異宗連合拳曾研究紀要
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︵ 口 絵 解 説 ︶ 鯖江誠照寺蔵
一尊十二光仏璃糸星陀羅
山 印 刷 敬 の 念 の あ ま り 名 の 如 く 蓮 の 糸 を 以 て 織 り な せ る 生 地 に 蓮 糸 を 以 て 弥 陀 尊 形 を 刺繍 L 、その光明の中に十二光仏を表したるものであるが、荘重にして精巧を極め ているばかりでなく、この種のものはあるべくして而も類例のすくない珍らしいも の で あ る 。 もとより無量無辺無碍光等の十二光の仏名は大無量寿経に出で、諸仏に超絶せる 弥陀如来の特異性を全現せる徳名であり、宗祖聖人の本典ことに和讃の努頭にこれ 合連ねて詳しくし、弥陀名号ノ徳にも解説せられたる如く、絶対他力自然法扇の願 力による救済を具現せるもので、十字の名号の本源をもなすものである。 一 説 に は 如 覚 上 人 が 皇 室 よ り の 下 賜 口 問 と さ れ て い る が 、 誠 照 寺 が 真 照 寺 と 称 し て いた時の全盛時代︵室町時代初期秀応上人代︶のものと思われる。以て純真なる 他力の信に徹して生けるものであったかが知られ、和讃門徒として和讃に関連性を ももっ貴重な本尊なるものである。時に鶏糸なる故に保存に難く仏体等判然としな い と − ﹄ ろ の あ る の は カ ビ に よ る 。真
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||特に奥美の地域も含めて誠照寺派本山の﹁お巡り﹂についてll
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口伝紗所引の往生礼讃文に就いて:・:
鈴木大拙の浄土教観について
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海外に於ける﹁真宗近代化﹂の諸問題
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− − 藤 学 ム Z 葉 報 豆三 間 光 田 智 串 本 芳 原 凌 超 ︵ 九 七 ︶ 龍 ︵ 二 一 ︶ 侍 契 ︵ 三 八 ︶ 雪 ︵ 三 九 ︶釈尊の出世本懐について
︵ 大 無 量 寿 経 の 絶 対 性 ︶、 .
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︵ 誠 照 寺 派 ︶ 無 量 義 経 ︵ 説 法 品 ﹀ 自我道場菩提樹下端坐六年得成阿縛多羅三毅三菩提 以仏限観一切諸法不可宣説 所以者何以諸衆生性欲不向性欲不同種種説法種 種説法以方便力 四十余年未曾顕実 是故衆生得道差別不得疾成無上菩提 法 華 経 ︵ 方 便 日 間 ︶ 仏所成就第一希有難解之法 唯仏与仏乃能究尽諸法実相 所謂諸法如是相如是性如是体如是力如是作如是困如是縁如是果如是報如 是 本 末 究 立 見 等 法 華 経 ︵ 薬 玉 菩 薩 本 事 品 ︶ 若如来滅後後五百歳中若有女人間是経典如説修行於比命終即往安楽世界阿弥陀仏大菩薩囲綴住処生蓮華中宝照之上 は じ め に 釈尊の出世本懐については古来より云い口外された問題である。と云うよりも本来決定づけられている問題と云って 釈 尊 の 出 世 本 懐 に つ い て釈尊の出世本懐について よい。それはいかなる点より云っても弥陀念仏の大法は本懐なること必然であるからである。然るにこのあるべから ざる問題が未だに生きている。それは法華経を所依とする新興宗教の教団によって、堂々として四十余年未顕真実が 叫ばれ、剰え念仏無間とまで罵倒しているのを見るからである。これ念仏門流殊にその真髄を継承せるわが宗門真宗 の 恥 厚 た る の み な ら ず 、 かく云わしめている第一の責任者というべく、これ正しく決定ずみのものであるべき筈のこ の問題が、未だに不透明なる点をのこしていた為ではなかったかが思われ、 ともかくこれを鮮明にしておくことの急 務が痛感せしめられるのである。 未曽顕実と未顕真実 さて釈尊が出世の本意またはその理由を明かしたまえるもの、無量寿経・華厳経・法華経・大般若経・等をはじめ その他数多くがあげられる。然し何といっても此の問題の焦点にのこるものは無量寿経と法華経であるといえよう。 そこで法華の徒が法華経を以て本懐とすることを主張するものは、法華経自体の本懐の文よりも法華の閉経と云わ れ て い る 無 量 義 経 ︵ 説 法 口 問 ︶ に φ 四 十 余 年 未 顕 真 実 。 とあるからだというのであるが、 蔵経の宋本元本等に於ては タ 未 顕 真 実 e とあるも、最も正確とされている高麗本︵縮刷蔵経大正新修蔵経の底本︶に於てはタ四十余年未曾顕実ジ と さ れ て い る も の で あ る 。 ところが未曾顕実と未顕真実とでは自ら意義を異にするものがある。 タ 実 e に は 九 そ コ 一 義 あ り 、 ま こ と ︵ 真 実 ︶ み ︵果実︶ことがら︵事実︶であるが、付文意から見ても同法華経の説相から見ても未曾顕実の タ 実 。 はことがら即ち 。 事 実 ジ の謂でこれを以て第一義とするものであり、従って未顕真実よりも未曾顕実の正しさが知られるのである。 ︵時に第二義として真実の義を含む、但しそれは未顕真実の通念となっている法華以前の法を不真実とする真実とは、
全く異なる意味での真実で、この事については後に述べる。︶ そこで付無量義経の文意から云えばタ仏成道の絶対境たるや不可思議云うべからず説くべからず、説くとも解する ものあることなし、故に解し得る範囲内にて説くより外はなきも、それさえ対機不同能力に利鈍の差別がある故、 や むなく仏は方便して法を説き為に三乗に分れるに至った。がもとより仏の本意はあらゆるものを一様に仏たらしめん が為であるから、仏果を期する以外の法はその目的ではない。故に仏果以外の小乗の法は方便に説いたものであると いうことの事実を、成道以来未だ曾て一度も水際立てて説いたことがないから今これを明かにする。という意である。 すなわち二乗の法を方便と否定されたのであって、今まで説かせられた大乗の法までもみな方便と否定されたので は な い の で あ る 。 それ故に法華経の冒頭︵二十八品中第二の方便口問︶に於て、法華経の正宗分と云われている諸法実相十如是をあげ て法華を説きはじめられているのである。諸法実相十如是は周知の如く一切皆空を基盤としたる差別即平等現象即実 在を示されたるものであるが、その一切皆空はすでに法華以前と見倣される大般若を中心に諸経にも説かれであるも のである。そして此の法華経に於ても如来の一二軌︵如来の座とは一切法空是なり︶をはじめ、空観は法華のいたると ころに散説されて教理の基盤をなせるものである。従って法華以前所謂爾前の法は方便不真実虚妄とするならば、そ の爾前の法を以て核心とする法華経はそれ自体が虚妄の説となるであろう。故に未曾顕実を以て正とし、その実は事 実 の 意 と す べ き で あ る 。 次に同法華経の説相より云えば、諸法実相即ち一切は平等一如、因縁によって差別の相を現じて変化、下にもゆく が上にもゆく。除えば同じ炭素ながら媒介の縁によって木炭にもなればダイヤモンドともなるように、あらゆるもの は縁により仏となり得るとの仏智見を先ず掲げて説き出だされたものが法華経であるが、舎利弗等声聞の仏弟子達に 釈 尊 の 出 世 本 懐 に つ い て
釈 尊 の 出 世 本 懐 に つ い て 四 対し、すべては未来の仏畜身及び草木ですら成道し得るのであるから、汝等に仏とはなり得ない小乗の法を説いたの は方便であるということの事実を明かにすべく、実に法華経の大半即ち前半である迩門の殆んどを費して法論因縁を 以て全力を傾倒、仏果を願わざるものはわが弟子に非ずとまで極言して小乗は方便なることを徹底的に明かにし、ニ 乗を捨てさせて居られるのである。故にこの説相より見ても未曾顕実の正しさが知られ、その実は事実の意なること が 知 ら れ る の で あ る 。 法 華 経 の 帰 結 そこで方便の小乗をすてしめて、諸法実相十如是あらゆるものを仏たらしめんとせらるるについていかに説き進め られていったか。それを要約して云えば、釈尊は舎利弗等の仏弟子に対し仏果を得るためには止︵定︶観︵慧︶の行 ︿六度の行を定慧の二に摂す︶これに徹すれば仏になり得るとされている。そして仏弟子のすべてにその他会座の娯 母前妃並に侍女等に至るまで成仏の記別︵予言︶を与えられているのであるが、前に畜身も成仏するの例に龍女の即 身成仏を説かれながらも、実は成仏は生やさしいものではなく、その時期はと云えば舎利弗をはじめいづれも菩薩の 行を修すること実に無量億劫の後とあり、 またこれに準ずる劫数であるのである。無量億劫、これでは仏とは成り得 ないという暗示とさえ云えるので、これ正に自力の行にては全く不可能なることを説かせられたものと見ねばならな い で あ ろ う 。 蕊に於て釈尊は本門に入って態度を一変、その本地をあかしてここにあらゆるものを仏たらしむる関門を聞かせら れたのである。即ちその本門の努頭寿量ロ聞に於て タ慧光照無量寿命無数劫 e 五百塵点劫よりも更にはるかなる久遠よ りの古仏の示現なることを宣言せられた。慧光照無量寿命無数劫とは云うまでもなく光寿二無量の仏ということで、
即ち我はこれ阿弥陀仏の示現なりとの調である。 かように釈尊が本地に還元して説かれたるものであるからには、以 下は弥陀法門を密説されたものと見倣すことが出来よう。果して薬王本事品に於て法華の真の行者は命終って 。 即 往 安楽世界阿弥陀仏国 e と 、 わが浄土に生れ煩悩を断尽六根清浄を得、諸仏の本意を遂げたる行者として十方の如来よ り讃嘆せらるると明され、五にあらゆるものを仏たらしむるところを弥陀の浄土と示してその行業︵止観︶また念仏 にあるを暗示されたものである。 そしてその弥陀の浄土往生人の代表者として普門口聞に観世音菩薩を出し、その神力不可思議の妙化をあげて弥陀同 体のさとり大浬柴なることを示し、普門一市現あらゆる衆生を仏たらしむるに自在の摂化、即ち往生人の代表者として 還相の実相を示されたのである。 党 本 の 普 門 品 中 に は 重 頒 を 以 て 西 方 浄 土 が 説 か れ て あ り 、 弥 陀 仏 に 奉 侍 せ る 観 世 音 を 説 け る も の は こ の 菩 薩 が 往 生 人 の 代 表 者 た る こ と を 示 さ れ た も の 。 ま た 観 世 音 菩 薩 ︵ 化 身 ﹀ が 無 尽 意 大 土 の 心 か ら な る 殻 洛 の 供 養 も 敢 て 受 け ず 、 釈 尊 の 勧 め に よ っ て は じ め て こ れ を 受 け 、 二 分 し て 一 を 釈 尊 に 一 を 多 宝 仏 に 捧 げ ら れ た の も 、 釈 迦 即 弥 陀 の 師 仏 に ま た 浄 土 出 現 の 十 方 諸 仏 の 代 表 と し て 同 じ く 弥 陀 一 広 現 と し て の 多 宝 仏 に さ さ げ ら れ た の で 、 不 可 思 議 摂 化 の 妙 用 も 悉 く 是 れ 自 ら の 力 な る も の に 非 ず 、 師 仏 た る 弥 陀 仏 の 願 力 の 致 す と こ ろ な る こ と を 示 さ れ た る も の で あ る 。 かように法華経はあらゆるものは仏になり得る理念をあげ、従って二乗の法は方便に説きたる旨をあかし、その仏 たらしむるところを弥陀の浄土と示して、その往生人即ち仏たり得たる者の自在の摂化此の仏の大理想を実現するに 活躍の実相を示せるもので、即ちすべては弥陀法に帰すべきことを密説せるものである。 ところがこれは単に密意をとれと経文にもある法華経の真意であるばかりではない、仏教の根本原理たる一切皆空 を基盤とする諸法実相を耐もこれだけが法華の正宗分といわれているものを、法華を説き出だそうとされる前に掲げ 釈 尊 の 出 世 本 懐 に つ い て 五
釈尊の出世本懐について 占
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られた異例の説相は、法華以前に説かせられたる諸経の経理を総括して数言にまとめ蕊にあげさせられたと見るべき であるから、法華の帰趨はそのままに仏があらゆる聖道諸教の帰結を示されたものである。 この意味に於ての四十余年未顕真実ならば大いに意義ありと云えよう。さきに未曾顕突の実には第二義的に真実を 含むと云ったのもこれで、即ち通途の解義とは全くその内容を異にする未顕真実であり、 一切の教法は悉く弥陀本願 を 信 J せしめんが為であるということの真実を未だ曾て明にしなかったという意味でのタ未顕真実ジ で あ る 。 そこで法華経を浄土の経と対比すれば、法華の所明は凡そ聖道の諸教は弥陀教法への方便なることを明し、謂わば 念仏の出世本懐たることを密説せるものであるから、念仏門に対してはその独自性を失い念仏に吸収されて、全くそ の出世本懐たるの資格を失うものである。 出世本懐と無量寿経 それでは浄土の経典に於て釈尊が出世本懐たるの法としての確証明文ありやというに、云うまでもなく大無量寿経 が即ちそれである。法華の本懐の文と見るべきものが仏の智是に終始せる理念にとどまれるに対し、大無量寿経のそ れはあらゆるものを仏たらしむる仏意の開顕に完壁なるものがある。五徳瑞現は釈迦即弥陀の顕現であると共に諸仏 即釈迦の顕現であり、阿難が今日今日の連呼は今日の説法以外に、仏が真実の教法本懐の法なきことを示し、これ十方 諸仏応現の通規なることをも顕したるものである。故に釈尊自らの宣言も精徹、無涯無辺等を用いず無蓋を以て絶対 の大悲をあらわし、欲品群萌とある萌は明也と註して唱と同義即ち浮浪の民として九界の衆生殊に六道輪廻の我等が 衆生を網羅、抵は掌を以てすくいあげる義で生死海より本願力独白の救済絶対他力の意義をあらわし、真実の利はも とより念仏以外の権化の小利に対す。光闘道教は法華経等聖道の諸教であるが、宗祖聖人が銘文や証文に於て光闇道教を省きて示されてあるものはタ如来所以興出世 e は タ 唯 説 弥 陀 本 願 海 ¢ にあることを誤りなからしめんが為にであ り、経文に光聞道教があるのは念仏門中の権化方便教としてまた不可欠の存在なることをあらわされたるものである。 弥陀法本懐なる絶対の理由 ところがこの大経の出世本懐の文をして絶対ならしめている、即ち念仏の本懐なることを立証し決定づけているも の に 二 つ あ り 。 そのけは此の大経に於て仏及び仏弟子並に法界を代表せる聴衆の大土の木地を明かにして、悉くこれ弥陀浄土より の出現であることを説けることのそれである。それは云うまでもなく序分︵通序︶に於ける所謂。菩薩嘆徳文クと称せ られているものであるが、それが弥陀四十入願中の二十二の還相廻向の願の成就の文であるからである。この嘆徳文 を二十二願の成就の文とすること中国の浄影嘉祥等諸大師の釈にはなし、我国ことにわが宗門の先哲にはこれに注目 一部これに当てられた方があったにもかかわらず︵八相作仏を一生補処の文に︶全面的にその成就の文とされた方は ないようであるが、願文と嘆徳文との対照及び科図別記の如く全くこれに相違なきものと信ずるものである。これ申 すまでもなく宗祖聖人の指示によるもので本典、総序の文ことに和讃︵浄土︶にはこれを詳しくせられている。即ち讃 阿弥陀仏偏和讃に於て先づ弥陀の浄土を明し、次につ一経和讃の前に釈尊をはじめ仏弟子及び頻婆婆羅章提希提婆阿闇 世等︵観経に出づる人物を大経讃の前に大聖として登場︶これを列ねて出されたる事、皆これ浄土より還来せる大聖 の一は一生補処の願事により一は除其本願等の願事に酬いあらわれて、衆生化益の為に役割を定め釈尊と共にこの土 に 出 現 す 、 と。還相廻向の願成就の活ける経文なることを一不されたもので、即ち是れ普賢大士の徳を修習せる一切大 聖の嘆徳文の間接なる解説なるものである。 釈尊の出世本懐について tゴ
釈 尊 の 出 世 本 懐 に つ い て i¥. かように仏及び仏弟子のすべてが弥陀浄土よりの出現であるならば、その出世の目的及その使命浄土に帰入せしめ んが為であること云うまでもなく、これ念仏の出世本懐なることを決定づけるものである。 又これによって見ても、弥陀本願念仏以外の聖道の教は、仏が仏︵還相廻向の大聖﹀に説かせられたる示現の法で あって、我ら衆生に説かせられた法ではない。示現の仏と仏弟子が力を協せて我らの為に説かれたる法、即ち大経を 中心とする浄土三経の念仏の大法のみが仏の本懐なるものである。 ︵嘆徳文中、示現!他の為にやって見せる 1 及 び 同意の示また現の文、繰返し実に十七回に及ベるを注意すベく、 多 分 別 顕 示 真 実 之 際 e の役割に在る阿難尊者の重責 を 大 経 に 見 る べ し 。 ︶ 次 に そ の
ω
とは、大経に於て釈尊が単なる暗示や密説ではなく弥陀仏の化現なることを、ことさらに言明して念仏 の本懐なることを明かにされていることのそれである。即ち出世本懐をあかせる文の直後に於て︵一応終結している の にY
阿難当知如来正覚其智難量多所導御慧見無擬無能遁絶 e 是れ智慧にょせたる光明無量,以一准之力能住寿命億 百千劫無数無量復過於此諸根悦諜不以虫損姿色不変光顔無異 e 是れ云うまでもなく寿命無量、阿難が今日今日と釈迦 即弥陀の五徳瑞現についての所聞の一に対し、何も今日ばかりが光寿二無量の覚体であるのではなく実に未来永劫を 貫くものである。何故かくの如き定慧究暢無極の仏となり得ることが出来たかとならば 。 阿 難 諦 に き け 今 放 が 為 に 説 か ん e 今汝にその理由を説いてきかせよう、とて説きはじめられたのが大無量寿経であるが、それは何と弥陀本願の 生起本末であった。即ち我はかくの如く衆生の為に願をたて永劫に苦修し遂にかかる光寿ニ無量の法王仏となること が出来た、我はこれ弥陀の示現である、と宣言していらせられるのである。これにまさる本地の宣言の鮮かさはない であろう。釈尊自らかくも鮮かに弥陀の示現なることを言明していらせられるからには、その出世の本意今更いうま でもなく、弥陀本願念仏の外に何ものもなきことの絶対的証左といえよう。時 に 釈 尊 を 解 す る に 凡 そ 三 あ り 、 十 方 諸 仏 中 の 一 仏 と し て 弥 陀 に 対 す る 釈 迦 、 こ れ 一 。 還 相 廻 向 二 十 二 顕 の 一 生 補 処 の 文 よ り 出 で た る 釈 尊 、 こ れ 二 。 弥 陀 の 化 現 と し て の 釈 尊 、 こ れ 三 。 然 し な が ら 浄 土 に 於 て 証 大 混 柴 弥 陀 同 体 の 証 を 得 た る こ と に 於 て 三 郎 一 互 に 融 合 す 。 今 述 べ た る 大 経 本 懐 の 文 を 立 証 す る 絶 対 の 理 由 の 付 は 二 十 二 願 中 よ り 出 で た る 釈 尊 な が ら 、 弥 陀 肉 体 の − 証 を 得 た る 釈 尊 と し て 、 絶 対 の 理 由 の 口 な る 弥 陀 の 示 現 と し て の 釈 尊 と な る の で あ る 。 法 華 経 に 於 て 成 道 後 僅 に 四 十 余 年 の 釈 尊 が 、 久 遠 の 古 仏 を と な え ら れ て も 会 度 の 大 菩 薩 は 密 意 を 知 る が 故 に 敢 て あ や し ま ず 、 ね が 我 等 も 亦 成 道 の 暁 に は 釈 尊 と 同 じ く 久 遠 の 古 仏 を 唱 え ん と 欲 え り と あ る の も 、 弥 陀 の 浄 土 往 生 人 の 弥 陀 同 体 の 証 を 得 て 十 方 に 応 現 、 久 遠 の 古 仏 を 唱 え 得 る こ と の 密 意 を 知 る が 放 で あ る 。 そ の 他 の 事 由 以上、念仏が仏の本懐なることの絶対の理由について述べた。若し現実に就て云わぱ 古来寓宗として各宗とも念仏を離し得ない理由が今尚臨終の念仏はその内規として定められている事によって も、念仏より外なきことを実証するものであり、 今や真の出家としての僧形を保つ者さえ暁天の星ですらなく、即身成仏父母所生身即証大覚位を称し且教えな がらも、没後精霊棚をかぎりて悪道より迎え火送り火の行事を平然として繰返しているのを見ても、聖道門は完全 に門を閉じ消波せる存在と見倣すべきであるから、ここに至っては出世本懐を論ずるの価値さえなく、念仏のみの 存在を立証し得て余りあるものと云えよう。 結 び 釈 尊 の 出 世 本 懐 に つ い て ブL
釈尊の出世本懐について 宗 祖 聖 人 は 歎 異 紗 ︵ 第 二 節 ︶ に 於 て 説法なるが故に吾等は弥陀本願の真実なるを信ずという通途の観念を逆説、釈尊の仰せなるが故に弥陀本願、かたしか
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タ弥陀の本願まことにおはしまさば釈尊の説教虚言なるべからず。 と。釈尊の であるのではない。弥陀の本願がたしかであるから釈尊の仰せがたしか真実なのである。何故なら釈尊は弥陀の本願 にむくいあらわれてこの土に応現せられたので、弥陀本願なくして釈尊の興世はないからである。故に釈尊の輿世を 見ただけでも、弥陀本願のたしかさを思え、と。 弥陀本願ありて釈尊あり仏教あり、弥陀本願なくば此の世に仏教そのものがないのである。即ち仏教とは弥陀本願 一切経とは念仏の大蔵経なるものである。故に念仏と遊離、念仏を の広説なるものであって念仏を離れて経典なく、 忘却せる仏教ならば仏教ではないので、念仏の出世本懐なることの絶対性を知るべきである。 ここに吾々は宗祖親臨時聖人と同じく念仏に絶対の自信を以て、この混乱せる宗教界に仏が本懐なる無上の大法を宣 を以て見るべきものと信ずる。 揚し護法に挺身したいものである。因に法華経を解するに他山の釈に忠実なるべからずで、あくまで宗祖聖人の見解 参 考 還相廻向の願と菩障嘆徳文との対照 設我得仏他方国土諸菩薩衆未生我国 究寛必至一生補処 除其本願自在所化為衆生故 被弘誓鎧積累徳本度脱一切 遊諸仏国修菩薩行供養諸仏如来 開化恒沙無量衆生使立無上正真之道 超出常倫諸地之行現前修習普賢之徳 若不生者不取正覚 尊 者 了 本 際 尊 者 正 願 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 解 脱 菩 薩 一 切 大 聖 神 通 己 達 於 無 量 世 界 現 成 等 覚 処 兜 率 天 : : : 消除諸漏植諸徳本 具足功徳微妙難量 遊 諸 仏 国 普 現 道 教 ・ ・.
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済 諸 劇 難 諸 関 不 閑 分 別 顕 一 不 ・.
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皆遵普賢大土之徳 嘆徳文/全体(還相廻i匂願成就ノ文) 結 こ り ご 嘆 と 展 十 言 け 二 を ゅ の 倹 く 願 7こ 一 成 ず 大 就 で 仏 の あ 教 こ る 史 の で 菩 利 あ 薩 的 る 嘆 寸
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信 に 於 け る 願 の 問 題
信に於ける願の問題
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正
瑛
︵ 興 正 派 ﹀ 信願論は宗教の生命である信仰それ自体に関する重要なる命題である。殊に唯信正因唯信独達をその標識とする真 宗にとって、その信の内容を明かにせんとする信願論は真宗学の根幹をなす大切なる論題である。而してこの論題の 論拠は申す迄もなく大無量寿経に説き顕わされてある如来の本願にある。即ちその本願に誓われている至心信楽欲生 我国の三信中、信楽が中心なり m 叉欲生が中心なりやという問題である。即ち信と願との関係交際を明かにせんとす る所にこの論題の中心眼目がある。 古来この信願論は真宗の宗教的生命である信心の相状内容に関する重要なる問題であるだけに、各学匠は心血をそ そいで、その論究且つ論争に凌ぎをけづったのであった。本願寺三大法難の随一たる三業惑乱の思想的中心問題は正 にこの信願論にあった。その惑乱の近因は六第能化功存の﹁願生帰命弁﹂ ︵徳川中期宝歴十二年︶に端を発して願生 帰命か信順帰命かという大論争にまで発展し本願寺教学は両派に分れて対立抗争し終に流血の惨事をも引き起し、 やむなく公儀の裁断という好ましからぬ方法によって漸く鎮定するに至ったのである。 今この論議論争の中心問題である信願の中何れを帰命の当相とするかという問題を軽卒に批判することは差控える が、暴力にまで発展する学の貧弱さ? と又剛直さに、そして柔軟さを欠ける信自身の不徹底さに対してはきびしく 批 判 さ れ て よ い で あ ろ う 。 信順帰命か願生帰命かという論争は概念学解の論としてだけなら争うのも結構であるが念仏の信を眼目とする真宗 に於いてはその論争は無我無心の謙虚さを以て為されねばならぬと愚考するものである。今少しく愚見を許さるるな らば、信願論争は、生ける信に於ける願の問題、信と願とは混然一体となって離すべからざる生ける生命体であるの を分別学解の迷万をもって之を二分に引き裂き、思弁論議の﹁ソ上﹂に切り刻んで学解の勝利を争うが如き観あらし めている態は正に前近代的真宗学を示して余りあるものを感ずる。 では真宗学の近代的在り方とは如何! ということであるが、それは人間自身の究明。自己自身のすがたの探求、 それが真宗学本来の在り方であると信ずる。この人間自身の究明や自己自身の真実の在り方を軽視或は無視して如来 の本願や浄土をいかに巧に説明解釈しても、それは概念の遊戯にも等しく、生ける如来や本願や浄土は永遠に地上人 生の上にその真姿を顕わすことはないであろう。 ここに信願論に対してもその学究態度が問題なのである。例えば信願論の最終的なものといわれる体一義別という 巧妙なる概念規定は一見我等の分別思弁を満足せしむるやに見受けられるが、我等の愚鈍の故か何等の感激も奮起を も起さしめないのは、どうしたことであろうか。それは先きにいえる如く人間自身の問題、自己自身の問題から外れ ょうとしているかに見ゆるからである。故に信願論は信に於ける願の問題であって、その願は人間自身の願、自己自 身の最深最高の願、そのことを明かにする所に真宗学があり生きた信願論があると信ずる。 信 に 於 け る 願 の 問 題
信 に 於 け る 願 の 問 題 四 種々雑多な欲望をもって相争いつつ、虚しく生きつづけている人間に、最後の帰依所ともいうべき人間自身の深い 永遠の願いを指し示しているのが大無量寿経である。法蔵菩薩によって全法界に宣誓せられた四十入の大願は人間の 最高最深の願いを自覚せしめ、その満足成就の法爾自然なることを立証せんとせられている如来の大悲大願なのであ る。このことは真宗学の基本でなくてはならぬと愚考するものである。 真実の人生が人聞から出発するか、仏或は神から出発するかという所に宗教上大きな問題があるであろうがキリス ト教は神から出発するのである。神の権威と愛から出発したキリスト教は中世の民衆を支配することが出来得たが近 世に入ってからの自我の自覚と人間性の解放という近代思想なるものは神の支配下から逃れて人間独立を宣言せしめ た の で あ る 。 かくて近代文明はその当初より無宗教性をその中核本質として発達し来って現代に至っている。而して 現代は果して真に自我の自覚と人間性の解放に成功しているであろうか。むしろ反対に自我の自覚は義務を忘れた権 利の主張となり自己独善と闘争観念は愈々はげしくその上肉欲享楽の乱舞は地上せましと躍り狂い、正に人間性解体 の 危 機 を さ え 感 、 せ し む る 時 代 と な っ た の で あ る 。 ﹁神を信ずることも出来ず人聞を信ずることも出来ぬ﹂とニ l チ ェ をして叫ばしめた、そういう不信の時代が現代である。この現代人をして真実の自己の自覚と真の独立と自由を生き る人間の正しい在り方として確立する精神的原理は一体どこにあるのであろうか。 自らを灯明とせよ、法を灯明とせよ、汝を救うものは汝自身であり、その汝をして汝たらしめているものは永遠不 滅の法である。法をさとれる人間こそ真の人間である。汝等、法に於いて整えられたる人間となれ! これは我が大聖釈迦牟尼世尊が人類に残された真理の﹁コトバ﹂である。
かくて仏教は単に神から人生が出発するのでも、又人間の自力妄想から、即ち人間至上主義から真実の人生が出発 するのでもない。人間の自力妄想から脱却せんと願う、生命の根本志願から真実の人生が出発されるという、その人 聞の深い願いを如何に自覚せしめるかという所に仏教の仏教たる所以がある。 この仏教の中心眼目からそれで、如来の本願や浄土を如何に美しく尊とく説いても、それは老人の一時の気つけ薬 にも等しい役割しかもたないことになる。人間の真の喜びと満足感は深い人間の願いの発見と自覚にある。 し か も そ の人間の深い清浄なる願心それ自体の中にその願心の成就満足されることへの法爾自然の本願他力が不二一体に密着 されているのである。これを如来の本願力という。願生彼国即得往生住不退転といえる本願成就文は、至心廻向の本 願力廻向成就の相であると祖聖は了解されたのである。 願が願自身に満足する、これを信心歓喜という。それは自己が自己自身に満足することであってそれは自己の真実 願に目覚めた満足と喜びである。それ以上外に何も求めない、求める必要がない正に満足顕である。この純粋真実の 願こそ実に十方衆生をつら抜く如来の大顕であったのである。ここに人聞の願いと如来の本願の微妙不可思議なる相 即 が あ る の で あ る 。 至心信楽欲生の三信は如来が十方衆生に命じ給う、生の真実の在り方である。この三信は総じて云えば真実信心で あるが、この信は南無阿弥陀仏の伝統の大法を体として限りなく内に至心信楽欲生我国と展開されるのであって、南 無帰依の心はそのまま真実であり絶対信頼の心でありそして無限に浄土を願う心である。この三信に於いて無限にし て永遠なる阿弥陀の心を人間の上に成就せしめようという。これを南無阿弥陀仏の本願という。これが第十八願の心 信 に 於 け る 師 棋 の 問 題 一 五
信 に 於 け る 願 の 問 題 一 六 で あ る 。 故にこの三信は単に横に並べられである信ではなく名号を体として念仏の信がその目的対象を内面化し、その動機 原因を内に求めて念仏の信それ自らの純粋内容を内に無限に発展せしめてゆくその道程を一示すものとして至心信楽欲 生の三信が誓われてあるのである。 その信の純粋内容が願である欲生我国である。 ﹁信は願より生ずれば、念仏成仏自然なり﹂との祖意はこのことを 示 し て い る と 思 わ れ る 。 信が信自身に満足する根拠は信がその内容としてもつ所の願を内に展開する所にある。信がその満足根拠を外に求 めてゆく、それを自力の信という。その低級卑俗なものを迷信という。正しい宗教的信は信が信自身に満足歓喜する。 それは信が願を見出しその願に満足するのである。 かくて見出された願も亦願自身に満足する。誠に不可思議なる大 信 海 で あ る 。 而るに往々にして衆生の願といえば自力であるとすぐ早合点するクセが真宗にはあるが、如来の願とはこの衆生の 真実願を自覚せしめようという本願である。自覚する願と自覚せしめようとする願が不二一体になっている所を本願 成 就 の 南 無 阿 弥 陀 仏 と い う 。 これを大無量寿経の上に拝して見るに、この大経は﹁諸根悦珠姿色清浄光顔嫌々﹂という釈尊の信心歓喜から始ま っ て い る 。 しかもこの信心歓喜の由って来たる原因動機をその信の内面に遠く且つ深く尋ねて、そこに法蔵菩薩を発 見したのである。彼は財と位と権力の所有者としての一国王であったが世自在王仏の説法に遇い、無上正真道意︵信︶ を発して国を棄て王を拍て、行じて沙門と作り、号して法蔵となられたのである。 このことも先きに述べし如く、人聞から出発する仏教、その人聞は自カ妄想を捨てて、素裸の一個の人聞のまま無
条件に満足歓喜する自由境を求めんと願ずる所から真実の宗教が出発することを暗示しているのである。 さて法蔵比丘は先づ師仏の前に自らの信を表白しつつ仏徳讃嘆の偏を述べられ 次いで四十八願を述べられるのであるが、この四十八願は菩薩の別願であって嘆仏備は総願を述べられたと考うベ きである。総願とは、願仏度生の願である。これは菩薩の信中に動く総願である。願仏度生は菩薩に共通の理想であ って、その理想を正しくそして一切人類の上に具体的に実現せんとする所に四十八の別願が出生するのである。 ﹂ こ に 既 に 信 と 願 と の 関 係 が 示 さ れ て い る 。 愈々大願が発起される前に ﹁我れ無上正覚の心を発せり、願くば仏我が為に広く経法を宣ベ給与え、我れ当に修行して仏国を摂取し清浄に無量 の 妙 土 を 荘 厳 す ベ し ﹂ これ総願を含める信心から荘厳浄土の願いへと本願が動き出すのである。荘厳浄土ということは因から言えば願生浄 土ということで四十八の大願は願生浄土という一つの基本的願心から具体化されてゆくのである。故に四十八願を貫 通する原理は願生浄土という所にある。そのことを明かに示してある願が、十八、十九、廿の三願であってこの三願 を貫いている本願の大精神は﹁欲生我国﹂という所にある。機から云えば願生彼国である。浄影寺の慧遠は四十八願 を 分 割 し て 、 ﹁摂浄土の願、摂衆生の願、摂法身の願﹂と三つに分けて教えられているが、その全体を貫通する願心 は欲生我国の願心である。如来が十方衆生の中に浄土を願う願心となって誕生したい。十方衆生の生命の主体となっ て衆生が衆生自身にそのまま満足する、そういう衆生となって共に浄土荘厳の大行に精進したい。それが欲生我国の 精 神 で あ る 。 信 に 於 け る 願 の 問 題 七
信 に 於 け る 願 の 問 題 A 四 浄土教の本質は願生浄土という所にある。この往生浄土の願心は仏教二千五百年の歴史を貫通する主流として底な き人生の真理を顕彰する如来の大悲招喚の大命である。我等はそれに於いて我々の無数の祖先の悲絶なる叫びと同時 に純真なる微笑を聞くのである。我々は今此の清流を汲むことを得て、その本源を尋ねんと希わずに居れない。 惟うに衆生なる主体的人生と、法爾自然なる純粋客観の如来とは、平面的直線的自我と非我との固定的対立ではな く、その対立によって、それ自体を互いに限定し、内に無限に連続統一する所の個我と全我との意義を開展する円満 完 全 の 一 法 界 で あ る 。 我々は正しく仏教史が教示する﹁願生彼国﹂の史的事実を直観して、それに於いて象徴し表現せらるる所の人生久 遠の原理なる﹁欲生我国﹂の自証の大命を反省せしめられる。 祖 聖 親 驚 は 、 ﹁欲生我国﹂の本願に於いて﹁則ち諸有の群生を招喚﹂する如来の大命を大無量寿経の上に始めて聞 いたのであった。道紳、善導、源空と伝統されたる観経中心の浄土教の流れの中にあってその本源たる大無量寿経の 如来の本願を聞思したのであった。願う自己が願われてある自己であったと気づいたのである。ここに顧みて久しく 聞きつつ而も未だかつて正しく聞き得なかった所の﹁願生彼国﹂の伝統の仏教を今更に正見正信するを得たのであっ た。遠く宿縁を慶ぶと感激せられた祖聖の信境はこのことを物語っているのであろう。 かくして信の問題を究明することは願の問題の究明であり、それは信が従果向因して内に展開する﹁願の世界﹂に 帰 入 す べ き で あ る こ と を 教 う る の で あ る 。 放 に 信 の 成 就 は 願 の 成 就 で あ る 。 信自身の満足は願自身の満足である。 ﹁すべてそのままでよし﹂それが信である。分別以前の法界の大事実。生老病死そのままに無限の慈悲と光りに摂取
せられているこの大事実︵一如法界︶に目覚めよ、 と一如より姿を現わしてしかも我等の無自覚の深淵の中に没入し て我等と共に助かってゆこうと願、ぜられている。その大悲の本願を我等の四肢五体に感、ずる、そしてその大悲の前に 合掌帰命礼拝せしめられるのである。それを念仏の信という。それは如来の願心の中に深い人間の願いが摂められて いることへの自覚と喜びを内含している信であるのである。しかしてその如来の願心と衆生の願心が不二一体に円融 して浄土が荘厳されるのである。浄土の荘厳とは一如法界の上に真善美を摂めた聖なる生活領域が創造されると理解 されてよいであろう。それは苦悩と動乱への悲痛なる自覚に於いて彼岸の領域と思慕されるのも深い宗教的自覚に伴 う 自 然 の 感 情 で あ ろ う 。 しかしそのことは生ける人生に何んの関り合いのないものとして人生逃避の場として浄土を 願うということではない。その願われる浄土が限りなく差別動乱の人生に廻向されて苦悩と動乱やむことなき吾等の 生活感情を純化する妙用を現わすのである。そこに往生浄土の人生的意義があるのである。大無量寿経に説かれたる 法蔵菩薩の本願と修行による浄土荘厳の歴程を示してあるはその意深しといわねばならぬ。願心はそれ自ら即自に満 足 し 成 就 さ れ て い る 。 しかし、その満足願は停止している願ではなく更に一一層きびしく法界を雄歩して限りなく人類 の生活を摂取し荘厳する永劫の修行となって展開するのである。永劫の修行とは人生荘厳に於げる願心の自己荘厳で ある。この故に信は願の自己満足であり、往生浄土の願心はその満足願の上に新らしく人生荘厳の永劫の修行に旅立 っ て ゆ か ん と す る こ と を 明 示 し て い る 。 ここに南無阿弥陀仏の大信大願に即しての大行たる所以がある。大行とは称無碍光如来名であると祖聖は行巻大行 釈に明示せられているが、単にそれは口業の業ではなく口業に於いて顕わされている全身的な帰依の表現であり、亦 往生浄土の願心の全的表現である。その信に於ける願はそのまま浄土往生の大行であり亦浄土荘厳の大行であると示 しているのである。浄土荘厳の行とは正に浄土に在るまま人生に還来して限りなく人生を荘厳する還相利他の大行で 信 に 於 け る 願 の 問 題 九
信 に 於 け る 願 の 問 題
ニ
O あ る 。 かくして祖聖親驚が念仏の大行の中に往相廻向と還相廻向の義のあることを明かにせんとしている所に浄土教の大 成者としての面白があると思念せしめられるのである。 しかもかかる大行こそ如来の本願力廻向成就の姿であると深く本願他力の深旨を仰がれたのであった。五
かかる願生浄土の大信を大無量寿経の指南を仰ぎつつ明かにせんとせられたのが世親の浄土論願生偏である。願生 備とは往生を願求せらるる切なる信情を述べられた歌である。叉如来の本願を讃嘆する偏文よりして本願偏ともいう。 さてこの願生偏は一応願生の信の内容として阿弥陀仏の浄土の二十九種の荘厳というものを讃嘆しているのであ る。二十九種とは即ち国土荘厳十七種、仏荘厳八種、菩薩荘厳四種、合せて二十九種の荘厳功徳である。この二十九 種 の 荘 厳 は 、 ただ徒らに浄土の美しさを讃嘆しているのではなく阿弥陀仏の本願の徳を讃嘆し、 かかる不思議の徳が 本願自身の中に成就しているのであるということを讃嘆しているのである。即ち荘厳された浄土の徳は、そのまま荘 厳する本願自身の中にある。故に浄土の荘厳とは願心の自己荘厳であるというべきであろう。更にいえば欲生心、願 生心をもって浄土を荘厳するということである。それは願生心自身の自己荘厳ともいうべきであろう。 では浄土荘厳とは一体どういうことであるか、先づ浄土から考えて見る。浄土とは本願の純正内容である。或は真 の信仰の純正内容が浄土である。信がその内面に願を見出し、信が信自身に満足歓喜して感謝報思の生活へと展開す る。それを浄土の荘厳という。信の喜びには形がない。形がないが又あらゆる形を取って現われる。それを光明とい う相で形の全体を現わしている。即ち信満足の法悦はすべての形あるものを光明化してゆく、生活の光明化、それが浄土荘厳という。又、物質の精神化ともいってもよいと思う。 物質と精神の問題は宗教上或は哲学上重大な問題であるが、物質が宇宙の本体か、精神がその本体かという論議は 古来より争われた問題であり、仏教に於いても、物質は精神の牢獄であって精神はこの物質の牢獄より逃れて自由を 得よという風に原始仏教では説いている所がある。 しかし大乗仏教の智慧は物質と精神の二元対立を超えて一如法界 の実相を諦観するのである。即ち、精神を縛るものとしての物質ではなく事実は精神を養う尊い物である。日々この 物質によって心が養われて極楽を頂いてゆく、身を安んじ心を養って頂く、それを安養浄土というのである。 かくて浄土には金銀七宝を以て荘厳されていると大経には説かれているが、これは金銀七宝の如く物質界も自然界 も高貴の光りを放っていることを象徴しているのである。若し人ありて視覚として金銀は貴いが触覚としては不満と 思う人に浄土論には触覚の功徳として説かれている。 ﹁宝性功徳草は柔軟にして左右に旋る 触るるもの勝楽を生ずること迦栴隣陀に過ぎたり﹂ と讃嘆しである。これは視覚としては金銀七宝を以てしているが触覚としての浄土の種々なる荘厳はすべて宝性功徳 の草であって、之れが身に触るれば勝楽を生ずること迦栴隣陀という草にふれて柔かい温かい物質的快楽を感ずるよ りも遥かに勝れていると歌っているのである。即ち精神的法楽を示しているのである。 しかしこの精神的法楽という のは物質を拒否してただ観念的に法楽しているということではない。物質自然のそのままに触れて一如不二の法味を 楽しんでいるというべきであろう。そこに感受性の純粋さ詩の心というべき純粋感覚の世界があるのである。それは 物質と精神、生と死、幸不幸、成功と失敗、好醜等、二つに区別された、法界の歪められた相はすべて分別妄想の生 み出す所であってその分別が戯論寂滅して、そのあるがままの一如不二の大法界が現前するのである。そこには何一 つ附け加えるべき何物もない。そのままで功徳の大法界が満足せしめられているのである。これ本願力廻向の信の風 信 に 於 け る 願 の 問 題
信 に 於 け る 願 の 問 題 光であって、偏に観仏本願力、遇無空過者、能令速満足、功徳大法海、と嘆ぜられているのである。 かくて、国土の荘厳も、仏自身の荘厳も、本願力によって荘厳されているのである。荘厳とは願が願自身に満足し ︿ 生 活 ︶ て、その満足の喜びが国土を浄化し自己自身を浄化する謂であろう。 この満足願が一転して新らしき未来へと躍動するのである。之れ次に菩薩四種の荘厳功徳を説ける所以である。 菩薩荘厳功徳について左の四種の功徳がある。 一 に は 不 動 応 化 の 徳 、 二 に は 同 時 利 生 の 徳 、 一 ニ に は 無 余 供 養 の 徳 、 四には遍示三宝の徳 である。先づ不動応化とは、天親自ら論に解して ﹁一仏土に於いて身動揺せずして十方に遍し種々に応化して実の如く修行して常に仏事を作す、備に安楽園清浄、 常転無垢輪、化仏菩薩日、如須弥住持と言うが故に﹂と これは浄土の菩薩は浄土に居し乍ら十方に遍至して一切衆生に応同し乍ら如実に仏道を行じて浄土を荘厳する徳を示 している。而して同時にそれは安楽園自身が苦悩の人生に廻転趣向せられることを示して安楽園清浄、常転無垢輸と 歌われているのである。浄土の菩薩は、浄土に居り乍ら苦悩の裟婆に来り、念仏者は裟婆におり乍ら裟婆を動かずし て浄土に往生する。誠に流動してやまない、真理の風光である。これ不住二際、生死に住せず担架にも住ずることな く無限に展開してやまない無量寿の姿である。 次に同時利生の徳は、論に﹁彼の応化身一切の時、前ならず後ならず一心一念に大光明を放ちて悉く能く遍く十方 世界に至りて衆生を教化す、種々に方便し修行所作して一切衆生の苦を滅除するが故に﹂ ︵ 以 下 略 す ︶ これは上に不動にして至ると雄も前後あるょに云うに、その前後なく一念同時に十方世界に至って衆生を開化する ﹄ と を 示 し て い る 。
誠に不可思議の光景であるが、これは単に魔術的不思議でなく、 一人の悩める人を救う事実は万人を救う道理ある ことを示すものである。これ一人の人聞を大切にすることは万人を尊重する理が備っていることを教えている。 人 と 万 人 、 一 事 が 万 事 、 一即一切の理事無碍法界の消息を語っているのであろう。 次に無余供養の徳というのは︵文を略す︶ 十方法界に余す所なく自己身心を供養するの意である。諸仏を供養するということは一切の人々を尊重礼拝すること で あ ろ う 。 一 切 を 貧 り の 対 象 と せ ず 、 一切への感謝報恩を行ずることである。と同時にそのことを感ぜしむるものは 一切の上に如来の説法と慈育を感戴する開法修行である。そこに人と物と自然を礼拝してやまない道こそ菩薩無余供 養 の 徳 相 で あ ろ う か 。 次 が 、 遍 示 三 宝 の 徳 、 これは殊に仏法功徳の育っていない、無信の世界に、自ら飛込んで仏法を示すこと仏の如く 活動したいという菩薩の不退転の意気を示す徳である。 右、紙数の関係上、簡略に述べたが浄土論におけるかかる本願力の不思議な活動相の動静一如の風光を頂戴聞思す るとき、念仏の信の内面が如何に広大無辺であるかに驚嘆感謝せずにはおれない次第である。 殊にともすれば浄土を固定せしめて人生と何等関係なきゃに思われていた真宗人は大いに反省せしめられることで あった。即ち浄土は帰依の領域としては永遠に彼岸に輝いて不生不滅の実在であるが、同時に限りなく安楽園の無垢 輸は無常流転の人生に廻向せられて人生荘厳の大行となり日常生活の浄化行︵浄地の行︶となるのである。 ︵ こ れ を 私は実存の浄土と頂いている。︶これ浄土への生き方と浄土の生き方と浄土からの生き方︵大原師の願生論引用︶の三 者一体の意義があると思われる。 かくて浄土願生の行はそのまま人生荘厳の行として無限の妙用を展開するのである。 信 に 於 け る 願 の 問 題
信 に 於 け る 願 の 問 題 二 四 かくて天親菩薩は、最後にこれを結んで我作論説偏、願見弥陀仏、普共諸衆生、往生安楽園と歌われたのであった。 これ正しく廻向円であって、浄土論を貫通する一心願生の大乗道であることを示すものである。今迄、光明の世界 を讃嘆していた菩薩天親はこの廻向門に来って一転して一切群生海に身を没したのである。普く諸の衆生とは曇驚は 観経下下品に現われた五逆十悪具諸不善の悪人のことなりと解釈せられているが、十向満位の菩薩天親は今や一個の 罪深き哀れなる凡夫人として共に悩めるものと相抱きつつ安楽園に往生せんと願生の深旨を述べられているのである。 ここに願生心の内面に罪業観が秘められて善導の機の深信を生み祖聖に来って愈々痛烈をきわめるのである。而して この機の深信は単なる個人感情としての哀感ではなく叉単なる反省的なものでもない。 一切群生海の中に自己を見出 しその一切群生の罪悪と無智を自己一人の上に背負うて立つ菩薩法蔵の大精神が機の深信である所にその意義深しと ︵ 個 人 的 ︸ いわねばならぬ。故に機の深信は自力にしてその極限に於いて他力︵全人的︶に転ぜられるものと信ずる。究寛的に云 えば仏教には本来自力はない、自力は妄想である、真に実在し且つ実存しているものは絶対他力自然より外はない。 ここに大無量寿経に説かれたる如来の本願欲生我国の深い思召しを、身を以て体験せられたのが天願菩薩の浄土論 で あ っ た 。 かくて信に於ける願生道が仏道成就の無上の大道として且つ人類が救われゆく究寛道として現代に愈々その真実を 開顕せられんことを念ずる次第である。 註 こ の 小 論 は 主 に 曾 我 師 の 論 文 に 師 事 し つ つ 愚 見 を 述 べ ま し た 。 師 の 教 を 汚 し た 点 多 々 あ る こ と を 思 い 、 断 憐 に 堪 え ま せ ん 。
真宗念仏の再検討
東
宣
角 田恵敬
古来宗学では、称名念仏は名号の相続位であり、信後の報謝行であると、第二義的に解されてきたようである。あ るいはまた、本願の﹁乃至﹂に固執する余り、 ﹁信一念往生義においては、念仏は一声も要らぬ﹂とする念仏無用論 さ え あ る よ う で あ る 。 がはたして、これが念仏成仏の真宗の正意であろうか。はなはだ疑問に思うのである。 工 J f 一 工 ‘ フ 、 ふ J − 一 、 , 7 F ♂ 一 念 多 念 文 意 に は ﹁浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり﹂ と言われ、あるいは正信偏には ﹁ 本 願 名 号 正 定 業 円 満 徳 号 勧 専 − 一 称 吋 極 重 悪 人 唯 称 レ 仏 ﹂ 真宗念仏の再検討 二 五真宗念仏の再検討 一 一 穴 ル ア 也 、 また文類偏には ﹁ 如 来 本 願 顕 ニ 称 名 こ とも、等々言われているからである。 さらにまた、宗祖の本典御選述の根拠を伺うならば、それは不可思議の名号を称念しながら、誓願不思議を疑う者 を戒しめんがためである。本典土元且の、﹁南無阿弥古ム往生之業﹂の開顕書以外の可ものでも無い。すなわち元祖
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ィ 念 仏 為 本 ︷ 相承の、第十八願念仏一行往生義の徹底的な解明書である。しかしてこの解明は主に行信二巻で成されるのではある が、その行巻には、大行を出体して ﹁ 大 行 者 、 則 称 一 一 無 専 光 如 来 名 こ と、明らかに称名念仏を指して大行であると言われているのである。 思うに浄土門の骨目は念仏である。念仏こそ浄土門の生命であり、実践である。念仏を離れての浄土真宗はありえ 無い。念仏は無専の一道であり、念仏のみぞ真である。 この故をもって、ここに真宗の念仏について、再検討してみたいと思う。 さて先に挙げた大行出体釈であるが、この文は古来先哲の種々に解される所であって、論争の絶えぬ所であるが、 その主流は ﹁名号大行を明すものであり、信後の。乃至十念 e の称名が、法体名号と異なら無いことを明すものである﹂ とされてきたようである。がはたしてそうであろうか。 ではなぜ信後の称名が信巻の前に顕わされているのであろうか。真宗は教行信証であって、決して教信行証︵聖道門︶では無いはずである。あるいは問う。 では称名破満の釈は どう解するのであろうかと。思うに称名破満の釈は、衆生の無明を破し、往生の志願を満足せしむることを、称名に おいて語られていることは明らかである。すなわち破満を直ちに称名において語られているのである。もし称名は信 後の報謝行であると限るならば、信後には破すべき無明無く、満つべき志願無しであって、 まったくおかしなことと な る 。 さればここに、行巻の所明は信後の﹁乃至十念﹂の称名を明すものであるとは言い切れないようであり、あるいは また、この出体釈には﹁大行者、則南無阿弥陀仏﹂とは一所されていないから、これまた名号自身を単独に明す巻でも 無 い よ う で あ る 。 ではこの﹁称無辱光如来名﹂とは何を言うのであろうか。思うにこの文こそ行巻の全てである。行巻はこの文につ いて明される巻である。すなわち、称名念仏がな、ぜ往生田向の大行であるかを明されるのが行巻である。 ではこの称名念仏とは何であろうか。 ところで本典の教義を伺うならば、 一部では三経をより所とし、七祖の釈義を引用して、弥陀他力の念仏を明され て 「 い 大 る 無 の 量 で ま 寿 は た 経 あ 教 浄 真 る 巻 土 突 が に 真 之 宗 教 そ 」 の 教 巻 目リ は と 示 さ れ 、 ﹁ 即 以 コ 仏 名 号 一 為 一 一 経 体 一 也 ﹂ と言われ、あるいは ﹁ 謹 按 一 一 浄 土 真 宗 ﹁ 有 三 一 種 田 向 一 云 々 ﹂ 冥宗念仏の再検討 二 七
真宗念仏の再検討 二 八 と示されているごとく、教義の体系は全て大経をその根幹とするものであり、南無阿弥陀仏の名号回向を顕すもので ある。すなわち本典では、大経の体南無阿弥陀仏の名号、が衆生界に働くことを回向とし、その回向の相を開いて往相 還相とし、教行信証真仏土とされているのである。 さればここに私の行も、信も、証も全て如来回向のものであり、 私 は 機 無 真 実 で あ る 。 ﹂ れ 全 て 如 来 の も の で あ る。すなわち、私が称えるのであると思っている念仏も、これは私の称名では無く、これぞ如来の行、如来の称名で あることが知られるのである。この意を開顕されるものこそ行巻であり、本典御選述の意図はここにあると思う。こ のゆえにこそ、宗祖の釈意は常に真門自力念仏に対されているのである。 しかしてこの如来行、南無阿弥陀仏の名号は、教巻に ﹁ 弥 陀 超 一 一 発 於 τ証 言 、 広 間 一 一 法 蔵 1 致 下 哀 一 一 凡 小 一 選 施 中 功 徳 之 宝 ム ﹂ と 示 さ れ 、 ま た 大 行 弁 徳 釈 、 六 ︷ 子 釈 、 コ 二 問 答 釈 等 に 一 市 さ れ て い る と こ ろ に よ れ ば 、 こ れ 衆 生 の た め の も の で あ る 。 すなわち名号は、虚仮不実で清浄の心無き、苦悩の群萌を救済せずにはおれぬという、如来の大悲欲生心、真実智慧 心が円満に成就されたものである。名号は如来の顕現態であり、摂化の力用である。 しかもそれは弁徳釈に ﹁ 真 如 一 実 功 徳 宝 海 ﹂ と示されていることによって、名号こそ真如一実功徳宝海全顕の如来自身である。 すなわち名号は、真如︵法性法身︶が起動して形を顕わし、さらに如来御自身が有相の凡愚が聞信しうる姿、名体 不二の性徳円具の名号、南無阿弥陀仏となりたもうたもの︵方使法身︶である。名であり、声である。
また行巻に標願細註していわく ﹁ 諸 仏 称 名 之 買 浄 土 真 実 之 行 店 、 選 択 本 願 之 行 ﹂ と。さてこの諸仏称名の願であるが、この願相は、十方諸仏に各々その国土において弥陀の名号を洛瑳称揚せしめる という、名号の宣揚を誓われた願︵教の願︶である。 しかるに宗祖は、これを教巻には標挙されず、行巻に大行の願 と し て 出 さ れ て い る の で あ る 。 ではこの意はどこにあるのであろうか。思うにこれすなわち、細註の意と共に伺うな らば、第十七願の願意は名号自身を顕わすものであり、十方諸仏の洛嵯称を誓われた本意は、もと名号が十方に流布 しているありさま ﹁ 重 誓 名 声 聞 コ 十 方 こ ︵ 正 信 偏 ﹀ ﹁ 如 来 尊 号 甚 分 明 、 十 方 世 界 普 流 行 ﹂ ︵ 称 賛 浄 土 経 ︶ を知らせるものであると伺われるのである。 ざればここに、如来選択の行業、南無阿弥陀仏の如来自身、如来の名声は、絶対の大慈悲の波となって、十方に響 流し、振動し、躍動して、我等一切を救済されつつあることが知られるのである。きればここに、第十七願は名号の 活動相を顕す願であり、これをもって、南無阿弥陀仏はいわゆる﹁尽十方無尋光如来﹂であると一不されているのであ る 。 そしてこのことを最もよく示されているのが、行巻所引の大経重誓備の文 ﹁ 我 至 レ 成 一 一 仏 道 一 名 声 超 一 一 十 方 ﹁ 究 寛 麻 酔 レ 所 レ 聞 誓 不 レ 成 一 孟 覚 吋 為 レ 衆 開 一 一 宝 蔵 一 広 施 一 一 功 徳 宝 ﹁ 常 於 一 一 大 衆 中 一 説 法 師 子 札 ﹂ であると思う。ところで古来この文の説法師子札は諸仏の説法であるとされてきたようである。そしてその諸仏の説 法を聞いて、信をいただくのであるとされてきたようである。がしかし、すでに伺ってきた名号の義からすれば、こ 真宗念仏の再検討 二 九
真宗念仏の再検討
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の説法師子肌はまさしく如来自身の説法、名声でなければならないと思う。 はたして漢訳の大経付属章には ﹁ 其 有 ニ 善 男 子 善 女 人 ﹁ 聞 子 無 量 清 浄 仏 声 一 慈 心 歓 喜 云 々 ﹂ と言い、また呉訳の大経付属章にも ﹁ 其 有 ニ 善 男 子 善 女 人 一 聞 コ 阿 弥 陀 仏 声 こ と示され、あるいは浄土論には弥陀の口業功徳を讃めて ﹁ 如 来 徴 妙 声 究 響 聞 − 一 十 方 こ と述べられ、また論註下巻の観察体相章の釈には ﹁ 如 レ 是 等 種 々 諸 苦 衆 生 聞 = 阿 弥 陀 如 来 至 徳 名 号 説 法 音 声 一 如 レ 上 種 々 口 業 繋 縛 皆 得 コ 解 脱 ﹁ 入 ニ 如 来 家 こ と示されている。すなわち弥陀の口業の徳が、十方衆生の種々の繋縛を離れしむるというのである。 で は 重 審 備 に 誓 わ れ て い る 、 ど こ で も 、 い つ で も 、 さらに常に、私が聞き得る如来の名声、南無阿弥陀仏とは何で あろうか。どこにあるのであろうか。 思うにこれぞ﹁称無辱光如来名﹂の称名である。すなわち私が称えるのであると思っていた南無阿弥陀仏は、じっ は私の称名では無く、これぞ如来の名声が私の口を借りて、南無阿弥陀仏と出でたもうものであったかと知らしめら れるのである。ここにおいてこそ、私は、 いつでも、どこでも、常に如来の名声が聞き得るのである。 そしてこのことはまた、第十七願名に五願名を挙げられる中の ﹁ 往 相 回 向 之 願 、 選 択 称 名 之 願 ﹂ に よ っ て も 、 いよいよ明らかに伺わしめられるのである。すなわち如来は機無真実の私のために、如来御自身その大智大悲を全うされて、万善万行の中から、特に称え易く、保ち易い名号を選取し、名となり、声となって向うから来 て南無阿弥陀仏と喚びかけ、私の口に南無阿弥陀仏と顕われたもうのである。まったくここにおいてこそ、称名が往 相回向の大行であると示された意も、明らかに知らしめられるのである。思うにこれぞ行巻の所明である。 正信偏にいわく ﹁ 煩 悩 障 レ 眼 難 レ 不 レ 見 ﹂ と。すなわち無色無形非因非果の法性法身も、 またそれより一亦形する阿弥陀如来も、摂取の光明も、我等有相の凡愚 にとっては認識の非境である。ただ ﹁ 我 弥 陀 以 レ 名 接 レ 物 ﹂ ︵ 小 経 義 疏 ︶ という名号のみが、我等の接し得る如来である。そしてこの如来、南無阿弥陀仏こそ、私が称えるのであると思って いた念仏。すなわち私の口を借りて顕われたもう南無阿弥陀仏である。 しかしてこの意においてのみ称名破満の釈も明らかに伺われるのであり、次の転釈でも称名は南無阿弥陀仏、正念 と示されていることによって、ここに称名念仏こそは、如来の大悲願心、真実智慧心より顕われたもう、如来の衆生 摂化の名声であることが信知せしめられるのである。 四 さらにまた六字釈にいわく ﹁ 爾 者 南 無 之 言 帰 命 一 去 々 帰命者本願招喚之勅命也﹂ と。この文こそ本典の最要所である。さて先の称名破満の釈によって、称名念仏は如来御自身の名声、南無阿弥陀仏 真宗念仏の再検討