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株式価値の特質

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株式価値の特質

その他のタイトル Character of Stock Value

著者 今西 庄次郎

雑誌名 關西大學商學論集

巻 1

号 4

ページ 305‑324

発行年 1956‑11‑10

URL http://hdl.handle.net/10112/00021863

(2)

方がよいほどのものである︒

ここに株式価値の特質と云うのは︑証券価値に於ける株式価値の特質を意味する︒株式も証券の一種であり︑そ

の価値が本誌前号に述べた証券価値の本質に該当すること素よりである︒つまり株式の価値はそれに与えらるべき

分配利益を所定の対価歩合を以て資本化した収益価値と市場性を評価した市場性価値の複合したものである︒が︑

株式は証券としては自己資本証券︵出資々本証券︶︑特に実績対価証券であり︑この特性は右の証券価値︑就中収益

価値に対し特別な性質を齋す︒特性と云っても︑それは寧ろその一般性の具体面に於て相違する所があると云った

株式が実績対価証券であるとは︑それに対する利益分配即ち配当が実体資本の収益高に応じてなされることであ

る︒而してこの株式配当につき先ず知らねばならないのは︑収益価値の目標となる配当は会社のなし或はなさんと

する実際配当でないことである︒実際の配当は真に実力に相応した大いさでないことが多いのである︒利益がそれ

ほどでないのに︑同業会社との振合いに捉われ︑或は近く控えた増資を成功裡に遂行せんとして殊更に高率の配当

をなし︑叉利益が可成り挙っているのに不況を過度に恐れて無暗に控え目の配当をなすが如きことは︑随分と行わ

質︵今西︶

株 式 価 値 の 特 質

今 西 庄 次 郎

(3)

どの分配が行われ︑結局は適正配当に接近するのである︒ 質︵今西︶

︱つは会社の自己資本と他人資本の均 一言にして一云えば会社の収益体として 一見低率配当をなすが如きも臨時配当な れるところである︒斯の如き配当が当該株式の真価を問う対象とならぬこと一云う迄もない︒即ち︑株式の真価を問わんには︑実力に相応した適正配当を対象としなければならないのだ︒念のため註釈して置くが︑適正配当は決して観念的な存在でなく︑現実味を有つものである︒蓋し会社は経営政策上勝手な配当を行うとしても︑それは一時的に可能なるに止まり永続せず︑結局は適正配当に還らざるを得ないからである︒この事は会社が過度な配当をなすときは容易に理解されるが︑適正以下の低率配当を永く強行するときは如何と云われるかも知れない︒併し株式会社は所詮営利会社として無暗に利益を蓄積する謂われはなく︑又平常︑

株式に於ける適正配当としては︑会社の挙げた利益が多いときは分配を多くし利益が少いときは少くしたもので

あること勿論として︑単にそれだけに止まるものでない︒会社の挙げた利益の性質も充分に考慮されねばならない︒

要言すれば︑利益が会社の通常な営業利益のみから成立っているか︑臨時的な利益︑例えば原料思惑が当っての投

機的な利益や工場一部売却による処分利益の如きが加わっているかにより︑分配度を加減すべきなのである︒一云う

迄もなく︑逓常な営業利益のみから成るときは通常度の分配をなしてよいが︑臨時的な利益が加わっているときは

控え目な分配をすべく︑出来得れば臨時的な利益分を除外して分配することが要請されるのである︒

が︑適正︑妥当な配当たるために何より必要な条件としては︑会社の挙げた利益を当該会社の企業実力に応じて

分配されることである︒然らば企業実力︵或は企業能力︶とは何であるか︒

の能力︑素質の謂である︒斯る企業実力を構成する主要なファククーとしては︑大休三つある︒

でいる事業が収益安定したものか消長の甚しいものであるかの事業安定度︑

︱つは会社の営ん

(4)

株式の収益価値は配当力︑即ち実体資本から分配される適正配当を基として与えられる︒処で︑そこに注意しな ければならないのは︑その分配される実体資本の利益の時点である︒

が︑広い意味では将来の予想利益も入らないではない︒例えば或る会社は現在の実際の利益は余り多くないが︑二︑

三年後相当大きい利益が期待せられるというが如き事例は少くない︒この例の場合︑現在に即すれば株式の価値は 小となり︑将来の予想利益を基とすれば価値は大となるが︑現実の利益に即すると将来の予想利益を基とするとに

一般に株式の価値は同じでないとなるのである︒薮に株式収益価値の配当力と云った揚合︑それは何れの

( 1 )  

劣︑エ員の訓練度などの技術のよさ︑これである︒今︑会社実体資本の挙げた利益が仮令同一であっても︑之等フ ァククーによる会社の企業実力が優れているときは分配を多い目にしても差支えないが︑劣っているときは控え目 にしなければならないとなるのである︒即ち妥当な配当の決定に会社企業実力は重要な役割を営むのであり︑之に よる合理的な分配とされて始めて適正配当たる資格を有つに至るのである︒

以上︑株式の収益価値の対象たる配当は現実配当でなく適正配当たるべきこと︵勿論或る会社の現実に行う配当 が適正配当たることはある︶︑その適正配当とは如何なるものであるかは︑略

M理解されたと思うが︑

正配当の事を配当力と云うことにしている︒配当力と云うと︑恒常性を帯びた配当という響を与えるようでもある が︑当然なしてよい︑なすべき配当という意味で配当力という言葉を使うことにした次第である︒何れにしても株 式の収益価値はこのような配当力を基とした資本価値として与えられるのである︒

拙著﹁証券市場論﹂昭和二八年一月

質︵今西︶ ニ四ーニ五頁

衡︑積立金の大小︑流動資産と固定資産の釣合など資本構成のよさ︑

一応は現在現実に挙げている利益と解される

私はこの適

︱つは会社の設備の新旧︑技術スタッフの優

(5)

時点をとるべきかが取上げられねばならなくなるのだ︒而してこの答としては︑株式価値の対象たる配当力は飽く 迄現在の現実のを原則とすべきであるのである︒その根拠は価値は一般に現実的なものであるという所から来る︒

つまり価値は飽く迄確実なものであり︑将来のどうなるか判らないような分子は容れるべきでないのだ︒即ちこれ により証券の価値︑収益価値もそれは現在の収益価値を指すものであり︑延いてその対象たる配当力も︑出来得る

rp

 

質︵今西︶

硯在現実に挙げている利益を基として定めらるべしとなるのである︒

或は文字通り現在の現実の利益を基とすれば現在赤字となっている会社の株式には収益価値︑延いて価値は存立 しないこととなるが︑これは不自然でないかとも云われよう︒けれどもこの為に出来得る限りという言葉が使われ たのであると共に︑現在の現実の利益ということは此種の場合にも可及的に生きるのである︒詳言すれば︑或る会 社が現在赤字であるときは現実の配当力はなくそのま

4

では収益価値はなきに至るがゆえ︑巳むを得ず将来の予想 利益を取入れ之を基としての予想収益価値

1

収益期待価値を見出すことは認められるとなすのである︒が︑

現在

赤字の会社と云っても︑多くの場合過去の蓄積利益が繰越されているものであり︑それを崩して配当することは必 ずしも不合理でなく︑配当力は存立するのであるが︑然も収益価値は現在の現実の利益を簿重するという趣旨は︑

現在の赤字に照しその取崩しを大いに制限すべしとなって働くのである︒

改めて云う迄もなく︑株式の収益価値は株式に与えられる配当を所定の歩合を以て資本化した資本価値である︒

而して吾々がこれ迄述べて来た適正配当論︑

たが︑資本化を行う歩合の方に株式証券として特に述ぶべき性質は存しないであろうか︒これは本来無いと云って よい︒たゞ本来無いのであるが︑世間一部に誤った見解が行われているので︑少し論じて置かねばならない事があ

現実配当論は︑その資本化の対象たる利益配当に関する問題点であっ

(6)

されており︑必ずしも適正配当と云えない︒

素々︑株式は投資者の立場からみて配当を得るのが目標となっているものであり︑問題は配当にある︒従て︑

A

会社株式であるから少い配当で漉足し

B

会社株式であるから多い配当でないと満足しないというものであり得ない︒

つまり株式である以上凡て一視平等に臨むものであり︑この事は要求する対価歩合が全株式に就いて等一たること

に外ならない︒処が︑.批間一部には︑株式収益価値の決定に︑株式毎に異った対価歩合を応用せんとし︑これが正

しい収益価値決定の方法なるが如くに考えんとするものがあるのである︒が︑吾人をして一云わしむれば︑これは全

夫等のやり方をみるに︑殆ど︑配当の方を前期配当をそのまま用いたり︑今期会社がやるであろうと予想されて

いる配当を用いている︒一云う迄もなく︑前期配当は過去のものであり︑現在会社の現実の利益に立脚した適正配当

と一致することは少い︒叉今期会社がやるであろうという配当は現在のものであるが︑多くの場合経営政策が加味

つまり彼等は収益価値の公式に於ける分子たる配当に此種の配当を用

いる代わりに︑対価歩合の方を株式一般的なものを用いず︑謂わば配当に於ける不確実さを是正するために多少加

減した資本化歩合を用いんとしているものに外ならない︒けれども吾人の一云い度いのは︑分子の配当が実力不相応

のものと考えるならば何故直接にそれを是正し信頼するに足るものとしないのかである︒分子を是正する代わりに

分舟を加減するというも︑配当に於ける一定度の不当さに対し資本化歩合をいくら加減したらよいかその間の理論

的なものはない筈である︒結局︑恣意的な判断に流れざるを得ない︒要言すれば︑斯るやり方は便宜的な手段とし

ては兎も角︑理論的︑学問的な株式収益価値決定の方法としてほ涌用しないのである︒尚︑このやり方は公社債の

質︵今西︶ く非論理的なやり方以外のものでないのだ︒ る ︒

(7)

凡そ証券の価値は主としてそれが表璃せる擬制資本によって生まれ︑擬制資本の価値は凡て実体資本からの利益

分配によって与えられる︑株式証券は証券としてこの一般的原則の枠から逸するものでないが︑自己資本︑就中実

績対価証券として或る範囲の特質を有つ︑

値に関する収益価値論に対し抵間にはそれと異った価値観をとる者もないではない︒これとして大体二つある︒

は企業価値説とも呼ぶべき見解であり︑他は資産価値説と呼ばれる見解である︒何れにしても︑株式価値を研究す

るものとしては︑殊に収益価値を信じ夫等の見解をとり得ないとなすものにとりては︑夫等を批判しそのとり得な

い理由を明かにしなければならないとなる︒以下︑先ず企業価値観の批判から入ることとする︒

株式価値に関する企業価値説と云うも必ずしも体系だった学説ではなく︑従て企業価値論者と云っても自分で企

業価値説と意識して述べている人は案外少いのである︒つまり企業価値説とは︑株式の価値は実体資本からの利益

分配を基として定まるものでなく︑実体資本の企業としての活動のよさによって定まるものだという見解をそう呼

称するに外ならないのである︒詳しく云えば︑企業のよさがその収益性︑安全性︑発展性を綜合して定まることは

( 1 )  

質︵今西︶

拙稿﹁公社債価値諭﹂関西大学経済論集

というのが吾々のこれ迄に知った株式価値であった︒処が︑この株式価

その

第五巻第七号︵昭和一

1 ‑ 0

年十一月︶

(1

収益価値決定の特質︵詳しくは後の公社債価値の特質論で述べられる︒私としては関西大学経済論集に既に発表し

た︶を模倣したものとも見られ︑此点形式主義な見解だと批評されるところとなる︒

(8)

異論のない所として︑株式の価値は配当を対象とするものでなく寧ろ収益性を取上げるべきだと論じ︑或は又収益

性だけでなく企業の安全性をも取入れるべきだと主張し︑或は夫等の外に更に企業の発展性をも考慮しなければ不

充分だと強調するが如き見解を︑凡て企業価値説と総称するのである︒而して株式価値に関する企業価値説にして

斯の如きであるとすれば︑夫等の吟味は︑株式価値は配当を基とするだけでは不充分で企業の収益性︑安全性︑発

展性を取入れなければならないか︑それによってより正当な価値となるか︑否かの点に向けらるべきこととなるこ

つまりどれ位の利益を挙げる力を有っているかである︒斯る収益力は企業が実際

に挙げている利益高をバロメークーとして把握し得るが︑然もそれは利益そのものでなく利益を齋す素質であるが

ゆえ︑当該会社の設備︑技術陣の如何︑労働者の生産性と所謂労使協力のエ合︑資本の回転速度其他経営のうまさ

等を綜合したものとされる︒今︑株式の価値は斯る収益力が基となって定まるという見解は︑矢張り利益を生む母

体の価値を取上げているものであり︑明かに資本価値観に立つものである︒之に対し吾々の株式価値収益価値論で

は実体資本を直接に眺めずそれから出る利益の分配を還元しての資本価値を求めるのであるがゆえ︑直接と間接の

相違があると云うか︑両者の間には相当の開きが存するわけである︒企業価値説をとる人々は勿論︑実体資本の収

益力を取上げるのが株式価値を最も正当に把握するものだとなすのであるが︑果してそうであろうか︒

成る租︑企業価値説は実体資本の挙げる利益が皆無に近く配当の出来ない会社の株式︑特に赤字続きの会社の株

式の価値を説明するものとしては当にピタリのようである︒即ち︑専ら企業の有している収益的な力を取上げるが

ゆえ︑仮令現在現実に利益を挙げていず︑延いて利益分配が無くても︑或る大いさの価値の存在が把握出来るから

質︵今西︶ 企業の収益性とはその収益力︑ と︑云う迄もない︒

(9)

体資本に応じたものとならないのだ︒時に︑ 質︵今西︶

である︒併し吾々の収益価値観に於ても︑そのような会社株式の場合︑将来の利益分配の可能性を取上げることが

可能なるがゆえ︑資本価値の把握は出来︑何等支障をみないのである︒

右の如く企業価値観は赤字会社株式の価値の説明としても収益価値観に優るものでない一方︑重要な点に於て却

て収益価値観に劣る所があるのである︒それは株式を企業価値的に評価することは現在の資本主義経済に於ける株

企業価値説に於ては︑株式即ち擬制資本は全く実体資本の影とみ︑その価値の大いさは実体資本のそれと全く正

比例するとみるものである︒併し擬制資本は実体資本の存在を前提とはするが︑それは実休資本とは別な存在であ

り︑少くとも資本として全く同一物でない︒これが同一物でない事態は︑今日先進国に於て高率配当抑制というカ

の働くこと︵直接法令で定められるよりも社会の無言の圧力として働くところである︶によって最も明かに現れる︒

この場合︑企業そのものの収益性が大であるに拘らず︑利益の分配は制限せられるのであり︑擬制資本の価値は実

一部の識者から次のような事を聞かないではない︒今日先進資本制国

は最早修正資本主義の段階に入っており︑此処では過当収益を抑えんとする力は万遍なく働き︑株式に対し高率配

当抑制を行う必要が起らないほどに会社の事業利益は抑制せられつ4ある︑と︒確かに︑修正資本主義に一歩入っ

た国に於てほ一般に事業利益は余り多くならないよう手が打たれている︒併し乍らこのような段階にありても︑配

当に対する抑制ほ︑より強力となるという形で︑依然生きるのである︒蓋し会社の事業利益は︑最早無暗に多きを

得ないよう統制されるとしても︑労働者に対する賃金支払その他の関係から利益余裕が残されるのに対し︑株式配

当は資本家に渡るものという観念から益

M

強からんとするからである︒要するに︑今日︑先進資本制国に於ては︑ 式の地位︑本質とマッチしないことこれである︒

(10)

扱︑企業の安全性であるが︑これは企業の健康度とでも云わうか︑不況や恐慌など業界や国民経済一般の異変に も動揺しない頑張り力である︒斯る企業の安全性には既述の収益力も関係するところで︑

業ほど安全性も大であるわけである︒併しその外に︑特に企業の安全性を規定する条件もある︒積立金の大小︑固 定資産と流動資産の均衡︑内部負債と外部負債の均衡などそれである︒然らば之等の企業の安全性は会社の株式の 価値となるであろうか︒換言せばこれだけの安全性はこれ位の価値となるというように株式価値の大いさに加わる 株式収益価値観に於ては会社の企業安全性を株式価値として評価しないことは一ぞう迄もないが︑企業の安全性が

株式収益価値の決定に全く無関係だとなすものでない︒既に株式価値の特質論で明かにしたように︑その収益価値

比べ利益配当︑

一歩その色彩を帯びるに至った段階でも︵事業設備や技術等の改善 は奎も止むものでなく︑この方は愈

M進められることは断わる迄もないが︶︑

つまり配当力はより減退しつ4あり︑両者のギャップは増しつA

あるのである︒卑しくも斯る情勢 下にある株式の本質をはっきり認識する限り︑株式の価値を実体資本の価値を以て把握せんとするが如き態度は到 企業価値論者に属する多くの人々は︑株式の価値は実体資本の収益性だけでなくその安全性も加えられて定まる

となす︒が︑私は株式の価値は主として収益価値としてきまるという吾々と同じ見解に立ちながらもそれだけでな く更に会社の安全性も加わってきまるという説をも

1

之は梃めて少いがー—一種の企業価値説に入れ度いと思っ

質︵今西︶ 底支持し得られないものとなる筈である︒ 修正資本主義的色彩を帯びる以前の段階でも︑

つまり収益力の優れた企 会社の収益力︑利潤獲得性の低下に

(11)

よって定まらず︑その人達の出したアルバイトによる︒如何に虚弱であっても︑例えば結核で大半は臥床している

としても︑立派な作品を出せばその人の価値は高いのである︒たゞ彼等が健康であればもっとよいアルバイトを出

すことが期待され︑延いてその健康を改善することは大いに意義ありとされるのみである︒株式も同様で︑借金が

多く︑経理内容が不健全で企業安全性が劣っていても︑相当な利益を挙げ配当力が多くなればその価値は大なので

ある︒この場合も云い得ることは︑このような薄い安全性でこれだけの利益を挙げ得るのならば︑もっと安全性を

高むれば一段と高い利益を挙げ得るであろうこと︑

以上︑企業価値説の批判に於ては︑それが企業の収益性︑安全性を取上げる点を中心とした︒処で︑多くの企業

価値説は更に企業の発展性をも取上げているところだ︒この企業の発展性という事は必ずしも一般に確定されてい

ない︒人間の場合︑発展性︑将来性はその人の若さと天分才能とから成るが︑企業の場合は主としてその営んでい

る事業の向上性から成る︒企業に就いても若さという事が考えられ易いが︑人間と異り企業には若さというものほ

ない︒人間には一般的な寿命がありそれへの余地︑隔りの大小を現す若さということはあるが︑企業には寿命はな

西

の対象となる株式の配当力は会社の挙げた利益を会社の企業実力に応じて分配するものであり︑その企業実力は当

該会社の資本構成のよさなど企業安全性も加わって与えられるのである︒が︑これに於ける企業安全性の株式価値

への働きは︑会社の挙げた利益の分配を適正ならしめるに止まるのであり︑価値に対する関係は全く側面的たるに

企業の安全性が自ら或る大いさとなって株式価値に加わるものでないことを︑私は次の例話を以て証明し度いと

一体︑株式の価値は学者や文士の価値︵偉さ︶と似ている︒学者や文士の価値はその人の健康や経済状態に

又それに向って改善すべきことである︒

1 0

 

(12)

する可能性は大なのである︒ 或る特定会社の企業規模であるようでもあるのだ︒ しか有たないのである︒処が︑世間一部の人が云う︑企業規模の取上げほ︑そういう企業全体としての規模でなく︑ 於て︑企業の発展性の場合︑事業の向上性のほかに企業規模のことを加えてもよいが︑それは念のためという意味 発展性を取上げているときはその事業を営んでいる企業全体の規模は当然に考慮していることである︒この意味に いときは︑より発展性を有つわけである︒が︑注意しなければならないのは︑将来の需要供給の見透による企業の ばならないと思う︒事業界の将来の需要増加の見透に対し現在業界に存している企業全体の供給能力即ち規模が少 いではない︒規模の小を人間の若さに相応するが如くに考えるのである︒併しこの規模の点は正しく理解しなけれ 企業の発展性は営んでいる事業の向上性だけでなく︑企業規模も関係し︑規模の少なるほど大となるとみる者もな ない'︒即ち斯る増進見透の大なる事業を営んでいる会社は発展性大でよい企業と云われるわけである︒時として︑ る見透を有つことである︒見透と云っても遠い先の事でなく︑近い将来に於て充分認識されるものでなければなら の営んでいる事業が︵安定しているとかの性状でなく︶途中消長︑起伏はあっても時世の進むにつれ需要の増加す く︐又設立新しいほど永く存続し得るというものでないのである︒企業の発展性をつくる事業の向上性とは︑企業

つまり小規模な小型の会社ほど発展性大というのである︒若し そういうのであるとすれば︑それは当っていないと云わねばならない︒蓋し事業界の需要が増加した場合小規模な 会社が大規模な会社より先んじて増資膨脹し得るとは限らないからである︒寧ろ既に大規模な方が︑資本を集める に便宜なこと︑現に大規模経営による有利な生産をやっている場合の多いことなどで︑小規模会社を抑え増資発展 企業の発展性の正確な意味は判ったとして︑さて之は会社の株式の価値となるであろうか︒発展性を有つ会社は

西

(13)

質︵今西︶

有たぬ会社即ち向上性の無い乃至余り無い事業を営んでいる会社に比べ︑有望でありよい会社と一云ってよいこと勿

論である︒併しこの会社の有望さ︑よさがその会社株式の価値となることは疑わしい︒確に︑発展性のある会社は

将来増資する可能性があり︑その場合新株式が旧株式に割当てられる可能性が多く︑且又その株式にプレミャムの

つくことも期待出来る︒併し可能性があり期待出来るとしても︑それは可能性であり期待たるに止まる︒向上性の

ある事業界の需要が増加し或る会社が増資せんとするとき他の同業会社に先を越され機会を逸するに至ることもあ

り得る︒増資に新株式が旧株式に割当てられ︑就中それにプレミヤムのつくことも︑そうならぬこともあり得る︒

これ迄屋y述べた所であるが︑価値は確実な利益の上に成立つものである︒そうだとすれば︑株式の利益となるこ

とが上の如く確実でない会社発展性は価値となり難いと云わねばならなくなる︒特に注意してよいのは︑価値が確

実な利益の上に立つということは利益のあることが確実であるだけでなく︑その利益の大いさが計量出来なければ

ならないことである︒右の会社発展性に基く株式利益の如き到底計量し得られないこと多言を要しない︒企業の発

展性が株式の価値とならないこと愈

M

納得せられたと思う︒但し会社の発展性はその株式の価値となり難いとして

も︑それを有つ会社の株式を有たない会社の株式と同じに扱うことは不合理と考えられ︑事実︑実際に於ても或る

尊重感を以て扱われるところである︒私はそれを株式の魅力となすがよいと思うのである︒魅力は価値的なもので

あるが︑価値ではない︒替えば野球の得点に於けるアルファみたいなものである︒周知の如く︑野球に於けるアル

ファは勝者チームが九回裏試合をやっても点数が入るかどうか判らず︑又入るとしても何点入るか判らないが︑兎

に角得点の可能性があり夫の無い場合よりも優れた勝利とされるものである︒株式の魅力も恰度これと同じで︑正

式に価値に加わらないが︑それを有たない株式より高く評価されて然るべしとなるのである︒

(14)

い度いところであろう︒ 資産価値説は︑前の企業価値説がその唱える人によって自ら企業価値論者であると自覚されているのが少いのに

対し︑自分で資産価道論者であると言明して唱えられる事例が多い︒

資産価値説は︑直接には︑吾々の如き収益価値説を批判するものとして唱えられ︑前の企業価値説を批判するこ

とは余り聞かないが︑企業価値説に対する批判としては︑企業の収益力︑安全度︑発展性を評価することは価値量

を明確に把握し得ない弱点を有つ︑これに対し資産価値観にありては価値量をはっきり計り得る特色を有つと︑一k

掠︑資産価値説であるが︑これは時価を以て評価した会社資産額から外部負債額を引去った残額︑即ち純資産額

寸触れて置くが︑ が株式価値の中心となるとなすものである︒勿論一株当りの価値は純資産総額を株式総数で除したものである︒

(1

アメリカなどでよく取上げられる記帳価値︵帳簿価値︶

B o o k V a l u e

は資産価値と必ずしも一致

するものでない︒記帳価値も会社資産総額から外部負債額を引去った純資産額を株式総数で除したものであるが︑

その総価額は会社帳簿価格を以て計算される︒併し吾々の問題としている資産価値では帳簿記載価格によらず︑全

く時価を以て評価されるものである︒帳簿資産が所謂含み

l a t e n t w o r t h

などを残さず全く時価評価されているな

らば︑記帳価値は資産価値と一致する︒併し多くの場合︑会社資産の帳簿価格は正直に時価を以て現されず︑従て

資産価値との間に開きを存するのである︒扱︑資産価値は会社資産を時価を以て評価したものであるとして︑注意

西

その

(15)

質︵今西︶

すべきは︑その資産評価は︑構成各個財産を夫々活動資産即ち資本として評価すべきでなく換金額とすべきことで

ある︒活動資産としての評価をなせば中には各個財産別に取上げることが不当となる物もあり︑他の財産とコンビ

で評価することを行わざるを得なくなり︑結局一種の企業価値説に接近せんとするところだ︒換言せば純粋な資産

価値観ほど各個財産を換金時価額を以て評価する態度をとらんとするのである︒株式の価値を斯の如く会社の純資

産額を以て与えんとする資産価値説が配当力を資本化する収益価値観と対立すること︑贅言を要しない︒併し又︑

資産価値観をとる者は収益価値を全面的に否定するものでなく︑寧ろ株式価値は本来は収益価値を本則とするも或

る事態の下では資産価値として成立するとみるのである︒而してその或る事態であるが︑これを平常経済時とイン

W.H•Husband

a n d   J .  

C•Dockcray,

M o d e r n   C o r p o r a t i o n   F i n a n c e ,   1 9 4 8 .  

P .  66

ふ 7

先ずイソフレでない平常経済時に於て資産価値説が主張せられるのは︑多くは赤字会社の株式に就いてゞある︒

凡ての会社が常に順調な営業状態にあるとは限らず︑中には赤字のものもあり︑斯る赤字の事態に於ては配当力を

基とする収益価値は成立し難く︑資産価値を以てのみ当該株式の価値は説明せられることとなるというのである︒

平常時に於て資産価値説が主張せられる事態は主として会社赤字の場合であるが︑他にこういう事態もある︒今︑

甲乙二会社の株式が配当力としては殆ど同じであるが︑甲は莫大な資産を擁するのに対し乙は造に少いという事態

である︒この時甲株式乙株式の価値を同じとなすことは納得出来ず︑結局︑収益価値に資産価値を加味するによっ

て妥当な価値となるという主張がなされんとするのである︒次にインフレ時であるが︑インフレーショソは所謂物

( 1 )   D .   F .   J o r d a n I ,   n v e s t m e n t ̀ 1 9 4 7 .  

P . 

4 0 3 ‑ 4 0 4 .  

フレ経済時とに分つが便宜である︒

(16)

又恐らく存続しないであろう︒

の価格を高くする経済であり︑この時期には何れの会社企業も普通の営業利益よりも資産の値上りの方が逝かに大 きくなり︑之等値上り利益は何等かの方法で株主をうるほすがゆえ︑その株式価値が配当力できまるとなすなどは ナンセソスとなり︑寧ろ値上り利益を基とすべく︑資産価値を主として与えられねばならなくなるというのである︒

然らば之等の事態を基とした資産価値説は採るに値するであろうか︒換言してそれらの事態に於ける株式価値は収 赤字会社のときその株式は︑現在現実の配当力を有たない︒若し赤字会社の株式価値はその会社の存続持ち耐え

力によって定まるということが認められるならば︑資産囲値も生きないではない︒一体︑動物は食物の無いとき自 已の体中に蓄えた栄養で生存を続けんとし︑蓄積栄養の多いほど耐久力は大となる︒企業にありても純資産で食い つなぐことが出来︑資産額の大なるほど存続力は大である︒併し企業は動物と異り︑単に食いつなぐだけでは意味 がなく︑儲けなくてはならないのである︒赤字会社が尚も存続するのは将来黒字に転じ配当力を有ち得る見込みが あるからであって︑若しその見込みが無いならば︑如何に現在多額の資産を擁していても︑存続する謂れはなく︑

つまり赤字会社は将来の配当力期待によって生きるのであり︑従てその株式の価値 も配当力の復活度︑即ち如何に速く又如何なる稲度に復活するかにかかるのである︒既に知れる如く︑吾々の収益 価値観に於ては︑株式価値は現在の現実の配当力を基とするのであるが︑現在現実の配当力がないときに限り︑将 来の配当力を取上げてよいとしている︒従て収益価値観に於ても赤字会社の株式の価値を充分決定し得るのであり 支障をみないのだ︒尚︑現在赤字会社の将来期待せられる配当力と云った場合︑会社の現有資産を基とし経営者技 術陣の優秀さ︑事業の素質︑業界の状況等をタイ︒アップさして定められる︒即ち収益価値観に於ても会社の資産

質︵今西︶ 益価値を以て説明し得ないであろうか︒

(17)

のであり︑資産価値を加味する余地などないのである︒ 質︵今西︶

状態を取入れないのではないが︑こ4ではそれを︱つの碑りとして取上げるものでないのである︒素より会社の純

資産をそのま4取って価値となすが如きことは︑問題にならずとなすところである︒

右の如く︑資産価値説は赤字会社の株式の価値を説明するものと云われながらも︑実は何等説明するに足らない

ことが知られた︒同様な批判は︑同じ配当力を有つも資産状態に非常な開きのある会社株式の価値を同じとするの

は不合理であるから収益価値に資産価値を加味すべきだという主張に対してもなされる︒収益価値観が会社の純資

産を特に尊重しないことは一応不自然に見えるかも知れない︒併し純資産は一体会社企業に如何なる意味︑作用を

有つものであろうか︒それは企業の安全度を大にするに過ぎない︒純資産は自己資本と他人資本の差額であり︑自

已資本の大なるほど安全度に貢献するところとなる︒が︑この企業の安全度は当該会社株式の価値に加わるもので

なく︑このいきさつは吾々としては既に企業価値説批判に於て論じつくしたところである︒或は云うであろう︑純

資産も資本として働き︑その大なるほど会社の収益を大にすると︒これは確にそうだというよりも余りにも当然な

ことである︒が︑この純資産が収益を高めることは収益価値観としても当然に取入れているところであり︑収益価

値のほかに純資産を考慮して株式価値を与えるべしなどは改めて云う必要はないのだ︒加之︑純資産の会社利益ヘ

の貢献を︑資産価値説としては純資産額に比例するものとして取上げることとなるが︑これは真相に合わない︒蓋

し会社は自己の純資産に借入資本を加えて資本活動︑営利活動を営むものであり︑挙げる利益は決して純資産額に

正比例するものでないからである︒何れにしても︑株式価値は配当力を基とした収益価値一本で正当で与えられる

資産価値説が最も強く主張せられるのはインフレ時である︒実際︑資産価値論者の多くは︑資産価値はインフレ

(18)

時に於てのみ生き︑平常時に於ける株式は収益価値で充分説明せられるとなすところだ︒このインフレ時に於ける 株式価値は資産価値が中心となるという説を我国で通俗に物的証券説と呼び︑これに対し依然収益価値できまると なす説を利潤証券説と称すること︑周知に近いところと思う︒処で︑この所謂物的証券説であるが︑インフレ期に は財産値上りを生じ︑資産価値が莫大となり︑之が株式価値を支配することとなるという大綱が主張せられるに止

先ず最も単純なのは︑

インフレによる葵大な資産の値上り額を再評価積立金として擁するに至り︑之が物を云う という見解である︒確かに︑

インフレは一般に巨額の再評価稼立金を生む︒会社の中には︑正式に資産の時価換算 評価を行わず︑製品が時価で販売されて利益の激増するに任かせ︑その利益を普通の配当の如く分配することを行 うものもあるが︑これでは機械設備等の減価償却が少くやがて再設備に当り困難に遭遇するに至るわけで︑まじめ な会社では何れも資産額を時価に換算しイソフレによって増加した額を一応積立金とするところで︑先進国にあり ては国家としても進んで企業にこの処置を強制するところである︒今次大戦後の我国も大体そうであった︒それは 兎も角︑今インフレ時に多くの会社は再評価積立金を擁するに至るとして︑之がその会社の株式の価値を支配する であろうか︒否である︒蓋し資産値上りが再評価積立金としてそのまま積立られるに於ては︑会社収益に貢献する のみで︑資産として直接に株式価値に加わらないからである︒この点は︑先に述べた︑

資産の大なる会社の株式の場合と全く同じである︒

しかし大多数の物的証券説は︑

インフレでない平常時に純

インフレ時再評価積立金とされた資産値上り額が株主即ち株式に分配されること を捉えて主張するものとみてよい︒この派の人々としては︑再評価稜立金を会社が擁するだけで株主に分配されな

質︵今西︶

り︑それ以上の所説は案外はっきりしないのである︒

(19)

に止まるが如きであってはならないのである︒ 論が生きていると云い得るためには︑ 質︵今西︶

いならば︑所謂絵にかいた餅に過ぎないとなすところであろう︒処で︑この︑値上り資産が株主に分配されるによ

り株式の価値が資産価値によって律せられるというには問題がある︒今︑仮りに︑資本金一億円︑

株式二

00

万株︑純資産一億五

000

万円の会社がイソフレにより再評価積立金一億五

000

万円を得たとし︑そ

の積立金のうち一億円を崩して株主に分配するとする︒この場合一株に五

0

円宛分配されるのであるが︑資産価値

1蕊エ+1禽玉の見方からはその株式の価値は

'│

11 11 11 00

00

円となる︒元来資産価値は純資産額合計三億円の200 

7 J  

~

00

万の一であるがゆえ一株一五

0

円となる筈であるが︑分配資産を問題とすれば右の如くなるわけである︒が︑

今この会社の適正配当力年二

0

0

円︑株式対価歩合を年八パーセントとすればこの株式

10ヱの収益価値は││111125P:I︱二五円となり

100

円という資産価値は収益価値に包擁され活用の余地なしと0.08 

なる︒勿論︑この株式の価値を︱二五円となすときは五

0

円の分配のない株式と同じ価値となすわけで不合理であ

る︒即ちこの株式の価値は︑結局︑収益価値に臨時的な分配額五

0

円を加算した一七五円となるところである︵分

配の行われる前の価値で︑

0

円の分配が行われると収益価値一本の一︱一五円となる︶︒

0

円払込

上の株式の価値にして斯

の如くに定まるとせば︑矢張り資産価値理論は働いていないと云わねばならないのだ︒成る程︑資産の値上りによ

り五

0

円という分配が行われ︑其後もインフレが続いている限り同様なことが行われるであろう︒併し資産価値理

一株当り純資産額が株式価値の中心とならねばならず︑単に収益価値の補完

上例に於いては収益価値が資産価値より大なる数字を挙げたが︑例えば収益価値七五円︑資産価値一

0 0円というが如き場

合は資産価値は生きるのでないかとの質問が起るかも知れない︒けれども後述する所から追々理解せられるのであろう如く︑

(20)

値の割込む余地は全くなしとなるのである︒ そのように収益価値が少で︑相当額の分配が行われることはあり得ないのである︒

或は云うであろう︑

イソフレで増加した資産の分配が行われる限り︑充分でないにしても資産額が物を云う︑物

的証券説は斯る点を取上げたものであると︒吾々からみれば︑これは物的証券説の株式価値観からの後退︑退却に

外ならないが︑然もその見解にも尚問題は残されているのだ︒それは︑再評価稼立金の一部が株主に分配せられ依

って不完全乍ら資産価値が物をいうのは︑その分配が換金して行われるに於てゞあるが︑斯の如く再評価積立金に

見合う資産を換金して分配する事は殆ど行われないことである︒今日︑会社の準備金のうち株主への現金分配の認

められるのは利益準備金のうちの任意稼立ての分だけであり︑その法定的なもの︑並びに資本準備金は許されない

ところである︒再評価稼立金は利益準備金か資本準備金か学界一部に於て論争されているが︑

配すべきものでないとされている︒これはその換金分配は企業規模の縮少を来すからに外ならぬ︒斯くて︑再評価

積立金の分配というそれは株式資本へ振替え分配するものとなっているのである︒而して再評価稼立金の株式資本

への振替による分配という方式では︑例えば上例に於て再評価積立金一億五

000

万円のうち一億円分を株式資本

に繰入れ資本金を二億円とし︑五

0

円払込済株式二

00

万株を発行し︑之を従来の株式一株に一株の割合で分配す

るとした場合には︑その株式の価値は収益価値︱二五円に五

0

円が加わり一七五円とはならず︑当然新しい適正配

当力を株式対価歩合で資本化した収益価値の二倍の大いさとして与えられざるを得ないのだ︒即ちそこには資産価

以上述べたところにより︑インフレ時︑株式価値は︑会社資産が大いに値上りを来すがゆえ資産価値を用いねば

説明出来ないという主張の当っていないこと︑収益価値によって充分に説明し得ることを知り得た︒結局︑所謂物

西 一般に現金化して分

(21)

べきであり︑株式価値は収益価値一本で解決せられるのである︒ 質︵今西︶

イソフレ時に於げる株式の価値そのものを説明するものとしてよりも︑インフレ時には通常の営業利

益の配当だけを眺めていず︑値上り変産の分配をも取入れるべきことを注意しているものとしてしか意義を有たな

いということになる︒併しよく考えてみると︑こういう意味を有つものとしての物的証券説も余り価値のないこと

を知るのである︒蓋しイソフレ時には資産は値上りするが︑その値上りによって値上り額が分配されるのでなく︑

収益力︑延いて配当力が増すからであるCインフレにより資産が値上りしても︑収益力が改善されず低調なるに於

ては︑値上り資産の分配即ち再評価積立金の株式資本への繰入れは行われないのである︒このような場合繰入れを

敢てすれば︑株数増加により配当力は減じ︑株式価値の低下から株価の下落を来し︑株主として寧ろ不利となるの

みならず︑対外的にも信用を減じ経営政策上不得策となるところだ︒

力が増したからとて直ちに再評価稜立金を分配してよい︑分配しなければならぬというものでない︒純理的に云え

ば︑再評価稼立金を株式資本に組入れて分配した場合株式価値は減少するがゆえ︑増資後の株主総持株の価値合計

は積立金の分配以前の株式価値と変わるところはない筈だからである︒併し既に知れる如く︑先進国に於ては高率

配当抑制の手が延びており︑或る租度以上の配当は社会的に許されないのである︒こ

A

に︑高率配当抑制に引っか

るが如き会社にありては︑インフレによる資産増加に伴い配当力が非常に増加したときは︑高率配当抑制を回避す

べく再評価積立金の資本組入れが行われることとなるのである︒何れにしても︑インフレ時に資産値上りが生じて

も︑その点だけを眺めて値上り資産の分配が行われるべきものでなく︑飽く迄収益力︑配当力の見地が中心とさる

一体︑収益価値の立揚からは︑収益力︑配当 0

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