龍谷大学所蔵の龍蔵について
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田
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め 漢訳仏教経典が大蔵経(漢文大蔵経﹀としてまとめられる歴史はかなり古く、八世紀にまで遡る。その後、ほぼ三 世紀に亘って紗本大蔵経の時代が続く。刊本大蔵経は北宋初年の開宝蔵の刊刻に始まり、その後、官刻と私刻の大蔵 経が、宋・遼・金・元・明・清の各代に亘って度々製作された。官刻大蔵経の最後となったのが本稿で取り上げる清 代の大蔵経である。この清代の大蔵経は刊刻完成時の年号から﹃乾隆版大蔵経﹄、又は﹃乾隆大蔵経﹄と呼ばれるこ とが多いが、別に﹃大清三蔵﹄や﹃清蔵﹄と呼称されることもある。本稿ではより一般的な呼称である﹃龍蔵﹄の名 で統一表記したいと思う。この名称は、皇帝の勅命官刻に由来するもので、もともと普通名調であり、 等にも用いられたものであるが、現在では清代中期からの慣用呼称が沿用され、ほぼ清代大蔵経に特定して用いられ る。薙正帝治世末年の﹃龍蔵﹄編纂の諸事情に関しては、別稿で論じたので、本稿ではその大略を述べるに止める。 以下、﹃龍蔵﹄の経版とその保存、及び清廷から本邦への賜与、龍谷大学大宮図書館収蔵に至る経緯と現況を述ベ ﹃ 洪 武 南 蔵 ﹄ る -104﹃
龍
蔵
﹄
の 経 版 と そ の 保 存 はじめに﹃龍蔵﹄編纂経緯の概略、及び刻印と経版の保存概況について述べよう。 ﹃ 龍 蔵 ﹄ 編 纂 過 程 の 大 概 は 、 ( 薙 正 十 三 年 二 月 一 日 ﹀ (全五巻)所掲の﹁御製重刊蔵経序﹂ や同書巻末の﹁総理蔵経館事務﹂等の文言から了解でき、後世の解説は概ねこれに依拠している。以下、同資料文等 ﹃ 大 清 三 蔵 聖 経 目 録 ﹄ に 拠 っ て 略 述 す る 。 それぞれ勅命を発して南京と北京において三部の大蔵経を編纂刻印させた。これら が﹃洪武南蔵﹄﹃永楽南蔵﹄及び﹃永楽北蔵﹄であ翫。清朝第三代皇帝世宗薙正帝(在位一七二二 J 一 七 三 五 ) は 、 治世の晩年に仏教教理に沈潜し、とくに禅学の著述に耽溺して自らも﹃御選語録﹄等を撰述した。新たに企図された 明代初年、洪武帝と永楽帝は、 蔵経の編纂の動機は、 さまざまに推測されている。明代蔵経の内容に不満を覚えたことは﹁御製重刊蔵経序﹂ の ﹁ 北 蔵板本の明代に刻する者、未だ精校を経ず、拠依するに足らず﹂の語に伺える。しかしながら、それ以上に多分に政 治的な目論見を盛り込んだものであること、また新蔵経﹃龍蔵﹄の。続蔵。に当たる﹁此土著述﹂部分に新たに入蔵 した経典が多いこと等に十分に留意すべきである。 清朝最初の、そして最後の官刻大蔵経となった新蔵経﹃龍蔵﹄は、薙正十三年(一七三五﹀に開離された。主に明 初の﹃永楽北蔵﹄に依拠して編纂刊刻されたもので、落正帝在世中には完成せず、次代の乾隆三年(一七三八)十二 月に至って完工した。内府刻取で、折十州の形式を取る。その版式は﹃永楽北蔵﹄と基本的に同じで、関本は閤大で毎 版五半葉に折られ、半葉五行(﹃洪武南蔵﹄ ﹃永楽南蔵﹄では毎半葉六行﹀となっている。 上 下 双 辺 、 毎 行 十 七 字 、 白口、版権は二七・二四×二五・七回。経巻は千字文によって配列され、 ﹁天﹂字から﹁機﹂字に至る七百二十四字 が配され、全七百二十四函。 毎函十冊を納めており全七二四O
冊 ( 巻 ) 、 別に﹃大清三歳聖経目録﹄五冊を収めた 飽谷大学所蔵の龍蔵について〈木田)-105-函があり、計一六七
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種の経典を収録している(﹃大清三蔵聖経自録﹄を含む初刻本の数値)。 各函の首冊の前面には﹁仏陀説法変相図﹂、 末冊末尾には﹁護法章駄菩薩像﹂があり、 原則的に各巻末に﹁音釈﹂ を 附 し て い る 。 同治九年(一八七O
﹀十一月に金陵刻経処によってまとめられた﹃大清重刻龍蔵実記﹄の記載に拠れば、 五大部外重訳経・単訳経、小乗経阿合部・単訳経、宋元入蔵大小 ﹃ 龍 蔵 ﹄ は﹁経蔵(般若・宝積・大集・華厳・浬襲五大部、 乗 経 ) ﹂ ﹁ 論 蔵 ( 大 乗 論 ・ 小 乗 論 ・ 宋 元 続 入 蔵 諸 論 ) ﹂ ﹁ 西 土 聖 賢 撰 集 ﹂ ( 以 上 、 ク 正 蔵 。 ﹀ ﹁ 律 蔵 ( 大 乗 律 ・ 小 乗 律 ) ﹂ 及 び ﹁ 此 土 著 述 ﹂ (以上、ゥ続蔵乙の五部に大きく類別され、各類別の千字文編号・函数・冊数・板木枚数・紙連 (用紙)数が確認でき、その総数表記としては、 ﹁龍蔵全部を統括するに、板を用いること七万九千零三十六塊、連を計るに十五万四千二百十一連、仏像龍牌と章 駄 用 い る 所 の 板 は 外 に 在 り 。 ﹂ と見える。しかし、その統計数値枚数表記自体に矛盾があることがすでに指摘されており、その後の経版保存にも不 備があって、経版枚数計測時ごとに異なった数値が報告されている。 さて、乾隆三年(一七コ一八﹀十二月の﹃龍蔵﹄刻成以後、翌四年になって、清廷は一百部を印刷し、全国各地の大 寺院に頒布した。乾隆年聞にさらに数部を補刷したと目され、その内、乾隆五十二年に江蘇常熟虞山北麓の清涼禅寺 に頒賜された事例が﹃(同治﹀蘇州府士山﹄巻四十四に見える。 コニ峰清涼禅寺は虞山第三峰南嶺の前岡に在り、・:(乾隆﹀五十二年、 ﹃ 龍 蔵 ﹄ 一 蔵 を 欽 頒 せ ら る 。 ﹂ その後、嘉慶から同治に至る聞に、計十二部が印刷された。光緒二十年(一八九四)には、江蘇の泰州光孝寺・焦 山定慧寺・金山江天禅寺・句容宝華山隆昌寺や揚州班忠寺・同天寧寺等、江南の十剰が連合し、各寺一部計十部の印 刷を請い、光緒帝の批准を得た後、各寺に持ち帰った。つまり、民間寺院などが﹃龍蔵﹄の﹁請印﹂を内務府に対し -106て願い出ることによって特例として印刷が認められることが度々有ったのである。この五年後の光緒二十五年(一八 九九﹀に、大谷光瑞師が﹃龍蔵﹄一部を﹁請印﹂して清廷に認可された事情は後文で論述するが、あるいはその数年 前の江蘇十寺の﹁請印﹂成功が幸いしたのかも知れない。 その後、宣統年聞には六部、民国二十五年(一九三六﹀には計二十二部が印刷された。以上を総計すると、﹃龍蔵﹄ は民国以前におよそ一百五十数部が印刷されていたことになる。 ﹃龍蔵﹄刊刻後の印刷過程で明白なように、 ﹃龍蔵﹄経版は刊刻後もほぼ良好に保存され、清朝一代ばかりか、民 国時期を経て今現在もなお大きな欠損無く維持保管されて来た。この事は﹃高麗蔵﹄の経版が韓国伽耶山海印寺に保 存されていることと併せ、東亜仏教界の慶事と言い得ょう。 ﹃龍蔵﹄の経板は、初刻刊印後、 しばらく紫禁域内の武英般に置かれた後、北京内域内(現北京市東城区)の相林 さらに﹁北平古物陳列所﹂に移管された。この間の事情を範成法師の﹁修整清蔵経庫版架記﹂ 声﹄第五期所収)に見てみよう。なお、括弧内の字句は筆者の加筆。以下同じ。 寺 に 移 さ れ 、 ( ﹃ 微 妙 ﹁経版の保存場所はもと武英殿であったが ム γ 請印 ψ には不便であったため、僧録司正印を掌っていた拍花寺の達 天住持が内務府に奏請した後、古同宗(乾隆帝﹀の裁可を得て、相林寺に移管した。僧録司と柏林寺が共同して経版 の保護管理の責任を担い、 なおも内務府の監督も受けたが、これは
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嗣印。を願う人々にとっては便利であった。 威豊・同治年間以降、内需金が充分とは言えなくなったため、僧寺が自ら工料を準備して λ γ 請 印 φ す る こ と を 認 め 、 光緒の初めには、相林寺の昆峯住持が募金して書架一百を置き、版木収蔵に便ならしめた。その後、管理がやや緩 と と な っ た 。 民国元年(一九一二)、再び内務部の監督に帰し、 民国九年(一九二O
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に、葉恭紳氏が経版の整理を陳情したので、内務部は書架を重修し、 ﹁印刷規章﹂十二条、及び﹁保管規則﹂八条を定めた。民国二十二年(一九三三﹀には、国民 み、ほこりや汚れがひどくなった。 柏林寺とともに保管するこ さ ら に ﹁ 頒 経 規 章 ﹂ 八 条 、 龍谷大学所蔵の龍蔵について(木田) -107ー政府内政部の命を奉じて当時の北平古物陳列所の管理に帰すこととなった。 L さらに一九四九年の中華人民共和国建国後の経版保管の推移を、諸資料に基づいて以下にまとめておく。 ﹁(一九五四年に)柏林寺は北京図書館の書庫となり、経板も併せて北京図書館側に移管保存された 0 ・ : 一 九 八
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年 五月には、中央の関連部門が経板を北京市文物局によって保管することを決定した。一九八二年(八月﹀には、ω
﹃清蔵﹄の経板全部を明代の古剰である智化寺に移した。﹂ その後、一九八七年になって、当時、北京市東城区内の智化寺の文物保管所に所蔵されていた﹃龍蔵﹄原刻版木 (板片)を用いて折本(経折装)として複製する計画案が立てられ実行に移された。以後、経版の保存場所が二転三 転することになる。 ﹁一九九一年、文物出版社が清﹃龍蔵﹄を刊行して以後、経板はまた北京房山県(現北京市房山区﹀の雲居寺に移 され、北京石刻博物館で保管されることになった。一九八九年に北京市文物局はすでに予算を割り当てて経版の専 用倉庫を建造していた。また一九九三年に北京市文物局と石刻博物館が﹃龍蔵﹄を刊行した後、経版を安全且つ適 切に保存することを考慮し、最終的には経版を北京郊外の昌平県(現昌平区﹀にある北京市文物局の倉庫内に保管 す る こ と を 決 定 し た 。 ﹂ この一文の記載は一九九三年の時点での﹃龍蔵﹄経版保存場所の記述で終わっているが、筆者が北京在住の関係者に 確認したところ、二OO
六年末には、経版が再び房山雲居寺に移されていることが判明した。但し、その過程のある 段階で故宮の午門に一時的に保存されていたことも知られており、今後も保管場所の移動が行われる可能性は高い。 引用文中に見える文物出版社版(書名は﹃乾隆版大蔵経﹄﹀は、一九八八年から一九九O
年に至る期間に複製刊行を終 えたが、その印刷部数は七十八部であっ向。さらに一九九三年には、北京市文物局・石刻博物館が北京燕山出版社の 協力の下、六十部を複製刊行している。こうした複製刊行以外にも、九十年代以後、影印本が数種類出版されている。 -108﹃龍蔵﹄の経版とその保存状況について略述した。次に版本収蔵に関する数種の資料を示す。 ﹃龍蔵﹄完刻の翌年、乾隆四年以降に都城内の大寺を初めとして、全国各地の寺院に百部以上の﹃龍蔵﹄が頒布さ 一方、清廷内部の﹃龍蔵﹄収蔵場所は皇城内の万善殿内であった。万善殿は中海の 以 上 、 れたことは上述した通りである。 東岸に位置する仏殿で、殿閣中央には順治帝御書﹁敬仏﹂扇額が掲げられ、都城内外諸寺への最初の頒賜時期と同じ 一部が搬入された。乾隆九年(一七四四)に編纂された宮廷所蔵の釈道書画目 く乾隆四年の六月に同殿内に﹃龍蔵﹄ 録﹃秘殿珠林﹄巻二十三に、 ﹁世宗憲皇帝欽定龍蔵二部。:・世宗憲皇帝欽定地蔵経九百八十八部。・:世宗憲皇帝御選語録抄本二十二本。世宗憲 皇帝御選語録一百一十九部。世宗憲皇帝御録宗鏡大綱一千一百六十二部。世宗憲皇帝御録経海一滴一千一百六十五 部 。 世 宗 憲 皇 帝 御 製 錬 魔 排 異 録 三 千 コ 一 部 。 : ・ 以 上 、 倶 に 万 普 殿 に 貯 う 。 ﹂ ﹃龍蔵﹄は一部ではなく計二部の収蔵が確認できる他、薙正帝の御選御録仏典が大量に保管され と 記 載 す る よ う に 、 ていることが知られる。万善肢は、 まさしく薙正帝専用の一大仏書収蔵センターであったと断言できよう。 現在のところ、﹃龍蔵﹄版本を所蔵する寺院並びに収蔵機関の調査統計は未だ作成されてはいないが、乾隆年間初 期に刷られた﹃龍蔵﹄版本には、その後、乾隆年間中期以降に発生した一部経典の剛除撤版、入蔵経典の出入増減が 当然ながら反映されておらず、原刻本の面白を保持した版本として十分な研究価値を有している。二十世紀の七十年 代後半になって発見された北京妙応寺(俗称日白塔寺﹀ ﹃龍蔵﹄は、当初、そうした研究期待を担った存在であった。 最初の﹃龍蔵﹄頒賜から十数年を経た乾隆十八年(一七五三﹀、 北京阜成門内の妙応寺修繕に際し、 皇帝名義で製 作された多くの精巧な宝物が用意された。その中に﹃龍蔵﹄も含まれ、幾多の珍蔵品と一緒に白塔内部に収蔵された。 その後、二百二十年以上に亘って秘蔵されたため、これら塔内収蔵品のことはしだいに人々の記憶から消え去った。 一九七六年七月に発生した唐山地震によって妙応寺も大きな被害を受け、白塔が傾き、改修の必要が生じ と こ ろ が 、 龍谷大学所蔵の鵠蔵について(木田〉 -109ー
るに至った。改修作業のため白塔の塔頂部を聞いた際、塔内の珍蔵品が発見され蔵口問内容が確認されたのである。元 ﹃欽定日下旧聞考﹄巻五十二に掲載された乾隆帝﹁御製重修白塔碑銘﹂の記載に、 来 、 ﹁与に大清乾隆十有八年、歳は葵酉秋七月に在り、妙応寺の白塔を重修す。朕の手書せる般若波羅蜜多心経一巻、 及び党文尊勝児、並びに大蔵真経全部七百廿四函、用いて以て鎮と為す。﹂ とあり、文中の﹁大蔵真経﹂が﹃龍蔵﹂を指しているのは明白であった。収蔵時期は刻印頒布時期からさほど時を経 ておらず、発見されたものは初刻本百部中の一部と考えられる。残念ながら塔頂の宝瓶部分には早くから漏水があり、 乾隆十八年の収納から二百二十数年を経過し、すでに経巻の相当部分は湿気て徽が生え、互いに貼り付いて塊となり ﹃龍蔵﹄初刻本の研究材料としてはやや不適格であった。 聞くことも出来なくなっていた。このため、 初期の刻本も含めて、﹃龍蔵﹄は最初から全てが経折装(折本﹀の形で伝えられたわけでもなかった。中国国家図書 館輩出同本特蔵部の李際寧氏は、﹃龍蔵﹄の一部が巻軸装(巻子木)として残されていることを指摘している。 ﹁﹃龍蔵﹄は国内外でひろく収蔵されているが、(北京の)民族宮図書館に収蔵されているものはたいへん稀なもの で あ る 。 ふつうの機関に収蔵されている﹃龍蔵﹄はいずれも経折装丁なのだが、民族宮図書館の収蔵ロ聞は一巻ずつ 巻軸装にしてあり、表装されてはいない。すべての印刷紙面は順番に巻かれており、外側は経質(経巻に付ける書 名札)で封がしであった。これは印刷後の運搬が便利になるようにしたもので、そのため未装丁のままであったわ けである。この事から、経巻の印刷と装丁は異なった場所で進められたことが分かる。印刷は寺院で行い、装丁の 工程は、ふつうは表装を専門とする経坊が行っていたに相違な川。﹂ 先に述べたように、光緒二十年ハ一八九四﹀に、江蘇の十剰が連合して﹃龍蔵﹄の印刷を請うた際にも、その経過を 伝 え た 報 道 記 事 に 、 ﹁十大名刺では各々紙を用意し、 工人を雇って開版印刷した。・:持ち帰った経典は、 ただの宣紙の経巻にすぎず、 -110
一冊ごとに香檀木板を用い、十冊ずつ一箱におさめた。 L 後にこれを折り畳んで経折本とし、 とあ刷。大部な﹃龍蔵﹄経典が授与される際の形態は、特例的に賜与される場合を除き、こうした簡易装丁が一般的 であったと推測される。
﹃
龍
蔵
﹄
の 賜 与 と そ の 後 ﹃龍蔵﹄の初刻から百六十年ほど経過した光緒二十五年(一八九九﹀年に、大谷光瑞師が﹃龍蔵﹄ 一 部 を ﹁ 請 印 ﹂ して清廷に認可された事情はすでに略述した。その前後事情に関しては、日本と中国の双方に若干の資料が残されて おり、大方の経緯を辿ることができる。但し、双方の資料に見受けられるニュアンスの相違について、従前、あまり 人々が住意を向けることがなかった。そこで、当時の清朝政府が﹁請印﹂の申請に対して如何に対応したかを検討し、 はじめに日本側の基本的な資料を列記する。 旧来の通説をやや補足修正したいと思う。 まず﹃教海一澗﹄第五十九号(明治三十二年十二月二十六日発行)・教報﹁清国西太后の蔵経寄贈﹂ ( 同 誌 二 十 五 頁 ﹀ に は 、 ﹁本派嗣法狽下には本年一月清国御壮遊の際、総理街門に於て慶親王以下各大臣に御面謁あらせられ、尚ほ清帝は 御病気中にて拝謁あらせられざりしも御携帯の浄土三部妙典御文章、五帖一部弁に錦三巻を献呈せられしが、右は 答礼として今回西太后より蔵経四十箱、慶親王より錦二巻、壁掛六枚、陶器六箱及び古代の石菖鉢一個を此程領事 を経て本山へ寄贈せられたり﹂ と あ り 、 ﹁答礼として今回西太后より蔵経四十箱﹂の﹁寄贈﹂を受けた経緯を簡潔に記す。本文中の﹁本年﹂とは明 総理街門への訪問が何時行われたのか、 治三十二年(一八九九)、すなわち光緒二十五年であるが、 同誌には具体的 な期日が記されていない。この訪問期日については、 ﹃ 鏡 如 上 人 年 譜 ﹄ (鏡如上人七回思法要事務所編輯発行、昭和 龍谷大学所蔵の龍蔵について(木田〉 -A二十九年十月﹀の明治三十二年(光緒二十五年、 一八九九﹀四月二十三日の条(同書十七頁、 日付表記は西暦﹀に明 記 さ れ て い る 。 ﹁ ( 四 月
)O
二十三日総理衛門に慶親王・王文詔以下の清廷諸大臣・各高等官等を訪ね、 長時間懇談すO
二 十 四 日薙和宮に則輔僧正を訪ね、外人として初めて堂内を巡覧すO
是日北京を発して天津に着す(以下、原文注記) この時清廷は政変恒後のこと故皇帝に謁するを得ず、浄土三部経・浄土和賞・五帖御文章並に錦三巻等を皇帝並に 西 太 后 に 献 ず 。 ﹂ 注記文中の、贈答口聞を献上した﹁この時﹂とは四月二十三日を指している。さらに、この記事の出典の一っと目され 切 る朝倉明宜編輯﹃清国巡遊誌﹄には、同書の当該年月日の条に、より詳しい記載が見られる。総理街門で大谷光瑞師 等が面談した相手として前掲の慶親王・王文部以外に、さらに八名の高官名が挙がっている。その中、妻和と桂春のω
二人が翌二十四日の薙和宮訪問時の案内役となった。同書の二十四日の薙和宮訪問記事には、後文に引く中国側の史 料と異なって、薙和宮訪問を光瑞師が懇願したとの記事はなく、話柄の重点はむしろ﹁刑嚇僧正﹂との面談に置かれ M H ている。但し、面談の相手を﹁ホトクト﹂とは記すものの、肝心の﹁刑,附僧正﹂の名が記されていない。その事自体 に関心が無かったか随行者が書き漏らしたものであろう。 一行が面談した﹁則自脚僧正﹂とは、黄教派の大刑怖の一人、 阿嘉呼図克図(アジャホトクト﹀、 すなわち六世阿嘉の洛桑丹白旺秋索市嘉惜(一八六九 J 一 九O
九 ) で あ っ た 。 なみに商談は当然ながら通事(公使館から派遣された鄭通訳官か﹀を介したもので、深い内容に及んだとは判断し難 く 、 事 実 、 その面談の状況と内容は詳記されていない。 薙和宮の来歴についても、同巡遊誌は、簡潔に記しているだけである。 ﹁元来薙和宮は以前親王の宮宅なりしを、今より百五十年前時の刑﹂蜘僧正に下賜せられたるものにして、現に北京 に於ける同教寺院の首位を占め居れり。﹂ ち右の説明に若干の補足説明を加える。 清代の康照四十八年 もと明代の内官監太監官房があり、 潅和宮の場所には、 ( 一 七
O
九)以降には薙親王(後の薙正帝、乾隆帝はその第四子)の即位前の第宅(府邸﹀となっていた。務正帝の 即位後に、同地が﹁龍潜禁地﹂となったことから薙和宮に改められ、一時期、特務機関の施設としても利用された。 薙正帝の死後、乾隆九年(一七四四)には薙正帝の冥福を祈求する目的で刑嚇廟薙和宮として改修が始まり、翌十年 に竣工した。その後、薙和宮は刑輔黄教派の寺院として蒙古各旗から選ばれた刑噺ゴ一百余名が定額とされ、章嘉呼図 克図の羅頼畢多爾士口(一七一七 J 一七八六)が同宮に派遣され、以後、薙和宮の発展に大きく貢献した。 一 方 、 乾 隆 末年からは塔福寺の寺主活仏である阿嘉呼図克図も薙和宮に仏倉(行館。活仏の宮般及び事務所の総称﹀を持ち、以 後、薙和宮と密接な関係を保持することとなった。 この薙和宮の東隣には柏林寺があり、藩邸時代の羅正帝を仏学の世界に導いた独超禅師が住持であった寺院として 知ら刷、その後、完成された﹃龍蔵﹄の経版も相当の長期に亘って同寺において保存管理されていた。後年、清廷か ら大谷光瑞師に賜与されることになる﹃龍蔵﹄と薙正帝との密接な関係は上述した通りであり、加えて薙和宮・柏林 寺と薙正帝との関係を想起すると、大谷光瑞師一行の薙和宮訪問に、 いくらかの奇縁を感じずにはいられない。 この薙和宮参観訪問を終えると、大谷光瑞師一行は同日午後一時に日本公使館主催の送別会に臨み、同三時には北 京を発して慌ただしく天津に向かった。 さて、問題の﹃龍蔵﹄授受に関して論を進めよう。 前掲﹃教海一澗﹄第五十九号所掲の教報﹁清国西太后の蔵経寄贈﹂(同誌二十五頁)には、その文の後半で、 ﹁右は答礼として今回西太后より蔵経四十箱、慶親王より錦二巻、壁掛六枚、陶器六箱及び古代の石菖鉢一個を此 程領事を経て本山へ寄贈せられたり﹂ と﹁蔵経四十箱﹂の寄贈を受けた経緯を簡潔に記していた。 ﹃鏡如上人年譜﹄十八頁の明治三十二年(光緒二十五年、 龍谷大学所蔵の龍蔵について〈木田〉 -113ー一八九九﹀五月三日の記事の後に附せられた注記には、 ﹁:・また北京で取得した西蔵語経典には寿円満寿無量総摂経(無量寿経﹀・寿量寿経(無量寿経)・大解脱経・薬師 尊経等四部あり。更に是年十二月領事を通じて清朝の答礼として、西太后から大蔵経四十箱、慶親王から錦二巻・ 壁掛六枚・陶器六箱及び古代の石菖鉢一個を贈り来る。﹂ と記載されている。その要点は﹁領事を通じて清朝の答礼として﹂、﹁西太后から大蔵経四十箱、慶親王から錦二巻・ 壁掛六枚・陶器六箱及び古代の石菖鉢一個を贈り来﹂ったとするところにある。﹃教海一欄﹄および﹃鏡如上人年譜﹄ の両記事ともに、それぞれ﹁蔵経﹂﹁大蔵経﹂と記すのみで、受領した大蔵経典が清廷官刻に係る﹃龍蔵﹄(別に﹃大 清三蔵﹄等の表記があることは前述の通り﹀であるとの認識は、おそらく当初は無かったのでないだろうか。 以下、同事項について書き記した清朝政府側の史料に視点を移してみよう。 まず、﹃徳宗景皇帝(光緒﹀実録﹄巻四四一、光緒二十五年(一八九九﹀三月辛未(一一一月二十四日、西暦同年五月 三日、明治三十二年﹀の条を見てみよう。 ﹁又諭す。総理各国事務街門、日本僧人大谷光瑞、経典を呈進し、並びに蔵経を頒するを請うの一摺を奏す。進む る所の経典、著して留覧せしめよ。龍蔵経を頒賞するを請うに至りては、すなわち内務府に著して刷印せしめ、該 記 こ
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即 日 総理各国事務街門と内務府に対し、 ﹃龍蔵﹄(史料文中では﹁龍蔵経﹂と表 約四個月後に﹃龍蔵﹄の印刷作業が終了し、その後の送付作業が総理各国事務街門に命じられたことが﹃徳宗景皇 帝ハ光緒﹀実録﹄巻四四八、光緒二十五年三八九九﹀七月美酉(七月二十八日、西暦同年九月二日﹀の条に記載さ れ て い る 。 -114﹁日本僧人大谷光瑞に龍蔵経を賞す、総理各国事務街門に交して頒発せしむ。﹂ ﹃ 龍 蔵 ﹄ 前掲の﹃鏡如上人年譜﹄明治三十二年(光緒二十五年、一八九九﹀五月三日記事に記載していたように、 四十箱は同年十二月には西本願寺に送られて来た。但し、その文面中の﹁清朝の答礼として﹂の件は、清国側の記載 内容とかなりの組踊が認められる。鴨礼の相互交換の慣例から見ても、その総量の対比において凡そ不自然である。 また﹁西太后から大蔵経四十箱﹂の部分は、 ﹁戊成政変﹂後の政情を理解すれば、当該時期の清国の実権者たる西太 后(慈稽太后)の名のみが記載され、皇帝である光緒帝の名が連記されていないのは、当時の国情を如実に反映して いる。前年の光緒二十四年(一八九八﹀八月六日(西暦九月二十一日﹀以降、中南海の顧台に幽禁され、日常の政務 がかなり制約されていた光緒帝との面談が叶わなかったのも至極当然である。前掲﹃教海一澗﹄第五十九号所載の ﹁清国西太后の蔵経寄贈﹂に﹁尚ほ清帝は御病気中にて拝語あらせられざりしも﹂とあるのを、 ﹃ 鏡 如 上 人 年 譜 ﹄ 明 治三十二年四月二十三日の条の﹁注記﹂では﹁この時清廷は政変直後のこと故皇帝に謁するを得ず﹂と記載するのは むしろ現実に即した表現である。 以 上 の ﹃ 龍 蔵 ﹄ 授 受 の 経 過 を さ ら に 詳 細 に 記 し て い る の が ﹃ 清 光 緒 朝 中 日 交 渉 史 料 ﹄ ( 故 宮 博 物 院 、 一 九 一 一 一 一 一 年 刊 印 。 文海出版社、一九七
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年十二月再版)に載せる史料文である。やや長文ながら同書巻五十二の関連部分﹁総理各国事 務街門代呈日本僧人恭進経典並請頒賞黄教蔵経摺光緒二十五年三月二十四日(第三七三二項﹀﹂を引用してみよう。 ﹁臣突勘(慶親王﹀等脆奏するに、日本僧人の恭しく進むる経典を代呈し、並びに黄教の蔵経を頒賞せられんこと、 恭しく摺し、仰ぎて聖鑑を祈る事の為にす。嘱に臣の街門、日本の使臣矢野文雄の面称するに拠るに、現に本国僧 人大谷光瑞あり西京本願寺に卓錫し、経義に潜心し、素より戒行に励む。此次、釈教の宗派を訪求するに因り、遠 く中土に遊び、恭しく薙和宮に謁することを請い、並びに黄教を仰慕するに因り、旨を請いて龍蔵経を賞給せられ んことを代奏するを求め、考証諦習し正教を流布するに資せしめんとする等の語あり。すでに臣が街門、理藩院に 龍谷大学所蔵の龍蔵について(木田〉 -115ー行文し呼図克図に創的して期を屈して照料せしむ。木月十五日、臣衰調と巨桂春、該僧を率同して前みて羅和宮に 詣り、陪礼し畢り、並びに阿嘉呼図克図と接陪し、仏義を諮詞す。また該僧の面称するに拠れば、現に本国よりの 来電に接するに、その速かに回るをうながし、日ならずして即ちに出京するを擬ると。特に帯来せる本国の経典を 将て、代わりて口玉進を為すを懇請す。旋で該使臣由り、経巻六部を将て函送し前来せり。臣等査するに、 日本は向 来仏教を崇奉し、該僧象法を訪求せんとして、航海遠来し、震
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に三宝を扶持するの聖人有るを知り、党冊を乞い 万行を薫修するの根本と為すは、淘に向慕に属し、情の股なること殊に嘉すに堪う。なお謹んで該僧の代進を請う 所の経典三種共計六部、男に清単を繕し、恭しく御覧に呈す。該僧の龍蔵経を頒賞せられんことを請うに至りては、 尤も黄教に阪依するの誠を見る。仰ぎて天恩を懇うに、乾隆中に放を奉じて翻刊せる四体文蔵経内の大乗経数部を 頒発し、優異を示さしむ可きや否や。如し食允を蒙むれば、まさに請うらくは奉震苑・内務府に救下し、該経を将 て刷印して峡と成し、臣が術門に交し、送ること日本使臣に由りて該僧に転寄し祇領せしめ、以て正教を闘し、皇 仁を広めん。所有ゆる代呈せる経典、並びに日本僧人に龍蔵経を頒賞するを請うの縁由、謹んで恭しく摺し具陳す。 伏して皇太后・皇上の聖鑑を乞い、訓示あらば遵行せん。謹んで奏す。光緒二十五年三月二十四日。﹂(以下、突勘 M 同 等、臣僚十一名連署) ﹂の一文には﹁附件 日本僧人大谷光瑞呈進経典清単﹂(第三七三二項﹀が添えられており、参考資料として挙げて お く 。 ﹁謹んで日本僧人大谷光瑞の呈進せる経典の繕具せる清単を将て、恭しく御覧に呈す。 仏説浄土三部経弐部 正信念仏侮三帖和讃(日本国真宗開祖見真大師述)弐部 五帖消息(日本国真宗中祖慧燈大師述﹀弐部﹂ -116右の史料文から読み取れる主な内谷は、以下の諸点である。 一、大谷光瑞師が矢野文雄公使を通じて権和宮訪問を懇請したこと。
一
、 ﹃龍蔵経﹄すなわち﹃龍蔵﹄ その理由が ﹁黄教を仰慕するに困り﹂とされたこ の問与を願い出たこと。 ま た 、 と 一、総理各国事務街門の高官の引率で薙和宮を訪問し、 阿嘉呼図克図と面談したこと。 一、早急に帰国する必要が生じ、持参した浄土三部経等の真宗経典を代呈することを懇請したこと。 ﹃龍蔵﹄の賜与を求めた理由が、少なくとも清廷側には﹁該僧の龍蔵経を頒賞せられんことを請うに至りては、 、 尤も黄教に阪依するの誠を見る﹂と理解され、刷耐卿黄教への帰依と認識されたこと。また﹁仰ぎて天恩を懇い乾隆 中に奉救翻刊せる四体文蔵経内の大乗経数部を頒発し﹂云々ともあるように、清廷側が乾隆年聞に刊行された満・ω
蒙・蔵・漢の四体文仏典中の大乗経典を賜与の対象と考えた向きもあったこと。 以上の各項を本願寺側資料と比較勘案すると、 ﹃龍蔵﹄授与に至る経緯の説明が日中間でかなり異なっていたこと ﹃鏡如上人年譜 L 明治三十二年(光緒二十五年、一八九九)四月五月の記事中に大谷光瑞師が西蔵 語経典に強い関心を抱いていた事を示唆する記載が見られる。この事との関連からすれば、清廷側の記載内容に一定 が 明 ら か と な る 。 程度の信愚性が看取できる。その一方で、清国側について見ても、 守龍蔵﹄が漢文大蔵経であると応接の当事者達が 正確に認識していたようには思えず、則自附黄教の経典と誤認していたかのようにも推測される。これは﹃龍蔵﹄その ものがあまり普及しておらず、実際に刻本を手にしての内容確認手段がほとんど無かったためもあろう。 一八九九)五月には果たせなかった皇太后並びに皇帝との面談は、八年後の明治四 一 九O
七﹀四月十七日に実現した。その年、大谷光瑞師一行の北京滞在は四月十一日から同月 明治三十二年(光緒二十五年、 十年(光緒三十三年、 二十二日に及んだ。但し、その面談の詳細は定かでなく、 ( 四 十 三 頁 ﹀ に も 、 ﹃ 鏡 如 上 人 年 譜 ﹄ 龍谷大学所蔵の龍蔵について(木田〉 -117ー﹁
O
十六日恭親王・粛親王の来訪を受くO
十七日裏方向道にて林公使その他と共に紫禁城に赴き、西太后・皇帝 の両陛下に謁し、歓談す、刺繍扉風一隻を贈り、御筆画帖・福寿扇額・花瓶等を贈ら恥﹂ と簡単に記載するだけである。少なくとも、八年前の﹃龍蔵﹄賜与に対する謝意の表明が有ったであろうことは容易 に 想 像 で き る 。 この面談について、清廷側の記録は﹃徳宗景皇帝(光緒﹀実録﹄巻五七て (三月五日、西暦同年四月十七日、明治四十年﹀条に見える。 光緒三十三年(一九O
七﹀三月丙申 ﹁上慈轄端佑康顕昭強荘誠寿恭欽献崇照皇太后を奉じ勤政殿に御す。 観 見 す 。 ﹂ 日 本 国 使 臣 の 林 権 助 、 壁び伯爵大谷光瑞等 対面場所の﹁勤政殿﹂は、紫禁域内ではなく、皇城中南海に在った正殿名である。光緒帝幽閉場所である中南海の観 台に近いことに留意すべきであるが、戊戊政変後も、この蹴閣に光緒帝が出御し、外国使節との接見が度々行われたω
ことが報告されている。同じ面談の記録は﹃光緒朝東華録﹄ (原上海集成図書公司排印本、巻二O
五)光緒三十三年 ( 一 九O
七﹀三月丙申条にも見える。 ﹁慈稽端佑康闇昭諜荘誠寿恭欽献崇照皇太后・皇上、勤政殿に御す。日本国使臣の林権助、伯爵大谷光瑞・海軍少 将 寺 垣 猪 三 等 を 借 問 し て 観 見 す 。 ﹂ ここには﹃実録﹄記事には見えなかった海軍少将寺垣猪三の名が明記されていh
。当時、日本の陸海軍将官の謁見は それほど稀ではないものの、その聞の事情は定かではない。 さて、京都の西本願寺に送られた﹃龍蔵﹄が、その後、どのように所蔵されてきたのかについて簡潔に述べ、本稿 を 閉 じ る 。 明治三十六年(光緒二十九年、 一 九O
三 年 ﹀ 一月、西本願寺の新しい宗主となった大谷光瑞(鏡如﹀師は、翌明治 -118三十七年(光緒三十年、一九
O
四年﹀十一月以後、前門大谷光尊(明如﹀師にならい、 帥 円 庫﹀を仏教大学(現龍谷大学﹀図書館に寄贈し、件の﹃龍蔵﹄もその中に含まれていた。 歴代宗主の蔵書(写字台文 ﹃ 龍 谷 大 学 三 百 年 史 ﹄ 一九三九年七月﹀に、龍谷大学大宮図書館所蔵本の中核というべき﹁写字台文庫﹂についての記述が ある。但し、その中で﹃龍蔵﹄に関連した内容は残念ながらあまりに簡略で、次の短文が得られるに過ぎない。 谷 大 学 出 版 部 、 ﹁・:(明治﹀三十七年十一月に至り、前田慧雲の斡旋により、 その蔵書全部が本学に下付されることとなった。. 因みにこの時清の西太后より本願寺に寄贈されていた龍蔵本﹃大蔵経﹄等も共に本学に下付されたと云う。﹂(同書 七六七頁・七六八頁。現代表記に改め、字体も通用漢字とした﹀ 清廷からもたらされた﹃龍蔵﹄は、約五年間、 西本願寺に置かれた後、 一 九O
四年の十一月以降の遠からぬ時点に龍 谷大学図書館に寄贈されることになったのである。 つまり一九O
七年四月中旬の慈稽太后・光緒帝との面談の際には、 この未骨有の規模の大蔵経経典に対し て、目録作成をはじめ、求められるべき慎重な収蔵と展示公開などによる学術的な活用法を模索した。その﹃龍蔵﹄ 目録、龍谷大学図書館編﹃龍谷大学所蔵大清三歳(龍蔵﹀目録﹄(昭和三十九年十一月油印刻)には、当時の龍谷大 学図書館長であった小笠原宣秀教授の序文があり、﹃龍蔵﹄が龍谷大学に伝存するに至った経緯が簡明に記してある。 ﹃龍蔵﹄はすでに龍谷大学側に贈られていたのである。龍谷大学図書館では、 ﹁ 明 治 三 十 二 年 ( 一 八 九 九 ﹀ 一月、本願寺第二十二世門主鏡如上人(大谷光瑞師、当時二十四歳、第二十一世明如 上人の嗣法時代)は、清国巡遊の途に就き、 四月二十三日に清朝の王宮を訪れ総理街門において慶親王以下清廷の 諸 大 臣 官 向 官 等 と 会 談 さ れ た が 、 五帖御文章並に錦三巻等を皇帝並に西太 その際本願寺から浄土三部経、浄土和讃、 后に献呈した。これに対してその年の十二月清朝の答礼として西太后から大蔵経四箱(注:四十箱の誤り)、慶親 王から錦二巻、壁掛六枚、陶器六箱及び古代の石菖鉢一個を贈与された。この時の大蔵経が即ち此の龍蔵本であり、 わが国にもたらされた龍蔵の最初で然も唯一のものであった。 ( 龍 龍谷大学所蔵の龍蔵について(木田) -119ーこの由緒ある大蔵経は、鏡如上人から本学へ下附せられ、本学の什宝として架蔵し、永く学徒を禅益するところ と な っ た の で あ る 。 ﹂ この文中には幾らか補足説明か-加えるべき点が認められる。まず、文中に﹁大蔵経四箱﹂とある部分は、明らかなミ ﹃教海一澗﹄第五十九号・教報﹁清国西太后の蔵経寄贈﹂ ス プ リ ン ト で 、 にも明記されているように ﹁ 大 蔵 経 四 十 箱﹂と改められなければならない。次に﹁その答礼として﹂の記述も、上述したように的確な表現とは言いがたい。 少なくとも清廷側では、大谷光瑞師の求めに応じて賞与したように理解しており、種々の判断を加味しても、そのよ うに理解する方がより合理的で実情に近いであろう。 お わ り 龍谷大学所蔵の﹃龍蔵﹄ そ の 後 、 京都地区仏教各宗派の学校連合会主催の において度々展示され ﹁ 大 蔵 会 ﹂ t主 た。大正四年(一九一五﹀十一月に開催された第一回大蔵会の陳列目録﹃大典記念第一回大蔵会陳列目録﹄ ( 二 十 七 頁﹀に見えるのはその最初期の事例である。 また﹃昭和法宝総目録﹄(全三冊。 一九二九年四月
1
一九三四年十一月)第二冊所収の﹃大清三歳聖教目録﹄の各種 いずれも﹁清乾隆三年刊龍谷大学蔵本﹂ に基づいて記録されたものである ( 同 書 三 六O
序文と千字文経巻子目は、 頁)。同時期に編纂された小野玄妙編﹃仏書解説大辞典﹄別巻(一九三六年二月刊)・仏典総論の﹁十四清官版大清 三蔵聖教目録﹂もおそらく同じくこれに拠ったものであろう。 ﹃龍蔵﹄が清末に日本に贈与され、龍谷大学に所蔵されたことは比較的良く知られており、 (一九八八年十月刊行)の﹁清蔵﹂の条下に、 一例を挙げれば、台湾 の慈恰主編・星雲監修﹃仏光大辞典﹄ ﹁清末に慈稽太后が日本に贈与 し た 龍 蔵 は 、 日本の龍谷大学図書館に蔵怠れている﹂と記載されている通りである。この記事情報は、 おそらくは仏 -120教大学(現龍谷大学)編﹃仏教大辞奨﹄第六巻(一九二二年一月刊) ﹁龍蔵﹂の条に﹁明治三十二年西太后より一部 を本派本願寺に寄贈す﹂とあり、加えて望月信亨編﹃仏教大辞典﹄第三巻(一九三一三年十二月刊) ﹁本邦には京都龍谷大学に之を蔵す。是れ明治三十二年清国西太后の寄贈に係るものなり﹂とある記事等に依拠した ﹁ 清 蔵 ﹂ の 記 事 に ものと思われる。また、李富華・何梅著﹃漢文仏教大蔵経研究﹄第十一章・清︽龍蔵︾条(同書五二八頁﹀にも、大 蔵会編(小川貫才、執筆代表﹀﹃大蔵経
l
成立と変遷│﹄の記事に基づき、﹃龍蔵﹄の龍谷大学図書館所蔵の事実が記載 さ れ て い る 。 我国における版本﹃龍蔵﹄の収蔵は、すでに龍谷大学図書館一所に止まるものではない。大谷大学図書館には東木ω
願寺法主が一九三八年に時の天津市長から寄贈された﹃龍蔵﹄が所蔵されている。さらにその他の収蔵機関(東京大 学東洋文化研究所図書室等)にも所蔵されており、新印複製本までをも考慮に入れれば、 その数はさらに増す。 龍谷大学大宮図書館所蔵の﹃龍蔵﹄は、永年の収蔵期聞を経て若干の虫損が生じた経折本があるものの、 その後も 館内の貴重書書庫﹁龍谷蔵﹂に丁重に収蔵され、現在に至っている。 近 年 、 ﹃龍蔵﹄は度重なる新印複製や影印本の刊行によって、その利用度は以前と比較して格段に高まった。 華大蔵経(漢文部分﹀﹄上編(全一O
六冊、中華書局、一九八三年J
二OO
四年)編輯時には、落正帝﹃御選語録﹄等、 ﹃龍蔵﹄中の経典の一部が収録され、校勘の用にも供された。また二OO
二年、﹃洪武南蔵﹄(原版は四川崇州市上古 寺の所蔵。全二四二冊、 四 川 省 仏 教 協 会 、 一九九九年J
二OO
二年)影印再版に際しても、経文残欠部分を﹃龍蔵﹄ を用いて校勘する等、新たに注目を浴びている。加えて経版そのものが今現在も大半が保存されており、歴代の漢文 大蔵経の中でも格別な学術価値を備えている。 周知の通り、初期の版本に特殊な価値が有ることに変わりは無いが、 旧来のように版本価値だけを過大評価するこ とは適正な判断とは言えない。龍谷大学大宮図書館所蔵本﹃龍蔵﹄は、もともと官刻大蔵経の持尾を飾る貴重な仏教 ﹃ 中 龍谷大学所蔵の龍蔵について(木田)-121-文献であることに加えて、近代の日中間の文化交流の歴史を回顧する時、極めて特異な歴史的文物として改めて認識 し直されるべき歴史文献である。 付記:本篇作成に際して、史料捜索のヒントを提供された北京大学の林梅村教授、並びに常に資料調査に協力して 下さった田中利生・青木正範両氏に対し深く感謝致します。 注
ω
方広娼著﹃中国写本大蔵経研究﹄(上海古籍出版社、ニOO
六 年 十 二 月 ) 。 本 書 は 同 氏 ﹃ 仏 教 大 蔵 経 史 ハ 八 │ 十 世 紀 ) ﹄ 会科学出版社、一九九一年三月﹀を増補修訂したもの。ω
大蔵経の編纂と編成について、すでに多くの著述がある。その代表的なものを以下に掲げる(出版年次が必ずしも執筆年次で は な い ﹀ 。 大蔵会編(小川貫弐執筆代表﹀﹃大蔵経│成立と変遷│﹄(百華苑、一九六四年十一月初版﹀ 郭朋著﹃明清仏教﹄(福建人民出版社、一九八二年十二月) 察運辰編著﹃二十五種蔵経目録対照考釈﹄(新文豊出版公司、一九八三年十二月) 方広錯著﹃仏教典籍百問﹄︿今日中園出版社、一九八九年十一月﹀ 周叔迦﹁︽大蔵経︾雌印源流紀略﹂、﹃周叔迦仏学論著集﹄下集(中華書局、一九九一年一月)所収 童建編著﹃北宋︽関宝大蔵経︾雌印考釈及目録還原﹄(書目文献出版社、一九九一年八月) 胡字環・方広錯著﹃道蔵与仏蔵﹄︿新華出版社、一九九三年十二月) 童聾編﹃二十二一種大蔵経通検﹄(中華書局、一九九七年七月﹀﹁漢文大蔵経筒述﹂ 羅偉国著﹃仏蔵与道蔵﹄(上海書応出版社、二OO
一 年 七 月 ﹀ 李際寧著﹃仏経版本﹄(江蘇古籍出版社、二OO
二 年 十 二 月 ﹀ 李富華・何梅箸﹃漢文仏教大蔵経研究﹄(宗教文化出版社、ニOO
三年十二月)第十一章・清︽穏蔵︾条 ︽中華大蔵経︾編輯局編﹃中華大蔵経総目﹄(中華書局、二OO
四 年 一 月 ﹀ ( 中 国 社 -122なお、薙正帝による大蔵経編纂に関しては、拙稿﹁薙正帝与︽龍蔵︾﹂(張本義主編﹃大連図書館建館百年紀念学術論文集﹄上 冊所収、万巻出版公司、二
OO
七年十一月)に概略を示しているので参照されたい。ω
明初に編纂刻印された三部の官刻大蔵経の内容や版式に関しては、前掲の李際寧著守仏経版本﹄に大方の解説が見える。 川判前掲の禁運辰編著﹃二十五種蔵経目録対照考釈﹄、及び童疎編﹁二十二組大蔵経過検﹄等を参照。務正帝自身の御撰仏典も﹁此 土著述﹂部分に収載された。ω
故宮博物院図書館・遼寧省図書館編著墨田代内府刻書目録解題﹄(紫禁城出版社、一九九五年九月﹀三六七頁参照。 帥﹁折本﹂は我国では別に﹁帖装(本﹀﹂﹁法帖仕立﹂﹁摺本﹂の名で知られ、中国では古来﹁経折本(装)﹂﹁折子本(装)﹂等 の名がある。﹁折本﹂の意味で﹁党爽本(装)﹂の名称もよく用いられるが、正しくは﹁焚策本(装)﹂と表記する。但し、その 原義は﹁貝業経﹂を指すものであり、﹁折本﹂の意味で使用するのは正しい用法ではない。 的前掲の李富華・何梅著﹃漢文仏教大蔵経研究﹄第十一章・清︽龍蔵︾条、五二六頁等参照。 的﹃穏蔵﹄印刷状況に関しては、最も基本的な資料として範成﹁修整清蔵経庫版架記﹂(菩提学会編輯の仏学刊行物﹃微妙戸﹄ 第五期所収)がある。範成法師(一八八四 J 一九五八)は、俗姓李、江蘇省如皐県の人。如来僧伽図書館の創設者。その波乱に 富んだ生涯は凌波法師執筆の﹁範成法師﹂(香港宝蓮禅寺)に詳しい。民国年問、各種の蔵経保存に尽力し、本篇を執筆した一 九三六年十二月当時、﹃龍蔵﹄の経板管理と印刷等の調整に最も奔走した人物である。その他、拙絡﹁︽清蔵︾雑談﹂(﹃法音﹄ 一九八二年第四期)、梁玉泉﹁︽清蔵︾経板述略﹂(﹃文物﹄一九八七年第十期﹀、梁玉泉・関恨・子暁利﹁法宝重光﹂(﹃法音﹄一 九八八年第十期)、及び前掲の李富華・何梅著﹃漢文仏教大蔵経研究﹄第十一章・清︽龍蔵︾条等を参照。 例﹁党利之ク龍蔵 φ 風雨見彩虹l
光孝寺︽大蔵経︾的故事﹂(﹃泰州日報﹄二OO
五年五月十三日記事)参照。 帥大谷光瑞師(一八七六 J 一九四八)は、浄土真宗本願寺派(西本願寺﹀第二十一世宗主大谷光尊(法名明如)の長子、第二十 二世宗主(宗主在位期間一九O
一 一 一 J 一 九 一 四 ) 。 法 名 は 鏡 如 。ω
注刷所掲の諸篇に加え、陳金穏﹁南京国民政府与︽清蔵︾的印刷﹂(﹃法音﹄三OO
五年第二期)を参照。一九三六年当時、実 際に印刷を求めた寺院等の﹁請印寺廟団体﹂名が挙がっている。また、この時に﹃龍蔵﹄の残欠経巻部分だけの﹁補印﹂を求め た南京古林寺・青島華厳寺・奉化雪寅寺等の寺廟があったことにも論及している。これら諸寺は、乾隆初年の頒賜を得た寺院な のであろう。ほぼ同時期に、﹁百納書冊本清龍蔵経﹂の燐入予約を呼び掛ける案内文﹁預約百納書冊本清寵蔵経筒章﹂が﹃微妙 声﹄第四期の末尾に附載されている。実際に刊行されたか否かは定かでない。 龍谷大学所蔵の龍蔵について(木田) - 123ー帥前掲の梁玉泉﹁︽清蔵︾経板述略﹂。智化寺所蔵の﹃紹蔵﹄の経板図版は、断層頻・望天星編﹃北京古利名寺﹄(中園世界語出版 社、一九九三年刊)一七五頁等を参照。 同李富華・何梅著﹃漢文仏教大蔵経研究﹄五三五頁。 同文物出版社のそれは、第一回国家図書奨栄誉奨を受賞し、専門家が選出する﹁二十世紀最佳古籍整理図書﹂の一つにも選ばれ た ( ﹃ 中 国 文 物 報 ﹄ 二
OO
一 年 十 月 十 二 日 ) 0 ﹃文物﹄誌(一九八七年第十期)に掲載された出版予告の図版一葉(文物出版社﹃乾 隆版大蔵経﹄出版予告)を本稿末尾に掲げる。 同李富華・何梅著﹃漢文仏教大蔵経研究﹄五二七頁至五一三頁等参照。台湾新文建出版公司﹃乾隆大蔵経﹄(精装一六四冊、校 訂分冊目録一冊、一九九O
年・一九九二年刊)、台湾伝正有限公司﹃乾隆大蔵経﹄(精装一六八冊、総目録一冊、二OO
二 年 刊 ) 、 全国図書館文献縮徴複製中心﹃乾隆大蔵経﹄(精装一六八冊、ニOO
四年刊)等の他、さらに中国脅庖版も影印刊行された(精 装二ハ八冊、ニOO
七年八月刊)。各版とも影印刊行ごとに初期版本の伝存状況を調査し、初刻当時の収録経典の復原に努めて い る 。 帥妙舟法師﹁北平万善殿記﹂(守微妙声﹄第六期所収)参照。他に斉秀梅・楊玉良等著﹃清宮蔵書﹄(紫禁城出版社、二OO
五 年 四月﹀第二章第六節等を参照。 M W 乾隆三十年(一七六五)の銭謙益撰﹃大仏頂首務厳経疏解蒙紗﹄六十巻(経版六百六十枚)や乾隆三十四年(一七六九)の ﹃開元釈教録略出﹄等、及び間四十一年(一七七八)の﹃華厳経武后序文﹄等に対して発生した﹃胞放﹄中の経典に対する剛除 撤版に関しては、すでに前掲の禁運辰編著﹃二十五種蔵経目録対照考釈﹄や李富華・何梅著﹃漢文仏教大蔵経研究﹄に関連する 論述が有る。その他、李致忠﹁清刻︽館蔵︾漫議﹂(同氏﹃肩撲集﹄所収、北京図書館出版社、一九九八年九月)を参照。 同呉文﹁白塔寺和官的新発現﹂(﹃旅激﹄一九八O
年 第 一 一 一 期 、 一 九 八O
年六月)、北京市白搭寺文物保管所編﹃妙応寺白塔﹄(文物 出版社、一九八五年六月)、実春和﹁妙応寺白塔出土的治代初刻版仏教大蔵経﹂(﹃燕都説故﹄所収、北京燕山出版社、一九九六 年十月)参照。この時に発見された多くの文物は、現在、北京の首都博物館に収蔵されている。黄春和﹁北京白塔寺塔利仏教文 物的発現及乾隆御筆︽般若波羅蜜多心経︾賞析﹂(﹃法音﹄一九九七年第十二期﹀等参照。 帥 注ω
所掲の﹃仏教版本﹂一七九頁。 帥前掲川切に引く﹁党利之ク胞蔵 ψ 風雨見彩虹│光孝寺︽大蔵経︾的故事﹂。ω
文中に見える人物名について簡潔に説明する。但し、記載事項は極力関連事項のみに止めた(後文に示す人物略伝も同じ)。 -124西太后(一八三五 J 一 九
O
八)、威豊帝の妃。慈稽太后。同治帝の生母。同治帝の病死後、醇親玉突讃の次子載結を立てて皇 帝の座に据えた。これが光緒帝である。親政後の光緒帝等が打ち出した変法新政案に反対し、光緒二十四年八月六日(西暦一八 九八年九月二十一日。以下の月日は西暦表記﹀に宮廷政変を起こし(﹁戊戊政変﹂﹀、光緒帝を中南海の瀦台に幽閉した。 光緒帝(一八七二 J 一 九O
八可愛新覚羅載結。文中では﹁清帝﹂としている。幼少のため、即位後しばらくは慈安太后(東 太后﹀と怒雄太后(西太后)の﹁垂簾聴政﹂を必要とした。その後、光緒十五年(一八八九)に親政を始め、光緒二十四年(一 八 九 八 ) に は 変 法 を 通 じ て { 富 国 強 兵 に 着 手 し よ う と し た が 、 慈 一 一 嶋 太 后 等 の 反 対 に 遭 っ て 失 敗 し た 。 慶親王(一八三八 J 一九一七可愛新党羅突励。光緒十年(一八八四)四月以後、宗室の有力者として主に総理各国事務街門 にあって清末政治の中枢を担った人物のひとり。光緒二十六年(一九O
O
)
八月の八カ国連合軍の北京侵入に際しては、李鴻章 とともに全権大臣となり、各国との議和に尽力した。 同﹃清国巡遊誌﹄、朝倉明宣編輯発行、明治三十三年刊。近年、﹃幕末明治中国見聞録集成﹄第十四巻(ゆまに書一房一、一九九七年 十月刊)にも影印収載されている。 帥王文紹(一八三OJ
一 九O
八)、所江仁和県(現杭州市)の出身。直隷総督兼北洋大臣を務めた後、光緒二十四年(一八九八﹀ 六月、戸部尚書を以て軍機大臣となり、総理各国事務街門行走を兼ねた。八カ国連合軍北京侵入時には、慈繕太后とともに一時 西安に逃れ、対外妥協策を献じた。 帥亥剥(一八四六 J 一 九O
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、漸江桐庫県の人。光緒二十四年(一八九八)に江寧布政使に抜擁されたが、その後、同年十月 に三品京堂を以て総理各国事務街門行走となった。同二十六年(一九O
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)
の義和団事件、及びそれに続く八カ国連合軍の北京 侵攻に先立ち、慈稽太后の怒りを買い、同年七月二十八日に宣武門外の菜市口で処刑された。 桂春、生没年不詳。満州正藍旗の人。富察氏、字は月亭。衰剰と同様、光緒二十四年(一八九八)の十二月に三品京堂を加え られて総理各国事務街門行走となった。宣統三年(一九一一)に民政大臣を務めたが、一九一一年十月の辛亥革命後、しばらく し て 病 死 し た 。 以上、銭実甫編﹃清代級官年表﹄第四冊(中華書局、一九八O
年七月)﹁総署大臣年表﹂光緒二十五年の条、及び故宮博物院 明清地案部・福建師範大学歴史系合編﹃清季中外使領年表﹄(中華書局、一九八五年十月)所収各種年表等を参照。 帥活仏のこと。﹁フトクト﹂とも表記。蒙古語。漢語では﹁胡図克図﹂﹁胡土克図﹂﹁庫図克図﹂﹁呼図克図﹂等と表記。歴代 かなりの人数が数えられるが、逮頼(ダライ)・班禅(パンチェン)・哲布尊丹巴(ジェブヅンタンパ)・章嘉(チャンジャ)を 龍谷大学所蔵の龍蔵について〈木田〉 -125ー蒙古西蔵仏教の四聖とする。達頼が全局を統括し、班禅が達頼を援けて後蔵地区を治め、哲布尊丹巴は漠北蒙古(外蒙)を、章 嘉は漠南蒙古(内蒙)・北京一帯を本地とする。章嘉は北京では崇祝寺を﹁駐錫﹂の場所とした。 同﹃理安寺士山﹄巻五所載の務正帝御撰塔銘(薙親王時代執筆)を参照。﹁康照四十一年、余分府城東与柏林寺週。時独超禅師主 柏林、談法甚契。不二年、苦辞南帰、余弗能留也。﹂釈聖空著﹃清世宗与仏教﹄(台北中華仏学研究所、二
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年八月﹀等を 参 照 。 開念のため、問内容を記載した﹃光緒朝上諭楢﹄(中国第一歴史柏案館編、広西師範大学出版社、一九九六年十月)第二十五冊 の光緒二十五年三月二十四日(西暦五月三日)の条(同書九十二頁)を掲げておく。﹁軍機大臣面奉論旨、総理各国事務街門奏、 日本僧人大谷光瑞呈進経典、並請頒蔵経一摺。所進経典著留覧。至請頒賞龍蔵経、即著内務府刷印、交該街門頒発。欽此。﹂(第 一二三七項)﹁交総理各国事務街門・内務府、本日軍機大直面奉諭旨、総理各国事務街門奏、日本僧人大谷光瑞呈進経典、並請頒 蔵経一摺。所進経典著留覧。至請頒賞龍蔵経、即著内務府刷印、交該街門頒発。欽此。相応伝知貴街門欽奏可也。此交。﹂(第一一一 三 八 項 ﹀ 伺史料原文を掲げておく。﹁臣頒励(即慶親王)等脆奏、為代量日本僧人恭進経典並頒賞黄教蔵経恭摺仰祈聖鐙事。縞臣街門拠 日本使臣矢野文雄面称、現有本国僧人大谷光瑞卓錫西京本願寺、潜心経義、素励戒行。此次因訪求釈教宗派、遠遊中土、請恭謁 務和宮、並因仰慕黄教、求代奏請旨賞給寵蔵経、待資考証爾習流布正教等語。当経臣街門行文理藩院劉筋呼図克図屈期照料。本 月十五日、臣実利臣桂春率同該僧前詣務和宮、隣礼畢、並与阿嘉呼図克図接培、諮詞仏義。複拠該僧面称、現接本国来電、催其 速回、不日即擬出京、特将帯来之本国経典、懇請代為呈進。旋由該使臣将経巻六部函送前来。臣等査日本向来崇奉仏教、該僧訪 求象法、航海遠来、知震旦有扶持三宝之聖人、乞党冊為蒸修万行之根本、淘属向慕、情殴殊堪嘉。尚謹将該僧所請代進経典三種 共計六部、見繕清単、恭呈御覧。至該僧請頒賞龍蔵経、尤見岐依黄教之誠、可否仰懇天思頒発乾隆中奉救翻刊之四体文蔵経内大 乗経数部、体示優異。如蒙食允、応請放下奉庚苑内務府、将該経刷印成帳、交臣街門送由日本使臣転寄該僧抵領、以閥正教、而 広皇仁。所有代呈経典並請頒賞日本僧人龍蔵経縁由、謹恭摺具陳。伏乞皇太后皇上聖鑑、訓示遵行、謹奏。光緒二十五年三月二 十 四 日 。 ﹂ この史料の前に掲げられた﹁総理各国事務街門杏送日本経典苔文光緒二十五年三月二十三日(西暦五月二日)﹂(第三七三O
項 ) 、 及 び ﹁ 諭 旨 光 緒 二 十 五 年 三 月 二 十 四 日 ( 西 暦 五 月 三 日 ﹀ ﹂ ( 第 三 七 一 一 一 一 項 ) の 史 料 両 文 も 参 考 と な ろ う 。 なお、文中の﹁奉庚苑﹂は内務府の下部機構で、もともと圏困河道の事を管理する部円であるが、同内務府所属の﹁武英殿修 -126書処﹂と同様に内府刻本の刻印に関与したものであろう。内務府および奉庚苑の職掌に関しては、張徳沢著﹃清代国家機関考略 ( 修 訂 本 ﹀ ﹄ ( 学 苑 出 版 社 、 二
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一 年 七 月 。 一 九 六 二 年 、 中 央 楢 案 館 明 清 曲 目 案 部 刻 印 、 内 部 参 考 資 料 ) 第 一 一 一 章 第 二 節 、 李 鵬 年 等編著﹃清代中央国家機関概述﹄(黒穂江人民出版社、一九八三年)下編第二章第二節、祁美琴著﹃清代内務府﹄(中国人民大 学出版社、一九九八年六月)第四章等参照。 倒矢野文雄(一八五OJ
一九三一﹀、号は穏渓、大分県人。光緒二十五年(明治三十二年、一八九九年)の五月︿西暦)当時は、 駐華特命全権公使(一八九七年六月から一八九九年十一月まで)を務めていた。公使館は一八七三年十一月に設置され、公使が 日本の外交使節の代表であった。その後、公使館は一九三五年五月になって大使館に昇格した。 開乾隆年聞に刊刻された四体文蔵経や同写本に関する概略は、前掲﹃清宮蔵書﹄第二章第六節等を参照。 帥恭親王(一八八01
一九三七可愛新覚羅湾偉。初代恭親玉突新(一八一三ニ J 一八九八)の死後、第二代の恭親王となった。 粛親王(一八六六l
一九二二可愛新覚羅善番。その十四女は﹁川島芳子﹂の名で知られた愛新覚羅顕静(一九O
七 J 一 九 四 八 。 漢 名 は 金 壁 輝 ﹀ で あ る 。 なお、文中の﹁林公使﹂とは林権助(一八六Ot
一九三九)のこと。福島県人。光緒三十三年(明治四十年、一九O
七年﹀四 月(西暦)当時の駐華特命全権公使(一九O
六年七月から一九O
八年十月まで。但し、一九O
七年六月から同年十一月まで一時 的 に 離 任 ) で あ る 。 伺若干の事例を挙げれば、﹃徳宗景皇帝(光緒)実録﹄巻五五八、光緒三十二年(一九O
六、明治三十九年)四月に三例が見え る。同月庚子(西暦四月二十六日﹀に日本の特命全権公使の内田康哉が離任直前に、また壬寅︿同四月二十八日﹀にフラγス、 丁未(同五月一一一日)にはイギリスの外交使節が、いずれも勤政殿で慈繕太后と光緒帝に謁見した。なお、勤政殿は戊戊変法推進 時期に光緒帝の執務場所となっていた。 伺寺垣猪三(一八五七 J 一九三八﹀、石川県人。光緒三十三年(明治四十年、一九O
七年)四月当時、海軍少将で第二鑑隊司令 官の任にあった。この商談の記録は、﹃清史稿﹄巻二十四、同年一一一月丙申条では、﹁日本公使の林権助等に勤政殿に見ゆ﹂と簡 潔 に 記 述 さ れ る に 止 ま る 。 制龍谷大学の当時の大学名称は仏教大学。大正十一年三九二二﹀五月になって龍谷大学と改称された。以下、龍谷大学と表記。 脚本目録の表表紙には﹁昭和三十八年十一月﹂とあるが、小笠原教授の序文の最後に﹁昭和三十九年文化の日に﹂とあり、加え て同序文の文意からも判断できるように、﹁昭和三十九年﹂(一九六四)の誤記である。 龍谷大学所蔵の龍蔵について〈木田〉 -127ー申
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竺沙雅章﹁仏教伝来大蔵経編纂﹂ ( 二O
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年三月二十五日発行﹃大谷大学通信﹄五十号所載﹀参照。 -128 キーワード 潅正帝 大 蔵 経 大谷光瑞北京智化寺蔵板 文物出版社刷印