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移ろいゆく唄々 ~暮らしとともにあるもの~ 松本佳織

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Academic year: 2021

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移ろいゆく唄々

~暮らしとともにあるもの~

松本佳織

はじめに 1 民謡とは

1.1 民謡の概念 1.2 民謡の分類 2 中川根の生活と唄

2.1 茶摘み唄・茶揉み唄 2.2 手毬唄・お手玉唄 2.3 子守唄

2.4 御詠歌

ご え い か

3 考察 おわりに

参考資料・文献・HP

はじめに

夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る

「あれに見えるは茶摘みぢやないか あかねだすきに菅

すげ

の笠」

(文部省唱歌 『茶摘』より)

この『茶摘』という唄は、茶の収穫期に当たる初夏の風景を歌ったものだ。明治 45 (1912) 年に刊行された『尋常小学唱歌 第三学年用』にて発表された文部省唱歌であり、現代でも 小学校の音楽の教科書に記載されている有名なものである。しかし実際には、機械化が進 んだ現代において、「茶摘」に歌われているような風景はまず見られない。今回の調査地で ある旧中川根地域は銘茶の産地だが、ほとんどの茶園で機械による適作が行われている。

では何故この唄は、「あかねだすきに菅の笠」の茶摘み風景が失われた現代の教育現場に残 されているのだろうか。『茶摘』のような、かつての日本の日常を歌った唄が持つ役割と、

それらの唄を現代の子供たちに伝えることの意義とに興味を持った。

本報告書では、水川を中心とした旧中川根地域でどのような生活が営まれ、その中でど

のような唄が歌われてきたのかを探り、唄の持つ役割と保存の意義について考えていく。

(2)

1 民謡とは

ここでは「民謡」という語句について定義する。なお、この節において、特に表記がな い限り『日本民謡大辞典』 (浅野編 1983) を参考資料としている。

1.1 民謡の概念

「民謡」という語が現在の意味に近い形で使用され始めたのは 1900 年代以降になってか らである。それ以前の一般的な用語としては、俗謡・俚

さと

うた

・風俗歌・地方唄などの呼称が 普通とされたという (長野 2007) 。 「民謡」とは、創作者が問われず、地域の生活の中に組み 込まれ、主に口伝えで伝承され、規範形式がなく、一過性でなくある程度の期間歌われ続 けてきた歌郡を指す。「民謡」は地域の人々の間で自然発生的に生まれ、口伝えにより伝播 するため少しずつ変化する性格を持つ。これら自然性・伝承性・集団性という要素に加え、

ありのままの人間生活から生み出されたことによって伴う素朴性、郷土性こそが「民謡」

の本質である。

また、昭和 2 (1927) 年に鉄道会社の CM ソングとして作られた静岡県の「ちゃっきり節」

のように、作者が明確であるが (北原白秋作詞、町田嘉章作曲) 創作者を意識せずに郷土の歌とし て定着した場合、「新民謡」と呼び、 「民謡」の範疇に入れてもよいとされている。

1.2 民謡の分類

民謡の分類案は諸説あるが、もっとも多く用いられるのは、柳田国男の民俗学的分類案 である。柳田は『民謡覚書』のなかで、民謡は必ず歌われる目的と場所が定まっていると して、その歌われる場所および歌い手の身柄を中心に次の 10 項目に分類した。

(1)田歌――田打唄・田植唄・草取唄・稲刈唄など

(2)庭歌――屋敷内の作業場での仕事に伴うもの。稲扱唄・麦打唄・臼摺唄・粉挽唄など (3)山歌――山林原野に出て歌うもの。山行唄・草刈唄・杣唄・川狩唄など

(4)海歌――水上の生活、水産一般の作業に伴うもの。船卸唄・網起し唄・鯨唄・海苔採節 など

(5)業歌

わざうた

――特定の職業に携わる人だけが歌うもの。大工唄・木挽唄・茶師唄・酒屋唄など

(6)道歌――旅唄・坂迎唄・牛追唄・木遣唄・道中唄など (7)祝歌――座敷唄・嫁入唄・酒盛唄・酒勧唄など (8)祭歌――宮入唄・神迎唄・神送唄など

(9)遊歌――専ら民間の儀式に用いられるもの。田遊唄・盆唄・踊唄 (盆踊や雨乞踊) など

(10)童歌――子守唄・手毬唄・お手玉唄など

すべての民謡をこの分類に当て嵌めようとすると、区別しにくいものも出てくる。しかし

この分類によって、日本における民謡がどういう機会にどういう目的で、つまりどのよう

(3)

な「場」で歌われるかが明確になる。また、なんらかの作業に伴う仕事歌が中心となって いるのも見て取れることから、民謡が歌われる「場」は、生業と密接にかかわっていると 言える。つまり、唄の変化について考察するにあたり生業や生活の変化に着目することは、

非常に重要な意味を持つのである。

本報告書で取り上げる唄は、それぞれ山歌 (茶摘み唄) 、業歌 (茶揉み唄=茶師唄) 、童唄 (子守唄・

手毬唄・お手玉唄) に分類できる。御詠歌

ご え い か

については詳しくは次節で述べるが、浄土宗の歌な ので民謡とは言えないだろう。しかし、生活のなかに根ざした唄として、対象の 1 つとし て取りあげたい。

2 中川根の生活と唄

調査のなかで実際に採録できた唄、話だけではあるが、かつて歌われていたと思われる 唄などを時代とともに生活の変化を追いながらあげていく。

2.1 茶摘み唄・茶揉み唄

水川を含め川根地域は、全国的にも有名な茶の産地であり、茶産業こそが主な生業であ る。製茶は茶摘み・茶揉み・仕上げ加工・包装という工程で行われる。現在では全行程が 機械によって進められるが、昭和後期までは人の手によって行われていた。

毎年、茶の摘み手が必要な一番茶の季節になると、南方の平野部から若い娘や少数の高 齢の女性を臨時に雇い入れる農家が多かった。彼女らは「お茶摘みさん」と呼ばれ、雇用 主である農家に寝泊まりし、朝 5 時くらいから畑に出て休憩を挟みながら 18~19 時まで茶 を摘んだ。実家が茶農家だったという A さん (80 歳代前半 女性) の話では、お茶摘みさんたち の食事は、畑に出る前の「茶の子」と呼ばれる食事、9 時頃に朝食、2 時頃に「ヨージャ」

と呼ばれる昼食、そして仕事後の夕食と、長時間労働だったために回数も多く、農家の主 婦は大変だったという。当時の子どもたちは 10 歳前後で茶摘みの手伝いを始めるのが普通 で、学校に「お茶休み」という休暇があったほど一番茶の季節は忙しく人手を必要として いた。小学校の高学年にもなれば労働力として認められていたのである。お小遣いをもら えるのを楽しみにする子どももいたが、年上のきれいなお茶摘みさんたちに交じって摘み 真似をすること自体が嬉しかったという。

大正時代までは、茶摘みをしながら茶摘み唄を歌っていた。若い娘が集まって作業する ものだから、手よりも口を動かしてしまいがちになるため、能率を落とすことがないよう にと配慮して唄を歌うことを勧めた農家が多い (静岡県民俗芸能研究会 1983) 。茶摘み唄には、

茶の栽培や茶摘みの技術などを教える唄、お茶摘みさんとお茶師さん (手揉みをする人) の恋の 唄、お茶摘みさんとお茶師さんの待遇の違いに不満を漏らす唄などがあり、歌詞から当時 の生活をうかがい知ることができる。

『お茶を摘むなら根葉からおつみ』というフレーズで始まるお茶の摘み方を教える唄が

県内各地で歌われていた。水川が位置する中川根でも次のように歌われていた。

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お茶を摘むなら 根葉からおつみ/根葉にゃ 芽もあるこくもある 八十八夜が 二度ありゃ良かろ/そうよ主さんに 二度会える 川根よいとこ 良い茶の出どこ/娘やりたや 婿ほしいよ

つめばたまるよ ピンカの葉でも/つまにゃたまらぬ 芭蕉葉でも (森薗 2001)

村外から人を雇っていたために、県内の他地域の歌詞と融合している可能性もあるだろう。

また、古くから銘茶の産地として知られてきた地域だけに、村自慢・茶自慢をする唄や地 名を読み込んだ唄も多い。

お茶は静岡 銘茶は川根/味と香りは 日本一 お茶の出どこは 川根が本場/箕先揃ふて 味が良い 川根来て見よ 五月の中旬

な か ば

/茶摘む乙女の 赤だすき 川根出た茶は 安西茶町/清水港から 横浜へ 清水港から 汽船につんで/風にゆられて 横浜へ

(森薗 2001)

しかし、昭和に入ると茶摘み唄は徐々に歌われなくなってしまった。 Aさんによると、 「6、

7 歳頃から茶摘みの手伝いを始めたが、その頃はもう唄を歌うのではなく、おしゃべりしな がら作業していた」という。中川根が手摘み・手揉みを長い間続けていたのに比べ、お茶 摘みさんたちの主な出身地である平野部では、早くから製茶機械および茶鋏を導入してい た

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。茶摘み唄の消滅はこの事実に関係している可能性がある。茶摘みの担い手であるお茶 摘みさんたちの暮らす平地の茶園では、昭和以前から茶鋏が使用されていた。茶鋏は手摘 みの 4~10 倍もの作業効率を持つといわれ、摘採作業は当然能率化が進んでいたことだろ う。このような時代背景のなかで、お茶摘みさんたちの間で「茶摘み唄を歌う」という習 慣が薄れていったのではないかと考えられる。Aさんに「ラジオを聞きながら作業する人も いた」「流行歌を歌っていた気もするんだけど」という話もうかがったので、ラジオの普及 により流行歌にとってかわられたケースも考えられる。

次に茶揉み唄について見てみよう。中川根において茶揉みに機械が使用され始めたのは 大正初期のことである。しかし、茶の品質低下につながるとして、一度は製茶機械の追加 設置が禁止された。本格的に機械が導入されたのは昭和初期のことである。機械が使用さ れる以前は、お茶師さんと呼ばれる男性が手で揉んでいた。高温多湿の部屋で 5 時間近く 茶葉を揉み続けるので、大変な重労働だったという。そのため唄を歌い気力を充実させ、

お茶師同士が互いに元気づけていたのである。

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詳細は(尾沼 2008)を参照。

(5)

五月なかばにョ 静岡通らばョ/ァー汽車の中まで ァーお茶の香りョ

お茶のでんぐりもみはョ 小腕が痛いョ/ァーもませたくない ァーわが妻にョ お茶がよれずにョ 体がよれたョ/ァーお茶とからだがョ 変りゃよいョ (森薗 2001)

茶摘み唄・茶揉み唄ともに実際に聞くことは叶わなかったため、前述した 3 つの唄は『お 茶の唄々』 (森薗 2001) から引用した。どれも昭和以前に歌われていたものであるため、実 際に歌って作業していた人やある程度正確に覚えている人が現在ではほとんどいないので ある。

2.2 手毬唄・お手玉唄

ゴム毬が水川へ入ってきたのは昭和 7 (1932) 年頃である。A さんは「8 歳の時に親戚から 毬をもらって、とても嬉しかったのを覚えている」と語ってくれた。当時の子ども、特に 女の子はよく毬つきをして遊んだという。その際に歌ったという唄が次のものである。

一番初めの一宮 二は日光の東照宮

三また桜の宗五郎 四はまた信濃の善光寺 五つ出雲の大やしろ 六つ村々鎮守様 七つ成田の不動さん 八つ大和の法隆寺 九つ高野の弘法さん

写真 1 『わらべうた』より 十で東京の泉岳寺

これで一貫貸しました (歌詞提供 A さん)

毬をつきながら歌い、何回つけるか競ったのだろう。写真 1 は、川根で個人的に童歌の採 集をしていらっしゃる堀畑章子さん (70 歳代前半 女性) がまとめた資料から抜粋した。 A さん が歌っていた唄と同じものと思われる。多少歌詞に違いはあるが、メロディや歌い出しは 私も聞いたことがある唄なので、地域差はあれど全国的に知られている数え唄かと思われ る。

B さん (90 歳代前半 女性) は上記とは異なる手毬唄を歌って遊んだという。その歌詞を提供

してくれた。

(6)

一れつらんぱん破裂して 日露戦争始まって

さつさつと逃げるは露シヤ(露西亜)の兵 死んでもつくすは日本人

五万の兵をひきつれて 六人残して皆ころし 七月十日の戦いに

ハルピンまでもせめいつて(攻め入って) クロバトキンの首を取り

東郷大将ばんばんざい

歌詞にもあるように、明治 37 (1904) 年から翌年まで続いた日露戦争を題材にしている。ハル ピンとは中国黒竜紅省のハルビン市のこと、クロバトキンとは日露戦争当時ロシア満州軍 総司令官であったアレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキンのことだと思われる。た だし、クロパトキンは日露戦争で戦死したわけではなく、大正 14 (1925) 年まで生きているの で、愛国心、あるいは勝利を強調するための表現であると考えられる。日露戦争当時、子 供達に愛国心の芽生えを促し日本国民としての団結を意図して作られたものが、 B さんが物 心つく頃まで継承されたと推測できる。民謡のなかにはこのように、政治的要素を持つも のや、1.1 であげた「ちゃっきり節」のように経済効果を狙ってつくられたものが含まれて いる。意図的に作られた唄が生活のなかに溶け込み、民謡として歌い継がれていったのだ ろう。

毬つきと並んで女の子の間で人気だったのがお手玉遊びである。中川根の人々はお手玉 のことを「おじゃみ」と呼ぶ。当時の子どもたちは手縫いの「おじゃみ」で遊んでいたよ うだ。調査中、複数の方が口ずさんだ共通の唄があった。

お城のおんさのおんさのサー おん侍氏がお敵を討つときお眠り転んで いちおかおかおかいちゃさかどん

さいたかどん

どんど屋の神様どの神様よ ここはふなばち箱根の一 二 三 四 五つ出雲の神様が

お供が無いとてお訪ねなさる 供は丹波のすけ太郎様よ

すけた土産に何々もろうた 写真 2 お手玉唄『わらべうた』より

(7)

一に香鉢(香箱?) 二にまた手箱 三に挿し櫛 四の目の枕 五番簪 六番前掛け 七めて七番繻子の帯 さやの帯

まずは一貫かしました (歌詞提供 A さん)

毬つきやお手玉遊びのほかにも、川原で色のついた石を集め、油で磨きおはじきにして 遊んだ。それらは自作の袋に入れておいたのだという。

これらの遊び唄は、昭和 20 年代、いわゆる戦後になるとほとんど歌われなくなった。遊 んでいる暇などなく、畑仕事など日々を生きることで精一杯だったのである。その後も昭 和 30 年代に入るとテレビが普及し始め、子どもの遊び事情がさらに大きく変化した。A さ んの長男 (60 歳) は唄を歌って遊ぶことはなく、野球などのスポーツに夢中になったという。

大井川で魚やカニを捕って遊ぶ姿も見られなくなった。かつての子どもたちは、家の手伝 いや食料を得るための行為のなかに遊びを見出していたが、この頃になるとそもそもの生 活環境が変わり、それにともなって遊びの形態も変化したと考えられる (本報告書長邉参照) 。 また、狩猟採集活動を通した年上の子どもとの接触や、夕食後の家族団欒の時間も減少し たために、世代間の交流が希薄になった。この変化によって、上の世代から下の世代へと 伝えられる場が少なくなったと言えるだろう。こうして、手毬唄やお手玉唄は姿を消して いったと思われる。

2.3 子守唄

民話の保存活動を行う「語り部の会」に所属する C さん (60 歳代前半 女性) の幼少期は、昭 和 30 年代、ちょうど前節末の記述と同じくらいの時期にあたる。彼女は実際に歌われてい る茶摘み唄を聞いたことがなく、前述した遊び唄も耳にした記憶はない。しかし、唄に関 する思い出がないわけではなく、子守唄を歌ってもらったことをよく覚えていると語り、

実際に歌ってくれた。

ねんねん ねこのけつ/かにがはいこんだ あれあれ かわいそうに/またはいこんだ ねんねん ねこのけつ/からすがつっついた あれあれ かわいそうに/またつっついた

子守唄には、このような動物が出てくる唄が多く、また歌詞は即興的な側面があったよう

だ。子どもが寝付くまで、「かに」の次は「からす」、「からす」の次は「さる」と続け、眠

(8)

りかけた頃を見計らって節の最後を上げ調子に変え、優しい響きで「またつっついたァ~

ヨ~」と歌い終えたという。歌詞の「はいこんだ」とは「入り込んだ」という意味である。

C さんがこの子守唄を孫に歌ってやると、子供の母親が「“けつ”だとか“つっついた”だ とか、下品で残酷だからやめてほしい」と言うのだそうだ。「幼いころ聞いた、親子や動物 を使ったお話や唄は、どれも皆“やさしさ”を含んだものだったのだが、現在では言葉だ けを見て残酷だって言うんですよ」と、C さんは少し寂しそうに語った。

当時は、学校の集金までにお金が揃えられなければ隣家に借りたり、祭に住民が積極的 に出店していたりしたそうだ。近所付き合い、人付き合いが現代よりも密であったことが うかがえる。

2.4 御詠歌

御詠歌とは、教義や神仏の徳をたたえる賛美歌のようなもので、巡礼や講などの際、一 般に鈴や鉦

かね

にあわせて詠吟される。真言宗、曹洞宗、浄土宗など宗派によって作法が異な り、様々な流派に分かれている。水川の隣の地区・上長尾には曹洞宗の智

満寺

ま ん じ

という寺が あり、水川に住む人の大半がこの智満寺の檀家である。曹洞宗の流派は梅花流という流派

で、昭和 27 (1952) 年に創設された。智満寺においては親禅会という会が発足、現在では約

500 人の会員がいるが、月に1度の練習や法会などに参加するのは 100 人強だという。会 員は 60 代後半~70 代の女性が多いそうだ。もともと中川根には集落ごとに寺があり、仏教 徒が多かった。その影響か、子育ても終え、茶畑の仕事も引き継ぎ終えたくらいの年齢層 の女性は、親禅会に入会し御詠歌を習うのが一般だったために女性会員が多いと思われる。

子どもたちが寺を遊び場としていたという話からもわかるように、寺は身近な存在だった のである。しかし、近年では女性でも働きに出ることが多くなり、「仕事があるから」と親 禅会に入らない女性が増えている。親禅会の最年少会員である 66 歳のDさん (女性) と 72 歳

のEさん (女性) は、 「現在の 30~40 代の人は忙しすぎる」と言っていた。さらに、 「テレビな

どの娯楽が増えたことも要因の一つではないか」と話してくれたのは、島田市の登福寺か ら訪れていた落合住職である。歌が下手だからと敬遠する人や、御詠歌は年寄りがするも のという認識を持つ人もいて、“寺離れ”は進んでいるようだ。

写真 3 と 4 は、御詠歌を歌う際に用いる鈴と鉦、教典である。教典には歌詞と歌い方が

書いてあり、いわば楽譜のようなものだ。鈴と房の色は 3 種類あり、紫、水色、白と昇級

試験に合格することで変化していく。また、年に一度全国大会があり、智満寺からは希望

者が 10 人前後で参加するそうだ。全国大会といっても順位を競うわけではなく、参加者全

員で奉詠する、というものである。

(9)

写真 4 経典と鉦 写真 3 鈴

3 考察

以上を踏まえて、民謡の持つ役割とその保存について考察していく。

調査を続けるうちに浮き彫りになってきたことは、 1 節でも述べたように、継承や消滅を 含め唄の変容は、生活の変化=唄の「場」の変化に大きく左右されるということである。

インタビューに応じてくださった方々の年齢は 60~90 代である。2.2 で日露戦争の手毬 唄を教えてくださった 90 代の B さんは、かすかではあるが、幼い頃に茶摘み唄を聞いた記 憶があるという。しかし、80 代の A さんの幼少時代にはすでに茶摘み唄は歌われなくなっ ている。A さんが遊びながら口ずさんだというお手玉唄は、70 代の方は知っていたが 60 代の C さんは記憶にないという。C さんが物心つく頃にはすでに失われていた、というこ とである。そして、C さんの思い出の子守唄も途切れようとしている。30 年余りの間に、

歌われている唄の変化がはっきり分かる結果となった。このような結果がもたらされた背 景には、社会変動にともなう生活様式の変遷があると考えられる。茶業の機械化や子供の 遊び事情の変移、女性の社会進出など中川根に暮らす人々の生活、つまり唄の「場」にか かわる時代変化が唄の消失と継承に影響を及ぼしているのである。

茶摘み風景や手揉みの技術を後世に残していくように、かつての実生活の様子も伝えて いくべきだと私は考える。その地に生きる人々の暮らしを情報としてよりリアルに残すた めの方法として、民謡を活かせないだろうか。2 節までで述べてきたように、唄と人々の生 活は密接な関係にある。すでに過ぎ去った時代の生活を知る資料として、唄に着目したい。

調査を進めていく中で、唄の保存に関して言えば、一刻も早く取り組むべきだと感じた。

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というのも、遊び唄などを知る人の高齢化が進み、保存が困難になる一方だからである。

茶摘み唄や茶もみ唄は、唄を知る人・実際に歌える人の少なさから考えて、今後採集して いくのは難しいと思われる。文字だけでなく音声記録が残せるうちに取り組まねばならな い。

しかし、唄というものは、単なる資料ではなく1つの文化である。生活に染み込んだも のであるがゆえに、同じコミュニティに属する者同士の精神的な繋がりを維持する媒介に もなりうるだろう。たとえば、中川根において、茶産業は昔から生業の中心であった

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。茶 作りに心血を注いだといっても過言ではない人々も、少なからずいるだろう。そんな中川 根で、茶の唄というのは、アイデンティティーの現れとも考えられる。民謡の本質である

「郷土性」が色濃く表れている。このような側面を持つ文化としての唄を保存するならば、

記録するだけでは意味がなく、子供たちへと歌い継ぐことが重要になる。形に残らない民 謡は、親から子へ、祖父母から孫へと口承で受け継がれてきた。つまり、同じ唄を口ずさ みながら同じ仕事や遊びをして、世代を超えた交流を持っていたということである。唄に は世代を繋ぐという重要な役割があるのだ。

唄とは、形を変えたり姿を消したり、移ろいゆくものである。その本質を踏まえたうえ で後世に残していくには、どのような手段が有意義であるか。これが今後の考えていくべ き課題である。

おわりに

現代において、「場」の消失にともない民謡は姿を消しつつある。民謡と社会変化との密 接な関係を考えれば、自然なことだろう。しかし、民謡が紡いできた世代間の繋がりや仲 間意識など精神的側面に目を向けたならば、民謡の消失にストップをかけるべきだと思う。

現代社会は、インターネットなどを介して世界中とコミュニケーションが可能になった反 面、この報告で取り上げた戦前や昭和 20~30 年代に比べ、直接的な接触が希薄になってい るように感じる。民謡に目を向けることで、薄れつつある人と人との精神的繋がりを見直 すきっかけになるのではないか、と私は考える。

最後になりますが、お忙しいなか快く私たちを受け入れてくださった川根の皆さん、丁 寧に指導してくださった先生方、本当に感謝しています。ありがとうございました。

参考文献 浅野建二編

1983『日本民謡大辞典』雄山閣出版 尾沼宏星

2008「川根茶を支えた生業複合」『平成 20 年度フィールドワーク実習報告書』静岡大学

人文学部社会学科文化人類学コース

29

詳細は本書所収富田報告参照。

(11)

笹原ちひろ

2007「徳山の茶摘み文化から考える女性の出稼ぎ」『平成 19 年度フィールドワーク実習

報告書』静岡大学人文学部社会学科文化人類学コース 静岡県民俗芸能研究会

1983『静岡県の民謡』静岡新聞社 長野隆之

2007『語られる民謡 歌の「場」の民俗学』瑞木書房 森薗市二

2001『お茶の唄々』金谷町お茶の郷博物館

参考資料 堀畑章子

『-生涯学習資料-伝承ことばあそび わらべうた』

参考 HP ご詠歌.com

http://www.goeika.com/index.shtml (2009/07/19 現在) 曹洞宗 曹洞禅ネット

http://www.sotozen-net.or.jp/ (2009/07/19 現在) 智満寺

http://www.chimanji.jp/chimanji.html (2009/07/19 現在)

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