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日本人口論小史 : その特質と原型に関する周辺的 考察

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(1)

日本人口論小史 : その特質と原型に関する周辺的 考察

その他のタイトル On the Pattern of the Japanese Population Theory (I)

著者 市原 亮平

雑誌名 關西大學經済論集

巻 4

号 7‑8

ページ 684‑714

発行年 1955‑02‑10

URL http://hdl.handle.net/10112/15777

(2)

684 

J

日本人口論小史︵次第︶H日本人口論の特質1︑マルサス主議の俗流化2︑有機体翫との吻合3

︑人口論

人口問題の歴史的相対的性格1 1

1︑人口論︑社会学の轍入と受容地盤2︑マルサス翫と有槻体説との吻合

1 1

﹁大日本膨

.1

︑第四階級と日本社会政策学会の成立2︑有機体説と日魯開戦論︵七博士強硬論︶3︑社会政策学会と分派の発生

日本人口論の特質

小稿は日本人口論の全史にわたつてその全貌をとらへようとするものではなく︑昭和初年における日本の著名な 本稿 4︑三分派︹社会政策派︵ー福田︑上田︑矢内原

教授等︶とファッズム派︵!土方︑高田︑小

泉教授︶マルキッズム派︵ー河上︑櫛田︑大

内教授等︶︺の対立!矛盾による解体

1︑米騒動﹇人口過剰論︵第一次近代人口問題︶←金融恐慌ー人口過瑚論︵第二次近代人口問

2

3︑新﹁日本膨脹論﹂︵貧者必勝︶派人口論の新有槻

体説的性格4︑マルキンズム派人口論の抽象理論性

日 本 人 口 論 小 史

ーーその特質と原型に関する周辺的考察ー—

続稿

(3)

685 

〇 八〇 五 一 七 七

% 

0%

マルクス経済学者と近代経済学者を動員した有名な人口論争の前史の一鮪ーーその原型を覚え書きしたもので︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑本人口論史の一序章をなすにすぎない︒まづ日本人口論の一般的特質について述べておくのが便利であろう︒

現代社会においては物質的諸手段を独占するものが︑精神的諸手段をも独占すること︑さらに物質的諸手段の最

大の独占者が経済的支配層の行使する﹁公権力﹂であることはいうまでもない︒したがつて︑日本人口論に関して

も︑権力に吸牧され内在化されたイデオロギーが支配的人口思潮となって威をふるつてきたし現にふるつているこ

一九四九年の九月から十月にかけて︑国立世論調査所が実施した﹁人口問題に関する世

論調査﹂は人口対生活資料の直接的対比関係に立たせられた人口思潮ーーいわゆるマルサスの絶対的過剰人口の原

4大衆イデオロギーとなって滲透しているかをしめしている︒

﹁現在日本の人口は多すぎるか︑少なすぎるか︑それとも丁度よいか﹂という問いにたいし︑

﹁今の日本で食糧が足りないのや︑住宅が少いのや︑失業者の多いのはなにゆえか﹂

日本人口論小史︵市原︶ とは多くいうを要しない︒

(1) 

(4)

686 

( 1 )  

という結果をうんでいる︒

産児制限

七一%

日本人口論小史︵市原︶日本の適度人口を現在人口より少<答えたものが総計の四二疹にたっし︑過剰人口について﹁どうしたらよいかと思うか﹂という問いにたいし︑移民と産児制限というものが三四疹

で最も多いが︑二つ以上答えているものが五四疹を占めているので︑頻度からみると︑

このようなマルサスないし新マルサス主義イデオロギーの影響が︑けっして﹁世論﹂の埒内にとどまらぬ

ことは︑戒能通孝氏が古在由重氏から伺ったという︑次のごとき話をきけばわかる︒ーー≫

﹁近所に住む数人の学生が古在氏のところに話にきて︑

げたにか4わらず︑﹃一体戦争の原因はどこにあったのか﹄と聞かれるや︑﹃日本は人口が多く︑どうしても海外

発展をしなければならないから︑戦争の巳むなきに陥ったのだ﹄と答えたということである︒古在氏はそれによ

つて︑絶対主義も何も知らないでよいから︑太平洋戦争の原因を本気で勉強しなさい︑といわれたという話であ

( 2 )  

った︒これと同じような経験には僕もしばしば遭遇する︒﹂と︒

ヤ・エス・グゼヴァートイは日本をマルサス主義の﹁古典的な国﹂と呼んで︑その理由として︑島国で山地の多

 

11~

スターリンがどう︑絶対主義がどうと盛んに気炎をあ

(5)

687 

(2) 

いという日本の自然的条件自体がマルサス主義の基本テーゼを裏付けているかのように見えることを挙げているけ

( 3 )  

れど︑これは主原因ではない︒日本がマルサス主義の﹁古典的な国﹂でありえたのはまづ第一に明治初年に輸入さ

れたマルサス人口論が俗流化したま4・早激的に移植民論に援用され︑さらに日清戦争ー軍・封・帝国主義と合生

そして半封建的な土地関係を吸着土壌とし軍・封・帝国主義に保護・育成された日本資本主義

一八六八年に絶対主義が確立していらい︑一九三0年までの六二年間に海外に大小の兵を動かすことじつに六

回に及ぷという週期的な武力発動を資本蓄積の不可鋏の槙杵としてきたこと︑したがつてマルサス主義は絶対主義

と日本資本主義自体の要求によって摂取され鼓舞されてきたこと︑があげられねばならない︒またこのような日本

資本主義の顛倒的﹂﹁軍事的半農奴制的﹂発展は︑自由主義や労佑運動の合法的発展をはばみ労・農運動の改良的

( 4 )  

潮流を定着せしめることもできず︑一切の大衆組織をくだいて週期的戦争に動員したから︑社会運動は当初から急

( 5 )  

進性を帯びていちはやく社会主義の影響下にはいるとともに︑戦争反対の旗轍をも掲げざるをえなかった︒かの﹃唯

物論史﹄の著者エフ・アー・ランゲは︑社会主義者はマルサス人口論を覆へすことなくしては自らの理想を実現し難

( 6 )  

ぃ︑といったけれど︑こ4に戦争か反戦かをめぐつて︑爾余の人口思潮はさておき︑社会有機体説と合体したマル

サス主義と敵対しなければならない歴史的任務がマルクス主義人口論に課せられたわけであり︑

第一の特徴は︑別稿で述ぺる筈の昭和人口論争においても遺憾なくしめされている︒

有機体説との吻合

ところで︑マルサス人口論は本来︑封建的ポピュレイツ"︱ーズムーー封建中世における直接生産者11農民の増殖奨

日本人口論小史︵市原︶ していったこと︑

この日本人口論の

(6)

688 

る。'—!かくて事態の真の救治策は、 励策'│や絶対主義的ポピュレイショニズムーー'ジョーッフ・タウンスエンドの﹁人口を︑人口を︑なにものよりも人口を/」という言葉にしめされる•初期資本主義に必要な賃労仇や壮丁の増殖奨励策ーーにたいする批判意識と

( 7 )  

してあらわれた﹁プルジョワ合理性そのもの4懐疑﹂の産物であるとすれば︑それがそのま4の形で半封建

11

絶対主義に摂取され内在化せしめられるということは矛盾︵論理的にも歴史的にも︶ではなかろうか︒半封建的土壊の

マルサス説は絶対主義に適合した・しかもマルサス説とその方法をひとしくした他のうえに播種せんがためには︑

イデオロギー形態でもつて補完されなければならない︒すなわち︑日本人口論が移植民や領土膨脹の原因としてつ

ねに人口と食料との直接的対比から出発し絶対的人口過剰と貧困との発生とをあげたばあい︑あきらかにマルサス

的方法には忠実であるといわなければならない︒が︑厳密にいうと︑マルサス説のいうところは︑人口増加力は食物

増加力より大であるが︑しかし前者の実現は後者によって規制されるから︑人口増加は食物量の限界にとどまらざる

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

をえず︑食物より大なる人口増加は原則的に実存しないのであって︑人口増加はけつして無条件的に擁護さるべき

ではなく︑それはなんらかの賢明なる対策によって対処圧伏されるべきであったし︵人口悪の思想︶︑移植民も人口︑︑︑︑︑︑︑ヽヽヽヽ

( 8 )

過剰にたいする根本対策としては無価値なもので︑国内問題のたんなる移転でしかなかった︒しかるに︑日本人口

論は当のマルナスが原則的に否定した食物よりも大なる人口増加を現に主張したのであって︑こ4で力調されたよ

り大なる人口増加は︑むしろ理論以前にア・プリオリに権力の側から支持激励されていたというべく︑このような

絶対主義的ポピュレイショ—ーズムこそ、明治・大正・昭和の三代にわたって無条件に擁護されてきたものなのであ

マルサス的絶対的人口過剰をばマルサス的ないし新マルサス主義的抑制の方

向にではなく︑逆に超国家主義的移植民や人口を支える自然資源の武力的略取の方向において解決されなければな

(7)

689 

らなかった︒マルサス人口論は原型のま上では半封建的政治経済体制に摂取されえないのはあきらかで︑マルサス

︑ ︑

説を部分的に修正することによりマルサス的方法を奪還し再生せしめ絶対主義に受容せしめるにふさわしい他の社

会理論が必要だったことは見易い理である︒

︵補註︶かつて︑ヴァルガが﹁恐慌と独占﹂︵世界政治経済研究所﹁恐慌︑ファッズム︑戦争の脅威﹂所牧︶において﹁幾何級

︑ ︑ . ︑

数的人口増加(増加力とせねばならない—市原)の傾向に関する作り話は、主要贅本主義国の人口噌加が事実上既に停止し

たという事実に面して吹きとばされてしまった﹂のだから︑現在ではマルサス主義は辮護的役割を演ずることはできない︑.

また﹁最後の段階における賓本主義たる独占賽本主義は広汎に大衆に物質的にもイデオロギ

1的にも何物をも与え得ないの

であるから︑マルサス主袈はファッツョ運動の助けにより︑また強力によって労働者の生活運動を破壊し思想上︑中批忙 逆戻りするより外はない﹂と述べたのにたいし︑スム>ヴィッチは次の

1﹂とく批判をくわえた︒ー!ー﹁ヴァルガが正しいと

したら︑一般通用の理論︑ことにマルサス主義の研究は切実な政治的興味ではなく︑単にアカデミックな歴史的興味を与え たにすぎないであろう︒惟うにヴァルガの見地は誤つている︒ヴァルガの誤謬は彼のマルサス主義の取扱いのうちに横たわ

つている。マルナス主義の本質は幾何級数的人口噌加(噌加力)とせねばならない—市原)、算術級数的生活資料の増加

︵噌加力︶の法則にのみ存するのではない︒両級数はとつくの昔に修正的﹃マルサス﹄批判家によって反駁された︒しかし

.

( 9 )  

だ︒﹂と︒

スムレヴィッチ的なマルナス理解は資本制社会が一披的恐慌と世界戦争と社会変革の時代にはいった二

0世紀以降とくに

( 1 0 )  

重要となった︒人口の均衡破壊的な増殖ーー贔それの食物による均衡化的な規則︑両者の合体としての﹁波動﹂的発展︑一言 にしていえばマルサス的人口原理の全本質は︑こ

4

に呈示された自然法則としての人口原理が現実の社会に適用された揚合

に社会法則に飛躍せしめられた点にあるとすれば︑マルサス自体の人口理論とそれの新しい麿史的段階に照応した発展ない

し変容形態としてのマルナス主義ー—マルサス的方法論を擁護せんがため部分的にはマルサス貌を殺しさえするー!を区別

4両者を動的連関のもとでとらえることが要請される︒︵あたかもマルクス自体の理論とそれの方法・世界観の新しい膠

日本人口論小史︵市原︶

(8)

690 

︑︑︑︑︑

ら︑両者を動的連関のもとにおくように︶︒すなわち︑一疲的危機の時代においては︑それが恐慌の時代である限りにおい

︑︑︑︑︑

て有力なマルサス主義運動をもち︑戦争の時代である限りにおいて﹁新重商主義﹂的ポピュ>イツョニズムをもち︑同時に また両者の折衷形態としてのオプティマム人口論をもち︑さらにそれぞれの国民国家の社会経済﹇歴史的諸条件の国民的偏 差にともなって︑マルサス人口論は社会ダーヴィン主義︑社会有機体誤︑人口有機体説︑階級・民族周流

n

貴族・選良周流

1 1 交替の理論等々の諸イデオロギーによって着色され変容されて︑マルナス主義は方法論としては完全に擁

護されたま

4受容されるのであり︑日本については次に述べる通りである︒

動の経典として読まれ︑ マルサス説をマルサス主義として奪還し甦生させるために受容された・・日本の歴史的社会的風土に適合したイデ

オロギー的用具はなにか︑ーー・それは社会有機能説であった︒スペンサー社会学の輸入を媒介として明治十六年に

成立をみた日本社会学は︑スペンサー社会学の自然法的側面を塗抹し︑同時に社会有機体説的側面を摂取・強調し

これを絶対主義自体が包摂し鼓舞・激励することにより︑はやくも国権論と合生するという陰暗な行途を決定づけ

られたのである︒いうまでもなくスペンサーの思想は﹁英国においてペンタム︑ミルの思想が凋落しかけたとき︑あ

( 1 1 )  

る点で之に対立し︑他の点では之と共同戦線に立った﹂のであり︑ミルがコントと多くの交渉をもちながらも﹁コ

( 1 2 )  

ントの社会有機体説をうけいれていない﹂一点において明らかに異なってはいたが︑しかも﹁ペンタム︑ミルの自

然主義に生物学的研究を加えて一層之を徹底したもの﹂で﹁結局自由放任主義となるのでこの点ではベンタム︑ミ

( 1 3 )  

ルと同エ異曲﹂であった︒この自然法思想の内含という同︱フラットで︑スペンサーも︑︑︑ルとひとしく自由民権運

その有機体説的構造に明治政府は着

目し利用したのであって︑ついに日本社会学は民権運動にたいする﹁弾圧又防止の一翼として喚び出され又保護さ

( U )  

れ﹂たのである︒かくて日本社会学はその有機体説構造のゆえに︑受容された︑︑︑ルの﹁自由論﹂がその

も日本のf f

その邦訳は民権の教科書と呼ばれたにか

4

日本人口論小史︵市原︶

(9)

691 

風土で自由主怒者に同化されつづけたのにくらぺ︑相当に異なった路線ーー国権論としての軌道に載せられていつ

ーー明治政府に重用された社会有機体説は輸入され俗流化したマルサス説と吻合し︑明治二十七年の徳富蘇峯の た ︒

﹃大日本膨脹論﹄となってみごとに結実した︒こ4では国土内における絶対的人口過剰を﹁疏通分配﹂するため﹁

( 1 5 )  

日本国民が世界の各所に新故郷を建設するの膨張﹂が公然と要求されていたのである︒

( 1 6 )

1 7

)  

︵補註︶`︑ルの﹁自由の理﹂が河野広中を駆つて民権運動に投ぜしめたのは有名な話であるが︑その後もアジアの﹁中進国﹂

たる我国の思想的特性のあらわれとして継対主義にたいする批判精神の糧となることができた︒スペンサーを︑︑︑ルといちぢ

るしく分岐させたのは︑それがもつ社会有機体説的構造が牛封建的政治経済体制を温存してきた日本の風土のうえで前期

( 1 8 )

的有機体論たる儘教的家族主義と結合したま

4︑近代自然法における原子論的個人主義や社会主職イデオロギーにたいする

( 1 9 )  

﹁思想善導﹂の国権的使命をになったため︑まった<好適な沃土をみいだしたためである︵もっとも︑このうえない繁茂を

約束されたことが︑実は逆脱めくが︑それの利用価値を減じ︑第四階級の握頭とともに社会政策学会に自らの使命を明け渡

さなければならなくなるのであるが︶︒

社会有機体説も︑明治三十年代における顛倒的な産業資本の確立︑同三九年における早激的な﹁第一階梯的端緒

的金融資本の成立﹂さらに第一次大戦中の急激な独占資本主義の発展・成熟と大正七年における﹁第二階梯的本格

( 2 0 )  

的金融資本確立﹂ーー'という社会経済構成の変貌のなか4ら﹁家族国家﹂に包摂しきれない第四階級が生成され︑

したがつて﹁家族国家﹂の異質部分としての市民社会

らない︒社会学の成立そのものが社会有機体説に発することはいうまでもないが︑右にみたような第一次大戦を契 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ l l 社会問題が登場するにともない︑脱皮し変容しなければな

機とする急激な利益社会化の発展︑大正年代を彩る両度の護憲運動や民本主義運動を原動力として登場した大正十

日本人口論小史︵市原︶

(10)

692 

( 1 2 )  

三年以降の政党政治時代は︑必然に︑不徹底ながら自然法への傾斜をしめす︵有機体説との妥協における自然法︶ジン

( 2 2 )  

メルの形式社会学および﹁概してジンメルの立場に接近していた﹂テンニースやデュルケムの社会学を受容・流行

せしめたのであり︑こ\に高田社会学を枢軸とする形式社会学盛行の時代が到来する︒ 2 3

この期にもっとも雖力な影響をあたえたのはジンメルであり︑当のジンメルは第一次大戦後におけるワイヤマール共

(2 4}  

1 1

の点高田社会学を中心とする形式社会学が大正年代をついやして民衆が斗いとった疑似デモクラジーの開花を時代背祭とし

て昭和初年にいたる迄盛行したのは興味ふかい︒だがジンメルが生前に形式社会学を放棄し不遇におちいったのは︑ドイツ

資本主箋の高度化︑矛盾

1 1 階級対立の激化による民主主雖

1 1

日本にあっても︑この期の指導者高田保馬博士の学問的関心が昭和年代にはいつて急速に経済学に移されたのは示唆深い︒

このようにして︑

コントの綜合社会学ーー・上からの社会学ーーは自然法的羞恥をみせたジンメル等

の形式学ーー下からの社会学ーーに影響力を譲ったのである︒この盛行期形式社会学の終幕を彩ったのは︑米騒動 以降︑とくに大正九年恐慌以降の一般的危機の日本への波及と日本独占資本の慢性的恐慌への突入︑階級対立の深 刻化にともなうファッズム化ーーという一連の事情であった︒大塚金之助教授は一般的危機期に播頭したファンズ

( 2 5 )  

ム学者として土方成美博士とともに、高田保馬博士をあげておられるが、博士自身の戦後の述懐ー—.「マルサス人

口法則が何故に直接に社会発展の説明のために利用せられ得ないか︒マルサスとデュルケムとを結びこれをさらに

( 6 )  

︑︑︑︑︑︑︑︑に︑大正十四年に大成をみたかの﹃階級及第

テンニースと結ぶところに第三史観の形成がある﹂にあきらかなよう

三史観﹄は︑まさしく徳富の﹃大日本膨脹論﹄が先縦をしめしたように・宿命的に軌道づけられた日本社会学11社会

七六

(11)

693 

有機体説が︑大正期の民主主義・護憲運動︑第四階級の擾頭という歴史的るつぼのなかで鍛冶されつ4

装さへと4のヘ一般的危機以降の社会情勢に適合してまったく改装し終へた︑いわば時代の子に他ならなかった︒

しかも博士の﹃第三史観﹄の骨子となっている階級観はすでに﹁階級考﹂︵大正十一年︶において基本的に発想されてい

( 2 7 )  

︵昭和元年︶によって︑如実にしめされた︒博たが︑さらに昭和人口論争の直接の契機となった﹁産めよ殖やせよ

士の人口論の与件として提示されたこの社会学的構想は︑河上博士との人口論争との産物である﹁人口と貧乏﹂︵昭和

二年︶に結実し︑さらに﹁貧者必勝﹂論︵昭和九年︶﹁民族耐乏﹂論︵昭和十七年︶となって完全に開花したのであるが

その骨子は博士自身が指摘しているようにハンセン︑ジャコビ︑パレットの都市・農村間の︑貴族または選良の周流

( 2 8 )  

11

交替観を階級観さらには民族観に適用し拡充したものに他ならなかった︒これらの周流観の詳説は別稿に譲ると

( 2 9 )  

しても︑たとえば︒ハッレトの賢良循環論がイタリー・ファッズモの独裁の理論や人口増殖論に採用されたこと︑そし

て︒ハレットの賢良周流論やハンセンの階級周流論がマルサス原理の新しい歴史的段階に対応した﹁社会階級的応用﹂

( 3 0 )  

にすぎぬことは︑たとえばハンセンがマルサスの過剰人口の理論を承認し弛力に支持しながら︑十九世紀末のかれ

の眼前に展開されつ4あった激しい階級斗争を有機体的に統一せんがため︑マルサスの・人口を全体として考察し

た不備をのぞき・人口を階級人口として把束し︑しかも階級間の周流観に立つて真の階級的敵対矛盾を周流させ隠

蔽した・というマルサス的方法が立証できること等によって︑その本質は充分にあきらかであろう︒かくて高田博

( 3 1 )  

士の﹃人口方程式﹄にしめされた人口理論が吉田秀夫氏の指摘するごとくマルサス原理の﹁再生産﹂であると

︑ ︑ ︑

このマルサス人口論の前提としての与件的思考として高田社会学から造出された民族周流

11

論は︑日本社会学の一般的危機以降の結晶物であり︑こ

4に徳富の﹃大日本膨脹論﹄は改装されたま4再出・確保

日本人口論小史︵市原︶

(12)

69

日本人口論小史︵市原︶

された︑といわなければならないであろう︒日本人口論の第二の特質ーー'俗流マルサス人口論と日本社会学11有機

体説との吻合という宿命はこ4に新しい歴史段階においても確保されたのである︒

︵補註︶こ4で﹁俗流マルサス人口論﹂なる表現を使ったのは︑マルサス人口論の原理的解釈において誤ったま4常識化されて

きた︑という明治初年の醗訳人口論の負債を高田博士もまた背負つておられた︑という意味においてである︒たとえば︑マル

( 3 2 )

4ノスにあっては︑実体的潜在的な1吉田秀夫氏は﹁抽象的﹂な︑という表現を使われるが︑これはや4語弊があるーー人口︑︑︑︑︑︑︑

増加力と現実の人口噌加との概念的区別は︑おそらくマルクスの労働力と労働の概念的区別

1 1 分離ほどに重要であったにか

4

わらず︑明治初年の輸入人日論は総じてこの弁別をしてやらず︑高田博士もまたこの弊におちいられたことは︑吉田秀夫

( 3 3 )  

氏の適確な指摘のとおりである︒このように博士はマルサス誤認のうえに立つていはば架空のマルサスを批判されたのであ つて︑南亮三郎氏のいわれる通り︑われわれもまた﹁博士の翫がどれ租マルサスから隔ったものであるか﹂﹁疑念は依然と

( 3 4 )  

して頭から去らない﹂のである︒

人口論

11人口問題の歴史的相鉗的性格

次に日本人口論は、現代人口論が往々にして陥りがちな•特定の歴史的生産様式から独立したすべての自然史的人

類社会に共通する一般人口法則を追求しようとする試図が効なく︑

題が存在せず︑特定の歴史的生産様式に従属した相対的人口法則や相対的人口過剰問題のみが実存しうることを示

唆しているといえよう︒すなわち日本人口論がその問題当初には土地ないし自然資源と人口との対比における絶対

過剰人口の処理策として発出したものが︑論理的歴史的に展開せしめられた後には︑絶対的過剰人口問穎アとは余りに

も懸絶した歴史

l l 社会的な政策的帰結にたどりついたり︑あるいは政策的に解決し終えたりしている事実は注目さ

れなければならない︒たとえば︑明治十年代における藩閥政府の急激な本源的蓄積過程の遂行裡におきた過剰人口の

(3) 

このような絶対的人口法則や絶対的人口過剰問

(13)

69.5 

処理策としての北海道拓植論がついに減税論や国庫補助論に帰着して︑結局は資本主義生産の絶対主義国家による

( 3 6 )  

( 35 )

 

培養論に他ならなかったことが露呈されたり︑大正七年の米騒動を契機として本格的な﹁近代的人口問題の登場﹂

として喧伝された人口11食糧問題が播頭したが︑

A;

れも外米輸入態勢の確立と4もにいちはやく雲消霧散して︑

見絶対的過剰人口なるかに仮象したけれど︑本質的には半封建的土地関係に制縛された農業生産が大戦中に飛躍的

に発展・完成をみた独占資本主義体制のもとでの工業生産と跛行的矛盾に苦しみ︑食糧自給体制が破綻に瀕したと

いう社会経済的な基礎条件にもとづいていたことが露呈された事実はこれをしめす︒また昭和初期の絶対的人口過

剰論は︑直接には大戦後の慢性恐慌とりわけ昭和二年の金融恐慌下の失業人口に端を発し︑昭和五年の解禁恐慌で

終極的に完成をみた金融資本支配のもとでの構成的失業人口問題に剌戟されたものであるが︑しかも満洲事変には

じまる準戦時国家独占資本主義への突入は労仇需要を激増せしめ︑やがては絶対主義的ポピュレイショ︱ーズムーー!

の横行する時代へと一転した事実もこれをしめす︒つまり絶対的過剰問題として人口論議の対

象になった場合の﹁人口﹂がたんなる全体的な﹁人口﹂ではなく︑特定の社会経済構成のなかで各種の歴史的社会

的性質を帯びた階級11経済的突起物が︑いちおう﹁人口﹂なる投影面でとりあげられたにすぎないのであって︑社

会経済の発展や論議の趨勢により投影された人口問題の実体が次第に露呈せられていったものに他ならない︒ゆえ

に︑マルサス主義の﹁古典国﹂日本の人口論吏は︑生物主義的な絶対的過剰人口概念が早晩特殊歴史的な相対的人

口過剰概念におきかえなければならないことを第三の特徴として告示しているのである︒

以下われわれは︑以上述べた日本入口論の一般的特質を︑明治初年から日清戦争にいたる人口論議の趨勢におい

て検証し︑以降の人口論を決定づけるかに思われる日本人口論の原型をうちだすことにする︒

日本人口論小史︵市原︶

(14)

696 

(1 ) 国立世論調査所﹁人口問題に関する世論調査﹂昭和二十五年五月九ー十三頁︒なほ調査対象見本総数は三︑五

00 で︑それらは全国の市区町村をその都市農村別及び産業構造上の各特色により八

0の暦に層化し確率比例抽出法により

選出された八七地点からえられたもの︒

( 2 )

戎能通孝﹁現代史の忠実な追求﹂日本読書新聞二九年五月三日号︒

( 3 )

軽済評論一九五五年一月号ニ︱ーニ頁︒

(4 )

山田盛太郎﹁日本資本主義分栃﹂三︑九六頁︒

( 5 )

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(7 ) 本多竜雄﹁日本人口問題の史的分析﹂︵農村人口問題研究第二集所牧︶八頁︒

(8 ) 

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(9 )

スムレヴィッチ﹁新人口論﹂︵酒井訳︶一五二頁︒

( 1 0 )

南亮三郎﹁人口原理の研究﹂第二︑第三章参照︒

(1

1)

河合栄治郎﹁選集第九巻﹂六五頁︒(12)馬場啓之助「ジョン•S・ミル」一五八頁。

(1

3)

( 1 4 ) 清水幾太郎﹁日本社会学の特質について﹂歴史科学昭和一

0

0

( 1 5 )

徳富蘇峰﹁大日本膨脹論﹂一六ー一八頁︒

( 1 6 )

河野盤州伝一八六ー`七頁︒

( 1 7 ) 杉原教授﹁戦後のわが国における

JS・ミル文献について﹂︵関西大学経済論集︑第四巻第二号︶︱二0頁︒ーまた

国民所得面から日本はアジアの最も先進国ではあるが︑西欧︑米諸国と比較すると︑後進的だから︑日本は先進国でも

後進国でもなく﹁中進国﹂だという決論を下された坂本二郎氏の﹁日本経済の中進国的特色﹂︵中山伊知郎編﹁日本綽

済の構造分析﹂所牧︶参照︒

( 1 8 ) このような有機体説と家族主義との抱合による﹁家族国家﹂観形成過蒜の思想史的分析として︑石田雄﹁明治思想史

日本人口論小史︵市原︶

(15)

697 

研究﹂が克明である︒

(19)

山下徊治﹁教化史﹂岩波日本資本主義発達史講座

(20)山田盛太郎﹁日本資本主義分析﹂ニニ四頁以下︒

( 2 1 )

清水幾太郎﹁社会学﹂︵三木清編哲学辞典所牧︶一九一頁︒

( 2 2 )

早瀬利雄﹁社会学史﹂︵岩波経済学小辞典所牧︶四七一頁︒

( 2 3 )

大道安次郎﹁高田社会学﹂二五二頁︒

( 2 4 )

細野武男﹁社会学﹂ニ︱0

頁 ︒

(25)大塚金之助﹁経済思想史﹂﹄︵要領︶岩波発達史講座第二部一七頁︒

( 2 6 )

高函保馬﹁階級及第三史観﹂戦後版序︑五頁︒

( 2 7 )

同﹁産めよ殖えょ﹂経済往来一巻五号︒

( 2 8 )

同﹁民族耐乏﹂一八九頁以下︒

( 2 9 )

土方成美﹁フプッズム﹂︱一五頁︑二四五頁︒またパレット流の賢良

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論とドイツ・ファッズムの指導者原理との関係については、今中~貝島共著「ファッズム論」(唯物論全書)一四五頁以下。および新明正道「フプッズムの社

会観﹂二四三頁以下参照︒

( 3 0 )

南亮三郎﹁人口原理の研究﹂三三三頁以下︒

( 3 1 )

吉田秀夫﹁高田博士とマルサス﹂新興科学の旗のもとに︑第二巻下︑五三頁以下︒

(32)

同﹁新マルサス主義研究﹂八三頁︒

(3

3)

同﹁高田博士とマルサス﹂参照︒

(34)南亮一ー一郎﹁人口論発展史﹂四五︑四六頁︒

( 3 5 ) 吉田秀夫﹁日本人口論の史的研究﹂五一六頁︒ーー尚この研究は日清戦争迄で打ち切られて以降は全く空白にぞくし

ているのは遺憾である︒

( 3 6 )

本多竜雄﹁日本人口問題の史的分析﹂前掲︑三三頁以下︒

日本人口論小史︵市原︶ 第二部二0

(16)

698 

日本人口論の原型

人口論︑祗会學の輸入と受容地盤

慶応四年三月発布の五ケ条の誓文の第四に﹁知識を世界に求め大に皇基を振興すぺし﹂と述べられたが︑これは

.

1) 後進日本の近代化のパターンを早期的に誓言したもので︑その後︑明治・・大正・昭和・終戦後をつうじて近代思想︑

( 2 )  

マルクス主義が導入されるにともないこれらにも移植観念的色調をあたえ︑日本の風土上で繁茂した日本イデオロ

︵補註︶この誓文のゴー・スは新政府指導者が﹁死を賭しても支持﹂しようとした国家指導の原珊であった︒ー誓文の起案・

修正者の一人木戸孝允はのち久米邦武博士に﹁かの誓文は反覆熟読したが実によくできている︒この御主旨は変改してはな

( 4 )  

らぬ︒自分の眼の黒い間は死を賭しても支持する﹂と語ったという︒

ある︒ところで︑ 西洋経済思想も﹁顕訳経済学﹂として移植入されたのであり︑人口論は経済理論一般の輸入に随伴していたので

日本が西欧文明に全面的に接触し始めた十九世紀中葉のヨーロッパは一般思潮として︑もはやか

つて市民革命を支えた啓象的な自然法思想は退潮期にあり︑それに代るものとして広く迎えられたのが実証主義で

あり︑功利主義であり︑自然科学的進化論であったが︑経済思想の面でも一八三六年以後近代的階級斗争が脅威的

形態をとり始めて以後︑古典派経済学は俗流化し始めそれの科学性は喪失しいわゆる﹁第二期俗流﹂期にはいつて

いた︒したがつて日本はイギリス資本主義の古典的発展時代を経験しなかったように︑経済学の古典時代をも知ら

ず︑労資の階級斗争の脅威的発展のためすでに熱情的な資本の弁護論

l l 調和学と化していたパスティア型の俗流経

( 3 )

ギーと離れ難く内的に連結すること4なったのである︒

(1) 

日本人口論小史︵市原︶

(17)

699 

日本人口論小史︵市原︶ 後進日本はまづこれらの輸入経済学の通俗化から始発せねばならなかったが︵自国産

の思想の成就を待ちえなかったので︶︑それは日本資本主義の扶植を早速イデオロギー面で支援しなければならなかつ

た︒帝国主義段階への移行期にあたる世界資本主義に囲続されたま4軍器技術で武装︑産業組織を急設し富国化し

なければならなかったこの後進性克服のための努力は︑

によってあざやかに代表されたのであったC

︵補註︶﹁国宮論派﹂の母胎はアメリカから帰朝した絶対主義官僚森有礼が明治六年に組織し︑当時の有力な思想家をほとん ど集めた﹁明六社﹂であった︒福沢や神田孝平に代表される﹁国宮論﹂派と典型的な官僚であった西周︑加蒜弘之に代表さ

( 6 )  

れる﹁国権論﹂派とが︑思想的に分岐をみせたのは民権運動の波浪がうちはじめた頃からであった︒

福沢は一個の文明主義者︑一個の経済学者︑一個の軍器紹介者にとどまらず︑

らの文筆によって表現し体現した︒明治初年から十年頃にいたる間に福沢をはじめ田口卯吉︑大島真益︑神田孝平

等自由主義経済学者によってミルやバスティア型俗流経済学が導入されたのであるが︑

富論﹂派によって輸入され日本人口論の主潮となるにいたった︒すはわち明治十年にはいまだ自由主義を奉じてい

( 7 )

た大島真益の﹃マルサス人口論要略全﹄はマルサス人口論を単行本の形で紹介した最初の訳述書であった︒さらに

自由主義を奉じて一貫した田口卯吉の主宰する﹃東京経済雑誌﹄も明治十三年以降一再ならずマルサス説の紹介を

( 8 )  

いずれもマルサス説の導入に﹁決定的進歩﹂をもたらした︒

( 5 )  

済学が輸入の主流を占めた︒

日本資本主義の発展的な全要求を自

マルサスもまたこれら﹁国

︵補註︶本書は往々マルサス﹃人口論﹄の抄釈といわれるが︑さうでないことは内容をマルサスのものと比較してみるとわか る︒大島は﹃例言﹄で

H向ル所ノ原著モト編者ノ氏名ヲ著ハサス題シテ英国某校医生某卜云フ﹄と述べているが︑本庄栄治

郎氏の研究によるとこれの底本は

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﹁国富論派﹂の経済学者をうみだしたが︑それは福沢諭吉

参照

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