天台山の詩歌︵其五︶︱︱盛唐︵上︶
薄井俊二
埼玉大学教育
学部国語教育講
座 キーワード:天台
山︑天台集︑漢
詩︑仏教
文学︑道教文学
はじめに 本
稿は︑
天台 山に 関わ る詩歌 につ いて 検討 を加え るこ とを 通 し て︑
当時 の人々
の天 台山 に対 するイ メー ジと その 変遷を
考察 し ようとするもの
である
︵1
︒
︶宋李庚等
の﹁天台
前 集
﹂ ︑ 明 潘
瑊
の
﹁ 天 台 勝 蹟 録
﹂
︵ 2
と
︶近 人 の 許 尚 枢
﹁ 天 台 山 詩 聯 選 注
﹂ に 掲 載 さ れ て い る も の を 中 心 に
︑ ﹁ 全 唐 詩
﹂ の 索 引 な ど も 利 用 し て 選択する︒今回は︑盛唐
期の詩十七点を取り上げる
︵3
︒
︶●凡例
・収録の
順番は
︑基本 的 に は﹁
全唐詩﹂の巻
数に従 うが︑生卒年 な どが明らかな場合はそれに従って並べ直す︒
・本文の底本は﹁前集﹂とし︑未収のものは適
宜指定する︒
・ ︻ 数字︼に続けて﹁天台前集﹂での題名を掲げる︒
﹁ 天 台 前集﹂
未 収録のものは︑底本としたものの題名を掲げる︒
・☆で﹁前集
﹂ ﹁勝蹟録
﹂ ﹁許本﹂での収録状況を︑★でその他の 資料における収録状況を
述べる︒
・以下
︑
■本 文と訓
訳
︑
■校勘
︑
■語注
︑
■口 語訳
︑
■解説
︑の 順 で記述する︒
・ 校 勘 で
︑ ﹁ 僊
﹂ と
﹁ 仙
﹂ ︑
﹁ 采
﹂ と
﹁ 採
﹂ な ど の
︑ 同 義 の 異 体 字 は指摘を略した︒
・原注は︹
︺で示し︑
脱字は□で示した︒
・ 本稿で参照した文献の内
︑ 総括的なものとそ
の略称は次の通り
︒ 宋・李
墓
等奉勅撰
﹁ 文 苑英華
﹂
︵文苑︶
⁝太平興国七
年
︵ 九 八二︶
宋・李 庚等撰
﹁天台前
集
﹂
︵前集︶⁝ 嘉定元年
︵一二○
八
︶
︑別 編
:同十六年
︵ 一二二 三︶
明・
﹁ 正統道蔵
﹂
︵道蔵︶
⁝正統十年
︵ 一四四 五︶
明
・ 徐 献 忠 編
﹁ 唐 百 家 詩
︵
﹂
唐 百︶
⁝ 嘉 靖 十 九 年
︵ 一 五 四
○
︶
序
明・潘
瑊
編﹁天台勝蹟
録
︵勝蹟
﹂
録︶
⁝嘉靖二十
五年
︵一 五四六
︶
跋
明
・ 釈 伝 灯 撰
﹁ 天 台 山 方 外 志
︵
﹂
方 外 志︶
⁝ 万 暦 二 十 九 年
︵ 一 六
○一︶
序
清・彭定求等奉勅撰﹁全唐詩﹂⁝康煕四十二年
︵ 一 七○三
︶
清・
﹁ 古今図書集成
︵古今
﹂
︶
⁝雍正四年
︵ 一七二 六︶
序
清・董誥等奉勅撰﹁全唐文﹂⁝嘉慶十九年
︵一 八一四
︶
許尚枢 編著﹃
天台山詩
聯選注
﹄
︵ 許 本︶
⁝ 西 安 地 図 出 版 社
︑ 二
○
○ 四年
七
天台山の詩︵其五︶︱︱盛唐︵上︶
︻
︼唐明皇御批并詩
李隆基
19︻
︼送司馬錬師歸天台山
李隆基
20︻
︼石橋銘
李隆基
21︻
︼送楊道
士往天台
張九齡
22﹇参考﹈登南嶽事畢謁司馬道士
張九齢
︻
︼送蘇倩遊天台
張子容
23︻
︼送楊法曹按括州
孫逖
24︻
︼送周 判官往台州
孫逖
25︻
︼白龍窟泛舟寄天台學道者
常建
26︻
︼將 適天台留別臨安李主簿
孟浩然
27︻
︼舟中曉望
孟浩然
28︻
︼宿天台桐柏觀
孟浩然
29︻
︼越中逢天台太一子
孟浩然
30︻
︼寄天台道士
孟浩然
31︻
︼尋天台山
孟浩然
32︻
︼桐柏観
孟浩然
33︻
︼送
邢
濟牧台州
僧皎然
︵孟浩 然︶
34
︻
︼唐明皇御批并詩
唐 明皇御批并びに詩
19
李隆基
★道 蔵洞玄部
霊図類
︑全唐詩巻
三
︵ 詩 の み
︶
︑ 全唐文 巻三七
︵ 御 批の み︶
勅 得 所 進 明 照 寶 ﹁御批﹂
劔
︒ 等
含 兩 曜 之
暉
︑ 稟
八 卦 之
象
︒ 足
使 光 延 仁
壽
︑ 影
滅 豐
城
︑ 佩
服 多
情︑慙
式 四
韻︒
■訓読 勅 す︑
進む る所の
明照 寶劔 を得 たり
︒等し く兩 曜の 暉を 含み︑
八 卦の象 を稟 けた り︒
光延仁 壽た らし め︑
影滅 豐城た らし むる
う
に足る︒佩服すれば情多く︑慙ぢ
式
て四韻す︒
もつ
■校勘
*道蔵を底本とする︒
題名を
︑ 全唐文は
﹁ 答 司馬承禎進鑄含象鏡劔圖批
︵司馬承
禎の
﹁ 含 象鏡剣 を鋳す るの図
﹂を進 むる に答ふ るの 批
︶
﹂ とする︒
﹇勅﹈全唐文では省かれ
ている︒
■語 注
○批
⁝臣下 からの文
書に対する天子の
回答の文
書︒
○明 照⁝明 らかに照らす
︒ ﹁ 礼記﹂経解に﹁明照四海︑而不遺微小
︵ 四 海 の す べ て を 明 ら か に 照 ら し て
︑ わ ず か な も の で も 取 り 残 さ な い
︶
﹂と ある︒
ここでは鏡
のこと
︒
○兩曜⁝月と太陽
︒
○ 暉⁝輝に同じ︒
日 光の 輝きを 表すこと
が多いが︑ここで
は日月両
方の輝きを
表して いるようだ
︒
○仁壽⁝仁徳があり命が長い
︒ ﹁ 論語﹂
雍也に
﹁ 仁 者︑寿
︵仁 のある 人は寿 命が長 い
︶
﹂ とある︒
○影滅 豐城⁝豊城と は︑預章の
豊城の 地に埋もれていた龍泉
・太阿 の二名剣が光
を放 っ て 天 に 徹 し
︑ 紫 気 が 現 れ た 故 事
︵﹁ 晋 書
﹂ 張 華 伝
︶
を 指 す
︒ 出 現 した宝 剣の光 で︑影が
消えたとい
うのか︒
○ 多情⁝
心に感じる ことが多
い︒
○式⁝語詞
の
﹁以﹂と同義
と解した
︒
○四韻⁝
四 韻の詩︒八句からなる詩︒
■口語訳 勅 す︑
進め られた
明鏡 と宝 剣を 受け 取った
︒ど ちら も︑
日月両 方 の輝き を含 み持 って おり︑
世界
を象
徴す
る八卦
を受
け持
って
い る︒
光が 延び︑
仁徳 があ って 長寿と なる こと がで きる し︑豊 城の 宝剣 のよ うに
︑そ の輝き で影 を消 すほ どであ る︒
この 二つ を 身 に帯 びれば
心に 感じ ると ころ が多く なり
︑恥 ずか しくも 八 句の詩を賦す︒
寶 照 含 天 地 ﹁詩﹂
寶 照は天地を含み
神 劍 合 陰 陽
神劍は陰陽に合す
日 月 麗 光 景
日月は光景を麗しくし
星 斗 裁 文 章
星斗は文章
を裁つ
寫 鑑 表 容 質
寫し
鑑
して容質を表し
てら
佩 服 爲 身 防
佩び服すれば身の防ぎとなる
從 茲 一 賞 玩 茲
に一たび賞玩してより
ここ
永 徳 保 齡 長
永く徳保たれ
齡長し
■校 勘
*道蔵を底本とする︒
題名 につい て︑道 蔵は﹁唐明皇
御批並詩﹂と
のみ記し
︑詩の題 名 を記さない
︒全唐詩は
﹁答司馬
承禎上劔鏡
︵ 司 馬 承 禎 の 劔 と 鏡 を 上すに 答ふ
︶
﹂と する︒
■語注
○寶照⁝
用例は見
いだせな
い が︑鏡のこと
を指す
︒
○含天地
⁝ 鏡 が 天地を 写し出し
ていることをいう
か︒司馬
承禎が献上
したと
される鏡
は﹁
含象鑑
︵ 形 象 を そ の 中 に 含 ん で い る 鏡
︶
﹂と 命名されて お り
︑ 彼 の 手 に な る と い う
﹁ 含 象 鑑 文
﹂
︵ 道 蔵・ 全 唐 文 所 収
︶
に は
﹁天地 含象
︵ 天 地 の す べ て に お い て 形 象 を 含 む
︶
﹂ と あ る︒ま た︑同
﹁ 含 象 鑑 序
﹂
︵ 同 上︶
に も
﹁ 含 光 写 貌
︵ 光 を 含 み 貌 を 写 す
︶
﹂ と い う 表現があ
る︒
○ 神劔合陰
陽
⁝神剣は︑神
より授 かった剣︒司
馬 承 禎
﹁劔序
﹂に﹁
劔面合陰陽
︵ 剣 の 両 面 は 陰 陽 を 併 せ 持 っ て い る
︶
﹂ とあり
︑福永 光司は
﹁具体的には彼
の景震剣が
陽︹景︺
の面と陰
︹ 震︺の両面をも﹂って
いることをさすという
︵4
︒
︶○日 月⁝
司 馬承禎﹁
含象鑑文
﹂に﹁日月貞明﹂とあり
︑それ は﹁易﹂繋辞
伝 に基 づく︒
○光景
⁝日の光︑あるい
は輝き︒
○星斗⁝
北斗七 星︒景 震剣の 表面に は︑北斗七星
が刻印されて
いた︒
○裁⁝本 来は﹁切
る﹂の 意味だ が
︑ 切っ たように整然
と整え るの意味があ る︒
○寫鑑⁝漢語大詞
典はこれを引いて
﹁ 照 鏡
﹂ と訳す
︒ 鑑は
︑ 鏡に 照らし 出す︒
○容質⁝容貌と資
質︒
○ 佩服⁝身に
帯びる こ と
︒ ﹁ 御 批
﹂ に
﹁ 佩 服 多 情
﹂ と あ り
︑ そ こ で は 鏡 と 剣 の 両 方 を 身 に帯びると解した︒
■口語訳 その鏡はすばらしくも天地をその中に写し出し 神より授かった剣の両面は︑陰陽に符
号している 鏡は太陽や月
の光を受けて美しく輝き 北 斗 七星 を刻 印した 剣は
︑あ や文 様を整 然と 断ち 切っ たよ うに 整える 鏡は容貌と資質のすべてを写し出し 剣を身に帯
びれば︑その身を防ぐ手だてとなる
今回ひとたび賞翫する機会を得て
より 仁徳は長
く保たれ︑齢もいつまでも伸びるだろう
■解説 五言 律詩
︒韻字
は﹁
陽・
章・
防・
長﹂で
︑平 水韻 では 下平七 陽の 韻︒
撰 者 の 李 隆 基 は
︑ 唐 六 代 皇 帝 の 玄 宗
︵ 六 八 五
〜 七 六 二 年
︑ 在 位 七 一 二
〜 七 五 六 年
︒ 明 皇 と も 称 さ れ る
︶
︒ 治 世 の 前 半 は 開 元 の 治 と 呼 ばれ た善政
を布 いた が︑
後半 になる と国 家財 政の 困難さ
など か ら 世 が 乱 れ
︑ 安 史 の 乱
︵ 七 五 五
〜 七 六 三 年
︶
の さ な か 四 川 に 逃 れ
︑ 粛 宗 に 譲 位 し た
︒ 彼 は 熱 心 な 道 教 信 者 で あ り
︑ ﹁ 送 道 士 薛 季 昌﹂
など 道士 との交 流に 関わ る詩 も数 多く残 して いる
︒こ こ に 登場 する司
馬承 禎は
︑唐 代の道 教界 の大 物だ が︑
玄宗は
彼を 長 安 に招 聘し
︑最 終的に は洛 陽に 近い 王屋山 の麓 に陽 台宮 を建 て て 住まわ
せた
︒次 の詩 では
︑玄宗 がそ の王 屋山 で︑天
台山 に 帰る司馬承禎を見送っている︒
こ の 御 批 と 詩 は
︑ 司 馬 承 禎
︵ 六 四 七
〜 七 三 五 年
︶
が
︑ 玄 宗 に 自 ら が 鋳造 した 剣と鏡 を献 上し たの に応 えたも の︒
道教 と剣
・鏡 と の 関 係 に つ い て は
︑ 福 永 光 司 に
﹁ 道 教 に お け る 鏡 と 剣
︵
﹂
本 稿注4︶
がある︒その
中で福永
は
︑ ﹁ 司 馬承 禎に おい て 鏡と 剣と が 道教の
﹃道
﹄の 象徴 として
︑ま た帝 王の 霊威 の象徴 とし てセ ッ ト に組 み合 わされ てい る﹂
とい う︒つ まり 鏡と 剣は 単な る実 用 品で はな く︑
神霊 性や 哲学性 を帯 びた 宝器 であり
︑皇 帝の 帯 び る権 威や 神聖性 の発 揚に つな がる もので あっ た︒
司馬 承禎が こ れらを 鋳造 して 皇帝 に献上 した のも
︑そ うした 捉え 方に 沿っ
たものである︒
なお福
永は同
書にお いて
︑ ﹁その彼
︵ 司 馬 承 禎 の こ と
︱ 稿 者 注
︶
が 鑑 とと もに剣
をも また みず から 鋳造し た事 実に つい ては︑
そ の こと を明 記し た文 章は見 られ ない
﹂と する
︒しか し︑
唐の 道 士 徐霊 府が 撰した
﹁天 台山 記﹂
には︑
司馬 承禎 が初 めに天
台山 の拠 点と して いた 霊墟と いう 場所 を描 写す る中に
﹁中 間平 地︑
立 別 院
︑ 營 大 丹 爐
︑ 修 劔 鏡
︑ 並 皆 克 就
︵ 中 頃 の 平 地 に 別 院 が 建 て ら れ て い て
︑ そ こ に は 大 丹 炉 が あ っ て
︑ 剣 や 鏡 を 造 っ て い た
︒ ど ち ら も よ く で き た と い う
︶
﹂ と い う 記 事 が あ る
︵ 5
︒
︶こ れ は 司 馬 承 禎 が み ずから鏡や剣を鋳造していたことを伝えるものである︒
︻
︼送司馬錬師歸天台山 20
司馬錬師の天台山に歸るを送る
李隆基
☆前集巻上︑許本巻九
★方外志巻三○︑全唐詩巻三︑古今巻一二五
︵天 台山 部芸 文︶
紫 府 求 賢 士
紫府に賢士を求め
清 溪 祖 逸 人
清谿に逸人を
祖 す
は なむけ
江 湖 與 城 闕
江湖 と城闕とは
異 迹 且 殊 倫
迹を異にし且つ倫を殊にす
間 有 幽 棲 者 間
幽棲する者有り
こ のごろ
居 然 厭 俗 塵
居然として俗塵を厭ふ
林 泉 先 適 性
林泉は先づ性に適ひ
芝 桂 欲 調 神
芝 桂に神を調せんと欲す
地 道 踰 稽 嶺
地道は稽嶺を踰え
天 台 接 海 瀕
天台は海濱に接す
音 徽 從 此 間
音徽 此よ り
間
たる
へだ
萬 古 一 芳 春
萬古一芳の春
■校勘 題 目 を
︑ 方 外 志
・ 古 今 は
﹁ 送 司 馬 道 士 歸 天 台
﹂ ︑ 全 唐 詩 は
﹁ 王 屋山送 道 士司馬承禎還天
台
︵王 屋山に て道士司
馬承禎の
天台に 還るを 送る
︶
﹂と する︒許本はこれに倣う︒
﹇清
﹈方外 志・古今
作青︒
﹇溪﹈全
唐詩作谿
︒
﹇祖﹈
方外志 作阻
︒
﹇ 間
﹈ 全唐詩︹
一作聞
︺ ︒
﹇ 棲
﹈ 方外志作栖
︒
﹇芝
﹈ 全 唐詩︹一作
松
︺ ︒
﹇稽﹈
全唐詩
︹一 作
雞
︺ ︒
﹇瀕﹈
方外 志作 濱
︑全唐詩作濱︹一作瀕
︺ ︒
■語注
○ 紫府⁝仙人の居所
︒
○祖⁝はなむけをする︒
送別の宴を開く
︒
○江湖
⁝隠遁の
士の居所
︒ 陶淵明﹁与殷
晋別詩
﹂に﹁良才不
隠 世
︑ 江 湖 多 賤 貧
︵ 優 れ た 才 能 は 世 に 隠 れ て は い な い
︒ 江 湖 に は わ た し の よ う な 貧 賤 な 者 が 残 る ば か り
︶
﹂ と あ る
︒ ﹁ 南 史
﹂ 隠 逸 伝 序 に
﹁ 或 遁 迹江湖之上︑或蔵名巌
石之下
︵あ るもの は その痕跡を江湖の
ほとり に 隠 し
︑ あ る も の は そ の 名 声 を 巌 の 下 に 隠 し た
︶
﹂ と あ る
︒
○ 城 闕
⁝都城︒
天子の 居所︒
○ 異 迹⁝同じでな
い行為
︑行跡︒
○殊 倫
⁝ 同類で ない︒
晋左思﹁詠史﹂之六
に﹁雖無
壮士節︑与世
亦殊
倫
︵ 壮 士とし ての節 度 がある わけで はな いが
︑ 世間 とは 同類で は ない
︶
﹂ と あ る
︒
○ 居 然
⁝ 安 ら か な 様
︒ 安 定 し た 様
︒ ﹁ 詩 経
﹂ 大 雅 生 民 に
﹁ 居 然 生 子
︵ 安 心 し て 子 を 生 む
︶
﹂ と あ る
︒
○ 林 泉
⁝ 山 林 と 泉 石
︒ ﹁ 旧 唐 書
﹂ 隠 逸 伝 崔 覲 伝 に
﹁ 爲 儒 不 楽 仕 進
︑ 以 耕 稼 爲 業
︑ 隠 於城固 南山︑
夫婦林 泉相対︑嘯詠自
娯﹂とある
︒
○適 性⁝心に 適う︑性
質に適 う︒劉 向
﹁ 列仙 伝﹂に﹁寥寥
安期︑
虚質高清︒乗 光適性︑
保気延生
﹂とある︒
○調神⁝精
神を順 適にさせる︒
劉 宋 徐 爰
﹁ 食 箴
︵
﹂
﹁ 北 堂 書 抄
﹂ 巻 一 四 二 所 引
︶
に
﹁ 一 日 三 飽
︑ 聖 賢 通 執︒奉 君養親
︑靡不 加精︒安慮潤
気︑調神暢情
﹂とある
︒
○音 徽⁝たよ
り︒音 信︒美 し い 音︒
徽音ならば︑
よい誉 れ︒麗しい音 楽︒よい音
信︒徽 は琴の弦︑あるいは琴
じ︒
○萬古⁝大昔︒
永 遠
︒ 杜 甫
﹁ 戯 作 六 絶
﹂ に
﹁ 爾 曹 身 与 名 倶 滅
︑ 不 廃 江 河 万 古 流
︵ あ な た の 身 と 名 と は と も に 滅 び て も
︑ 黄 河 や 長 江 の 太 古 か ら 未 来 へ 続 く 流 れは 廃れる こと はない
︶
﹂と ある︒
■口語訳 仙人の居所にすぐれた人物を求めたが 清らかな渓流で隠遁されようとする方
に餞の宴を開く 結局の所︑隠
遁の士が隠れられるところと都城とは 同じ場所ではありえないのだ この頃︑隠棲しようとされている人がおり 心安らかで︑世俗の汚れを厭うてい
らっしゃる 山林と泉石
こそが先生の本性に適い
霊芝や桂によって精神を順適にし
ようとされている 彼方へ至
る道は会稽の嶺を越えて遠く その天台山は遙か海浜に接しているとか ここで一旦別れたら便りを通じるのも難しいだろう 太古より永遠に続く︑春の香
を感じるばかりである
■解説 五言 古詩
︒韻 字は
﹁人
・倫・
塵・
神・
瀕・
春﹂で
︑平 水韻 で は上平一一真の韻︒
司 馬承 禎が 天台 山へ 帰るの を送 別し たも の︒帰 隠先 の天 台山 に つ いて の︑具
体的 なイ メー ジは描 かれ てお らず
︑林泉
や芝 桂 な どの
︑自 然と 仙界を 暗示 する もの が登 場する 程度 であ る︒
な お 全唐 詩の題
名に よる なら ば︑玄 宗は 王屋 山に おい てこの
送別 の 詩 を作 った こと になる
︒伝 記資 料に よれば
︑天 台山 が遠 いた め
︑ 玄宗は 洛陽 に近 い王 屋山 に道観 を作 り︑
司馬 承禎を
そこ に 住まわせたとある
︒ そうであれば
︑ 王屋山に拠点ができた後も
︑ 司 馬承禎 は天 台山 に帰 るこ とがあ り︑
その 折の 作なの かも しれ な い
︒あ るい は道観 が造 られ
︑司 馬承 禎が本 格的 に移 り住 む以 前 に
︑王屋 山に おい て司 馬承禎 を見 送っ た時 の作 なのか
もし れ
︻ ない︒
︼石橋銘
石橋の銘
21
李隆基
☆許本巻五
︵羅漢 道場
﹇一﹈
石橋方 広︶
★全唐文巻四一
梁 園 勝 躅
梁園は勝躅にして
碣 館 佳 游
碣館は游に佳し
苔 深 石 暗
苔は深く石は暗く
山 斜 路 幽
山は斜にして路は幽かなり
橋 非 七 夕
橋は七夕に非ざるも
節 是 三 秋
節は是 れ三秋なり
爰 停 弄 杼
爰に停りて杼を弄び
共 此 淹 留
共に此にて淹留せん
■校勘
* 全唐文を底本とする︒
■語注
○梁園
⁝漢代︑
梁孝王 が営築した
兎園をいう︒
梁苑に 同じ︒李白
﹁贈王判
官詩﹂
に﹁荊門倒
屈 宋︑梁苑傾鄒
枚﹂と ある︒
○勝 躅
⁝ 躅は跡
︒ 勝迹に同じ
︒ すぐれた跡
︑ 名高い古
跡
︑ すぐれた事蹟
︒ 孟浩然
﹁与諸 子登
峴
山 詩
﹂ に﹁
江山留勝迹︑
我輩復 登臨︵江山に 勝迹を留め
︑ 我が輩復た登り臨む
︶ ﹂
︑ 岑参
﹁ 過王判官西津所居詩
﹂ に﹁勝 迹不在 遠︑
愛君 池 館 幽
︵勝迹は遠きに在らず︑君の池館の幽な る を 愛 す
︶
﹂とある
︒
○ 碣館⁝宮
殿の名
︒碣石 館に同じ
︒河北
省
の 海浜にあったという
︒ 李
嶠
﹁ 九成宮呈同寮詩
﹂ に
﹁ 碣館分襄野
︑ 平 台 架射峯
﹂とあ る︒
○佳游⁝佳遊
に同じ︒
よい遊び︒あ
るい は遊ぶ のによ い︒李
嶠
﹁弾詩﹂に﹁侠客
持蘇合
︑佳遊満帝郷﹂
と ある︒
○三秋
⁝秋の 三 箇 月︒
王褒﹁九日従
駕詩﹂に
﹁律改三秋 節
︑気応九鍾霜﹂とある︒
○杼⁝機織りの道
具のひとつ︒
■口語訳 かの梁孝王の兎園はすぐれた古蹟であり 碣石館も遊ぶのによいと
ころだった
︵それら以上にこの天台山の石橋はすばらしく︶
苔生した石橋は薄暗い中にあり そこへ至る道は険しく︑またかすかである その橋は七夕に天に架
かるものではないが いまこの秋の節に横たわっている さあ︑足を留めて機織りをしながら ともにゆったりとして長く留まろう
■解説 銘文であるが韻を踏
む︒韻字は﹁游・幽・秋・
留
﹂で
︑平 水 韻では下平一一尤の韻︒
天台山きって
の景勝である石梁飛瀑を描く
︒ 天台山の石橋
を
︑ 七 夕 に天 の川 に架か る橋 と重 ね合 わせて いる とこ ろが 特色 か︒
︻
︼送楊道士往天台
楊道士の天台に往くを送る
22
張九 齡
☆前集巻中
★ 文 苑 巻 二 二 七
︵ 道 門
︶
︑ 唐 丞 相 曲 江 張 先 生 文 集 巻 四
︵ 四 部 叢 刊 初 編
︑ 曲 江 と 略
︶
︑ 唐 百
︑ 方 外 志 巻 三
○
︑ 古 今 巻 一 二 五
︑ 全 唐 詩巻四八
鬼 谷 還 成 道
鬼谷 還りて道を成し
天 台 去 學 僊
天台
去りて仙を學ぶ
行 應 松 子 化
行くゆく松子の化に應じ
留 與 世 人 傳
留りて世人とともに傳ふ
此 地 煙 波 遠
此の地は煙波遠く
何 時 羽 駕 旋
何れの時にか羽駕もて旋る
當 須 一 把 袂
當に須らく一たび袂を把るべし
城 郭 共 依 然
城郭 共に依然たらん
■校勘
なし
■語 注
○ 楊 道 士
⁝ 不 詳
︒ 李 白 に
﹁ 送 楊 山 人 帰 天 台
﹂ ﹁ 駕 去 温 泉 宮 後 贈 楊 山 人
﹂ ﹁ 送 楊 山 人 帰 嵩 山
﹂ な ど の 詩 が あ る
︒ こ こ に い う 楊 道 士 と 同 じか
︒ 後掲の熊飛は楊
炎の父の楊播ではないかという
︒ 楊炎
︵ 七 二 八
〜七八 一︶は︑
徳宗時代に宰相を
つとめ︑
両税法を創
始した
唐 の大臣
︒﹁
旧 唐書
﹂ 巻一 一八・
﹁ 新 唐書
﹂ 巻一四五
本伝
︒ 彼は
﹁ 小 楊 山 人﹂と 号され たというが︑それは
父親など
が﹁楊山人﹂
と称 された のに対 する呼 称であろう︒父
の楊播は楊
炎の伝記
に記録が 残る程 度︒それ
によれ ば
︑ 孝を 以て称され︑
玄宗が諫
議大夫に任 じたがや
がて棄官
した︒粛
宗 に至って︑即
家のま まで散騎常侍
に 任 ぜ られ︑
玄靖先 生と号された︒
○ 鬼谷⁝鬼
谷子︒もと
戦国時 代の縦 横家で
︑蘇秦
・張儀の師匠で
あったとい
う︒のち
に仙人と された
︒ある いは鬼 谷子が住
んだ という地名
か
︵河 南省登 封県の東 南︶
︒
○ 成 道⁝
仏教の成
仏に 同じ
︒悟 りを開 く︑
悟道 に達 する こ と︒
○松 子⁝赤松
子︒古代の伝説の
仙人︒
○煙波⁝も
やのこ めた水 面︒転 じて江 湖によって遠
く隔てられて
おり︑容
易に逢い が たいことを表す︒唐
王涯﹁閨
人贈遠詩五首
︵其三
︶
﹂に﹁
形影 一 朝 別
︑ 煙 波 千 里 分
︵ ひ と た び 別 れ て し ま え ば
︑ 遠 く 千 里 も 隔 て ら れ る こ と に な る
︶
﹂ と あ る
︒
○羽駕⁝鸞や
鶴などの
鳥に牽かせる
神仙 の 車
︒ 梁 沈 約
﹁ 遊 金 華 山 詩
﹂ に
﹁ 若 蒙 羽 駕 迎
︑ 得 奉 金 書 召
︵ も し 羽 駕 で 迎 え ら れ た な ら ば
︑ 金 書 の 召 を 奉 じ る こ と も で き る だ ろ う
︶
﹂ と ある︒
○ 把袂⁝
衣の袖をつかむ︒ある
いは手 をひく︒親し
みの 表 現
︒ 梁 何 遜
﹁ 贈 江 長 史 別
﹂ に
﹁ 餞 道 出 郊
垌
︑ 把 袂 臨 洲 渚
︵ 見 送 っ て は 郊 外 の 地 ま で つ い て き て
︑ 袖 を つ か ん で 渡 し 場 ま で き て し ま っ た
︶
﹂ と あ る
︒
○城郭 共依然⁝
依然は 昔のまま
︒ ﹁捜神後
記﹂巻 一 に
︑漢代 に丁令 威という人が虚山で仙
道を学 び︑鶴に化し
て故 郷に 帰ったと
ころ︑
それと気づかな
かった少年
が令威の
化した鶴 を 弓 で 射 よ う と し た
︒ 鶴 は 空 を 飛 び な が ら
︑ ﹁ 城 郭 は 元 の ま ま な の に人間は入れ替わってしまった﹂と嘆いたと
いう話がある︒
■ 口語訳 鬼谷子は
その地に還って悟りを開いたというが 楊 道 士も そのよ
うに 天台 山へ 行っ て神仙 の道 を学 ばれ ようと し ている あの赤松子の生まれ変わりの
如くになろうとしているが かの 地に留まり続けて︑世の人々に道を伝えられるのだろう この地は天台山からは煙る江湖によって遠く隔てられており 鸞 や鶴 が牽 く車 に乗 り還っ てこ られ るの はいつ にな るだ ろう か 別れに臨んで今一度袖を
つかんで親しみを示そう ご 帰 還の 時に は城 郭は昔 のま まで も︑
人は既 に代 替わ りを して いるだろうから
■解 説 五 言律 詩︒
韻字 は﹁僊
・傳
・旋
・然
﹂で
︑平水 韻で は下 平一 先の韻︒
張 九 齢
︵ 六 七 八
〜 七 四
○ 年
︒ 生 卒 年 は
︑ 植 木 久 行
﹁ 唐 代 詩 人 生 卒 年 論 拠 考 三 題
︱ 張 九 齢
・ 李 益
・ 張 説
﹂﹃ 中 国 文 学 研 究
﹄﹇ 一 六 号
︑ 一 九 九
○ 年﹈
による
︒︶
は︑
韶州曲江
︵広 東省
︶
の 人で 字は子 寿︒
武后の
神 功 元 年
︵ 六 九 七
︶
に 進 士 試 験 の 資 格 を 得
︑ 長 安 二 年
︵ 七
○ 二
︶
に
進 士に 合格
︒中 宗朝で 登用 され
︑玄 宗朝に 至っ て張 説に 認めら れ て要職 を歴 任し
︑宰 相とし て活 躍す る︒
しか し李林 甫か ら疎 ん じ ら れ て
︑ 開 元 二 十 五 年
︵ 七 三 六
︶
に 荊 州 長 史 に 左 遷 さ せ ら れ る
︒ そ の 後 は 憂 い に 沈 み
︑ 開 元 二 十 八 年
︵ 七 四
○
︶
に 告 暇 し て 故 郷 の 曲 江 に 帰 り
︑ そ こ で 卒 し た
︒ 諡 は 文 献
︒ ﹁ 旧 唐 書
﹂ 巻 九 十 九
・ ﹁ 新 唐 書
﹂ 巻 一 二 六 本 伝
︒ そ の 詩 風 は
﹁ 神 味 超 逸
﹂
と
称 さ れ る
︒ そ の 詩 文 集 に つ い て
︑ ﹁ 唐 百 家 詩
﹂ で は
﹁ 張 九 齡 集 六巻
﹂と し︑
四部 叢刊 所収の
﹁唐 丞相 曲江 張先生 文集
﹂は 二十 巻である︒そのうち巻二から巻五に詩を収める︒
四 部叢刊 所収 の﹁
唐丞 相曲江 張先 生文 集﹂
は︑明 憲宗 の成 化 九 年
︵ 一 四 七 三
︶
の 序 が あ る が
︑ 熊 飛 に よ れ ば
︑ 複 印 本 で あ ろ う と い う
︒ 校 注 本 に 熊 飛 校 注
﹃ 張 九 齢 詩 校 注
︵
﹄
中 華 書 局︑ 二
○
○ 八 年
︶
が あ り
︑ 和 刻 本 に
﹃ 曲 江 張 先 生 詩 集
﹄ 巻 下
︵ 三 巻 久 田 湖 山 点 寛 政 十 一 年 刊
﹇ 和 刻 本 漢 詩 集 成 唐 詩 第 一 輯
﹈︶
な ど が あ る
︒ この 詩は
︑楊道
士と いう 人物 が天台 山に 向か うの を見 送る送 別 の 詩で ある
︒鬼 谷子や 赤松 子な どの 古代の 仙人 をあ げ︑
楊道 士 が それ らに匹
敵す る存 在で あるこ とを 歌う
︒そ して彼
が向 か う 天台 山は
︑彼 方にあ る神 仙の 山で あり
︑そこ で修 行を 積ん だ 楊道士はきっと神仙に
化されるだろうという︒
作詩の年代ははかりがたいが
︑ 熊飛は開元二十五年
︵七 三 七
︶
の
︑ 荊州長 史左 遷以 前の 作で はない かと 推測 する
︒玄宗
朝の い つ か︑
であ ろう
︒見送 られ る楊 道士 は不詳
︒熊 飛の 推測 する ご とく楊播だとして
も
︑ その人となりはよ
くわからない
︒ また
﹁ 方 外 志
﹂ ﹁ 歴 世 神 仙 体 道 通 鑑
﹂ な ど の 後 世 の 資 料 に も
︑ そ れ ら し き人物は見あたらない︒
しか し︑
天台 山に直 接関 わる 人物 で詩 歌に登 場す るの は︑
こ の 楊道士 は唐 代で は司 馬承禎 に次 いで 二人 目で ある︒
この 詩で は
︑ 天台 山は
︑神々 の棲 まわ れる 茫漠と した 神山 では なく
︑眼 前 の人 間が 尋ね る場 所と して︑
実体 を帯 びた 山岳と して 捉え ら れている︒
︻参考︼
* 天 台山に は関わ らないが︑司馬承禎
と張九齢
との関わりを
示す 詩をあげておく︒
登南嶽事畢謁司馬道士
南嶽に登り︑事畢り︑司馬道士に謁す
張九齡
☆前集・許本収録せず
★文苑巻二二七
︵道門
︶
︑曲 江巻三︑唐百︑全唐詩巻四
七
將 命 祈 靈 嶽
命を將って靈嶽
に祈り
迴 策 詣 眞 士
策を迴らして眞士に詣る
絶 跡 尋 一 徑
絶跡に一徑を尋ね
異 香 聞 數 里
異香 數里に聞こゆ
分 庭 八 桂 樹
庭を分つ八桂の樹
肅 客 兩 童 子
客を
肅
む兩童子
すす
入 室 希 把 袖
室に入りて袖を把るを希み
登 床 願 啓 齒
床に登 りて齒を啓するを願う
誘 我 棄 智 訣
我を棄智の訣に誘ひ
迨 茲 長 生 理
茲の長生の理に
迨
ぶ
およ
吸 精 反 自 然
精を吸ひて自然に
反り
錬 藥 求 不 死
藥を錬りて不死を求む
斯 言 眇 霄 漢
斯の言は霄漢に眇たりて
顧 余 嬰 紛 滓
余を顧りみるに紛滓に
嬰
れり
かか
相 去 九 牛 毛
相 い去ること九牛の毛なるも
慚 歎 何 知 己
慚ぢ歎ず
何ぞ己を知らん
■校勘 題名 を︑文 苑は﹁
祭南嶽事畢謁司
馬道士﹂と
する︒熊
飛はそち ら がよいという︒
﹇ 徑
﹈文苑 作逕︒
﹇客﹈前集・唐百・
曲江作 容︒倣文苑改
客︒
﹇ 袖﹈前 集・唐百
作神︒倣文苑・全
唐詩改袖
︒
﹇床﹈
唐百作 牀︒
﹇
迨﹈前 集・唐 百作迫︒
倣文苑・全唐
詩改
迨
︒
﹇余﹈文 苑作予︒
唐百作子
︒
﹇何 知 己﹈前集作知
何已︑
文苑︹集作何
知 已
︺ ︒以 意改︒
■語注
○將命⁝
命令を実
行する︒
○絶跡⁝外部
との交 渉がない︒
○
八 桂 樹
⁝ 八 本 の 桂 の 木
︒ ﹁ 山 海 経
﹂ 海 内 南 経 に
﹁ 桂 林 八 樹
︑ 在 番 隅東﹂
とあり
︑孫綽
﹁遊天台山賦﹂
に﹁八桂森
挺以凌霜
︑五芝含 秀 而 晨 敷
﹂ と あ る
︒
○ 肅 客
⁝ 客 を 導 く
︒ ﹁ 礼 記
﹂ 曲 礼 に
﹁ 主 人 肅客而入﹂
とある
︒前集らは﹁肅容﹂と
する︒そ
うであれば︑
つ つし む姿︒
○把袂
⁝︻
︼語注︒
○床⁝腰掛
け︑色々
なもの
22を載せる台
︒
○啓齒⁝笑う
︒ ﹁ 荘子
﹂ 徐無鬼に
﹁ 吾君未嘗啓齒
﹂ と あ る
︒
○ 棄 智
⁝ 聡 明 や 智 巧 を 捨 て 去 る
︒ ﹁ 老 子
﹂ 第 十 九 章 に
﹁絶聖棄智︑而民利百倍﹂
︑ ﹁ 抱 朴 之﹂明本に﹁外物棄智⁝⁝道家
之道也﹂
とある
︒
○迫⁝
迨
ならば︑至る
︑及ぶ
︒
○眇⁝か
す か
︑ はるか
︒
○ 霄漢⁝大空︒
○九 牛毛⁝ほ
んのわずかの
取る に足 りない ものの 喩え︒
司馬遷﹁
報任安書
﹂
︵﹁ 漢書
﹂司馬遷
伝︶
に
﹁仮令 僕伏法受
誅︑若 九 牛 亡一 毛︑与螻蟻何
以異﹂と
ある︒
○
何 知己⁝もと
﹁ 知何已
﹂ とあり
︑ また文苑に引
く集では
﹁ 何知已
﹂ と する
︒ どちらも意味が
取りがたかったので
︑ 標記の様に改めた
︒ 諸賢のご教授を請いたい
︒
■ 口語訳 皇帝の命を受けて霊山で祭祀を行い 杖を転じて真人のもとを訪ねた 人里離れた絶人の地に一筋の小道をたどれば 数里も離れたところへ
も︑妙なる香り︵気配︶が漂ってくる その庭には︑目印となる八本の桂の木が生えていて 二人の童子が訪問客を導いてくれる 道士のお住まいに入ってよしみを通じ 腰掛けに座って対
面して歓談しよう 道士は私を智慧を捨て去る秘訣に誘い 長生のことわりにまで及ぼしてくれる 精和の気のみを吸って自然に還り 仙薬を錬って
不死を求めようとする 道士のお言葉は︑大空の彼方のかすかなもののごとくであり 我が身を省みるに世俗の汚れにまみれているばかり 道士と私との差はほんのわずかとい
うが 身の程も知
れない己を恥じ入り嘆くばかり
■解 説 五 言古 詩︒
韻字は
﹁士
・里
・子
・齒・
理・
死・
滓・
已﹂
で︑
平水韻では上声四紙の韻︒
南岳 に行 き︑司
馬承 禎に 拝謁 した 折の作
︒司 馬承 禎が 南岳衡 山 を 訪 れ た の は
︑ ﹁ 茅 山 貞 白 先 生 碑 陰 記
︵
﹂
清 十 四 巻 本﹁ 茅 山 志
﹂ 巻 四
︶
に よ れ ば
︑ 開 元 十 二 年
︵ 七 二 四
︶
︒ そ れ に よ れ ば
︑ 衡 岳 に 行 く
︵ 碑 で は
﹁ 帰
﹂︶
途 中 に 茅 山 に 立 ち 寄 っ た と こ ろ
︑ 茅 山 の 貞 白 先 生
︵ 陶 弘 景
︶
を 顕 彰 す る 石 碑 を 作 る こ と に な り
︑ 彼 が 碑 文 を 述 して 揮毫 もし たとい う︒
それ には 開元十 二年 九月 十三 日の 日 付 があ る︒一
方︑
張九 齢の 年譜で ある 楊承 祖﹃
唐張子
寿先 生 九 齢 年 譜
﹄ で は
︑ ﹁ 唐 大 詔 令 集
﹂ に よ り
︑ 張 九 齢 は 開 元 十 四 年
︵ 七 二 六
︶
正 月 に 南 岳 で 祭 祀 を 行 っ た と し
︑ そ の 足 で 司 馬 道 士 に 拝 謁し たと する
︒ここ には 二年 の隔 たりが ある
︒あ るい は司 馬 承 禎が南 岳を 訪れ たの は複 数回に 及ぶ のか もし れない
︒そ う で あれ ば︑
この 詩の制 作は 開元 十四 年とす るの がよ かろ う︒
ま た 南宋陳 田夫
﹁南 嶽総 勝集
﹂は︑
開元 の初 め︑
司馬承 禎が 海山 から桴に乗じて衡岳に至り
︑ 九真観の北一里の地に庵を結んだ
︒ そ こ へ丞相 の張 九齢 がし ばしば 訪れ たと いう 挿話 を載せ
る︒
司 馬承禎が本格的に王屋山に移ったのは
︑ 神塚淑子
︵6
によれば
︶︑ 開 元 十 五 年
︵ 七 二 七
︶
で あ る
︒ い ず れ に せ よ こ の 詩 は
︑ 司 馬 承 禎 の 拠点 が︑
まだ天 台山 にあ った 時代の 作と いう こと にな る︒
︻
︼送蘇倩遊天台
蘇倩の天台に遊ぶを送る
23
張子 容
☆前集別編
★文苑巻二六八
︵行送
︶
︑古 今巻一二五︑全唐詩巻一一
六
靈 異 尋 滄 海
靈異 滄海を尋ね
笙 歌 訪 翠 微
笙歌して翠微を訪ぬ
水 鷗 迎 共 狎 水
鷗迎へて共に狎れ
雲 鶴 待 將 飛
雲鶴待ちて
將に飛ばんとす
琪 樹 嘗 仙 果
琪樹に仙果を嘗め
な
瓊 樓 試 羽 衣
瓊樓に羽衣を試みる
遙 知 神 女 問
遙に知る神女の問ふ
を
獨 怪 阮 郎 歸
獨り怪しむ阮郎の歸るを
■校 勘
﹇ 訪
﹈ 文 苑 作 討
︒
﹇ 水
﹈ 文 苑 作 江
︹ 一 作 水
︺ ︑ 全 唐 詩 作 江
︒
﹇ 共﹈文苑作近
︹一作共︺
︑ 全 唐詩
︹ 一作 近︺
︒
﹇嘗
﹈文苑 作攀
︹ 一作嘗
︺ ︑全 唐詩︹一作攀
︺ ︒
﹇樓﹈全唐詩︹一作枝
︺ ︒
■語注
○霊異⁝
すぐれ てふし ぎ な こと
︒神異︒霊妙
︒
○ 翠微⁝山が緑 に けぶっている様
︒ ある いは緑にけぶる山
︒ 左 思
﹁ 蜀都賦
﹂ に
﹁ 鬱
葐葐以翠微︑
崛巍巍 以峨峨﹂とある
︒
○笙⁝
王子晋が
得意とし
ていた楽
器︒
○水
鷗
⁝かもめ︒
陶潜﹁遊斜川
詩序﹂に
﹁魴鯉躍 鱗 於 将夕︑水
鷗
乗 和以翻飛
︵魴や
鯉が暮 れ よ うと する流れに
鱗を 躍ら せ︑
鷗
が穏 やか な大気 に乗 って 飛んで いる
︶
﹂ とある︒
﹁ 列子﹂
黄帝に
︑
鷗
が馴 れて共 に遊ん でいる人がい
た︒ところが
父親から
鷗
を捕ま えてくる
ように命
じられ︑
捕 まえに行った
ところ
︑
鷗
は二 度とそ の 人 に近づ かなか った︑という説話が
ある︒
○雲鶴⁝鶴
︒また 世塵を はなれ 山野に 隠遁するひと︒
陶淵明﹁連
雨獨飲﹂
に﹁雲鶴 有 奇 翼
︑ 八 表 須 臾 還
︵ 鶴 に は す ば ら し い 翼 が あ り
︑ 世 界 の は て ま で す ぐ に 飛 ん で い け る
︶
﹂ と あ る
︒
○ 琪 樹
⁝ 玉 の 木
︑ ま た は 玉 の よ う に美 しい木
︒孫綽﹁
遊天台山賦﹂に見
え︑天台
山を歌う詩
で頻出 の語︒
○瓊 樓⁝玉 の高殿︑ある
いは玉のよう
に美しい
高殿︒瓊 台と同義
︒こち らも孫 綽
﹁ 遊天 台山賦﹂に見
える語
︒
○阮郎⁝
漢代︑天台
山に仙 薬を採りに入った劉晨
と阮肇 が仙女に出会い
︑ 半年 間もて なされて
帰還したところ数
百年たっ
ていた︑と
いう話 があ る
︵﹁ 幽明 録﹂な ど
︶
︒
○神女問⁝
天台山の仙女が︑阮肇
らに
﹁あなた
方はど こから 来 た のか
﹂と問うたよ
うに︑
蘇倩にも仙女 が問いかけ
るだろ う︑という意味に解し
た︒
○獨怪阮郎歸
⁝阮 肇ら が数百年
たって 国に帰ってきた
時︑当時の
人々は彼ら
が誰か 分から ず不思 議がった
︒同じよう
に貴方の天台
山から の帰還はこ れから数
百年後 であり︑そ
の 時の人々は貴
方のこと
が分からなく な っているだろう︑という意味に解した︒
■口語訳 霊妙神異を求めて滄海を渡り 王 子晋の よう に笙 を奏 でまた 歌っ て︑
緑に けぶる 山を 訪れ よう
とされている 列子の説
話のように無心になってカモメと戯れれば 霊鶴が一緒に飛ぼうと待っている 玉の木では神仙の果物をいただき 玉の楼台で仙人の衣の羽衣を
はおってみる 仙女 が貴 方に 問い かける こと は遠 くに いる 私でも 分か るけ れど 阮 郎 のよ うに数
百年 後に 帰還 されれ ば︑
人々 は貴 方の ことを 不 思議に思われるでしょう
■解説 五 言律 詩︒韻
字は
﹁微
・飛
・衣
・歸﹂
で︑
平水 韻で は上平 五 微の韻︒
張 子 容 は
︑ ﹁ 唐 詩 紀 事
﹂ 巻 二 三 と
﹁ 唐 才 子 伝
﹂ 巻 一 に わ ず か な 資料が
残るの
み︒
山本巌
﹁孟浩
然交友考
︵
﹂
﹃ 宇都 宮大学 教育学 部 紀 要 第 一 部
﹄ 第 五 一 号
︑ 二
○
○ 一 年
︶
は
︑ こ れ ら の 資 料 に よ り な がら 彼の 略歴 を述べ る︒
それ らに よれば
︑孟 浩然 と深 い交 友 が あるこ とか ら︑
ほぼ 同年 代だ考 えら れる
︒孟 浩然の 生年 には 異 説が あるが
︑山本巌は天授二年
︵六 九一︶
とする︒張子容も
七
世 紀 末頃の 生ま れで あろ うか︒
成長 して 孟浩 然と ともに
襄陽 の 鹿 門山 に隠 棲し
︑修行 や勉 学に 励む
︒そし て科 挙の 試験 に赴く のを 孟浩然に見送られ
︵孟浩 然﹁送張士容進士
挙
﹂︶
︑先天二年
︵七 一 三
︶
に 進 士 に 及 第
︒ 長 安 滞 在 を 示 す 詩
︵﹁
長 安 早 春
﹂︶
があ る︒
そ の後晋 陵
︵江蘇省
常州︶
や楽 城
︵浙 江省 温 州︶
の尉をつとめた︒
そ の 楽 城 に お い て 孟 浩 然 と 十 数 年 ぶ り に 再 会 し た ら し い
︵ 張 士 容
﹁ 除 夜 楽 城 逢 孟 浩 然
﹂・
﹁ 楽 城 歳 日 贈 孟 浩 然
﹂・
﹁ 送 孟 浩 然 帰 襄 陽
﹂︑ 孟
浩 然
﹁ 除 夜 楽 城 逢 張 少 府
﹂︶
︒これは開
元十五
年
︵ 七 二 七
︶
のこ とと さ れ る
︒ そ の 後
︑ 永 嘉 に 赴 き
︵ 張 士 容
﹁ 自 楽 城 赴 永 嘉 枉 路 泛 白 湖 寄 松 陽 李 少 府
﹂・
﹁ 永 嘉 作
﹂︶
︑ そ こ で も 孟 浩 然 と 逢 っ た
︵ 孟 浩 然
﹁ 永 嘉 上浦 館逢張 八子 容
﹂︶
︒ そして離
別に際し
︑ 孟浩然が
﹁ 新年子北征
﹂
︵﹁永嘉別張子
容
﹂︶
と いっており︑
北に向かったよ
うで ある
︒ こ の間
︑ど のよ うな 職につ いて いた かは 不詳
︒それ 以後 の足 取り も 不 詳 だ が
︑ ﹁ 乱 離 に 値 ひ
︑ 江 表 を 流 寓 し て
︑ 官 を 棄 て て 旧 業
あ
に 帰 っ た
︵
﹂
﹁ 唐 才 子 伝
﹂︶
と あ り
︑ 最 後 は 故 郷 で 没 し た の で あ ろ う
︒ 詩 集 が あ っ た と い う が 伝 わ ら ず
︑ ﹁ 全 唐 詩
﹂ は 十 七 首 を 集 めている︒
こ の詩 は天台
山に 遊ぶ 友人 を送 別した もの だが
︑友 人であ る 蘇 倩 は 不 詳
︒ あ る い は 蘇 倩 子 か
︒ ﹁ 全 唐 文
﹂ 巻 九 四 六 に 蘇 倩 子 の﹁対造帳籍判﹂を載
せるが伝記資料は全くない︒
こ の詩 の制 作年 代も不 詳だ が︑
開元 年間 あたり であ ろう か︒
先 の 張九齢 の詩 と同 じく
︑生 身の人 間で ある 友人 が︑天
台山 に 向 かう のを 見送 ってい る︒
そこ での 天台山 は︑
神仙 や仙 女の 住 む 聖地で ある とさ れて おり
︑この 点で は六 朝以 来の天 台山 観を 受け継いだものである︒
︻
︼送楊法曹按括州
楊法曹の括州を按ずるを送る
24
孫逖
☆前集巻上
★文苑巻二六八︵送行
︶ ︑全 唐詩巻一一八
東 海 天 台 山
東海の天
台山
南 方 縉 雲 驛
南方の縉雲驛
溪 澄 問 人 隱
溪は澄み
人の隱るるを問ひ
巖 險 煩 登 陟
巖は險にして登陟
に煩はし
潭 壑 隨 星 使
潭壑は星使に隨ひ
軒 車 繞 春 色
軒車は春色を繞はん
儻 尋 琪 樹 人 儻
たま琪樹の人を尋ねなば
たま
爲 報 長 相 憶
報を爲して長く相い憶ふ
■校 勘
﹇驛﹈
文苑・全唐詩
︹一 作國︺
︒
﹇溪澄
﹈文苑
︹集作澄
清︺
︑ 全 唐詩︹一作澄清
︺ ︒
■語 注
○楊法曹⁝不詳
︒ 法曹は司法官
︒ ﹁ 新唐書
﹂ 巻四九百官志下では︑
外官の中に
﹁ 法曹司法参軍事﹂
がある
︒
○括州⁝浙江省のまち
︒ 麗水県の
東南︑
括蒼山の麓
︒
○按⁝巡行
︑巡視
︒
○縉雲⁝
括 州 に 同じ︒
○潭 壑⁝深い谷︒鮑照﹁
登大雷岸
︑与妹書﹂に
﹁思 盡波濤
︑悲滿 潭壑﹂
とある︒
○星 使⁝天子の
使い︒後
漢の和帝 が二人 の使者を
益州に 派 遣 した ところ︑天上
で二つの
星が益州の 分 野に動いたとい
う故事によ
る
︵﹁後漢書﹂李
郃
伝
︶
︒
○軒
車⁝つ
い
たてのある車︒身分の高い人のみが使った︒
■口 語 訳 東海にある天台山 その南方にある縉雲驛 そこは澄み切った渓流に隠れ
ている人を捜さねばならず 登る のが難しい険しい岩山だろう 楊星使は深い谷を進まれるが その車には春の気配がまとわりついていくだろう もし玉樹のもとに住む人
に出会えたら 便りを送り︑とこしえに思いあうことにしよう
■解説 五言 律詩
︒韻字
は﹁
驛・
陟・
色・憶
﹂で
︑驛 のみ 平水韻
では 入 声 一一 陌の 韻︑
他の三 者は 入声 一三 職の韻
︒な お校 勘に 見え る﹁國﹂は入声職一三職の韻︒
孫逖
︵六九 六〜七 六○年
︑ある
いは 七六一生︒
卒年 は︑植木久行﹁唐 代 作 家 新 疑 年 録
四
顔 真 卿
・ 元 徳 秀
・ 蕭 穎 士
・ 蕭 存
・ 孫 逖
・ 趙 冬 曦
・ 李華
・ 呂温・
呂渭・
呂恭・
梁粛
﹂﹃
文経 論叢
﹄﹇
二六 巻三 号︑
一 九九 一年
﹈ に よ る
︶
は
︑ ﹁ 新 唐 書
﹂ に よ れ ば 博 州 武 水
︵ 山 東 省
︶
の 人
︒ 幼 く し て文 才が あり
︑十五 歳で 雍州 長史 の崔日 用に 認め られ
︑開元 に入って挙せ
られ
︑ 同十年
︵七 二 二
︶
に賢良方正に
あげられる
︒ 玄 宗 に認 めら れ左拾 遺と なり
︑張 説とも 深く 交わ る︒
黄門 侍郎 の 李嵩 が太 原に 赴く のに 随行し
︑彼 の地 で文 士らと 交わ った
︒ 同二十一年
︵七 三 三
︶
に長安へ戻り
︑ 集賢院集撰となったほか
︑ 中 書 舎 人 を 経 て
︑ 天 宝 三 年
︵ 七 四 四
︶
に は 刑 部 侍 郎 に 至 っ た
︒
や が て 病 で 免 じ
︑ 上 元 元 年
︵ 七 六
○
︶
も し く は 同 二 年
︵ 七 六 一
︶
に没 した
︒蘇
頲
と併称 され
︑顔 真卿 など とも交 友が あっ た︒
集 三 十 巻が あった
とい うが 散逸 した
︒全唐 詩は 一巻 を立 て︑六
○ 首あまりを載せる︒
この 詩は 知人が
遠遊 する のを 送別 したも の︒
その 中で 遠方の 神仙 境に 等し い場 所とし て︑
東海 の天 台山 と南方 の縉 雲驛 を併 挙している︒
︻
︼送周判官往台州
周判官の台州に往くを送る
25
孫逖
☆前集別編
★文苑巻二六七︵送行
︶ ︑全唐詩巻一一八
吾 宗 長 作 賦
吾が宗
長く賦を作す
登 陸 訪 天 台
陸に登りて天台を訪ぬ
星 使 行 看 入
星使 行きて看入り
雲 仙 意 轉 催
雲仙 意轉た催す
飲 冰 攀 璀 璨
冰を飲みて
璀璨