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mathematicorum et peregrinarum linguarum regius interpres」の称号を授か

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Academic year: 2021

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フランソワ一世は、1525年のパヴィアの戦いで大敗し、マドリッドに囚われ の身となった。ギヨーム・ポステルは、1560年前後に書かれたと推測されてい る未刊の『フランソワ一世外伝』で、この事件が、文芸の興隆(王立教授団設立 による)と印刷術の進歩、そしてイスラムについての知識をフランスにもたらし たのだと述べている(1)。実際、フランソワ一世が、宿敵カール五世を皇帝に戴く 神聖ローマ帝国に対抗するための手段として、オスマン皇帝スレイマンとの同盟 を画策しはじめたのは、この屈辱的敗北を機にしてであった。こうして、数回に わたって、パリからコンスタンチノープルに使節が派遣されることになる。それ に同行したのが、ポステルをはじめとする、アンドレ・テヴェ、ピエール・ブロ ン、ピエール・ジル、ニコラ・ド・ニコレーといったユマニストたちであった。

一種の文化使節あるいは学術調査隊ともいえる彼らは、帰国後、トルコについて の記録を各々出版した。作者の個性と関心を反映したそれらの記録は、ルネサン ス人の貪欲なまでの知識欲を伝える、文芸復興の時代にふさわしい多様性と質を 兼ね備えたもので、当時の地理文学というジャンルの見本市のような様相を呈し ている。そして、フランソワ一世の親トルコ政策によって、トルコについての情 報量が格段に増加したというポステルの指摘は、16世紀に出版されたオスマン トルコについての記録の数は、アメリカについての記録の二倍あったとするジョ フロワ・アトキンソンの研究によって裏付けられるものである(2)

ダラモン使節に同行したこれらユマニストたちは、どのような歴史的背景のも とで、いかなる目的で旅をしたのか。旅にいかなる価値を見いだしていたのか。

その旅での見聞をいかなる形式で表現したのか。本論では、ブロン、テヴェ、ニ

ユマニストたちのオスマントルコ遍歴

長谷川 光 明

(2)

コレー、ポステルが著した著作の序文や献辞に、これらの問いに対する答えを探 りつつ、それぞれの作品の個性を浮き彫りにしたい。あわせて、それぞれの著作 で、書く者と書かれる対象との関係がどのように考えられていたのか検討する。

スレイマンとカール五世はともに、ローマ帝国皇帝の正統的継承者を自任する ものとして世界帝国建設の野心に燃え、ヨーロッパ東端(ハンガリーやオースト リア)や地中海海域で軍事的衝突を繰り返した。神聖ローマ帝国の皇帝選挙で、

カール五世に破れて落選したフランソワ一世は、その後もイタリアをはさんで皇 帝と睨み合い、ハプスブルグ家によるヨーロッパ制覇の野望に異議を唱え続けた。

フランスは神聖ローマ帝国を牽制し、ヨーロッパの勢力均衡を保持するためにオ スマンに接近することになる。しかし

16

世紀におけるフランスとオスマンの外 交の歴史は、「敵の敵は味方」の原則に貫かれていたわけではない。フランスの 外交方針は、その時々の国益に利するよう臨機応変にハプスブルグ側あるいはオ スマン側に振れた。ここではそのような紆余曲折を端折り、外交使節としてのユ マニストの旅が、いかなる状況においてなされたのかを中心に略述しておこう。

フランスがトルコに最初の使節を派遣したのは、ポステルが述べているように、

ヴァロワ朝存亡の危機にあったフランソワのマドリッド捕囚の間であった。コン スタンチノープルを陥落し(1453)、エジプト、聖地を占領(1517)、さらには アルバニアと破竹の勢いで領土を拡張していったオスマン帝国は、壮麗王スレイ マン(1521年即位)の時代にその頂点を迎えていた。彼はベルグラードを攻め 落とし、ロードス島からヨハネ騎士団を追放し、ハンガリー王に勝利したのち、

ついにウィーン包囲にいたる(1529)

否応無しにオスマン帝国と国境と接するようになった神聖ローマ帝国に直接的 間接的に圧力をかけるため、フランソワはトルコ軍の出動を折々要請し、自国の 領土保全、あわよくば領土拡張を計ろうとした。1534年にはオスマン使節団が パリに到着、翌年には最初の常駐フランス大使として、教皇庁書記長、修道院長、

そして聖ヨハネ騎士団員でもあったジャン・ド・ラ・フォレがコンスタンチノー プルに派遣され、ヨーロッパ諸国で初めてカピチュレーション(在留フランス人

(3)

の安全保障や交易独占権などの特権)を獲得する。そしてその随行員の一人が弱 冠二十五歳のギヨーム・ポステルであった。

1 5 3 0

年 あ る い は そ の 翌 年 に 「 数 学 な ら び に 東 方 諸 国 語 の 進 講 役

mathematicorum et peregrinarum linguarum regius interpres」の称号を授か

っていたポステルを、フランソワあるいはラ・フォレに推挙したのは、イタリア のギリシャ人人文学者ラスカリスだったとされる。ラスカリスはラ・フォレの人 文学の師であった。フランソワはフォンテーヌブロー宮殿に写本コレクションを 設立する計画を抱いていた。ポステルの任務は東方で写本を収集し、このコレク ションを充実させることであった。もう一つの特殊任務は、トゥールの交易商人 の遺産の一部を、オスマンの大宰相イブラヒム・パシャから取り立てるというも のであったが、後者が処刑されたためにこの任務は遂行できなかったらしい。

この一行の足取りを辿ってみると、1535

2

月半ばにはパリを出立、4月に はマルセイユから乗船、トルコ艦隊のエスコートのもとチュニスを経由してコン スタンチノープルに到達している。しかし、スレイマンはソフィアに遠征してお り、皇帝が首都に帰還する

1535

年末まで使節の仕事はできなかった。ポステル はこの閑暇を利用して、トルコ語習得にいそしんだ。ポステルはこの時の東方滞 在をこう述懐している。「しかし、当時私は、古代文学の毒に当てられ、大使へ の助力を言い訳に、ギリシャ文学に取り組んでおり、また、医学の勉強のせいで、

真の宗教に関するものにほとんど関心をもっていなかった。アリストテレスの注 釈書、医学・植物学・数学などを扱ったさまざまな作者の書籍を購入して、ヴェ ネツィアに戻った。(3) ポステルがヴェネツィアに帰還したのは

1537

年のことで ある。

ラ・フォレ使節団は、カピチュレーションを獲得したことで、トルコとの新た な外交関係を確立したものであったと同時に、その後の使節団の模範となった。

フランスの威信を高める目的で大使に学者を同行させることで、外交使節団が文 化使節団あるいは学術探検隊の性格を帯びるようになったのである。ユマニスト たちは、聖地巡礼者の保護権あるいは領土内の移動の自由といったフランス人に 与えられた特権を活用して、東西にまたがる広大なトルコの領土を安全に巡歴し、

その好奇心を満足させることができるようになったのだ。このラ・フォレ使節団 をモデルにしたのが、1547年に派遣されたガブリエル・ダラモン使節団である。

(4)

ダラモンの任務は、スレイマンに、ハンガリー、地中海の両面から神聖ローマ帝 国に攻撃をしかけるよう要請することであった。トゥルノン枢機卿が、この使節 に華を添えるために同行させたのがピーエル・ブロン(1517-1564)であった。

植物学者としてドイツ、イタリア、スイスを植物採集して歩いたブロンは、トゥ ルノン枢機卿に薬剤師あるいはドイツ語の通訳として仕えていたらしい。彼は、

ディオスコリデス、テオフラストスといった古代の植物学文献を翻訳し、古代と 現代の植物名のコンコルダンスを作成する計画を抱いていた。

1547

1

月にパリを出立した一行は、ラグーサで二手に分かれる。ブロンは、

そのまま陸路でコンスタンチノープルに向かうダラモン一行と離れて、海路でア トス山などのエーゲ海の島々を巡ったのち、8月コンスタンチノープルでダラモ ンと合流した。しかし、スレイマンの目はペルシャに向けられており、ダラモン の要望は聞き入れられなかった。おまけにフランソワ一世は

3

31

日に死去し ていた。フランソワの後継者アンリ二世はただちに、フュメル男爵を特使として 派遣し、自らの即位を知らせるとともにこれまでの同盟関係の継続を求めた。ブ ロンは首都とその周辺を探検したのち、フュメルに同行して、エジプト(アレク サンドリア、カイロ)、シナイ、聖地を巡り、翌年の

1548

年コンスタンチノープ ルに帰還する。フュメルはフランスに帰国する一方で、ダラモンとブロンはスレ イマンのペルシャ遠征に同道する名誉に恵まれた。その道中で彼らが遭遇したの が、ピエール・ジルであった。

ピエール・ジル(1489-1555)(4) は、1535 年にアエリアノスの動物誌を羅訳し 詳細な注釈付きで出版したユマニストで、フランス動物学の父とも呼ばれる。

1544 年に、先年のポステルと同様、写本や稀覯書収集を任務としてフランソワ

一世によって東方に派遣されていたジルは、コンスタンチノープルに到着後、ボ スポラス海峡の地形学的研究を行っていたが、送金が滞っていたために、やむな くトルコ軍に身を投じていたのである。ダラモン一行とジルが出会うきっかけと なった出来事は、当時の外交団の科学探検隊的性格をよく物語っている。大使が ペルシャ人から買い取った象が、アレッポで死んでしまった。死因を探るため、

そして象の脚に関節はあるのかという古代以来の難問を解決するために、その解 剖を自ら買って出たのがジルだったのだ。その後、ジルはダラモン一行と行動を 共にすることになる。一行はワン湖あたりでスレイマンと別れ、そのまま南下し、

(5)

エルサレムからカイロに移動した。ブロンはコンスタンチノープルで離脱し、

1549

年中に帰国の途についている。そのブロンと入れ替わるようにトルコに到 来したのが、ポステル、アンドレ・テヴェ、ニコラ・ド・ニコレーであった。

ポステルの二度目の東方巡礼は公的なものではありえなかった。1542年には 王立教授団を罷免され、翌年には四千エキュの報酬が約束された東方での書籍収 集の任務を辞退して狂人扱いされたポステルは、もはやたんなるユマニストでは なく、さまよえる預言者としてローマに赴き、イエズス会に入会するもののすぐ に脱会している(1546-49)。そのあと、ヴェネツィアにて、前回のトルコ旅行の 帰路で知りあった出版主ダニエル・ボンベルグから写本蒐集(特にアラビア語版 新約聖書)の依頼を受け、巡礼者でこみあう船に乗り込んだのだ。エジプトを経 由して、1549年夏にはエルサレムに到着したポステルは、そこでダラモン一行 と遭遇する。稀覯書を目前にしながら、資金不足で購入できないポステルにとっ て、ダラモンとの出会いは渡りに船であった。ダラモンはポステルに、自分に同 行することを条件に資金援助を保証したのである。同様の仕事を任されていたジ ルは、ポステルと書籍購入の主導権をめぐってたびたび衝突することになる。ポ ステルはコンスタンチノープルを経由して、1550年秋にはヴェネツィアに帰還 した。

イタリア滞在中にロレーヌ枢機卿から東方行きの使命を託され、資金援助も受 けたアンドレ・テヴェ(1516-1592)は、1549

6

月ヴェネツィアを立ち、ク レタ島に三ヶ月滞在し、11月末にはコンスタンチノープルに到着している。そ して、首都の大使館街に滞在してボスポラス付近を散策したりしたのち、聖地巡 歴から帰還したダラモン一行と合流した。黒海では、魚は呼吸するのかという難 題をめぐって議論を交わし、ジルと一緒にカルケドンの遺跡を探検する。さらに、

お決まりのコースとして、エルサレム、エジプト、シナイをめぐり、1552年末 にはトルコを離れている。それにしても、テヴェの任務は必ずしも明らかでない。

表向きは聖地巡礼に赴く托鉢修道士としてふるまいながら、その裏ではフランス 王家のための諜報活動をしていたのではないかとも推測されている。また、テヴ ェは、その複数の著作の中で何度も、ブロンとポステルを「自分の旅仲間」と呼 んでいるが、これはいつもの法螺だったらしい。ブロンとは入れ違いでトルコに 入国しているし、ポステルとはジルとともにアトス山で古代写本の探求をしたと

(6)

述べているが、テヴェはアトス山を船上から遠くに眺めたにすぎなかったような のだ。

ダラモンは

1551 年にいったん帰国し、同年 7 月にはあらためてコンスタンチ

ノープルに向かった。それに随行したのがニコラ・ド・ニコレー(1517-1583)

であった。彼はイギリスでスパイとして暗躍したのち、オスマン帝国内の軍事基 地を網羅的に調査するという任務を与えられていた。往路、トルコ海軍がマルタ 騎士団が支配するトリポリを陥落する現場に立ちあう。1552 年には帰国。ダラ モンも翌年

9 月にはコンスタンチノープルを最終的に離れた。スレイマンは、ペ

ルシャ戦争と後継問題をめぐる皇太子との争いという内憂外患を抱え、ヨーロッ パの方を向かなくなっていた。そして、カール五世は

1558

年に死去し、翌年に はカトー・カンプレシ条約が締結され、フランスはイタリアの権利要求を放棄し、

フランスとハプスブルグの対立は終止符がうたれた。アンリ二世は同年死去、ス レイマンは

1566

年に息をひきとる。こうして、フランス=トルコ同盟によって 誕生したユマニストと外交使節の組み合わせの黄金時代はひとまず幕をおろす(5)

1553 年に出版されたピエール・ブロンの『ギリシャ、アジア、ユダヤ、アラ

ビア、その他の異国で見いだされたいくつもの珍奇な事ども、特筆すべき事ども についての観察』(6) は三部構成で、第一部では主としてブロンがその旅程(エー ゲ海の島々、アトス山、ギリシャ)で観察した動植物が空間軸にそって記述され、

第二部はいわゆる旅行記で、ブロンの旅の様子と彼が踏破した地域(コンスタン チノープル、アレキサンドリア、カイロ、シナイ山、エルサレム)の地誌が編年 体で詳細に語られ、旅のガイドブックのような役割を果たしている。第三部は、

イスラム(ムハンマド伝等)、トルコ人の習俗、「現代のトルコ人の生活様式」(7) がタブロー状に記載される。

『観察』は、ダラモン使節団が書いたテクストの中では最初に出版されたもの であると同時に、形式と内容の点ですでにもっともバランスのとれた完成度の高 いものに仕上がっている。博物学者ブロンにとって、旅の第一の目的は、異国の 動植物を実地で観察することにある。「植物、動物、鉱物のうちの珍しいものは、

(7)

そのほとんどが、旅の恩恵によってわれわれにもたらされたものである。旅なく して、われわれが異国の富や恵みの分け前に与ることは困難であり、まったく不可 能なのだ。だからこそ、それらが生まれた地でそれらを見に行くことを決意したので ある。(8)

ついでブロンは、科学的探究者の旅と商人の旅を差異化する。「個人的な用事 で遠くの異国に旅する者は、自分の目的を達するために必要な事物を探し求める のに熱心で、その他の知らない事柄の観察に時間を費やすことはしない。これは 商人の交易に明らかである。商人は、インドや新大陸に何度も旅しても、自分の 金を商品の購入に使う以外の目的を持たず、好奇心を持つ人であればよく観察で きる無数の珍しいものを手に入れようとはしない。」(9)商人はあらかじめ欲しい もの、つまり既知のものしか探求せず、未知のものには、それがいかに珍奇であ っても目もくれない。しかし、科学的探究者であっても、その視線は客観的なも のではありえず、何をどう見るかは各人の個性に左右される。「性質や感情は人 によって違うのだから、何人かが一つのグループで一緒に異国を歩いても、二人 が同じものの観察に熱中することはめったにない。なぜなら、一方はこれ、他方 はあれに注意しようとするからだ。それに加えて、いかに熱心な人でも、すべて のものを細部にわたって十分に検討することはできないし、それなのに、特筆す べき事柄は、それについてなんらかの判断を下す前によく観察されなければなら ないのだ。(10)

ブロンが古代人の権威を援用するのは、観察者の視線のこの相対性を補うため である。「われわれが公にするすべてのことは、われわれの権威しかもたないた めに、大いに重んじられるということはないから、以下で私が話す事柄に権威を 与えるために、優れた著述家のくだりを時節援用するのが適当であろうと考え

た。」(11) 観察者と古代人の相補的関係は、東方の博物誌である第一部によく現れ

ている。ブロンはまず、自らの目で観察できた動植物を古代人の記述と照合し、

同定して、それぞれを適切なギリシャ語あるいはラテン語名で命名しなおす。そ してあらたに回復されたその学名を基準にして、不適当な俗語の名称を修正しよ うとするのである。あるいは、観察者の新しい眼差し、たとえば解剖が、古代人 の記述を修正することもある。カメレオンはプリニウス以来、空気を食べて生き ているとされてきたが、「私がそれを解剖したところ、その胃の中に蠅や芋虫と

(8)

いった虫をよく見つけた」(12) 。このような観察者の目と古代の権威の関係は、テ ヴェにおいて変容する。

アンドレ・テヴェの『東方地誌』(13)

1554

年に出版された。そのテヴェにと って旅はなによりも知恵と徳を獲得する手段である。「航海は、海の向こうの異 国の生活様式を見て知るために、称賛すべきもの必要なものであり、万物を支え、

養い、支配するあの善なる神の似姿として作られたという自覚をいくらかでも抱 いている者すべてに求められ、望まれている完璧な判断と十全な精神に到達する ための真の手段となる。(14)そして、オデュッセウス、ソロン、タレスなど古代 ギリシャの賢者の例をあげ、「旅は、われわれに知恵をもたらし、常識を習得さ せ、子供のような振る舞いをさせなくするのだ。」(15) また、ブロンに続いてテヴ ェも、富を求めて旅をする商人と知を求めて旅をする旅人を比較し、富は「はか なく、不確か」なものであるが、知恵という財産は、「力によって奪われること も、盗まれること、水や火で失うことも決してありえない」(16) と商人の旅を貶め る。

では、旅を修養の過程と見なすテヴェは、旅から得た知恵をどのようにまとめ たのだろうか。ラ・ロシュフコー伯爵フランソワ三世にあてた献辞から引用しよ う。「閣下は、私の小著で、キリスト教徒の間では当り前の聖地への旅のみなら ず、ギリシャ、トルコ、エジプト、シナイ山、ユダヤ、アンティオキアやアルメ ニア、肥沃なあるいは不毛な島々にいたるまでの旅についても語られているのを ご覧になりましょう。この本で私は、ソリヌスの『奇異事物集成』と題された著 作に倣おうとしました。ソリヌスは、国や都市だけでなく、動物や住民の生活様 式やその他の珍しい物事についても記しています。それは、種々の話題で構成さ れた作品が、人の精神──種子の多様性と変化を求める大地に似ているものです

──に、より活気を与えうるようにするためなのです。よって、閣下は本論で、

かたや逸話、かたや自然学の議論をご覧になることでしょう。それらの一部は、

権威としてではなく理性に鑑みて優れた著述家に従ったものであり、私のささや かな理解力が及ぶかぎり、読んで楽しいものであるだけでなく真実なものとなっ

(9)

ております。また閣下は、動物、ピラミッド、競馬場、巨像、記念柱、オベリス クの、可能なかぎり実像に近い図像を本書でご覧になるでしょう。(17)

『東方地誌』の骨格は、著者の旅の行程であり、そのすき間を埋めるのがその 旅程で遭遇する多彩な事物についての記述である。双六にたとえるなら、ヴェネ ツィアを起点、聖地を終点とするコースが升目で連なり、その升目の一つ一つに は、各地に関連する珍奇な事物が描かれる。そして、テクストの校訂者フラン ク・レストランガンがその行き届いた典拠調査によって明らかにしたように、

『東方地誌』は、ソリヌスをはじめとする古代地誌や、それらについて同時代に 出版された注釈本、前代の巡礼記などを「剽窃」したパッチワークである。つま り、テヴェがあれほど顕揚した現実の旅の経験はプレテクストにすぎず、テクス ト本体の構造は、当時度々重版されていたベルンハルト・フォン・ブレイデンバ ッハのエルサレム巡礼記から借用し、升目に描かれた狼男、ピグミー、キリン、

モスク、古銭、鰐、アトス山、象、ミイラ、カバラ、トルコ風呂等は、カエリウ ス・ロドギヌスなどの人文主義者の著作からの引用なのだ。このようにして

「種々の話題で構成された作品」は、「種子の多様性と変化を求める大地」を忠実 に反映し、「種子の多様性と変化を求める大地」に似た人間精神の糧となる(実 はこの引用文自体、ソリヌスからの借用である)。大地と書物と精神は互いに相 同的であり、合わせ鏡のように映しあっていることになる。テヴェにとって旅先 は修練の場であり、旅は知恵と健全な判断力をもたらすものである。しかし、テ ヴェが採用した旅行記の形式は、実体験をそのまま語るものではなかった。『東 方地誌』は旅によって獲得した知恵の集積ではなく、旅で遭遇しうる風変わりな 事物についての過去の言説の集積なのだ。

そして、このような雑多な言説を束ねているのが旅人の目である。テヴェは視 覚を他の知覚の最上位に置く。「視覚によってわれわれが獲得した知以外に確か な知はない。」(18)テヴェには、ブロンのような視覚の主観性、相対性に対する不 安はない。なぜなら、この目は視覚の器官ではなく、修辞学の道具だからであり、

もともと虚構だからである。著者は、実際に旅をしたと公に認められているだけ で権威を持つ。その著者が「見た」と言明するだけで、現実の体験談ではなく他 の書物からの抜粋であっても、信憑性を獲得する。表象と表象されるものとの関 係が問われることはないのだ。ブロンにとって、観察者の目は不確かであるから、

(10)

古代人の権威によってそれを裏付けなければならなかった。ここには、観察の対 象、客体が真理そのものであり、それについての観察と言説はそれを正確に表象 しているか否かによって価値判断されるという前提がある(19) 。テヴェにおいては 逆に、旅人の虚構の目が、古代人の言説に権威と信憑性を与えるのである。

ブロンは科学的知識獲得の手段、テヴェは知恵と徳の涵養の手段として旅をと らえていた。これらはいずれも旅人一個人を対象としている。それがダラモン使 節団の中で最後に記録を出版したニコラ・ド・ニコレー(20) になると、旅は、一つ の共同体と別の共同体のコミュニケーションの手段としてとらえられることにな る。シャルル九世への献辞によると、全地は人のために創造されたのだから、国 王がその国土と臣民を視察して把握するように、「その世界という住居のすべて の家、部分、全存在を探求し、訪問し、調査し、知り、認めることを、理性は欲 し、自然は人に命じているように思えるのです。(21) さらに、旅は諸国の相互理 解の手段である。「そのような旅と交流によって、世界の種々の民が互いに慣れ 親しみ、野蛮な悪習を修正しあい、真の宗教、美徳、道徳的・社会的・政治的礼 節を教えあうのです。」また旅に付随する交易によって、各地の物産を交換しあ うことで、それらは一種の共有財産となる。「かくして、そのような旅というシ ンボルによって、全地は、最終的に、万人に共通の一つの都市、さらには一つの 家となります。その家族の偉大なる父は神であり、長子はイエス・キリストです。

予言によれば、最後には、すべての散り散りとなった羊が、よくまとまった一つ の群れとなるのです。

最後の新約聖書からの一節が明かしているように、ニコレーが終末論的展望を 抱いていたのは確かである。旅による諸国間のコミュニケーションはやがて、イ エス・キリストの法の下の世界統一に至るというのだから。しかし、彼の千年王 国主義は、次に考察するポステルの過激で切迫した世界和合論とは異なり、具体 的なプログラムを欠いた表層的で常套的な声明にすぎない。

『トルコでなされた航海と巡歴と旅』の構成は編年体で、アルジェリアからエ ーゲ海の島々を経由して、トルコ、ペルシャ、アラビア、アルメニア、ギリシャ

(11)

と、旅程にそって著者の遍歴の様子が語られたのちに、それぞれの話題のまとめ としてその地域の地勢・歴史、その地の住民の風俗や信仰をタブロー状に記載し た「description」と題された一章が置かれる。各ブロックの最後には、住民の立 ち姿を描いた挿し絵が挿入され、その数はおよそ六十枚にも及ぶ。そして、ニコ レーが最も力を入れていたのもこの挿し絵である。それは、自分が現地で目撃し たとおりの、様々な衣装や武器や身振りをした「種々の年齢・性・国・身分・職 業の異国の人物の姿」を、「楽しい見物・愉快で多様なイメージ」である。これ によって彼は、読者がこの著作を読んで、あるいは耳で聞いて有用性を感じ、悦 びを覚えることを期待していただけでなく、目にも快楽を与えようとしたのだと いう。

使節団の中では軍事スパイの任務を負っていたニコレーは見る人であった。し かも、その目は、テクストで逐一報告される軍事基地や要塞だけに向けられてい たわけではない。アルジェリアでモール人の女奴隷が下着を洗濯する場面を描写 するように(22)、あるいはコンスタンチノープルのバザールに「三度通い」、奴隷 として売られるハンガリーの少女が、商品としてのコンディションを点検される ために「そこで裸になるのを見た」(23)、という逸話が象徴しているように、その 視線は窃視的・一方的であり、見るものは見られるものでもあるという次に述べ るポステルが明晰に把握していた事実に思い至ることはない。したがって、たと えば、イスラムの記述にしても(24)、ムスリム各派の外面的な特徴(衣服や祈祷の 仕方等)が事細かに描写されるとしても、その教義に立ち入ることはなかったの である。

ポステルは第一回目の東方旅行の帰国後さっそくトルコ論の執筆にとりかか り、その大部分を完成させる。その後二度目の東方旅行等の経験をふまえて、随 時更新していったが、それが『トルコ人の国について』として出版されたのは、

1560

年のことであった(25)『トルコ人』は三部構成で、第一部は、トルコ人の揺 り籠から墓場までを記したもので、主にトルコ人の社会宗教生活が語られる。そ の話題は、結婚制度からハーレム、イスラムの教義から礼拝の仕方、司法から埋

(12)

葬の慣習まで多岐にわたる。中心となるのは、ムハンマドの生涯ならびに旧約・

新約聖書とコーランとの類似と差異を解説した部分で、ポステルの東洋学者とし ての本領を発揮している。最もポステルらしい第二部は、トルコ民族の歴史的考 察で、トルコ人の民族的起源をユダヤの「失われた十支族」に求めつつ、トルコ 人ムスリムのキリスト教徒への「復元」(ポステル思想のキーワードで、神が定 めた起源への復帰を意味する)が神によって予定されていることを論証したもの で、すでに拙論で詳説した(26) 。第三部は、帝国の制度・組織論で、宮廷の様子と おもだった官僚・軍隊・地方の統治機構と財政について論じられる。さらに、全 体の巻頭には「王太子」、のちのフランソワ二世(1559年即位)にあてた献辞が、

第三部の巻頭にはアンリ二世の首席評定官、ロレーヌ枢機卿にあてた献辞が置か れ、さらに第一部・第二部に序文が付されている。

これらの献辞と序文には、自分の旅の目的と、その旅で得られた知見を書きと め公にすることの目的が明確に述べられている。そしてこれらの目的はすべて、

ポステルの宿願である「世界和合」というより大きな目的に収斂される。ポステ ルのいう世界和合は、最後の世界皇帝となるフランス王によって全世界が統一さ れた後に、全人類が、ある程度自然宗教に還元されたキリスト教に帰依し、キリ ストの法のもと至福のうちに生きるという一種の千年王国思想を意味している。

ポステルの行動と著作はすべてこの世界和合の実現に向けての努力であった。

ロレーヌ枢機卿への献辞の中でポステルは、この世界和合を実現する手段を自 分は二つ有していると言う。この二つは、働きかける対象の違いによる。一つは、

ガリア民族が選出するフランス王が世界支配権を有していることを、フランス王 とその側近に説いて説得し、自覚を促し、鼓舞して世界帝国建設に邁進させるこ と。そしてこの王を支持しなければならないヨーロッパのキリスト教徒に向かっ てその正統性を理性的に論証すること。ポステルは

1551

年に出版した『君主制

の道理』(27) ですでに、フランス王が世界帝国皇帝の正統的継承者であることを、

聖書・占星術・史書から導き出した論拠をもとに証明していた。1550 年代前半 のフランス語著作で集中的に論じられた主題なのだ。『トルコ人』でも、第二部 で再説されている。

二つめは、異教徒、とりわけトルコのムスリムに対してであり、彼らの言語で、

キリスト教の真理を論証することである。そして、ポステルの二度目の東方旅行

(13)

の目的はまさしくここにあった。「前回の東方旅行で私は、西洋キリスト教世界 に、シリア語[…]や、アジア・アフリカ、ヨーロッパの三分の一で使われてい るアラビア語で書かれたできうるかぎり大量の聖なる書物をもたらしました。な ぜなら[…]、今日アラビア語とコーランのもとに、アジア・アフリカのほとん ど全域とヨーロッパの三分の一を支配しているイスマエルびと(28) が、彼らの言語 で永遠の真理を受け入れるための手段を見つけ、与える必要があるからです。シ リア語は、イエス・キリストの時代に聖なるヘブライ語の俗語であった言語で、

イエスはその福音の教義をシリア語で説き聞かせようとしたのですが、そのシリ ア語はユダヤ人に真理を表すのに最適な言語です。[…]したがって、印刷術に よって新約聖書を広めるために[…]、私は早速聖地でそれを探し求め、こちら 側に、東方のキリスト教徒全員に使われているそれらの写本を持ち帰ったので す。

「王太子」への献辞で、彼はこれまでの著作活動をこう振り返っている。「『世 界和合論』第二部[…]で、自然理性によって、キリスト教に反するもの、とり わけコーランすなわちイスラムの法が誤謬であることをいかに証明するかそのや り方を提示いたしましたし、[…]『君主制の道理』では、この君主国の権利が、

ガリア民族によって選出された王にいかに帰属するものか論証いたしました。」

『世界和合論』はポステルが

1543 年に執筆し、翌年に出版した大部のラテン語著

作である。『君主制の道理』は

1551

年に出版されたフランス語著作である。『ト ルコ人』はこの二つの著作で「やり残したこと」を実現しようとしたものだとい う。

では、『世界和合論』とはいかなる著作だったのか。『君主制の道理』で説明さ れている『世界和合論』の趣旨を引用してみよう。「私は、全民族の間に和合を もたらすために真に必要だと思われるものを提示しようとたえず努めてきた。人 の心を結び合わせ、それを知らないがために不和をもたらす第一の絆、法は、宗 教すなわち聖なる法である。ゆえに、それなくして、人の心を説き伏せて結びつ け、ともに協和させるのは困難であるか、まったく不可能である。八、九年前、

そのかくも高貴な企てに最良の基礎を与えるためには、可能なかぎりキリスト教 の自然的道理を提示する(その真理を証明するかそれに歯向かう者を反駁するか して)のが一番であると考えた。ひとたびそれを理解し、信じたのであれば、で

(14)

きるだけ自然に還元されたその道理に、万人は向かわなければならないし、服従 しなければならないと私は主張するのである。そうしない人々は、彼らがないが しろにしている理性と生をまさしく失うはめになるのである。そこで、『世界和 合論全四書』で私は、次のように真理の道理を整理してみた。第一書では、宗教 において真に真であるものを提示し、証明した。第二書では、真に誤謬であるも のを提示し、反駁した。第三書では、あらゆる時代のあらゆる民にとって、宗教 と聖なる法、また民事的規範の中から全世界で共通のものを記した。第四書では、

法の理解のみによって、反目し合う種々の集団は和合できるし、そうすべきであ ることを書いた。(31)

『世界和合論』では、各宗派に対する対処の仕方も提起されている。ムスリム に対しては、神の観念、特に三位一体の重要性を示し、この教義を有している福 音はコーランよりも優れていること、復活したイエス・キリストは他の人間から 超越していること、キリスト教はヨーロッパに限定されない普遍的なものである ことを使徒の活動から証明しなければならない。異教徒に対しては、唯一神の 神々に対する優位を証明しなければならない。ユダヤ教徒に対しては、イエス・

キリストが旧約の法を真に成就したことを示さなければならない(32)

ポステルのトルコ旅行は、『世界和合論』ですでに構想されていた、キリスト 教の教義の普遍性と優位性をムスリム・ユダヤ教徒に現地語で説明して、キリス ト教への改宗を促すという計画を実地に移すための準備であったのだ。ポステル の楽天的な考えでは、異教徒は新約聖書を自分の言葉で読めさえすれば、たちま ち、イエスの教えに帰依するはずなのだから。東洋語の新約聖書出版計画は、そ の一部はポステル存命中に結実した。1571 年に出版されたプランタンの多国語 聖書のシリア語版は、ポステルが東方で蒐集した写本に基づき、ポステルの高弟 ギー・ル・フェーヴル・ド・ラ・ボドリーが校訂したものだったのである(33) 。そ の他の旅先での蒐集品についても、その後のヨーロッパの東洋学の礎となった。

ポステルの一度目の東方旅行で蒐集した図書は、王立東洋写本コレクションの基 礎となり、二度目の旅行で蒐集した図書の一部は、イエズス会のクレルモン学寮、

のちのルイ=ル=グラン校の所蔵するところとなる。そのコレクションのうち三 五点のアラビア語写本はポステルが持ち帰ったものだったのだ。さらに、ヴァチ カン図書館のアラビア写本コレクションの基礎となったのもポステルの蒐集図書

(15)

であるという(34)

ここまでは、二度目の東方旅行にいたるまでの著述活動と旅行そのものの意義 の説明と顕揚である。では、『トルコ人の国について』を著したより特殊な意図 は奈辺にあったのか。それは、前述の世界和合実現第一の手段をより推し進めた ものであった。ポステルは『トルコ人』の名宛て人を未来のフランス王に限定し て、説得を試みるのだ。

「王太子」への献辞を検討しよう。まず、フランス王を、長子相続権によって 世界帝国の首長となるべく定められているものと定義する。ポステル思想の代名 詞の一つともいうべきこの命題は、前段で述べたとおり『君主制の道理』等の著 作ですでに詳細に論証されている。そして、自分自身を未来の世界皇帝に、帝国 支配に必要な知識と知恵を授ける教育係と位置づける。しかし、現実には王太子 には王立教授団のギリシャ語教授ピエール・ダネ(1497-1557)が教育係として 正式に着任していた。そこでポステルは、自らをダネとこう差別化する。ダネは 古典や歴史の知識を授けるものであるが、自分は、現代の知識を与えるものであ る。とくに、誰よりも必要であるにもかかわらず、他の王国を自由に視察し、そ れについての知識を得ることができない君主に、その知識を提供するものである。

つまり、「トルコ君主、その宮廷、帝国、財政について」書かれた『トルコ人の 国について』は、ポステルの王太子に対する地域研究の講義録として位置づけら れているのである。

なぜ、王はトルコの現状を知る必要があるのか。そして、具体的にいかなる知 識を提供するのか。ポステルは、王太子がこのテクストから得られるという「知 恵の果実」を四点あげている。そのうち特に注目すべき箇所を引用してみよう。

「第二に、東方の最も巨大な国家と君主の歴史と像をご覧になり、その短所を責 めたり避けたり、あるいはその長所を讚えたり真似たりすることで[…]、閣下 はより立派で完全になられ、富と国と諸州を所有するにきわめて値するお方と評 価されることになるでしょう。トルコ人のみならず、この世のすべての君主が、

世にも大きな欠点と世にも小さな美点によって、そのような富・国・諸州を、不 適格であるにもかかわらず所有しているのです。

フランス王がオスマントルコの長所を学ぶその最終的な目標は、世界和合であ る。「世界和合(世界平和のことであり、私はそれがフランスの王冠のもとで実

(16)

現されるのを見たいと望んでいるのですから、コスモポリタンと自称しているの です)が成就しようとしている時に、敵の状況を自分の状況と同じように完全に 知らないと、敵と理性でもって話すことはできませんし、宗教においても武力に おいても、歴史上最も巨大な勢力はイスマエル派であり、イスマエルびとの中で もトルコなのですから、私は閣下にトルコについての知識をお授けするのです。

[…]したがって、『世界和合論』第二部[…]で、自然理性によって、キリスト 教に反するもの、とりわけコーランすなわちイスマエルの法が誤謬であることを いかに証明するかそのやり方を提示いたしましたし、[…]『君主制の道理』では、

この君主国の権利が、ガリア民族によって選出された王にいかに帰属するものか 論証いたしました。[…]私のやり残したことで最も適当なのは、閣下に正確な 記述によって、閣下の明白な敵がいかなる軍隊を有しているかお見せし、それを 知ることによって叩く準備をできるようにすることなのです。[…]その知恵に よって、閣下は、真の力・知・良い意志を欠いた野蛮人がいかにしてほとんど全 世界を制圧し、その中でもとりわけトルコ軍が、節度・忍耐・服従、一言でいえ ば軍の規律を保ちながら、いかにして二百年足らずで今もつ大国を支配できたの か、見て知る理解力を得ることになるのです。

「王太子」への献辞が、ポステルにしてはこれ以上ないほど明快単純に語って いるように、ポステルのオスマントルコ像は両義的であり、それと持つべき関係 は両面的である。帝国としての規模や軍事力は羨望の対象であり、フランスは世 界帝国を目指すかぎりそれを学び、模倣しなければならない。他方で、トルコ人 はイスラムを奉じる野蛮な輩であり、聖地を不当に占拠しているのだから、征伐 しなければならない。それも敵の力を模範にして増強すべき武力によってである。

トルコの内情を知ることは、一方で、奉じる宗教の違いに無関係な、万人に生得 的な自然理性に基づいた対話を成立させるための前提であり、他方で、トルコを 暴力によって効率的に制圧するための手段である。

この両面性は他の献辞と序文でも露呈している。ロレーヌ枢機卿への献辞は、

聖戦へのあからさまな呼びかけである。ロレーヌ家の始祖が第一次十字軍(1096)

の立て役者であったことにふれ、「聖地奪回というかくも気高い事業」を継承し て、それを王に進言すべしと説いているのだ。他方で、第二部の序文では、他者 との相互理解の必要性が冷静に説かれる。「神が人をこの世に作ったのは、(互い

(17)

に助け合う)社会的動物になって、ともに集うことに喜びを感じさせるためであ るが、習慣、言語、考え、宗教が多様であるために、真に互いを知るまでは、

種々の人間が統一された一つの共同体になることは不可能である。人類の完全な 和解を目指すことが、この世で最も美しく有用で必要な行いではあるが、それは 互いについての知識を人に真に与えることによってはじめてなされることであ り、それまで未知であった人、あるいは民族の悪徳と美徳を知らせるそのような 知識によって、人は他人の短所を補い、長所を認めて、ともに和合できるのであ る。(35)

そのためには、他者についての知識を提供する当時最高の媒体であった旅行 記・地誌は、公正であらねばならないとポステルは第一部序文で力説する。すな わち、そもそも異国についての記録には、その対象の短所と長所、悪徳と美徳双 方が公平に書かれていなければならない。悪徳しかもたない民族は野蛮人にもい ないのであり、読者にその短所に嫌悪を抱かせしめ、長所についてはそれを倣お うとする気にさせるものでなければならない。一方で、記録の対象である「敵方」

(ここではムスリム)は、われわれが公正であり、自分たちと同一の真理を有し ていることを認めるようになるのだ(36)

当時の旅行記作者あるいは異国誌作者で、このポステルのようにその記録の真 実性の基準を、当の記録の対象に求めたものは稀である。画家は自分が描く石像 に作品の感想を求めることはない。その作品について批評することを許されるの は、あくまでその鑑賞者だけである。情報の流通が一方通行であったこの時代

(ごく最近までそうだったといえるだろうが)、記録者と記録の対象、そしてその 読者は、おおむねこの画家と石像、石像を直接見たことのない鑑賞者の関係にた とえることができる。アメリカ先住民や日本人、そしてトルコ人は石像なのだか ら、それについて何を書いても彼らからクレームがつけられることはないし、そ の想定もされていない。ところが、ポステルにとってトルコ人は石像であるどこ ろか、ポステルの著作の批評家であり、さらには、ポステルが代理しようとする 読者の審判者でもある。ポステルは他者の視線をあらかじめ内包しているのであ る。見るものでもあり、見られるものでもあるのだ。

ポステルの視線のこの可逆性を共有していたのは、これまで論じてきたことか ら明らかなように、トルコ使節に同行したユマニストたちではない。彼らには、

(18)

見る側についての考察はあるが、見られるという意識は一様に抜け落ちている。

ポステルに似ているのはむしろ宣教師であった。宣教師は、生身の他者を、生身 の体と言葉で説得し、キリスト教に導いていかなければならない。この場合、異 教徒は石像とはほど遠く、言葉を発し、宣教師を値踏みし、批判し、時に宣教師 を言い負かす存在である。宣教師は棄教の誘惑に負けることもあったであろう。

特にイエズス会は、現地適応主義の方針を採用していた。布教先の文化・慣習を 頭ごなしに否定するのではなく、それを研究して知り、布教に利用できるものは とりあえず認めようという態度である。ポステルは、1544 年から一年半ほどイ エズス会に所属し、脱会したのちも「より大いなる神の栄光のために」世界中で 布教活動を繰り広げるイエズス会を支持し続けた。情報と言説と身体言語の双方 向的な交渉を前提とするポステルの態度は、まさしく宣教師のものであったの だ。

そして、ポステルが目指す公正な記述は、『トルコ人』本文でかなりの程度実 現されており、淡々と、時にユーモアを交えて記述するトルコの実情について、

価値判断が下されることはほとんどない。むしろ目を引くのは、イスラム社会を 礼賛して、返す刀でキリスト教社会を慨嘆する場面である。いわく、彼らは貧者 への施しを怠らず、乞食など存在しない。われわれのほうでは、物価高で何千も の貧者が餓死している一方で、教会などの普請に熱を上げている(37) 。いわく、彼 らは困った旅人に、それがキリスト教徒であっても、宿や食べ物を分け与えるこ とを惜しまない(38)。これはアナトリアで自ら体験した逸話として述べられている、

ポステルが語る貴重な体験談である。『トルコ人』では、「もし私が、個人的な栄 誉を求めてそれ[敵方の知識を提示して、敵に対して抵抗する手段を与える]を したのならば、宗教についてと宮廷の様子についての二巻を、先の旅で私が観察 した事物や話で必ずやふくらませたであろう」(39) と述べているように、旅行中の 体験談はほとんど語られないのである。

一方で、ムハンマドと彼が説いた教義については嘲笑的に紹介したり、手厳し く批判するものの(数える程しかないが)、同時代人のようにただ闇雲にそうす るのではなく、東洋語学者らしくあくまでイスラムの聖典に基づこうとする。

「したがって、彼らの書物でそれ[イスラムの起源や法・信仰]を注意深く読ん だ後に、それについて書くことにしよう。こうして、物事の真の姿を提示するこ

(19)

とで、彼らが認めていない話や作り話や反駁によるよりも、彼らの狂気によって、

彼らに彼ら自身を反駁させたほうが、より効果的であろう。(40)実際、この引用 文ののちに、ムハンマドの生涯とコーランを敷延したその教説が語られるが、ポ ステルのコメントが挿入されることはほとんどない。それどころか、イスラムの 教義の内部に矛盾や亀裂が自然に浮き上がるようにし、内側から瓦解させようと する以上に、キリスト教徒の根拠のない批判を批判するのだ。たとえば、イスラ ムの禁酒のいわれをコーランなどの聖典にさかのぼって検討し、飲んだくれたム ハンマドが高いところから落ちてけがをしたのがその理由という、当時広まって いたらしい俗説を批判して、「最終預言者」の名誉回復を遂げる(41)

そもそもポステルによれば、何事も無益なことをなさない神が、イスラムが全 世界に拡大することを許したのはイスラムに利点があるからである。第一に、イ エスの法をないがしろにするキリスト教徒をコーランという鞭によって矯正する という利点。第二に、偶像崇拝の異教徒を根絶し、一神教に導いたこと。第三に、

異教徒に支配されたせいで、イエス・キリストを忘却した地域、特にアジア・ア フリカに、イエスの教えを取り戻したこと(42) 。周知の通り、ムハンマドは自ら をアブラハムからイエスにいたる預言者の系譜の末端に位置づけ、それまでの預 言の最終的完成者とみなしていた。コーランはイエスを神の預言者、メシアなど と呼ぶ。ポステルはイスラムのこの点を何よりも評価するのである。そしてこの 点でイスラムはユダヤ教よりも優れている。というのも、ユダヤ人はイエスがメ シアであることを否定しているからである。トルコではユダヤ人がキリスト教で はなくイスラムに改宗しているが、その利点もこの点にある。ユダヤ人もイスラ ムを奉じることで、イエスが旧約が約束しているキリストであることを認めるよ うになるからである(43)

『トルコ人の国について』の序文と献辞に露呈しているポステルの攻撃的態度 と対話的態度の二面性は、知ることは所有するためであるというありふれたテー ゼの傍証の一つである以上に、ポステルが構想していた世界和合計画にはじめか らつきまとっていたものであった。ポステルの終末論は政教分離を前提としてい る。俗界の長はフランス王ただ一人であり、彼は世界を政治的に統合しなければ ならない。軍事力の行使はその手段の一つである。教権を行使するのは腐敗した ローマ教皇ではなく、世俗の利害から完全に離脱した清廉な「天使教皇」である。

(20)

彼は、対話とキリスト教教義の合理的論証による説得によってキリスト教を全地 に広めなければならない。この世界皇帝と天使教皇は、その品行方正な行状によ って万人の賛同を得、万人からその身分と行動を承認されなければならない。ポ ステルは自らをこの「天使教皇」ととらえていた時期もあった。「最後の世界皇 帝」と「天使教皇」の二人によって世界の終末が加速されるという考えは伝統的 な千年王国論である。そして終末論は常に最新の装いを身にまとう。ポステルは、

この時代の超大国オスマントルコとキリスト教世界の対立を背景にして、間諜と しては、なかでもトルコの軍隊の内情をフランス王に伝え、軍事的政治的征服を 促し、宣教師としては、イスラムとキリスト教の類似と差異を、キリスト教徒・

ムスリム双方に対して明らかにすることで、キリスト教徒には布教のためのマニ ュアルを提供し、ムスリムにはキリスト教がイスラムよりも理に適っていること を証明して自発的な改宗を呼びかけようとする。そして、いまさら言い立てるま でもなく、宣教師による精神的征服と軍隊による物理的征服は、西欧列強による 世界の植民地化を推進した表裏一体の事業であった。ポステルの攻撃的態度と対 話的態度、それに対応する軍事的間諜としての役割と宣教師としての役割の二重 性は、その後の世界史を予見しているかのようである。

すでに指摘されているように、エドワード・サイードのオリエンタリズム論は、

18

世紀末以降の西洋の東洋に関する言説を対象としており、「オリエンタリズム」

をわれわれが論じてきた時代にそのまま当てはめることは時代錯誤である。その 理由は二つある。第一に、東洋学を自律的な学問として研究するアカデミックな 機関がまだ確立されていなかった。第二に、オリエンタリストの言説が、オリエ ントを支配するための道具、あるいはその支配を強化するための制度として機能 することはなかったからである(44) 。ポステルが冷静に観察していたように、軍 事・技術・統治機構などあらゆる点で圧倒的優位を保っていたオスマントルコに 対して、西洋が誇れるものはキリスト教しかなかった。オリエントは効率良く支 配すべき対象であるどころか、モデルにすべき対象、よく言うなら競合相手であ った。そもそも、オリエントと対をなすべき西洋も一枚岩では到底なく、フラン

(21)

スなどはほかの西洋諸国を出し抜き、オスマン軍との共同作戦を実施したのはす でに述べたとおりである。

本論でスケッチしようとしたのは、オリエンタリズム前夜の豊饒な風景である。

この時代には、サイードの犀利なテクスト分析が該当する側面、該当しない部分 が混在している。一例を引くと、サイードは、オリエンタリストの言語は、オリ エントを異質なものとして性格づけると同時に、演劇の舞台に仕立て上げ、「そ の演劇舞台では、観客も監督も俳優もヨーロッパのために、ただヨーロッパのた めにのみ存在している」(45) と指摘する。この指摘はニコレーのテクストに適用で きるだろうが、ポステルには該当しない。なぜなら、その舞台は、ムスリムの方 にも向けられていたからだ。

ポステルは、ローマ帝国が没落して以降、キリスト教世界からは「文芸と知の 光」が半ば失われ、それがイスラム世界に移動したことを認める。しかし、自然 理性に基づく学問がイスラム世界で発展することを神が許したのは、ムスリムが、

同じく自然理性に基づくキリスト教に同意し、改宗するための準備段階として必 要だったからだという。そして、「今やわれわれは、急激な変化によって、ギリ シャ・ラテン・ヘブライの文芸が、すべての神的あるいは人的教義とともに、少 なくともこの五十年で、かつて千年かけてなしえなかったほどより迅速に、そし てそれ以上に、より明晰に説明され、理解されているのをはっきりと目にしてい る。その一方で、今日イスマエルびとにはもはや文芸も学問もないのだから、わ れわれは再び優位に立つのでなければならない。」(46) ルネサンス人としての自信 にあふれるポステルは、さらに続けて、航海術の発達による新世界の発見、印刷 術と重火器の発明と、ヨーロッパの優位を証明する事柄を羅列する。ポステルが 目指す西洋のオリエント支配は、イスラムの根絶とムスリムのキリスト教化によ って成就されるものであった。そしてその西洋とは帝国となったフランスにほか ならなかった。ポステルのこの予見は半分外れ、半分当たった。西洋とオリエン トの帝国の優劣関係は、その後確かに逆転した。しかしそれは、世俗的な国民・

民族国家の建設によってであったのである。

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