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親鸞の説法

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Academic year: 2021

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(1)

延 塚 知 道

親鸞の説法

―『 異抄』の世界 ― 真 宗 文 庫 東 本 願 寺 出 版 1 ■■■■

(2)

も   く   じ はじめに … ……… 9     『歎異抄』再発見 … ……… 13 一   蓮如の『歎異抄』発見   14 二   清沢満之の『歎異抄』再発見   21 第一章 歎異の精神とは何か … ……… 53 一   竊かに愚案をめぐらして   54 二   歎異の精神   70 三   異義とは何か   84 3 ■■■■ 2

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三   真実報土   254 四   信心同一の問答   261 五   唯除の自覚   272 第四章   本願の救い … ……… 279 一   弥陀の誓願不思議   280 二   二つの御持言   312 三   大般涅槃道   321 文庫化にあたって   326 第二章   師教との出遇い … ……… 105 一   往生極楽のみち   106 二   いずれの行もおよびがたき身   136 三   真理に背くもの   148 四   如来に見抜かれている私   155 五   『大経』の教え   163 六   本願成就   185 七   釈尊以前の仏教   216 第三章   悪人正機 … ……… 223 一   善人悪人   224 二   他力をたのみたてまつる悪人   245 5 ■■■■ 4

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本 書 は、 二 〇 一 一 年 に 真 宗 大 谷 派( 東 本 願 寺 ) の「 宗 祖 親 鸞 聖 人 七 百 五 十 回 御 遠 忌 」 を 記 念 し て 出 版 さ れ た『 シ リ ー ズ 親 鸞 』 全 十 巻 ( 筑 摩 書 房 刊 ) よ り、 第 七 巻『 親 鸞 の 説 法 ―『 歎 異 抄 』 の 世 界 ―』 を文庫化したものです。 凡例 *本文中、資史料の引用については、基本的に東本願寺出版(真宗大谷派宗務所出版部)発行『真 宗聖典』を使用した。 *『 真 宗 聖 典 』 収 録 以 外 の 引 用 に つ い て は、 『 真 宗 聖 教 全 書 』( 大 八 木 興 文 堂 )、 『 清 沢 満 之 全 集 』 (大谷大学編   岩波書店) 、『親鸞聖人行実』 (真宗大谷派教学研究所編)に依拠した。 *本書の引用文については、読みやすさを考慮して、漢文を書き下し文に、文字の一部をかなに改 め、新字新かなを用いた。また、適宜ルビを施した。 7 ■■■■ 6

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はじめに

『 歎 たん 異 に 抄 しよう 』は、 言うまでもなく親鸞の説法である。親鸞が、 弟子や身近な人々 に生活の問題を通して、他力の仏道に救われなさいと説いたことばを集めた語 録 で あ る。 だ か ら、 主 著 の『 顕 けん 浄 じよう 土 ど 真 しん 実 じつ 教 きよう 行 ぎよう 証 しよう 文 もん 類 るい 』 (『 教 きよう 行 ぎよう 信 しん 証 しよう 』) に 比 べ て 取 っ つ き 易 く、 身 近 に 感 じ ら れ る 書 物 で あ る。 親 鸞 の 息 づ か い さ え 感 じ て、時には、はっとさせられるような面を持つ。   し か し、 そ こ に 語 ら れ て い る こ と は、 『 教 行 信 証 』 に 著 わ さ れ て い る こ と と まったく同質の内容であるために、よく考えると実に難解である。   難解であることの理由の一つは、理解することと実践することとの違いにあ るように思われる。何事も理解しなければ納得がいかないわれわれは、それに 一 生 懸 命 に な る あ ま り、 親 鸞 の 言 う 真 意 と す れ 違 っ て い る の で は な か ろ う か。 親鸞は実践を語り、われわれはそれを頭だけで理解しようとする。そこに生じ 8 9 はじめに

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  特にこの書では、 前 ぜん 序 じよ を通して『歎異抄』全体に流れている唯円の「異なる こ と を 歎 く 」 精 神 を 学 び、 他 力 の 信 心 の は た ら き を 考 え て み た い。 そ の 上 で、 第一章、第二章、第三章を中心に、信心とは何か、他力とは何か、その救いと はどうなることかを尋ねて、親鸞の仏道を少しでも明らかにできたらと思って いる。   特にこの三章を選んだ理由の詳細は改めて申し上げるが、かいつまんでいえ ば、内容から見て第一章が「本願」 、第二章が「念仏」 、第三章が「成仏」を説 い て い る。 つ ま り、 「 本 願 を 信 じ 念 仏 を 申 さ ば、 仏 に な る 」 と い う 親 鸞 の 仏 道 を、この三つの章で明らかにしていることによるのである。   このように書くと、私の関心は親鸞の仏道にのみ注がれているように思われ るであろう。もちろん、親鸞の仏道を正確に尋ねることは当然であるが、それ を尋ねる理由は、今ここに生きているわれわれの救いを考えたいからである。   封建制や身分制度など様々な前近代の束縛から人間を解放して、近代は始ま る。しかし「自由と権利」と引き換えに、個人がバラバラになって共通の大地 れ 歩である。しかし本当に分かるとは、頭で理解し、この身で納得し、意欲でそ る大きな乖離である。もちろん頭で理解することは、本当に分かることの第一 を 生 き て い く こ と で あ る。 親 鸞 は そ れ を 語 っ て い る の だ か ら、 『 歎 異 抄 』 を われわれの土俵だけで分かったことにしないで、正確に親鸞に聞いて、この身 でも納得し、それを意欲として生きていくまで、よく聞き考えるしかないであ ろう。   さて、このような重い課題をもって『歎異抄』を読み進める力は、私には毛 頭ない。他力の仏教とか他力の救いを、分かりやすく解説することさえ難しい の に、 『 歎 異 抄 』 か ら 生 き る エ ネ ル ギ ー に な る よ う な も の を ど う し て 読 み 取 っ たらいいのであろうか。身の縮むような思いがする。しかしせっかくの機会を 頂いたのだから、皆さんとご一緒に今申し上げた課題を念頭に置きながら、親 鸞の仏道に尋ね入りたい。その意味では通俗的な理解ではなくて、親鸞の実践 的な仏道理解に焦点を当てることになると思う。どうかご理解を頂いてお付き 合いをお願いしたい。 10 11 はじめに

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を失い、今に至ってみると、それぞれの自己主張だけが空しく響き合って、闇 に吸い込まれていくような気がしてならない。すべての考え方が自分から出発 して結局自分に帰ってくる。そこに現代人の救いのなさがあるように思う。   すべての束縛から解放され人間は独立を勝ち取ったと思ったけれど、結局は 孤立して、自分という束縛からは解放されていなかったのではなかろうか。要 するに、自分で自分をもてあまし、自意識に振り回されながら様々な事件を起 こしているのが、現代人ではなかろうか。そういう現代人の救いは一体どこに あるのか、私の関心は 偏 ひとえ にそこにある。   皆さんとご一緒に『歎異抄』を通して親鸞の仏道を尋ねながら、その背景に は一貫して、現代のわれわれはどうすれば救われるのかという関心が貫いてい ることを、感じて頂ければ幸いである。

序章

  『歎異抄』再発見

13 ■■■■ 12

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比叡山の強大な権力が当時の本願寺を天台宗の末寺として呑み込んでしまって いたのである。   蓮 如 は そ の 天 台 宗 か ら 実 際 面 で も 独 立 し て 真 宗 再 興 を 果 た す た め に、 例 え ば、 本 尊 を 安 置 す る 内 陣 の 形 式 を 真 宗 独 自 の も の に 替 え る。 当 時 の 本 願 寺 に は、比叡山のように 護 ご 摩 ま を焚く護摩壇があったと推定されるが、それを壊して 「 帰 命 みよう 尽 じん 十 じつ 方 ぽう 無 む 碍 げ 光 こう 如 によ 来 らい 」 と い う 名 号 を 中 心 と す る 内 陣 に 替 え た り、 聖 しよう 教 ぎよう 類 を 一 つ 一 つ 点 検 し て 浄 土 真 宗 を 明 ら か に す る 聖 教 以 外 は す べ て 焼 却 し て し ま う。 『 蓮 れん 如 によ 上 しよう 人 にん 御 ご 一 いち 代 だい 記 き 聞 きき 書 がき 』 (『 御 一 代 記 聞 書 』) の 二 百 二 十 三 条 に 伝 え ら れ て いるが、曽祖父である 綽 しやく 如 によ と高祖父である 善 ぜん 如 によ の肖像画を見ると、天台宗の装 束である 黄 袈 げ 裟 さ ・黄衣を身につけている。それらの肖像画を、他の天台宗のも の と 一 緒 に 風 呂 の 焚 き 付 け に し よ う と す る が、 血 の つ な が っ た 身 内 で も あ り、 あまりにも忍びないというので、彼は蓋に「よし、わろし」と書いてそれを残 したと伝えられている。   こ の よ う な 聖 教 類 の 全 面 的 な 点 検 作 業 の 中 で、 『 歎 異 抄 』 が 発 見 さ れ た の で

 

 

如の『歎異抄』発見

聖教の点検 『歎異抄』は数奇な運命を背負って、 今日まで伝えられてきた書物である。そ の 最 大 の 理 由 は、 『 歎 異 抄 』 の 原 本 が 未 だ 発 見 さ れ て い な い こ と に あ る。 現 在 読まれている『歎異抄』の一番古いものは、親鸞から数えて八番目に本願寺を 継いだ 蓮 れん 如 によ (一四一五~一四九九第八巻にて詳述) が書写したものである。筆跡か ら推定して彼が『歎異抄』を写したのは、四十代の頃と考えられている。   蓮如は五十一歳 (一四六五) の時、 比叡山の衆徒によって 青 しよう 蓮 れん 院 いん の近くにあっ た本願寺を破却されてしまうが、その理由の一つは、本願寺に伝統されていた 天台宗のにおいのするものをすべて排除したことにある。親鸞がせっかく『教 行 信 証 』 を 書 い て 思 想 的 に 浄 土 真 宗 を 天 台 宗 か ら 独 立 さ せ た に も か か わ ら ず、

14 15 序章 『歎異抄』再発見

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は、 『歎異抄』第三章の「他力をたのむ」 、第一章の「弥陀の 誓 せい 願 がん 不思議にたす けられまいらせて」という語に源流を持つ言葉である。宗教的信念の要となる 「 た の め 」、 「 た す け た ま え 」 と い う 言 葉 が、 ど ち ら も『 歎 異 抄 』 に よ っ て い る ということは、蓮如にとって『歎異抄』がどれほど大きな教えであったか。座 右の書というよりも彼の宗教的な命そのものと言ってもいいような意味を持つ 書である。 「たのむ」にしろ「たすけたまえ」にしろ、 他力をたのむ、 他力にたすけられ る、という意味だから、一言でいえば『歎異抄』は、他力を明らかにしている 聖教と言えよう。   他 力 と い う 言 葉 で わ れ わ れ が 普 通 に イ メ ー ジ す る こ と は、 「 私 」 以 外 の 力、 例 え ば 大 自 然 の 大 い な る は た ら き と か、 「 私 」 を 超 え た 人 間 関 係 の は た ら き と か、他のものの命に支えられてわれわれの命はあるとか、色々なことが考えら れ る で あ ろ う。 そ れ ら は 大 き く 言 え ば ま っ た く 間 違 い で は な い と 思 わ れ る が、 親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」と言う。こう言われるとわれわれ   本願力としての他力 思想のバックボーンにするのである。 はないかと推定される。蓮如はこの『歎異抄』を書写して座右の書とし、彼の 彼が全国の門弟に書き与えた『 御 お 文 ふみ 』 (五の一) は、   末 代 無 智 の、 在 ざい 家 け 止 し 住 じゆう の 男 なん 女 によ た ら ん と も が ら は、 こ こ ろ を ひ と つ に し て、 阿 弥 み 陀 だ 仏 ぶつ をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふら ず、 一 心 一 向 に、 仏 ぶつ た す け た ま え と も う さ ん 衆 生 を ば、 た と い 罪 ざい 業 ごう は 深 じん 重 じゆう なりとも、かならず 弥 み 陀 だ 如 によ 来 らい はすくいましますべし。 と、 「 阿 弥 陀 仏 を た の め 」、 「 仏 た す け た ま え 」 と い う 言 葉 が く ど い ほ ど 繰 り 返 される。先学が指摘するように、この「たのめ」 、「たすけたまえ」という言葉 16 17 序章 『歎異抄』再発見

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抄』であるのならば、この書の説く「他力」が、現代の人類的な課題にどう答 えてくれるのであろうか。それを想いながら読んでいきたいのである。   しかし今は、もう少し『歎異抄』全体について触れておきたい。   唯一遺されている蓮如の写本は、もともとの形に忠実なのであろうか。例え ば、 前 序 だ け が 漢 文 な の は な ぜ か。 前 半 の「 師 訓 編 」 と 後 半 の「 歎 異 編 」 は、 この順序なのか。 中 ちゆう 序 じよ と思われる文章は第十章の中に、 後 ご 序 じよ と思われる文章は 第十八章の中に入っていて、本文と序との区別が付きにくいのはなぜか。後序 の「大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この 書 に そ え ま い ら せ て そ う ろ う な り 」 と い う「 大 切 の 証 文 」 と は、 何 を 指 す の か。著者名がないのは、なぜか。最後に記されている流罪の記録は、何のため か。 『歎異抄』は、 このようなさまざまな問いを生み、 書誌学的にも思想的にもそ の研究が進められてきた。それらの疑問の中で、著者が親鸞の直弟子である 唯 ゆい 円 えん であることがほぼ確定されている点を除き、原本が見つからなければ確定で は『   他力を、頭で考えて理解するのではなくて、この身で体得することを、親鸞 は一遍に分からなくなってしまう。ここに仏教の難しさがある。 歎 異 抄 』 で 教 え る の で あ る。 そ の 時、 「 私 以 外 の 力 」 と い っ た 漠 然 と し た も の で は な く、 は っ き り と 阿 弥 陀 如 来 の 本 願 力 で あ る と 言 う の で あ る。 『 歎 異 抄』は、本願力としての他力を説くために、われわれの常識では捉えにくいと ころがあるが、そこを明らかにしなければ親鸞の真意に叶わないように思われ る。 数々の謎   さ て、 蓮 如 が 生 き た 時 代 は、 応 仁 の 乱 ( 一 四 六 七 ) と い う 日 本 全 国 を 戦 い の 中 に 巻 き 込 ん だ 未 曾 有 の 乱 世 で あ っ た。 そ の 乱 世 を 生 き 抜 い た 蓮 如 の 課 題 と、 二十一世紀を生きるわれわれの、世界戦争の時代をどう超えていくかという課 題とが、見事に重なるのではなかろうか。その蓮如が選び取った聖教が『歎異 18 19 序章 『歎異抄』再発見

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清沢満之の『歎異抄』再発見

世間の常識で理解してはいけない   蓮 如 の 筆 跡 か ら、 『 歎 異 抄 』 を 書 写 し て か ら 二 十 年 く ら い た っ た 頃 と 推 定 さ れているが、彼は『歎異抄』の最後に、次のような奥書を付ける。 右 こ の 聖 しよう 教 ぎよう は、 当 流 大 事 の 聖 教 と 為 す な り。 無 宿 しゆく 善 ぜん の 機 に お い て は、 左 右なく之を許すべからざるものなり。 (原文漢文) 「無宿善の機」が分かりにくい言葉であるが、 蓮如は「当流には、 信をとるこ と を 宿 善 と 云 う 」 と 言 っ て い る か ら、 「 無 宿 善 の 機 」 と は、 他 力 の 信 心 に 目 覚 め て い な い 者 と い う 意 味 で あ る。 要 す る に こ の 奥 書 が 意 味 し て い る こ と は、 きないことがほとんどである。   そ れ に も か か わ ら ず、 『 歎 異 抄 』 が 日 本 の 思 想 信 仰 上 の 書 と し て は 白 眉 の 聖 典として、これほど多くの人たちに読まれるようになったについては、これま た運命的な経過をたどるのである。 20 21 序章 『歎異抄』再発見

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  信もなくて、大事の聖教を所持の人は、おさなき者につるぎをもたせ候 う 様 よう に 思 おぼ し 召 め し候う。その故は、剣は重宝なれども、おさなき者、もち候 えば、手を切り、怪我をするなり。持ちて 能 く候う人は、重宝になるなり と云々   ここで「信もなくて」と蓮如が言うように、彼は宗教上の道理を世間の常識 で理解されることを恐れた。それは「おさなき者につるぎをもたせ」るような こ と で あ り、 「 手 を 切 り、 怪 我 を す る 」 こ と に な る、 と 言 う。 も ち ろ ん、 蓮 如 ほどの説法の名手は、そういるわけではない。彼の言葉は、われわれの常識を ぐさりと突き切る名刀のような切れ味を持っている。   し か し そ の 一 方 で 蓮 如 は、 上 記 の よ う な 言 葉 を 残 す ほ ど 準 備 周 到 な 人 で あ り、 い わ ゆ る 苦 労 人 で あ っ た。 だ か ら『 歎 異 抄 』 の 教 え は、 「 大 事 の 聖 教 」 で あると決定したにもかかわらず、親鸞の言葉が世間の常識で理解されることを 恐れて、先のような奥書を付したものと思われる。 『 異 抄 』 が、 親 鸞 の 流 れ を く む 浄 土 真 宗 に お い て は 大 切 な 聖 教 で あ る、 し か し他力の信心に目覚めていない者には、むやみに勧めるべきではない、という ことである。 『歎異抄』は、その第一章に、 しかれば本願を信ぜんには、他の善も 要 よう にあらず、念仏にまさるべき善な きゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき がゆえにと云々 と、他力の信心に恵まれる仏道が 無 む 碍 げ 道、すなわち、善悪を超えて自由に生き る 道 と し て 記 さ れ る。 し か し、 道 徳 的 な 善 悪 と い う 世 間 の 常 識 で 理 解 す る と、 大 変 な 誤 解 を ま ね く 恐 れ が あ る。 蓮 如 は そ の こ と を、 『 御 一 代 記 聞 書 』 の 二 百 八十三条で、次のように言う。 22 23 序章 『歎異抄』再発見

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る。育英教校を短期間の内にトップで卒業した満之は、二十一歳の時、東本願 寺から東京帝国大学に留学を命じられ、哲学科に籍を置いて学ぶことになる。   鎖 国 を し て い た 江 戸 時 代 と は 違 っ て、 明 治 に な る と 西 洋 か ら 近 代 的 な 文 物、 文化、思想、信仰が急激に入ってきた。西洋の思想やキリスト教の布教に危機 感を抱いた東本願寺は、それに対応するために、若い優秀な人材を開設された ば か り の 東 京 帝 国 大 学 に 留 学 さ せ、 宗 教 学 は も ち ろ ん の こ と 物 理 学 や 生 物 学、 国史学や国文学というようにあらゆる方面から学問をさせた。   その中でいち早く西洋の宗教哲学を学んだ満之は、自己存在の意味を根源的 に問い直そうとする。西洋の自由な学問方法を身につけていた満之は、江戸時 代から伝統されてきた閉鎖的な真宗の信心やいわゆる宗学と決別して、内へ深 く 自 己 を 問 い 究 め て い く。 そ の 求 ぐ 道 どう は あ た か も、 強 烈 な 自 我 を 生 き る 近 代 人・ 満之その人を戦場にして、親鸞に思想的な戦いを挑むかのようであった。   戦いに傷ついた満之は三十二歳で結核を発病するが、血を吐きながらの求道 の末、ついに彼が三十六歳の十月二十四日の日記に、次のような言葉で他力の   この奥書についてもいろいろの了解があるが、蓮如ほどの人が付した奥書だ から、それ以降、これを守って公に『歎異抄』はあまり読まれなかったようで あ る。 江 戸 時 代 の 講 義 録 の 中 で も『 歎 異 抄 』 の 講 義 録 は、 『 教 行 信 証 』 の 講 義 録 な ど に 比 べ て 圧 倒 的 に 少 な く、 香 こう 月 がつ 院 いん 深 じん 励 れい の『 歎 異 鈔 講 林 記 』 と 妙 みよう 音 おん 院 いん 了 りよう 祥 しよう の『歎異抄聞記』が名著として残るくらいである。 近代人・満之の求道   と こ ろ が 明 治 に な っ て、 清 きよ 沢 ざわ 満 まん 之 し ( 一 八 六 三 ~ 一 九 〇 三 ) に よ っ て 再 び こ の 『 歎 異 抄 』 が 取 り 挙 げ ら れ る。 清 沢 満 之 は、 も と 尾 張 の 武 士 の 子 で あ っ た が、 縁 あ っ て 真 宗 大 谷 派 の 僧 侶 に な っ た 人 で あ る。 彼 は、 幼 少 の 頃 か ら 頭 脳 明 晰 で、 長 じ て 学 問 を 志 す が 家 庭 が 裕 福 で な い た め に、 十 六 歳 で 大 谷 派 の 僧 侶 と な っ て 当 時 東 本 願 寺 が 開 設 し て い た 育 英 教 校 で 学 ぶ こ と に な る。 育 英 教 校 は、 東本願寺が費用を出し、丸抱えで若い優秀な僧侶に学問をさせていたからであ 24 25 序章 『歎異抄』再発見

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ばれるにふさわしい意味を持つ親鸞の学問研究を生むことになるのである。 「余が三部経」   満之が親鸞の信心に到達するまでには様々な思想的な苦労があるが、その苦 労を乗り越えさせた書物を、満之は「余が三部経」と呼ぶ。それは、釈尊の言 行 録 で あ る『 阿 あ 含 ごん 経 きよう 』、 ロ ー マ の 哲 人 で あ る エ ピ ク テ タ ス の こ と ば が 集 め ら れ た語録、最後に『歎異抄』 、これら三つの聖教である。   この三つはどれも、釈尊、エピクテタス、親鸞の言行録であって、体系的な 書ではない。だから、満之が「余が三部経」を挙げるのは、彼の単なる学問関 心からではなくて、生きることに苦しむ実存それ全体をかけた戦い、つまり仏 教に救われるかどうか、仏教をわが身で体得できるかどうかという、求道的な 実験関心であることに注意が必要であろう。 信心を獲得した 凱 がい 歌 か を詠いあげる。   自己とは他なし。絶対無限の 妙 みよう 用 ゆう に 乗 じよう 托 たく して、任運に 法 ほう 爾 に に 此 この 境遇に落 在せるもの、即ち是なり。   只 ただ 夫 れ絶対無限に乗托す。故に死生の事、 亦 また 憂うるに足らず。死生 尚 なお 且 か つ憂うるに足らず。 如 い 何 か に 況 いわ んや、 此 これ より而下なる事件に於てをや。 (『 臘 ろう 扇 せん 記 き 』)   この文章で分かるように、満之の求道は「自己とは何ぞや。これ人生の根本 的問題なり」という彼自身の根源的な問いから出発した自己の徹底した究明で あった。満之の「自己とは何ぞや」という問いは、江戸時代とは異なり、近代 になって強烈な自我の芽生えを迎えないと、問うことさえできないような質を 持つものである。出発点が近代的なのだから、彼が他力の信心にまで到達した 求道の道筋は、当然それまでの学問とは異質であり、結果として近代教学と呼 26 27 序章 『歎異抄』再発見

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ぜなら、自我の範疇では考えることができるが、自我が成り立っている土台そ の も の を 自 我 で 問 う こ と は で き な い か ら で あ る。 そ こ に、 『 仏 説 無 む 量 りよう 寿 じゆ 経 きよう 』 (『大無量寿経』 『 大 だい 経 きよう 』) の本願の教えが説かれた大きな意味がある。 『 大 経 』 は『 仏 説 観 かん 無 む 量 りよう 寿 じゆ 経 きよう 』 (『 観 かん 経 ぎよう 』) 『 仏 説 阿 弥 み 陀 だ 経 きよう 』 (『 小 しよう 経 きよう 』) と 並 ん で 「 浄 土 三 部 経 」 の 一 つ で あ る が、 親 鸞 は、 本 願 の 教 え が 説 か れ て い る『 大 経 』 を真実教として最も大切にする。その本願の教えについては後に詳しく尋ねる が、今は、われわれには分からない人間の深みまで見抜いて、人間とは何かを 教えようとする阿弥陀如来の教えと理解しておきたい。だから満之は、本願の 教 え に 導 か れ な が ら 人 間 を 内 に 問 う て い く と い う 方 法 を、 こ の 時、 『 阿 含 経 』 から学び直すのである。 不可解   次に三十六歳の頃、友人で、後に大谷派教育顧問、京都帝国大学総長を務め   満 内に問う 之 は、 一 八 九 六 ( 明 治 二 十 九 ) 年、 三 十 四 歳 の 時、 当 時 の 東 本 願 寺 の 宗 政 が、両堂再建の負債に追われて教学を 疎 おろそ かにしていることを憂えて宗門改革運 動に奔走するが、その頓挫の責任を問われ、その翌年に僧籍を剝奪されて教団 から除名処分を受ける。それに加えて、結核の悪化や身辺の事情等が重なって 満 之 の 人 生 の 中 で も 大 き な 危 機 と な る が、 こ の 頃 か ら、 『 阿 含 経 』 を 熱 心 に 読 み始める。   満之が『阿含経』から学んだことは、仏教の学びの方法論である。自分を分 かったことにして、自分の外側について考えるわれわれの普通の常識ではなく て、 自 分 と は 何 か と い う 生 き る 主 体 を 学 ぶ 方 法 で あ る。 こ れ を 内 観 道 と い う が、その方法を『阿含経』に学ぶのである。   しかし、人間の目は外を見ることはできるが、内を見ることはできない。だ から、人間には主体それ自身を、内に深く問い尽くすことは不可能である。な 28 29 序章 『歎異抄』再発見

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と を 教 え ら れ る。 自 力 を 立 場 に し て 考 え る こ と に は、 そ れ な り の 枠 組 み が あ る。人間は何でも考えることができて、どんなことも解決することができると 思っているがそれは夢にすぎない。不可解に到達して、かえって自分が立って い る 自 力 は 完 全 な も の で は な く、 自 力 の 枠 組 み と 分 際 が あ る こ と を、 満 之 は 『エピクテタス氏教訓書』によって教えられるのである。 他力の教え   不可解とは近代人の自殺の大きな理由になるが、自力の死にまで追い詰めら れた満之は、かねて血肉になるまでに読み込んでいた『歎異抄』の他力の教え に よ っ て、 大 き く 転 回 さ れ て 自 我 の 危 機 か ら 蘇 る。 要 す る に、 本 願 の 教 え に よ っ て 自 力 の 分 際 よ り も も っ と 大 き く て 普 遍 的 な 法 ( 他 力 ) を 生 き て い る 身 に 目覚めるのである。ここに他力を説く『歎異抄』の教えが、満之にとって決定 的な意味を持ったのである。 る 沢 さわ 柳 やなぎ 政 まさ 太 た 郎 ろう ( 一 八 六 五 ~ 一 九 二 七 ) の 書 架 か ら 偶 然 見 つ け た『 エ ピ ク テ タ ス 氏教訓書』を読むことになる。満之が「西洋第一の書」と言うように、彼がこ の書から学んだことは実に大きかった。それは一言で言えば、人間の分際を徹 底的に教えられた、ということであろう。   エピクテタスは、本当の自由を問うて、自分の意のままになることと、意の ままにならないことを明確に分ける不動の智慧を確立せよと言う。自分の心は 意のままになるが、自分の外にある外物他人は意のままにならない。それを明 確に見分ける不動の智慧が大切なのだと言うのである。エピクテタスの言うこ とは一応もっともである。しかし、それを内に問い続けた満之は、自分の意の ままになるという心までもが外物他人に振り回されて悩んでいるのだから、自 分の意のままになる自由などどこにもない。   エピクテタスの教えを内に一歩推し進めた満之は、本当の自由なる自己とは 何かを問うて、ついに「不可解」というところに到達するのである。頭脳明晰 な満之は、自力を立場にして考えることを究め尽くし、自力には分際があるこ 30 31 序章 『歎異抄』再発見

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る。   このように見てくると満之の「余が三部経」の中でも、特に『歎異抄』が決 定的な意味を持つ書であることが分かるであろう。自己主張を生きた近代人と しての満之が、自我に行き詰まり、その分際に目覚めて、自我を遥かに超えた 内の深みから、南無阿弥陀仏と名告ってくる法のはたらきこそ本当の自己であ ると、法による自己に蘇る。ここに、強烈な自己主張を生きる近代人が、その 自力を 懺 さん 悔 して法に目覚めていく救いの道が満之によって示されたのである。   懺悔とはこれからよく出てくる言葉であるが、自力の自分が絶対だと思い込 んできたことに対する、反省以上の反省である。反省は自我の上で起こること で あ ろ う が、 懺 悔 は 存 在 全 体 を 挙 げ て、 自 ら の 罪 過 を 如 来 ( 無 限 の 法 ) に 謝 る ことである。   他 力 に は、 人 間 の 外 か ら あ た か も 指 を さ す よ う に 法 を 教 え る「 他 力 の 教 え 」 という場合と、教えられた法そのもののはたらきをいう場合の二つがある。前 者 を 他 力 の 教 え と か 本 願 の 教 え と 表 現 し、 後 者 を 他 力 と か 本 願 力 と 表 現 す る。 だから他力とか本願という言葉を理解する場合は、 「教え」と「法のはたらき」 、 どちらの意味で使っているかに充分な注意が必要である。   先に、本願とは如来の智慧が見抜いた本当の人間を教える教えであると言っ たが、その教えという面から言えば、不可解の身となった満之は、 自 じ 力 りき 無 む 効 こう と いうことを教えられ、その全体を包んで生かしている法のはたらきに目覚めさ せ ら れ た の で あ る。 法 の は た ら き ( 本 願 力 ) に 目 覚 め た 満 之 に は、 本 願 と は 外 からの単なる教えに止まらないで、自我の深みから自我を突き破って「我が国 に 帰 れ 」 と 呼 び 続 け て い る 内 か ら の 如 来 の は た ら き ( 本 願 力 ) で あ る、 と 実 感 されたのではなかろうか。つまり本願とは、自分と対照的な教えという意味だ けではなく、自分と一つになり自我の深みから南無阿弥陀仏こそ本当の自己で あ る と、 自 我 を 突 き 破 っ て 名 な 告 り 出 た 如 来 ( 法 ) そ の も の の は た ら き な の で あ 32 33 序章 『歎異抄』再発見

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