ハンス・ヴェルツェルの自然法論(3)(古代自然
法論・中世自然法論)
著者名(日)
後藤 静思
雑誌名
東洋法学
巻
39
号
1
ページ
31-75
発行年
1995-09-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00000517/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.jaノ¥
ンス・ヴェ
ルツ
工
ルの自然法論◎︵古代自然法論・中世自然法論︶
後
藤
静
思
目 次萸洋滋学
日(⇒(一)
654321
ストア学派 ︵以上 アリストテレス プラトン ︵以上 ソク“フ一アス ソフィストの自然法 自然法の前段階 ﹁古代自然法﹂ ﹁自然法と実質的正義﹂ はじめに の﹁序文﹂ 三八巻一号︶ 三八巻二号︶ 四 古代自然法に対するヴェルツェルの視点ノ、ンズ・グェノレツェノクのβ.撚滋読卜β ㈲ ﹁キリスト教的中世自然法﹂ ー キリスト教世界への移行。 パウロとアウグスティヌス 2 トマス・アキナス ︵以上 本号︶ 3 ヨハン・ドン・スコトゥス 4 ウイルヘルム・フォン・オッカム 5 後期スコラ学派と近代への移行 四 古代自然法に対するヴェルツェルの視点 ﹁序文﹂、﹁古代自然法﹂のヴェルツェルの論述を示したところで、そこに現れた、ヴェルツェルの視点を、整 理してみたい。 ︵−︶ ー ヴェルツェルは、本書において、次の目録の順序、﹁古代自然法、キリスト教的中世自然法、近代自然法、 ドイツ・イデアリスムス、現代、回顧﹂と考察・論述を進め、自己の思索を示して結論に及んでいる。 そこで、以下にその目録を示す。 ﹁序文、第一部 古代自然法 第1章 自然法の前段階 第2章 ソフィストの自然法 第3章 ソクラテス 32
戻洋滋学
第4章 第5章 第6章 第二部 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第三部 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 ロフラトン
アリストテレス ストア学派 キリスト教的中世自然法 キリスト教世界への移行”パウロとアウグスティヌス トマス・アキナス ヨハン・ドン・スコトゥス ウイルヘルム・フォン・オッカム 後期スコラ学派と近代への移行 近代自然法 近代自然法の基礎 トマス・ホッブス フウゴウ・グロティウス サムエル・プフェンドルフ ゴットフリート・ウイルヘルム・ライプニッツ ジャン・ジャック・ルウソウ 33ハンズ・ウ』ノレツェノレの々、撚滋誘卜ξフ 第四部 第1章 第2章 第3章 第五部 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第六部 以上が、その目録である。 ヴェルツェルが、 した段階で判断が示される。 2 ヴェルツェルの視点 ドイツ・イデアリスムス︵カントとへーゲル︶ 自然法の崩壊と自然法の実質問題の存命 カ ン ト
ヘーゲル
現 代 実証主義と新カント学派 マルクス主義生の哲学
実存主義
自然法の再生と法神学 回 顧 ﹁変わらずにあり続けるものは何であろうかP﹂ 自然法、実質的正義の問題を如何に把握したか、その問題点如何は、 本書の論述の全体を示 34戻洋芸学
①﹁正しい社会行為の実質的原理の探求﹂の視点である.人類の永いこの探求の歴史の中心に、西欧におい ては、自然法が存在するのを見ている。ザハリッヒ︵ω8臣昌︶という用語は重要である。ヴェルツェルの﹁事物 論理的構造︵ω碧包○ひQ凶零冨誓毎算霞︶﹂、﹁事物の自然︵Z讐貫αRω碧冨︶﹂の視点が現れている。 アリストテレスが、帰責の諸原理の領域で、実際に経験に基づいて看入洞察がされるが、しかし、その経験か ら独立し、あらゆる可能な個々の経験に妥当する洞察の可能な分野を発見したとし、それは、﹃人間行動の構造と 範疇的要素﹄、﹃責任判断の本質的要件﹄に関わるものであり、それは、まさに、﹃正義の要件﹄として、﹃特定関 係における正義の内容を具体化し確定する厳密に普遍妥当な実質関係﹄に当たると見ている。 ②倫理︵道徳︶と法とは、人間の正しい社会行為の準則として、共通・共属の規範であり、正しいこととし て法の命ずることは、正しいこととして倫理の命ずることと原理的には異なり得ないという。正しい社会行為の 実質問題は、倫理にも法にも同じであらねばならないとし、倫理と法とが、道徳性と合法性として最も遠く離れ て現れる面は、行為に対する行為者の心理、心意・心情︵O①ω営壼轟︶の側面︵主観的条件︶の問題であるが、良 心の問題、責任の問題は、倫理と法において異なることはないとする。法の本質的根拠は、﹁正しさ﹂、﹁良心の承 認する義務﹂にあり、﹁強制﹂ではないとする視点、正しい法こそは、人間存在の本質的根拠であるとの視点を示 している。そこから、法と倫理を極端に分離する立場、法律実証主義に対するヴェルツェルの批判が後に論述さ れるところである。 ③自然法の歴史は、﹁この実質的課題を志向し追及して止まない歴史精神﹂の﹁単一性﹂を示していて、自然 35ノ、ンズ・グンノレツェノレの々ノ撚1滋読》ξ1 法論は決して矛盾混乱した意見学説の集積ではなく、事実と結び付いた討論の中に、テーマに即した解決の可能 性を人類は展開してきているし、さらに展開して行くであろうとの視点を示している。 ④人間の本質に関する根源的に対立する二つの見解から出自する、二つの本質的に異なる自然法体系、即ち、 理念的自然法論︵人間の本質は、理性、ロゴス、ラティオによって決定される︶と実存︵現実存在︶的自然法論 ︵人間は、理性以前の意欲、感情によって決定されるか、生命的欲求衝動によって決定される︶とが、あらゆる 時代に存在したという洞察は、自然法理論の理解の基礎となるものであり、理念的自然法にのみ目を止めるのは、 自然法の一面の像を得るにすぎないとの視点を示している。古代自然法において、理念的自然法は、ソクラテス、 プラトン、アリストテレスと展開し、ストア学派で、形態的にも完成を示し、以後の自然法論の鑑となっている が、ソフィスト自然法論の中に、民主主義の人間学的基礎や、﹁人間性︵人道︶の理念﹂﹁奴隷制否定論﹂が現れ ていることを見ている。また、プラトンの論述の中に、絶対的真実の中に自己が居ると信ずる者が、他の個人の 自由やその主観的道徳性を最高に否認する例を見ている。 知恵ある者の自己過信による過誤として、﹁個人の自律、個人の自由の価値﹂、﹁倫理の主観的側面の固有の価値﹂ の無視を見ている。 ⑤自然法論を、主知主義と主意主義に分ける視点を示している。そして、古代自然法はギリシャ思想の特色 から、理念的自然法論も実存的自然法論も、ともに主知主義であるとし、中世キリスト教的自然法論において主 意主義の明白な展開を論ずるのである. 36
善悪、正義・不正義について、﹁正義は神の御心に適うがゆえに、正義なのであろうか、或いは、正義なるがゆ えに神が喜び給うのであろうか?﹂という問題を提示して論述するのである。 ⑥自然法における﹃先決問題要求の虚偽﹄︵冨葺δ虞冒9旨︶の視点が繰り返し示される.自然法論者が、﹃自 然に適う﹄から﹃善である﹄とする論法は、循環論法であり、﹃善﹄によってのみ規定されるにすぎない﹃自然に 適う﹄ものが、外観上は﹃善の規定根拠﹄に転換しているのは虚偽であるとする視点である。すでにカントの批 判哲学を経過した立場において、また、理性的分別の次元では、この視点は正当と見えるし、具体的事例検討で は、この視点を正当とすべき事例が多いのであろう。しかし、この視点は、なお検討を要する根本的問題を含み、 東洋哲学における、主客未分の純粋経験の立場、無分別智の立場、仏教的般若智の立場からもまた照らし見るべ き問題と思う。 ︵2︶ 国 キリスト教的中世自然法
葵洋瑳学
ヨーロッパの諸国家・諸民族の固有の民族性・風俗習慣の他に、ヨーロッパ文化を支える大きな三本の柱は、 一本は、ギリシア・ローマ文化の伝統であり、一本は、キリスト教の信仰・思想の伝統であり、もう一本は、自 然科学及びその思想である。 ヴェルツェルは、第二部﹁キリスト教的中世自然法﹂を、ー キリスト教世界への移行、パウロとアウグステ ィヌス、2トマス・アキナス、3ヨハン・ドン・スコトゥス、4ウイルヘルム・フォン・オッカム、5後 37ハンズ・ウとノレツェノ〃の首ノ撚滋誘卜ξノ 期スコラ学派と近代への移行、に分けて論じている。 ︵3︶ ー キリスト教的世界への移行、パウロ︵つー①刈”︶とアウグスティヌス︵ω竃ム8︶ ヴェルツェルは、この論題について、大要次のごとく述べている。 ﹁ギリシャ文化は、その生み出した自然法に、﹃ギリシャ文化の精神﹄を刻印しているのであって、そのこと は、ヘレニズム︵後期ギリシャ文化︶やローマ文化から非ギリシャ的なもろもろの力が成長増大して自然法に協 力した場合でも、変わらないところである。 ギリシャ・ローマ自然法は、鋭く対立する、﹃二つの理論﹄に分かれている。一方は、ソフィスト学派の﹃実存 的自然法﹄︵霞ω一ω8旨芭一8Z簿貫おo拝︶であるが、この理論を最尖鋭に極端化したのがカリクレス︵内巴詩一8︶ の権力説︵寓霧拝浮8ユ①︶であり、ローマ時代には、大学教授カルネアデスがそれを弁護している。他方は、こ の理論に反対するプラトン、アリストテレスの理想主義的立場であって、この立場は、ストア派が与えた外的形 態︵窪詔お089εにより、その後の自然法論の運命を決定的に規定したものである。この両者は、しかし、 その深い対立性にもかかわらず、﹃同一精神﹄の子供であって、この精神︵OΦ一ω樽︶が、両者に同じ標識を︵量ω牲α9Φ 冨Φ詩B巴︶、積極的表現形式によるか、消極的表現形式によって、与えているのである。その﹃標識﹄︵鋸Φ詩ヨ巴︶ とは、﹃理性︵くΦ旨彗εに対する意志︵≦旨窪︶の強い後退﹄︵ω$爵のN畦冒算おけ9︶ということであり、それ 故に、これを、﹃ギリシャ的主知主義﹄︵α窪鴨δo窯ω魯9ヲ富一一魯9巴δB霧︶と称するのが常である。 あらゆる真正な判断において、理性により判断が十分に覆い尽くされ得たと言うことなしに、意志によって遂 38
萸洋滋学
行される﹃冒険の行為﹄︵①営︾葬α8巧詔良器ω︶というものは、理性的熟慮により合理的に処理解決される事 柄に対して、いつも、超過分を差し込む︵ω8良Φ営国拐︶ことになる。判断のこの冒険を無視するか、その判断 は理性的熟慮の機能であると称するか、十分な理性的防御︵U9ざ鑛︶のないこの判断を盲目的衝動に帰せしめ て動物的心層に編入するかするのが、主知主義の特徴である。この場合において、意志︵≦旨①︶は、完全に﹃理 性﹄︵くΦヨ§εの中に解消されるか、完全に﹃衝動﹄︵↓ユ3︶の中に解消されるかすることで、判断の場におけ る意志の特別な機能は見損なわれ︵<o爵き耳︶ている。この様な主知主義は、ギリシャ思考において、語源の中 に証明できるところである。ポーレンツとシュネル︵勺o霞Φ自⋮αω魯器εは、ギリシャ語は、純粋な活動とし ての﹃意欲﹄︵≦○=窪︶の為の言語を知らず、そして、それに応じて特別な精神機能としての﹃意志﹄の為の言語 ︵4︶ を知らないことに注意を向けた。積極的精神活動を表現する二つの動詞のうち、﹃の8一①冒﹄は、ある事に対して用 意する︵ωRα房3鉱什︶こと、特に、未知の刺激に応じて何かをしようとして用意することを表現し、他方、自己 ︵5︶ ︵6︶ の自発的活動性は、﹃げo巳のω鼠一﹄という言語が表現する。後者は、語幹♂o巳Φ﹄において、﹃熟慮と審議﹄の知的 活動を指示している。それゆえに、ギリシャ人には、自発的意志︵αR89$器≦箒︶は、熟慮と審議の一機能 であるか、或いは、盲目的衝動︵①ぎ望ぎ血R↓践3︶である。我々が﹃意志﹄と名付けるものは、ギリシャ人に おいては、或いは、情動から︵く9︾陳Φ痒︶、或いは、認識から︵<自αR国詩①目9一ωげR︶把握されていた︵シ ュネル︶。 この﹁﹃主知主義﹄は、ギリシャ自然法の中に忠実に反映している。法は、永遠なる理性真理︵①昌鴨くR崖ロ津毛甲 39ノ、ンズ・グェノ〃ツェノ〃の首.撚1法読》β ぼびΦδの機能であるか、または、生命衝動的力の貫徹︵証け巴−鼠Φ喜駄δ①竃㊤9&畦9ω9釜轟︶であるかであ る。いずれの場合にも、意志活動︵≦罠窪鐙葬︶の特別な独自性は否認されている。理念的自然法において、意 志は、ロゴス︵Uo碧ω︶があらゆる永遠性から指し示す理念的可能性の執行者︵く○房霞Φ畠R︶に過ぎないし、生 命論的自然法︵匿ω4貫房蔚冨Z簿霞おo窪︶においては、意志は、盲目的衝動の中において︵言窪且9↓ユ3︶ 完全に消失する。一方では、具体的局面における、判断の合理的非緊急性︵象①鍔江自巴Φd巳ユ蕗一一9ぎ津α段 国耳ω9巴魯鑛9︶、そして、他方では、新しい可能性の創造的な自由設定︵象Φω998ユω9律①8ω9豊鑛⇒①仁R 竃○畠浮穿簿窪︶は、この主知主義的思考形式において、何等の場所を持たない。この主知主義が、﹃独創的な意 志行為﹄を︵α窪ω号9けユ魯窪≦⋮Φ鍔鋸算︶理性的完全性を汚すものとして、如何に強く把握していたかは、 ﹃無﹄からの世界創造を拒否するアリストテレスの理由付け以上に明瞭に示すものは恐らくないであろう、﹃世界 は創造されたものではない、何となれば、そのような絶妙な﹃しわざ﹄︵≦①詩︶が、或る新規な意志決定に基づ いて始められることは有り得ないからである﹄と言うのである。マイヤー︵甲困亀R︶が、アリストテレスの神 は意志を持たないと言ったのは正しい。 しかし、プラトンにとってもまた、神は、その意志に優位するイデアに則り︵轟9α窪器ぎ①ヨ≦ヨ9<oお8巳− 器8昌崔8ロ︶世界を実現する世界建築家︵≦①一けげ磐BΦ一ωけR︶に過ぎないのである︵ティマイオス、↓ぎ巴8︶。 そこで、ギリシャ精神を代表する理想主義的自然法には、主意主義的な相手方︵αR<o一目富誘房o冨O①鴨亭 呂一巴震︶が欠けることにならねばならなかった。その自然法が、ローマ帝国の意志に充填された世界へ入り込ん 40
菓洋滋学
だときにもなお、それは、欠けていた。ローマ人の自然法思想が、ギリシャの主知主義に順応したと言うことは、 ギリシャ精神の力の印象深い証明である。 しかし、すでに、ローマ自然法において、殊に、後期ストア学派において、主意主義的思考形式の明瞭な痕跡 ︵α窪岳魯Φω℃瑛窪①ぎR<o一⋮鼠ユ昌零冨昌U9犀≦蝕器︶が現れた。セネカは、﹃知恵︵≦の一魯Φδと何かP﹄ と問い、﹃それは、常に、同じこと欲し、且つ、同じことを欲しないことである︵凶目日R3ω器浮o薫亀9仁民3ω85Φ 巳o辟名○一一9︶。この公式には、その欲するものを正しいものであることと限定する但書は決して必要ではない。 何となれば、もしそのことが正しいことでないとすれば、同じことが、いつも絶えず、人の気に入ることができ ることは不可能であるから﹄と答えている。この場合には、正しいこと︵∪霧勾8拝①︶とは、それゆえに、堅忍 不抜の意志の働きとなる︵慧巳N霞閃⋮醇一9虫器ωσ8感&蒔窪≦旨Φ霧︶、そして、正しいことの証明は、まさ しく、あることが意欲される堅忍不抜性から、得られる。ここに、知性︵H旨亀①葬︶ではなくて、意志︵譲旨Φ︶ ︵7︶ が優越する. しかし、始めて、決定的な新しい衝撃︵Hヨ冒一ω︶をもたらすのは、聖書の旧約的、ユダヤ的表象世界と協力し た︵鴨目①言銘ヨ目律αR巴辞①ω鼠目窪鼠ユω畠−冒①象ω魯窪くe誓色目鴨妻①崔8二W一げ9キリスト教︵○ぼ一ω梓窪9ヨ︶ である。 聖書の神︵Ooεは、世界の創造主︵ω魯8冨R︶であり、人間の立法者であるが、プラトンの神の様な、単な るデミウルゴス︵造物主︶︵①冒U①ヨ置おhΦ日δ霞閃○ω︶ではなく、デルフォイの神︵αR号言匡零冨Ooεの様 41ハンズ・ウ』ノクツェノレの身.撚1滋誘卜β な、単なる人間の道徳的忠告者︵αR簿島9Φ菊象鴨σ①﹃αR竃窪ω畠窪︶でもない。むしろ、神︵Ooεは、虚 無︵Z一〇窪ω︶から世界を創造したのであり、法︵U器菊9拝︶を不法︵U器O畦8辟︶から区別する表法︵9の円鉱①ε を設定したのである。認識と英知︵田ぎ目9一ω巨巳耳①臣鴨自︶の力以外の、人間の内なる他の力が、神から呼 びかけられる︵碧閃R鼠9︶のである。﹃知者︵困鑛窪︶はどこにいるか。学者︵≦Φ一け≦Φ一ω2︶はどこにいるか。 この世は自分の知恵によって、神を認めなかったが、それは神の知恵にかなっているゆえに、神は、宣教の愚か さによって信ずるものを救済するを良しとされた﹄︵第一コリント書第一章20、21︶。賢者︵≦①一ω9︶ではなく、 心貧しいもの︵>﹃旨窪ぎ○虫馨①︶にイエス︵ぢω拐︶は、救済を約束した。十字架の説法は、ユダヤ人には憤激 の種︵︾①お①旨邑であり、ギリシャ人には、愚劣である︵第ニコリント書第一章23︶.ユダヤ人の律法の正義︵象Φ ○ΦωΦ訂o招R8拝蒔溶評qR甘α窪︶に反するパウロ︵評巳拐︶の言葉は、同様に、神をも束縛すべき正義の永遠 の理念︵①昌鴨崔8αRO段9窪蒔犀Φεを求めるギリシャ人の知の探求︵≦Φδ箒一房琴箒︶にも反対するもので ある。﹃彼等は神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義︵のR9算蒔ぎ律098ω︶に従わなかっ たからである﹄︵ローマ書第十章3︶。神の義は、律法にも、先行する善悪の理念にも拘束されはしない。﹃神の、 自由な選びの思し召しは、不動であり、わざによらず、ただ、召したかたによって行われるために﹄︵ローマ書第 九章n、12︶。神の前には、神の意志を義務付けたり拘束できるものは何も存在しない。如何なるわざ︵≦①詩︶ も、如何なる道徳行為︵玲島畠Φ一虫ωε躍︶も、神から同情・慈悲︵国吾巽目9︶を強制的に取得することはな く、むしろ、神は、自分の憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとするものを慈しむ︵ローマ書第九章15︶。﹃誰 42
戻離滋学
が神の意志にさからい得ようか?﹄︵ローマ書第九章20︶。人間は、如何にして神から何ごとかを要求し得るもの なりや、﹃ああ、人よ、貴方は、神に言い逆らうとは、いったい何者なのか。たとえば、造られたものが造った主 人に向かって、﹁なぜ、私をこのように造ったのか﹂と言うことがあろうか﹄︵ローマ書第九章20︶。 パウロは、神の﹃絶対的な、無根拠な自由の使徒﹄︵︾宕ω$一αRぎωoざ9p鳴⋮亀8窪牢Φ壁魯OOけ8ω︶で ︵8︶ ある。神の意志は、神がそう欲するという以外に、神が欲するままに欲する根拠を持たない。神の決断の根拠 は、ただ、神の中にのみ存し、神を拘束する何らかの律法の中にも、或いは、人問がそれを実現するとその支持 で神から何か期待できたり或いは要求すらできたりする永遠の真理の中にも、存在はしない。神は、完全な自由 において、ただ、恩寵から︵巴一Φぼ窪ω○墨号︶賜り物を贈るのである。﹃人間を選抜し、また永劫に罰する絶対 の神の力﹄︵9Φ29日冨8一ぎ拐o一暮㊤N貫国目妻警置轟§α<段鼠B琶§磯αR困①房畠9︶は、神のあらゆる意 志決定の背後に常に存在する﹃現実的可能性﹄︵﹃8一①冨oΦ讐魯ぎεである。しかし、﹃神は、すべての人をあわ れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである﹄︵ローマ書第十一章32︶。神の現実の行動は、専制 君主の無分別な恣意︵ω冒巳o器≦ヨ屏葺︶ではなく、被造物を慈愛をもって恵むことであり、信ずる者に義を得さ せることである︵ローマ書第十章4︶。しかし、神のこの現実の行動は、理念必然的な価値総括を合理的に看入す ることにより得られるものではなく、﹃神の子の十字架の死の歴史的事実﹄︵3ω鴨零匡9島魯①男㊤犀εヨ8ω 囚お自88α8器営8ωoげ器ω︶により経験されるべきである。 この事実につき、﹃この世の知﹄︵≦Φ一旨魯qR≦Φεは無益であるほかはない。十字架の説教が、知を探求す 43ノ、ンズ・グ上ノレツェノレの々.撚滋訪》匂 るギリシャ人に如何に愚劣と思われようともよい。真実は、ただこれのみが、﹃神の義、神の同情・慈悲、神の被 造物への愛﹄について︵<9q段OR9窪蒔ぎ津Oo暮①ωあ虫器日国吾巽ヨ窪⊆βα紹営R口魯Φ墜器ぎ窪O窃魯9− 賄窪︶証︵あか︶しをしている。神の義は、理念的本質の中に根拠付けられて存するのではなく、ただひとり、神 の意志の決断、無根拠であらゆる本質看入︵≦Φω窪器冒ω8辟︶の及ばない神の決断の中にのみ根拠をもって存す るのである。この、パウロの神観の帰結が、自然法にいつ採り入れられるかは、時間の問題に過ぎないものであ りえた。しかし、中世最盛期に、ドン・スコトゥス︵U巨ωω8言ω︶が、パウロの精神で、理想主義的ギリシャ自 然法に、キリスト教的主意主義的解答を対抗させるには、なお、かなり永い時間がかかったのである。まず初め に、広範なローマ世界の中で、二つの精神の力、即ち、古代の遺産とキリスト教の福音︵島①oぼ一ω島魯Φωo房o鼠津︶ とが衝突した。その際、両者が、しきりに押し通し合ったことで、福音書︵国く彗鴨巨ヨ︶は、異邦人のキリスト 教徒の手の中で、ギリシャ古代的精神財︵鷺一8匡ω魯㊧導詩80蝕ω9招暮︶を自己に摂取せざるをえなかった。福 音書の中にしばしば現れる﹃神の知恵と神の真実の言葉﹄︵殉8①<9αR≦色筈簿仁ロααR≦”ぼ冨評098ω︶ が、ギリシャ的理念的意味において理解されざるを得ないのは、何と容易であったことか。ヨハネ福音書の第一 章が、旧約聖書の創世記に関連して、ロゴス︵Uo讐ω︶、世界を存在へ呼び出した神の言葉︵≦o旨α800辞8︶ ︵理性の言葉ではない︶について語ったとき、異邦人のキリスト教徒は、完全に、ロゴスをギリシャのロゴス理 念の意味において、神の理性︵磯8巳8冨くΦヨ巨εとして理解せざるを得なかった。そこで、ギリシャの理念 世界︵膿一9匡零箒包①窪≦巴け︶は、いわば音もなく、進んで福音書の中へ侵入した。しかし、逆にまた、古代世 44
戻洋芸学
界が、聖書・キリスト教的理念財によって︵<oヨ亘菖ω魯・oぼ一ω島魯9崔8轟耳︶変更されたのである。すでに、 異教的・新プラトン主義形而上学の中において、プラトンのテイマイオスで規定される世界像が漸次に主意化 ︵くo一⊆旨費巨o霊口ひq︶されることで、モーゼの創世理念の影響︵∪段田践ビ霧α段ヨ8巴ω魯窪ω9α風⋮鴨置8︶ が現れたのである。一般に、ユダヤ的・キリスト教的創世理念とプラトン的デミウルゴス︵UΦ旨窪おoω︶との対 決は、新プラトン主義的・異教的思想世界においても、原始キリスト教的思想世界においても、神の概念の主意 主義化︵&①<o一⋮け巽芭R⋮閃α8098筈①嬢葭Φω︶を強く促進した。この発展は四世紀に完成する。今や、主 意主義化はロゴス理念をも捉えるのである。 キリスト教に転向した新プラトン主義者のマリウス ヴィクトリウス︵匡巽旨ω<涛8鼠器︶は、ロゴスは神の 意志︵αR≦∈ΦOO辞8︶であり、神の存在の本質は、御自らに対する神の意志であり、そして、キリストは父 なる神の意志である︵Oぼ一ω9巴曾αR≦ヨΦ8ωく暮Φ量と言う。ドィオニシウス アレオパギタ︵Uぢ巳俄諾 >おo冨讐鼠︶は、理念そのものすら、神の意志表示︵≦臣窪路拐器毎轟Oo辞8︶と解釈する。かくして、十分に 用意された土壌の上に、アウグスティヌス︵︾鑛ωけ営ω91蕊O︶は、意識して、古代の遺産をキリスト教との緊 張に満ちた統一に結合するという、世界史上決定的に重要な業績を成就することができたのであり、キリスト教 ︵9︶ ヨーロッパの生命力︵U魯窪ωξ臥け︶は、以後、この業績の御陰を受けているのである。アウグスティヌスは、ま た自然法のために、あらゆる本質的要素を媒介しており、その要素の内的対立性が、次の時代における自然法の 発展を駆り立てたのである。アウグスティヌスは、新プラトン主義から、プラトンのイデア論︵包8巳魯お︶を継 45ノ、ンズ・グとノレツェノレの々、撚法雛β 受している。イデー︵理念︶︵置①窪︶は事物の確実な第一形式或いは概念︵鴨記ω器Rω8司9ヨ魯oαR国①鴨段① αRUぎ鴨︶であり、永遠にかつ不変に自己同一なるものである︵Φ要蒔仁邑<R普8島昌餓oげ屯巴畠巨①ぎ①且︶。 イデーにより、神は、世界を創造した。イデーは、神の世界統治の法律︵Uδ○①器言αR魅琶8﹃9≦Φ年畠δ霊轟︶ であり、この法律に宇宙・天地万物︵C乱<R霊日︶の全安定および秩序が依存しており、この法律に則って、あ らゆる無常なるもの︵巴一〇ωくR器区Φ島魯Φ︶は誤りなき導きの中に時のままに流れ去る。同様に、アウグスティ ヌスは、新プラトン主義の手本︵くo吾ま︶に則り、プラトンの場合には天の彼方にあったイデアを、神の精神の 中へ︵ぎ血窪○虫馨のo菖8︶置き換えている。 我々は、神の精神の中以外の何処に、このイデー︵理念︶を表象することが許されようか? 何となれば、神 が事物を創造したとき、神の精神の外にある手本を見ることはなかったからであり、もしこの様なこと︵手本に よること︶を仮定するとすれば、それは、神の存在を信じないことになるであろう︵象①器︾目魯筥Φ名跨① 碧巳8︶。むしろ、事物が創造され得る、或いは、創造されたあらゆる想像上の見本は、神の精神の中に保持され ており、そして、神の精神の中に存在するものはすべて永遠にして不変であるから、イデーは存在し、かつ、イ デーは真実である、何となれば、イデーは永遠であり不変であり続けるものであるから。アウグスティヌスのこ の説明の中で、注目に値するものは、アウグスティヌスは、イデーを単に神の思想に帰せしめるのみならず、イ デーの永遠性と不変性をまさに﹃神の精神への帰属性﹄︵N轟魯曾蒔5律墜ヨ讐辞一一魯窪O蝕ω$︶から根拠づけ て、それゆえ、イデー自身からは根拠づけていないことである。アウグスティヌスは、たしかに、他の場所で、 46
庚洋滋学
﹃神の認識︵9Φ国蒔9旨巳ωOo辞8︶は、事物の在り方に依存しないで、事物の在り方︵U器ωo器旨αR9轟Φ︶ が神の認識に依存するのである﹄と言っているが、この思想は、ドン・スコトゥス︵U琶ωω8且ω︶の﹃神の生産 的知性の理論﹄︵U一Φ[oぼΦく9αR榎o身痒貯窪H暮①田鴨自098ω︶を思い出させるし、それは、プラトンのイ デア論の中へ、プラトンの知らない主意主義的要素︵くo一§鼠誘冴98冨○ヨΦ旨︶をもたらすものである。イデ ア論の継受によって、ギリシャ理想主義および主知主義の侵入する門戸が広く開かれたと思われるや、しかし問 もなく、主知主義的要素ではなくて主意主義的要素が、アウグスティヌスの思考の中心に押し出ることになる。 アウグスティヌスにおいて、﹃知性に対する意志の優位﹄︵℃ユヨ簿8ω≦旨窪ω凄Φ属α窪ぎ8頴葬︶が言われて きているのは、不当すぎるということはない。アウグスティヌスによれば、認識活動︵国詩9暮ぎ一錦耳︶は、意 志によって起動され、それゆえ、注意︵>9日R冨m目ざε、反省︵園庶冨答一9︶、表象の再生産︵勾85身5一9 <9く○房8一冨轟︶、判断と推論︵Oほ巴⊆且ω魯臣器窪︶は、その実行において、認識−意志に依存しているよ うに、より高い程度に、意志は﹃実践行動の原理﹄︵勺ユ目昼8ω鷺接冴9Φロ国き8一嵩︶である。意志のみが、 倫理的に評価可能であり、悪は、意志の中にのみ根底を持つ。ギリシャの主知主義によれば、意志は必然的に理 性の見識に従う︵α段くRω$&8①ぼ巴oげ窪○一讐︶ものである︵○目巳ω目巴仁ω蒔ぎ轟房︶が、アウグスティヌスに よれば、意志は、外的動機ならびに内的動機に対して自由であり︵酔9、これら動機に同意したり、或いは拒否 する自由を持つ。意志は、如何なる強制にも従わない欲求能力︵ω罐Φぼ目鵯<R目凝窪︶である。それゆえに、意 志は、悪に向かうことができるにも拘らず、しかし善と見倣される。認識においても、行動においても、意志は、 47ノ、ンズ・グ』【ノレツェノクのβノ撚∼装読》ξフ 人間の中核︵溶旨8ω冨①富畠窪︶を構成する。﹃意志は、あらゆる活動の中に入り込んで居り、あらゆる心の活 動は、意志以外の何ものでもない﹄。しかし、アウグスティヌスは、﹃意志の自由のこの心理学的理論﹄︵98Φ 冨鴇ぎδ讐零冨冨ぼΦ<目αRゑ旨9珠邑冨詳︶を、ペラギウス主義︵勺R畠壁艮ω含霧︶に対する彼の闘争にお いて展開した﹃包括的な神学形而上学体系﹄︵Φぎ仁ヨ鼠ω器巳898一〇閃一ω3白98ξωδ昌8ω窃言目︶の中に組 み入れている。ペラギウス︵勺巴品冒ω︶は、その本質において、意志の自由から﹃純然たる神学的道徳論﹄︵巨8器 跨8δ讐零ぎ竃o轟一一①ぼΦ︶に到達したのである。ペラギウスは、﹃人問は、本性上︵<9Z讐自︶、善を為す力を 持っている。恩恵︵○轟8︶の意味は、ただ、モーゼの律法およびキリストの教えを手段とする教訓により意志を 支持すること、に本質がある。旧約聖書、新約聖書は、人間の意志を清浄ならしめて善行を行なわせ、それによ り善人たらしめる神の法律である。何となれば、悪行に基づき悪人は悪であり、善行に基づき善人は善であるか らである。信仰︵血R9壁幕︶は、自由な意志の業︵わざ︶︵≦①蒔︶であり、その自由意志により、信者は、免 ︵−o︶ 罪︵段且9<R鴨9躍︶と義︵勾9窪8旨讐轟︶を得るのである﹄と言う。 アウグスティヌスは、﹃神の前の人間のこの道徳的向上﹄︵9①器B自巴一ω9Φω巴房a旨①9轟<900εと、 根本的・徹底的に闘争することにおいて、﹁意志の原理﹂︵U器≦目9眉ユ目邑を神に任せ委ね、そして、これま で彼が活発に防衛してきた﹁人間の意志の自由﹂が損なわれる危険を強めている。 ﹁アダムの原罪︵︾号ヨωdお冒8︶により、我々は皆、罪人となった。そして、ただ相変わらず悪への自由を 持つばかりで、もはや善への自由を持たない。神のみが、その恩恵︵O轟αo︶により、我々を善を為す自由へ解放 48
東離芸学
なさることができる。如何なる人間の功労も神の恩恵に先立つものではない。恩恵は、人間のあらゆる功労にか かわらない、完全に自由なる神の賜物である。神の恩恵が働く場合、恩恵は不可抗力的︵§昌号お富巨一魯︶に働 く。しかし、いま、神の恩恵がすべての人に現れないのは、神がすべての人の救済︵量ω国Φεを欲しないから というただ一つの理由のみである。神は、永遠の昔から、ある者は救済し、ある者は処罰すること︵くR富日目巳ω︶ を決意されている。しかし、神が、ある者には慈愛をたれたまい︵Φ吾震ヨ窪︶、ある者を罰するのは何故か、この 問いに対する答えはただ一つしかない。即ちそれは、神がそれを欲したまうからである︵∈壁<o置叶︶。﹃予定﹄ ︵即&8江轟江9︶は、パウロにあっては、ただ、﹃神の絶対的力の恐るべき可能性﹄︵げ8轟鋒鴨巳Φ蜜凝浮算Φ津 血R筈ω○一旨窪竃碧窪09什窃︶であったが、アウグスティヌスにあっては、﹃恐怖に満ちた現実﹄︵ωoぼ8ぎ霧くo一8 巧マ匹一9犀Φεになる。 しかし、パウロにあっても、アウグスティヌスにあっても、﹃予定﹄は、神の意志の絶対的無根拠性の最高の表 現︵α段ま畠ω8︾話辞8犀血①噌菩ω9昌窪9琶色8蒔貯の一巳8讐巳一号窪≦旨Φ霧︶である。如何なる先行する理 念的価値にも、如何なる功労︵<段象窪豊にも、如何なる罪︵ωoど乞にも、全く拘束されることなく、神の決 断︵国曇ω畠虫身鑛Oo98︶は下される。このような神の意志の無根拠性の中に、プラトンのイデア論も沈没して ︵11︶ しまう。この意志論が、自然法に対して持つべき恐るべき︵必然的︶結論は、それは後に始めて示されたが、そ の結論の背後に、アウグスティヌスの本来の自然法は後退してしまう。しかし、また、自然法論の為には、古代 の遺産を仲介して引き渡すという点で、アウグスティヌスの意義は依然として大きいものである。後に続く中世 49ノ、ンズ・グェノクツェノレのβ、撚滋誘卜β の自然法のすべては、アウグスティヌスの自然法論に結び付いている。 アウグスティヌスは、ストア学派から、永遠法、自然法、時代法︵Φ≦お①9轟90島魯8§α器一島30ωの①器旨 H一霞器けR墨﹂窪づ簿自巴一ω﹂霞措ヨ宕墨房︶の﹃法の原理的三区分﹄︵&①瞬琶房器言一8箒U﹃虫8一冨渥8ω ︵12︶ 園Φ魯量を継承している。 時代法︵&巴安8ヨ2轟房︶、即ち、その折々の情況に合わせて変化可能な実定法︵匿ω毛碧8一富お唇ω往<Φ ○①ωΦ9︶は、不変の永遠法から︵碧ω8B⋮≦き8庁巽窪①毛蒔窪国9拝︶派生した限りにおいてのみ、法︵勾8辟︶ であり、ただその限りにおいてのみ義務を与える力︵く①壱臣魯ε轟葵轟包を持つ。正義でない法律は法律では ない︵国ぎ089N己霧巳o窪閃①お魯江聲醇囚Φ冒○①器けN︶し、何ら義務付ける力を持たない。良き意志の力で 永遠法につながる正義の人は、時代法︵鼠ω器崔8冨08①旦を必要としないし、ただ悪しき人︵qR零巨9辟Φ︶ にのみ、時代法は課せられる。 自然法︵&巴窪昌魯貫巴芭は、永遠法が人間の魂︵ωΦ①一Φ︶の中に、理性と心情の中に︵3くΦ旨琶津目α国Φ嵩︶ 書き写されたものである。それゆえ、アウグスティヌスにあっては、自然法は、﹃正義の主観的原理﹄︵鼠ωω9す 葬ぞΦ甲営N首αRO震9げ鼠讐Φδであり、﹃我々が生まれつきの本性とする、魂の持つ正義の神授霊力﹄である ︵α霞紹①房魯Φ=餌獣εωαROR9拝蒔ぎFαR⋮ω<o⇒Z簿自窪蒔魯9窪聾︶。それゆえに、アウグスティヌ スは、自然法を、また、それを通じて、神が、良心の中で人間に話しかける親密法︵一①xぎ江日m︶︵一窪営賦ヨ僧α瑛魯 9ΦOo陣巨○①蓋霧9墜目冨2ω魯9おα9と名付けている。アウグスティヌスは、永遠法︵90一霞 50
萸洋滋学
器9ヨ曽︶、その決定的な標識︵竃の詩ヨ豊は不変性︵Oづ<Rぎ血①議魯箒εであるが、その永遠法を、自然秩序 ︵&Φ墨呂岳3Φ○巳壼閃︶を維持することを命じ、それを撹乱することを禁止する﹃神の理性或いは神の意志﹄ ︵くΦ旨毒ヰ &R ≦ヨo Oo簿8︶と定義する。永遠法の内容を構成する自然秩序とは、﹃神の創造秩序﹄︵9① ω魯9甘轟ωo巳壼躍09什8︶である。﹃神は、万物を秩序付け、そして、造りたまうた。そして、被造物︵内同臼ε同︶ を段階付け︵営ω亀①︶て、地上から天上へ、目に見えるものから目に見えないものへ︵Nqα9琶俄魯3巽9︶、 死すべきものから不死のものへと秩序付けた。創造物のこの関連・総合、この秩序に満ちた美しさ︵9Φ○巳壼轟− ωお8ぼω魯曾冨ε、最低から最高へ聾え立ち、また、最高から最低へ下降し、どこにも断絶のない、しかも多様 ︵13︶ に分岐するこの美しさ、そのすべてを︵︾一一①ω号ω︶神は嘉みしたまう﹄。 ストア学派の永遠法︵9のω8富3Φ一霞器$旨鋤︶は根底から変様されている、即ち、﹃運命﹄︵融9ヨ︶に替わ って、神の創造秩序が置かれ、アウグスティヌスは、その創造秩序において、﹃世界の階級構造に関する中世の形 而上学的基本観﹄︵色Φヨ雪8ξ鴇魯①○霊巳彗ω8算8ω三捧Φ巨けRω<○ヨωεけ昌雲αR≦Φ5を、後世全体 のために実例を以て分かり易く、言い直しているのである。しかし、なお、疑問が解けないで残るのである、即 ち、この神の創造秩序は、新プラトン主義の意味の﹃理性のエマナチオ・流出・発出﹄︵皿器<Φ毎⋮鵠国旨き蝕自︶ であるのだろうか、﹃神の意志の業﹄︵量ω≦旨9ω名Φ詩098ω︶であるのだろうかP アウグスティヌスの自然法の定義の中には、やはり、二つの可能性が、平和的に︵鼠Φ負魯︶並存している、即 ︵14︶ ち、神の理性、或いは神の意志︵冨江o&£惹く色<9毒什器α魯く①ヨ§津&R≦一一一①098ω︶。 51ノ、ンズ・グとノレツェノクの∠iンノ撚1法読》ξ1 また、アウグスティヌスの自然法に関する個々の論述の中にも、この疑問が解けないままに存続している。ぺ 5
2
ラギウスとの論争の前に、アウグスティヌスが書いた、自由な意志︵<o簿律皿9≦旨9︶についての論文におい て、アウグスティヌスは、離婚は法律が禁止しているから悪なのではなくて、悪︵ω9一8窪︶であるから法律が禁 止するのであると釈明している。 それゆえに、理念的な価値実在︵&巴8色o≦Φ旨≦89げのδは、意志決定︵禁止︶︵≦旨窪8旨零冨こ巨鵬︶ ︵くRσ9︶に先行する。しかし、別の場所では、﹃神によって禁止されていないことは、何ら罪︵曽巳Φ︶ではな い﹄と述べられている。或いは、﹃神の禁止に反することなく行動するものは、なに人でも、非難にも処罰にも値 するものではない﹄と言う。ここでは、それゆえに、禁止︵意志決定︶は、まさしく、行為の無価値内容︵dpゑR眞甲 げ聾︶の前提である。中世の最盛期において、自然法における理想主義︵固①巴一ω目房︶と主意主義︵くoビ旨費δ目島︶ との闘争が完全に爆発したとき、アウグスティヌスのこれらの立場の解釈が、多くの人々の頭を悩ますこととな った。 この様に、アウグスティヌスの自然法論の中には、理想主義的可能性と主意主義的可能性の、双方の可能性が、 同じ重さで並存している。しかし、彼の神学体系は、すでに、主意主義の相貌︵ω号巴Φ︶を深く印していたの で、彼の自然法は、古代︵ギリシャ・ローマ時代︶の伝統が﹃釣り合いの重︵おも︶り﹄︵O畠窪鴨護o窪︶となっ たにもかかわらず、主意主義を受け入れねばならなかった。しかし、理性と意志との順位争い︵勾き鵯霞Φεは、 すでに、前期スコラ学︵甲浮ω30一器け鱒︶において活発であったが、自然法の分野では、この闘争は、最盛期スコ萸洋滋学
ラ学の大体系において︵ぼ血R鴨8ω窪ω協冨目①pαR寓8房畠o一器け穿︶始めて解決された。この闘争の中に、 自然法の最も深い問題性が現れている。それゆえに、この闘争は、以後の自然法論の歴史の全体を規定したので ある。﹂ ︵15︶ 大要以上のように、ヴェルツェルは、﹁キリスト教世界への移行、パウロとアウグスティヌス﹂について述べて いるのである。 ︵16︶ 2 トマス・アキナス︵↓○目器<9>2芭︵旨謡ー旨鳶︶ ヴェルツェルは、トマス・アキナスについて、大要次のごとく述べている。 ﹁新プラトン学派の色彩を持つイデア論の継受によりギリシャの遺産から得たアウグスティヌスの思想の主知 主義的要素は、﹃予定説﹄︵即匿8賦醤賦o房一①ぼ①︶において頂点に達した彼の強力な﹃意志の形而上学﹄︵≦旨9甲 営o$9窃詩︶によって、脇に強く押しやられてしまった。これに対して、トマス・アキナスの思想に対するギリ シャ主知主義︵αRひqユ9匡零ぽ騨邑一魯ε巴一ωヨ拐︶の影響は、はるかに中心的であった。しかも、その影響は、 プラトンの刻印よりも、むしろ、アリストテレスの刻印を帯びたものであった。トマスの師である﹃大アルベル ト﹄︵>き①ほαR噴8紹︶が表明したこと、即ち、アルベルトは﹃信仰のこと﹄においては︵ぎ留畠窪α80冨暮窪ω︶ 哲学者よりもアウグスティヌスに信頼を置くことを願ったが、﹃事物の本性﹄のことにおいては︵冒留3雪αR Z讐員αRω8ぽ︶他のなに人よりもアリストテレスに従うことを願ったということ、そのことが、弟子トマス を包摂的に貫徹していた。 53ハンズ・グェノレツェノ〃のβ、撚1滋誘卜ξ1 トマスは、キリスト教的価値世界︵象①oぼ一ω島魯①≦の詳≦oδにより規定された彼の思想体系︵U9訂器9目︶ を、完全に、アリストテレス形而上学の土台の上に築いたのである。このように広範にアリストテレスを継受す ることは、その自然法論の上に、二つの重大な結果をもたらした、即ち、第一は、再び知性︵冒8臣寄︶が、意志 ︵≦旨①︶に対する明瞭な優越を勝ち取ったこと、ギリシャ主知主義がパウロの主意主義に対して貫徹されている ことであり、第二は、アリストテレスの目的論的自然概念によって﹃法の理念﹄︵国oo拝ω往8︶と﹃人間の自然﹄ ︵Z曽ε目αR匡Φ話魯9︶との間に緊密な結合︵&①窪鴨<①旨ぎ倉鑛︶が設立されていることである。﹃自然﹄ ︵Z象貫︶という﹃橋﹄︵ω益良の︶を渡って、再び、﹃実質的内容﹄︵9ΦB簿R凶巴9﹃冨εが、﹃形式的法原理﹄ ︵17︶ ︵3ω8同ヨ巴①菊9拝8ユ昌N昼︶に酒々と流れ込んでいる。 トマスは、自然法について熟慮を始めるや直ちに、﹃理性か意志か﹄という二者択一の大問題に当面する。トマ スは、法律概念︵O①ω①旨8訂鴨匡︶を規定しようとして、法律はより多く意志に帰属するか、より多く知性に帰 属するかの問題を提起し、その問題に答えて、明白に知性を有利としている。理性のみが、﹃規則或いは基準﹄ ︵勾紹巴&R匡践馨ぎ︶である得るのであるから、法律は行動の規則或いは基準として、理性に属するものであ らねばならないと述べる。これに反して、人が、法律を、前もって理性により規定されることのない意志による ものと定義すれば、人は、法︵勾9窪︶に至るよりも、むしろ、不法︵d員8耳︶に至るであろうと述べる。 根拠を神の知恵︵≦Φ一警簿○○洋8︶の中に持たないことを意欲することは、神にとっては、完全に不可能のこ とであると述べる。意志は、理性がその計画の実現を仕事の中に完成する手段︵霞一什けΦ一︶にすぎないと述べる。 54
萸洋滋学
理性によって規定されるこの法律概念の内部において、啓示︵○陳窪げ碧⋮閃︶により与えられて我々に﹃超自然 的目標﹄︵量ω尋Φ導讐日浮冨曽9を示す﹃神の啓示の法﹄︵8二霞良く営帥︶の他に、トマスは、ストア・アウ グスティヌス的伝統に従って、自然的世界秩序の三つの法律、即ち、﹃永遠法﹄︵&巴霞器9旨蝉︶、﹃自然法﹄︵9Φ ︵18︶ 一與⇒簿貫巴邑、そして﹃人間法、或いは、実定法﹄︵9Φ一霞ど日餌冨ω雲2巴け一轟︶を区分する。 トマスは、アウグスティヌスと緊密に結び付いて、﹃世界法﹄︵盆ω≦巴霞89N︶を、神が、神の知性の中に存 在するイデー︵理念︶︵H8窪︶︵あらゆる被造物の原像︶︵象Φd吾まR巴一ΦωOΦω9母8ロ窪︶に従って世界中の 諸運動や諸行動を指揮したまうところの、神の世界統治の法であると規定する。 永遠法︵9Φ一突器8旨曽︶は、アウグスティヌスの場合と同じく、神の創造秩序の法律︵量ω08①9q段 〆 ω99甘β暢o巳ロqロ鵬09け8︶である。 トマスは、ローマ書13章1を援用して、﹃世界の中のすべては、秩序付けられている﹄と述べる。即ち、万物 は、神により、世界の大きな目的結合組織の中において︵冒号ヨ鴨8ω窪N名9凝①胤凝①︶、その確定した場所と その確定した目的規定︵N類Φo浮Φω江日目⋮閃︶を持っていると言うのである。 中世の基礎を成すこの﹃秩序思想﹄︵○巳ヨ鑛詔8き冨︶は、トマスによって、アリストテレスの形而上学の枠 の内に設定される、即ち、神は、永遠法によって、すべての被造物に特別の活動原理を刻み込んだのであるから、 万物は、自然に自己の特別の形︵8震強零箒男aヨ︶の実現に努力するのである。トマスは、アリストテレスと 同様に、事物︵○畠①霧鼠且︶の﹃自然﹄︵Z蝉ε﹃︶は、その事物の理念形︵置8頴司象旨︶であり、それゆえに、 55ハンズ・グ』乙ノルツェノクの々.撚1滋誘卜在ジ ﹃完全な形成﹄︵<o一涛o日ヨ窪Φ08$一9轟︶であり、それを目指して、事物︵O畠窪ω冨&︶は自然に・本性上 ︵轟け霞巴一けR︶努めるのであるとしている。トマスもまた、近代の意識を支配する、﹃現実と価値の分離﹄、﹃存在 と当為の分離﹄︵↓お昌壼鑛<9≦旨匹一畠匠Φ津⋮α≦Φ拝<9ω①営§αω亀窪︶を知らないし、この分離は、な かんずく、﹃価値に無関係に手続をし処理する近代自然科学の結果﹄︵①ぎΦ閃9鴨血R器目①一岳o箒P≦R江鼠焦R− Φ耳<R賦ぼの巳窪Z簿霞≦一ωω①霧9臥什︶である︵プラトンの場合の分離は、彼のイデア理論の結果である︶。 むしろ、トマスにとっては、存在︵量ωωΦεは、前もって価値︵αR≦Rけ︶により規定され、それゆえに、 二つの概念は、交換可能であり︵<霞冨話o浮巽︶、﹃本質と善とは交換される﹄︵Φ房9げo壼目8昌<R9旨霞︶で ある。価値に反する実存︵現実存在︶︵≦Rけ&8蒔Φ国臣醇9N︶は、﹃存在するものの不完全な様式﹄︵①冒巨<o一鱒o寧 ヨ9R匡&拐8ωω色9号づ︶であり、﹃偽りの実存﹄︵①ぎΦ鼠巳①国圏ω8葭︶であり、後にへーゲル︵国畠Φ一︶が 言ったように、﹃現実的なものと強調するに値しないもの﹄である。目的に操作されて形式を実現するということ は、能力・可能態︵勺o帯目曾U琶餌日邑が実現・現実態︵>葬拐る困鑛①§ へ発展することであるように、あら ゆる事物と過程の中には、﹃価値への自然の傾斜﹄︵色器轟9旨臥8田目①一ひq琶閃豊ヨ≦Φ琶が潜んでいる。﹃善﹄ ︵○暮︶の実現に向かうこの自然的傾斜は、永遠法によって、事物に刻み込まれているのであり、これによって、 万物は永遠法に参加しているのである。しかし、被造物の永遠法へのこの参加には、いろいろな態様種類がある、 即ち、理性のない被造物は、ただ、﹃無意識的に内在する活動原理﹄︵毒げ①≦拐ωヱヨ目碧o暮oω閃o≦畠§鵯震ぎN邑 によってのみ永遠法に参加するのであるが、これに反して、人間は、ただ単にこのような無意識的活動によるの 56
戻洋滋学
みならず、﹃理性﹄︵く①旨毒εによってもまた、永遠法に参加する、それゆえに、人間は二重の在り方で﹃世界 法﹄︵≦Φ一楓89N︶に従うのである、即ち、まず第一に、人間があらゆる被造物と共通に有する特質である﹃自然 の傾向性﹄︵臼①轟9R汀箒Zα讐p鵬9︶︵営9轟鳳98轟什昌巴8︶による在り方であり、第二は、人間の﹃特 ︹19︶ 別な自然﹄︵8臼庄零冨2卑ε同︶を成す能力である﹃理性﹄︵く①巨琶εによる在り方である。 ﹃自然法﹄︵一霞墨9轟房︶は、理性を賦与された被造物︵因お簿自︶の世界法への特別な知性的な︵一葺亀爵ε色Φ︶ 参加であり、それゆえに、﹃理性を賦与された自然のために﹄︵噛盲&Φ<Φヨ⊆旨号詔魯措Z讐葺︶妥当する世界法 である。アウグスティヌスの場合は、﹃自然法律﹄︵Z讐ξ鴨器旦は、我々の内なる、﹃自然の光﹄︵一ニヨ9 轟9村巴Φ︶、﹃自然法の主観的原理﹄︵3ω豊豆①耳辱①即営恩も8ω乞讐霞お魯琶であったが、トマスは、それを 客観的に︵o豆Φ葬三転換する、即ち、自然法律は、まず第一に、永遠法︵一窪器け段冨︶の一部であり、ついで 第二に、それは、﹃人間理性の自然なる判断能力の中に﹄︵一ヨ轟慈島畠窪q昌亀男RB凝Φ口αR日窪零巨一畠9 く①旨目ε存在するものである。トマスが、﹃最高自然の諸原理を認識する自然の能力﹄︵3ω畠慈益畠①卑冨目け− 巳ω<霞ヨ凝窪αRoげRω$ロ轟注急畠窪ギぎ巴も一9︶を、特別概念である﹃シンデレシス﹄︵ω旨88巴ω︶︵良心︶ の中に把握することで、﹃自然法﹄︵一Φx轟葺轟房︶のこの客観化は一層補強されるのである。厳格な意味の法律 ︵Ooω9巴ヨ暮お躍9ωぎ器︶、即ち、﹃理性の規範﹄︵ZoHヨαR<Φ旨目εのみが、自然法︵一①図ロ簿霞巴邑で 一 あり、永遠法は、理性のない被造物を摂理する︵い窪ざ轟︶関係で転義された意味で比喩的に法︵一突︶と名付け られるのみであるとして、﹃規範﹄︵Zo﹃B︶と﹃自然法律﹄︵Z簿霞鴨8§との差異を、トマスは、はっきりと主 57ハンズ・ウ上ノクツェノ〃のβ.撚1滋読》匂 ︵20︶ 張している。 人間法︵一興どヨ鋤轟︶の存在は、人問の悟性︵くRω鼠邑︶が永遠法をその全範囲において認識することができ ないで、ただ、その普遍的な諸原理を認識することができるにすぎないこと、なかんずく、世界法の中に含まれ ている、個々の事件の特別な指針を認識することができないこと、これらの事情に基づくのである。それゆえに、 人間法は、自然法律の普遍規定︵9①匙鴨日Φぎ窪くoおoぼ津窪8ωZ讐ξ鴨紹9Φω︶を、普遍原理からの推論 ︵89ピ俄o︶の方法によるなり、或いは、この普遍原理の細目規定を定め︵8けRヨ冒讐凶o︶ることによるなりし て、特別の要求に応じて補充完成するのである。 ただ、﹃実定法﹄︵量ω2ω往ぎ○Φ8旦は、この二つの方法で、自然法から推論される範囲でのみ、﹃法の効力﹄ ︵○①ω9器葵轟ε︵田賦o一畠一ω︶を持ち、国民を、良心において︵ぎ○Φ&ωω9︶義務付けるのである。 これに反して、自然法︵Z蝉ε霞9拝︶に違反する法律︵○①ω9N︶は、真実の法律ではなく︵ぎぎゑ蝉ぼΦωOのω①旨︶ ︵ぎ営Φ一突一①覧房︶、法律の逆転歪曲︵○①ω簿8ω語詩のぼ目晦︶︵8讐ω8霞唇江o︶である。かかる法律は、人の 良心を義務付けるものではないが、しかし、衝突と惑濫を避けるために︵N貫くR目虫身畠<9︾房δoωω蚤α くR&霞仁鑛︶その法律に従うことは許される。 ただし、その法律が﹃神の啓示の法﹄︵一霞9ξ冨︶に違反するかぎりにおいては、人は、如何なる事情におい てもその法律に服従してはならない。 トマスは、また、アリストテレスがその目的論的形而上学および、なかんずく、その自然概念をもって示した 58
東淳芸学
道において﹃自然法﹄︵Z簿霞需器9︶の内容を規定する。あらゆる積極的な活動は、善の視点に基づく︵の昏声賦o器 げo巳︶目的の為に生起する。あらゆる感覚的努力︵ωぎ呂90ωq39︶および、あらゆる意識された欲求︵毘窃 げΦ零拐ω8妻亀窪︶は、絶えず﹃何か善いもの﹄︵①§霧○暮8︶を、たとえしばしば﹃悟性の錯誤﹄︵くRω鐙巳霞雫 ほqヨ︶によりそれは見掛けの善きものであるにすぎないことがあるとしても、その善いものを目指す。トマス は、完全に意志の主知主義的解釈に同調し、その解釈によれば、意志は必然的に知性︵H旨色Φ葬︶の捧げ示す善に 従うものであり、それゆえに、﹃意志の理疵﹄︵頴匡R富定讐簿 8ω ≦霞2ω︶の根拠は常に﹃悟性の蝦疵﹄ ︵<Rω鼠巳88巨R︶の中にあるとする。﹃すべての不正は無知のためなり﹄︵o旨巳ω日巴島蒔き墨房︶。﹃自由の 根源﹄はそれゆえに理性の中に存在している︵9Φ≦自器一αR閃お旨虫什一δ讐3霊ヨ置αRくR壼昌包。理性は 意志よりも高く立ち、より高貴である︵ご8一δ9諾巴血9雪ぎぴ臣9<o影導鋤9一︶。そこで、トマスは、アリス トテレスの﹃万物は善を求めて努力する﹄との教えの様に、﹃善をなせ、悪を避けよ﹄︵↓話量ω○芦BΦ箆Φ3ω 切αω①回︶の規定、或いは、同じ意味の方式で︵冒q段笹虫魯冨号旨9α窪悶自ヨ9﹃理性により行為をせよ﹄︵頃き色Φ <①言巨津鴨ヨ器ω巴︶の規定を、﹃最高の自然法﹄︵U器9①お8Z讐貞鴨器什N︶と定義している。あらゆる具体的 ︵21︶ な自然法の法条は、この﹃命令﹄︵○のげ9︶に基づかなければならない。 しかし、いまや、この形式的命題からは、いかなる具体的な内容も取り出すことは出来ないから、トマスは、 その内容を他の方法で得ることに努めなければならない。その際、二つの道がトマスにより利用できる、即ち、 第一の道は、人間の﹃自然﹄︵Z簿自︶へ、アリストテレスが示す﹃典型的に自然法的な遡及﹄︵蔓且ω99日羅o魯蔑3Φ 59ノ、ンズ・グ上ノクツェノレの6、撚宏1訪》θ 国冒犀窟轟︶をすることであり、﹃人間が自然的性向﹄を持つすべてのものを、理性は、自然に適合して善と把握 し、その反対のものを悪と把握する。﹃自然的性向の秩序﹄︵象①○巳壼轟αR轟9霞一8冨Z蝕讐轟︶によって、 ﹃自然法的法規の秩序﹄︵&①○巳壼轟α段轟ε霞①魯島3窪くoおoぼ蜂9︶が指示される。そこで、アリストテ レス的ーストア的自然法と同様に、﹃自然﹄︵自然︶が、魔法の杖となり、その杖によって、﹃形式的法原則﹄︵90 8同目巴窪勾Φo耳呂践旨且窪︶は、﹃実質的内容﹄を︵ヨ簿R巨9冒げ巴け︶供給される。トマスは、アリストテレ ス的﹃存在階層﹄︵ω①ぎ零匡o洋窪︶の序列の中で、人間的性向の階層序列およびそれに相応する自然法的法条を展 開する、即ち、生命あるものも生命なきものも等しくあらゆるものと共に、人間は、﹃自己保存の本能﹄︵↓ユ魯N霞 ω①一げω冨浮巴ε轟︶を持つ、この本能から、トマスは、隣人に対する関係でもまた、﹃殺害禁止命令﹄︵↓αε轟ω<Rσ9 を引き出す。人間は、﹃性的本能﹄︵OΦωo巨8拝ω鼠魯︶および﹃生殖本能﹄︵男自8自碧N目暢鼠魯︶を生物︵冨訂譲8窪︶ と分かち合う、そこで、トマスは、この本能から﹃婚姻と育児の命令﹄︵○①げ9αR国ぼΦ仁巳αR困邑①お護8ど轟︶ を結論する。最後に、人間は、﹃理性的存在者﹄︵くΦ旨目ヰ≦8窪︶として、人間にのみ帰属する﹃真理認識と共 同生活とへの性向﹄︵ZΦ蒔琶磯N自≦餌ぼびΦ一冨①詩窪昌9一ω⋮αN仁ヨOoヨ①3ω魯縁邑魯9︶を持つ。 それゆえに、人間は、自分自身のみで生存するには十分でなく、それゆえ、他人との友好を計らなければなら ない者として︵ぎヨoぎ巨巳餌巨2ω9貯旨鰹四ユω︶本性上︵<9Z簿霞︶、社会的・政治的存在者︵轟貫轟浮R 目一日巴ω09巴Φ9冨一庄2日︶である。﹃真実を求めよ、また、真実を語れよの命令﹄︵3ωO害o“島①≦蝉ぼげΦ律 Nq霊3窪⊆且豊ω諾窪︶ 何となれば、人は、その言葉を信頼することができる人とのみ共同生活を営むこ 60
庚洋滋学
とができるからであるー、また、﹃隣人を損なうことなかれ﹄︵量ωO魯o叶h窪竃律日窪ω魯窪巳09圏<R一①旨窪︶ との命令は、人間の理性的性質のこれら性向に相応するものである。それゆえに、国家は、人間の自然的素質 ︵Z簿貫き一躍窪8ω家窪ω畠9︶に根拠を持つ秩序であって、罪悪の産物ではないノ ︵巳o算①営牢○身醇αR ︵2 2﹀ ω言α①︶。 トマスの自然法もまた、自然概念︵Z讐ξげ畠﹃段︶の﹃決定的に重要な暇疵﹄︵α段9富3Φ箆9号匡碧閃9、 即ち、﹃多義性と不確定性﹄︵<芭号昌讐簿目αC⇒σ8菖ヨヨ浮Φδを免れていない。自然は、まさに、﹃エンテ レケイヤの形、完成された存在形成﹄︵Φ旨色9窯巴Φ男雲B<o一毎○ヨヨ窪①ω色昌躍①馨巴ε鑛︶であるのみならず、 同じく、また、﹃価値無関係な現実および価値違反の現実﹄︵≦R眞亙o凝冨匡鴨仁旨α類①ほ昌8蒔o≦冒匹一畠犀Φε でもある。 トマスは、ストア学派と同様に人間をその最終目的︵国巳凶9により、﹃理性的動物﹄︵きぎ巴鍔試9巴①︶と 定義するにかかわらず、しかし、人間が二つの自然、即ち﹃理性的自然﹄︵く①ヨ話旨江鴨Z魯霞︶と﹃感性的自然﹄ ︵ω冒巳8冨Z餌9円︶を持つことを承認して、多くの人間が理性的自然よりも感性的自然により多く従属するがゆ えに、感性的自然から﹃罪悪と悪徳﹄︵ω冒αの⋮α一器什R︶が生じてくるとしている。しかし、いまや、自然的 性向の皆がすべて、自然に適うとして価値があるとされるのではなく、ただ善にして悪徳から自由な性向のみが、 自然に適うとして価値ありとされるのであるならば、自然概念は、﹃善と悪との区別の基準﹄︵因葺段置日胤費閃葺 仁鼠ωo包9辟︶を与える能力を失うことになる。﹃自然適合﹄︵2讐貫鴨ヨ農の︶が善︵∪霧09︶の具体的内容を 61ハンズ・グェノクツェノクの々、撚∼装読》ξ1 定義する力を持つのではなくて、逆に、善こそが、自然適合とは何にであるかを、まず決定しなければならない のである。そこで、典型的に、自然法的な﹃先決問題要求の虚偽﹄︵寄窪一〇冥ぼ9旨︶に至るのである、即ち、人 がまず初めに善と感じ取ったことが、﹃自然適合﹄として評価され、そしてそれから︵目α量目︶、﹃善の認識根拠﹄ ︵国詩①唇9一諮毎民α80旨魯︶として使用される。そこで、トマスの場合にもまた、すでに前もって確定して いる﹃キリスト教的価値世界﹄︵畠ユω島魯Φ≦①旨ゑ①εが、﹃自然適合﹄として立てられ、そしてそれから︵目α 3目︶、外観上︵ω魯色嘗曽︶は、この自然概念から﹃キリスト教価値世界﹄が導き出されるのである。 トマスの﹃処女性﹄︵冒ロ臓岳島9ぎεに対する態度表明は、﹃自然適合性﹄がキリスト教的価値世界を予定し ていることを、なによりも明瞭に示している。処女性が、︵肉体的︶︵9鴇δ魯Φ︶﹃自然秩序﹄︵2碧自o巳嘗晦︶に 矛盾することは公知のことであるにかかわらず、トマスは、処女性は﹃魂の善﹄︵O暮血Rω8包として肉体的 善︵ぎ苔Φ島380旨︶よりまして好ましいものであるから、処女性は婚姻︵国箒︶よりもより価値の高いものと ︵23︶ している。 トマスは、キリスト教の思想家として、自然法への第二の通路を持つ。その通路がトマスに﹃内容的諸命題﹄ ︵ぎ富匡8箒ω馨器︶への導きを約束する、即ち、それは﹃十戒﹄︵U魯巴oひq︶である。トマスは、十戒全部を自 然法に数える。何となれば、人間は、簡単な考慮によって、最高の諸原理から︵習ωα90げR曾窪即一目凶且窪︶ 十戒を導き出すことができるからである。 しかし、十戒︵N①ぎ○害o諾︶が自然法に属すべきものであるならば、十戒は自然法の本質的特徴︵≦Φω窪器蒔9甲 62
庚洋滋学
。ごεである﹃不変性﹄︵d暑R晋号島魯臣一什︶と﹃普遍性﹄︵≧蒔Φ目α轟窪蒔訂一け︶を必然的に有しなければな らない。しかし、聖書︵匹び9は、明瞭に十戒に違反する行為を神が命令する諸事例について述べている。なか んずく、これに属するものは、イサクを犠牲にするようにとのアブラハムに対する神の命令であり、或いは、エ ジプトの所有物を持ち出すようにとの脱出ユダヤ入に対する神の命令であり、或いは、娼婦と結婚するようにと のホセアに対する神の命令である。まさしくこれらの事例に関して、﹃理想主義と主意主義﹄︵H血Φ巴一ω目拐琶q くo一琶雷誘B諾︶との間に、自然法理論の最深奥にとどく大きな論争︵島Φ鴨8ωρ亘巴三①冒9目臥窪鴨&98 ︾島色轟&Rω餌釜轟号貝Z讐q霞①魯邑魯お︶が燃え上がったのである。﹃法﹄︵O霧菊8浮︶は、その根源を、﹃永 遠の理性的真実の中に﹄︵ぎΦ≦お窪<①旨§津≦ぎ浮①一8ロ︶持つのであるか、或いは、﹃神の創造的な、唯一回的 な意志決定の中に﹄︵ぎω39ぼユ零マの営筥巴蒔①≦田窪ω9房魯蝕身づひQ窪09$ω︶持つのであるか?法は法である がゆえに、神は法を制定したのであろうか、或いは、神が制定したがゆえに、法は法なのであろうか? トマスは、明瞭に、﹃理想主義的定立﹄︵一8巴一ω紆畠①↓箒器︶を良いとする判断を示している。神の意志︵Oo辞8 薫目Φ︶は、神の知恵︵Oo辞8≦蝕ωぼεと結び付いており、神の知恵は、﹃永遠の理念の座﹄︵ω一言αR①名蒔窪 置Φ9︶として不変︵目<R98島魯︶であらねばならないから、神の意志もまた不変である。神がもし神の正義 の秩序を取り消すならば、神は正義そのものであるから、神が自己自身を否定することになろう。それゆえに、 自然法規範が神に対する人間の行為或いは、人間相互の行為を規律しようとするとき、神は、自然法規範︵轟葺撃 晦Φω9昌魯①Z9日9︶を免除する︵&8窪巴R窪︶ことはできない。そこで、﹃プラトン的イデア論﹄︵9Φ巳簿Oaω畠① 63ハンズ・グとノ〃ツェノレの々、撚滋編卜ξノ H8Φ巳①ぼ①︶が、﹃神の中なる自然法の不変性の背柱﹄︵量ω園曾犀鴨讐αRd薯Φ贔巳Φ島3匿評号ωZ簿貫﹃9拝ω ︵24︶ 冒Ooεを構成する。 それゆえに、トマスは、別の方法で、聖書の中の矛盾を取り除こうと試みる、即ち、神は、﹃法律そのもの﹄︵3ω OoωけNωΦ一げω叶︶を変更したのではなくて、﹃行為の対象のみ﹄︵⇒霞量ω○豆Φ醇号ω=曽昌号﹃ω︶を、﹃個別の場合 のために﹄︵胤葺α窪田目巴貯ε変更したにすぎないと言うのである。 神は、エジプト人に宣告してその所有権を剥奪し、ユダヤ人にそれを帰属せしめたのであり、また、神は、娼 婦をホセアに合法的な妻として与えたのであり、また、神は、﹃生命と死の絶対の主﹄︵書ωo一暮R国Φ霞ロげR一魯9 §鎚↓&︶であり、それゆえに、神の命じたもう﹃殺すこと﹄︵円α旺轟︶は、はじめから、﹃殺人行為﹄︵竃oこ︶ ではなかったのである、何となれば、人間を﹃違法に殺害することのみ﹄︵昌自 9Φ お魯富三母一鵬①︵ぎ8亘$︶ ↓α葺轟①冒8寓9ω魯9︶が﹃殺人行為﹄︵冨o置︶であるからである。﹃抽象的な法律﹄︵U霧ぎω霞畏器08Φ旦 ﹃汝殺すなかれ、汝盗むなかれ、など﹄︵Uqω亀曾巳9暮α8Pω8巨9q珠︶は、不変に存続していて、ただ、 規範の対象︵○豆①耳︶が個別の場合のために変更されているにすぎないと言うのである。 ドン スコトゥス︵U目ωω8εω︶が、すでに、アブラハムに対する神の命令の事例における﹃トマスの解決試 案﹄︵↓○旨霧、Uαω巨鴨<Rωg魯︶に反対し、異論を述べて明敏な批判を加えている。スコトゥスは、﹃神の命令に よって、対象関係には︵ぎα窪○豆Φ辟ω奉昌芭9一ωω窪︶、何の変化も生じなかった。むしろ、﹃一般的な自然法的 殺人禁止命令の代わりに﹄︵き島①ω8幕8ω閃窪Φお一一窪轟ξ睡Φ魯岳畠9↓α9轟ω<Rびo琶、﹃唯一かつ別種の 64