構文は何故、「 未来 進行形」を許容しないのか
?
タイトル(英) Tense and Mood : Why Transitives in Mundari Won't Cooccur with Planning Future?
著者 藤井, 文男
雑誌名 茨城大学人文社会科学部紀要. 人文コミュニケーシ
ョン学論集
号 1
ページ 41‑63
発行年 2017‑09
URL http://hdl.handle.net/10109/13340
藤井 文男
0.はじめに
英語に関する,いわゆる「学校文法」では,文法範疇としての「仮定法」は“時制”の一環 として扱われているらしい(cf. 藤永 2015)
:
(1)
「時制の中、日本人に一番難しいと言われているのが、英語の仮定法です。」もちろんのこと,「(一般)言語学」なり「英語学」を専攻する大学院生ともなれば「時制」
と「法」が基本的に別カテゴリーであることを認識し,言語学的にも両者を厳密に区分す ることにさほどの困難は感じまい。しかし学部の初学生にあっては,喩え入試の英文法関連 の問題をスラスラ解ける位のレベルにあっても,「仮定法」とは例えば If it is fine tomorrow,
John will go on a picnic. という「仮定文」中,
「条件節」あるいは「帰結節」のどちらの動詞形態の示す活用形なのか,イマイチ明確ではない者すら皆無ではない。1)
その意味では実際,ネット上の『知恵袋』といった一般ユーザーからの“質問受付”サイ トなどで関連した質問が繰り返されるのも,問題の概念(もしくは「概念区分」)があまり
Abstract
Almost in the same fashion as in English, where transitives, as againt intransi- tives, are rejected to occur in the progressive form when accompanied by expressions referring to future such as tomorrow, next week and so on, Mundari will not allow transitives in the future progress tense. How can this asymetry, common to both English and Mundari, theoretically be accounted for?
In Mundari, however, the barrier for transitives will be removed if certain syntactical conditions are met to enter the so-called “Planning Future”, allowing a wide range of transitives to coocur freely with temporal expression referring to future, whereas in English the periphrastic construction in to be going to is unavoid- able for transitives.
By evolving the notion of “Hyper Sign” for Planning Future in Mundari, the present paper argues that sentences in in this category are no longer “transitive”
but “intransitive” from a syntactical point of view, allowing the progressive form equivalent to English is leaving, is coming etc. Applying the notion of “Hyper Sign” to e.g.
the periphrastic form in will in English, it is pointed out that will in the consecutive
clause might not be conceived of as an auxiliary for Future Tense but the marker for
Subjunctive, which has been lost as the conjugational category in the Present-day
English.
明確に認識されていないことと表裏一体の関係にあることの証左であろう:
(2)
「Q: 仮定法は時制の一致をうけないというのは何故ですか? - A: 仮定法は、あれは形は過去形ですが、正体は「仮定法」というまったく別の形です。全く別物であるので、
他の部分の影響を受ける必要はないのです。」
(2013/3/15)
さすがに(「ベストアンサー」に選ばれていた)この“回答”は「両者は別物」という捉え方を 暗示していて (1) に示されたような問題は回避しているが,「仮定法」とは一体,何なのすら 端的に示さず,何故「別物だと時制の一致を受けないのか?」に質問者が納得できるとはど う考えて思えない。2)
結局のところ,仮に「仮定法」もしくは「接続法」という“文法のカテゴリー”の名称は 知っていて,英語に関してはその使い方や機能はある程度は認識しており,いわゆる「英文 解釈」や「英作文」など実践面ではそれなりに不便は感じないながらも,やはりその言語学 的「本質」についてはイマイチ... というのが実態なのではあるまいか? 一般的にはだから:
(3)
「みなさん、“仮定法”についてどんなイメージをお持ちですか?『時制をズラしたり助動詞をつけたり意味わかんない(怒)』『学生時代は丸暗記 でどうにか乗り切ったけど、ぶっちゃけ何のことかよく分かっていない。使うな んてもってのほか... 』
そのような方も多いのではないでしょうか?」
(from: EnglishLab 2016/6/24)
3)といった認識に落ち着く,ということなのだと思う。
「仮定法」か「接続法」かという“名称の問題”はさて置き,何故に “subjunctive” は「学 校文法」的扱いの枠組みとしても把握しにくいのだろう? ある意味では「名称の問題」と表 裏一体の関係にあるとも言えるのだが,よく知られるように英語に限らずこの文法の“カテ ゴリー”を持つインド・ヨーロッパ諸語に於いては特に “Subjunctive Present” が,「直説法 現在」と広範に亙って形態的に重複するという構造的問題がある。4)周知の如く,中でも英 語はそうした域を遙かに越えているわけだが,他の文法のカテゴリーと同様,英語は旧来の
subjunctive が担っていた「文法的機能」をいわゆる periphrastic な,言わば syntactical な手
段によって表現しようとする:(4) a. Ger. Zuerst schäle man die Kartoffeln... ‘Peel the potatos first... ’ (cf. ind: schält) b. Eng. Long live the Queen! / God save the Queen!
c. Eng. May he succeed!
ドイツ語ではそれでも「接続法現在」は文法のカテゴリーとして“活き”ていて,
(4a) のよ
うに料理のレシピー的文体など,単独の文表現(基本的に「主節」)でも多用されるのに対 し,英語では (4b) のように “idiomatic” な定型表現以外では (4c) のように may などの“話法 の助動詞”による「迂言用法」に頼るのが一般的であり,且つそうした用法ですら擬古的な 響きがある。とは言え,いわゆる「仮定文」などに於ける「条件節」での“接続法”(つまり,英語の
“学校文法”で言うところの「仮定法」)では,
if という接続詞が,自身によって導かれる節
が単なる「仮定」の下での言説であって「事実」を述べるのではないことを暗示することか ら動詞の活用形を形態的に「仮定法」もしくは「接続法」にするまでもなく,むしろ「直説 法」で“代替”することさえ可能であるのに対し,主節に埋め込まれる構造の従属節には「直 説法」も「接続法」もとり得る to insist のような動詞が主節に用いられる場合,「迂言用法」は唯一,当該動詞の活用形が「接続法」であることのマーカーたり得る:
(5) a. Eng. If it is fine tomorrow, John will go on a picnic.
b. Eng.
(*
)If it be fine tomorrow, John will go on a picnic.
5)c. Eng. John
insiststhat Paul and Mary live in London.
d. Eng. John
insiststhat Paul and Mary should live in London.
意外にも,アメリカ英語の方が (5c) のような多義性を持つ表現を多く残すのは周知の通り である。6)
これまでに述べてきたことを総じてみるとつまり,現代英語に於いては“形態論的概念”
としての狭義の「仮定法」もしくは「接続法」は既に“滅び”
:
(6) a. 接続詞 if +
「直説法」(「現在」もしくは「過去」)b. 特定の動詞語彙([+ optative] [+ emotional] etc. の意味組成) + should/原形不定詞
といった,ある種の「迂言用法」が旧来の文法のカテゴリーとしての subjunctive を代替し ていると考えられるのではないか? そして (6a) と (6b) はそれぞれ“別機能”で“別カテゴ リー”を形成しながらも,「直説法」に文法的に対立するという意味ではこれと同様,やは り「法」の dimension を構成すると理解できるのである。
ソシュールの「一般記号論」的に対象を把握しようとするのであれば要するに,旧来 の »signifié« はそのままに,それまでは典型的には人称語尾の形態的活用で示されていた
»signifiant« が廃れ,端的には「接続詞」や特定の「動詞語彙意味素」といった“新形態”
もしくは “syntactic features” が »signifiant« を構成して新たな「記号」を構築した,と捉え ればいい。
問題は唯一,「新記号」の »signifiant« は,ソシュールは暗黙の了解としていたように考え られる,特定の signe に関してその signifinant と signifié の“一対一の対応”が担保されて いない,という実態だ。上掲 (6) の例では,“同記号”でありながら (6a) の »signifiant« は「接 続詞」(具体的には if)で (6b) の方は[主節]動詞の特定語彙もしくは特定の「意味素」とい うことになって伝統的な「品詞」概念で捉えられないばかりか,形態に対する“イメージ”
と定義されるソシュールの signifiant の概念自体からも相当に懸け離れている,と言わざるを 得ない。しかしながら,こうした事態こそが正に「対象が捉えにくい」ということの実態な のではないか?
具体的にはつまり,英語の「仮定法」も »signifié« としての“仮定法”ばかりが我々の脳 裏にこびり付いているのに,対応するはずの »signifiant« はなかなか鮮明にイメージできな い... 。複数の“形態”もしくは “syntactic markers” がバラバラに“浮遊している”ような状 態なのだから,そのことはむしろ当然なのかも知れない。要するに,我々は偏に(英語の)
文法のカテゴリーである「仮定法」をソシュールの言う意味での「記号」として位置づけら れないでいる,ということなのではないのか?
本稿では以下,ムンダ語に於ける「計画未来」に見る “syntactic irregularities” の問題を通 し,一般言語学的議論でも度々,遭遇する「法」と「時制」を巡る“混乱”を整理するため の記述上の概念として,(ソシュールの「一般記号論」では想定されていない)新たな「記号」
概念である “Hyper Sign” の有用性を論じることとしたい。
Ⅰ. 「時制」と「法」は基本的に“別カテゴリー” : 理屈では分かる ! でも ...
上掲「はじめに」でも記したように,言語学を専攻する者であれば「『時制』と『法』は基 本的に“別カテゴリー”」であること自体,概念的にはある意味で百も承知であろう。にも 拘わらず,一般に両概念は往々にして混同される。「はじめに」で既に暗示した通り,実態 としては恐らく,少なくとも我々日本人には印欧諸語の「法」の概念が分かりにくく,結果 として「時制」の大枠の中で“時の概念”を基軸にして「法」を解釈しようというスタンス となるものと思われる。
実際,日本語にも英語が示すような時制概念が当てはめられる部分が多いのに加え,「法」
と関連しているように思える,モダリティー的カテゴリー,例えば irrealis 等も「明日,も し太郎が来たら... 」のようにパラフレーズできるし,対立する realis の「明日,もし太郎が 来れば... 」との区分は“過去を表わす「た」”による... のような解釈が可能なわけで,「過去 形を現在または未来に用いると,実現不可能な事態に対する仮定を表わす」(=「仮定法過 去」)のはある種の syntactical universal か... ? などと妙に納得してしまうからである。7)
こう
した現実に鑑み,ムンダ語の「計画未来」の問題を取り上げる前に,以下では簡単に英語の「時制」と「法」を巡る諸問題を整理しておくことにしたい。
まずは接続詞の if で導かれる「仮定節」もしくは「条件節」で用いられる動詞の形態だが,
学校文法の教えるところでは「仮定法現在」が用いられると“「現在」または「未来」の,「蓋 然性」のある仮定”を表わすという:
(7) a. Eng. If it is fine tomorrow, John will go on a picnic.
b. Eng.
(*
)If it be fine tomorrow, John will go on a picnic.
c. Eng. * If it is fine tomorrow, John go on a picnic.
d. Eng. * If it is fine tomorrow, John goes on a picnic.
実際にはしかし (7a) のように「直説法現在」が用いられ,現代英語では“明確”な接続法
be
8)を持つ動詞語彙 be 動詞でも形態的には「仮定法」は使われない。
問題はしかし,「帰結節」の法である。と言うのは,
if-Clause が「仮定」しか示さず,事実を
描写するわけではない以上,帰結節の内容も“事実”そのものではなく,あくまでも当該仮 説の枠内での事態,つまりやはり実態としては「仮説」でしかないはずで,理屈からすれば ここにも「仮定法現在」が使われて然るべきだと考えられるからである。然るに,「帰結節」で用いられるのは (7) の例で言えば (7a) (7b) のように will (go) であり,
(7d) のような「直説法現在」は論外であるにしても形態的に「仮定法現在」であるはずの
go は非文法的となる (= 7c) 。つまり,
「帰結節」に「接続法現在」は現われないのである。これは一体,どうしたことか?
この問題はしかし,同じコンテクストで用いられるドイツ語の例と比較してみると意外と 簡単にポイントが浮かび上がってくる:
(8) a. Eng. If it is fine tomorrow, John will go on a picnic.
b. Ger. Wenn es morgen schön ist, geht Hans zum Picknick.
主節・従属節共に語順が若干,異なるので少し比較しにくいが,ドイツ語の (8b) geht は「直 説法現在」で,英語の will に相当する助動詞 wird を用いることもできなくはないが,未来 に対する“仮定”に可能性があれば敢えて使う必要はなく,本動詞を直説法で活用させれば
十分だ。9)
つまり,
「仮定文」に will が必須となるのは英語の問題であって「仮定文」の必然ではない。英独語で唯一,共通するのはだから,「条件節」でも「帰結節」でも動詞の形態 は「仮定文」であっても実質的には「直説法」ということだ。
「未来」に対する“仮定”に蓋然性がない場合はしかし,もしくは「現実」とは異なる実態を
“仮定”する時は,些か事情が変わってくる:
(9) a. Eng. If it were fine tomorrow, John would go on a picnic.
b. Ger. Wenn es morgen schön wäre, ginge Hans zum Picknick.
(9b) に於ける主節(帰結節)の Ger. ginge も従属節(条件節)の Ger. wäre も「接続法過去」
であり,ドイツ語も irrealis では「仮定文」全体を「接続法」を用いて表わすのが原則なのだ。
更に,
irrealis に於いて英語では「帰結節」に would が現われ,これが realis の will に対応
することから形態的には would は will という「直説法現在」を「直説法過去」に活用させ たもの,ということになる。ドイツ語と違って形態的には直説法のままだが,未来の「帰結」には「現在形」(もしくは“未来形”)を用いず,敢えて「過去形」を用いることで「蓋然性 はなく,単に理論的可能性のみを述べる」という点で「接続法」の機能は担保されていると 考えられなくはない。英語の would は単に「直説法」と「仮定法」が形態的には区分でき ない,というだけのことだと理解してもいい。
「条件節」ではしかし,英語でも irrealis では単数なのに were という,本動詞としては唯一,
「仮定法過去」であることが判断できる形態が現われることから,
be 動詞以外の本動詞が「直
説法過去」に活用されるのは単に,両方の法が形態的に区分できないという,英語に特徴的 な構造に起因していると判断するしかなく,「条件節」でも本来的には明確に「接続法過去」が求められている,というのが実態であろう。
このことをまとめると,次のようになる:
(10) German English
Conditional: Consecutive: Conditional: Consecutive:
a. Realis: ind Present ind Present ind Present ind Present (will) b. Irrealis. sbj Past sbj Past sbj Past sbj Past (would)
このまとめに挙げられた動詞活用形の形態を言語学的に解釈すると,ゲルマン語(もしくは 少なくとも英独両語)の「仮定文」に関しては次の三点が浮き彫りになってくる:
(11) a. Realis
は「仮定文」でも「直説法」が対応し,「接続法」は出る幕がない。10)b. Irrealis
は「接続法過去」の独壇場だが,非直説法のため“時制”ナシ。c. 英語の will/would は「仮定文」に於ける「帰結節」の,ある種のマーカー。
11)「はじめに」でも暗示したように,(特に英語[学習]で特徴的な)「法」と「時制」を巡る 混乱の主要因は特に「仮定文」の「条件節」に関し,次のような捉え方をすることに起因し ていると言っていい:
(12) a.
「未来」に関する“仮定”には「現在形」(直説法)を用いる。b.
「現在」の実態と逆の状況を“仮定”するには「過去形」(直説法)を用いる。c.
「過去」の事実を否定する事態を“仮定”するには「過去完了形」を用いる。このように,「直説法」しか示し得ない“時制”を前提にした物言いをすれば,「仮定文」に 於ける「条件節」の動詞定形は,“通常”の文表現と違って「“時制”を一段階ずつ“後ろ”
にズラしていく」という認識しか出てこないのは火を見るより明らかだ:
(13) a. Eng. If it were fine today, John would go on a picnic.
b. Eng. * If it was fine today, John would go on a picnic.
c. Eng. * If it is fine today, John went on a picnic.
d. Eng. If John went to Tokyo, Mary would go there together.
(e. Eng. If John had gone there yest., Mary would have gone either.)
実際には (13a) のように「接続法」(過去)の形態が現われているのに,大多数のケースが この「条件節」では「直説法過去」(複数形)と同形のため,単数で使うことの違和感は残っ たとしても were をどうしても「仮定文」との関連だけで捉えてしまい,「接続法」というカ テゴリーを想起するには至らない... 。(11b) で端的に指摘したことだが,「過去」という名前 は付いて回るにしてもそれは語幹が「直説法過去」と基本的に等しいために付けられている
“便宜上”の名称に過ぎず,「接続法」もしくは「仮定法」と“文法のカテゴリー”としての
「時制」は根源的に共起しないことを改めて意識し直しておく必要があろう。
端的には (11a) が取り上げているように,ここでより重要なのは「仮定文」では realis 表 現がドイツ語でも英語でも「直説法現在」で示されることであろう。対する irrealis が「接 続法」をとるわけだから,シンメトリカルに言えば realis も「直説法」ではなく「接続法」
(現在)で表現されて然るべきである。実際,既に上でも指摘しておいたように,英語でも 古くは if it be fine tomorrow... のような言い回しが可能だったのだから,「接続法現在」が根 源的に「条件節」と共起できない,という事態はイメージしにくい。同様に,英語が「帰結 節」の方で未来を表わすのに will という助動詞を用いることも合点がいかない。同じゲルマン 語でもドイツ語やオランダ語,スカンジナビア諸語などは「直説法現在」がそのまま未来表 現でも流用でき,文法のカテゴリーとしての「未来時制」はロマンス語などと違って不要だ からだ。仮に realis の「帰結節」で will などの助動詞が用いられなかったとしたら,英語と て irrealis の「帰結節」でも would などは発生しなかっただろう。
不思議と言えば,特に英語では「未来」を表わす表現がかなりあって,これらを文法のカ テゴリー「未来時制」として引っ括ることは理論的には可能だが,「意味」と言うか文法的
「機能」は互いに微妙に異なって,我々外国人には取っ付きにくい部分ではある:
(14) a. Eng. John will leave for Tokyo (tomorrow).
b. Eng. John is going to leave for Tokyo (tomorrow).
c. Eng. John is leaving for Tokyo (tomorrow).
d. Eng. John will be leaving for Tokyo (tomorrow).
(14b) と (14c) は「近接未来」などとも呼ばれるが,何れも next year などとても“近接”し
た未来とは言えないような時を表わす表現とも共起する。更に“不思議”に感じるのは,例えば to leave のような動詞は (14b) とも (14c) とでも共 起し得るが,次のように to kill は to be going を助動詞的に使った時は可能なのに,単純な“進 行形”とは共起できない:
(15) a. Eng. John is coming
φ tomorrow.b. Eng. * John is killing Mary tomorrow.
c. Eng. John is giving a party tomorrow.
(15c) が文法的に問題ないのだから,自動詞なら良く,他動詞だとダメというわけでもある
まい。本稿は以下で,ムンダ語に於ける「計画未来」とでも称すべき文法のカテゴリーが「はじ めに」で暗示した一種の “Hyper Sign” であるという解釈を示すことを通し,英語などに見 られる“準未来時制”の表現形態が何故,これほどまでの多様性を見せるのかについて,基 本的には「法」の観点から迫ってみたい。
Ⅱ. 「発端」 : ムンダ語に於いて“未来進行形”は何故、他動詞構文で拒否されるのか ?
「ムンダ語」はジャールカンド州を中心としてインド北東部に居住する少数民族「ムンダ族」
の固有語で,類型的には孤立語に近いモン語派と同様,オーストロ・アジア語族に属すとさ れながらも(三上 1992; 92a; 92b),極めて精緻な Agreement 現象を示すことで有名である。
この syntactic phenomena は一般的な Subject Agreement に加え,動詞定形が目的語とも文法 的に一致する Object Agreement まで完備しているが,後者には何と「直接目的語」と「間接 目的語」にはそれぞれ専従の Agreement Mechanism が完備していて,
Agreement の実態を精
査すると当該動詞構文の“意味組成”といった「動詞語彙の意味構造が垣間見られる」ほど の豊かなシステムを構築している(cf. 藤井 2014)。ムンダ語の Agreement System は原則として,Subject Agreement であれ Object Agreement であれ,主語もしくは目的語として位置づけられる名詞表現が [+ animate] の属性を示す場
合にのみ誘起されるが,主語が [
- animate]
の場合は言わば「非人称表現」となって,動詞定 形の末尾に付される Agreement Marker は完全に脱落する。この時も Object Agreement は原 則として機能したままにできる上,動詞語彙に対する特定の形態的操作を施してある種の“活 用”をさせることで,この言語は一見,Ergative System のような容貌を覗かせることもあっ
て,興味は尽きないものがある(cf. 藤井 2017)。次の (16a) が示すのは,動詞語彙 senog ‘to go’ を本動詞として使い,
tan ‘to be’ を助動詞
的に組み合わせた periphrastic な表現形態で,言わば「進行相」「持続相」といったアスペク トを示す動詞構文に,未来を表わす表現 gapa ‘tomorrow’ を挿入した文表現である。主語は 文頭の Mangra (人名 masc.)で,助動詞的に用いられる動詞定形 tan-a-e (be-ind-3SG) の語
末母音 -e と一致している:(16) a. Mangra
gapaRanhci
12)senog tan -a -e. ‘Mangra is going to Ranchi tomorrow.’
b. * Mangra
gapamandzi jom tan -a -e. (‘Mangra is eating rice tomorrow.’)
13)Mangra tom. R./rice go/eat dur -ind - 3sg
文意は全体として意訳の英語で示した Mangra is going to Ranchi tomorrow. とほぼ同じで,
“to go” という動詞語彙は使われているが,陳述の対象である Mangra の出発自体はもちろん
今現在ではなく,明日になってからである。つまり,言わば一種の「近接未来」とでも呼ぶ べき“時制”カテゴリーを表示していて,ニュアンス的にも Eng. Mangra will go to Ranchitomorrow. よりも to be going で示される表現方法に近い。
問題は,(16b) のように本動詞として jom ‘to eat’ のような語彙を用い,Eng. is eating と いった意味を示そうとした場合で,これは非文法的になってしまう。何が問題なのか? 上で
「進行相」とか「持続相」といった“アスペクト”的概念に言及したが,
jom tanae の tanae
は文字通り Eng. is に相当し,基本的には「現在時制」もしくは「発話時の状況」をマーク するわけだから,Eng. is eating と同様,時制的には「現在時」を指し示すはずで,
「動作時」もしくは「動作開始時」が未来であることを暗示する gapa ‘tomorrow’ とは共起しないのが 問題なのか? だとすれば,時間表現を naqa ‘(right) now’ に変えてみれば非文法的ではなく なるはずである:
(17) a. Mangra
naqaRanhci senog tan -a -e. ‘Mangra is going to Ranchi right now.’
b. Mangra
naqamandzi jom tan -a -e. ‘Mangra is eating rice right now.’
試してみると実際その通りで,今度は senog ‘to go’ でも jom ‘to eat’ でも問題なく文字通り
「現在進行形」の迂言表現ができ上がる。当然ながら,
naqa を “right now” の意味で使えば,
(17a) の Mangra は既に出発しているが,基本的にはまだ目的地の Ranchi には到着しておら
ず,路上(もしくは車中)にいることを表わす。14)
同様に, (17b) が表わすのは正しく「現在
進行相」のアスペクトで,話者は発話時に「Mangra は食事の真っ最中」であることを告げ ているわけだ。この点,ムンダ語の V-tanae 表現は英語で示された「現在進行形」と基本的 に何ら変わりがない。15)では改めて何故,senog tanae ‘is going’ は未来を表わす時間表現 gapa ‘tomorrow’ と共起 できるのに対し,
jom tanae ‘is eating’ はダメなのか? 動詞語彙の“意味組成”に関しては,
現在時制で用いられる限り senog は必ずしも Eng. leave や Eng. start といった「出発点」の みを表わす Abruptive ではなく,いわゆる「持続期間」を内包する Durative であって,この 点は jom ‘to eat’ も同様のはずだ。もちろんのこと,上でも繰り返して暗示しているように 英語でも to be eating を未来表現で用いるのはムリなのだが,そもそも何が gapa ‘tomorrow’
との共起を阻害しているのか?
意味としては,
(16b) で言いたいのは (16a) の「Mangra は明日,Ranchi へ行こうとしてい
る」とパラレルに,「Mangra は明日,御飯を食べるつもりだ,食べることにしている」といっ た程度のことで,何れも“近接未来”とでも呼ぶのが相応しいか... ? 要するに,「未来」と は言っても不確かな言説などではなく,むしろハッキリ決まった「予定」や「計画」に属す ような行為を表わそうとしているわけだ。基本的に,そうした予定や計画が狂うことは想定 されていない時の言い方のわけで,逆に英語で“話法の助動詞”will で表わされるような,
特定の条件が満たされて始めて成立する「推論」や理論的可能性のみを表現する「接続法」
的な命題は,ムンダ語では助動詞を用いず,現在時制(単純現在)と同様,本動詞本体を人 称に活用させて用いれば済む。16)
だから (16b) で必要なのは,英語で言えば to be going to の
ような,ある種の「近接未来」を表現し得る何らかの助動詞的表現,つまり senog ‘to go’ を“進行形”にする tanae ‘is’ に相当するような何らかの表現なのだ。
英語の「近接未来」の迂言表現 to be going to は to go/to come や to leave 等だけでなく,
to eat など,基本的にあらゆる動詞語彙と共起することができた。しかし対するムンダ語では
どうやら,そう易々とはいかないようだ。つまり,助動詞的に用いられる迂言表現の tanae は senog ‘to go’ や hijug ‘to come’ など特定の動詞専従らしく,jom ‘to eat’ や goj ‘to kill’,ki-
ring ‘to buy’ といった動詞語彙は tanae にはカバーされていない,というのが実態のような
のだ。17)上でも暗示したように,ムンダ語には厳密な意味での「未来時制」は存在しない。基本 的には日本語と同じで,「未来」と「現在」は文法的には区分せず,全ての動詞語彙は人称 接辞を伴うことでそのまま動詞定形となり得るので,18)何らかの“助動詞表現”が付属する 場合,未来表現に関してそれは通常,無標の modality に対して特定のバイアスを掛けるこ とになる。その意味では,
senog tanae ‘is going’ も言わば「単純未来」の senog-a-e ‘(he/she)
goes, will go’ に対する「近接未来」(“将に行こうとする”)もしくは「予定未来」(“行くこ
とになっている”),「計画未来」(“行くつもりだ”)的バイアスと捉えればいい。
結果から言えば,英語に於いて to be going to (“近接未来”)でパラフレーズされるような 表現形態で jom ‘to eat’ や goj ‘to kill’,kiring ‘to buy’ などと共起できる助動詞的表現につい ては,実はフィールドワークのかなり早い時期から情報を得ていたことを思い出す。それが
taq-a-e という“助動詞”である:
(18) a. Mangra
gapaRanhci hijug tan -a -e. ‘Mangra is coming to Ranchi tomorrow.’
b. * Mangra
gapamandzi jom tan -a -e. (‘Mangra is going to eat rice tom.’) c. Mangra
gapamandzi jom taq -a -e. ‘Mangra is going to eat rice tom.’
上でも触れたように,文法的な (18a) に対して jom ‘to eat’ を使った (18b) は tanae の関係で 非文法的になってしまうが,tanae を taqae で置き換えれば (18c) のように全く問題がなく なるのだ。
今回の「計画未来」は“自動詞系”の tanae に対応する“他動詞系” 19)
の助動詞の形態を
求めて彷徨ったことで遭遇した “Transitivity” に関する難関だったが,問題と Modality に沿っ て取り組んだ結果,本動詞を人称活用させただけの,いわゆる「単純未来」との対比を“計 画未来”の概念で浮き彫りにしようとする過程で摑んだ taqae なる助動詞が tanae に対する パラレルを敷いていたとは当時,夢想だにしなかった。今から思えば,自分の実践してきたムンダ語に関するフィールドワークのかなり早い時期 から,ムンダ語に於いては時制・アスペクト標示の助動詞に本動詞の Transitivity に関する 情報がマークされることを摑んでおり,自動詞系助動詞は語根を締め括る子音が -n-,他動 詞系は対象箇所が -d- でマークされることを知ってはいた(cf. 長田 2001: 46f.)
:
(19) a. Mangra hola
φgoj kanae. ‘Mangra died yesterday.’
b. Mangra hola
φgoj kajae. ‘Mangra killed someone yesterday.’
Mangra yesterday d./k. res:ind:3sg
c. Mangra hola
φnir kanae. ‘Mangra escaped yesterday.’
d. Mangra hola
φnir kadae. ‘Mangra jogged (much) yesterday.’
Mangra yesterday e./j. res:ind:3sg
(19a-b) に於いて本動詞 goj は “to die” (intransitive) と “to kill” (transitive) 間で ambiguous で
あり,Resultative マーカーとして機能する助動詞の両異形態 kanae vs. kajae (< kad-i-a-e)
が形態的に対立することで,仮に他動詞に付随する目的語が表層では表現されていなくと もTransitivity が一目瞭然となる... といったふうである。また,nir という動詞語彙は “toescape” と “to jog” に関してやはり ambiguous であって,
“自動詞的”意味組成を持つ “toescape” の方は Resultative マーカーとして kan- を要求するのに対し,“to jog” の意味を持
つ“他動詞的”
nir を Resultative にするには kad- が必要とされる,という具合だ(cf. 藤井 2015)。
しかしながら,本稿で扱ってきた「計画未来」の tanae vs. taqae の対立は,“自動詞系”
は一般的な -n- をキープしているものの“自動詞系”の方はこれを -d- と交替させるのでは なく,当該子音を乱暴にも完全に脱落させてしまい,その“欠落部分”にいわゆる声門閉鎖 音 <-q-> を挿入するなど,対応が些か irregular であり,問題が Transitivity の対立に起因して いることを即座には見抜けなかった。
然るに,-n- vs. -q- の対立は実は「計画未来」のみならず,他の時制・アスペクトをマー クする助動詞にも存在することが判る:
(20) a. Mangra
holaRanhci senog len -a -e. ‘Mangra went to Ranchi yesterday.’
b. Mangra
holamandzi jom laq -a -e. ‘Mangra ate rice yesterday.’
Mangra yest. R./rice go/eat ter -ind - 3sg
(20a-b) の lenae vs. laqae は Terminative をマークする助動詞で,前者が“自動詞系”,後者
が“他動詞系”という対立があるが,その対立軸は通常の -n- vs. -d- ではなく,“他動詞系”が -q- となる点で「計画未来」に通じるわけだ。20)
ここまでの議論をまとめると,「計画未来」をマークする助動詞には二つの異形態があって,
Transitivity に関して -n- と -q- が対立する,という構図を描いていることとなる。結局のと
ころ,「計画未来」を表出するに際し,助動詞 tanae が jom ‘to eat’ と共起できなかったのは偏に,
jom ‘to eat’ は“他動詞系”の動詞語彙グループに属しているにも拘わらず,
“自動詞系”専用の「計画未来」助動詞 tanae を宛てがおうとしていたからであった。こちらのグループ には「計画未来」用助動詞としては別途 taqae が用意されていた,というわけである。
要するに,問題はやはり Transitivity に起因している,ということになる。次節では更に,
本節では“他動詞系”と位置づけた動詞語彙でも「計画未来」をマークする tanae と未来表 現に於いても共起できる現象を取り上げたい。つまり,具体的には jom tanae ‘is eating’ も 未来を表わす時の表現ともいっしょに使われることがあるのである。
Ⅲ. 「混沌」 : “未来時制”でもやっぱり「進行形」が ... ! ン? ン?! ン?!?!
第 2 節ではムンダ語の未来表現に於いて,いわゆる「計画未来」をマークする助動詞 tanae が特定の動詞語彙と共起できない,という統辞現象の問題を取り上げ,同じ「計画未来」を 表出するにも,本動詞として用いられる動詞語彙がいわゆる“他動詞系”のグループに属 す場合,必要とされる助動詞は tanae ではなく,助動詞語幹を締め括る子音は -n- ではなく
-q- であることを突き止めた。ムンダ語の時制・アスペクトをマークする助動詞は,言わば Transitivity に従って“活用”する,と捉えてもいい。
しかしながら,前節では「“自動詞系”専用」と位置づけ,実際 jom ‘to eat’ や kiring ‘to
buy’ といった“他動詞系”の動詞語彙とは共起しないと判断していた tanae がこうした“他
動詞系”の動詞語彙を用いた「計画未来」を構成する事態は決して例外的,稀... というよう なケースではないのだ:(21) a. * Mangra
gapakitab kiring tanae. (‘Mangra is going to buy a book tomorrow.’) b. Mangra
gapakitab kiring taqae. ‘Mangra is going to buy a book tomorrow.’
c. Mangra
gapakitab kiringai tanae. (?)‘Mangra is buying a book tomorrow.’
Mangra tom. book buy cop:ind: 3sg
前節でも確認したように,「計画未来」の助動詞として“他動詞系”の taqae であれば kiring
‘to buy’ のような動詞語彙も問題なく「計画未来」を構築できる。
しかし,(21c) を見て欲しい。英語による意訳として ‘Mangra is buying a book tomorrow.’
を挙げたが,この英文自体はマージナルな文法性しか示せないかも知れないものの,構造的 には (21b) の ‘Mangra is going to buy a book tomorrow.’ よりも (21c) の原文に相応しいもの と思われる。要するに,表出されるニュアンスとしては正に,
Eng. John is going to New York
tomorrow. のそれなのだ。
しかしながら今度は,「計画未来」の助動詞 tanae ではなく,本動詞 kiring ‘to buy’ の方に 何やら奇っ怪な接尾辞が付いているのが判る。もしかして,この接辞の存在が本来,不可能 な kiring ‘to buy’ と「計画未来」の助動詞 tanae (本来は“自動詞系”動詞語彙専用)の共 起を可能にしているのか?! もしそうだとしたら,それを脱落させることで kiring tanae ‘is
buying’ は「計画未来」としては非文法的になるはずだ。早速,これを取り外してみよう:
(22) a. Mangra
gapakitab kiring -ai tanae.
b. * Mangra
gapakitab kiring -φ tanae.
案の定,
(22b) は非文法的であり,-ai という接辞の存在こそが (22a) の文法性を保障してい
る,ということになる。そもそも,この接辞とは何なのか?
この -ai という接辞,実は Object Agreement を構成していて,「間接目的語」と一致する。
次の例を見てみよう:
(23) a. Mangra
gapa φ kitabkiring -ai tanae.
b. Mangra
gapaSomri-lain kitab kiring -ai tanae.
(23b) に -lain “ben” という接辞を伴った Somri
(人名 fem.)という固有名詞があるが,これ が「間接目的語」で,動詞の語彙表現 kiring ‘to buy’ に付加された -ai “3sg” は「三人称単 数」をマークする。もちろんのこと,こうした間接目的語は必ずしも表層に表現されている 必要はなく,(23a) のように無表記でも文法性に問題はない。要するに,
「誰かのために... 」 という「目的意識」こそが (23a-b) のような「計画未来」を支えている,ということになる。ところで,本稿冒頭でも述べたように,ムンダ語に於ける Agreement を誘発するのは,対 象が「主語」であれ「目的語」であれ,当該名詞表現が [+ animate] の属性を示す場合に限 られる。この認識に立って,次の例を見て欲しい:
(24) a. * Mangra
gapa φ kitabkiring -φ tanae.
(単純な「未来進行」)b. ? Mangra
gapa-lain φ kitab kiring -φ tanae.
(「明日のために... 」)c. Mangra
gapa-lain φ mandzi kiring -φ tanae.
(食料の“備蓄”)上で触れた Benefactive をマークする -lain という後置詞は必ずしも人間およびそれに類する ものだけでなく,
(24b-c) のように例えば「明日」を示す gapa のような時の表現等にも付加
され,
gapa-lain で「明日のために... 」といったニュアンスを動詞語彙の示す行為の目的意
識を暗示するのである。
そして正にこの“ニュアンス”こそが,「計画未来」とも呼ぶべき tanae に軸足を置いた
periphrastic な表現形態を成立せしむる要なのだ。もちろんのこと,(21b) のように“他動詞
系”動詞語彙専用に用意された taqae を用いても「計画未来」は構成し得るが,(24b-c) の
ように「明日のために... 」といった“目的意識”が明確になって初めて,表出される行為 の「計画性」は聞き手に対して“説得力”を持ってくるのではないか? その意味では,(24b) の示す購入対象としての「本」よりも“備蓄対象”としての「米」を明示する (24c) の方がacceptablity が高くなるのも頷ける。そもそも,そうした「計画性」の欠如こそが (24a) の非
文法性を導いている,とさえ認識できるのである。Ⅳ. 「大団円」 : 「計画未来」は構文的には Syntactic Intransitivity
前節までにムンダ語に於ける「計画未来」について議論してきたが,この言語に厳密な意 味で“文法のカテゴリー”としての「未来時制」が存在しない以上,「未来」を標榜しつつ も tan-/taq- を助動詞的に用いるこの periphrastic 表現も,時制的には取りあえず「現在」の 枠組み,もしくは言うなれば「無時制」的に位置づけるしかない。理論的には,例えば「未 完了(現在)」のように「アスペクト」的に捉えて,「完了(過去)」をマークする kenae や
tainae で示される「未完了(過去)」といった過去表現と対比させるのである。
21)上でも触れたように,いわゆる「単純未来」はムンダ語では当該動詞語彙を人称で活用さ せ,助動詞等の periphrasis を用いずに直接,動詞定形とする。では,例えば taqae を助動詞 的に用いる「計画未来」と本動詞を人称活用させただけの「単純未来」の機能上の差異はど こにあると捉えたらいいか?:
(25) a. Mangra
gaparanu kiringae. ‘Mangra will buy medicine tom.’
b. Mangra
gaparanu kiring taqae. ‘Mangra is going to buy medicine tom.’
Mangra tom. medicine buy plfut
「未完了」という“アスペクト”は共通しているわけだから,違いは唯一,話者が「未来」
に於ける同一命題の実現に対してどのような認識を抱いているかにある,と考えるしかあ るまい。「単純未来」の (25a) はこの点に対して単に“無標”であるのに対し,22)「計画未来」
の (25b) では話者はある種の「計画性」を認識していることから,その意味での行為遂行の 蓋然性の高さには納得しているはずである。こうした問題は,「モダリティー」の概念で把 握すべきであろう (cf. Palmer 1986) 。
それでは,同じ「計画未来」でも,このカテゴリーを構成する助動詞 taqae と tanae の違 いはどのように捉えればいいのか?:
(26) a. Mangra
gapamandzi kiring -φ taqae. ‘Mangra is going to buy rice tomorrow.’
b. Mangra
gapa-lain mandzi kiring -φ tanae. ‘Mangra is going to buy rice for tom.’
既に前節までに議論していたように,
taqae はあくまでも“他動詞系”動詞語彙で「計画未
来」を表現するための助動詞だったことに鑑みれば,(26b) のように喩え kiring ‘to buy’ とい
う同じ動詞語彙を使っているにしても,taqae ではなく tanae の方で「計画未来」を構成し
ている以上,(26a) の“他動詞性”を押さえ込んだ上で「計画性」をより強調した,全体と しては“自動詞的”な文表現だと考えたらいいのではないか?ムンダ語に於いて“他動詞語彙”を“構文的に「自動詞化」”するメカニズムは実際,本 稿で論じてきた「計画未来」のみならず,次のような別時制・別アスペクトでもしばしば活 用される,至って体系的な表現手段となっている:
(27) a. Mangra
naqaSomri-ke goj lajae. ‘Mangra is killing Somri right now.’
b. Mangra
naqaSomri-ke goj tanae. ‘Mangra is killing Somri right now.’
c. * Mangra
naqaSomri-ke goj tadae.
23)(‘Mangra is killing Somri right now.’)
Mangra now Somri-obj kill dur
goj ‘to kill’ という動詞語彙が“他動詞”であることがムンダ語に於いても明らかな (27a) の
構文では “Durative” のアスペクトをマークする助動詞 ladae が目的語 Somri-ke と一致してlajae (< lad-i-ae “3sg”) と活用しているのに対し,goj を語彙的機能はそのままに“構文上”
のみ「自動詞化」して扱う (27b) は同アスペクトを標示するのに tanae を助動詞として用い,
当然ながら Object Agreement は誘発しない。24)
(27) のような「持続相」のみならず,アスペクトが「完了相」の場合であっても上述した
「構文的“自動詞化”」は可能だ:
(28) a. Mangra
holaSomri-ke goj kijae. ‘Mangra killed Somri yesterday.’
b. Mangra
holaSomri-ke goj kenae. ‘Mangra killed Somri yesterday.’
Mangra yest. Somri-obj kill pft
もちろんのこと,同じ「完了相」であっても (28a) と (28b) で表出される意味に関しては,
いわゆる「命題」的なものだけは基本的に同一ながら,
Object Agreement を伴う前者が (27a)
と同様,構文的には「他動詞構造」をとるのに対し,後者は「(構文的)自動詞構造」の (27b) と同じく,行為者の Mangra とその行為を受ける立場にある Somri の関係を goj ‘to kill’ の 語彙的意味で描写する“他動詞構文”としては用いられない,というふうに完全に同じと いうわけではない。その意味ではむしろ,tanae は絶対に Object Agreement に関与しないと
いう言語事実が Transitivity に関する構造的対立を裏書きしている,と考えていい(cf. 藤井2009)。
25)いわゆる「計画未来」のような“モダリティー”的枠組みに於いては,構文全体が「自動 詞的」に捉えられるか否かといったカテゴリー上の差異は例えば,次の例のように動詞語彙 に内在する (semantic) Transitivity の度合によって文法性判断に極端な差異が生じるほどシビ アなものであることが窺える:
(29) a. * Mangra
gapaSomri-ke goj tanae. (‘Mangra is killing Somri tomorrow.’) Mangra tom. Somri-obj kill plfut
b. Mangra
gapapatzi em tanae. ‘Mangra is giving a party tomorrow.’
Mangra tom. party give plfut
(29a) のように, goj ‘to kill’ という,恐らく最も“典型的”な「他動詞」を用いようとする
限り,どんなことがあっても tanae による「計画未来」は構成し得ないのに対し,
patzi ‘party’
のように syntactical には「目的語」として位置づけるしかない名詞表現を伴うことから他 動詞と捉えざるを得ない (29b) の em ‘to give’ は,間接目的語との Agreement すら動員せず とも tanae による「計画未来」が可能 26)なのは偏に,patzi em ‘to give a party’ には意味論的
にはほとんど Transitivity を感じ取らないからに他ならない。要するに,ムンダ語としては
patzi em を一種の“自動詞”と位置づけているのである。
そう言えば,英語も一般的に言えば「自動詞」の方が圧倒的に“進行形”による「近接未 来」表現が作り易かった:
(30) a. Eng. John is coming tomorrow.
b. Eng. John is giving a party tomorrow.
c. Eng. * John is killing Mary tomorrow.
その意味では,英語の to give a party も全体としては“自動詞”的に扱われていると解釈し ていいと思う。確かに,パーティーを開くには誰を招待するかから始まって料理の算段,そ して飲み物の調達など,極めて綿密な計画が必要だし,一旦,計画が練り上がってしまえば,
主催者は後は淡々と“仕事をこなす”だけ... 。それはある意味で,「計画性」の極致かも知 れない。要するに,こうした自動詞は既に語彙的にも「計画未来」との親和性が高い,とも 解釈できるのである。
それに引き換え,プロの殺し屋でもない限り「計画的殺人」なんてそう簡単に“淡々と”
実行できるものじゃないはず... 。少なくとも,理論的には如何に巧妙に仕組んだとしても予 定通りの計画遂行を妨げる可能性のある様々な障害は到底,想定しきれるものではない。「殺 人計画」を立てること自体,そもそも倫理的に許されるものではない... 。動詞語彙としても,
to kill someone は,その内容が事前にほとんど“自動化”され,文法的にも“自動詞的”に
扱われることになる「計画未来」には相応しくない,ということなのだと思う。Ⅴ.おわりに
:
二種類の「計画未来」とHyper Sign
としての“未来進行形”本稿を締め括るに当たり,前節までの議論をまとめてみたい。対象を,未来表現に於け る,“他動詞系”動詞語彙を用いる,いわゆる「計画未来」に限ると,問題はこの“モダリ ティー”をマークする助動詞に二種類が存在することだった: 片方は現在表現では「進行 相」を表わし,“自動詞系”動詞語彙では未来表現でも基本的に一貫して用いられる tanae と,
他方は“他動詞系”動詞語彙を例外なく「計画未来」化できる taqae である:
(31) a. Mangra
gapamandzi kiring -φ taqae. ‘Mangra is going to buy rice tom.’
b. Mangra
gapa-lain mandzi kiring -φ tanae. (?) ‘Mangra is buying rice tom.’
両者の違いは,同じ他動詞的動詞語彙を用いながらも tanae を用いて“未来進行形”を構成
する (31b) の方は構造的には「自動詞化」されている,という点だった。どちらも「計画未来」
ではありながら,tanae によって“自動詞化”されている (31b) は,ある意味で「計画の“完 成度”」がより高い,というニュアンスを伴う。言ってみれば,(31a) が日本語では「買うつ もりだ」くらいであるのに対し,
(31b) の方は「買うことになっている」とでもパラフレー
ズする必要があることになる。結局のところ,ムンダ語の「計画未来」は英語の“近接未来”が「(現在)進行形」と to
be going to を用いる迂言用法の二種類があるのと同様,形態的には tanae を用いる「(現在)
進行形」と Transitivity に関して tanae と taqae を使い分ける迂言用法の二種類が対立してい る,ということだ。そして“他動詞系”の動詞語彙を用いる「計画未来」はムンダ語の場合,
最終的には構文上の「自動詞用法」と「他動詞用法」の対立で区分されるのである。27) ムンダ語に於ける両者の対立はしかし,前者が他動詞語彙を用いながらも tanae で標示さ れる,というだけではない。形態的にいちばんのマーキングは,迂言的には「現在進行形」を 構成する構造中,分詞的に用いられる本動詞が原則として「間接目的語」と一致する接辞を 従えることだ。要するに,自動詞用法の「計画未来」は他動詞語彙を用いる場合,その行為 が「誰かのため」という明確な“目的意識”を具現化するための表現手段として機能する,
ということなのである。つまり,
“Indirect Object Agreement” と助動詞 tanae は,少なくとも
両方が揃って初めて単一の“文法のカテゴリー”「計画未来」という言語記号の »signifiant«を構成しているわけだ。
いわゆる「文法のカテゴリー」もソシュールの一般記号論に従えば語彙表現と同様,「言 語記号」ということになるが,ここではムンダ語のモダリティー的「計画未来」のように,
単一の「記号」の signifiant が複数の“形態素”を組み合わせた形をとる場合,当該記号の ことを “Hyper Sign” と呼ぶことにしたい。「計画未来」に関しては,このカテゴリーを構成 する要件が上でも暗示してきたように他にも考えられるので,改めてまとめておくこととす る:
(32) a. Copula + Gerund による「現在進行形」(「計画性 #1」 :
“ 現在”との接点)b. Indirect Object [Agreement]
(「計画性 #2」「人のため」という“目的”意識): c. Transitivity
の低さ(「計画性 #3」: 実行しやすさ)
d. Direct Object に対する Selectionality —
(「計画性 #4」: 計画実行に相応しい対象)
本稿で論じてきた(他動詞語彙を基盤とする)「計画未来」が“自動詞構文”で表現される 場合,形態的には (32a) が示すように「現在進行形」をとるのが大きな特徴だが,この点は 英語と同様,「未来の行為や動作だが,その端緒は今現在,既に開かれている」ことを暗示 するのがその基盤にあり,文法のカテゴリーとしての「現在」ではないにしても,実態とし て「発話時」上の“現在”との接点は外せないところであろう。
第二に,
(32b) が挙げるように,未来に於ける当該行為が「偶発的なものであってはなら
ない」のは「計画未来」としての必然であるとも言える。この点も,英語が問題の「計画未 来」を時制的には「現在」に位置づけ,恰も「端緒が開かれている」くらいに言えるほど確 実な対象のみ「現在進行形」を用いた計画未来文で表現することと気脈を通じる。この点,仮定文のように if などに導かれる条件節が示す状況を前提とした場合にのみ「真」となり 得る帰結節が will を用いる“条件未来”などとは根本的に異なるわけだ。
(32c) の示す「Transitivity の低さ」は,ある意味ではムンダ語に固有のものかも知れないが,
「(現在の時点で)準備が十分に整っていれば,(未来時に於ける)実行は容易くなり,計画 通りにコトが進む」ということも「計画性」を高めることに連動する,ということも難なく 理解できるのではないか? 「コトが進む」という事態は「コトを進める」とは違って,描写 対象を言わば“自動詞的”に捉えることに他ならない。構文的に目的語が置かれていても,
そのことが直ちに典型的な Transitivity を示すことにはならないこと,例えば日本語の「花 子を殺す」と「お茶を淹れる」等を比較対照してみれば一目瞭然であろう。
既に (24a-c) で示したことだが,(32d) の挙げる「Direct Object に対する Selectionality」に 関しても,「計画性」という観点からは「書籍」の購入より「食料の備蓄」といった意味で の「米」を確保する方が明らかに“理に適う”と捉えられる。(32c) に限らず,
(32a) を除い
てそれぞれの項目はデジタル・ヴァリューではなく Contimuum 的スカラで判断されることか ら,文法性に対する判断も相当の幅で揺れるケースが出てくる,というのもその特徴であろ う。英語に限らず,本来はいわゆる「進行相」をマークする Copula + Gerund を未来表現に用 いる「近接未来」を文法化している言語は枚挙に遑がない。本稿でも紹介したように,ムン ダ語もそのひとつだ。ムンダ語に於ける「計画未来」が英語で対応する“代替未来”表現と 根本的に異なるのは,その機能を「計画性」という概念に集約し,様々な形態が複合してそ の機能を担保し,それを Hyper Sign として“記号化”,即ち「文法化」している点である。
本稿冒頭で取り上げた,英語の「仮定文」もしくは「仮定法」もそうした意味での “Hyper
Sign” と捉えられるのではないか? そしてそうすることにより,特に英語のように「接続法」
が形態的に失われつつも機能だけはまだ十分に保たれている「文法のカテゴリー」としての 体系的位置づけも,改めて有機的に確認できるようになるのではないだろうか?
いわゆる「迂言表現」と呼ばれるような分析的表現方法をとっていることだけでも signi-
fiant が複数の要素から成り立っていることを既に暗示しているが,こう考えると英語に於
いて「未来時制の萌芽」とも見なし得る shall/will による未来表現も,当初は「仮定文」の ように文表現全体で帰結文中の shall/will のモダリティーを特定する Hyper Sign だったと解 釈でき,この「文法化」のプロセスを新たな角度から再検証する糸口も摑める,と思うので ある。注
1) もちろんのこと,さすがに前掲文では if -Clause の is を「仮定法」と特定できる者が大半だが,中
には帰結節の will (go) をそれと捉える者も皆無ではない。また,この場合の is は理屈から言えば
「仮定法現在」になるわけだが,形態は「直説法現在」と完全に同形であり,両者の違い(もしく は同形の理由・背景)が何なのかを的確に把握している者は,is の方が「仮定法(現在)」である ことを認識している者でもほとんどいないのが実態である。次の点については後述するが,「条件 法」の名称はともかく,帰結節の will (go) が示す文法上の「法」についての認識は基本的に全く 共有されていない,と言っても過言ではない。
2) この「回答」が何故“ベストアンサー”に選ばれたのか今以て不明だが,このことはさて置いても,
「仮定法」のことを(過去時制を示す「直説法」とは)“別物”と呼びつつ,「仮定法」を示すとさ れる動詞形態を「あれは形は過去形ですが... 」というふうに対象を“過去形”に限定している辺 りからして,「仮定法」(もしくはより“汎用的”な名称である「接続法」 [Eng. subjunctive])の“本 質”,もしくは端的に「接続法」が一般的な意味での「時制」とは直接の関わりがない実態から離 れた議論になってしまう懸念は払拭されない。(「ベストアンサー」以外の回答も同様に対象を「仮 定法過去」に限定していたが,「仮定法」という用語を使うことなく,「現実とは異なる事態を仮定 するには“時制”をズラす... 」といった,ある種の“学校文法”的解説を加えていた。)
3) 学習者側の意識を示す部分で「... 助動詞をつけたり... 」というのが挙がっているが,いわゆる“条
件法”とも呼ばれる「帰結節」にこそ should/would (shall/will) 等が典型的に用いられるという言 語事実も「仮定法」の特徴と意識されていることを恐らく示すものと思われる。
4) 英語では「直説法現在」と「接続法現在」で形態的差異が存在するのが,六つある人称・数のカテ
ゴリーのうち三人称単数に限られていて正に断トツだが,フランス語でも差異は多くの動詞で基 本的に複数の一人称と二人称のふたつだけ(しかもこれらは直説法半過去と同形態!),ドイツ語も 両者が確実に別形態となるのは二人称単数と三人称単数そして二人称複数というふうに,「接続法 現在」は至って「直説法現在」から区分しにくいのが実態である。
5) この文表現に於いては恐らく,いわゆる“原形不定詞”と同形態の be を接続法として用いる表現は,
現代英語では非文法的となろう。
6) とは言え,動詞語彙によっては今日のアメリカ英語でも,特に口語表現に於いては(イギリス英語
と同様) John expects Paul and Mary to live in London. のように,動詞本体は to を伴う不定詞表現を
用いるのが口語的表現ではある(cf. 井上 1966/79: 1176)。歴史的にはしかし,should は新たに挿入 されたと捉えるのが言語事実に叶ってはいるものの,否定の not が“原形不定詞”の直前に位置 するなど,syntactical に見ると「should が原形不定詞の直前で脱落した」との解釈を可能にするな ど,問題がないわけではない。ただし,ここではこれ以上,この問題には立ち入らない。(要するに,
should の理論的存在自体が新たな Subjunctive のマーカーとなっている,と解釈すべきなのだ。)
7) その実,「明日,もし太郎が来たら... 」は,例えば英語の If John came tomorrow... と違ってさほどあ
り得ない仮定に特化した言い回しではない。つまり,英語では十分 If John comes tomorrow... で通 じるはずで,確かに「明日,もし太郎が来れば... 」より蓋然性は低い仮定かも知れないが,英語の
「仮定法過去」のような irrealis というほどの事態でないことは確かだ。むしろ,後者に比べると
When John comes tomorrow... といったニュアンスに近いかも知れないが,ここではこれ以上,追求
することは避けたい。
8) 形態的にはもちろん,be 自体はいわゆる「原形不定詞」である。
9) ドイツ語でも英語の will に相当する werden を用いて英語風の迂言用法的“接続法”(もしくは“条
件法”)による「帰結文」を構成することもできるが,realis の場合は通常,そこまでの必要はなく,
(8b) で十分である。
10) もちろんのこと,英語では現代語に限ったまとめであり,古い英語では If it be fine tomorrow... など,