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Teaching Methods in the Art Department of Elementary School Aya K

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Academic year: 2021

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(1)

図画工作科内容総合研究の授業構想

小口あや

*

(2020 年 8 月 31 日受理)

Teaching Methods in the Art Department of Elementary School

Aya K

OGUCHI

* (Accepted August 31, 2020)

       

*茨城大学教育学部美術教育研究室(〒 310-8512 水戸市文京 2-1-1; Laboratory of Education, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan).

はじめに

本稿は,茨城大学教職大学院教育課程で行われる図画工作科内容総合研究の授業で育成する学生 像やその根拠,そのための具体的な方法について考察したものである。教職大学院は,「従来の「研 究」を中心にすえた修士課程ではなく,現代的な教育課題に実践的に対応できる力を育てることを 目的として設置される専門職学位課程」1である。学生は大学院の授業において様々な理論を学び,

その理論をもって教育現場での実習を行う。さらに実習先で行った実践を,理論的見地から捉えな おして新たな視点を獲得する2。学生は理論と実践を行き来する学びを経て,実力をつけた教員と なり現場に立つ。

小学校教員として

15

年間教育現場で過ごした本稿執筆者にとって,この理論と実践の往還3 常時行っていたことであった。現場では自身が主体となって教育を推進していかねばならない。ま た,現場で起こるあるいは自分が起こした事象を解釈し,対応していかなければならない。理論と 実践の往還により自分を更新することで,次に出会う子どもや保護者や同僚に対して自分が何をし たのか次に何をすべきかを判断し次の実践に生かしていた。

人類学者ティム・インゴルドは著書『人類学とは何か』で,「人類学とは,世界に入っていき,人々 とともにする哲学である」4と述べる。人類学は,参与観察的なフィールドワークによって規定さ れる5。ティム・インゴルドはその参与観察のやり方を「あらゆる研究は観察を求めるが,人類学 では他者を対象化するのではなく,他者に注意を払うこと,……私たちは人々についての研究を生 み出すというよりも,むしろ人々とともに研究する」6と説明する。

教育現場で教育活動を展開していくためには,教員は教育現場で起こる様々な事象を吸い上げる 必要がある。様々な現象を他人事のように遠くから観察するのではなく,自分の属する社会で起こっ ていることとして自分がどうするかを考える。これは教職大学院での実践における学生のあり方で

(2)

もあるべきだと考える。その一方で,事象に巻き込まれすぎて全体を客観視できなくなってはなら ない。その時に支えなのが,大学院で学んだ理論である。この理論と実践のあり方は,ティム・イ ンゴルドのいう参与観察や人類学のあり方に通ずるものである。

本稿は,人類学者ティム・インゴルドの言説や金子一夫の美術教育学の知見,本稿執筆者が教育 現場で経験し得たことを基に,図画工作科内容総合研究の授業をどのように行っていくか考察し提 案するものである。

育成する図画工作科担当教員像として

小学校では多くの場合,自分が大学や大学院で専門的に学んだ科目以外の教科も教えることにな る。本稿執筆者で言うならば,小学生に図画工作だけでなく算数や体育も教えていた。小学校全科 について学んできているとはいえ,専門に学んだことのある教科とそうでない教科とでは,相対的 にその教員の中で得意な教科とそうでない教科となる。幸いなことに,小学校現場には自分の苦手 な教科を得意とする教員が存在することがある。そういった教員から学ぶ教科内容や教科実践の知 は,大変大きかった。反対に自分が図画工作科について助言することも多々あった。図画工作科を 専門とする教員は大変少なかったので,図画工作科というか美術全般の砦という立場になっている という使命感があった。特に図画工作科の教科性は独自なものがあり,丁寧な説明が必要になっ た。こちらが感覚で理解していることや確認するまでもない美術の前提だと思っていたことが,人 によってはそうではないということも知ることもあった。その時にはその感覚や言語化していない 前提を言語化して,論理的に伝えることが必要となった。その時に支えとなったのが,美術教育学 理論や美術理論,自己の制作や鑑賞経験であった。

ティム・インゴルドは,人類学は「物事がどうなっているのか,つまり私たちの住まう世界や私 たちがどのように世界に関わっているのかについての私たちの考えに対して,他者が提起する試練 に向き合わなければならない」7と述べる。この言葉は,図画工作科を担当する小学校教員時代に あった前述のような立ち位置を思い起こさせる。教育現場では,自分が持っている美術に対する理 論や信念とは全く逆の理論や信念に遭遇することもあった。図画工作科担当教員としての姿勢は相 手の意見を覆して従わせようとするものではなく,どうしたら図工・美術が子どもの生を豊かにす るかを共に考えることであった。そのために,相手と自分の考えが何を根拠に生まれたものなの か,その考えは我々の世界の中でどのように組み込まれているのかを読み解くことが有効であった。

ティム・インゴルドの,「参与観察は人々とともに学ぶ方法である。これは,他者の生を書くこと に関するものではなく,生きる方法を見つけるという共通の任務に他者と共に加わることに関する ものである」8という言葉に通ずる。

そこで教職大学院で育成する図画工作科を専門とする教員像として,金子一夫の述べる「実践者 にして研究者」像を提案する。金子は「実践者は,眼前の児童生徒という切実さから実践において 失敗はできない。学校という組織・共同体,同一性空間で生きる。それに対し研究者は上記の切実 さはない。研究者集団である学会は,共同体ではなく組合に近い。この二つを演じわけるのが,「実 践者にして研究者」像である」と金子は説明する9

 

(3)

児童の活動の幅の広さ

図画工作科の学習は,製作であれ鑑賞であれ,その時間の大半を児童の活動が占める。そして製 作も鑑賞も誰かの真似ではなく,その児童独自のものが出現することが望まれる。よって,作品に 何を表すか(内容),どのように表すか(形式),何で表すか(形成)は児童が決めることが多い。 

この図画工作科の表現活動は,音楽科の授業での曲を作る学習と似ているかもしれない。ただ,

曲作りの学習が時々行われるのに対し,図画工作科では常に自分の作品を作る活動が行われる。

国語科の授業で詩や物語を作る学習にも似ているところがある。しかし,詩や物語を書くには,

つまり表現活動を行うにはまずは文字や文を書く知識や技能が必要になる。もちろん図画工作科で も表現するための,例えば用具や素材についての知識や技能は必要である。ただ,図画工作科では 例えば絵の具を紙にこすりつけてできたしみや,粘土を握った形に造形的な力を見出すこともでき る。

体育科での体の動かし方や算数の問題の解き方のように,子どもであっても大人であっても目指 すべき型がある程度決まっている学習とも異なる。子どもの描画発達段階が示しているのは,子ど もには子どもの絵の描き方があり,それは子どもの世界の捉え方があることを示している。よって,

小学校

1

年生の児童が描いた図式的表現の描画を,知識・技能が足りていないから大人のように写 実的に描けないのだとは見なさない。

もちろん鑑賞活動でも,作品から何をどう感じるかについても児童の意見が尊重される。作品か ら感じたことをどのように記述してもそれは個人の思想の自由であるので認められる。他の教科の 記述問題とはここでも異なる。被教育者の活動のこの幅の広さは,図画工作科ならではのものであ る。

図画工作科教育の課題 

児童のこの活動の幅の広さは,他教科にはないものである。そしてこの図画工作科の特性は,児 童が行った表現や鑑賞が,そのままその授業の教育内容になるという図画工作科ならではの課題と なって表れやすい。

小学校現場にいるときに,同僚から図画工作科の授業で何を描かせれば(作らせれば)よいのか という質問を何度も受けた。だが,一度も何を教育内容とすべきかとは聞かれなかった。本稿執筆 者も聞かなかった。我々のこの会話には作品製作という児童の活動だけがあって,何を学習させる のかという教育内容についての言説が欠落していた。作品を作る活動をするだけで教育内容が身に つくはずであるという論理展開になっていた。大抵の場合,教育内容が何かということは明確に言 葉にされることはなかった。

この傾向は美術科教育全体にみられる問題であると金子は指摘する。そして「教育内容・教材の 理論的不在」として以下のように述べる10

教育内容は児童生徒が学習(理解・獲得)すべく設定された内容である。それゆえ教育内容は学 習主体の外部に想定される。美術教育は他教科と比較すると教育内容の基礎となる学問体系が明確

(4)

ではない。……教材の多くは創作活動である。児童生徒が創作して教育内容を実現する。すなわち 学習(理解・習得)されて初めて教育内容となる論理は可能である。

ただ,その論理では,学習者も教育内容を学習して初めて学習者となると言わなければならない。

……さらに被教育者が教育内容をつくるのであれば,教育結果の責任は論理的に被教育者にある。

例えば絵の具や電動糸鋸,どの用紙を使うか等の用具や材料の使い方を身に着けるといったこと が教育内容ならば明確である。しかし,図画工作科は用具や材料の使い方を身に着けることだけが 教育内容とはならない。また本稿執筆者は,同僚から遠近法の指導の仕方つまり写実的な絵の描き 方の指導についての助言を求められることも多々あった。しかし,写実的に描けるようになること が図画工作科における絵の指導の最終目標ではない。それは皆了解していたが,それでは何ができ るようになっている児童の姿を目指せばよいのかよくわからないままであった。

本稿執筆者は感覚では理解していたが,当時それを言語化することが難しかった。結局,とりあ えず作品を作ったり鑑賞させたりすれば,教育内容が達成されるのであろうという展開になってい た。これは教育内容が教師に設定されるものではなく,児童の内部に存在するものとしてとらえた ことになる。小学校教員としてのこの記憶は,金子が指摘した教育内容の不在が現れた場面であろ う。

本来であるならば,教師は児童の成長のために教育活動を行う。目の前の児童の成長に有効な教 材や教育方法を考える。児童の表現や鑑賞が図画工作科の授業を作るというのであれば,教師はい らない。図画工作科にも教育内容は存在する。

図画工作科教育課題の克服

図画工作科は,美的な感覚を養う教科である。そのために用具や素材の使い方や様々な技法を身 に着ける。それを金子は理科の教育内容と比較し,「理科教育が感覚・感情に影響されない科学的 真実を追求させるのに対して,美術科教育は科学的真実で否定されがちな感覚・感情的真実を追求 させることが違う」11と述べる。他教科との違いを明確にし,教育内容を考える上での基盤とす ることが大切である。そして,それらを明確に他者に伝えられるよう言語化できるようにしておく ことが,小学校における図画工作科教育の砦としての役割を果たすことにつながる。

そして,教員が決定すべき当該授業の教育内容と児童が決定すべき表現の内容・形式・形成的側 面や鑑賞の感受内容は区別してとらえるべきである12。その授業で何を教えるか(教育内容)は,

教師が決定し,それに合わせて教材や教授方法を決定し児童に示す。教育内容つまり目指すものが ゆるぎなくとらえられていれば,後は状況に合わせて教材や教育方法を工夫するだけである。

図画工作科内容総合研究では,美術の教科専門と教科教育の教員がティーム・ティーチングで教 えることになる。図画工作科の教育内容をとらえるために,教科専門教員の美術についての深い知 見が生かされる。そしてそれを他者に伝わる教育の言葉に置き換えるのには教科教育からの視点が 生かされる。本授業では図画工作科の砦として教育現場に立つことになる学生に,図画工作科の教 育内容をつかむ力,そしてそれを他者に伝える力を身につけさせたい。

(5)

図画工作科内容総合研究での活動

学習指導案や授業には,教材研究の充実度が如実に表れる。これは図画工作科だけでなく,全教 科に言える。教材研究を充分にしている場合は,教育内容が明確である。そして教育内容を実現す るための具体的かつ現実的な指導方法が考案され実践されていく。

ただ,授業では予期せぬ出来事が大抵起こる。学習集団には様々な児童がいる。児童によって指 導方法を変えることも考えなければならない。学習者側だけの問題ではない。教員によっては話す ことに慣れていない状態で児童の前に立つ場合もある。それでも授業を展開していかなければなら ない。これらを克服するのには現場経験も必要であるが,まずは教員が教育内容をしっかり見据え ておくことが重要である。図画工作科内容総合研究では,図画工作科の教材研究をする活動を通し て教育内容をつかむ力を養いたい。

もちろん図画工作科の教材研究は,他教科と同じようにその授業に直接関係のあることだけを範 囲とするものではない。教員自身の美術の制作や鑑賞経験も大きい。というより,その経験がなけ れば教育内容を見出すことはできない。よって学生には,本授業外でのそれらの活動も積極的に行 うように指導したい。

また,本稿執筆者の授業の受講者である学部学生に図画工作科・美術の授業で何を児童生徒に伝 えたいか尋ねると,多くがその楽しさを伝えたいと答える。もちろん図画工作科は楽しい。ただ,

人や場合によっては楽しくない。そしてそれは責めるべきことではない。楽しいのは個人の結果で あり,楽しくなくても学ばなければならない。学ばなくてはならない教育内容があるからである。

図画工作科・美術科の教育内容が楽しさだけではないことを伝えなければならない。そのためにも 美術についての深い知見を持った教科専門教員との連携は必須である。

図画工作科内容総合研究からの広がり

教職大学院での学生は,学部以上に様々な世界に入りそこから様々な知見を得る。他教科の世界 に入りその知見を得て図画工作科の教育に生かすこともできる。学校現場以外の場所での実習で児 童生徒の多面性を知ることは,図画工作科の授業構想に厚みをもたらすだろう。そしてそれらはす べて学校現場で教育の主体となるためには必要なことである。

図画工作科内容総合研究は,実践者にして研究者像を目指す。実践者にして研究者である教員は,

外部との交流を通して成長し教育に還元する。制作も鑑賞を含む教材研究を行い,美術教育の理論 を持って現場の中に入る。そこで図画工作科・美術科の砦となる。そして自分が住む世界の人々と 共にどう生きるかを問い続け,行動する。図画工作科内容総合研究の授業は,そういう教員像につ ながる授業として構築していく。

1

茨城大学『茨城大学大学院教育学研究科教職大学院案内』(2020),p.2.

2

同書,p.3.

(6)

3

同書,p.3.

4

ティム・インゴルド『人類学とは何か』(株式会社亜紀書房,2020),奥野克巳・宮崎幸子訳,p.20.

5

佐藤和久は「人類学者でたどる人類学の基礎概念

9」(『美術手帳』,2018

6

月号)で,人類学は「参与観 察的なフィールドワーク」という「方法によって規定される」と説明する.そして「それは,ある場に参与 するという身体的な経験のもと,(既成の研究ツールや理論ではなく)自らの全身体を感覚器/メディウムと して世界を改めて感知・経験することを通じて〈他者〉を理解しようとする試みである.それはまた,自己 と世界を多元的にする方法でもある」と述べている.

6

ティム・インゴルド,前掲書,p.16.

7

ティム・インゴルド,前掲書,p.21.

8

ティム・インゴルド,前掲書,p.19.

9

金子一夫「現代美術教育学研究の問題点とその解決-贈与交換論による美術教育の再定義を通して―」『美 術教育学』第

38

号(2017),p.190.

10)

同書,p.185.

11)

同書,p.183.

12)

金子一夫は贈与交換論を基にこの問題の克服を考察している.本稿は金子のこの一連の研究を参考に考察 している.

参照

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