェイは、彼自身の戦争体験から欠落し ている加害者としての体験を、 を読み、戦争体験を狩猟と結びつけることで 補った。ファッセルは、自分が経験していない第一次世界大戦を論じることでより 大きな物語を築き、自身の体験を客体化した。そしてマニングはエピクロス主義を 利用し、軍隊での体験から自由を得た。さらにボーンという人物を作り出すことに より、他者の選択によって将校に「なれなかった」事実を、彼自身の選択によって 将校に「ならなかった」ことにしたのである。

結論

は主戦小説でも反戦小説でもない。マニングの関心の中心は、人の自由を 奪う「不可解な力」であり、戦争はその結果であって原因ではない。それゆえ戦争 そのものを肯定しようが否定しようが、彼にとっては大した意味はない。その現象 を分析し、理解し、限界はあるもののそれに対処し、自由を確保する方法を提示す ることがこの小説の主要なテーマであろう。そして の執筆それ自体が、彼 が提示する方法の彼自身による実践でもあった。 喘息の持病がありながら過度の飲酒と喫煙を止めることのなかったマニングは、 インフルエンザを併発し、1935 年、52 歳でこの世を去った。マニングを「間違い なく最高の散文作家の一人」であると、そして を「最高の大戦文学」であ ると評価し、彼の葬儀にも参列した T. S. エリオット(Eliot)は、「彼は独自の文 体と思想を持っており、それは今の時代よりも文明的で、教養ある時代に相応し かった」と言う。27だがマニングは、エピクロス主義に基づく彼の思想を実践する ことで、この野蛮な時代を生き抜くことができたとも言えよう。そしてこの野蛮な 時代は、彼の持つ思想を深め、その限界を探るには最も相応しい時代だったのかも しれない。

(21)

謝辞

本研究は JSPS 科研費 22510291, 15K02306 の助成を受けたものである。 本稿は、日本英文学会関西支部第 5 回大会(於・大阪市立大学、2010 年 12 月 18 日)におけ る口頭発表原稿に、大幅な加筆と修正を加えたものである。 1.この作品は、 というタイトルで 1929 年に 520 部のみ出版さ れていた。その翌年、タイトルを に改め、兵士たちによって交わされる猥雑な会 話を修正した版が出版された。本稿では、この作品からの引用は、タイトルのみを一般 に知られている に改めた以下の完全版を用い、ページ番号を括弧内に記す。

Frederic Manning, (1929; London: Serpent s Tail, 1999).

2.George Orwell, “Inside the Whale” (1940), ed. George Wickes (Carbondale: Southern Illinois UP, 1963), 42; William Butler Yeats, “Introduction,”

(1936; Oxford: Clarendon, 1978), xxxiv.

3.Jonathan Marwil, (North Ryde: Angus and

Robertson, 1988), 179 に引用。

4.Brian Bond, (London: Continuum,

2008), 75-83; Sarah Cole,

(Cambridge: Cambridge UP, 2003), 145-49.

5. [London] 10 February, 1930: 19. サスーン自身は、1930 年 4 月に共通の友 人からこの作品がマニングによって書かれたものであると知らされた。また、マニング

の熱心な読者であった T. E. ロレンスは、 の著者がマニングであると即座に見破っ

た。Siegfried Sassoon, , ed. Rupert

Hart-Davis (London: Faber and Faber. 1986), 9; Marwil, 256-57.

6.William Shakespeare, , ed. G. R.

Hibbard (Oxford: Oxford UP, 1998), 215.

7.Marwil, 272; Jonathan Bate, (London: Picador, 1997), 211-12; William Boyd, “Introduction,” , x-xi; Verna Coleman, :

(22)

(Melbourne: U of Melbourne P, 1990), 160-61. 8.Shakespeare, 338.

9.Siegfried Sassoon, (1937; London: Faber and

Faber, 1972), 302.

10.Frederic Manning, (New York: E. P. Dutton, 1917), 29-30.

11.Siegfried Sassoon, “Absolution,” (1917; London: William Heinemann, 1918), 13; Rupert Brooke, “The Soldier,”

(1932; London: Sidgwick & Jackson, 1934), 148. 12.William Rothenstein,

(New York: Coward-McCann, 1932), 296.

13.Manning, “Introduction,” , trans.

Walter Charleton (London: Peter Davies, 1926), xli. 14. ., xxxiv.

15.Ernest Hemingway, “Introduction,” , ed.

Ernest Hemingway (1942; New York: Bramhall House, 1979), xvi-xvii.

16.Ernest Hemmingway, (1935; New York: Scribner, 2003), 148. 17.Paul Fussell, “Introduction” (1990),

. (1929; New York: Penguin, 1990), xi-x.

18. [London], 26 February, 1935: 19; , 8 January, 1938: 13. 19.マニングの従軍記録は、Maewil, 159-93 を参考にした。

20.Marwil, 193 に引用。 21.Rothenstein, 293.

22.Frederic Manning, (London: John Murray, 1909), ix-x.

23.Paul Fussell, (1975; Oxford: Oxford UP, 1977). 24. ., 7.

25.Paul Fussell, (Boston: Little, 1996), 266-67. 26.Rothenstein, 295.

27.T. S Eliot, , ed. Valerie Eliot and Hugh

参照

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