〈新収資料紹介〉
手塚亮太郎・貞三関係能楽資料
大 山 範 子昨年度、古典芸能研究センターでは、明治後期から大正期にかけて活躍した観世流能楽師の手塚(大西)亮太郎の令孫であり、手塚貞三の令嬢である手塚稔子氏から、能楽関係資料の寄贈を受けた。これは、能楽学会関西例会第二十回能楽フォーラム(二〇一三年三月三十日開催)の際、手塚氏所蔵の資料を公開されたことが縁となったものである(註一)。
センターでは、今回の受贈資料を「手塚亮太郎・手塚貞三関係能楽資料」として一括し、整理を進めている。それぞれの資料に関しては、また別稿でとりあげるが、まずは簡易目録を掲載し、その概要を紹介しておきたい。
関西能楽界の重鎮であった手塚亮太郎については、諸書の事典類にも多く言及されている(註二)。拙稿にも記したので重複するが、あらためて略記する。
亮太郎は、慶応二年(
1866
)十二月十六日、大西家四代の虚雪(寸松)の娘しづ子と手塚善蔵の長男として誕生。大西家は、京観世岩井家の門人で謡指南をしていたが、五代の閑雪(鑑一郎)からシテ方に転じ、以後現在まで続く観世流シテ方の家である。亮太郎は、手塚家へ嫁した母が婚家の事情で大西家へ戻ったため、長く大西姓を名乗り、幼少から祖父寸松や伯父閑雪から芸の手ほど きを受けて育った。明治十七年には能楽師の免状を許され、大西分家として譜代職分家と同列の扱いを受けるようになった。その後上京 、十三世観世清廉・初世梅若実・梅若六郎(後の観世清之)に師事。明治二十三年に帰阪後は、定期能を始めたり観世会を組織するなど、関西における能楽の発展に尽力した。門下に有力財界人も多いことで知られ、彼らの後援を得て大正元年に神戸湊川能楽堂を、続いて大阪能楽殿を建てた。大阪能楽殿は、個人所有中では冠絶と云われた舞台であった。大正十三年、門下の加藤貞三を養子に迎え、亮太郎は本姓の手塚に改姓する。家元からは今まで通り職分家扱いとされ、活動も従来通り続けていたが、「関寺小町」の披きを経て、昭和六年十一月、持病の悪化により、享年六十六歳で逝去した。 なお、嗣子の手塚貞三(後半改名して「雅三」と名乗るが、本稿では「貞三」で統一した。)の事跡については、亮太郎ほどには知られていないので、今回の寄贈資料と稔子氏の談話をもとに、略年譜にまとめ掲載した。 1 簡易目録・解説受贈資料は、能楽関係の史料類・プリント写真に、謡本・洋装本をあわせて全八十四点である。以下、センターの分類に沿って年代順(推定を含む)に掲げ、まとまりごとに適宜説明を付した(*印)。
【凡例】
事項、最後にセンターの登録番号を記した。 ・各項目ははじめに資料名を、続いて年月日・書型や冊数などの
書き付け類、h能楽堂・能道具関係の書類、iその他 手塚貞三関係…e免状類、f家元からの書状など、g自筆の の書付け類(書類・書状・草稿等)、dその他 手塚亮太郎関係…a免状類、b家元からの書状など、c自筆 仮番号を付して掲載した。 便宜上、亮太郎関係と貞三関係とに分け、さらに左記の内容別に ・点数の多い能楽関係史料(分類番号五―2―5)に関しては、
能 謡本(五︱2︱1) 明治四十二年檜常之助刊観世流謡本 袖珍本 二十二冊
五―2―1―3481
~3502
能 史料(五︱2︱5)手塚亮太郎関係 a 免状類
明治十六年七月五―2―5―
a1
観世清孝より大西亮太郎あて「碪能」免状194
明治十六年七月五―2―5―
a2
観世清孝より大西亮太郎あて「勧進帳・上之巻」免状195 a3
観世清孝より大西亮太郎あて「融・海人窕/松風見留」免状 明治十六年七月
五―2―5―
196
明治十六年七月五―2―5―
a4
観世清孝より大西亮太郎あて「猩々乱」免状197
明治十八年十二月五―2―5―
a5
観世清孝より大西亮太郎あて「道成寺能」免状198
明治二十二年六月五―2―5―
a6
観世清廉より大西亮太郎あて「望月能」免状199
a7
観世清廉より大西亮太郎あて「草子洗小町蘭拍子」免状明治二十三年十月
五―2―5―200
五―2―5― 舞返十三段・前後替)免状明治二十三年十月a8
観世清廉より大西亮太郎あて「船弁慶・鉄輪」(黒頭・白頭・201
大正二年五月五―2―5―
a9
観世清久より大西亮太郎あて「木賊形」免状202
*
a1
~a5
清孝免状と餞別」(道成寺)など理由も明記される。 に傳授」という文言が入り、時に応じて「下阪候に付」(碪)、「為
a6
清廉の「望月」免状は、文中に「亮太郎a7
・土産傳授」と明記する。 年の免状二通は、本文中に「亮太郎に」という文言はないが、「為
a8
の明治二十三以後近代に見られる一般的な免状スタイルとなっている。
a9
観世清久の免状は、料紙も厚くなり、免状は、亮太郎はほかに、清孝から明治十三年二月「九番習謡ほか」(直弟)、明治十四年三月「翁之事」、明治十八年十二月「職分」を受けており、これらは順に「復姓歴史巻」(別項
とあり、宛名は「鑑一郎長男/大西亮太郎殿」となっている(後 頭に製巻されている。このうち、「翁」には文中に「亮太郎に」
c6
)冒掲写真1)。「職分」は「今般不計上京」ゆえと理由が記される。また、「関寺小町」は所謂一般的な免状はないが、左近からの書状(次項
b2
)で許されている。b 家元からの書状など
五―2―5―b1
大西亮太郎あて観世清廉書状七月十一日一通165
b2
「関寺小町許状」(大正十五年十一月亮太郎あて観世元滋書状)
昭和三年三月製巻 巻子 一巻
五―2―5―170
b3
大西亮太郎あて観世元滋書状一通五―2―5―166 b4
手塚亮太郎あて観世左近書状昭和六年五月二十五日一通五―2―5―
164
*
b1
清廉書状は、月末の上洛・訪神に関する連絡。小町」を特に許すとの書状。
b2
は「関寺で、用紙は観世宗家の名入り専用箋。亮太郎を「貴老」と呼ぶ。
b3
は、観世会に関する相談の返書扱いの郵便。 亮太郎殿/観世左近」、「観世左近」の名入り封筒使用。「親展」
b4
は田中倍次郎の破門解除の通達状。宛名署名も公式で「手塚c 自筆の書付け類(書類・書状・草稿など)
c1
「面譜」明治三十七年五月調之 共表紙・仮綴 一冊
五―2―5―
219
c2
加當貞蔵あて大西亮太郎葉書大正四年八月廿日 (ママ) 五―2―5―167
c3
大西亮太郎手塚改姓挨拶状草稿大正十三年四月付一枚五―2―5―
186
大正十四年十二月二十八日付一通五―2―5―
c4
手塚亮太郎筆大阪能楽殿委員宛組長辞表187
「
c5
道成寺 白蛇考案」 昭和二年十一月一日 公雪筆 二枚
五―2―5―178
c6
「復姓歴史巻」昭和四年五月製巻 巻子 一巻
五―2―5―188
c7
「習事勤メ扣」尚忠筆 共表紙・仮綴
五―2―5―177
c8
〔亮太郎考証雑記〕(「孫へのはなし」)番組各種裏紙仮綴
一冊
五―2―5―183
*亮太郎は、筆まめな人物だったとのことだが、実際に遺された書き付け類も多い。(大阪歴史博物館にも数点あり。)
と記される。(註三) 寛」「蔵」「若女」の三面は「四十五年一月新打中村直彦作」 て、面も新たに付け加えられている。裏表紙最初に記された「俊 加筆・修正を加えていったものか。最終丁末から裏表紙にかけ に関する注記などを記す。明治三十七年五月に作成したものに、 面の名称と作者を記した目録。蔵品に朱丸を付け、朱筆で作者
c1
は能の住居は大坂東区博労町だった。 殿建設前(亮太郎一家の私宅が二階部分にあった)で、亮太郎 堂の住所印(大西亮太郎の名前入り)を使用。当時は大阪能楽 蔵へ、能会の番組印刷手配に関する指示をしたもの。湊川能楽
c2
は神戸の神戸に居る亮太郎から、大阪の本宅住の内弟子貞便箋二枚にわたり、包紙には表書きと「公雪」の署名・花押あり。
c5
は上京の折に、旅館で記したという「道成寺」の特殊演出。c6
は木箱入り(後掲写真2)、前述(草稿が一巻にまとめられたもの。 改姓に際しての亮太郎書状(草稿、使用せず)と、改姓挨拶状 書状(後掲写真3)、改姓に至る談合の書付け(武岡豊太筆)、 改姓を許可しこれまで通り職分家として扱うという観世元滋の
a
解説)の免状三通のほか、を記す。能は、昭和三年五月の「関寺小町」が最後。 (於橋岡舞台)から、昭和四年三月十日の素謡「道成寺」まで
c7
は、亮太郎自身が勤めた習事の控え。明治十三年十月の「翁」たる。 向くままに書かれたらしく筆致もいろいろで、話題も多岐にわ 家の祖先の話、大阪の地名のこと、京観世についてなど、気の
c8
は、番組裏に書かれた雑記。外題「孫へのはなし」。大西d その他
五―2―5―d1
大正五年一月廿七日付朝日新聞京都附録一枚214
大正八年四月十三日付二通五―2―5―
d2
大西亮太郎宛野村徳七書状(坂井音二郎誓約書とも)185
二枚五―2―5―
d3
大西亮太郎宛金剛謹之輔書状大正八年十二月十五日161
五―2―5―d4
観世会京都支部能会開催通知一枚大正十三年171
d5
大阪能楽殿定期能楽会案内状一枚五―2―5―
172
五―2―5―d6
大阪市立高等商業学校感謝状昭和二年一月十五日220
社々司和田陽三書状一通五―2―5―
d7
翁神面之記昭和四乙巳年正月四日手塚亮太郎宛和田神221
昭和四年二月九日一通五―2―5―
d8
手塚亮太郎宛和田神社社司和田陽三書状163
d9
観世会役員一覧二枚五―2―5―
216
*
(電話四二二六番)」)。 市南盬町三丁目(電話南一六一九番)/神戸市湊川遊園地上ル 能楽堂)の住所が並べて印刷されている(「大西亮太郎/大阪 名に、大阪の亮太郎宅の住所と神戸の湊川能楽堂(当時は大西 弟切抜キ」と面に書かれた封筒入り。封筒裏面には亮太郎の氏
d1
「観世の濁水(完)」の記事のためか。「片山一件/梅若兄
筒表に「四月廿六日宗家へ引渡ス」と亮太郎のメモあり。 郎にとっては謡の弟子であり、有力な後援者の一人だった。封 と本人の誓約書。財界人の野村徳七(野村證券の祖)は、亮太
d2
は坂井音二郎なる人物の宗家弟子入りに際し、依頼の書状
とが知られる。
d3
は能面に関する私信。亮太郎が所蔵面の修理を依頼したこd4
は手塚亮太郎・貞三宛て。シテ方装束及小道具一式」を出品したことに対する感謝状。 商業学校第四十八回創立記念祭展覧会に、亮太郎が「能楽「羽衣」
d6
は大阪市立高等
に対する礼と、正式な礼状(
d8
は昭和三年正月に亮太郎が還暦記念に翁面を奉納したこと翁面は、日光作の所蔵面を京都の能面作家中村直彦に写させた
d7
か)が遅れた詫びを記す。このもの。
五大社に「御面掛式」を奉納していることへの礼も述べる。
d7
には、翁面奉納と、亮太郎が毎年正月に一門で神戸の
d9
は手書き原稿のガリ版刷、半紙の二折り二枚。手塚貞三関係 e 免状類
大正六年八月五―2―5―
e1
観世元滋より加藤貞蔵あて「九番習謡」免状203
e2
観世元滋より加藤貞三あて「藤戸・隅田川・遊行柳能」免状 大正九年四月
五―2―5―204
大正九年四月五―2―5―
e3
観世元滋より加藤貞三あて「景清・鉢木・当麻能」免状205
e4
観世元滋より加藤貞三あて「俊寛・大原御幸・定家能」免状 大正九年四月
五―2―5―206
大正九年四月五―2―5―
e5
観世元滋より加藤貞三あて「神歌謡」免状207
五―2―5―e6
観世元滋より加藤貞蔵あて「翁」免状大正九年四月208
大正十一年三月五―2―5―
e7
観世元滋より加藤貞三あて「猩々乱」免状209
大正十一年三月五―2―5―
e8
観世元滋より加藤貞三あて「海士・融・絃上」免状210
e9
十三世大倉六蔵より加藤貞三あて「大鼓脇能・放下僧」免状 大正十一年十月
五―2―5―212
e10
観世元滋より手塚貞三あて「望月能」免状大正十四年二月五―2―5―
211
*貞三宛の免状はすべて、亮太郎宛の免状
様のスタイル。
a9
「木賊形」と同れば、亮太郎が「公雪」と自署した最も早い例か。 (「松諷社印」朱角印)」とある。包紙も大正六年時のものとす
e1
直弟の免状の包紙には、「取立/取次公雪e2
~「九番習能免状」「公雪(花押)/貞三へ」と記された包紙入り。
e4
三通は、
e5
・e10
の包紙の書名・宛名は「公雪/貞三へ」、e6
・e7
・e8
の包紙には「大西公雪(朱印)/加藤貞三殿」と記す。書名の後は花押あるいは朱印(「松諷社印」「大西家印」・「公雪」・「寧楽斎」)。
の項⑪)。 鼓を担当している。本資料中にも写真あり(「その他(写真類)」
e9
は大鼓の免状、今井長八郎取立。貞三は乱能でしばしば大f 家元からの書状など
f1
手塚貞三あて観世左近通達書昭和十二年一月十七日一通
五―2―5―169
昭和二十七年十一月十六日五―2―5―
f2
手塚雅三あて山中能楽会能会関係書類一式162
*
めに上京するようになどの家元の言葉を書き留めさせられた通 責され、舞うことをやめてはならない、月に何日かは稽古のた 貞三が諸々の運営に行き詰まっていた時期、家元に面会して叱
f1
は、亮太郎没後、神戸の湊川能楽堂も閉鎖せざるを得ず、達書。最後に宗家の一筆と花押が付されている。
としていたらしい。 た。稔子氏によると貞三は装束をつけて舞囃子として演じよう を要請する電報と通達書が届いた。結局、貞三は出勤しなかっ 王会にて)、家元に通じておらず、能会前の十六日に差し止め 囃子「乱」の許可を得たつもりだったのだが(十一月三日の福 家元から届いた書状・電報と当日の番組。貞三自身は家元に舞
f2
は、同年十一月二十三日開催の「山中秋の別会能」に際して、g 自筆の書き付け類
g1
手塚尚研会能会案内状ほか関係書類一式昭和十六年正月五―2―5―
173
昭和三十二年拾月十日開催予定一枚五―2―5―
g2
清扇会秋季大会番組草稿(第一次)222
g3
清扇会秋季大会番組草稿(第二次)昭和三十二年拾月十日開催予定 一枚
五―2―5―223
g4
手塚雅三履歴書及び能楽協会宛書類昭和三十三年七月七
日付 二通 五―2―5―190
*
後で、貞三自身の体調も快復に向かっていた時期。貞三長男の も、昭和十五年三月に株式会社組織で大阪能楽殿が再興した直 事務所の住所は、大阪市東区横堀六ー二十三、澤正文方。折し 塚貞三/手塚尚研会催能事務所」の印刷された白角封筒入り。 内状。番組と会員証(「招待」の紺丸印)とともに、差出人名「手
g1
貞三主宰「手塚尚研会」の二月二十三日開催予定能会案 晴彦が邯鄲の子方をつとめた。g2
と番組草稿。
g3
は手塚貞三筆、大槻能楽堂で開催予定の「清扇会」能会g2
は演者のみを記載。大江山/手塚雅三」)を予定。 二次の草稿。貞三自身は、最後に舞囃子「大江山」(「舞囃子/
g3
は囃子方の名前を入れた第h 能楽堂・能道具関係の書類
h1
湊川能楽堂閉鎖記念招待能計算書昭和拾年六月廿弐日(土曜)開催
一冊
五―2―5―217
昭和十二年五月廿五日催一冊五―2―5―
h2
公雪斎亮太郎師七回忌追善会精算帳218
h3
能会使用道具扣一枚五―2―5―
180
h4
「能楽殿住宅附物銘細書」一部
五―2―5―
184
h5
一年間能楽殿入費一部五―2―5―
213
昭和二十三年六月十九日五―2―5―
h6
山中商会宛能装束点数扣共表紙・仮綴一冊175
h7
茂山千五郎家預ケ能面扣一枚五―2―5―
176
h8
「芦屋用扣」 共表紙・仮綴 一冊
五―2―5―179
h9
「御面目録手塚家」 共表紙・仮綴 一冊
五―2―5―182
五―2―5―h10
手塚家装束扣(井田取扱い)共表紙・仮綴一冊215
*
記載。最後に閉鎖記念招待能番組を合綴。「昭和十年六月廿二