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ツオンカパにおける「非有・非無

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(1)

冨際仏教学大学院大学窃究紀要第

3

号 平 成

1 2

3

4 9  

ツオンカパにおける「非有・非無j の解釈

西 津 谷 孝 道

f

縁 起

J

f

J

、「中道

J

等はいずれも仏教J思想全般において非常に重要 なものであるが、それらは中観思想においてはとちわけ重要であると考え られる。中でも

f

中道jという概念は、実践的舗富においては

f

八正道

J

(ary

勾戸主

gomargo:

正見、正患堆、正語、正業、正命、正精進、正念、

正定〉を示し、論理的な健富においては「実体的存在を認めないが、業と その結果との詞の結合関係は認めるjということであ号、哲学的な側面に おいて辻主に「事物が有でもなく、無でもないこと

J

(非有・非無)を示 すものである

1

)。本稿は、この「非有・非無jがツオンカパ

(Tsongkha 

pa, 

1 3 5 7  ‑1419)

の中観思想、の中でどのように理解されているかを探るこ

とを主題とするものである

Q

通常我々は、あるものの有ることが否定されたならぜ(=非有人それ が「無いj と理解し、その逆にあるものの舞いことが否定されたならば(=

非 無 入 そ れ が

f

有る」と理解する。つまり、「非有・非無jと云うのが、

「あるものが、同時に有でもなく、下無でもないjと理解されるなら法、そ れは一般に

f

思考の三原則

J

(同一律、矛盾律、排中律)と云われるもの に関して「蕪矛盾律

J (A

は非

A

ではない

;A

B

で あ る と 同 時 に 、 非

B

あることiまない)が守られていないこととなる。であれ誌、もし

f

非有・

非無jと云うのが何らかの意味を有するとすれば、それは限定〈或いは解 釈)を加えて通常の思考が機諾する領域において理解されるべきものなの であろうか九或いは、通常の思考が機諾する領域以外において理解され るべきものではなのであろうか、更に或いは、それは合理的な意味を有す るのではなく、全くの惨辞的な意味しか有していないのであろうか。

また更に、「非有・非無jは中道を形容するばかりでなく、真理につい て述べられる笛演においても頻繁に用いられる表現である。そこにおいて

一一354一一

(2)

5 0  

ツオンカパによる「非有・非無

J

の解釈(底意谷)

真理そのものは言葉或いは分別を超えたものとして扱われていることより、

f

非有・非舞jということも再じく真理が言葉或いは分別を超えているこ とを示すものなのであろうか。これは、広くは形市上的な事項に対する仏 詑のとった意度である「無記

J

(=仏詑の沈黙)

3)

という問題と、より限 定した形では「中観論者には主張は無い

J 4)

という問題とも深く関わるも のなのであるむ

一般に、「有jはサンスクリット語ではな

a t " ( T i b .   "yod pa")

或 い は

bhava"  ( T i b .  "dngos pO")

、「無j

1satn(Tib. medpa")

或 い は

abh

訂正,

( T i b .   "dngos pO med pa")

と表わされる。そして、その両者 が否定された「非有・非無jは、中観関係の論書において「有ではないj (= 

r

非有

J )

と「無ではない

J

(= 

r

非禁

J )

の二句の否定、それに「宥且 つ無でもない」を加えた三匂の否定、更にそれに「有豆つ無で、ないのでも ない

J

を加えた四匂の否定のいずれかの形で言及されており

5)

、そのよう な言及がなされている箇所は枚挙に暇がない。また、ことさら「有」と

「無」というこの一対の概念が頻繁に取り上げられるのは、それこそが通 常我々が諸現象を理解する上で最も基本となる範轄であると考えられるか

らである。

ナーガールジュナ

(Nag

r j u n a

c a . 1 5 0 ‑ 2 5 0 )

は 、 周 知 の よ う に 彼 の 論 書の中で、仏教内外の実在論者達の見解を様々な形で論破している

c

その 主な方法論は、対論者が主張する実在論をある特定の主題に関して暫定的 に認め、それが成立しうるあらゆる可能性を列挙し、それらのいずれもが 成立しえないことを指摘することによって、その主題が実在論的には、換 言すれば邑性を有するものとしては成立しえないということを論証するの である。たとえば、実体的な原匿と結果に関してはその二つのが1)全く 再ーである、

2

)全く別異である、というこつの可能性が列挙され

6

に ま た事物の運動が実体的に有るとされる場合、その運動の作用が 1)己に運 動が接わったものに有る、

2

)未だ運動が開始されていないものに有る、

(3)

ツオンカパによる「非有・非舞jの解釈〔四津谷)

5 1  

)いま運動がなされつつあるものに有る、という三つの可能性が列挙さ

7

)、更に事物が生じることが実体的に有るとされる場合には、 1) 自 分

自身から生じる、 2)他から生じる、 3)自・他共から生じる、 4)京匿 なくして生じる、という四つの可龍J詮 が 列 挙 さ れ へ そ れ ら の い ず れ も が 成立しえないことを重ねてゆくことによって、究撞的には対論者が標祷す

る実体論そのものが否定されることとなるのである

9

)

ナーガールジュナは

f

カーティヤーヤナ経』を引用して、仏陀が「在j と「無」そのものを否定したと説いているが

1

べ で は そ こ に お い て 否 定 さ れるべき「有jと「無jとほどのように理解されているのであろうか。そ こにおいて、「有j とは即ち実体的な事物が存在することを主張する「常

J

における「有jであ号、「無

J

とは却ち虚無論を示す「断見」におけ る「無」を意味する凶。より正確に辻、

f

常見j における「有

J

とは実体 的な事物が不新に存在し続ける現象を意味し、一方「断見

J

における「無j

と辻、

f

絶対蕪

J

を標梼する通常の童無論iまかりでなく実体的に存在した 事物がある時点において完全に減してしまう現象を示すものと考えられる。

そして、その「有

J

と「無jの関係辻、 1)

r

有」の変化したもの、郎ち

f

jでなくなったものが「無jなのであり幼、

2

)更にその両者は桓互 に該存するものとも理解されていると考えられる幼。

3

)また、その他の 笛所では、「有jと「無jの関係はその二つ以外の第三の選言支が成立す る可設住の無い相互に矛盾するもの、換言すれぜ直接矛盾するものである とも捉えられているヘ

ツオンカパによる「非有・非無jの解釈に言及する前に、その「非j いう否定辞が「桔対否定

J (paryudasa)

を示すものなのか、或いは「絶対 否定

J ( p r a s a j y a ‑ p r a t i $ e d h a )

を示すものなのかということが顧嘉されな ければならない。通常、前者は文章の述語の否定であり、一方後者は名認 の否定であると理解されるのであるが、中観思想、においては、「相対否定j

とは否定対象が否定されることによってそれ以外のものが定立されること

3 5 2

(4)

5 2  

ツオンカパによる

f

非有・非無jの解釈〈四津谷)

を示し、「絶対否定」とは否定対象がただ単に否定されることを示すもの である的。そして、中観派はこのコンテクストにおける否定を「絶対否定

J

と捉えるのである。つまり、そこにおいて「有j並びに「無j という分別 が否定され滅する、部ち通常我々が諸現象を理解する上で最も基本となる 範轄である「有j と「無j という裁論が滅することによって真実が示され ることとなるので為る

1

九 こ の よ う に 、 究 極 的 に 分 別 ( = 裁 論 ) を 滅 す る

ことが、通常この「非存・非無

J

によって表されていると考えられるので ある。

では、ツオンカパ自身は

f

非有・非無」に関してどのような理解を示し ているのであろうか。

ツオンカパは、ある箇所「非有・非蕪」を西匂分別の一部と捉え、それに 関する以下のような対論者の見解を紹介する

c

中観の諸々の書籍において事物或いは自性が「有ること」と

f

無いこと

J

と「二つ共(=有無共〉であることjと「二つ共でないこと」の四匂すべて が否定され、そしてそれ(=密匂)に含まれない法(=事物或いは自性)は 蕪いから、正理によってすべてが否定されるのであるヘ

この対論者の見解の中でツオンカパが潤題とするのは、「正理によって すべてが否定される。j ということである

a

彼 は 、 そ の 点 に 関 す る 自 ら の 理解を次のように述べている。

これは、前述のように、事物(=有)に関して二つ〔有る]うちの、

f

吉体に よって生じる事物jは二請のいずれにおいても有ると〔対論者によって〕認 められたとしても否定されるが、「効果的作用の龍力jという事物は言説とし ても否定されないのである。非存在(=無) [に関して〕も、諸々の蕪為につ いては自体によって成立する非存在と認めるならば、そのような非存在も否

(5)

ツオンカパによる「非有・非無jの解釈〈四津谷)

5 3  

定されるのである。それと同様に、そのような[自体によって成立する]事 物の存・無の二つ共も否定されるのであり、また宥・無の二つ共でないこと が自体によって成立することも否定されるのである。[それ]故に、四匂が否 定される方法(=様梧〉すべて辻、そのように理解されるべきである

1

ツオンカパによれば、このように

f

有」、「蕪」、「有且つ無ム「右旦つ無 でもないjのいずれもが、上述のナーガールジュナによる理解と同様に、

自体によって成立するもの、却ち実体的なものであるとされ、それらが正 理によって否定されるというのが、四匂否定の意味なのである。つまり、

「非有・非無j とは自体によって成立する、実体的な[有

J

並 び に 「 無j が勝義において正理によって否定されることなのである。

このように「有ム「無j、「存立つ無

J

、「有旦つ無でもないjの四匂に

f

自体によって成立するj という隈定を付することなく、字義通りにそれ ら西勾を否定することをツオンカパは弘下のように批判している。

そのような限定(ニ自体によって成立する云々)を付すること無しに西勾

〔のすべて〕を否定するならば、[時ち]

i

事物が有る」ことと

f

事物が無いこ

J

を否定する時、[更に]

i

その二つ共であること」と〔いうことが]否定 され、その上に

i [

その]二つ共でないことjが否定されるならば、〔それは 吉]説[と]藍接矛盾(=吉己矛盾)するのであり、そのようであっても過 失が無いと〔対論者が〕云うならば、我々は[そのような]狂人と議論はし

ないのである

1

このように「自体によって成立するjという摂定を付さないで、四匂が字 義通りに解釈することは、明らかに無矛居律を侵していると捉えられてい

る。

しかし、ツオンカパは他の箇所でこのような

f

非存・非蕪」の解釈と中 道と関連づけて以下のように述べている。

そのように、「絶対蕪」と「無自性

J

、そして

f

自体によって成立するものj

一一

350

(6)

5 4  

ツオンカパによる「非有・非無jの解釈〈毘津谷)

と「唯右jの区別がなされないで、有・蕪の涯に陥ることを否定するならば、

「我々は無と語るのではなくて、宥であると語るのでもない

o J

と云う、

f

有 で あると語るのでもなく、無でもないと云うのであるj と語ることのみを望む ことによっては、矛震の集まり(ニ塊)のみを語っているのであり、「中

J ( =  

中道)の意味を少しも説明していないのである。何故ならば、対論者を否定 する擦には、自性の有‑無という二つ〔のみ]の選言支がなされて(=設げ られて) [対論者の主張]が否定されるのであるから、その二つ(=自性の有・

舞)において選言支が設けられるべきであると告ら認めているにもかかわら ず、その二つ以外の対象を認めているからである制。

ツオンカパによれば、「自性によって有ること」が否定されることが

「非有」の意味であ号、即ちそれによって有辺が回避され、一方「絶対無」

が否定されることが「非無jの意味であり、即ちそれによって無辺が由避 されるのである。ここで重要なことは、自性に関しては「自性が存る

J

f

自性が無いjというこつの選言支しかありえず、第三の選言支は無いと いうことなのである。それは自性が否定されたならば、そこにおいては無

自性が定立されなければならないということを示すものである。

だが、中観論者にとっては「非有・非無

J

における「非

J

による否定は、

否定対象がただ単に否定される「絶対否定

J

であるということが当然ここ で思い出されるべきであろう。何故ならば、ツオンカパは中観論者である にもかかわらず自性が否定される場合、そこで誌ただ単に自性が否定され るのではなく、無自性が定立されるべきであると理解しているからである。

この難点をツオンカパがどのように冨避しているかは、既に拙積において 言及した

2

九そこにおける要点のみを記すると、ツオンカパによれば岳性 の 「 否 定

J (vyavaccheda

, 

rnam par bcad pa)

ほ 無 自 性 の 「 定 立j

( p r a i c c h e d a  yongs s u  gcod p a )

無しには成立しえないのであり、換言す ればその両者は表裏一体をなすものであることによって、自性の否定は即 ち無自性の定立を意味するものである。「相対否定」の否定対象が否定さ れることによってそれ以外のものが定立されるというのは、この場合、た とえば自性が否定されることによって実捧的な「無自性」が定立されるこ

(7)

ツオンカパによる

f

非存・非蕪」の解釈(四津谷〉

5 5  

と等を示すのである。

また、「絶対無」に関してはここでは述べられていないが、昌性の否定 の場合と同様に、それが否定されることによって「唯存

J

(=言説有)が 定立されなければならないことを示すものであると考えられる。

では、ツオンカパにとって「非宥・非無j の中道とほどのようなものな のであろうか。それについて、彼は次のように述べている。

それ故に、一切法に撰して自棒によって成立するものが微塵も初めから無 いと理解することによって、有道iこ堕さないのである。〔一方]そのようで、あっ ても、芽等の事物が、効果的作用をなしうることに関して空で為る非存在と ならないことより、[芽等の事物が]それぞれの作用を行う能力が有ると決定 する決定知が導かれるならば、[それは]無辺を捨てることなのである刻。

このように、ツオンカパによれば、諸々の事物が実体的に即ち自律(=

自性〉によって成立するものを認めないことによって、春辺に陥ることが 回避されることが

f

非 有

J

なのであり、それら事物の各々が効果的作用を なしうるを認めることによって、無辺に陥ることが屈避されることが「非 無j なのである。

ツオンカパはこのような

f

非有・非無jの中道について、二諦説を通し て次のように述べている。

更に、

f

諾仏による説法は、二諦に正しく依るものである。紛

J

というように 生滅等が有ることが世俗[において]であり、そして[生滅等が]無いこと は勝義においてであるというこ諦の区別が知られるべきであると汀根本中論j において]説かれている。……叫

ここにおいては、生滅等の「有j並びに「無j が取り上げられているの であるが、ツオンカパによれば、

f

勝義として蕪いことj が

f

非 有j の 意 味であり、「世俗(=言説)として有ること

J

が 「 非 無j の そ れ な の で あ るというものである。この解釈誌、

f

勝義において諾々の事物は正理によっ

‑348‑

(8)

56  ツオンカパによるはド右・非蕪jの解釈(四津谷〉

て否定されるが、その正理による否定が健全な世搭にまで及ぶものではな い。」というツオンカパの思想が反映されているものと考えられる刻。

以上のように、ツオンカパは二謹類の「非有・非無jの理解を示してい る。その第ーは、「四匂否定jのコンテクストにおけるものである。つま りミ自体によって成立する「有j並びに「無jが否定されることが、「非 有・非無」ということである。第二は、「非有・非無の中道jのコンテク ストにおけるものである

G

中道とは「存辺

J

(=常見)並びに「蕪辺

J

(= 

断見)の回避である。つまり、自体によって成立するものを認めないこと によって前者が、一方効果的作用の能力を認めることによって後者が回避 されるのである。そして、それは更に二諦説と関連づけられて、自体によっ て成立するものは勝義において正理によって否定されることによって「有 jが酉避され、しかし言説(=世俗〉における効果的作用の能力がその 正理によっては否定されないことによって「無辺」の回避されるのである。

換言すれば、

f

勝義として自体によって成立するものが蕪いこと」換言す れ ば

f

正理によって否定されることjが「非有jの意味であり、

f

量 密 ( = 言説)として効果的作用の能力が有ることjが「非無

J

の意味なのである

c

更に、ツオンカパの第ーの解釈における「有」並びに「無」は、いずれ iこせよ実体的なものであり、それは勝義ばかちでなく世俗においても否定 されることより、その中の勝義においてその再者が否定されることが、第 二の解釈の「有辺jの回避に反映されているとも理解できるのである。

シャーキヤチョクデン (Sa

yamchog l d a n

, 

1 4 2 8 ‑ 1 5 0 7 )

f

中 観 決

i

第三章において「非有・非無jに関する三つの解釈を以下のように紹 介しているむ

その意味に隠しては一様に以下のように語られている。即ち[(1

) J r

諦と

しては有でもなく、言説として無でもないj云々等々と認めるのであって、

言葉通りに認められたならば、直接矛君の蓮が尽きないから、誤ることとな

(9)

ツオンカパによる「非有・非無

J

の解釈(四津谷〉

5 7  

jということと、

[ ( 2 ) J

またある人は「有るとも執着しないのである

J

云々 等々と説明すること、日3)

J

混乱していない考察する他の人々は「有るという のも諦なのではない。無というのも諦なのではない。j云々等々と説明するこ

とが離辺の意味であると云うのであるお}。

こ こ に お い て シ ャ ー キ ヤ チ ョ ク デ ン が 紹 介 し て い る 三 つ の 解 釈 と は 次 の ようなものと考えられる。

)実体(=諦)として有でもなく、実体として無でもない。

2)  i

非 有 ・ 非 無 」 を 表 現 の ま ま に 「 有 に 執 着 せ ずj そ し て 「 無 に 執 着 せ ずj と理解する。

) 勝 義 ( = 諦 ) と し て 辻 有 で も な く 、 世 俗 ( = 言 説 〉 と し て 無 で も な

¥;¥0 

こ の 三 つ の 解 釈 の 中 に 前 節 で 述 べ た ツ オ ン カ パ の 二 つ の 解 釈 が 含 ま れ て いるのである。つまり、

1

) の 説 は ツ オ ン カ パ が 「 四 勾 否 定j のコンテク ストにおいて示したものであり、

3

) の 説 は 、 ツ オ ン カ パ が 「 非 有 ・ 非 無 の 中 道j のコンテクストにおいて提示したものであると考えられる。

シ ャ ー キ ヤ チ ョ ク デ ン は 、 上 記 の 三 つ の 解 釈 を ま と め て 以 下 の よ う に 否 定している。

その[三つの]主張のいずれであっても、一殻に(=世俗においてはり一切法 は有ることと、勝義としては無で為ると認めることそれが「離辺

J

の意味であると 説明するのである。[しかし]それは正しくない。[というのは]以下のように『宝 行王正論

J

(R

α

avaU)において「世間が有る或いは無いと捉えるその人は、迷っ ており、迷いが有るならば解説しないのである。虚無論者は悪趣に赴き、実在論者 は善趣に赴く。如実に知ることによって二つに依らずに解説することとなる。[ま た]如実に知ることによって、有・無を認めないのである。それ故に、無とならな

‑ 3 4 6

一一

(10)

5 8  

ツオンカパによる

f

非宥・非蕪

J

の解釈(四津谷〉

いならば、どうして有とならないのであろうか。もし有が非難されることによって、

合意としてそれが蕪となる。それと同様に、有が非難されることによって、どうし て無とならないのか。含意として無と主張することもなく、考察することもなく、

菩提の基体として考えることがない人々は、どうして禁と説くのであろうか。葱を 説く入である世間の人々のサーンキヤ派の人々、ヴァイシェーシカ派の人々、ジャ イナ教捷に有と無を超えるかと尋ねてみよ。[彼等は超えないと答えるであろう。]

それ故に、諸仏による無死の説は有と無を超えた甚深なものであると説暁され、

『法の贈り物j と知らねばならない。

J 2 7 )

と説かれているところのこれと汝のその主 張は矛虐するのである。

では、どのように[矛盾する]のであるか。

[それ辻以下のようである。]上記の聖教(=r宝行王正論計においては、有が非 難された時には無と認めるべきで為り、禁が非難された時には有と認めるべきであ るという前主張が設定されて、一方が非難されることによって辻、もう一方を認め るべきであることそれが対論者に(=上記の対論者?)に有るのである。しかし、

仏教徒の説の真髄を把握する人々においては、その過失が有るのではないと説明す るのである。そして、汝はそこにおいて説明されたその前主張を認めているのであ るから、いずれにせよ汝のようであれば、諦として有ること(=語審〉が非難され るならば、言説として無いことが認められるべきである。言説として無が非難され るならば、

f

請として有ることが認められるべきである。jということが前主張の意 味として〔汝によって]説明されるべきである(=認めるべきであるアヘ

シャーキヤチョクデン辻、

f

非 有 ・ 非 無jに 関 す る 三 つ の 解 釈 を ま と め て 次 の よ う に 理 解 し て し て い る む 一 般 に 、 す べ て の 存 在 は 即 ち 世 俗 と し て 有る。これによっては「言説無」が否定されること、 ~p ち「非無J が示さ れ る 。 一 方 、 す べ て の 存 在 は 勝 義 と し て は 無 い 。 こ れ に よ っ て は 「 勝 義 有

J

が 否 定 さ れ る こ と 、 即 ち 「 非 有

J

が 示 さ れ る 。 こ の よ う に 、 「 存jと「無」

は 一 方 が 否 定 さ れ た な ら ば 、 も う 一 方 が 肯 定 さ れ る 関 係 に あ る 。 し か し 、 そ の よ う な 解 釈 は 誤 っ た も の と さ れ る 。 何 故 な ら ば 、 そ こ に お い て は 「 勝 義 有

J

(=諦有〉が否定されるならば、

f

言 説 無

J

( = 世 俗 無 ) が 認 め ら れ る べ き で あ り 、 逆 に 「 言 説 無

J

が 否 定 さ れ る な ら ば 、 「 勝 義 有 」 が 認 め ら

(11)

ツオンカパによる「非有・非無jの解釈(四津谷)

5 9  

れるべきであるからである。

シャーキヤチョクデン自身の「非有・非無」に関する解釈は、以下のよ うである。

それならば、自らの主張(=立場)の離辺(=

r

非有・非無J

)

の理解は何

かというならば、〔以下のようである。]たとえば、「火は熱さを自性として 有することが有るということ

j

が一辺(=有辺)で、世俗諦に執着する人々 のということである。「有法であるその火は熱さを自性とするものとしては無 いということ」が無辺であり、勝義請に執着する人々のということである。

その二つのいずれにも執着しないことが、中観であるということであり、二 辺のいずれにも執差しない人々のということである。そのようであるならば、

二諦のいずれにも執着することが否定されるべきである。以下のように

f

行王正論』において「我と無我を見る人々は、大牟尼によって否定されてい る。牟尼は、見られるもの、障かれるものは諦ではなく、 E童橋でもないと説 かれた。主張よち反主張となる。その時に、それは二つの意味において[存 在]しない。それを見る人は、勝義としては、この世間は請と童掲を超えて いる。それ故に、真実としては有と無と認められないのである。そのように、

調ものもまったく有るのではないならば、それは一切智者によって有辺と無 辺と共と不共とどうして語られえょうか。

J 2 9 l

と説かれているお}。

このように、シャーキヤチョクデンにとって、たとえば、世俗諦として 火の熱さが昌体として成立することが「有辺

J

なのであり、勝義諦として その火の熱さが成立しないこと(=無〉が自性(=自体)としてあること

f

無辺」なのである

G

シャーキヤチョクデンは、この『中観決択』第三 章の最初の箇所で二段階の勝義の学習の仕方、即ち

f

誇執という載論を断 じる点から勝義諦に入る実接

J (bden ' d z i n  g y i  s p r o s  pa bcad p a ' I  sgo  nas don dam p a ' I  bden pa l a  ' j u g  p a ' I  spyor ba)

と「諦無という裁論を

一 ‑344‑

(12)

6 0  

ツオンカパによる「非有・非無jの解釈{西津谷)

も断じる点から本当の勝義請に入ること

J (bden med k y i  s p r o s  pa yang  bcad p a ' i  sgo nas don dam p a ' i  bden pa dngos l a  ' j u g  pa)

に言及して いる却。この中、前者における「諦執

J

、部ち事物が実体的に存在すると いう分別(=戯論〉を欝じることは「有の否定

J (= I

非有

J )

のことであ り、一方後者における「諦無

J

、部ち事物が実体的に存在しないという分 別を断じることは「非無

J

のことであると考えられる。特に、後者は事物 に実体的な無を想定する分別ではなく、事物が実体的に存在しないという、

言い換えれば事物が無言d性であると理解する分割であることが、ここにお いては重要なのである。 何故ならば、上記のように、それは自

1 '

空が否定さ れたならば、そこにおいては無自性が定立されなければならないというよ

うなツオンカパの説がそこで否定されていると考えられるからであるお)。

V I  

最後に、ナーガ

j

レジ、ユナ、ツオンカパ、シャーキャキョクデンによる

f

非有・非無jの解釈の要点を示しておこう。

(ナーガールジ、ユナ〉

非 有 : 実体的な有の否定 非無: 実体的な無の否定 {ツオンカノて)

I

四匂否定jのコンテクストにおいて

非 有 : 自体によって成立する(=実体的な)有の否定 非 無 : 自体によって成立する(=実体的な)無の否定

2)  I

中道jのコンテクストにおいて

非 有 : 事 物 が 自 性 に よ っ て 有 る こ と ( = 実 体 有 ) の 否 定 (→正理による実体春の否定)

非 無 : 絶対無の否定(→言説有の定立) これを換言すれば、

非 有 : 勝義として自体によって成立するものの否定

非 無 : 世俗(=言説〉として効果的作用が有ると認めること

(13)

ツオンカパによる「非有・非無

J

の解釈{西津谷)

6 1  

(シャーキヤチョクデン)

非有: 諦執、開ち事物が実体に存在するということを否定 すること

非無: 諦無、期ち事物が実体的に存在しない(=無自性で ある〉という分別を否定すること

略号表

BNg:  Thegp α c h e n  po dbu ma  rnam n g e s  p α ' i   mdzad l u n g  

d

α ng  r i g s  p a ' i  rgya mtsho l a s  bden p α g n y i s  k y i s  kh α ng bzang  chenpor 

'j

ugp α ' il e ' u  g n y i s  p α

〈dBum

α r n α m n g e " )

, 

The C o l l e c t e d  Works  01  Gser mdog  p , α n  c h e n   S α kyamchog  l d a n

, 

vo

l. 

1 4

, 

Thimphu

, 

1 9 7 5 .  

LR:  By α ng chub lam rim c h e n  mo

, 

bKra s h i s  lhung po e d .   ( T h e   C o l l e c t e d  Works  01  r J e  Tsong kh αpα Blo bzang gn α gs pa

, 

vo

1.

2 0 )

, 

Delhi

, 

1 9 7 9 .  

r1M瓦:

P :   RG: 

M

α f madhyam α kakarika

e d .  by de Jong. 

Peking 

(= 

B e i j i n g )   e d .  vo

1.

1 2 9  

dBum α r t s a  b a ' i  t s h i g  l e ' u r  by α sp α s h e s  n α b  c e s  by α b a ' i   mam  bshad r i g s  p a ' i  rgya mtsho

, 

bKra s h i s  lhung po e d .  

(The C o l l e c t e d  Works  01  r J e  Tsong kh α p α Blobz α nggn α gs  p α,  vo

1.

2 3 )

, 

D e l h i

, 

1 9 7 9 .  

RV:  R α tnav α

li 

YS:  Y u k t i s α s t i k a

, 

S h e r r e r ‑ S c h a u b  

(1

9 9 1 J .  

引用及び参考文戴

de Jong

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Jan W. 

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‑ 3 4 2

一一

(14)

62  ツオンカパによる「非有・非無jの解釈(四津谷)

Hahn

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Michae

l. 

1 9 8 2 :   N i i g i u ブ un α 'sR α t n i i v α t i

vo

1.

1

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The B a s i c  T e x t s  ( S a n s k r i t

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T i b e t a n

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C h i n e s e )

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INDICA ET TIBETICA

, 

Monographien  z u   den  Sprachen  und  L i  t e r a  t u r e n   d e s   i n d o ‑t i b e t i s c h e n   Kulturraumes

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INDICA ET TIBETICA VERLAG

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t h e  Comp α t i b i l i t y   01 Emptiness α

dConvention α l  Phe‑

nomen α

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London. 

(15)

Oe

k e

C l a u s   1 9 8 9 :  

ツオンカパによる「非有・非無

J

の解釈(四捧谷)

6 3  

Rationalismus und Mystik i n   d e r  P h i l o s o p h i e   N 主 g 忌 r J ‑ unas"

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S t u d i e s n z u r  I n d o l o g i e  und I r a n i s t i k

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Heft15

p p . 1 ‑ 3 7  

Kalupahana

, 

Davi 止 J .

1 9 8 6 :   Mul α mdhyam α k a k e i r i k e i   0 1   N e i g e i r j u n α‑The p h i l o s o p h y  

0 1   t h e  

1¥

, [ i d d l eWay‑l n t r o d u c t i o n

, 

S α n s k r i t  Te χ t

, 

E n g l i s h   T r a n s l a t i o nαnd Annot α t i o n

, 

S t a t e   U n i v e r s i t y   o f   New  York

, 

New Y  o r k .  

Okada

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Y u k i h i r o .  

1 9 9 0 :   N e i g e i r j u n a ' s  R a t n e i v a l i

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v o l .  2

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Die R a t n a v e i l i t i k a   d e s   Ajitamitra

, 

INDICA ET TIBETICA

, 

Monographien z u  den  Sprachen und L i t e r a t u r e n  d e s  i n d o ‑ t i b e t i s c h e n  K u l t u r r a u ‑ mes

, 

Band 1 9

, 

INDICA ET TIBETICA VERLAG

, 

Bonn. 

Robinson

, 

Richard H. 

1 9 6 7 :   Early Meidhy α mik αi n  l n d i α nαnd Chin α

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Madison

, 

U n i ‑ v e r s i t y  o f  Wisconsin P r e s s .  

S e y f o r t

, 

Ruegg

, 

D. 

1 9 7 7 : The Use o f  t h e  Four P o s i t i o n s  o f  t h e  C a t u s k o t i  and t h e   Problem o f  t h e  D e s c r i p t i o n  o f  R e a l i t y "

, 

J o u r n a l  o f  I n d i a n   Philosophy 5

, 

p p . 1 ‑ 7

1. 

1 9 8 3 : The T h e s i s  and A s s e r t i o n  i n  t h e  Madhyamaka /  dbu ma. " 

I n  C o n t r i b u t i o n s  on T i b e t a n  and Buddhist R e l i g i o n s  and  P h i l o s o p h y .   (WSTB

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‑ 3 4 0

一一

(16)

6 4  

ツオンカパによる

f

非有・非無」の解釈(四津谷〉

S h e r r e r ‑ S c h a u b

, 

C r i s t i n a  Anna. 

1 9 9 1 :   Yu

紅 白

αs t i k a v r t t i

Commentaire 

l a   s o i x αn tαi n e  s u r  l e   r a i s o n n e m e n t  ou Du v r a i   e n s e i g n e m e n t   de  l a   c αu s a l i t e   p αr l e   Maitre  i n d i e n   G αndn α k i r t i

, 

I n s t i t u t e   B e l g e   d e s  

Haustes Ettdes C h i n o i s e s

, 

B r u x e l l e s .  

S t a a l .   J .   F .   1 9 6 2 :  

1 9 7 5 :  

1 1 1

武義

Negation and t h e  Law  o f  C o n t r a d i c t i o n  i n l n d i a n  Thought: 

A Comparative S t u d y "

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1 9 8 6 :   r r

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1 9 3 4 : The Ratnavali o f  Nagarjuna"

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1 9 3 6 : The Ratnavali o f  Nag

r j u n a "

J o u r n a l   o f   t h e   Royal  A s i a t i c  S o c i e t y

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ツオンカパによる「非有・非蕪」の解釈(四津谷〉

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L

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1 9 9 8 :   ITsong kha pa

における無自性論証と純粋否定j、 仏 教 文 化 研究論集、第

2

pp.58‑82

1 9 9 9 :   I

ツオンカパにおける世俗の世界ム霞際仏教学大学説大学研 究紀要、第

2

p p . 2 5 ‑ 6 8 .

1  )  Kalupahana [ 1 9 8 6 J   2) S e y f o r t  Ruegg 

[1

9 7 7 J .   3 

) 四 津 谷 口

9 9 9 J .

4) S e y f o r t  Ruegg [ 1 9 8 3 ]

, 四 津 谷 口

9 8 5 ] . 5) S e y f o r t  Ruegg [ 1 9 8 3 ] .  

6) heto

phalasyacaikatva

rp. 

na h i  jatupapadyate 

heo

phalasyacanyatva

rp. 

na h i  jatupapadyate 

11 

M M 瓦 . 2 0 . 1 9 .

(de  Jong [ 1 9 7 7 J

, 

p . 2 7 )  

7) gata

rp. 

na gamyate t

vadagata

平 工

l a i v agamyate 

gat 五 g a t a v i n i r

工工lU

kta

rp.

gamyamana

na gmayate 

11 

MMK.2.

1. 

(de  Jong [ 1 9 7 7 J

, 

p . 2 )  

8) na s v a t o  n

p iparato na dvabha

rp. 

napy ahetu

l). 

utpanna j a t u  vidyante bh

vahkva cana ke cana 

11 

MMK. 1 . 1 .

, 

(de  Jong [ 1 9 7 7 J

, 

p . 1 )  

)握山

[ 1 9 9 7 J

,立)

1 1 [ 1 9 8 6 ] .  

1 0 )   katyayanavavade c a s t l t i  n a s t l t i  cobhyam 

‑338

一一

(18)

6 6  

ツオンカパによる「非存・非無

J

の解釈(四津谷)

p r a t i

tiddha

rp.

bhagavata bhavabhavavibh

v l n

丞 // 

MMK.15.  7 .

, 

(de  Jong [ 1 9 7 7 J

, 

p . 1 9 )

, 

Sαmyutt α N i k i i y α(PTS)

,豆

. p p . 1 9 f .

1 1 )   a s t i t i  sasvatagr

hon a s t i t i  ucchedadarsanam / 

tasmad a s t i t v a n a s t i t v e  nasriyeta v i c a b ; ; a n a

l).  // 

MMK.15.10.

, 

(de Jong 

[1

9 7 7 J

, 

p . 2 0 )  

1 2 )   bhavasya ced aprasiddhir abh

vonaiva sidhyati / 

bhavasya hy anyathabhavam abhavar

1 bruvate 

ana

l).  / 

M 託 K.15.5.

( d e  Jong [ 1 9 7 7 J

, 

p . 1 9 )  

1 3 )   avidyamane bhave ca kasy

h

vo bhavi~yati / 

bhav

bhavavidharmaca bhavabh

vava v a i t i  kah /  /  MMK.5.6.

, 

(de  Jong [ 1 9 7 7 J

, 

p . 7 )  

1 4 )   k

rakahsadasadbhutah sadasat kurute na t a t  / 

parasparaviruddha

rp. 

h i  sac casac caikatah kutah /  /  MMK.8.  7 .

, 

(de  Jong [ 1 9 7 7 J

, 

p . 1 2 )  

1 5 )   Seyfort Ruegg [ 1 9 7 7 ] .  

1 6 )   aparapratyaya

rp.

nta

rp.

prapancair aprapanitam / 

nirvikalpam ananartham e t a t  tattvasya  lak~a主am // MMK.18.9.

, 

(de  Jong [ 1 9 7 7 J

, 

p . 2 5 )  

1 7 )   dbu ma'igzhung rnams nas dngos po' am  rang bzhin yod pa  dang med  pa dang gnyis ka dan

gnyiska min pa'imu bzhi thams cad bkag l a

der ma  ' d u s  p a ' i  chos kyang med  pas r i g s  pas thams cad 'gog go snyam  na / (LR.pa.382b4‑5) 

1 8 )   ' d i  n i  sngar bstan pa l t a r  dngos po l a  gnyis l a s  rang g i  ngo bos grub 

p a ' i  dngos po n i  bden pa gnyis gang du yod par 'dod kyang 'gog l a  

don byed nus p a ' i  dngos po n i  tha snyad du 'gogpamayinno// dngos 

po med  pa' ang 'dus m a   byas rnams l a  rang g i  ngo bos grub p a ' i  dngos 

med du 'dod na ni de 'dra b a ' i  dngos ( p a . 3 8 3 a )  med kyang 'gog go / 

de bzhin du de ' d r a  b a ' i  dngos po yod med gnyis car yang 'gog la 

gnyis ka ma  yin pa rang g i  ngo bos grub pa'ang 'gog pas mu  bzhi 

'gog t s h u l  thams cad n i  de l t a r  du shes par bya'o // (LR.pa.382b5‑38 

(19)

ツオンカパによる

f

非有・非無

J

の解釈(四津谷)

6 7   3 b 1 )  

1 9 )   de 'dra b a ' i  khyad par sbyar rgyu med par mu  bzhi ga 'gog na dngos  po yod pa dang dngos med pa 'gog p a ' i  t s h e  de gnyis ka m a   yin t e   zhes bkag nas s l a r  yang gnyis ka ma  yin pa'ang ma  yin zhes bkag na  ni kha8 blangs dngos su ' g a l  ba yin l a  de l t a r  yin kyang skyon med  do zhes bsnyon na n i  mkho bo cag smyon pa dang lhan c i f  tu mi  rtsod  do /  / (LR.pa.383al‑3) 

2 0 )   de l t a r  ye med pa dang rang bzhin med pa dang rang g i  ngo b08 grub  pa dang yod pa tsam gyi khyad ma  phyed par yod med  kyi mthar ltung  ba ' g e g s  pa na kho bo cag med par mi  smra yi yod pa ma  yin zhes z e r   ro /  /  yod par mi  smra yi med pa ma  yin zhes z e r  ba yin no zhes smra  ba tsam l a  r e  bas n i  ' g a l  'du sha stag s

razhing dbu ma'i don yang  cung zad kyang mi  shod de /  gzhan la dgag pa byed p a ' i  t s h e  na rang  bzhin yod med gnyis l a  sogs p a ' i  brtag pa byas nas 'gog pas de gnyis  su kha tshon chod dgos par rang nyid kyis khas blangs bzhin du de  gnyis gang yang min p a ' i  don 'dod p a ' i  phyir ro // (LR.pa.358b4‑6)  2 1 )

西 津 谷 江

9 9 8 ] .

2 2 )   des na chos thams cad l a  rang g i  ngo bos grub pa rdul tsam yang  gdod ma  nas med  par rtogs pas yod mthar mi ltung ba yin la 出 l t a na'ang myu gu l a  sogs p a ' i  dngos po rnams don byed p a ' i  nus pas  stong b a ' i  dngos med du mi ' g r o  bar rang rang g i  bya ba byed pa l a   mthu yod par nges p a ' i  nges shes 'drangs na med p a ' i  mtha' spong  ba yin no /  / (LR.pa. 3 5 6 b l ‑ 3 )  

2 3 )   dve satye samupasritya buddhan

m dharmadesana/ 

lokasamv

:ci

t i s a t y a

:rp̲ 

ca stya

:rp̲ 

ca paramarthatat /  MMK.24.8.

, 

(de  Jong [ 1 9 7 7 J

, 

p . 3 4 )  

(下隷筆者)

2 4 )   de yang sangs rgyas rnams kyis chos b8tan pa /  /  bden pa gnyis l a   yang dag brten /  zhes skye ' j i g  80gS yod pa kun rdzob dang med pa  don dam  par yin p a ' i  bden gnyis dbye shes dgos par gsungs s h i n g " " "  

(RG.  b a . 1 8 a 2 ‑ 3 )  

一一

3 3 6

一一

(20)

6 8  

ツオンカパによる「非有・非無

J

の解釈(西津谷)

2 5 )

四津谷

[ 1 9 9 8 J

2 6 )   d e ' i  don la mthun par'di skad c e s  smra s t e  /  bden par yod pa yang  m a   yin /  tha snyad du med pa yang ma  yin /  zhes 80gs su khas l e n  par  byed pa yin gyi /  sgra j i  bzhin par khas blangs na  dng08 ' g a l  gyi phung  po mi  zad pas non par gyur ro /  /  zhes z e r  pa dang /  kha c i g  n i  /  yod  par yang zhen pa m a   yin /  med pa yang bden par m a   yin /  zhes sogs  su 'chad pa mtha' bral gyi don yin zhes z e r  ro // CBNg.ga.29a7

2 ) 2 7 )   RV. nge.131b6‑132a2 

2 8 )   lugs de gsum gang l t a r  na yang / spyir chos thams cad yod pa  dang /  don dam par med pa nyid du khas l e n  pa de mtha' bral gyi don  nyid du 'chad pa yin no /  /  de n i  r i g s  pa ma  yin t e   /  j i   skad du /  r i n   po che'i'phreng ba l a s  /  ' j i g  r t e n  yod pa'am med pa zhes /  / ' d z i n  pa  de ni rmongs pa s t e  /  /  rmongs pa yod na mi  gro1 1 0  /  /  med pa pa n i   ngan 'gror ' g r o  /  /  yod pa pa n i  bde '  gror '  gro /  /  yang dag j i   bzhin  yongs shes phyir /  /  gnyis l a  mi r t e n  thar par 'gyur /  /  yang

g J 1  

bzhin yongs shes pas /  /  yod dang med par mi '  dod pa /  /  de phyir med 

pa par '  gyur na /  /  c i  phyir yod pa par mi 'gyur /  /  gal t e  yod pa sun 

phyung bas /  /  don gyis de n i  med par bslan /  /  gang dag don gyis med 

nyid du /  /  dam  mi ' c h a '  mi  dpyod l a  /  /  byang chub brten phyir sems 

med pa /  /  de dag j i   l t a r  med par bshad /  /  gang zag phung por smra 

ba y i  /  /  ' j i g  r t e n  grangs can ' u g  phrug dang /  /  gos med bcas pa gal 

t e  zhig /  /  yod med ' d a s  par smras na d r i s  /  /  de phyir snags rgyas 

rnams kyis n i  /  /  bstan ' c h i  med yod med l a s  /  / ' d a s  pa zad mo  zhes 

bshad pa /  /  chos kyi khud pa yin zhes gyis /  /  shes gsungs pa ' d i  dang 

khyed kyi 'dod pa de 'gallo // j i   l t a r  zhe na /  j i   skad du bshad pa'i 

lung der ni yod pa sun phyung ba na /  med par kahs l e n  dgos /  med 

pa sun phyung ba na yod par khas l e n  dgos shes  (30a)  p a ' I  phyogs 

snga ma  bzhag nas /  gcig sun dbyung bas c i g  shos khas l e n  dgos pa 

de phyi r o l  pa l a  yod pa yin gyi /  sangs rgyas kyi bstan p a ' i  snying 

po ' d z i n  pa dag l a  nyes pa de yod pa ma  yin no zhes bshad l a  /  khyed 

(21)

ツオンカパによる「非有・非蕪

J

の解釈(四捧谷〉

6 9   cag g i s  n i  der bshad p a ' i  phyogs snga ma  de khas blangs p a ' i  phyir /  gang yang khyed l t a r  na /  bden par yod pa sun phyung ba  na  tha snyad  du med pa khas l e n  dgos so /  /  tha snyad du med pa sun phyung na  bden par yod pa khas l e n  dgos so /  /  zhes z e r  ba phyogs snga ma'I don  du 'chad dgos l a  / . . . .   (BNg.ga.29b7‑30a3) 

2 9 )   RV. nge.133b7‑134a2 

3 0 )   '0  na rang lugs kyi mtha' bral gyi go ba gang she na /  dper na me  tsha b a ' i  rang bshin du yod pa n i  yod pa zhes bya b a ' i   (31b)  mtha'  s t e  /  kub rdzob kyi bden pa l a  mngon par zhen pa rnams kyi'o// chos  can med de tsha b a ' i  rang bzhin du med do zhes bya ba n i  /  med pa  zhes bya b a ' i  mtha' s t e  /  don dam p a ' i  bden par mngon par zhen pa  rnams kyi'o // de gnyis gang du yang mi ' d z i n  pa n i  /  dbu ma'i lam  zhes bya ba yin t e  /  bden pa gnyis po gang du yang mngon par mi  zhen pa rnams k y i '   0 /  /  r i n  po c h e ' i  phreng ba l a s  /  bdag dang bdag  med l t a  ba dag /  / de phyir thub pa chen pos bzlog /  /  mthong dang  thos sogs thub pa y i s  /  /  bden min bdzun pa min par gsungs /  /  phyogs  l a s  mi  mthun phyogs 'gyur na /  /  de n i  gnyis ka don du min// de b l t a s   dam  p a ' i  don du ni /  / ' d z i g  r t e n  ' d i  ni bden brdzun ' d a s  /  /  de nyid  phyir na yang dag t u  /  /  yod c e s  med c e s  zhal mi  zhes /  /  gang zhig de  l t a r  rnam kun t u  /  /  yod min de n i  kun mkhyen gyis /  / mtha' yod  mtha' med gnyis ka dang /  /  gnyis ka min zhes j i   l t a r  bstan /  /  zhes  gsungs so // (BNg.ga31a7‑b

3 1 )   BNg.ga3bl‑6. 

3 2 )   I

離辺中観

J

に関して辻、松本

[ 1 9 8 2 J

[1

9 9 7 J

, 

p p . 3 2 1 ‑ 4 0 2 .  

一 ‑334

(22)

70  ツオンカパによる「非有・非無jの解釈(囲津谷)

Summary 

Tsong  ka  p a '  s Two  I n t e r p r e t a t i o n s   o f   Neither  Existence nor Non‑existence" 

Kodo  Y  o t s u y a  

The Middle Way may be

, 

roughly s p e a k i n g

, 

understood from t h e   p h i l o s o p h i c a l  p o i n t  of view t h a t  t h i n g s  a r e  n e i t h e r  e x i s t e n t  nor n o n ‑ e x i s t e n t  

(非在非無).

Nagarjuna seems t o  assume t h a t  t h i s  p h i l o s o p h i c a l   u n d e r

anding o f   t h e   Middle Way i s   taught  s o   a s   t o   c a n c e l   any  d i s c u r s i v e  knowledge whatsoever

, 

i n c l u d i n g   d i s c u r s i v e   knowledge of  e x i s t e n c e   and t h a t   o f  n o n ‑ e x i s t e n c e

, 

both  o f   which p e r t a i n   t o   t h e   most fundamental  c a t e g o r i e s   by which t o   comprehend  phenomena. 

Tsong kha pa g i v e s  two s o r t s  o f  i n t e r p r e t a t i o n s  o f   n e i t h e r  e x i s t c n c e  

nor n o n ‑ e x i s t e n c e . "   I n  a c o n t e x t  which c o n c e r n s t h e  f o u r  a l t e r n a t i v e  

p o s i t i o n s "   ( c a t u

l).

‑kot) along t h e  same l i n s   a s   Nagarjuna d o e s   and 

assumes t h a t  one s h o u l d  negate any d i s c u r s i v e  knowledge whatsoever 

t h a t  p r e s u p p o s e s  h y p o t h e s i z e d  e n t i t i c s

, 

namely

, 

not o n l y  h y p o t h e s i z e d  

e x i s t e n c e  

()

but h y p o t h e s i z e d  n o n ‑ e x i s t e n c e  

(無)

a s  w e l l .  However

, 

u n l i k e  o t h e r  Madhyamaka f o l l o w e r s

, 

i n c l u d i n g  N

garjuna

he t h i n k s  

t h a t  mental a c t i v i t i e s  should be c l a s s i f i e d  a s  v i r t u o u s   ( p r a j n a )   v i z .  

t h e  understanding o f  n o n ‑ s u b s t a n t i a l i t y  ( v i c i o u s ) .  We  must n o t d i s c a r d  

t h e   forme

r. 

I n   another  c o n t e x t

, 

he g i v e s   another i n t e r p r e t a t i o n  of 

i  t  i n   terms of t h e   two t r u t h s  t h e o r y "   ( s a t y a ‑ d v a y a ) .  I t   shows t h a t  

t h e  h y p o t h e s i z e d  e n t i t i e s   a r e  d e n i e d  on t h e  uhimate l e v e l  

(非宥),

but 

everyday t h i n g s  must remain u n d e n i e d  

(非無)

on t h e  c o n v e n t i o n a l l e v e

l. 

参照

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