東北北部 の新 石器時代 にお け る海岸線 の 浸 退に関す る試 論
村 越 潔
1 序 言 2 月塚 の数 と分布
3海岸線 の浸退について 4 海浸海退 の原因
5 結 論
1. 序 言
縄文式時代 の前半期に,海水がわが国土 の低地,す なわち沖積平野 の大部分をおおい, そのた め狩猟 ・漁傍 の生活を営 んでいた当時 の人 々に,格好 の食糧源 を与えていた のであ った。 したが って,それ らを得 るた めに,彼等は台地 の突端 ない しは台地上 の平坦部に 占 拠 し,あ らゆ る手度を もって自然 の恩恵を甘受 した よ うであ る
。そのあ らわれた痕跡が, い まにの こる貝塚 であ る。
貝塚は古代人 の食物 の残淳.な らびに使い古 しや,破損 した道具な どがす てられ て出来 た .いわば一種 の塵捨場 と考え られ てい る。 したが って貝塚 は,それ らをの こ した人 々の 生活を知 る上に,重要 な資料を提供 して くれ るのであ る。 ところが この月塚は,ただ単に 古代 の食生活 のみでな く,当時 の自然環境につ いて もわれわれに思弁を与えて くれ て い る。 その一つが縄文式時代に起 った,海岸線 の前進 と後退に関す る事象 なのであ る。
2. 見場 の敬 と分布
日本全国で.いままでに知 られ てい る貝塚 は 2 2 6 3 ヶ所 の多 きにのぼ り,その内訳は北海 1 ) 道 1 2 7 ,東北 2 8 0,関東 1 0 3 8 ,中部 21 0 ,近畿 4 8 ,中国 3 0 5 ,四国 4 6 ,九 州2 0 9 とな ってい る
。この よ うに多数 の月塚 を.表 日本 と裏 日本 にわけてその分布をみ ると.表 日本 (太 平 洋 側) 1 9 9 7 , 裏 日本 (日本海 ・東支那海側) 2 5 3 とな り.圧倒的 な数 の差を しめ してい る
。の こる 1 3 ヶ所は オホ ‑ツ ク海に面す るものであ る。 この よ うな数 の差は,表 日本に くらべ
て裏 日本 の海岸線 の出入がす くないた めで もあ る。た とえは佐賀 ・長崎 の ごと く,入江 に
富む両県 の数は 7 4 ヶ所 もあ り,裏 日本におけ る貝塚全体 の約 3 5% を しめ,入江 のす くない
山形 ・鳥坂 ・島根 の 3 県 では,その総数を加えて も 1 5 ヶ所 にす ぎない。表 日本 において,
村越 :東北北部の新石器時代における海岸線の浸退に関する試論
関東地方は前述 の ごとく全国の約半数を しめ るが,貝塚 形成期 におけ る海岸線 の出入の複 雑 な点を考慮すれ ば,当然 の ことで もあ り, また瀬戸内海沿岸 の岡山 ・広島両県につい て
ち,同様 の ことがいえ るのであ る。
数 の上 で表 日本 と裏 日本 の差 のほかに,貝塚 を構成す る貝に も極端 な異 な りをみせてい る.た とえは,表 日本では貝の種類が戯水性 の ものを主 とす るものに対 して,裏 日本は淡 水性 の ものが多い ことであ る。 この原因は,主 と して 日本海側において,海岸線 の出入が 単調 であ ったために干満の差がす くな く,それが 貝の生育 に も影響を及ぼ した り, また 貝 塚 形成期におけ る地形上 の, あ るいは沖積平野 の生成 とい った,地理学的 な要因 の結果に よるのか も知れ ない。 しか しなお板木的 な解決は,地理学 と考古学に よる提携 の必要が あ
り.今後 の問題 と して,両者に よ り解決 されね はな らぬ と思われ る。
東北地方に所在す る貝塚 は,前述 の ごと く
28 0
ヶ所 あ り,その内訳 は,青森3 0
,岩手74
, 宮城1 2 9
,福島3 9
,秋 田 3,山形5
とな ってい る。 しか しこれ らの貝塚 は,同一時代 に 営 まれた ものではな く,それぞれ時代を異に して形成 され.同一時期 の数はか な りす くな く な る。た とえば これを時代別す ると.縄文式時代1 8 8
,弥生式時代5
, 土 師器 な らびに須 恵器を ともな うもの (奈良 ・平安時代 と思われ る)28
,その他1 4
(歴史時代 の ものをふ く んで),不明45であ る。 しか し縄文式時代 とい って も,早期 よ り晩期 まで 5期 にわけ られ てお り,同一時期 の ものは思 った ほ ど多 くない。 それを県別にわけて,表にす ると次 の ようにな る。
縄
式 時代 計
この裏でみ るごと く,早期におけ る数はわずか
1 3
ヶ所 であ り,それ も太平洋側にのみ存 在 し,前期 以降 もはば同様 な様 相を呈 してい る。次 の弥生式時代以降の数が減 るのは.農 耕を営む よ うにな って,狩猟お よび漁襟は,彼等の生産手段におけ る従 の立場 とな り,負 塚 の数 も急激 な減少を しめすのであ る。13
東北北部 (青森県) の貝塚 は,い ままで
3 0
ヶ所が知 られ ていた にす ぎなか ったが ,その 2)後青森県が主体 とな って行 な った遺跡調査 に よって
,1 9
ヶ所が追加 され ,われわれ の発見 に よる 3ヶ所 をふ くめ ると,総計52ヶ所 にのぼ る。 これ らの時代別は,縄文式時代早期 5 前期1 4
,中期6
,後期5
,晩期8
,擦文土器を出土す るもの 1,近世5
,不明8
と な る (第1
図参照)。 しか しこの時代別 も, 貝塚 に よっては次 の時期 に またが って形成 された もの もあ り. また現在不明の もの も将来 の調査 に よ って,それ ぞれ の時期 に編入 され ると 思われ るか ら,多少時代別 の数に変更が あ ると考え られ る。本県におけ る貝塚 の分布は第
1
図の ごと く,津軽平野西側の犀風山丘陵 ,な らびに十三 湖周辺 の一帯 ,下北半島北東部 ,小川原湖 の周縁地区,現在の八戸市を中心 とす る一帯 , の4
地区に集 中 してい る。 その理 由 と して これ らの地区は,地形的にみ ると,砂丘 ・河谷第1図 東 北 北 部 の 貝 塚 分 布 図
. . i / ̲ ‑ i ̲ ̲ 了 , ‑ノ L へ ノ
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′ i : 「
村越 :東北北部の新石器時代における海岸線の浸迫に関する試論
河跡湖 ・潟湖 な どが多 く.そのた め貝塚形成期におい て.干満の差が大 き く,月の生育, ならびにその採集が容 易であ った ことに も原因す るのであろ う。 本県 におけ る貝塚分布上 の特 色 と して,干満 の差 の外海 よ り多い陸奥 湾沿岸にす くない点は.前述 の貝塚 形成期に おけ る,地 形的な面を欠いた ことに他 な らない。
さきに表 日本 と裏 日本 の貝塚が,数 の上で大 きな差 のあ ること,月の種類 こ相違 のあ る ことを述べたが ,本県 の場合におい ても.全国 とほぼ 同様 の結果 とな ってい る。 数を示す と, 日本海側に面す るもの
1 2
,太平洋側3 8
,陸奥湾4
とな り,太平洋側が圧倒的こ多い。そ して貝の種類 も, 日本海側では淡水性が多いのに くらべ,陸奥 湾 と太平洋側は鹸水性が 主であ る。しか しこの よ うな相違 も,それ ぞれ の貝塚が形成 された初期におけ る現象であ り.
時代が新 しくな るにつれ て,太平洋 や陸奥湾で も.淡水性 の貝が多 くな るとい う事実が あ る。 この事実 こそ,海浸海退 とい う海岸線 の, うつ りかわ りに関係す る問題解決 の道 なの であ る。
3.
海岸線の浸退 について貝塚か らみた海岸線 の移動に関す る研究を.最初に手がけ られた のは東木龍 七 氏 で あ る。 氏は関東地方に所在す る貝塚を地図上に記入 し,石器時代の海浸最盛期におけ る,港
3)
岸線を想定 された のであ った。 しか し,藤岡謙二郎氏が指摘 され てい るごと く, 〃海水 の 後退 のみを仮定 しての論 であ り,その生成がいずれ も同一期 の もの と仮 定 し,械水産 の も
4)
ののみが板上げ られ てい る〃ことな どか ら,現在では理論的に,われ われを納得せ しめ得 ない ものが あ る。 その後,考古学のめざま しい進歩に よって,縄文式土器 の編年が確立 さ れ,戦後は と くに,関東地方では精密 な細分化が進み, もはや変更の余地はみ られぬ ほ ど にな った。江坂輝弥氏は, この よ うな進歩 の上 に立 って,次 の よ うに推論 されてい る。 貝 塚 か ら 出 土す る土 器に よれ ば, 同一時期 にすべ てが形成 された のではな く,海岸線 の移 動,つ ま り海浸 な らびに海退 とい う, 自然現象が あ って,それに したがいなが ら形成 され た ものであ り, したが って海浸期の貝塚 は古 く,海退期 の ものは新 しい様 相を呈す る, と い うのであ る。 この よ うな観点か ら,縄文式早期 の前半にはすでに海浸現象を しめ し,前 期の中頃か ら末葉 にかけて最大 とな り,やが て中期 には海退期 に入 って.海岸線は現在 の
5) 状是削こ近ず くとい ってい る。
この
2
つ の理論 は,前者が まだ縄文式土器編年の確立 され ていない頃の ものであ り,い わば,長 さを計 る物差 しを欠いていた時代の理論 であ って,今 日か らみれ ば,飽 きた らな さを感 ん じさせ ると して も,巳むを得ない と思われ る し,む しろ貝塚 の分布か らヒ ン トを 得て,縄文式時代におけ る海水 の.内陸部 まで浸入 した事実を突 き止めた点で.高 く評価15
されね はならぬ と考え られ る。 後者の理論 は,東木理論 に立脚 して,戦 後の考古学の進歩 を加味 された.いわば新 しい観点に立 っての理論 であ り,氏のた ゆ まぬ研究の成果が うか が われ るものであ る。
この先学諸氏の研究は,いずれ も関東地方を中心に展開 された ものであ るが ,われわれ の現在居住 してい る東北北部は.はた して どの よ うであ ったか,以下それに関 して論 を進 めたい と思 う。
東北北部 の,い ままでに発見 された 貝塚 のなか で,現在 の海岸線 よ りもっとも奥 ま った ところに所在す るのほ,上北郡天間林村 のニ ッ森 貝塚 (第
1
図貝塚番号3 2
以後は省略 して 番 号のみ) であ る。 この月壕は,小川原湖 にそそ ぐ七戸川の沖積平野に面 した ,開析台地 上にあ り, ホタテ ・サ/レポウ ・/、マグ リ・シオ フキ ・アサ リな ど23
瞳頬の鹸水性 の貝 と, ヤマ トシジミとい う淡水性の月に よって,つ くられ てい る0 月壕 のの こされた時代を,土 器に よってみ ると,縄文式前期末か ら後期初頭 にいた るもので,分層発掘の結果,前期末 か ら中期 中葉 にかけての土器を出す層 では,鹸水性 の貝が出土 し, 中期 中葉以後の層は,6)
淡水性 のヤマ トシジ ミが主 とな ってい る。 この よ うな事実か ら.縄文式前期末には,海水 がニ ッ森台地 の近辺 まで浸入 していた と考え られ る。 この貝塚か ら,現海岸 までの距離は 直線で約
1 6
血,海水 の浸入路 と思 ろれ る高瀬川河 口よ り約27. 5
血 あ り,付近に点在す る貝 塚 をふ くめて類推すれ ば,小川原湖はか っての湾.あ るいは大 きな入江 の一部であ った と 思われ る,た とえば,立教大学で発掘 した小川原湖東岸 の野 口貝塚は,縄文式早期末か ら 前期初頭 に位す るものであ るが,出土 した 月は,アサ リ・シオ フキ ・ノ\マダ リな ど,すべ7) 8)
て鹸水性 の貝に よって占め られ てい るとい う。 小川原湖北岸 の中志 貝塚
( 3 0
縄文式前期), 9)京北岸 の金糞平月塚
( 36
前期) も同様 な純鹸水性の貝塚であ る。 この よ うに,湖岸周辺の 貝塚か ら出土す る月に よって, 前述 の ごとく,小川原湖をふ くめた周辺 の河谷お よび沖積 平野は,早期 よ り中期 中葉 にいた るあいだ,海水 の浸入を うけていた と思われ,中期 中葉 以降にな って, ヤマ 十シジ ミの ごとき淡水性 の貝が主 とな るか ら,ほぼ この時代 よ り徐 々 に淡水化 してい った と考え られ る。 その もっとも海水が浸入 した時期 の海岸線を, 5万分之 1
地 形図を利用 してあらわす と,1 0m
間曲線 とほぼ 同 じ位置を走 り,現存の貝塚 を地図 上に記入すれば,すべ て この大 きな入江 の沿岸,す なわち1 0m
線を越 えた台地上 に分布 し てい る (第2
図参照)0下北半島で も同様 の見解が示 され る。 た とえは,前期 の円筒下層
C
式土器を出土す る貝 塚 と して有名な,女舘( 2
5)では, アサ リ・サJt,ポ ウ ・シオ フキな ど,8
種類にお よぶ鹸10)
水性 の貝に よってつ くられてい る。 ところが 中期 末 の最花 月
壕 ( 2
4) では, シジ ミが9 0%
11)
以上を しめ るといわれ る。 以上 の よ うな事実か ら, 前期 後半には, 田名部川 の沖積平野に
村越 :東北北部の新石器時代における海岸線の浸退に関する試論
第
2図海
浸 最 盛 期 の 海 岸 綿t I ‑I . .
入 ̲ ̲ ̲ ̲ ̲ I )
海水 の浸入がみ られ, 中期末にいた ってそれが淡水化 した とい う,いわば, さきの小川原 湖周辺 と, 同様 な変遷 をな した と思われ る0
‑万,現在の八戸 市近辺において も, 同 じ様 相を示 してい る。 た とえは,南郊に所 在す る早期 の赤御 堂貝塚
( 46)
は,オ オ ノガ イ ・オ キ シ ジ ミ ・ハ マ グ リ ・ア サ リ ・カキ な ど,
1 2) 1 3 ) 1 4 )
23
種榎にお よぶ鹸水性 の貝塚 であ り,また市内の帽子屋敷( 41)
な らびに長七谷地( 4 0)
等 の貝塚 も同様 であ る.これ ら早期 の貝塚 も,5
万分之1
地形図上では,1 0m
間曲線上 ない し は .
それ以上 の高 さに位置す るとい う, さきの小川原,下北地区 と共通性を もってい15) 16)
る。前期 の貝塚 も,熊 ノ林
( 44) ・‑王寺 ( 49)
な どに よれば,早期 とほぼ 同様 な高 さと 具の構成であ る. しか し中期 以降では,た とえば長板 貝塚( 4 7)
の ごと く,ヤ マ トシジ ミ
17)
を主 とす る淡水の貝塚 とな り,海岸か ら約
23k
nFあ る晩期 の平 貝塚( 51 )
も,イ シガ イ ・カ
1 7
ワニナ ・カラスガイな ど, 淡水性 の月が主 で, わずか なが ら鹸水性 の ものが あ る と い っ 18)
た,早 ・前期 とは, ま った く異 な った 具に よ りつ くられ てい る。 この よ うに,早 ・前期 と 中期 以降 とでは, 自然環境 の面 で大 きな差異 のあ った こ とが推察 され るので あ る。
津軽地 方の貝塚は, そのすべ てが ヤマ 十シジ ミを主 と し, それ に カキ ・アサ リ・ハ マ グ リとい った鹸水性 の月が, わずか に認 め られ る程度であ って.太平洋 側 の よ うに,明確 な 海浸現 象をつかみ得 ない。だが 同地 方の貝塚 の分布か らみれ ば. こんにち シジ ミ貝の産地 と して有名 な十三湖が, 貝塚 の形成 された時代には,現在の数倍に達す る面積 を有 し. こ のた め穀倉地帯 と しての津軽平野は,その大半が水 の支配を受けていた もの と 考 え ら れ る。 この地 方におけ る最奥 の貝塚 は,木造町舘岡の大師 山
(8)
・亀 ケ岡 の田小屋野 (10) であ り. と くに田小屋野 貝塚は, 前期 の円筒下層式 と,中期 の円筒上層B
式土器が発見 さ19)
れ てい る。 この貝塚 の標高は.
5
万分之1
地 形図 に よると,1 0 ‑1 5m
のあいだ にみ られ , した が って ここで も10mの間 曲線が,水 と陸 との境界線 と して一応 の 目安になろ う。 この1 0m
線をた どってみ ると,南端 は鶴 田町周辺 (十三湖 水 口よ り約3 3 k n t )
に達 し.現在 の五 所 川原市 な らびに木造町 は,水面下 とな る。 この広大 な湖 の周辺 に所在す る貝塚 で, もっ20)
とも古い ものは ,前期 の 円筒下層B式土器を出土す る探都 田貝塚 (3)があ り, また前期 21) 22)
終末期 の もの と して, オ セ ド
ゥ (2)
,牛潟 池(7)
な どが あげ られ る。 の こる他 の貝塚 は,不明 ない しは 中期 か ら後期 にか け ての もので あ る。 この よ うな時代 ごとにわけ得 る貝 塚 を基 に して,津軽平野北半を被 った湖水 L7つ.現在 !,1いた る縮 少化 の変遷 を論 究すべ きで あ るが.発掘 された 貝塚 のす くない現段階 で論 ず るよ りも,む しろ充分調査 が行 なわれ て か らの,宿題にいた した い と思 う。以上 ,東北北部 の貝塚か ら海浸最盛期 と, さらに淡水 に変 わ る時代 につ い て,考察 を試 みたが,海濠 ははた していつ ごろ開 始 されたか ,引続 い て考察を試みたい と思 う。
江坂輝弥氏に よると関東地 方 では,利敬 川 ・霞 ケ浦流域 の千葉県香項部小見川町域 ノ台I 貝塚 において,縄 文 式 早 期 の田戸下層 式土器を 出土す る層 は, ヤマ 十シジ ミが見出 され るが, 田戸上層式土器 よ りさらに新 しい型 式になれは,械水性 の貝頬が出土す るとい う, また城 ノ台 よ りも約
1 8k
nE上流 に あ り,そ して古い撚 糸文土 器を出土す る西 ノ城 貝塚 は,演 水性 の月に よって 占め られ てい るといわれ る。 さらに逆上 って茨 城県北相馬郡利取 町 の花 輪台貝塚 では,花輪台式土器 とともに, ヤマ 十シジ ミ ・ハ マ グ リ・カキ ・サル ポ ウとい っ た淡水性 のほか に.嚇水性 の月が出土す るとい う。 この よ うな事実 に もとず いて,田戸下 層式土器 を使 用 した時代 は,城 ノ台付近で まだ 淡水性 の月が棲 息 していた が, 田戸上層 式 の頃 に な ると.海水が浸入 した もの と思われ , さらに花輪台式土器 の時代 には,海水 が利23) 現 川の谷 を連上 り,取手町 よ り約
8k
nt下流付近 まで到達 していた とい うO村越 :東juヒ部の新石器時代における海岸線の浸退に関する試論
東北北部 では
,
た とえは小川原湖周辺において,縄文式早期 後半 の早稲 田 1‑ 5類土器 24) を出土す る早稲 田貝塚( 3 7)
が,/、マグ リ・シオ フキ ・カキ ・アサ リな どの鹸水性 貝塚 で あ り,す ぐ南隣に所在 し,前期 初頭 の早稲 田6
類土器を出土す る野 口貝塚( 38)
も,城水25)
性 の貝塚 であ る。 また湖 の北岸に ある唐 月地 月
壕 ( 29)
は,早稲 田5
類土器を出土す るが, この貝塚 も/、マグ リ・アサ 1)・シオ フキ ・オオ ノガイ とい った,鹸水性 の月に よってつ く26)
られ てい る。 この よ うな貝塚 の所在 と時代か ら,当地方 の海濠をみ ると,早稲 田
1
類土器 がつ くられた頃には,海水がすでに小川原湖に入 っていた と考え られ るが,なお多 くの発 掘資料 を得なけれ ば,明確 な海濠 の事実は.関東地方 の ごと くつかみ得 ない。一方,八戸 地区において,早期 にふ くまれ る明白な ものは赤御堂貝塚( 46)
のみであ り,帽子屋敷( 41 )
や長七谷地( 4 0)
な どの貝塚は,縄文が施文 された尖底土器, とだけ しか わか らず,当地区 の海濠については,明確 な隔年的位置 が定 まるまで保留 したい と思 う。 それ までの仮説 と して,赤御 堂式土器が使用 され ていた時 代は,す でに海浸期 に入 ってお り,新井 田川にそ って約5 k
hF,現海岸か ら直線で約4. 5 k
茄付近に ,海水 の浸入が あ った と思われ ,一方 ,五戸川 の河谷で も早期後半には,す くな くとも河 口か ら約2 ‑3k
hF奥へ浸入 していた と考え られ る.縄 文式前期 の海浸最盛期 にいた ると,小川原湖 の入江 では約
27. 5
knF,八戸地区は新井 田 河谷で約7. 5 k
hF,下北半島では 田名部川にそ って約4k m
E奥へ浸入 していた もの と思 わ れ, さらに今後 の調査に よっては,前述 した1 01
n間曲線上,ない しはその周辺において. この 時代 におけ る貝塚 の発見 も考慮 され る。中期 末以降は海退期 に入 り,お のおのの河谷に面す る平野は前進 し. また′J、川原湖は淡 水化へ の道を歩みは じめた もの と考察 され る。
4.
海浸海退の原因さきの,海岸線 の浸過について述べた海浸海退 の現象は,はた して何を原因 と して起 っ た のであろ うか。江坂 氏に よればその最大の原因 と して,海濠は陸地 の沈降運 動に よって 起 り,縄文式前期 末以後は.地殻 の輪 回運 動が隆起運 動に転換 した ので.海岸線は現在 の
27)
方 向に後退 し,いわゆ る海退現象を現出 した のであろ うとい ってい る。 一応 もっともな意 見 と思われ るが, しか しなお満足す るには不充分である。た とえば,利根 ・霞 ケ浦流域 と い う,局地的に起 った現象であれば理解 も出来 るが,全国的 な規模で起 った現象であ り, 関東地方において も,那珂川流域 ・東 京湾 ・相模湾 の沿岸 な どで もみ られ , また東北地 方 は,仙台湾沿岸 で も類似 の現象があ り.江坂 氏のい う地殻運 動のみに よって起 った とは考 え られ ない し,む しろ他に原因があ っての結果であろ うと思われ る。
近年,地学研究者か ら,洪積世 の時代 ,つ ま り氷河期 に.氷床が増 えて地球 の広大な面
1 9
積を被い,逆に間氷期 は,それ らの氷が融けて水 の量 が増え る とい う理論 が.相次いで発 表 され てい る
。それ に よると,第 3 氷期 ( Ri s s )の頃は現在 よ り気温が 8. ‑9 度 低 く, し たが って海水面 も1 0 0m±ほ ど下 り,第 3 間氷期 の Ri s s ‑war m では,逆に気温が 2 度 ほ ど高 くな って,海水面 もそれに ともない 6‑3 0m上昇 した とい うのであ る。最後 の氷期 と いわれ る W缶r m 氷期 では,温寒が 7 回にわた って くり返 され,w i i r m l には1 0 0m±近 く も海水面が低下 し, また war
m2‑wi i r
m 3間氷期 は,逆 に1 2m±の上昇をみ るとい う, 海面変動が あ った といわれ る
。後氷期 ( 沖積世)に入 って も, これに似た現象は続 き.今 か ら 4. 5 0 0. ‑7. 5 0 0 年前は At l a nt i c 期 で,気温 は 2 度ほ ど高 く,海水面 もそれ に ともない,
28)
1 0‑1 5m±上昇 した とい う。わが国の縄文式前期は, ■Ra di oCa r bo nDa t i ng に よると,加 茂遺跡 (千葉県安房郡丸山町所在 :前期 中葉黒浜式) の資料では,BC31 4 5±4 0 0 と算出 さ
29)
れ,今か ら 51 0 9±4 0 0年前にな るといわれ る
。も しこの数字が正 しい と す れ ば, 荊 述 の Ada nt i c海濠がわが国の有楽町海最期 に相当 してお り,海水が河谷を逆上 って低地を浸 し た のだ と して も不思議はない。 以上 の原因に よって,東北北部 の潟湖 ,な らびに各河川の 河谷 も,縄文式時代 の海浸最盛期 には, しば しは述べた よ うに, 5 万分之 1 地形図の1 0m 間曲線周辺 まで,海水が浸入 していた ことも理解 され るのであ る。
5. 結 論
わが国に所在す る2 2 6 3 ヶ所 の貝塚は.約8 5%が賊水性 の貝塚 であ り, しか もその多 くは 表 日本 に分布 してい る。 この貝塚 の編年的位置 を考慮に入れ て.所在を 5 万分之 1 地 形図 に記入すれば.想像以上 の奥地 まで分布す ることがわか る。 このよ うな事実か ら.縄文式 時代 に海水が沖積低地へ浸入 し, しか も地 形図上 の,1 0m間曲線周辺 まで達 していた こと が看板 され,その時代は縄文式時代前期 であ り,それ以前は海水が進み,以後は退 くとい った現象を把握す ることが出来 るo この よ うな現象 の起 った原因は,地盤 の琴起, ない し は沈降に よる結果 とみ るよ りも, む しろ世界的に起 った後氷期 の海面変動,つ ま りEus t a s y に よるもの. と結論づけ られ る。
最後に,本稿を革す るにあた って助言いただいた.弘前大学教育学部地理学研究室 の水
野裕講師,挿図 の作製に協力ねが った川崎凱久君に,厚 くお礼 申上げ る。
村越 :東北北部の新石器時代 における海岸線の浸遇 に関す る試論
註
1)酒詰伸男, 日本貝塚地名表
,1959年。
註
2)青森県教育委員会,青森県遺跡地名表
,1962‑64年。
註
3)東木竃七 貝塚分布の地形学的考察,人類学雑誌
,46の
12,1926年。
註
4)藤岡謙二部,地理 と古代文化
.1946年。
註
5)江坂輝弥,海岸線の進退 か ら見た 日本 の新石 器時代,科学朝 日
14の
3,1954年。
註
6)小片 ・村越,青森県ニ ッ森貝塚発掘 調査概報,青森児教育委員会
,1962年。
註
7)岡本 勇他 ,青森県三沢市野 口貝塚発掘調査抄報
,1962年。
註
8)二本柳 ・渡辺,六 ヶ所村周辺の円筒土器,東奥文化
13号
,1959年。
註9)註8
に前掲。
註
lo)江坂輝弥,青森児女舘貝塚発掘調査報告,石器時代
2号
,1955年。
註
11)江坂輝弥,青森児下北半島最花貝塚の調査 日誌 よ り,石器時代
5号
,1958年。
註
12)江坂輝弥,青森県三戸郡大館村十 日市字赤御堂貝塚の調査, 日本考古学協会第
18回研究発表要
旨,1956年。
註
13)栗相知弘,八戸市類豪帽子屋敷貝塚発掘調査報告 . 奥南史苑
,6号
,1962年。
′′
江坂輝弥,青森児八戸市帽子屋敷貝塚, 日本考古学年報 ,
ll
,1962年。
註
14)江坂嘩弥,青森県八戸市長七谷地貝塚, 日本考古学年報 ,
ll
,1962年。
註
15).八戸市立商業高校社会科研究会,八戸市種差熊 ノ林貝塚発掘 について,奥南史苑,
6号
,1962年。
註16)
宮坂光次,青森県是川村‑王寺 史前時代遺跡発掘調査報告,史前学雑誌
,2の
6,1930年。
註
17)江坂 ・笹津 ・西村 ,青森児三戸郡大舘村蟹沢遺跡調査報告,石 器時代
,5号
,1958年。
註
18)江坂輝弥,青森県三戸郡平貝塚, 日本考古学年報 ,
ll
,1962年。
註
19)佐藤公知 ,亀 ケ同文化
,1956年。
・′
山内清 男,関東北に於 ける繊維土器,史前学雑誌
,1の
2,1929年
O・′
亀 ケ岡考古館収蔵遺物 による。
註
20)渡辺兼庸氏の御教示 による。
註
21)山 内活男,関東北に於ける繊維土器,史前学雑誌
,1の
2,1929年
。ケ 吉田 ・直良,青森県相 内村オ セ ドゥ貝塚,古代文化
,13の
2,1942年。
註
22)表面採集 による。
註23)註5
に前掲。
註
24)二本柳 ・角度 ・佐藤,青森県上北郡早稲 田貝塚,考古学雑誌
,43の
2,1957年
。//
角度 ・二本柳 ・佐藤 ・渡辺,早稲 田貝塚,上北考古会報告
1,1960年。
′註25)註7
に前掲。
註
26)二本柳 ・角度 ・佐藤,青森県上北郡早稲 田貝塚,考古学雑誌
,43の
2,1957年。
・′
二本柳 ・佐藤,六ヶ所村 出土早稲 田第
5類土器,上北考古会報告
2,1961年。
註
27)註
5に前掲。
註
28)小林国夫,第 四紀 ( 上)
,1962年。
〝
湊 ・井尻, 日本列島,岩波新書
,1958年。
註
29)考古学手帖,
7,1959年。
21
付表 として,理解の補助のために,縄文式土器の編年表を添付する。
円 森 県
関 東 地 方最 花 ・榎 林 円筒土器上層
D//
C
′′ B
′′ A
加 曾 利
E阿 王 台 ・勝 坂 五 領 ケ 台 円筒土器下層 D
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上下島上下
辞 母 山 ケ 戸
台〃 〃 輪 〃 茅 鵜 野 子 田 三 花 稲 夏 大 井
Radiocarbon dadng
による絶 対年代
1122B.C.±180 2563B.C.
士
30 0
31