• 検索結果がありません。

仏教文化研究所紀要52 010若原・内藤・加納・上野・早島・間中「仏教写本の文献学的研究」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "仏教文化研究所紀要52 010若原・内藤・加納・上野・早島・間中「仏教写本の文献学的研究」"

Copied!
54
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

仏教写本の文献学的研究 常設研究

仏教写本の文献学的研究

研 究 員 任 主 仏教研究は先ず何よりも確実な文献学的研究の上に進められなければならず、文献学的研究 は厳密な写本資料批判にもとづかなければならない。本プロジェクトは、インド・チベット仏 教、西域仏教、そして日本・中国仏教を専門領域とする仏教学科教員が一体となり、学外の専 門研究者とも連携しつつ、本学所蔵の豊富な資料を活用し文広く国内外に新資料を求めながら、 各々の分野におげる学的基礎となる写本資料に関する共同研究を展開し、以て斯学の一層の発 展に寄与せんとするものである。 インド・チベット仏教の領域では、最近中国西臓自治区で次々と再発見されつつある党語仏 典写本を中日両国の研究者が協力して研究する体制を確立し、写本の批判的校訂出版などを通 じて世界の仏教学界に貢献することを目指す。また、先行常設研究の成果を継承して、党文写 本にもとづいた『大乗荘厳経論』研究を進展させる。西域分野に於ては、大谷探検隊将来写本 資料を主たる対象に、国内外の同種資料とも比較対照しつつ継続して研究して行く。日本仏教 の分野に於いては、天台、浄土教、法相唯識、華厳宗関連の写本を所蔵する諸寺・図書館の所 蔵調査と研究を進める。中国仏教の分野では、漢訳経論写本を中国仏教教学史との関連に留意 しつつ、また地理的・時代的状況を反映する石刻経論と比較しながら研究する。以下に各分野 の研究進捗状況を摘記する。 1 )中国蔵学研究中心と本学との学術研究交流事業推進 西臓僧院に保存されてきた党文写本写真・画像データを保管する中国蔵学研究中心(北京 市)と本学との緊密な学術交流は、桂紹隆の数年来の努力によって軌道に乗り、 2011年秋には 両者間の正式な学術協定が締結された。 2012年 8月 1日--6日に問中心(北京)で開催された

(2)

仏教写本の文献学的研究 第5回北京国際西蔵学セミナーに桂と能仁正顕が参加し、研究発表を行った。同年秋には沼田 奨学金の給付を受けて同中心宗教研究所副研究員李皐竹氏と同研究員テジ・ドルマ氏を招聴し、 李氏は r入中論』と r阿毘達磨集論』の党文写本の研究を、ドルマ氏はチベット尼僧教団を中 心とした研究を、それぞれ進めた。 2013年1月24日に本学と同中心との合同ワークショップ 「チベットの歴史と仏教」を龍谷大学アジア仏教文化研究センター(略称BARC)ユニット 2 研究会として開催、李・ドルマ両氏が研究成果報告を行った。 BARC招聴研究員として招い た問中心副研究員羅鴻氏は新出発文論書

P

r

a

j

n

a

p

a

r

a

m

i

t

o

p

a

d

必写本に関する研究を進め、 BARCユニット 1研究会において成果を報告した。李氏と藤田祥道の共著による『五百頒般 若経』党文写本校訂出版計画は順調に進展し、既に校訂作業を終えて刊行を待つばかりとなっ ている。 2013年秋には、引き続き沼田奨学金の交付を得て問中心助理研究員投先加氏を招鴨、 控氏はその研究成果を「格魯派顕宗学院中経典教材的形成、伝承、使用」と題してBARCユ ニット2研究会にて報告した白 2) 0"大乗荘厳経論』研究の継続 2011年度に終了した常設研究「唯識思想の研究J(研究代表者:芳村博実)を承けて同論書 の研究を継続し、週一回の定期的な研究会を開催した。その成果を rr大乗荘厳経論』第 XVII章の和訳と注解-供養・師事・無量とくに悲無量一J(自照社出版, 2013年3月、編集: 能仁、執筆:荒牧典俊・若原・内藤昭文・能仁・藤田・乗山悟・加納和雄)として刊行した。 3)西域仏教分野 三谷真澄はサパテイカルを得て2012年度の 1年間ベルリン・プランデンプルグ州立科学アカ デミー・トルファン研究所に研究員として滞在、中央アジア出土仏教漢文資料の調査に従事し、 その成果の一端を現地から既に報告した。 4)日本悌教・中国悌教分野 野呂靖は智積院文書の調査を継続し成果を報告した。浅田正博は2012年8月に福島・茨城両 県の徳一開基とされる諸寺を調査して徳一信仰の実態を明らかにし、 BARCユニット 3研究 会で報告した。 2013年12月には同じく BARCユニット 3研究会として「日本天台における一 乗思想の系譜一最澄から源信へー」と題する報告を行った。長谷川岳史はBARCユニット 3 の事業として継続されている北朝仏教遺跡の調査に加わり、造像碑や僧尼の墓誌など仏教関係 の石刻文の研究に従事した。 以下には、本プロジェクトの研究成果に係る中間報告として、 r大乗荘厳経論』研究班メン ノてーによる論文2篇を掲載するo

(3)

仏教写本の文献学的研究

『大乗荘厳経論

J

の構成と構造

一一二つのウッダーナ (MSAX. 1 & XV. 1)の理解を踏まえて一一

The Organization and the Structure of the

Mah

l

a

n

a

s

u

t

r

a

l

a

'f[l

k

a

r

a

一一Onthe Basis of an Understanding of two

U

d

d

a

n

a

Verse (MSA, X.1& XV.1)一一

内 藤 昭 文

【第一章はじめに】

この度、龍谷大学仏教文化研究所の研究叢書として、

r

r

大乗荘厳経論j第XVII章の和訳と 注解一一供養・師事・無量とくに悲無量一一J(以下、研究会 [2013Jと略)が出版されたが、 その編集に携わった一人として内藤 [2013J(研究会 [2013Jに所収)で言及できなかった点 を論じたい。『大乗荘厳経論

(

M

a

h

a

n

a

s

u

t

r

a

l

a

m

k

a

r

a:

M

S

A

)

.

]

の研究史について、研究会 [2013Jの「はしがきJ(iii頁)で、編集者の能仁正顕氏が、 同テクストの研究は, 1907年にS・レヴィがネパール写本を元にして校訂テクストを刊 行したことにはじまる。そして2007年から2011年にかけて刊行された,長尾文庫編集の長 尾雅人先生の遺稿集

r

r

大乗荘厳経論j和訳と註解一長尾雅人研究ノートーJ(1)(2)(3)(4)に 結実し,研究史に一応の区切りがつけられたと云えるであろう口 と言うように、レヴィ校訂テクストが発表されて百年の歳月を経て、「長尾雅人研究ノート (以下、長尾ノートと略

)

J

の四冊が、鰍密な文献学的かつ思索的研究をもって発刊された。た だし、その長尾ノートの註解には、七十余年に及ぶ長尾先生の研究をして、いまだ解明できず に積み残された課題や解釈上の問題点が記されているυ。しかし、この長尾ノートの出版によ って、『大乗荘厳経論』全体の校訂テクストと和訳をもとに、その註解を踏まえて、この論書 を術眼的にかつ総合的に研究できるようになったと言えよう。 この百年の研究史においては常に、『大乗荘厳経論』の構成は、次章で言及する『菩薩地

(

B

o

d

h

i

s

a

t

t

v

a

b

h

u

m

i

(

B

B

h

)j

r

(

現象伽師地論 (

Y

o

g

a

c

a

r

a

b

h

u

m

i

)

j

r

菩薩地

J

)

の「三種の学道」の 観点から考えられてきた。また、この観点において、無性 (Asvabhava:一500一)釈や安慧 (Sthiramati : 510-570)釈も論の構成に言及するから、もっと長い歴史があると言える。その 意味では、『大乗荘厳経論』を考える「前提」である。しかし、この「前提」を踏まえても 『大乗荘厳経論』の構成が明確になったとは言い難い。 筆者は、この「前提」は尊重するが、この視点だけでは『菩薩地

J

の構成に力点を置いた構 成理解となり、『大乗荘厳経論jが『菩薩地』を換骨奪胎して再構築した構成、及びその意図 と構造を見落とすのではないかと思う。その意味で、藤田祥道氏の一連の論文成果を踏まえた

(4)

仏教写本の文献学的研究 筆者なりの第 I 章の内容理解 Zl を元に、『大乗荘厳経論』は「聞 (~ruta) ・思 (cintã) ・修 (bhavana)

J

の伝統的な修行階梯によって再構成されているのではないかと考えている。それ が内藤 [2009A] [2009BJ であり、前述の内藤 [2013J も同様である。 この「聞・思・修」による構成理解は、野津 [1938] も示しているように見えるが、その構 成をどう評価しているのかは筆者にとって、読解能力不足であろうが難解である。また、早島 理 [1973] は、前提である『菩蔭地jの「三種の学道jの視点で『大乗荘厳経論jの構成を考 えているが、その中(特に20頁)で『大乗荘厳経論』が「聞・思・修の三慧全体の立場から論 じ」られていることも指摘する。さらに、早島理 [1976] 14-15頁は、第XI章第 1-6偏での 五種の実践行者の区別を継承しながら、『大乗荘厳経論』が独自の大乗菩薩道を構築するため に、「聞・思・修

J

という伝統的な修行階梯を踏まえて、「聴聞一如理作意一法随法行

J

(すな わち、「聞・思・修

J

)

よりなる菩薩道を再構成していると指摘しているヘこの早島理 [1976] の指摘は「第XI章第74-75備の世親釈によっても支持される

J

として、岩本 [1996]67頁注 (46)で言及されるが、この第XI章第74-75備の世親釈に関する理解は筆者と岩本 [1996] では 異なる一一この相違点は本論考註(34)参照一一。 筆者は「聞・思・修

J

の視点を、『菩薩地』の各テーマを継承しながら換骨奪胎して再構成 する『大乗荘厳経論』独自のものとして重視する。この視点は、上記の筆者の第I章理解に、 すなわちこの論の「造論の意趣

J

にもとづくものである。 また、内藤 [2009A] [2009B] [2010] [2013]では、『大乗荘厳経論』は多くの「入れ子構 造

J

で説示されていると指摘してきた。「入れ子構造jとは、例えば論全体が「聞・思・修

J

の構成であり、かっその三つそれぞれに「聞・思・修jの構成がある、というような構造を意 味する。管見であるが、このような構造理解は今まであまり提示されていないと思う。敢えて 言えば、袴谷・荒井 [1993J 48頁で指摘される内容41が同じであるかもしれない。しかし、筆 者が指摘する「入れ子構造jは、後述する長尾雅人先生が提示する「向上的方向性(智慧

)

J

と「向下的方向性(慈悲

)

J

の視点にもとづくものである。この両方向性は、ある意味、内藤 [2013] で言及した「自利」と「利他

J

の視点でもあり、この論考でも重要な視点となる。 ともあれ、

f

菩薩地jの「三種の学道

J

の観点は「前提

J

として尊重した上で、先行研究で 解明されたことを踏まえつつも、『大乗荘厳経論』の構成が伝統的な修行・修習の階梯である 「聞・思・修による構成jであり、その構造が「向上的方向性(智慧

)

J

と「向下的方向性(慈 悲

)

J

にもとづく「入れ子構造jであることについて私見を提示したい。 【第二章

『大乗荘厳経論』の構成と構造を考える視点】

【第二章第一節 『菩薩地jの「三種の学道jの視点】 『大乗荘厳経論』と『菩薩地jの関係は、『菩薩地』の全章節がほぼそのままの順序で、『大

(5)

仏教写本の文献学的研究 乗荘厳経論』第III章以後の各章と対応することから、「前提

J

として言及される。その対応に ついては、早島理 [1973Jやそれを踏まえた荒牧 [2009BJと [2013Jの図表があるo これら の図表を筆者の責任で加工・編集した図Aを本論考の末尾に示しておく。 その『菩薩地』は、 r[ i J何を学修するのか (yatra~ik~ante: 所学処)J と nii Jどのよ うに学修するのか (yatha~ik~ante: 如是学)J と r[iiiJだれが学修するのか (ye~ik~ante: 能修学)J の「三種の学道 (~iksã)Jで構成されている。その三種の学道を『菩薩地』自身の 言明から配当すると、論文末の図Aで示したようになる。 その『菩薩地』と対応する章節を単純に比較すると、『大乗荘厳経論』第V章乃至第IX章が

r

[

i

J

何を学修するのか」に対応し、第X章乃至第XVIII章が

r

[

ii

J

どのように学修するの か」に対応し、第XIX以後が r[iiiJだれが学修するのかJに対応する。しかし、先行研究で は、どこまでが [iiJであるのか、つまりどこからが [iiiJであるのか、意見が確定していな い九また、「三種の学道

J

から除外されている『菩薩地』の第 i章と第ii章に対応する第III 章と第IV章、及び独自の章である第I章と第11章を、

I

大乗荘厳経論』全体の構造の中でどう 位置づけるかの問題は、未解決である。 【第二章第二節 『大乗荘厳経論jの「五義

J

の視点】 一方、『大乗荘厳経論』自体においては、第I章第2偶の「五義 (pancatmikamartha -gatirp) Jが論自体の構成を示すものと考えられるヘ論自らの言明であるから、これが「基 本j となろう。しかし、この第2偶は五つの嘗喰をもって無上の喜びが生じることを述べるだ けであり、「五義」の名称は世親釈のみで示される。その「五義」とは、①所成(成就せらる べきもの:sadhya)、②分所知(仔細に理解さるべきもの:vyutpadya)、③所思議(思惟さる べきもの:cintya)、④不可思議(思惟すべからざるもの:acintya}、⑤円成実(完全に成就せ るもの:parini~panna} であるロこの偶と世親釈は簡素なもので、「五義J と備の嘗喰の関係 は何ら言及されず、この「五義」がどのような構成を意味するかは明確ではない九野津 [1936Jが紹介した利他賢 (Parahitartha: 11世紀)の注釈によれば、「五義j は「第I章乃至 第IX章j と「第X章乃至最終章」に二度それぞれ対応するというこ重構成である。この「五 義」の対応は、論文末の図Aに示しておいたヘ 【第二章第三節 ウッダーナの視点】 さて、『菩薩地Jには章節の名から成るウッダーナ (uddana:総括偏:綱目偏)がある。そ の内、図A中のuddanaく1>く2>は目次的役割を担って、それぞれの官頭に「事前列挙」の 形で配置されている。このuddanaく1>は,[i J何を学修するのか」に対応する五つ章名か ら成るが、 uddanaく2>は第viii章「力種姓の章(力種姓品)Jの六つの名から成る。つまり、 「三種の学道」とは直接関係しないと言えようロ

(6)

一方、『大乗荘厳経論』には、このuddanaく1>く2>と比較されるウッダーナが二つある。 ただし、その両者は、「事前列挙

J

ではなく「事後列挙

J

として配置されている。つまり、ウ ッダーナとしての役割が異なり、この『大乗荘厳経論jのウッダーナの位置づけや意味などは 解明されていない。それはレヴィ版本において、第X章第1備と第XV章第l備とされるもの である。これ以後は、この二つを順次、ウッダーナ 1 (uddanal)とウッダーナ 2 (ud・ dana2)と表記する。内藤 [2009a] [2013Jで言及したように、この二つのウッダーナは基本 的にはそれぞれ前章の最終偏に位置づけられるべきであると考えるヘ 筆者は、この二つのウッダーナの役割と意味によって、『大乗荘厳経論jの構成と構造を考 えているo それは、「間・思・修jという伝統的な修行・修習階梯を意図する。つまり、 [ 1 ]ウッダーナ1を構成する「第I章乃至第IX章jの九章 ←「聞

J

所成の構造 口口ウッダーナ2を構成する「第X章乃至第XIV章

J

の五章 ←「思」所成の構造 [凹]ウッダーナ2で除外された第XV章の示す余章の構成 ←「修」所成の構造 の三部構成である。[1 Jについては内藤 [2009B]で論じた。[田]については内藤 [2013] で論じ、ウッダーナ2の使用形式を問題にして、第XV章以後の構成と構造、特に第XV章と 第XVI章と第XVII章の関係について言及した1ヘ今回の問題は残りの [11]であるo 【第三章 ウッダーナ

1

の理解について】 【第三章第一節 ウッダーナ1とウッダーナく1>の比較】

f

大乗荘厳経論jのウッダーナ1 (uddanal)は、次のようなものである。 adi

siddhil}SaraI}aIpgotrarp citte tathaiva cotpadal}/ svapararthas tattvarthal} prabhavaparipakabodhiS ca / / [Le: p.50,11.3-4] [最初なる]序[章]と、[大乗]成就[の章]と、帰依[の章]と、種姓[の章]と、 そして[菩提への]発心[の章]と、自利利他[という「正行

J

の章]と、真実義[の 章]と、威神力[の章]と、[衆生]成熟[の章]と、菩提[の章]がある。// この内で「序 (adi)

J

と「成就 (siddhi)

J

は、論文末の図Aでも第I章を分割して示してい るように、第I章をどう考えるかの問題である川口このウッダーナ 1は第 I章を二分割してい るが、『大乗荘厳経論』の「第I章乃至第IX章

J

のすべての章名を列挙するだけである。ただ し、第V章「正行 (Pratipatti)

J

が「自利利他 (Svaparartha)

J

とされる点のみ異なる。一 般的にウッダーナは名目を最初に挙げる「事前列挙」であるが、このウッダーナ1は「事後列 挙jである点に留意する必要がある。 さて、関連が指摘される『菩薩地jのウッダーナく1> (udd如aく1>)は、 svapararthaSca tattvarthal} prabhaval} paripacane / sattvasvabuddhadharmaI}atp para bodhiSca saptami / / [BBh: p.22]

(7)

仏教写本の文献学的研究 (1)自利と(2)利他と[いう第iii章 (Svaparartha自他利品)と]、 (3)真実義と[いう第 iv章 (Tattvartha真実義品)と]、 (4)威力と[いう第v章 (Prabhava威力品)と]、 (5) 衆生成熟と(6)自らの仏法成熟と[いうこ種の成熟である第vi章 (Paripaka成熟品)と]、 (7)最 高 の 菩 提 と [ い う 第vii章 (Bodhi菩提品)]が、[菩薩の学ぶべき]七[慮] である。// である。これは、目次的役割をもっ「事前列挙

J

であり、形も内容もウッダーナ1と異なる。 なお『菩薩地』に第i章「種姓」と第ii章「発心

J

がないのは、発心した菩薩がi[i ]何を 学修するのか

J

という名目を列挙しているからであるとされる。 一方、『大乗荘厳経論』のウッダーナ 1は、その除外されている『菩薩地』の第 i章と第五 章に対応する第111章と第IV章だけではなく、独自の第I章と第11章の章名から成る。その点 からも、その役割と意味は異なると考えるべきであろう。 【第三章第二節 ウッダーナ1の役割と意味一一内藤 [2009B] での指摘ー一】 紙面の都合上、内藤 [2009B] の要旨だけ記しておく。ウッダーナ 1には、極簡単で短い注 釈がある1九その注釈の主語である「この菩提の章は」の指示代名詞「この (e?la)Jがウッダ ーナ1の内容を受けていると考え、第IX章自身が「第 I章乃至第IX章

J

の内容を内包してい ると考える。つまり、ウッダーナ1を除く第IX章の第1-86備が、それぞれのトピックとして 「第I章乃至第IX章

J

と対応しながら、第IX章自身の「菩提

J

を総括していることを示した。 しかもその対応関係は、「向上的方向性」と「向下的方向性」であることに言及し、それを図 式化した〈私見(試論))を提示した川。 この「向上的方向性

J

と「向下的方向性

J

という相矛盾するものが一組として示されること こそ「仏教の基本的な考え方」であると提示したのは、長尾 [1992A] などの論考である川。 筆者の理解にもとづいて説明すれば、「第I章乃至第IX章

J

の内容は、大菩提を証得した者同 によって、大乗を誹誘する者を含めた一切衆生を教導するために「向下的方向性(慈悲

)

J

をも って説示された教法である16)。同時に、第IX章自身はその「向下的方向性(慈悲

)

J

の源であり、 それを根拠づける「大菩提(智慧

)

J

の説示である。したがって、その「第I章乃至第IX章

J

の教法を聞き学ぶこと(聴聞)を通して、その聴聞した者がその大乗の教法を信解し、菩薩道 を修習し「大菩提」を成就できるのである。これは「向上的方向性(智慧)Jであるが、その ことを聞き学ぶのである。 換言すれば、「第I章乃至第IX章」の説示内容は、聴聞による「聞

J

所成の智慧を成就する ための次第なのであるo その意味で、第IX章「菩提 (bodhi)の章jはその成就すべき智慧を 意味する(17)。したがって、「五義jの中で「⑤円成実

J

とされるのであり、大乗の教法に関 する「聞

J

によって成就した智慧の内実である。その後、この智慧を「思j所成を通して 「修

J

所成の智慧へと成熟していくのが大乗菩薩道の修習の階梯であるl

(8)

つまり、菩提へ発心した菩薩がf[

i

]

何を学修するのか

J

について説かれたのが『菩薩地』 の「第iii章乃至第vii章

J

であった。一方、『大乗荘厳経論jでは、大乗を誹誘する者を含めた すべての衆生が聞き学ぶべきもの

(

r

聞jの対象)として、まず「第I章乃至第IX章jの各章 のテーマが説示されているのである。その意味で、両論書では説示の意図と対象が一一いわゆ る「造論の意趣」が一一異なるのであるo敢えて『菩薩地jの視点で言えば、f[i]何を学修 するのかjは『大乗荘厳経論jでは「聞き学ぶべきこと(聞

)

J

に該当し、それが「第I章乃至 第IX章

J

に相当するということは可能であろう。 このように理解する時、『大乗荘厳経論jが『菩薩地jの各章節の名目を継承しながらも、 換骨奪胎して論を再構築している意図(意趣)の一端が窺えるであろう。 【第四章 ウッダーナ

2

についての理解】 【第四章第一節 ウッダーナ2とウッダーナく2>の比較】 次に、『大乗荘厳経論jのウッダーナ2 (uddana2)は、次のようなものである。 adhimukter bahulatadharmapary~tide~ane pratipattis thatasamyagavavãdãnu~ãsanarp.

/

/

[Le: p.97, 11.20-21] 「信解の多いこと

J

[の章]と,

r

法を尋求すること

J

[の章]と,f[法を]説示するこ と

J

[の章]と,

r

正行

J

[の章]と、さらに,

r

正しく教授教戒すること

J

[の章]があ る。// これも「第X章乃至第XIV章

J

の章名を「事後列挙

J

するだけである。これと関連が指摘され る『菩薩地』のウッダーナく2>(uddana <2>)は「事前列挙

J

であるが、ウッダーナく1>の 場合と異なり、内容は最後の二句一行を除きほぽ同じである。それは六句三行より成り、 adhimukter bahulatadharmaparye!?tide~anã / pratipattis tathasamyagavavãdãnu~ãsanam /

upayas油itarpkayavanmanal}karma pa~cimam / [BBh: p.95]

r (1)信解の多いこと」と、 r(2)法を求めることjと、 r(3)[法を]説示するこ と

J

と、

r

(4)正行」と、さらに,

r

(5)正しく教授教戒すること

J

がある。 最後に、

r

(6)方便を伴う身口意の[三]業

J

がある。// である。このuddanaく2>は、論文末の図Aで分かるように、『菩薩地jの第viii章「力種姓品 (Balagotra)

J

の六つのトピック(節)を列挙している。一方、『大乗荘厳経論』のウッダーナ 2は『菩薩地jが同一の範晴として扱う第六、「最後に、

r

(6)方便を伴う身口意の[三]業」 がある。」を除外している。この除外の理由は、この第六に対応する第XV章の内容を「修」 の段階一一「修道

J

一ーに位置づけるからである。換言すれば、ウッダーナ1の「第I章乃至 第IX章」が「聞

J

所成の智慧を意図したように、ウツダーナ2の「第X章乃至第XIV章

J

(9)

仏教写本の文献学的研究 「思」所成の智慧を意図し、除外された第

XV

章以後が「修j所成の智慧を成就するという 「向上的方向性jで構成されていると考える。 【第四章第二節 ウッダーナ2で除外されたもの一一内藤 [2013] での指摘一一】 ウッダーナ

2

を前章第

X

I

V

章の最終偽と考えるので、第

XV

章はわずか四偽で構成されてい ることになる。この四偏に関して、世親釈は導入文で「方便を伴う行為を説示する

J

というだ けである則。それは、菩薩道における三種類の「方便」である。つまり、

ω

2

偏 :波羅蜜等の菩薩の

n

行為を]引き起こす方便

(

s

a

m

u

t

t

h

a

n

a-

u

p

a

y

a

)

J

(8)第3-4偏:退転する可能性のある菩薩の i[行為が]反転する方便

(

v

y

u

t

t

h

a

n

a-

u

p

a

y

a

)

J

(C)第

5

偏 :菩薩の「行為の清浄なる方便

(

k

a

r

m

a

n

ov

i

e

u

d

d

h

y

-

u

p

a

y

a

r

p

)

J

である則。この第

XV

章の三つが、第

X

V

I

章と第

X

V

I

I

章に対して目次的役割を担っている。同 時に、第

X

V

I

章と第

X

V

I

I

章の関係を示しているのである200 第

X

V

I

章では、「六波羅蜜(第1-71偏)J と「四摂事(第72-78偏)J というこつのトピックが 説かれる。その「六波羅蜜

J

の修習をもって、菩薩は自らの成仏道を歩むのであり、それは 「自利的自利(自利のための自利)Jと言える。また、衆生を包摂する「四摂事」は利他を意味 するが、その利他は自らの菩薩道の成就という「自利的

J

な側面をもつので、「自利的利他 (自利のための利他

)

J

と言える。この二つが一組として説かれる点は、自利と利他の成就が菩 薩道であるからである。その「六波羅蜜

J

と「四摂事jの「行為を引き起こす方便

J

が菩薩自 らの身口意の三業なのである22)。それが上記

ω

であり、第

XV

章第2偶の意味である。 それに対して、第

X

V

I

I

章における「供養(第1-8偶)J と「師事(第9-16偶)J と「無量(第 17-65偏)Jの三つのトピックの内、「供養Jと「師事」を通した「四無量の修習(第17-28偶)J によって菩薩自身が不退転地に悟入するのであるo それは菩薩自らが一切衆生の成熟という利 他を無功用に行えるようになるためであるから、「利他的自利(利他のための自利

)

J

と言えよ う。それは菩薩道から退転する可能性のある「行為が反転する方便」を意味する。それが上記 (鴎であり、第

XV

章第3-4偶の意味である。 さらに、大乗菩薩道においては衆生成熟という「利他」以外に「自利jはない。それは大悲 による一切衆生の救済であり、そのために、「供養jと「師事」を通した「大悲の成就(第29 -65偶

)

J

を説くのである。それが、六波羅蜜等といわれる菩薩の「行為の清浄なる方便

J

であ り、大悲にもとづく「利他的利他(利他のための利他

)

J

という大乗菩薩道の究極である。そ れが上記(C)であり、第

XV

章第

5

備の意味である。以上の構成と関係を図

B

として、内藤 [2013J 269頁から次頁に転用しておく。 上述したように、第

X

V

I

章と第

X

V

I

I

章はそれぞれ「自利(向上的方向性

)

J

と「利他(向下 的方向性

)

J

の成就を根底とした構造になっている。同時に、第

X

V

I

章と第

X

V

I

I

章の関係も、 「自利」と「利他

J

の対応で構成されているo筆者はこのような構造を「入れ子構造」と呼ん

(10)

k.2 kk.3-4 k.5 第XVI章 Paramit紬 ikara

I I

第XVII章 問j耐 vaprama.l;ladhikara [sva-artha (自利)] ………-+…ト…・…・・一面倒ー紅白a(利他)] (A) P盈amit,akk.l・71 [六]波羅蜜 (A) Satpgraha-vas旬,kk.72・78 [四]摂事

I

k.79

I

k.“ .・・(B)町民 kk.l・8 = = = = ; sva-artha

…ト:

供養 │ ・ー(B)Sev,akk.9・1 6 = =:::;r::::!. 師事(親近) para剖 ha

-

-

1

・h ・'(C)Apram机 比17-65 [四]無量 八要義:XVI

kk.52・56+1 (paramita)→ XVII

k.5(p司五): XVII

k.9(seva)

(1)所依(誕raya) (2)物がら (v路 側 ) (3)動機 (nimitta) (4)廻向(parit)amana) (5)原因 (hetu) (6)智

G

笛na) (7)耕土(均e回) (8)依拠(凶鈎ya) でいるが、上述の構成は「自利・利他jの視点で三重の「入れ子構造

J

になっていると言える。 この図Bに関する他の視点却も重要であるが、「供養」と「師事jは「向上的方向性(智 慧

)

J

と「向下的方向性(慈悲

)

J

を意図するものであるから最重要である。つまり、菩薩行を 修習する時、諸仏への「供養

J

と善知識への「師事

J

がなければ、菩薩は不退転地へ悟入でき ず、究寛の菩薩になりえず、大菩提を証得できないのである。そのことが、第XVI章と第 XVII章で具体的に示され、その目次的役割を第XV章が果たしていると言えよう。 逆説的に言えば、『菩薩地』の他の五つの章と分離させて、『大乗荘厳経論』は第XV章に異 なった意味を与えている。それは、第XV章がそれ以後の章について「修」所成の智慧を成就 するための「修道」のあり方と構造を示すのである。これは、ウッダーナ1の場合と同様に、 『菩薩地』の各テーマを換骨奪胎して継承する『大乗荘厳経論』独自の視点であろう。 さらに、第XVII章の構造として、「供養」と「師事

J

が「無量

J

の説示において順次

f

樹 木 に嘗えられる悲(第36-40偶

)

J

と「悲による布施への教授(第53-58偏

)

J

において展開されて いる。それも、一種の「入れ子構造

J

であると言えよう。 【第四章第三節 ウッダーナ2の理解一一意味と位置づけ一一】 さて、残されたウッダーナ2の理解の問題である。その内容は、『大乗荘厳経論jの「第X 章乃至第XIV章」の五つの章名を「事後列挙

J

するだけである。ウッダーナ1のように短くて もいいから世親釈があればよいが、何もない。逆説的に言えば、何の注釈もないことは、ウッ ( 10 )

(11)

ダーナ lと同じ役割を果たしているからだと考えるべきであろうか。それも、前述のように、 「関・思・修jの内、残された「思jを意図してである。 「ウッダーナ1

J

と同じ役割だとすれば、第XIV章第1-51備のそれぞれのトピックが「第IX 章乃至第XIV章」と対応し、それも「向上的方向性jと「向下的方向性

J

で対応しながら総括 していることになる。それを論証するには第XIV章全体の解読を示す必要があるが、今それを 提示する余裕はない。但し、第XIV章の位置づけについて、安慧釈が興味深い注釈をしている ので、そのことを手がかりに若干言及してみたい。 {第四章第四節安慧釈の意味するところ一一和訳と理解一一】 それは、安慧が第XIV章を注釈するに先立つて、前第XIII章との関連に言及する箇所である。 この安懇釈の和訳研究には小谷 [1984](該当箇所の和訳は143頁)があるが、筆者の理解は異 なるので、筆者の和訳を提示しておく制。 一一一一安慧釈の和訳一一一一

i

s

I

I

J

場't1J!(*

an

uS

a

s

a

n

i

-

a

v

a

v

a

d

a

)

却[を弁別すること]について五十一の偶がある

J

とい うことに関して、i[第XIII章の]

i

正行

(

P

r

a

t

i

p

a

t

t

i)の章(随修品

)

J

に続いて

i

[

第XIV章 の]

i

教誠教授の章

J

を説くのはどのような関連があるのかといえば[、次のように説明する]。 ここ(第XIV章)では(l)

d

i

r

)

、[菩薩の] i[勝れた]修学の形態(可

i

k

-

a

k

a

r

a

)

J

紛が論じら れている。[その]勝れた修学の形態(汚ik~ã剖cãra-viSe号a) とは、 [1] 勝れた意欲 (*viSist

a

-

a

S

a

y

a

)

と、 [3J勝れた自利(*

a

t

m

a

-

h

i

t

a

-

viSe~a) と、 [4J 勝れた利他(・para-hita-viSe~a) と、 [5] 勝れた究寛等(・ paryanta-ãdi・viSe~a) である o そして、í[第X章の]法に対する信解の 多いことの章

J

に関してi[1]勝れた意欲

J

を説き、 i[第XI章の]諸法の尋求の章jに関し てi[2]勝れた加行(*viSi~ta-prayoga)J を説き、í[第XIII章の] i正行の章

J

に関して i[3] 勝れた自利

J

を説き、i[第XII章の]説法の章」に関してi[4J勝れた利他

J

を説いた。[そ こで]次には í[5'] 勝れた究極的なことい ni~thã-viSe$a)J を説くのである o しかし、正行を実践する菩薩は見・修の二道を清浄で究極的なものい

n

i

h

a

)

とする為に、 自分自身も

sIIs

IJfを求め、他の人々にも教誠教授を確立させなければならない。したがっ て、i[第XIII章の]

i

正行の章

J

に続いて、

i

[

第XIV章の]

i

i

殺説者過ぎの章

J

が説かれるという ように関連しているのである。 上記の筆者の和訳には異論があるであろうが、以下の論述に関連する点にコメントしておき たい。それは上記和訳において下線の号│いた部分であるo まず第一に、「ここでは(l)

d

i

r

)

J

とはどこであろうか。筆者は「第XIV章

J

と考える mo つ まり、「勝れた修学の形態」が論じられているのは、対応関係が後に示される第X章から第 XIV章の「各章において

J

それぞれ論じられているのではなく、「第XIV章において、

J

つまり

(12)

第XIV章の対応する備において、論じられているのである。その理由は第四章第五節で後述す るが、そこの図Cで示すように、例えば第X章「信解の章

J

の内容に関して、第XIV章第1-3 偏でf[

1

]

勝れた意欲

J

が論じられていると理解するのである。 第二の問題点は、f[1] 勝れた意欲(・vi~i~ta-ã~aya) と、 [3] 勝れた自利 (*ãtma-hita­ viæ~a)J と和訳して、小谷 [1984] のように二つの聞に í[2] 勝れた加行」を補わない点で ある。直後に

[

1

]

乃至

[

5

](

[

5

'

]

)

の五つが述べられる点から、

[

2

]

を補う方が妥当かもし れない。筆者が補わない理由は第四章第六節で後述する。その意味では、和訳に

[

1

][

3

]

[

4

]

[5]と記さない方が適切である。しかし、 [2Jの欠落が明確になるように番号を敢えて振ったo それは [2]がない意味を重視するからである。なお、北京版にもデルゲ版にも、ここに [2] はない。 第三の問題点は、第五を示すチベット語が、前者

[

5

]m

t

h

a

r

p

h

y

i

n

p

a

l

a

s

o

g

s

p

al}.

i

k

h

y

a

d

p

a

r

と後者

[

5

'

]m

t

h

a

r

t

h

u

g

p

a

l].

i

k

h

y

a

d

p

a

r

で、異なる点である。一応前者を

*

p

a

r

y

a

n

t

a

-

a

d

i

-vi~e号a と想定し、後者を*凶~thã・viæ~a と想定した。両者に同一のサンスクリット語を想定す ることもできる。しかし、ある事柄を示す文脈の同一箇所で、しかもこのように近接している 状況でチベット語訳が異なるのは、サンスクリット語が異なっていたと理解する方が妥当であ ろう。筆者はこの

[

5

]

p

a

r

y

a

n

t

a

[

5

'

]*

n

i

t

h

a

の相違を重視する。 前者

[

5

]

p

a

r

y

a

n

t

a

は菩薩の「向上的方向性jの修行・修習の究寛

(

p

a

r

y

a

n

t

a

)

を意味す ると解する。というのは、第XX[-XXI]章第37備で、第七地が不退転地の第八地に直結し ているから「修行の究寛まで到達する (prayoga-paryant~-gamana)J という意味で「遠行 地jと呼ばれるというような用例があるからである則。このような「向上的方向性

J

が、前者 [5]

i

勝 れ た 究 寛 ド

p

a

r

y

a

n

t

a

)

J

の意味だと解する。一方、第XIV章第45-46偽で、修習の出 離に達して最終の修習を得た菩薩は、「究極の転依(豆話回・ ã~raya-parãvf抗i)を得て j 、一切 衆生の利益のために実践するという制。この「究極の転依J とは「無住処浬繋 (aprati~thita­ nirv勾a)J を内実とする「知来の転依 (ã~raye

.

.

.

t

a

t

h

a

g

a

t

a

n

a

r

p

p

a

r

i

Vf

t

t

i

r

)

J

であろうし湖、 後者

[

5

'

]

í勝れた究極(*凶~thã)

J

の意味だと解する。つまり、これは「向下的方向性

J

で ある。 換言すれば、第XIV章は、「向上的方向性j のí[5] 勝れた究寛(乍aryanta-viæ~a)J と 「向下的方向性」の

i

[

5

'

]

勝れた究極(川

i

t

h

a

via

)

J

との二つが一組として説示されてい るのである。それは、順次、諸仏から菩薩が受ける「教授

(

a

v

a

v

d

a

:

4

7

-

4

9

)

J

と、菩薩 に対する諸仏の「教誠

(

a

n

u

s

a

s

副首:第

5

0

)

J

であり、この一組の説示が重要なのである31) 【第四章第五節 ウッダーナ2の示す「第X章乃至第XIV章

J

の関係】 前記の安慧釈によれば、第X章と関連する i[l]勝れた意欲

J

と、第XI章と関連するf[2] 勝れた加行

J

と、第

xnI

章と関連する

i

[

3

]

勝れた自利」と、第

xn

章と関連するi[

4

]

勝れ

(13)

た利他」の四つと、さらに第五として二つ、つまり r[5] 勝れた究寛(・ paryanta-vi~e!?a)

J

とr[5']勝れた究極(・ni!?tha-vi~e!?a)

J

があることになる。この安慧釈のf[3] が第XIII章 と関連し、 [4] が第XII章と関連する」という言明は、 [1]乃至 [5] (と [5'])の順序が『大 乗荘厳経論』の章の次第順ではないことを意味する。章の次第順であるならば、 [1] [2]

_

_

i

l

l

_

1

[

5

]

(

[

5

'

]

)

の順序で説明が展開するはずである。したがって、

[

1

]

乃至

[

5

](

[

5

'

]

)

は、章 の次第順ではなく、第XIV章第1-51備における説示内容の順序であると理解すべきであろう。 筆者は、この第XIV章の説示順序が関連する章の次第順と異なる点に、つまり第XIII章と第 XII章の二つの章が逆転する点に、重要な意味があると考える。 さて、『大乗荘厳経論

J

における章の次第順からすれば、その説示内容は、自らの「信解

J

(第X章)を増大(確固たるものに)するために自ら「法を尋求する

J

(第XI章)のであり、それは 明らかに「自利」である。その尋求した法(教法)を人々に「説法する

J

(第XII章)のであるが、 それは「利他」である。なぜこの「利他」を行うのかといえば、菩薩の尋求した大乗の教法が 「利他」を説くものだからである。しかしその「利他」は、自ら向上的に菩薩道を成就するた めであり、「自利的

J

なものである。つまり、この説法は「自利的利他(自利のための利他

)

J

である。またその「自利的利他

J

の実践は、大乗の教法である「人法二無我

J

にもとづく「正 行jでなければならない。その意味で、その「正行」とは知何なるものであるかを説く(第 XIII章)のである刻。しかし、この「正行j自体は、菩薩自らが人法二無我を証得して、自ら が見道へ倍入するためであるから、「自利的自利(自利のための自利)Jの意味となろう。 このように、「第X章乃至第XIII章

J

の説示は根底に「自利的

J

視点がある。しかし、それ だけでは大乗菩薩道の修習ではありえない。それが「利他的

J

視点になって、大乗菩薩道とな るのである。その説示が第XIV章「教授・教誠

J

なのである。つまり、第XIV章第1-46偏は 「自利的(利他のための自利の

)

J

視点から「利他的

J

視点への展開であり、それらを総括する 第47-49偏は「利他的自利」である。確かに、「見道(第28-41偏

)

J

と「修道(第42-49偶

)

J

が説 示されているが、それはあくまで、大乗菩薩道としての「向上的方向性」を意味する制。しか し、大乗菩薩道において真の意味での「利他」は「利他的利他(利他のための利他)Jであり、 智慧に裏付けられた大悲による「向下的方向性」を意味するo その説示が第50備である。この 両方向性が順次、 r[5]勝れた究寛(*paryanta-vi~e!?a)

J

とr[5']勝れた究極(*ni!?tha-vi~e!? a)Jの意味であり、それは順次「利他的自利」と「利他的利他」なのである。 したがって、第1-46偏を内実とする第47-49偶が転換(転依)して、第50偽の教誠にもとづ

くようになることが、安慧釈のいう第XIV章における「勝れた (*-vi~e!?a / .vi~i叫a・)J という

術語を付加する理由であろう。それは、筆者が「利他的jと表現したあり方を根底にすること である。それが、安慧釈のいう第XIII章「正行の章jに続いて第XIV章「教授教誠の章」の説 かれる理由を意味すると考える。

(14)

具体的に修習する菩薩の「向上的方向性jの視点である。換言すれば、菩薩自らが見道に悟入 するための「自利的」な内容を意味するのである。しかし、その「自利的j視点だ砂では見道 へは悟入できないのである。それは、大乗菩薩道の「修道

J

は「利他

J

に力点があるからであ る。その意味で、第XIV章の説示内容の順序は、

f

利他jから「自利jへではなく、「自利

J

か ら「利他」への展開として説示されている。それが、安慧釈のいう r[3]勝れた自利

J

から f[

4

]

勝れた利他

J

への構造なのであるoしたがって、第

XIV

章自体の構成では、論の構成で ある第

X

I

I

章(利他)と第

X

I

I

I

章(自利)とは逆転しなければならないのである。大乗菩薩道 においては、この「自利的

J

視点から「利他的」視点に逆転することが重要である。つまり、 「教授

J

と「教誠jが一組として成立することこそ、見道悟入の必要条件なのである。 論全体の構成から言えば、第XIV章で「見道(第28-41偏

)

J

と「修道(第42-49偶

)

J

が説示さ れているが、それは具体的な実践内容としての「修道

J

の説示ではない。その内容は第

XV

章 以後なのである。この「第

X

章乃至第

XV

J

は、「思

J

所成の智慧を成就する構造をもって、 「自利的

J

内容が「利他的」内容に転換(転依)する視点で構成されていると考える。 【第四章第六節 「第

X

章乃至第

XIV

章jにある「入れ子構造

J

】 上記の安慧釈の和訳(第二段落目)において、最初のf[1] 勝れた意欲 (*vi~i号ta・ã~aya)J の 次に、f[2]勝れた加行」がチベット訳にない点について、筆者は補わずに和訳すると言及し た。その理由を記しておきたい。 筆者は、「勝れた (*-vi~e~a / *vi~i話a・)J とは上述したように、「自利的」視点が「利他的J 視点に展開した意味であると考えるo その「利他的

J

な加行がf[2]勝れた加行jなのである。 換言すれば、「信解

J

(第X章)が「利他的」なf[1]勝れた意欲jとなり、それにもとづいて、 「自利

J

(第

X

I

I

I

章)がf[3]勝れた自利」となり、「利他

J

(第

X

I

I

章)がf[4]勝れた利他」と なって、初めて「利他的」なf[2]勝れた加行jと展開・転換するのである。この展開は「法 の尋求

J

(第XI章)を基盤とし...早島理 [1973]の指摘する四十四種の作意と特に関連する と思われる……中心とする。その成就がf[2]勝れた加行

J

である。しかし、その尋求した教 法が知来の転依による「向上的方向性(智慧

)

J

と「向下的方向性(慈悲

)

J

を説く大乗の教法で なげれば、勝れた「利他的jな視点への展開は成就しないのであろう。私見では、f[2]勝れ た加行

J

とは、「第

X

章乃至第

XIV

章jを内実とする第

XIV

章の構造でもって説示される。つ まり、i[2]勝れた加行jに関して、「第

X

章乃至第

XIV

章jは広義の内容であり、その中心で ある第

XI

章は狭義の内容であると考える。この「広・狭」の二重構造も、ある意味「入れ子 構造」である。この「勝れた加行」の成就によって、第

XV

章以後で「見道

J

及び「修道」に 悟入するという構成と構造になっていると考える。その意味で、ウッダーナ2の列挙する「第

X

章乃至第

XIV

章j全体は「修jに対して「思

J

の段階であると考えるロ このように理解すると、後に図

C

で示すように、「第

X

章乃至第

XIV

J

を総括する第

XIV

(15)

自体が広義のr[2]勝れた加行

J

を意味していることになる。その意味で、安慧釈の前半(第 二段落目)においては、r[2]勝れた加行jはないのではなかろうか。一方、狭義の r[2]勝れ た加行jは第XI章に関してであるから、安慧釈の後半では明示きれる。 筆者の理解では、次章で図Cとして提示するように、第XI章に対して第XIV章第4-22備が対 応する。それがr[2]勝れた加行」といわれるのはr[1]勝れた意欲

J

(第1-3偶)によるもの だからであろう。しかし、その r[2]勝れた加行」であるためには、第XIV章の「向上的方向 性(第47-49偏

)

J

が「向下的方向性(第50偏

)

J

によって裏付けられる必要がある。なぜなら、 その両方向性が一組となることが「勝れた(-vi~e~a)J という意味だからである。 このように第XIV章の中に「第X章乃至第XIV章jが内包されている点を、筆者は、一種の 「入れ子構造」と見なすのである。 換言すれば、「向上的方向性(智慧

)

J

と「向下的方向性(慈悲

)

J

が一一 [5]と [5'Jの二つ が一一一組となってこそ、,[2J勝れた加行

J

なのである。それを「五義」の視点で言えば、 「第X章乃至第XIII章

J

の①所成(成就せらるべきもの:

s

a

d

h

y

a

)

が、第XIV章の②分所知 (仔細に理解さるべきもの:

v

y

u

t

p

a

d

y

a

)

として成就することである。この②分所知は、「聞・ 思・修jにおける「思」所成の智慧を意味するのである制。 一方、その「②分所知

J

である第XIV章に対して、「①所成」である「第X章乃至第XIII章」 の中では、第XI章が中核となる35)。上述のように、狭義のr[2J勝れた加行jは第XI章に関 してだからであるo換言すれば、「聞・思・修」の「思」の段階において、第

X

章「信解」に もとづく第XI章「法の尋求

J

がどのように充足するかが「思

J

での核心なのである。したが って、その「法の尋求jの充足のために、第XII章「説法

J

(利他)が必要であり、第XIII章 「正行

J

(自利)が必要なのであるが、その必要条件が十分条件になるためには第XIV章「教 授・教誠」が不可欠なのである3ヘその意味では、詳しい考察が不可欠であるが、その第XI章 の説示の中核である四十四種の作意

(

m

a

n

a

s

k

a

r

a

)

の成就が密接に「第X章乃至第XIV章」の 成就と関連すると思われる。これも、一組の「入れ子構造jだと見なしたい。

【第五章

まとめ一一「第

X

章乃至第

XIV

章」の構成・構造の図式化一一】

筆者は、上述したように「間jの段階か「思jの段階かの相違はあるものの、ウッダーナ2 はウッダーナ1とほぼ同じ役割と意味をもち、「思

J

の段階の構成と構造を提示するものであ ると考える37)。最後にまとめとして、以上の言及を踏まえて、ウッダーナ2が章名を事後列挙 する「第X章乃至第XIV章」の構成と構造を図式化しておきたい。 ただし、その総括を担う第XIV章は、他のどの章と比べても、世親釈において明らかな特徴 があるo その世親釈は、ウッダーナ2を除く五十一の備に対して、冒頭で「教授教誠を弁別す ることに五十一の偶がある

J

というだけで、以後、偶の導入について一切何もいわないのであ

(16)

図C:第X章乃至第XIV章の構成・構造園 《獄論》 第 沼V章(教授・教餓)

I

[kk.I-46]に対する[kk.47-50]の関係(私見) 第X

XIV章

l

章 名

I

科段と対応偏 ( 1 )順解脱分

1)広大教授kk.l・3

-第X章 → A)信解増長 k.l (信解)

I

B)資糧集積 K2 :

j

I

C)獲得教授k.3

-J :

2)起六種心比4-6……-i

l

-

-

k.47

I

3)十一作意 kk.7・10 :

l

第 氾 章 → 4)九種心住 kk.l1・14 : -_.! (求法)

I

5)得堪能性 kk.l5・18

I

6)諸仏称揚 kk.19・22・・・・J (II)通達分(順決択分→四善根位) r 1)四善根位 kk.23-27

I

A)媛位k.23……・・……;

r

I

B)頂位 k.24め

:

k.48ぬ ー 川 C)忍位 kk.24cd・,26ab

IL

ーD)世第一法位協.26cd・27・J (皿)見道 [安慧釈][5']ni将ha-vise担 普薩に対する諸仏の教誠 [向下的方向性]

!

<

O

>

信解増大 !(抽出,ukti-viv吋 laya) !<1>増上戒学(adhisila)

!

2

>

増上心学(油ici伽) ! く3>増上慧学 (adhiprajna) 1 .ー ー 四 種 の 教 誠 一

.

_

.

_

.

J

(ca同rvidha-anu鋪詞凶) 目 -方 ・ 0 -a ・ = り 。 謙 一 泊 = あ d 前 田 町 V= L m b ) 埼 一 M L ﹁ の 叫 ゆ 町 一 地 一 削 和 一 卯 一 ﹁ . 輔 ↑ . 吋 協 は 滴 清 一 芭 一 む }い山川副像知山一辺一 品 川 4 . m 一 刈 制 尚 一 同 一 砂 k a m 伊 仙 蜘 山 は 一 利 一 道 山 一 . m 動 同 齢 一 割 一 千 -修 一 , M

-一

油 叫 一 一

y h u ヲ J 圃 圃 a 品 ﹃ τ 凋 ﹃ 凋 ﹃ -k k k

-A

U

-; J ・ 5

-一

-. 7

-・ ﹄

-一 -一

1 3

-一

-一

t J t J . . . ‘ } 圃 M389mMn 必 4 M 必 相 判 “ “ 和 M

K 2 U 他 地 M M 6 幻 4 k k k k k 教

m

L

V

-U 別 得 暁 智 比 U 比 比 習 勝 習 依 益 寸 比 M

入 分 獲 通 浄 性 分 大 説 修 殊 修 転 利 大 大 大 引 悟 無 依 等 滑 空 提 偉 解 智 智 寛 極 生 偉 偉 広 k 道 得 転 平 極 解 普 道 道 道 二 二 究 究 衆 授 授 誠 偏 見 心

ω

O

防 衛 得 見 修 修 川 町 、 問 。

ω

司 教 教 教 帰 。 幻 幻 的

N

O

Y

1

4

一 羽 一 ﹁ E E l ﹂ r t F 1 1 1 2 1 1 ﹄ ﹁ 4 L U ﹁ ﹂ I l

-一

4 E E l -章 章 章 ) v

m

伺 別 法 幻 第 伍 第 倣 第 る。これは、極めて奇異で特徴的であると言わざるをえない制。 しかし、図式化に当たって、第XIV章の構成を示す科段を提示しなければならない。上の図 Cで示す科段は、現時点での筆者の理解を、先行研究の科段を参照して示したものである39)。 この図式化によって、ウッダーナ2が示す五つの章の関係について、その構成と構造がある程

(17)

仏教写本の文献学的研究 度明らかになると考える。 なお、この図

C

中で、第

5

0

偏の「四種の教誠

J

をく

0>

乃至く

3>

の四種としているが、筆者 の第

XIV

章に関する理解40)にもとづく私見であることを記しておく。 さて、上述したように、「第

I

章乃至第

I

X

章」が「開

J

に該当し、「第

XV

章以後

J

が「修」 (見道以後の修道)に該当する。そして、この図

C

の「第

X

章乃至第

XIV

章」は「思

J

に該当す る。つまり、『大乗荘厳経論j全体が「聞・思・修

J

の三部構造であると考える筆者の理解を、 十分ではないにしろ、提示し終えたことになる。また、その特徴的な説示形式は「入れ子構 造jであるという視点も、随時、指摘した。 この「入れ子構造jとは、例えば『大乗荘厳経論』全体が「聞・思・修jの三部構成で説示 されているが、その三部のそれぞれも「聞・思・修

J

で構成されているという構造である。具 体的には、図

C

で示す「思

J

に該当する「第

X

章乃至第

XIV

J

も「聞・思・修」の構造であ ると考えている。つまり、第

X

章が「聞j、第

X

I

章が「思」、第

X

I

I

.

X

I

I

I

章が「修」に当たり、 それをまとめあげるのが第

XIV

章である。前述したように、「第

X

章乃至第

XIV

J

の中核が 第

X

I

章であり、その第

X

I

章が四十四種の作意

(

m

a

n

a

s

k

a

r

a

)

が「思」の中心的内容であろう。 そして、その「思jの成就は第

X

I

V

章の「向上的方向性」と「向下的方向性jがーっとなるこ とによって「勝れた加行」の成就、つまり見道へのd悟入を意味すると考える。 また、すでに指摘したように、「五義」の視点で、前四章が「①所成

(

s

a

d

h

y

a

)

J

で、第

XIV

章が「②分所知

(

v

y

u

t

p

a

d

y

a

)

J

である。つまり、「②分所知

J

は、「①所成

J

について 「思所成

J

の智慧を意味しているのである。それは「自利的

J

なものが「利他的

J

なものへと 転換し成就する修習である。それが第

XIV

章の「②分所知jであると考える。その「思」の段 階の構成・構造がウッダーナ

2

で示される「第

X

章乃至第

X

I

V

章」の五章であると考える。 さらに言えば、筆者が図

C

で第

X

章に対応させる第

XIV

章第

1

守備の

A

)

B

)

C

)

の三つも、 順次「聞・思・修jに相当するのではないだろうか。これは検討が不十分であるので、可能性 の指摘に留めたいが、このような構造が「入れ子構造」なのである。 ただし、『大乗荘厳経論』のどの説示を「入れ子構造

J

と見なすかは重要であるが、内藤

[

2

0

1

3

J

3

1

1

頁の註

(

7

3

)

で記したように慎重になる必要があることは、筆者自身、自覚している。 つまり、「入れ子構造jの視点は、論全体の意図や構成・構造をどのように理解するかに関わ るからである。また、各章の関係、具体的には前後の各章の関係や、それぞれの章自体の構成 をどのように理解するかに関わるからである。 註 1)長尾ノート(1)

r

序文Jに長尾重輝氏が記しているように、長尾先生ご自身がこれらの課題や問題点につ いては後進の者に委ねられていることから、長尾先生の学恩をいただいた者として、 rMSA研究会(通 称「長尾塾J)Jを継続し、その成果を研究会 [2009] [2013]の二冊で提示した。内藤 [2009A]などの 筆者の論考もその一貫である。 2) 下記の註 (11)参照。

(18)

3)早島理先生は上記研究会で荒牧典俊先生と共に教導いただいている。また、研究会 [2013] の編集に当 たっては、「あとがきJに記されているように何度も議論した。特に、その『注解Jに関して多くの協議 を重ねた。その中で、筆者の「聞・恩・修による構成Jと「入れ子構造jの視点に関しては同意してい ただき、多くの意見をいただいた。そして、内藤 [2009B] の時と同様に、それを論考にするように勧 めてくださった。ここに記して感謝申し上げたい。この論考にも多くの示唆をいただいたが、早島理先 生が本稿をどう評価されるかは別の問題である。 4 )袴谷・荒井 [1993] では、,...前略H・H・絶えず、あちこちの箇所で全体と部分とが入り組み合っていか にも複雑な観を呈するが、見せかげほどではない。部分が全体に跨っている……以下略……J(48-49頁) という。筆者が施した下線部分の内容は包括関係を意図していると思え、筆者が指摘する『入れ子構造J と同じ構造を想定しているのかも知れない。しかし、このような構造を「みせか貯ほどではないjとい い、袴谷憲昭氏は重要視しない。筆者は、「入れ子構造jが「間ー思・修jの大乗菩麗道において「繰り 返し修習すること」の重要性を意図していると考えるので、その評価は大きく異なる。なお、この袴 谷・荒井 [1993] の指摘は岩本 [1996]70頁の注(53)も認めているが、どのように評価しているかは分 からない。 5)早 島 理 [1973]9-11頁は、『菩産地』では1[首]如是学

J

は第xviii章「菩提功徳の章

J

の「摂大乗 (yana泊 中gr油a)J までであり、それ以後はI[iii]能修学jの内容であるという。それに対応するのが 『大乗荘厳経論jでは第

X

I

X

章第63偏に該当するから、この偶以後から最終章までをI[iii]能修学Jに 対応させる見解を提示している。また、荒牧 [2009B]や [2013] の図表はいわゆる最終章である第

X

X

-

X

X

I

章を対応させる。この問題点は、小谷 [1984]56-66頁、袴谷・荒井 [1993] 36四39買などの先 行研究によっても未決着である。 6)野津 [1936] によって、『大乗荘厳経論j第 I章第1-2偏は本論全体の思想綱要を示すものであることが 示された。 7) この「五義Jについては、研究会 [2009]42-43頁、及び88頁以下の注解(9)乃至注解(12)等を参照。ま た、荒牧 [2009A] 142-143頁や袴谷・荒井 [1993]27-39頁を参照。これらの先行研究によっても、そ の五義による構成の意味・意図が解明されているわけではない。 8) この「五義Jの二重の構成は、野津 [1936] にもとづいて袴谷・荒井 [1993] (36貰以下)で提示されて いる。なお、そこでの言及は、袴谷憲昭氏独自の仏教観からの視点であり、筆者とは異なるものである。 9) ウッダーナ 1についての私見は内藤 [2009A] [2009B]で論じた。ウッダーナ 2に対する私見は本論考 で提示する。先行研究者の多くは、両備ともにレヴィ版本の位置づ貯には否定的である。しかし、この 二つのウッダーナの扱い、及び役割と意味づ貯は明確化されていない。 10) 内藤 [2013] は、第

XV

章の説示にもとづいて、第

X

V

I

章と第

X

V

I

I

章の関係を論じた。残りの第

X

V

I

I

I

章と第

X

I

X

章と第

X

X

-

X

X

I

章との関係は論じていない。 ただ、第

X

V

I

I

I

章の位置づ貯については、内藤 [2013]284頁の註(33)で言及したように、第

X

V

I

I

章 第65偏の f五相Jと全く同ーの内容をもって、第

xvm

章第l剖易が示される点は重要である。つまり、 第

X

V

I

I

I

章で説示される「菩提分法jの修習においても、第

X

V

I

I

章第65偏の「五相jが根本(pra曲 面a) なのである。この「五相jの視点から、第

X

V

I

I

章を踏まえて、第

X

V

I

I

I

章の構成と構造を考えな付れば ならないが、それは別の機会にしたい。 また、第

X

X

-

X

X

I

章には、次註(11)で言及するように、『大乗荘厳経論jの章分けの問題がある。その 問題とも関連するであろうが、内藤 [2013] 307-310頁で、上記と同じ第

X

V

I

I

章第65備の「五相」が第

[

X

X

]

X

X

I

章第43-59偶の「諸仏の二十一の功徳Jと対応するのではないかと指摘した。これは現時点で は私見にすぎないが、今後の検討課題としたい。 残る第

X

I

X

章と第

XX[

XX

I]章第1-42偏に関して、『大乗荘厳経論』全章の中でその位置づけと意味 について、私見はある。ただ論述できるまで熟していない。 (11) レヴィ版本の第 I章について、前編「第1-6偶Jと後編「第7-21偶Jの二部構成と考える伝承がある。

(19)

仏教写本の文献学的研究 この『大乗荘厳経論』の第I章をどのように理解するかは大きな問題である。藤田 [2008]や研究会 [2009]

r

序説J、荒牧 [2009A]参照。 この第 I章の構成問題は、『大乗荘厳経論』全章の章分貯の問題と関わる。サンスクリット原典の最後 に「二十一章が終わるJ(Le,p.189, .14)とある点から『大乗荘厳経論』を全二十一章の構成と見なすので あるが、その二十一章の章分けは確定されていない。レヴィ版本が最終章を

XX

X

X

I

章とするのも苦肉 の策である。この問題については、早島理 [1973] 9頁で無性釈にもとづく独自の知見が提示されてい る。また小谷 [1984]54-55頁、袴谷・荒井 [1993]33頁以下でも言及されている。しかし、決定的なも のはなく、未解決と言える。 筆者の見解は、内藤 [2009BJ特に15-19頁、及び註(70)を参照。今回の論考と関連する点だけ示せば、 藤田 [2008]等の論文を踏まえた上で、第 I章の後編の第7-21偏も第7-16偶と第17-21偏の二つから成る と考える。その前者の第14-16偏は「聴聞jが不足している者に対する説示であり、後者の第17-21偶は 「聴聞」を軽視している者に対する説示であると思われ、基本的に両者が「聴聞Jという視点で一貫して いると考える。その根拠は、特に、前者の最終偏である第16偶は聴聞が不足している者たちに聴聞の重 要性を説き、聴聞するように勧めていると理解できるからである。一方、後者のうち第18-20備の説示は、 一度は聴聞したものの、その一度の理解で智者となったと慢心して、劣悪な信解に留まり、同じような 仲間とだけ交わり、了解できない大乗法を普知識に尋ねようともせずに、「了解できない大乗法は仏説で はないj と非難する者に対してなされていると考えられるからである。 12) Le,p.50, 1l.4-5:e~ ca bodhyadhikara adim arabhya yavatbodhipatalanusarel}anugantavyal]. / 筆者和訳:そして、この[ウッダーナで示された『大乗荘厳経論jの各章を内容とする]

r

菩提の章jは、 日菩瞳地jの]最初[の章]の章から初めて菩提[の章]に至るまでに随順することによっ て[その関連で]理解すべきである。 13)紙面の都合上、転写しない。内藤 [2009B]28頁の図B、内藤 [2009A]13頁の図C参照。 14)他に、長尾 [1991J、長尾 [1992B]、長尾 [1992CJ、長尾 [2000](=長尾 [2013])である。これらの論 考を筆者の責任において端的に言えば、「向上的方向性jである「智慧」は否定的なものであり、「向下 的方向性Jである「慈悲Jは肯定的なものである。この相反する両者において、常に智慧である否定が まず先にあり、そこにおいて慈悲である肯定が顕わになるのである。長尾先生の言葉によれば、「絶対否 定(筆者註:智慧)を経ることによってのみ、本当の肯定(筆者註:慈悲)があるからです。空性の真 っ直中から、仏の大悲が生ずるのですJ(長尾 [1992A]222頁)というととである。この両方向性に対す る理解の源流は、長尾 [2013Jで言及されるように、『大乗荘厳経論』第

X

V

I

I

章にあると言える。 15)ここで筆者が「大菩提を証得した者j というのは、一切種智者である仏(buddha)だけではなく、第I章 第1偶の r[大乗の]意義を知悉する者(artha-jna)J(研究会 [2009J39頁)をも意図している。つまり、 第

X

V

I

I

章第65偶で説示される「五相をもっ自ら心から慈悲などの四無量を修習する菩薩」一一私見では 「究寛の普薩jーーを含意する。また、内藤 [2013]で言及したように、「一生補処の菩瞳jである弥勅 菩薩を暗示している。研究会 [2013]の注解(75)も参照。 16)釈迦牟尼仏が人々に説法したということは「向下的方向性Jであり、「慈悲jにもとづくものである。例 えば、私がその教法に出遇って智慧によって自己中心的な愚かな考えを自覚してはじめて一一仏智によ って自己の考えが否定されてはじめて一一、仏陀の「慈悲Jが私に及んでいることを知らされることに なる。換言すれば、慈悲がすべての者に平等に及んでいるから、すべての者の我執が仏智によって破ら れ、そのような仏智を成就しようと仏道を歩むのである。これが「向上的方向性(智慧)Jと「向下的方 向性(慈悲)Jが一組となってはたらいていることであろう。これは非常に困難なことであるが、仏道に おいては重要なことであろう。内藤 [2012]参照。 17)第

I

X

章の構成・構造については、内藤 [2010]参照。及び第

I

X

章の和訳と校訂テクストを提示する内藤 [2009A]、また [2009B]も参照。 18)早島理 [1973]は、『大乗荘厳経論1が新たに菩薩道の哲学を如何に確立したのかの視点で論じ、その中

図 C : 第 X 章乃至第 X I V 章の構成・構造園 《獄論》 第 沼 V 章(教授・教餓) I  [ k k . I -46]に対する [ k k . 4 7 - 5 0 ]の関係(私見)第X・XIV章l章 名I 科段と対応偏 (  1  )順解脱分 , 1 ) 広大教授kk

参照

関連したドキュメント

第一章 ブッダの涅槃と葬儀 第二章 舎利八分伝説の検証 第三章 仏塔の原語 第四章 仏塔の起源 第五章 仏塔の構造と供養法 第六章 仏舎利塔以前の仏塔 第二部

いない」と述べている。(『韓国文学の比較文学的研究』、

東北大学大学院医学系研究科の運動学分野門間陽樹講師、早稲田大学の川上

〔付記〕

経済学研究科は、経済学の高等教育機関として研究者を

社会学文献講読・文献研究(英) A・B 社会心理学文献講義/研究(英) A・B 文化人類学・民俗学文献講義/研究(英)

山階鳥類研究所 研究員 山崎 剛史 立教大学 教授 上田 恵介 東京大学総合研究博物館 助教 松原 始 動物研究部脊椎動物研究グループ 研究主幹 篠原