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博士論文要約
戦国期境目地域と大名権力
大貫 茂紀
●目次
序章 課題と方法
第Ⅰ部 境目地域における大名権力の政策 第一章 境目地域の住人と大名権力
第二章 戦国期境目地域における人質の役割 第三章 発智長芳と上杉氏権力
第四章 越後国上田衆栗林氏と上杉氏権力 補論 郡司としての栗林氏と国郡制 第Ⅱ部 境目領主の動向と特質
第五章 小川可遊斎と戦国大名権力 第六章 阿久沢氏と境目地域の成立・維持 第七章 信濃国仁科衆と戦国大名権力 終章 まとめと展望
●要約
序章 課題と方法
本論文は戦国期の境目地域に注目し、当該地域内の領主層を中心とした住人と戦国大名権力との関係 性を論じたものである。
「境目」とは史料用語で、戦国期の権力間に生じた軍事的境界領域のことを意味する。それは境界や 国境が一本のラインとして確定されるものと考える近代的境界認識とは異なったもので、一定の空間的 広がりをもち、帰属がはっきりしない地域のことをいう。
戦国期境目地域研究において、藤木久志氏は「国郡境目相論」という史料用語に注目し、戦国大名間 の戦争は領土紛争であり、大名間における同盟の成立は相互不可侵の約束を含む「国分」、つまり領土協 定がその基礎要件であるとした(『豊臣平和令と戦国社会』〈東京大学出版会、1985 年〉)。氏は「国分」
の歴史的意義として、当事者を超えて公的に保障されるものであったため、広く戦国大名領国の秩序を 総体として確定する役割を担った点を指摘した。
では、なぜ公的に保障されたのか、その理由のひとつとして藤木氏は「国分」が一国・半国・郡など 伝統的な領域編成を単位とするものであったことを指摘している。この伝統的な領域編成のことを「国 郡制」といい、それは古代律令制下において確立した地域支配体制であった。国郡制は律令体制が解体 した平安時代後期以降、中世はもとよりのこと近世に至るまでも、公的な行政区画として、一定の変質 を遂げつつも存続した。
国郡制と戦国大名権力との関係をめぐっては、多くの議論がある。1970年代、戦国大名は在地領主が 中世を通じて成長・発展し、戦国期に到達し得た段階として位置づけられ、高く評価されていた。その ため戦国期における国郡制は、戦国大名による封建的支配体制の中で補助的に利用されていた、という 理解であった。
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しかし、一方で戦国期には天皇が大名権力間の調停機能を担うことで「王権」が復活し、その国家支 配の枠組みとしての国郡制に組み込まれることで、大名権力の公権性が成立するといった見方もあった。
つまり、戦国大名をどう評価するかによって、国郡制の位置づけが変化したことになる。
その後、1980 年代の「自力の村」論や、1990 年代に国家の相対化という視座から提起された「地域 社会論」によって、大名権力の捉え方に変化が生じた。すなわち、戦国大名は領民保護義務を負ってお り、自領内の百姓を保護することによって彼等も忠節・奉公をするといった「双務的関係」で捉えるよ うになったのである。したがって、戦国大名のもつ公権性は国郡制を通じて天皇・将軍といった王権に 繋がることで生じたのではなく、領内の安全を確保して領民から支持を得ることで公権性が生じるとい った理解がなされ、大名権力は相対化された。
ほかにも様々な捉え方があるが、いずれにせよ国郡制は日本の国家体制を問う重要な議論として研究 が積み重ねられてきたのである。
しかし、近年の研究では、支配者側が国郡制を如何に利用していたのか、反対に「地域社会論」の視 角から、地域社会において国郡制が如何に実態のないものであったか、といった「支配者側からの視点」
と「被支配者側からの視点」の議論となっており両者の主張は平行線をたどっている。
したがって、今後さらに議論を進めていくためには、新しい視角から再検討し、両者の議論を昇華さ せていかなければならないと考える。
戦国期には、戦国大名が独立性の高い地域国家を形成していたことから、国郡制についても「王権」
と結びつくことなく各大名領国において独自の役割を果たしてきたことが想定される。
そこで本論文では、戦国期固有の国郡制が大名権力から如何なる機能を期待され、地域社会において 如何なる実態をもっていたのか、という戦国期における独自性を見出すかたちで課題設定し、国郡制の 性格や大名権力がもつ公権性の源泉について追求していくこととする。
この課題を解決するための方法として、本論文では境目地域に注目する。前述したように藤木氏は大 名領国の境目が一国・半国・郡など伝統的な領域編成を単位とするものであったことを指摘した。これ には異論もあるが、概ね領国境目と国郡境目は一致していたとみてよいだろう。したがって、境目に注 目することで、国郡制の実態を追求することができるのである。
また、境目は大名権力が浸透しておらず、領域支配体制が確立していない地域であったことから、国 郡制支配の原理が最大限に発揮されるか、あるいは機構的に確立できない地域だったのか、国郡制の機 能が顕著にあらわれることが予測される。その点からも境目に注目していく意義があると考える。
では、具体的に何をどのように分析すればよいのか。大名権力が境目を統治しようとするならば、支 配システムを導入して体制を築いていくこととなる。国郡制は支配システムと並行して利用されていっ たと考えられる。このような大名権力側の動きに対して、境目地域の住人たちは大名側の統治を受け入 れたり、反発を強めて他の大名権力の味方についたりするなど様々な対応をとったことが考えられる。
そうであるならば、大名権力側・地域社会側双方の領域支配に対する認識の相違からくる矛盾が、顕 著に現われることが想定される。双方の対立面を動態的に捉えることで、国郡制の性格がよりはっきり とみてとれるであろう。また、先に問題点として挙げた「支配者側」「被支配者側」からの視角による議 論の対立は境目の実態をみることによって昇華できると考える。
第一章 境目地域の住人と大名権力
戦国期境目研究では、これまで「戦時」における地域の状況のみが分析の対象となっていたことを批
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判し、当該地域の全体像を把握するため「平時」における境目の住人に注目した。
「平時」において大名権力が多数の軍勢を境目に駐留させておくことは困難であった。そのため、境 目の住人の協力を得るために様々な優遇対策を講じていた。したがって、住人側と大名側が協力関係を 築くことで、住人の生活の安定性や安全性を確保していたのである。「戦時」には危険な地域となるにも かかわらず、人々が居住し続けていた理由がそこに存在した。
第二章 戦国期境目地域における人質の役割
戦国期、権力間において服従・同盟などの約束履行を保証する手段のひとつとして人質の提供・交換 という慣行が存在したことに着目し、境目の領主層・地下人など在地レベルにおいて、大名権力へ差し 出された人質の役割について検討を加えた。
先行研究においては、離反者を出さないために大名権力側が一方的に人質をとっていたと論じられて いた。しかし、在地側からの視点でみると、そこには人質となる妻子を安全な城内で保護してもらおう とする意図があり、保護してもらったことと引き換えに軍役を果たすといった双務的関係の存在が明ら かとなった。
第三章 発智長芳と上杉氏権力
越後上杉氏配下の領主であった発智長芳に注目し、戦国大名権力の末端で活動していた者が領国拡大 過程のなかで如何なる活動をして、如何なる特質をもっていたのか検討を加えた。
発智氏は越後国藪神から上野国沼田に知行を宛行われて移った後、上杉方の使者として常陸・下野・
武蔵国を渡り歩いたことで、相手方との手筋を得ることとなった。そこで彼は謙信から根利関所の管轄 を任され、上杉氏の外交にも関与し、最終的には沼田地域の軍事指揮者の一人となった。つまり、発智 氏は非常に外交能力のある人物だったことが明らかとなった。
そのため、発智氏が管轄した根利関所は、一時的に北条方との外交交渉の窓口となるなど、沼田・厩 橋・佐野城では対応できない問題に対処する、独自の役割を担っていたのである。
第四章 越後国上田衆栗林氏と上杉氏権力
越後国上田荘における一揆的組織の上田衆とその軍事指揮者であった栗林次郎左衛門尉に注目し、境 目後方の地域が抱える問題について考察した。
永禄 7 年(1964)上田長尾氏当主であった政景が死去した後、上杉謙信は元々境目であった上越国境 地域の管轄に携わっていた栗林氏と直接的な関係を結んだ。しかし、上田衆内部における上田長尾氏の 影響力が衰えなかったことから、謙信はその体制を変えることができず、栗林氏を上田衆の一員とした まま、パイプ役として上田衆を動かしていた。また、上田衆にとってみれば、上杉氏の軍役を負う必然 性がなかったことから、衆全体の統制がとれず、彼等を境目へ派遣することは非常に困難なことだった。
大名領国の境目維持のため、その後方地域が軍役を負担していたことは事実だが、実態として軍役を 拒否する者が多かれ少なかれ存在したと考えられる。そのため、大名権力は派遣される領主の在所を平 穏に保つよう注意を払わねばならなかったのである。
第四章補論 郡司としての栗林氏と国郡制
栗林次郎左衛門尉の跡職を継いだ栗林治部少輔が郡司となる過程を追い、彼が郡司という職をどのよ うに認識していたのか、また上杉氏との関係性をみることで、栗林・上杉両氏にとっての国郡制の意義
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治部少輔は上杉氏へ自ら働きかけ、「肥前守」の受領名や上田長尾氏の知行地の一部を手に入れ、身分 的・形式的に上田衆の中心的な存在となった。その後、上越国境の封鎖が解除される時が近づくと、郡 司であることを主張し、荒砥関所の管轄者となることに成功した。
上杉景勝は国郡を地域支配単位としていたが、それは越後守護上杉氏の時代における制度をそのまま 利用していたといえ、前代の謙信期からの既得権益者を安堵することで政権の安定化を図ると同時に、
政権の公儀性を主張していたものと考えられる。治部少輔はこの制度の中のひとつである郡司職を利用 して、上田衆の一員から身分を上昇させていったのである。
第五章 小川可遊斎と戦国大名権力
上野国沼田に本拠を置く中小規模の領主であった小川可遊斎の動向を探ることで、境目領主としての 特質について考察した。彼は越後上杉氏との関係が深かったため、北条・武田両氏も沼田を統治してい た時代には、上杉氏とのパイプ役としての働きを期待していた。また、彼は越後国内から下野国佐野ま でを活動範囲としており、大名領国境目に規定されずに移動することができたことから、その活動範囲 をひとつの「地域」として捉えることで、「国家」によって作られた国境・大名領国境目を相対化した。
第六章 阿久沢氏と境目地域の成立・維持
境目がなぜ成立し、維持されたのかという問題について、東上野地域の深沢城を本拠として活動して いた境目領主、阿久沢氏に注目し検討を加えた。同氏は所領内に灌漑用水の堰や林産資源を押えていた ことによって、周辺領主と互角な関係を築き、どこにも従属せずに自立性を保とうとする指向性を持っ ていたことを指摘した。そして、阿久沢氏領を挟んで敵対していた上杉・由良両氏は、緩衝地帯として 彼の所領を直轄化せずに残していた。このような三者の関係性によって境目が成立し、維持されていた ことを明らかにした。
第七章 信濃国仁科衆と戦国大名権力
信濃国安曇郡を中心に勢力を張っていた仁科衆に注目し、戦争の実態について検討を加えた。大名権 力は仁科衆の対立構造を利用して地域社会の掌握を試み、権力側と結びついた仁科衆の一部が、その権 力を利用して自らの権益確得を目指していた構造を明らかにした。また、大名側と在地側の様々な集団 の中で、利害が一致した集団が行動を共にした時、領土拡大を指向した大名間戦争が行なわれたことを 指摘した。
終章 まとめと展望
大名権力は国郡制の枠組みを利用して、境目領主や商人など、交通権益をもつ者や境目を跨いで活動 することで利益を得ていた者たちの動きを規制し、諸役を課すなどして彼等を管理・掌握していた。
一方で地域住民側では交通権益をもっていた者や商人を中心として、国郡境目を開放しようとする圧 力を権力側に加えていた。その結果、国境における「市立」や第六章で提示した阿久沢氏の案内者とし ての活動などのようなかたちで境目の開放が実現した。
このように大名権力による上からの意図と地域住民による下からの意図とが複雑にからまりあうこと によって、戦国期的な国郡制の枠組みが維持されていたのである。
次に大名と境目領主との関係性について言及すると、本論文で取り上げた境目領主に共通する特質と
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して、交通に関わる権益をもっていたことが挙げられる。彼等の活動範囲は上部権力が設定した境界に 規定されないものであり、地域社会において独自に設定されたものであった。大名権力は彼等の権益を 保障し、利害関係を一致させることで軍役を負担させるなど、双務的関係を成立させていたのである。
その一方で、境目地域が解消された場合、境目領主の立場は非常に弱いものであったことから、彼等は 自立的な存在ではあるのだが、大名権力を必要とする側面もあったことが指摘できる。
以上のように、境目は一見、危ういバランスの上に成り立っているように思えるが、当事者はそれぞ れの理由で境目地域を必要としていたことから、一定度の持続性があるものだった。こうした三者それ ぞれの利害打算の絡まり合いによって成立・維持された境目の存在こそが、戦国期社会の特質だったと いえよう。
残された課題として、国郡制が戦国期固有の変質を遂げた後、どのような形で近世へと展開していっ たのか、といった点が挙げられる。
その際にも、戦国期と同様の視角によって、大名権力または統一政権側の境目に対する行動と、それ へ対応する住人の動向に注目することで、国郡制に対する各人の認識を読み取り、境目の実態をみてい くことが重要であると考える。
稲葉継陽氏は「地域社会論」の視点から、豊臣政権時における国郡制について言及している。氏は地 域社会において認識されていた境界が豊臣政権の境界確定において重要な役割を果たしたことを強調し ている(「領域秩序の形成と国郡制」〈『日本近世社会形成史論』校倉書房、2009年、初出2004年〉)。
本論文においても、国郡境目に対する認識が権力側と地域社会側双方で異なっていたことは述べた。
しかし、豊臣政権が「郡」として把握しようとしていたことは重要であり、たとえ実態として把握した ものが地域社会における境界だったとしても、政権側の意図に注意を向ける必要がある。
さらに地域社会では、中近世移行期に境目が解消へ向かうことで境目領主は大名権力に包摂され、戦 国大名はその上部権力である豊臣政権へ従属していくこととなる。そのため国郡制は各戦国大名が独自 に利用してきた時代から、豊臣政権が機構的に活用する方向へと転換し、この時点で国郡制の性格にも 変化が生じたであろう。
また、稲葉氏は、近世になっても村の山野知行紛争と中世的紛争処理システムの伝統は国郡境に存在 し続け、元禄期の幕府においても公法レベルではラインとして確定されなかったことも指摘している。
戦国期にみられるような大規模な境目地域は消滅していったが、近世に入っても地域にはラインとし て確定されていない境目が残っていたのであり、戦国期固有の性質をもっていた国郡制が移行期、さら には幕藩制社会においてどのように展開していったのか、解明することができると考える。