国 語 科 教 材 研 究 論
後 藤 恒 允
A St udyofMat e r i al sf orJ apane s eLanguageTe achi ng
TsuneyosiGOTO
Thi spaperwi l lpr opos et hef ol l owi ngt hr e ei t e msaboutt hes t udyoft e achi ngmat er i al sf or J apane s el anguaget e achi ng.
1Thepur pos eoft hes t udyoft e achi ngmat e r i al sf orJ apane s el anguaget e achi ngi st obr i ng upac t i vel e ar ne r swhoar ewi l l i ngt or e s pondt ot hes t r at e gyofawr i t e randt ode e pe nt he i r vi ewpoi nt sonr eal i t y.
2 1 ti sne c e s s ar yf orl e ar ne r st ohavet heknowl e dgeofRhe t or i candGr ammari ns t udyi ng t e achi ngmat e r i al sf orJ apane s el anguaget eachi ng.
3Thepur pos eofJ apane s el anguageeduc at i oni st oc ul t i vat eal e ar ne r s ' abi l i t yt ol e ar nhow t ol e ar nJ apane s el anguage .
‑ 誘 いかけ戦時に応答する認識主体の育成を 大江健三郎 は,読者の役割を作家の側か ら次 のように捉える。
ある作品の読み手 は,その作品に入 って行 きなが ら, まずそれが書 き手 によってどのように戦 略づけられ,立体化 されているかを読みとる。そこで読み手 は,書 き手の戦略 と同盟す る。そ してその戦略にたった,いちいちの言葉 ・文章の 「異化
」
,立体化 に正当に反応 しなが ら読み進 むのである。(『新 しい文学のために』岩波新書)書 き手の 「戦略」 に鋭敏に主体的に反応 しつつ,現実認識の新 しい地平を開いてい く者,そ うし た読み手 こそ真の読者であるというのである。
教材研究の目的 もまさにこうした真の読者を育成することにある。
そのためには,書 き手の 「戦略
」
,すなわち読者 を自らの説得の論理 に誘 い込 もうとした書 き手の 言葉の仕掛 けと,教師 自身がまず自覚的に関わ らなければな らない。 しか も,その関わ りの中で自 ら体験 した認識地平 の開けを適 して,学習者が書 き手の 「戦略」に主体的に反応 しなが ら自らの力 で認識の新 しい地平を開けるよう具体的な手立 てを考えるのである。それは単に教材の表現構造 (認知構造)を分析す ることなどではな く,認知 と認識 の結合をめが けた,人間をっ くる営みでなければな らない。
このため本稿では教材研究を次の三層構造 として捉え,各層 における課題を考察す る。
( 1
)「教材」化研究‑教材構造のとりだ Lと教育的意味づけ。内容的条件。( 2 )
学 習 者 研 究( 3)
学習指導研究) ‑
‡学習過程 (教材構造再発見の過程)への組みなお し。
方法的条件。認知 と認識 との結合をめがける。
(広岡亮蔵 『授業改造』 明治図書 一九七四年 に示唆を受 く)
‑ 3 5‑
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こ く「教材」化研究)の課題 ti=ついて
教材研究で第‑に問題 となるのは,「素材」を慮過 して 「教材」に く変容)させ る教師の心や鑑識 眼であ り,言語観 ・教育観である。 この価値転換に関わる基礎研究が 「素材」 としての 「作品 (文 章)」 の研究である。 その際,転換すべ き価値判断の基準 となるのが 「素材」 の持っ人間形成的価 値 ・言語能力的価値である。
(
1 ト 1
.作品 (文章)の研究の課題まず,基礎研究 としての作品 (文章)研究 とその課題 について考えてみたい。
国語科教育ではこれまで少 な くとも二つの時期に 「作品 (文章)研究」が教材研究その ものと見 なされた。一つは,大正時代か ら昭和十年 ころまでの 「教材研究時代」で,国文学 の方法論が国語 科教育の方法論 として適用 された。 これは明治時代後半 に 「各科教授法」が万能 とされた ことへの 反動である。二つは戦後の経験主義的単元学習への反動 として,その後の能力主義的系統学習時代 に唱え られ教材研究重視の風潮である。 これ らの時期のなごりか,特 に高校では作品 (文章)研究 その ものを教材研究 と規定 し, これを学習者研究や学習指導研究に有機的につなげていこうとしな い。教師が作品 (文章)研究でつかんだ客観的な価値を,知識 として一方的に学習者に注入するこ とによって,学習者の主体 と作品 (文章)との人間的な出会 いを切 って しまう。教材研究の課題 は, 作品 (文章)研究を学習者研究 ・学観指導へ有機的につなげてい く,そのつなげ方である。
すなわち,作品 (文章)研究で教師がや らなければな らないことが二つある。一つは,教師がま ず作品 (文章) に人間 として,一人の読者主体 として関わるということである′。殊 に文学作品の場 合には,人間 と人間 との (出会 い),(人格的他者)たる作者の実存的魂 との対話が必要である。教 師が究極的に掴 まねばな らないのは 「主題」 とか 「要 旨」 とか呼ばれている作品の 「意味」 (
mea‑
ni ng)でな く,その作品で作者が言お うとした丁何か」,すなわち 「
意義」(me s s age )である。山
下宏 は,作品 (文章)研究 とは 「こちら側が何を もって彼 ら (学習者) にかかわるか という 『何』の発見であり,その体現である。その 『何』が作品研究でまず具体的に把握 され,準備 されねばな らない(1)」 と述べ る。 この 「何か」が学習者の意識 や生 きざまに リアルにかかわるような読みの過 程を工夫する,その基礎研究が作品 (文章)研究でなければな らない。同 じ作品の研究が文学研究 となるか教材研究 としての作品研究 に終わるかの岐路 は, まさにこの 「何か」を美的価値 として客 観化 してい くか,それ とも人間形成に資する教育的価値 として学習者の主体に媒介す ることへ踏み 出 してい くか, その違 いにある。 このように教材研究の課題 はまず,作品で言お うとした 「何か」
の (発見) とその (体現)の しかたにある。
しか し,作品 (文章)の 「意義」ない し 「意味内容」 は,作品 (文章)の表現構造の解明な しに はあ りえない。作品 (文章)は 「意味」を担 った 「部分」の有機的総和 として,秩序 ある言語世界 を形成 している。 しか もその形成の しかたはジャンルによって異な っている。作品 (文章)研究で なすべ き二つめは,したが って表現構造の 「秩序」と表現方法の特性を分析 し,それ らがいかに 「意 義」を効果的に生み生 しているか,その仕組みを解明することである。ここか ら
,
「意義」にかかわ る内容的価値 と,意味構造や表現方法にかかわる技能的価値を抽出することが作品 (文章)研究の 目的 となる。この内容的価値や技能的価値を抽出す るとき, 日常の生 きた言語生活か ら遊離 させないために, 次の二つのことに留意すべ きである。
一つは,作品 (文章) をコ ミュニケーション過程の中に位置づけることである。後 に詳述するよ うに,筆者 は次のよ うな構造図を描 いている。
日常の生 きた言語生活では,言葉が論理的に正 しいかどうか,文法的に正 しいかどうか という以
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上 に,言妻が どのような説得力を もって心 に響 くか とい うことの方が重視 される。言葉 の文法論的 な体系 は,説得の論理すなわち レ トリックと一体 とな り, それに包み込 まれていると考え ることが 必要である。論理 は心理 に取 り込 まれたときに生 きて くる。
二つ は,文法論的文章論の扱 い方である。
文法研究 は,文の レベルを越えて文章 ・談話 の法則 を解明す る域 にまで踏み出 し,す ぐれた業績 を積み重ねている。 その成果 は国語科教育 に も導入 され,作品 (文章)の表現構造 の解明に役立 っ ている。ただその際,導入 の しかた,手順 を間違 えない ことであ る。永野賢 は,文法論的文章論を 読解指導 に生かす とき,文章 の意図 ・テーマ ・モチーフや感動 を生徒 にまず直観的に巨視的につか ませ,「その裏づ けとして」表現を確かめさせ るとい う指導 を勧 める。そ うして こそ 「究極的に文法 教育 の もっべ き役割がはたせ る
( 2
)」。教材分析 も同 じよ うに考 えるべ きだろ う。つ ま り,文法論 的文 章論 によって主題 ・意図などを表現分析か ら帰納的に割 り出 してい くべ きではない。 いわゆる全体 と部分 とが支え合 っている解釈学的循環 にあっては,全体が部分 に優先 している。作品全体か ら受 けた感動体験 を確認す るために こそ文法を生かすのである。この ことは,古典文学 の教材研究 にあた って特 に留意すべ きであ る。高等学校では,古典を大学 入試 の‑科 目と割 り切 って,得点能力を高めるため,文法を体系的に効率的に教 え込 もうとす る。
こうした受験対策 はやむをえない面 を もっている。 しか し通 り一辺 の知識 を数学 の公式 のように, さまざまな時代のさまざまな ジャンルの文章 に一律 に適用 して解釈 を行わせ るとき,古典文学 のお もしろさを殺 して しまいかねないこともお こる。 た とえば,平安時代の仮名文の 「語 り」 は,公式 的な文法体系 にとらわれない,独特 な連接 の原理 を もって文脈が展開 され る。 そ こに脈打 っている 語 り手 の呼吸を聞 き手 の一人 とな って感 じるとき,文法的に固苦 しい解釈を施す ことでは味わえな い,原典のなまなま しいメッセージが理解で きる。語 り手の脈打っ呼吸や息づかいが聞 こえ るよう に,仮名文 の連接 の原理 を捉えさせ る教材研究が必要 とされ る
( 3)
。小 ・中学校 において も,文法や文法的文章論を,生 きて働 いている言語 のすがたを捉えさせ るた めにこそ活用 してい くべ きである。
( 1 ト 2
言語観 ・教育観 と教材研究 の課題先 に,「素材」を 「教材」 に転換 させ るとき教師の言語観や国語教育が関わるることを指摘 した。
ここではその重要性 に触 れてみたい。言葉 を捉 え る観点 はさまざまあるが, ソシュールやメル ロ ・ ボ ンテ ィの言語観,西尾実の言語観, ロ‑マ ン ・ヤーコプンソンの言語観 などを想起 しつつ,言語 のいろいろな性質や機能 に触れてみたい。「教材」化 にあたって言葉 の機能 を全て学習 目標 と して入 れ る必要 はない。 しか し,言語 のどの性質や機能 を表 に立て るかによって,「教材」化 の方向や授業 の展開が大幅 に違 って くる。 この ことの確認 のため言語 の性質や機能 を多角的に見 ることが必要で ある。
①記号 としての言語‑ 現実を認識 し,相対化 し,改変 し,創造す る。
言語 は一つの記号であ り, そ こにない ものの代理 とな ってそれを指 し示すO人間 は身体 の六つの 感覚以外 に, もう一つの感覚 ない しは感覚 の延長 として言語をつ くったときに,真 に人間にな りえ た。 しか し, この言葉 とい う感覚 は他の六つの身体的感覚 と違 って,対象 との直接的な対応 ・癒着 か ら切 り離 されている点 に決定的な特性 を もつ。言語 の シニフイア ンは感覚映像 に依 りなが ら,そ の シニフイ工は実体 と しての対象 を指示す るので はな く,懇意的な差意 の価値体系 として,抽象的 で人工的な認知の体系 を もっている。例 えば,東西南北 とい う方位 の体系 は動物 にとって秩序立 っ て観念的にとらえ られていない。動物が現実をゲ シュタル トとして とらえ られ る仕方 は,種の もっ 独 自の感覚器官 ・生態 ・遺伝的習慣 などに支配 されている。人間だけは言語 を もっ ことによって こ の支配か ら解放 され,言語 とい う知の枠組みを通 して現実 を観念体系 として捉え ることがで きた。
‑ 3 7‑‑
その意味で は,言語 を通 して見 る世界 は一つの虚構 の世界であるともいえ る。もう一度確認すれば, 言語 は実休 その ものの表現ではないとい うことである。しか も,言語 とい う知 の枠組 みによる限 り, 指示対象 は書 き手 の視点や視覚 によって主観的に色づ けされた事柄なのであ って,決 して客観的事 実 などといった ものではない。
ともあれ,人間 は記号体係 としての言語を もつ ことによって現実を独 自な仕方で関係づ け秩序化 す るとともに,「いま‑ ここ」という制約か ら解放 されて,未来 に向けて現実 を改変 した り現実 には 存在 しないものを想像力 によって創造す ることがで きるよ うになった. ここには言語活動 と一体 と な って,認識 ・思考 ・創造的想像力 とい う (意識) の働 きが現 われ る。
「教材」化 にあた って
,
「素材」が もっている認識喚起力を真 当に評価 し,学習者 の認識,思考, 想像をか きたて る媒材 に してお くことが重要である。たとえば,説明的文章の指導では,構成 をおさえて要 旨をまとめることが 目標 とな っていた。 そ こでは,書 き手 が どんな視点 (視覚)か ら,何 をどのよ うな理由で選択 し, どのよ うな説得 の工夫 を こらし, どんなメ ッセージを送 ろうとしているのか,認識主体,表現主体 の 「主体」‑の目配 り が欠 けていた。国語科教育 は作品 (文章)の文法論的 レベルにおける 「意味」を捉 えさせた り,級 述す るメタ言語 的機能を身 につけさせ ることだけで終 わ ってほな らないのである。前述 した言語 の 性質,特 に認識 にかかわ る性質を抜 きに した国語教育 や韓語科教育論 は,命 のない形骸 の国語教育
(請)で しかない。
②言語を通 して無意識 の深層へ
言語 は身体 の延長であるということは,言語 の人工性を語 るとともに,身体性 を も語 っている。
この ことは二つ の ことを意味する。一つは,身体がその所作 に志向す る意味を一体化 させ 「受肉」
させているよ うに,言語 もまた志向す る意味を 「受肉」させているとい うことである。他 の一つ は, 身体 の もっ無意識層 の混沌 たる世界 に言語 は根 を もっているとい うことであ る。 この無意識 の世界 紘,個々人の ものであるとともに,集団的無意識 として間主観的で もある。
こうした身体性 を もつ言語で表現す るものは,表層的言語構造で表わされ る意味 などでない。 そ れは,小林秀雄が詩人の深層 に読 み とった 「作者 の宿命の主調低音」 とで もいうべ き,無意識層 に ある書 き手 の実存的な心 の姿だ。
これは,た とえば津島修治 といった生身の作家で はな く, また 『人間失格』 の主人公大庭葉蔵で もな く,主人公の人間失格 を逆手 にとって 「太宰治」 として したたかに生 きよ うとした,一つの魂 のあ り様
( das e i n)の ことをい うのである。
説明的文章 においてさえ,言語 の もつ身体性 に (心 の)肌で触 れさせねばな らない 「素材」 もあ る。説明的文章が事実 を客観的に論理的 に述べた文章 だなどとい った,通 り一辺 の規定 の仕方では,
「素材」を 「教材」化で きないのである。
③論理 と倫理,真理 と主体的真実性‑ コ ミュニケーシ ョンとしての言語
言語 は, なによ りも人間の社会的関係を成立 させ るコ ミュニケーションの媒材であ り, 日常生活 のなかで生 きて働 く実態 と しての言葉である。 そ うして,言責が本 当に人間 と人間 との関係 を成立 させ るものであるな らば,そ こには正 しい論理 と,論理が もた らす真理が存在 しなければな らない。
しか しそれ以上 に必要 とされ るのは話 し手 と聞 き手 の間の倫理であ り,倫理が もた らす主体的真実 性である。
国語教育の 「素材」 は記述 された作品 (文章) のみな らず,話 し言葉 その もの も 「教材」化 しう る。言葉 を論理 と倫理,真理 と主体的真実性 の合致 した言葉 た らしめ,「対話」が成立す るよ うな言 語生活 をっ くることは,全ての人間の願 いである。 と同時 に, その願 いを実現す る基礎 を養 うこと が国語科教育 の目標でなければな らない。教材研究 はその ことへの準備で もあ る。
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④ ローマ ン ・ヤーコブソンの六機能説 に触れて
ローマ ン ・ヤー コブソンは言語 コ ミュケ‑ シ ョンの要 因を,発信者 ・受信者 ・コ ンテクス ト・
メ ッセージ ・接触 ・コー ドの六 っ とし, これ らに対応す る言語 の機能 を,心情的 (表現的)機能, 動能的機能,関説的 (認知的)機能,詩的機能,交話的機能, メタ言語的機能 と した。
④‑1
心情的機能 とは,
「話 の内容 に対す る話 し手 の態度 の直接的表現」が情報 として もた らす ものである。例 えば,高村光太郎のぼろぼろの乾鳥」では,
「塑型 お もしろ くてgEJ島を飼 う些 」 と 駐烏 を飼 う人間の倣慢 さに対 して疑問が示 され る。次 に 「動物園の四坪半 のぬか るみの中で は,脚 が大股す ぎる じゃないか」と,
「発見 した事態を,驚 きや感慨 の感情を込 めて表現」 している( 4)
。 こ の詩で はこの「
〜 じゃないか」の反復がつ くる脚韻 によって次第 に高 まる語 り手 の怒 りが表現 され, 最後 に 「人間 よ, もうよせ, こんな ことは」 と,呼びか け ・命令形 ・倒置 とい う統辞法上 の工夫 によって不条理 な実存性への禁止 ・非難 ・告発 の感情が強 く表現 されるoつま り
,
「塑型 ・・・・‑些」 ,
「
〜 じゃないか」の反復,命令形 といった表現 の特性が標識 とな って語 り手 の態度 を直接的に表現 し ているのである。 この詩 のよ うに心情的機能 をあ らわす標識がはっきり示 されていない場合 に も, 書 き手が表現内容 に対 して とっている態度や感情を作品 (文章)か らくみ とることが,教材研究 の 大事 なポイ ン トとなる。④‑ 2 動能的機能 とは,「ぼろぼろな陀
鳥
」の 「△国主 もう呈里 , こんな ことは」のよ うに 「呼 格 および命令形 に最 も純粋 な文法表現 を見出す」, 受信者への働 きかけである。 言語 コ ミュニケー シ ョンにおいては,話 し手 や書 き手が,読み手や聞 き手 にいかに働 きかけ, どんな言語行動 をひき お こそ うと しているかをっかむ ことがポイ ン トとなる。 この点 は教材研究 において も重要 なポイ ントになる。
④‑3
関説 (認知)的機能 は,前述 の詩でいえば,四坪半 のぬか るみに飼 われている烏 を指 し, ある文脈 (言語的文脈,社会的文脈,心理的文脈)の中におかれた指示対象を認知す る働 きである。関説 (認知)的機能 は六っの機能 のなかで も最 も重要であ り, その言表が指示す る ものや ことを伝 えた り理解す ることが正確 になされなければな らない。 これは教材研究 において も同 じである。
④
‑4
メタ言語的機能 はコー ドにかかわる機能 である。前述 の詩 で 「乾烏」が 「だち ょう」 と 音読 し, アフ リカなどの草原地方 に棲息す る走鳥 目の巨大 な鳥であることが,書 き手 と読 み手 の間 をつな ぐ共通 の規則 として共有 されている必要がある。 これは,右のよ うに音韻や語嚢の レベルだ けではな く,文や文章の統辞論,意味論上の レベルについて もいえる。言語 の もっ法則や体系 それ 自体 に対す る知識 を もたせ,論理的思考力を養 うことが,教材研究 の一つの目標である。文 の レベルでは, まず語 と語 の結合法則 を究明す る構文論的な観点がある。 また,主語 (主部) における呼称,代名詞 によるアスペク ト, ボイス, テ ンス, ムー ドなどが,書 き手 の微妙 な心情 ・ 判断 ・態度 などを表 してお り,教材分析のポイ ン トとなる。
文章 の レベルでは,文 と文,段落 と段落 との論理的関係 によって思想 が展開 されてお り,連接 ・ 連鎖 ・統括 など論理的展開の内部 を究明す ることが ポイ ン トとなる。 また,文脈 (言語的文脈 ・心 理的文脈 ・社会的文脈)をおさえ ることが,続辞論 の うえで重要 な鍵 となる。
④
‑5
詩的機能 は,
「メ ッセージその ものへの指向」である。ヤーコプンソンは 「この機能 は記 号 の触知性 を高 めることによって記号 と対象 との間の根本的な二分関係 を深化す る」 と述べて,音 韻 に焦点 をあてて具体的な考察 を している。しか し,詩的機能 として最 も注 目されなければな らないのは,(言述 の隠愉)であ る。前述 の詩で は,狭 い鑑 のに閉 じ込め られた陀鳥 の姿 を (比較体) とし, その不条理 な実存 を (根拠) として, (主体)である人間の実存が潜在的に指示す るために読者 の前 にさ し出 した,(根拠)を含 んだ (比 較体)である。 それはまさに虚 ・不在であ って, しか もそれ自体 に現実を投影 させている不思議 な
‑湘 ‑ ‑
軍
世界である。 このため,虚構 ・言述 の牒愉では,実在す るもの ごとによ って実在す る世界を指示す る説明的文章 と違 い,表現 の仕組みは異質 な ものとなる。その標識 をあげると,語 り手,登場人物, 視点, プロッ ト,描写 などの表現方法,時間,場面 などである。 これ らによる統辞論上 の法則 は,
メタ言語的機能 と重 なる部分 と重 な らない部分 がある。 これを混合 してはな らないことを再 び確認 したい。 また,言述 の隠境では, ラングに対す るパ ロールの革新がなされてお り, デノテーション が コノテー シ ョン化 してい く言葉 の ドラマをっか ませ ることが文学的文章 の指導 のポイ ン トとな る。
④‑6
交話的機能 は 「接触」 にかかわ る機能である。 日常 の会話では具体的な場面 のなかで相 手 の表情や声 の調子 などで心情やメ ッセージを確かめ合 うことがで きる。作品 (文章) はこれを は ず したコ ミュニケーシ ョンであるといえ る。 しか し,前述 したよ うに,言語 は身体性を もっていた。我々は書かれた言語 に心 と身 を開 くことによって,書 き手 の生 きた呼吸に同調 し,交話的機能 を現 前化 させていかねばな らない。
以上, ヤーコプンソンの六機能説 に触 れなが ら 「教材」化研究 のい くつかのポイ ン トを述べて き た。ただ ここで留意せねばな らないのは,一つの作品 (文章) に一つの機能 といったあ らわれ方 は しないとい うことである。 ヤーコブンソンは,作品 (文章) の多様性 について 「これ らの機能 のい ずれか一つの専制の うちにあるのではな く, それ ら相互 の階層的順位 の異 な りの うちにある」 と述 べている。 また,特 に詩的機能 について 「詩的機能 は言語芸術 の唯一 の機能 ではな く,ただその支 配的,決定的な機能であ り,反面,他 の言語活動 においては副次的付随的な成立 として活動す る」
と,絶対視す ることに警告を発 している。言語 の六 っの機能 は全 てが同時に働 きか け合 いなが らコ ミュニケーシ ョンを完遂す る。
国語教育ではよ く文学的文章 と説明的文章 の違 いが問題 になる。 しか し,二つの領域 を戟然 と分 けることは,ヤーコプンソンの言葉 に もあるとお り意味のないことである。黒 と白との間を線状 に 分割 したとき,黒 と白の配分が異 な りなが ら切れ 目な く続 くよ うに,詩 ・小説,論文 ・解説 を極北 としなが ら,各 ジャンルは隣接 して一つの環 をっ くっている。 この ことを ピエール ・ギ ローの 『記 号学
( 5
)』 と森島久雄 の整理を援用 しなが ら図式化すれば,第二図のようになろ う。文学的文章のなかにも説明的文章 の表現法が混在 し,説明的文章 のなかに も文学 的文章 の表現方 法が混在す るとい う自明の ことを確認す ることも無駄ではない。
この節でふれた言語 の性質 や機能 のどれをどの 「素材」か ら精選 し,それによって, どのよ うな 学力をっけてい くか,その作戦 ・構想が,「教材」化研究である。
三 読書論 と教材研究‑ (学習者研究)の課題 について
前節 までは,作品 (文章)研究‑ 「教材」化研究 の段階 における課題 に触 れて きた。次 に学習者 研究 における課題 に言及 したい。
今 日の学習者研究で は,学習者を読者主体 とみ る考え方が支配的になって きた。たとえば,関口 安義 は,誌上 シンポジウム 「読者論導入 による授業 の改革
( 6
)」で提案者 とな り,次 の三項 にわた っ て提言 している。① (国語教育解釈学理論) の呪縛か らの解放
② 教師 と学習者 との連帯 による (読 み) の創造
③ テクス ト論, あるいは文学言語の教育
関 口はこの提案 を 『国語教育 と読者論
( 7
)』で も関連 させて とりあげ,読者が主体的にテクス トに 関わることによ って, テクス トを 「文学作品」 と して生起 させ ることの重要性 を説 いている。読者主体 と しての学習者 の発見 ・確認 こそ,戦後文学教育を戦前の文学教育か ら弁別す る第
‑
のAkita University
特色だ といっていい。
さて,読者論 は国内事情 と国外事情 との共鳴 として展開 された。
国内では,外 山滋比古が昭和三十〜四十年代 にかけて 『修辞的残像
( 8
)』『近代読者論( 9
)』などで英 文学研究 の体験 か ら,読者 とテクス トとの対話の重要性 を説 いた。 ここか ら,戦後 の読者論 はスター トした。
しか し,読者論が本格的な展開をみせだ したのは,一九七〇年代 に ドイツでヤウス (『挑発 として の文学史』)やイーザ
‑
(『行為 と しての読書』)などが読者論 を展開 し,それぞれわが国に もとり入 れ られて,文学研究や国語教育 の方法論 として導入 され るよ うにな ってか らである。読者論 をとり入れた国語教育論 としては,府川源一郎, 田近淘一,関 口安義,深川明子 などの業 績が積 まれてお り,読者論的国語教育論 は一つの潮流 として定着 しつつある。
さて,竹長吉正 は,「読者論 を読解学習 にかかわ らせ ると,次のよ うな読み (態度 ・方向性)や方 法が得 られ る」 として,四項 目をあげている
( 1 0 )
.適切 な指摘 として評価 されよ うo① 作者の言 いたいことや,作品 に書 いてあることを,没主体的に ・受動的 ・無批判的 に受 けて い くので はな く,読み手 自身が 自分 との関係 において主体的 ・能動的 ・批判的に受 けとめてい
くとい う読みの構え。
② 主人公 (主要人物)以外 の人物 の視座か ら作品世界 をながめるとい う読 みの方法
③ 「空所」の部分,「死角」 の部分 を発見 し, それ らの部分 に対 し想像力をはた らかせ るとい う 読みの方法 (イメ‑ジの残像 ・残響 を追跡す る読 み)
④ 言葉が多義的に使用 されている箇所 を発見 し, その多様性 を解釈す るとい う読みの方法 竹島 はこの四項 目をさらに具体化 させ るために,比聴 ・引用 ・キーワー ド・文法的文章論 の諸項 目をあげて,読み方教育への適用の しかたを論 じてい る。
これまでの生命哲学 を背景 に した旧解釈学理論 に支配 されて きた国語教育 にとって,外山の論 や イーザーの論 は衝撃的に発想 の転換を促す ものであった。 もはや,作者 の意図や主題 を神聖化 して 正 しくつかむ読 み方 の指導 は過去 の もの とな った。「物語 において了解すべ きは,まず テクス トの背 後で語 っている人ではな く,物語 において語 られていること, テクス トの こ事 が ら,すなわち,作 品がいわばテクス トの前で展開す る世界(ll)」 なのである。教材研究 において も,読者主体 としての 学習者がテクス トとの相互作用 によって, テクス トを 「文学作品」 として生起 させてい く読書過程 香,学習過程 として具体化す ることが求 め られ るようにな った。 この ことは しっか りと確認せねば な らない。
しか し,読者論 的読 み も絶対的な方法ではな く次 のよ うな課題 をかかえている0
読者論 とて も,読者主体 と言語構造 とのかかわ りを重視す る以上,言語構造への言及 はある。 し か し,必ず しも言語構造 の分析項 目が細分化 され,体系化 されていない うらみはある。 また,外山 のい う 「残像」 に しろイーザ‑のい う 「空所」 に しろ,読者 のイメージ形成 による直観 に頼 らざる をえない ところがある。学習者 が どのよ うに作品世界 をイメー ジと して生起 させ,それを通 して (世界)の意味 を捉 えさせ るか,いわば身体的想像力を喚起 してい く学習過程 の設定がむずか しいの であ る。読者論 を導入す るときにはこう した点 に十分留意 して学習指導過程 を構想 せねばな らな
い。
四 (学習指導研究)‑学習課題の設定を中心 に
増淵恒吉 は 『国語科教材研究(
1 2 )
』のなかで,(中心課題)を明確 に した国語科教育を提唱 し,課題 を抽 出 ・精選 ・構成す る教材研究 の役割 を重視 している。つ まり,国語科 の学習指導では,「柱 とな る指導事項」「重点」を明 らかにす ることが必要 で, そのために,「教材 の中か らどんな課題 や設問‑ 4 1一
を取 りあげるかが,私にとっては教材研究の最 も重要な作業 になっている」 と,述べ るのである。
増淵の課題学習の実践 はすでに昭和二十年か らなされ,今 日の課題学習の先駆 けとな った。
さて,後藤惣一 はこれまで展開 されてきた数多 くの学習課題 を整理 し
,
「国語科学習課題の構造 と 機能について」 と題 して学会で発表 している(1 3 )
。その (まとめ) は次のとお りである。
‖
国語科 における 「学習問題」を中心 とす る授業において目指 している (願 っている)ことは, ほぼ共通 している。主 として,①授業の活性化②主体的学習の確立③ 自己学習力 (追究力 ・学 び方) の育成等である。(コそれ らを実現す るための 「学習課題」 は,その実現の仕方において 《教師の指導意図を強 く 出す》か 《学習者の問題意識を強 く出す》かによってさまざまにとらえ方の違いがある。現時点で は, これ も大 きく三つ分類が試み られてあるが,妥当であると考える。①指導 目標 (それに近似す るもの) ②達成値 としてのとらえ方 (診児童 ・生徒の切実な問題 (追究対象) としてのとらえ方, 等である。
(3 実践や理論 における諸氏の考え方 には,③の 「切実 な問題 (追究対象)」が圧倒的に多い。①,
②の 「目標」「技能」論 についてはまだ十分な検討がで きていない。 しか し,現時点では,文種 によ る違 い (説明文的文章指導か らの発想が主)などによって, このよ うなとらえ方が出て くるものと 考え られる。研究の余地がある。
( p q )
「学習課題」 の理念に最 も直結す る考え方 として見 られる 「切実な問題」(追究対象 ・自己設 定の問題) としての 「学習課題」が内包すべ き条件 (あるいは課題の質)については,三つの枠 に 整理 してみることができるo①学習課題の本質的条件 (参学習課題の支持的 (基本的)条件 ③課 題構成 における学習課題の条件後藤惣一 はこの他 に,課題構成や課題設定 ・把握の方法 に関 して詳細 に論 じている。
ここか ら課題学習論 のおおよその傾向や問題点が見 とれよう。すなわち,学習者の切実な問題意 識を喚起するために,意図的に 「矛盾 ・ズ レ ・括抗状態が生 じるような教材提示」を して,それを 学習者が主体的に解決す るよう授業を組織す ることである. ただ後藤惣一が指摘 しているように, 指導 目標 や達成値 に到達 させるための
,
「技能」論について十分な検討がかされていない点に問題が ある。「作品 (文章)」の表現構造を撤密 に分析 し,そこか ら内容的価値 目標 との一体化 した課題が 抽出され,精選 されて提示 される必要がある。教材研究 による教師側か らの課題提示 とともに,学習者側か ら課題が出される場合 にも検討の余 地 はあろう。
後藤惣一 は,「学習者が切実 に課題を引き受 ける状況を作 り出すために」次のような条件が必要 だ としている。
児童 ・生徒の感想 ・疑問 ・意見等の中で最 も興味 ・関心 ・意欲を示す ものを足掛か りに して課 題化できるよ うな感想などの取 り扱い方の工夫やそれに必要 な時間の保障が必要である。
教材文を初めて読んだ学習者 は,まず さまざまな感覚反応,情意的,知的反応,強い抵抗感 を もっ た反応を示す。 これを重視することも確かに必要である。 しか し,課題化 はこの段階か らだけでは 導 けない。 青木幹勇は, この心理的反応 とともに
,
「文章に内在する客観的契機の二つを考えること」が必要だとして次のように述べる。
子 どもたちは,書 き手の仕掛 けてあるわか りやすさに乗せ られている場合は, いっこうに,問 題 はとらえ られないが,その うわすべ りの読みか ら,一歩文章の中に踏み こむというか文章の 表皮をめ くるというか, とにか く,そこまで,読みの目が とどくと, あれ も, これ もと,問題 になることが読み手の網にひっかか って くる。
Akita University
文章 を, このよ うにみて くると,文章 は,つねに読者 に対 して, いろいろな問題 をなげかけて くる。随所 に,問題 となる切 り口を見せているとい うことがで きる(14).
この 「問題 となる切 り口」とは
,
「省略,誇張,象徴的な手法などの表現法」である。青木 はこれ を レ トリックとはっきりと言 い切 っていないが, レ トリック読みの必要 を述べているのである。教 材研究 においてなすべ きことは,教師が レ トリックを読 み とり,レ トリックが学習者 を (問題発見) に誘 いこんでい くその反応を予測 してお くことである。この反応を予測 しつつ,教師の側か ら (問題発見)の ヒン トや分析 の観点 を与 えてい くこともき わめて有効である。
その第‑例 としては,教育技術法則化運動 の方法論があげ られ る。分析批評 の用語 ・観点 と学習 者 に提示す る,とい う意味で明解 な学習指導の展開が可能 となる。(ただ,この運動で は分析批評 を 絶対化 し,画一的な技術主義 に陥 っているなど,文学研究 の方法論 ・言語観 ・教育観 などの点か ら 筆者 の考え と本質的に異 なる。)
その第二例 は大村 はまの実践例である。
大村 は読書指導 において,問題発見のために読む,問題解決 のために読 む,批判的に読 むなどの 観点か ら明確 な日横 を提示 し,自らが開発 した教材資料を与え,(手引 きプ リン ト)に従 ってその資 料 を主体的に読み進 め る, といった方法を とっている。
た とえば,昭和四十六年一月に石川台中学校二年生 を対象 に した読書単元では, 目標 に 「読 み合 わせ読 み比べ るとい う,読書 のひとつの着眼点,態度 に気づかせ る」 をかかげている。資料 として
「掘 り出すなぞの都」な ど三つを与え
,
「掘 り出すなぞの都」 の ヒン トとして,
「(彰紹介であ って も, ここはもっとくわ しく知 りたい。 ② ここはち ょっと不思議‑ どうしてかな,何かわけがあるの かな。 ③ そ うだろうか・‑‑」 とい った観点 を与 えている。その第三例 は,説明的文章指導 における森 田信義 の理論である。
森 田は,学習者の読 みの反応を予測 し,読みの傾向を知 るために,次 のよ うなマ トリックスをつ くる
。 ( 1 5 )
縦軸 には 「反応 の対象」 として① ことが ら,素材 ②表現,論理構造 ③筆者 の立場 を設 ける
。
また横軸 には 「反応の しかた」 として④質 問疑問 ⑤確認を求 める ⑥意見 (批判を含む)を設 け る。そ して これ らがつ くる九つの象現Q)④
( Al
),(9⑤ (Bl),(丑⑥ (C1),②④( A2 )
,(参(9 (B2 )
,②⑥
( C
2),③④( A
3),③⑤( B
3),③⑥( C
3)か ら,学習者 の反応 の階層化 を図 る,森 田はこの マ トリックスか ら,A
3・B
3・C
3へ むけての読 みの深化が望 ま しいと分析 し,教材研究 のあ り方 に ついて次 のよ うに述べ る。教材 を,教材 の側 に も,読み手 (子 ども) の側 に も偏 らず,両極 を視野 に入 れつつ研究す るに は,筆者 の工夫をとらえ,それを評価す ることが重要であるとい う考 えか ら
( 1)
ことが らを取 りあげる上での工夫 の追究( 2 )
取 りあげた ものを もとに, ことばで表現 し,論理 を構築 してい く上 での工夫( 3) ( 1) ( 2)
の基盤 にな るものの追求 と, ( 1) ( 2)
の工夫 の総合的把握,評価 とい う観点 をつ くり,教 材研究を進 めて きた。‑‑筆者 の認識のあ らわれを 「工夫」 として とらえ ることによって,筆者 の姿をで きる限 り明 確 に し,筆者 と対話で きるよ うな教材 との出会 い,読み深 めを したい もので ある。
森 田がマ トリックスで提示す る
ABC
の階層 は,結局書 き手 の対象認識 の視点 や表現化 の読 み取 りを 目指す 巨視的な分析観点 であ って,微視的 な分析観点 を示 して はいない。 しか し, このマ ト リックスを通 して,教材研究 の段階で学習者 の読 みの反応 に一つの体系を与 えた ことは評価 に値す る。 また,認識主体 としての学習者 を育て,書 き手 を育て, テクス トの書 き手主体 との対話 を図 ろ‑ 4 3‑
うとした点 も単 なる読解指導 を超 えた読み方の指導 と して注 目され る。
教材研究で 目指すべ きは,作品 (文章)研究‑ 「教材」化研究 の段階 における表現構造 の分析 と, 学習者研究一学習指導研究 における反応の予測 とを,密接 に しか もで きるだけ科学的に結 びっける
ことである。
教師側で設定す る学習課題 も,右の ことを教材 ごとに作業化す ることによって焦点化 され うると 考 える。
五 仮説 の設定‑誘 いかけ戦時への応答を促す一
以上のような教材研究 の考察か ら,教材研究の目標 として 「誘 いかけ戦略 に応答す る認識主体 の 育成」 ということばを掲 げ教材研究の規定 として次 のよ うな仮説 を設定 したい
テクス トに仕掛 け られた誘 いかけの戦略 を,学習者が 自分 の力で解読 し, テクス トのメ ッセー ジに主体的に応答 して新 しいものの見方 ・考え方 を開 くよ う,教師はその具体的な学習指導過 程 を構想 す る。
つまり,作品 (文章)研究‑‑‑ 「教材」化 の段階で, テクス トに仕掛 け られた読者‑の誘 いかけ の レ トリックを教師が十分解読 す る。 またその レ トリックが開 こうとして いる認識の地平 を内容的 価値 と して抽 出す るとともに, レ トリックを解読すべ き能力 を技能 的価値 と して抽 出す るので あ る。次 に学習者研究一学習指導研究 の段階で,学習者 の目で作品 に仕掛 け られた レ トリックの力を 捉えた り, レトリックを解読す るときのつ まず きを仮想的に体験 し
,
「反応」を予測す る。これ らを 踏 まえて,学習者が主体的に レ トリックを解読 し新 しい認識 の地平 を開けるよ うに,課題 を設定 し, 学習活動 を組織す るのである。この仮説 は二つの段階か ら成 り立 っているO‑つ は,教師 自身が作品の (誘 いか けの戦略)を と りだす段階である。二つ は,学習者が作品の (誘 いかけの戦略) を発見 しそれに応答 してい く段階 である。 この仮説では後者 に重点が置かれている。
この二つの段階 は,教育学 の立場か らどのよ うに意味づ け られるのだろうか。た とえば,広岡亮 蔵 は,教師が教材 のなかか ら取 り出す 「教材構造」(中心観念 +基本要素)は 「科学 的概念 を形成す るための教材条件 であ り,内容条件」だ とす る。 また,「教材構造を再発見の過程 に編成 なお して, 再発見の学習過程を展開す ること」を,「科学概念を形成す るための過程条件であ り,方法条件であ
る」と しているaO.この広岡説 に従えば,(誘 いかけの戦略)を教師が とりだす ことは 「教材条件 ・ 内容条件」とい うことにな り,生徒が (誘 いかけの戦略)に応答す る過程 は 「過程条件 ・方法条件」
になる。作品の (誘 いか け構造) はそのままでは静止 した構図にとどまっているが,生徒がそれに 応答す るよう 「学習過程」に組み なおされた ときに,動的な生 きた構造 となる。教材研究 とは,,敬 師の手 による (誘 いかけの戦略)の とり出 しで終わ るのではな く,「学習過程」を構想す る段階 にま で踏 み出 さねばな らない。
なお,教材構造 は 「経験 と対立 し,経験 を排除す る」が学習過程 は 「経験 と契合 しなければな ら ない」 とい う広岡の指摘 を注 目したい。生徒 が教材構造 を生活か ら切 り離 して (認知)す るだけで はな く,現実 の世界を (認識)す ることと結 びっけるよ う指導 しなければな らない。本稿でい うレ
トリックも, (認知) と く認識) との結合 を目が けている。
ところで, こうした仮説を設定す る必然性 については,すでに読者論 と教材研究や,学習課題設 定 における青木や森田の論 に示 されていたところである。第六節,第七節で はこれ らとは違 った観 点か ら, この仮説を設定 した時代的背景 について述べ ることにす る。
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六 語用論 ・文法論 ・修辞学の相補的朋係 という観点か ら
前に述べた仮説が,語用論,文法論,修辞学を密接 に関連づけようとするコ ミュニケーション理 論の要請か ら出てきたことについて この節では簡単 に触れる。
右の三つの項 目の中で, まず修辞学 と文法学の結びつ きを読む ことの指導 に生かす という視点に ついて考えたい。
小田辿夫 は 『説明文教材の授業改革論
』
(明治図書一九八六年)のなかに,
「レトリック活動の中 でのロジックの教育」 という一節を設 け,修辞学 と文法学 (論理学) との結 びつ きを説明文の読み に生かす とを提唱 している。我々は文章を書 くとき,言語記号間の結合法則や, もの ・ことに内在する法則に従 い,で きるだ け論理的に秩序づけようとする。 しか し, それを伝達 しようとするときには,相手の感情や理性を いかに効果的に訴え, 自分の言お うとす ることを納得 させ るように意識 し,表現す る。数学や物理 学の記号 のように,具体的な個 々の コンテクス トか ら抽象 された公式的で純粋 な論理記号 と違 っ て, 日常の言述 には,伝達効果を増すための極 めて個人的なはか らいが こらされている。言述ない し文章表現 には,「ロジック」と 「レ トリック」の二面が絡み合 っている。小林秀雄が 「人間世界で は, どんな正確な論理表現 も,厳密に言へば畢尭文体の問題 に過 ぎない,修辞学の問題 に過 ぎない のだ
」(
Ⅹへの手紙」 )
と言 ったのは一面の真理を言 い当てている。文章が ロジックとレトリックの融合 したものである以上,読む ことの指導 もこの両方の結合 した 姿‑の目配せが必要 となる。統辞論上 の文法的な論理だけでな く
,
「レトリックの論理」を読む こと が,重視 されねばな らない。 これまでの説明文章の指導が,構成 とか段落 とか文法上の論理の読み 取 りに傾 き,文法的文章論 と 「レトリック」 と結 びつけることがなかった点 に,小田は説明文指導の改善点を見出すのである。
教師が書 き手の 「レトリックの論理」を読みとってお くことによって
,
「子 どもが自ら書 き手の レ トリックをふまえた角度か ら読みとっていけるよう指導」すべ きだと,小田は教材研究の視点か ら 指摘する。小田の発言 は説明的文章の側か らの ものであった。 しか し,文芸批評の方法 と修辞学 との結 びつ きについて も,伝統 レトリックの用語 ・用法をニュー レトリックの立場か ら捉えなお して学習指導 に取 り入れてい く必要がある。
さて,小田の発言をもとに修辞学 と文法学 (論理学) との結合について触れたが,次 に語用論 と 文法論 との歩みよりに触れたい。 これまでの文法論 は,主 に文の レベルまでの音韻論 ・統辞論 ・意 味論を対象に していた。 しか し,近年 は文を越えた レベルでの諸法則を解明す ることが文法論に求 め られだ したのである。
たとえば,一九九〇年一月に,寺村秀夫他編 『ケーススタディ 日本語の文章 ・談話
』
(桜楓社)が刊行 され,その中に次のような一節が記 されている。
近年,国内外を通 C,文章 ・談話 に関す る研究が盛んになってきたが, これは,研究が進むに つれて,文よりも大 きなまとまりそれ自体 に構造や規則があるということが明 らかになったた めである。従来,国語教育や修辞学 ・文学 ・心理学等の問題 として別個に扱われて きた課題が, 日本語学の分野で も本格的に論 じられるようになってきている。 ことに,外国人のための日本 語教育の現場や認知科学等の方面か ら,文章論や談話分析, テクス ト言語学 ・レトリック ・語 用論等の研究 に対する要請が大 きい。
ここには最近の言語研究の動向や課題が凝縮 して捉え られてお り, コ ミュニケーシ ョンに生 きる
「文法」が要請 されている。 これは文法の側か ら語用論への歩み寄 りの例である。「まえが
さ
」で,‑ 4 5 ‑
この著書 はそれに応ず る試行錯誤 の結果生 まれた こととことわ っているが,新 しい問題提起 として 評価 してよい。新 しい研究段階 にあるため,用語およびその用法などに問題点 を残 していて,直ち に国語教育 にそのまま導入で きないけれども,今後検討す るだけの値 はある。 その項 目については 後 に記す。
一方,語用論 の側か ら文法論への歩 み寄 りも見 られ る。たとえば,ジェフ リー ・N ・リーチは 『語 用論
』
(紀伊国屋書店一九八七年)の中で,文法 (主 に意味論)と語用論 とを相補 う関係 にあるとす る立場 を とり,二つの学問を合わせて単一 の 「複合的」パ ラダイムを構成す る前提 と して,次 の八 項 目にわたる主要 な用件をあげている。要件
1
文の意味表記 (ない しは,論理形式) は,文 の語用論的解釈 とは別物である。要件
2
意味論 は,規則 によ って支配 される(
‑文法的正確 な ものである)。一般語用論 は,原理 によって統御 される (修辞的な性格 の ものである)。要件
3
文法でい う規則 とは,基本 的に習慣的な性格 の ものである。一般語用論で言 う原理 とは, 基本的に非習慣的な性格 の もの (すなわち,会話 のゴールとの関連 で動機づ け られた もの)であるD 要件4
一般語用論 は,発話 の意義 (すなわち,文法的な意味) をその語用論的 (すなわち,発 話行為的) な効力 と関連づける。 この関係 は, さまざまな程度 に直接的な ものである場合 も間接的 な もので もある。要件
5
文法 における対応関係 は,写像 とい う形で規定 される。語用論的な対応関係 は,問題 と その解決 という形 で規定 され る。要件
6
文法的な説明は何 よりもまず形式的な性格 の ものである。語用論 的な説 明は,何 よ りも まず機能的な性格 の ものである。要件
7
文法 は,観念作用機能 に関わるものである。語用論 は,対人関係的機能 とテクス ト形成 的機能 とに関わ るものである。要件
8
一般的に言 って,文法 は離散的で明確 な範噂で記述 され る性格 の ものである。語用論 は, 連続的で不確定 な価値 と して記述 され るとい う性格 の ものである。この八項 目の要件 はあ くまで言語学 の問題 であ るけれ ども,国語教育 にい くつかの示唆 を与 え る。
た とえば,要件
4
で,文法的な意味を発話行為的な効力 に関係づ けるのが語用論だ とす る指摘で あ る。これは小 田辿夫が,説明的文章 といって も単 に 「ロジック」を読 むのではな く,
「レ トリック の論理」のなかで 「ロジック」 を読 み とることによって こそ, テクス トに示 された認識や思考が生 き生 きと納得で きるのだ, と主張 していた ことに通ず る。また,要件
5
にある 「問題 とその解決」という用語 も重要であろう。 リーチは,コ ミュニケーショ ンとは 「仮 に私が聞 き手 の意識 にか くか くしか じかの結果 を引 き起 こそ うと欲す るな らば, この目 的の言語 の使用 によ って達成す るのに もっともよい方法 とは何であろうか」,
「話 し手がか くか くし か じかのことを言 った として,話 し手がそれによ って私 に理解 させたか ったのはどのよ うな ことで あ ったか」 とい う問題 を解決す る過程 だ とい うのであ る。 この問題解決 の過程 と しての コ ミュニ ケーシ ョンをスムーズに行 うことこそ,我 々の言語生活 の目的であ り,国語科教育 の目標で もある か らである。問題解決 の過程 と してのコ ミュニケーシ ョンは, したが って要件
7
で も言 うよ うに極 めて レ トリ カル (修辞学的)である。 リーチはこれをテクス ト形成的修辞 と対人関係的修辞 とに区分 して論 じ ている。 これ らの下位項 目はそのまま国語科教育 には使 えないとして ら, その指 し示す方向は有益 である。また,要件
7
の中にある 「観念作用的機能」とは,
「言語が世界 についての経験 を伝達 し,解釈すAkita University
る手段 として機能す る場合」(ハ リデイ)の機能であり,さらに 「経験的機能」と 「論理的機能」に 分類 され る。 とすれば,要件
7
は,解釈学 と修辞学 との関係を示す ということになる。この関係については,三木清が 「解釈学 と修辞学
(
川」ですでに述べているところである。解釈学 は主 として書かれた言葉や文書を対象に して,純粋な論理的思考,真理性 を問題 にする。一方,修 辞学 は社会的 コ ミュニケーションを対象 とし,話 し手 と聞 き手の間の人格的応答 こそが問題であっ て,主体的真実性 に関わる。 もとより修辞学 も論理的思考を必要 とす るか らには解釈学 に支え られ なければな らない。しか し,
「修辞学の論理 は解釈学 に欠 けてゐた社会的意識を獲得す るのみではな く」,
「歴史的世界の論理を具体的に解明す る」認識の問題 ともなる。三木 はこうして修辞学 による 解釈学の乗 り越えを図ろうとした。「修辞学 と解釈学」は単 に哲学的思弁などではな く,ファシズム の論理 (天皇制の論理)を克服 しようとした衝動が背景 になってお り, コ ミュニケーションにおい て,
「ロジック」を 「レトリック」で包み補 ってい くことの重要 さを身を もって示 している。以上の リーチの発言 は, したが って,語用論,修辞学,文法論の三つの領域を相補的な関係で捉 えることを意図 している。 リーチは三領域を図のように構造化 して捉えてお り,作品 (文章)研究 としての教材研究の際,一つの示唆を与えて くれる。
いま仮 に,図の中の文法欄に 『ケーススタディ 日本語の文章』の項 目を含めた体系を代入 し, また
,
「対人関係的修辞」には書 き手の 「視点」
「選択」
「態度」
「意図」
「発想」
「動機」などをあげ,「テクス ト形成的修辞」には佐藤信夫の一連の レトリック研究などか ら用語 を拾 って代入すれば,作 品 (文章)研究の分析の観点が構造的に示 される。
この構造図を運用す るときには次のことに留意す る必要があろう。
第‑ にこの構造図は,文学的文章 と説明的文章双方の共通の基礎をなす ものである。国語教育論 のなかにはこの基礎構造が共通だか ら,文学的文章 も説明的文章 も区別せず指導 してよいといった 主張 もしば しば目にす る。 しか し,それぞれのジャンルには表現の特性があることを認識 し,共通 の基礎構造 と表現特性 と混同 しないことが肝要である。
第二 に,文芸批評 には多 くの方法があるが,各方法論の用語規定を教材研究 という立場か ら統一 的に捉えることも重要 な課題 となろう。 しか し, その際に,各方法が独 自の理論体系を もっている ことに留意 し, その体系の文脈の中で分析用語が特有な意味で使われていることに留意せねばな ら ない。 しか し,所詮,作品 (文章)研究の分析観点 は,教師一人ひとりに独 白の理論的観点を持ち, その視点か らこれ らの観点を体系化すべ きものである。 さまざまな方法論 の寄せ集めや公約数が必 ず しも分析観点の体系 とはな らない。
七
自己学習力育成の視点から一学習者自身による教材構造の生成 と変換一 次 に,前述の仮説 の設定を, 自己学習力か らの要請 という視点で捉えよう。現在の教育改革の中核 は自己教育力 ・自己学習力の育成である。学 び方 を学ぶ力の育成である。
自己教育力 ・自己学習力 は,本来 は教育の本質その ものとして論ぜ られるべき性質の ものである。
すなわち,人間は本質的に状況 に適応 し,状況を改変 しなが ら自己実現を図 る能動的な存在であ り, そのために自らが自らの学習を促 し統御できる主体的な学習能力を もっている。 しか し, それがい ま教育改革の中核 とな っている主な理由は,一つは従来の系統的能力主義的学習理論 に対する反省 か らであり,一つは急激で高度な社会の変化 に対応す る能力の育成が求め られだ したか らである。
国語科教育 において も,教科書中心,教師主導の一斉指導か ら脱却せねばな らない。 このために は,学習者 自身が問題 を発見 し自らの力で解決 してい く読み方の方法論が必要 とされて くる。また, 教材研究において も,学習者 自身が問題を発見 し自らの手で解決 してい くのにふさわ しい教材の開 発 と学習指導の筋道の設定が必要 とされよう。