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哲 学 の 根 本 問 題 ( そ の 一 )

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(1)

哲学の根本問題︵その一︶

真理と認識 華教学に至る資料とその考察

︑問題の所在

哲学史上︵近代哲学︶の重要問題にして仏教思想史上の根本問

は︑主観と客観とを︑認識︵ 六根・六識︶と対象︵ 六境︶と

を︑思惟︵一智慧︶と存在︵一法性︶とを︑如何にして1r8S ︵i能

所寂滅︶させるか︑という二項対立の難問である︒

よると︑この難問が克服されないために︑近代の諸科

学は︑白然科学主義も心理学主義も︑歴史意識の反映にして文化状

規定されたものと看倣される懐疑論によって相対主義の悪循環

陥っている︑という︒すなわち個別科学は︑それぞれ自分勝手に

対象に到達する︵観点を定め︶方法を立て︑さまざまの学説を乱立

させてしまう︑故に認識と対象の分裂を一致させ︵保証す︶るため

の︑最も厳密で客観的な基礎づけの方法としての現象学が模索され

較哲μ.ポの根本間.題︹その  ﹇伊藤  なければならない︑という︒

象学︵Phiinonipno1og.i︵ン︶とは︑客観的な世界の像が人間の意

         ヘ  ヘ  ヘ      へ識の中に如何にして現れ出︵目構成され︶て確立されるにいたるか︑      ヘ  へを見ようとする学である︒その方法上の核心は︑﹁世界のありのま

ま︵ カントの云う物自体か?︶﹂は言いあてることはできないが︑

F

ありのまま︵一カントの云う感性・悟性・理性︶﹂は言いあ

ることができる︑という点にある︒

とすれば︑カントの認識論とフッセルの現象学とは︑﹁世界のあ

りのまま︵ 一.一界・ト一.有支︶﹂は﹁意識のありのまま︵ 唯心・

1心︶﹂に即であり依︵止す︶ると見る仏教の唯識説にとって︑比

較の規準となりうるであろう︒すなわち別言すると︑それは真理︵日

対象︶と認識の問題としてである︒

ところで︑真理と認識については︑J・M・ボヘンス︸l−− ︵Bo−

c:heriski︶教授が︑その名著といわれるミ8ΦNミヨ喜ミ08℃ミω合Φさ

L

(2)

f広ぴ.準ヶへ化川祀九﹁析弔..卜六⁚り

Denken 3. Auflage︐ぐeilag Herder ︵國嶋一則・中村友太郎共訳

哲学的思索への道ー.基礎概念の入門 ﹄︑昭和三十八年︑ヘルデル

      代理店・エンデルレ書店︶の巴宗≦㏄ご±︒ご︵真理の章︶LJ︑ ﹇−あ

る命題が真であるためには︑いかなるものに適合しなければならな

 ︵Worauf muB. also ein Satz zutreflon. um wahr zu sein︶﹂

      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ       へと設問して︑事物および真理が内外のいつれにあるかについて︑認

ヘ  ヘ  ヘ  へ

問題として︑左の如く論明する︒

Dies⑦ und tihnliehe BΦdenken habOn zahlieiehO niodei・ne

Denker dazu ver三ら子︒﹇弓言二〇ψε三コ・︹︑古二﹂ehre anzuei︑kennen︐

die erkenntnistheoretischer ldealismus. heif3t. Nach ihr gibt es

zwar Dinge und unbpdingte Wahvhoiten. al︸oi︐alleg. dat istnieht

diaul3en︐ f ondein in dein einen odei andein LSinnc︸ des. Woit・es in

un

s︐ in unsereni Denken°NatUrlich entsteht hier gleich die

Frage︐ wieso wii. noch wahre Siitze und wiikliche Dinge von

f

al

sc

hen Siitzen und reinen Einbildungen unterscheiden k6nnpn.

Daiauf ant.woiten abei die Idealistpn︐ daf3 der I.Inteischied auch

vo

n ihreni Standpunkte ausぐ2︑言え︹三巨゜﹀二つエ弍駕忌︼︑

ei.kennen︐ ist. zNwai pin Erzeugnis unseres Denkens︐ ist in uns: wii.

erz

eugen einige untpi diesen GegっnstAnden na︵.;h ︵;esetzen.

an

deie willkUriic:h°Das war ini wesentli︵hつn die LehrΦ det

gr

oB

en deutschen Philosophen lmmanuel Kant︐

こういった疑くr心が︑現代の多数の思想家をして認識論的観念論

eikonntnisthooretischer Idealis三ワとよばれる1つの哲学説を承

させてきた︒それによると︑確かに事物および無制約の真理はあ

るけれども︑それらはすべて︑外にではなく︑むし・2..口葉のいろい

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へうな意味において我々の内に︑我々の思考のうちにある.もちろん

直ぐにここで︑それではどのようにして我々は︑真なる命題や現実

事物を︑偽なる命題や純粋想像から区別できるのであるか︑とい

う問いが生ずる.︐しかしこれに対して︑観.念論者たちは︑その区別

彼らの見地からも成り立つと答える︑我々が認識する一切は︑確

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

に我々の所産であり︑我々のうちにある.︑けれども我々は︑これ

       ヘ  ヘ  へらの対象のうちあるものは諸法則に従って︑また他のものは任意的

生みだす︒これは根本的には︑ドイツの大哲学者インマヌェル・

カントの学説である..⁝⁝

Et gibt also ziei m6gliche Deutungen der Wahiheit  die

ge.nannte idealistische und dio anderp︐ die nian reatilstisch nennL

      ヘ  ヘ  へ

したがって︑二つの可能なる真理解釈があることになる  ここ

       ヘ  ヘ  ヘ  へ

られた観念論的解釈と︑もう1つの実在論的三三一工ニン・︵己と

呼ばれる解釈とである︑

Nach deni Idealisnius inuf3 nian sagen︐ daf3 die Eikenntnis

s︵hijpferisch ist: sie scha.fil︑ihei Gogenstiinde. Nun ist es

offenbar. da︵3 unser pers6nlicTher. indiべ己已Φ=2︑Ω︹・⌒lanke nui. sehr

(3)

wenig schaffen kann°h6chstens Gedankendinge︐ Einbildungen︐

un

d auch diese bestehOn meiftent aus ElemOnten︐ die nicht neu

geschaffen sondern nur unt.ereinander verbunden sind

       へ     へ

ば︑認識は創造的である︑つまり認識は自己の対象

   ヘ  へを作ると言わなければならない︒︑ところで︑我々の個人的︑個体的

めて僅かのもの︑せいぜい思考物とか想像だけしか作るこ

とができないということは明らかだ︒またこれらもたいていは︑新

しv作られたのではなくて︑ただ相互に結合されただけの諸要素か

ら成り立っている⁝⁝

Deshalb sind die Idealisten gezwungen. ein zweifaches Su︸︶jekt︐

ei

ne

n zweifachen Gedanken︐ ein dop︶eltes Ich anzunehmen:

ein

pr

sei

ts das sozusagen kleine︐ pers6nliche Ich−diesef Ic.h

ne

nnen sie empirig.ch − und ein groBes︐ Ubei︑pers6nliches︐

tr

anszendeniates Icb︐ oder das Ich Uberhaupt. Es ist dieses zweite groBe︐ transzendentale Ie.h︐ welches dio Gegenst銑nde

sc

ha

ff: das kleine empirische Ich kann sie nur so nehmen wie sie

durch das groBe Ich Uberhaupt gpgeben sine°

それゆえに観念論者は︑二重の・.上体︑一.重の思想︑二重の自我を

なけれぱならない︒すなわち︑一方でいわゆる小なる個人的自

ーこの自我を彼らは経験的つ旦︸三乙・︹云とよんでいる1を認

      ヘ  ヘ  へめ︑あわせて大なる超個人的な先験的︷IIIas transzendentales Ich

比較哲学の根本問題︵その.﹂⌒伊藤︶

あるいは自我一般を認めざるをえない︒対象を作るのは︑この第二

なる先験的な自我である︒小なる経験的な自我は︑その対象を

なる自我一般によって与えられているままに受け入れうるの

みである︒

Das alles ist aber. sagen die Gegner︐ die Realisten︐ sehr

pr

oblematiseh und kaum glaubwthrdig. Was soll dieses

tr

anszendentale Ich .gein︐ das eigentlich kein Ich mehr ist︐

welches sozusagen Ut︶er mir schwebt? Ein Unding︐ sagen die

Realisten°So etwas gibt ps gar nicht und ist auch schwer faBbai.°

Dazu kommt noch︐ daB︐ wenn wir unsere Erkenntnis ntiher

betrachten︐ offenbar wird︐ daB wir in ihr Verschiedenes

untereinander kombinieren. verbinden︐ vielleicht. hie und da auch etwas schaffen − aber im groBen und ganzen besteht sie darin︐

da

B wir einen Gegenstand erfassen︐ der sehon in irgendeiner

Weise da ist°besteht°und zwar auBer dpr Erkenntnis°

しかし︑これはすべて極めて疑わしく︑またほとんど信ずるに値

しない︑と反対者である実在論者は言う︒全くもはや自我ではなく︑

わば自我の頭上に漂っているこの先験的な自我とは何であるとい

うのかoそれは非実在︵Unding︶であると実在論者たちは言う︒

ようなものは全く存在せず︑また理解し難い︒その上さらに︑

我々の認識をもっとよく考察するならば︑認識というものは︑我々

       一九

(4)

戊}

lj・

その中でさまざまのものを相互に組合わせ︑結合し︑多分ときに

は︑あるものを作ってもいる ︐がしかし1般的には︑次のようで

あることが明らかになる︒すなわち︑一般的に認識とは︑すでに何

らかの仕方で現にあり︑成り立っており︑しかも認識の外にある対

       ヘ  ヘ  ヘ  へ

を我々が捕捉するということである︒⁝⁝

Eine andet.oン etwas subtilere Echwi︵irigkeit.︐ die 6fteis seitens

dei︑Idoalisten hervorgehoben rird. besteht daiin︐ daB dasjenigq

was erkannt ist︐ in der Erkenntnis sein muB︐ ; also ni︹ht drauBen;

al

sc二く6nne.n wii. von elneni DrauBen gai. ni︵・ht spie︵hen. I︶aiiiuf

antwoi.ten abet die I:lealisten︐ dies sei ein IN︐Iil3vei・t ti.indnis und

Abei.glaube. ix・Ian faBt hipr die Erkenntnis to︐ als ob sie eine

Schachtol wiiie: ein Ding kann nui︐innerhali︶ odoi auf3erhalb der

Sehachtel soin. Nun ist aber die Ei・kenntnis ganz si︵・her keine

Schaehtel. rV・Ian kann sie am besten︐ wie es Edmund Husserl

gpt.an hat︐ einei︐Lichtqueile verglei︵hen: fllt ein Li︵zhtstrahl auf

oin Ding in cler Dunkelheit︐ so it t dieses I︶ing ini Lieht und doch

i

t t es nicht innerhalb der Lichtquelle.

しばしば観念論者の側から挙げられるもう1つのやや一層妙な困

       ヘ  ヘ  へ難は︑認識されたものが認識のうちにあらねばならない︑したがっ

外にはない︑ということにある︒したがって我々は︑外なるもの

は全く云々することができない.︑しかし︑これに対して実 るかである︒けれども認識は︑最もよくは︑エドムント・フッセル だその︵認識という︶箱の内部にあるか︑さもなければ外部にあ まるでつの箱であるかのように捉えられている︒ある事物は︑た 在論者は︑これは誤解であり︑迷信であると答える︒ここで認識は︑

ように︑ 一つの光波にたとえることができる︒すなわち︑一すじ

光線が暗黒の中にある1つの事物に当たる場合︑この事物は︑光

中にある︵ー識くごヨコエのrCx evaが色等呂︻︶︒鋤合として似現

pr

ati

bh

as a

る?︶けれども︑光波︵ド識く言ぎ㏄?︶の内部に

はないのである︒

以上を要約し図式化︵して仏教思想における通説↓般論としての

識論2︹9−くごコ昌午芸二︹出ないし唯識説ぺこコ2︶﹇丁日餌言甲べ豊①にお

ける概念用語を対照︶すると︑第.図となる︒

ところで観念論と実在論との間の論争は︑認識の見解に関する論

       ヘ  ヘ  ヘ  へ

ある︒つまり認識は︑対象を作ること︵㏄︵5託冷白︶にあるか︑

      ヘ  ヘ  ヘ  へ     へそれとも捕捉すること︵国﹁hw三工︹5︶にあるかである︒︵O零m言2﹇

zwischen dpm Idoalismus und dom Realismus ist nun ein Streit

Ub

er die Autfassung der Erkenntnis: Besteht sie in einem

tSchaffeR odei. in einem Er.fa.ssen des Gegenstandes?︶

   ヘ  ヘ  へ

人間の認識を︑対象を捕捉することとしてか︑さもなけれ

(5)

作ることとして理解しなければならない︒あらゆる折衷的解釈は

る︒そこでまた何よりもまず︑我々は外界に諸々の形態や光

波をもっているけれども︑色彩をもってはいないとするところの︑

常の解決も偽である︒だから一般に外界などありはせず︑我々の

神が一切を作ると言うが︑さもなければ逆に︑精神は内容の結合

何ものも作ることなく︑我々が認識する一切のものは︑何ら

仕方で精神の外になければならない︑とTlr口わなければならない.︐一

Man muB die ganze menschliche Erkennt.nig. entweder als ein

Erfassen oder als ein Schaffen des Gegenstandes verstehen. Jedo

KompromiB16sung ist falsch° So auch unter anderen jene

l

andltiufige︐ nacth welcher wir in der AuBenwOlt wohl Gest︐alt︐en

un

d Lichtwつllen︐ aber kein勺 Farben h酷tten°Man muB pntwつder sagen︐ daB es Uberhaupt keine AuBenwelt gibt und daB unser

Geist alles schafft︐︐ odor im Geg−enteil︐ daB er nichts schafft auB

er der Kombinationvon Inhalten und daB alles︐ was wir erkennen︐ in irgencleiner Weise auBer. dem Geistぐorhanden sein

muB.︶

を要約し図式化︵し仏教思想における通説としての心識論に

おける概念用語を対照︶すると︑第二図となる︒

較哲学の根本問題︹その ︺⌒伊藤﹁

Entschつidet man sich fur die idealistische L6sung︐ dann hat

man mit wahrlieh ungehOuren Echwierigqkeiten zu k鍵mpfen. Es

i

st vipl bet ser −r so sagen die RealistOn rsich an die erste

Meinung zu halten︐ und dies um so mehr︐ als sie die Natur der

ErkOnntnis best Or wiederzugeben scheint.

的解釈を正しいと決めるときには︑まことに莫大な困難と

闘わなければならない︒白分たちのもともとの意見に留まっている

方がはるかによい︑それが認識の本性を比較的よく再現すると見え

るだけに尚更そうである︑と実在論者たちは言う︒

Freilich hat auch die realistische Auffassung ihre gro6en

ωchwierigkeiten. Eine habe ich schon genannt − es ist die

Schwierigkeit︐ die aus der wissenschaftlich belegtつn Tatsache

st

ammt︐ da㈱ es in der Welt keine FarbOn zu geben scheint. Es sieht hier so aus︐ als ol﹈ wir︐ wonigstens in diesem Falle︐ durch

un

se

re Erkenntnis etwas geschaffen hiitten: die FarbOn. Wir

m6gen an Hand dieser Schwierigkeit sehen︐ was die ROalisten zu

antwoi+t勺n haben.

もちろん実在論の見解にも︑大きな困難がある︒その一つを私は

述べた. それは︑科学的に証明された事実に基づく困

あり︑世界には色彩がないように思われるということである︒

ここで我々は︑少なくともこの場合に︑我々の認識によって何かを︑

(6)

・占

{lt;

k

J...

t

すなわち色彩を作り出したかのように思われる︒我々は︑この困難

照らして︑実在論者たちが何と答えるかを見たいと思う.︑

Sie sagen dazu ein zweifaches. Erstens︐ sagen sio︐ darf man die

Grenze zwisc.hen dem Erkennenden und der AuBenwelt nicht an

de r nient chlichpn Haut anlegen. Sie liegt vielmohr d︵︶rt w︵︶ der

Ubergqang zwischen den phy. sisc.hen und den pg︐ ychischen

VOI︑gtingen zustande kommt. Was der Geist auffaB.t sind die

Ereignisso︐ so wie sie sieh im Oiganismus zoig3n. Tragen wir

rote Brillen︐ dann sehen wir die grUnen Gegenstgndo schwarz

jed

oc

h wird nieniand behaupten︐ daB wii︑ diese schwa・ze F︐arbe

ud

rc

h unt ere Erkenntnis gescha︵fen haben r im Gegenteil︐ sie

i

st j

a da als Ergpbnis der Wirkung der Brillen. Ahnlich ist es mit

den Augen.

それに対して彼らは︑一.重のことを111:□つO第一に︑認識者と外界

との境界を人間の皮膚に置いてはならない︑と彼らは言う︒むしろ

界は︑物理的過程と心理的過程との間の移行が成り立つところに

ある︒精神が把握するものは︑有機体の中で現われるような出来事

ある︒赤色の眼鏡をかける場合には︑我々は緑色の対象を黒色と

る.けれども誰も︑我々がこの黒い色彩を我々の認識によって

作ったのであるとは・工張しない  反対にそれは︑実際そこに眼鏡

きの結果としてある︒同様のことが︑目についてもいえる︒

Die Realisten sagen zweitens︐ daB wir in sehr vieien Fiillen

nicht die Dinge in g. ich selbsL sondei−n auf uns ivirk.end erfassen︐

al so etfassen wir clann das ivJ2rhiiltnis zwischen den Dingqen und

un

s2rpm K6i.per. So zum Beispiel. wenn wir die recrhte Hand in

hei

Bps dip linke in kaltes Wast er tauchen︐ dann a︶or beide in

l

auwai・mos. Wii fUhlpn dann Kiilte in der rechten︐ Wtirme in der

li

nken Hancl. Das ist klai.−− tagpn dip Realiston. Dc﹈nn unser

Temperatursinn erfaBt den Unterschied zwis︵.hen der Tempe−

ra

tui dpr Haut in einpm gogebpnen Glied dps K6rpers und der

Au一IS勺nwつlt. Diつser Sinn へ﹀ベミCt ab勺l. und schafft gai︑ nicht diΦ

Temporatur°Sie ist gegeben°

在論者たちは第二に︑我々は極めて多くの場合に︑事物をそれ

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ     へ自体においてではなく︑我々に作用しているものとして捕捉する︑

まり︑その場合我々は︑事物と我々の身体との間の関係を捕捉す

るのである︑−V 1111rr ︐つ︒そこでたとえば︑右手を熱い湯に︑左手を冷

水に浸して︑それから両方をなまぬるい湯に入れるとする︒そ

合我々は︑右手には冷たさ︑左手には温かさを感じる︒これは

明らかである︑と実在論者たちはilr:う︒なぜなら我々の温度感覚は︑

身体の所定の肢体の皮膚と外界との温度の差異を捕捉するから︒し

       ヘ  ヘ  ヘ  へ

しこの感覚は︑温度を捕捉するのであって︑決して作るのではな

        ヘ  ヘ  ヘ  へい︒温度は︑与えられているのである︒

(7)

 Ich habe mich sel︸︶st vor tJahren nach schwerem Ringen ftir

den Realismus entschieden︐ und je mehr ich darUber nachdenke︐

de sto mohr bin ich Uberzeugt︐ diese Auffassung der Wahrheit sei

dio richtigo.

私白身は︑数年前にきびしい努力の後に︑実在論を選ぷことに決

が︑熟考すればするほど真理についてのこの見解こそが正

しいものであるという確信を深めている︒

以上を要約し図式化︵し仏教思想の心識論における概念用語を対

照︶すると︑第三図となる︒

第一図

l

ww El解釈ご・三三号一⁚匡・匡﹂

観念論的︵

         ヘ  へ ある 認識するI切は我々の所産である とは自己の対象を作るということである

⁝事物および真理は内弐のいずれ垣る竺

麸摺観八儒による︶解釈丁事物は︵思考の︶

識は創造的である

認内識に

l方で︑小なる個人的で経験的な自我︵ L転識工三三7三.二三︑.

三ー三コ竺三?︶を認め︑

あわせて︵対象を作る︶大なる超個人的で先験的な自我︵ 自我

 阿頼耶識コ言ξ−二言鋤=︵﹈?︶を認めざるを得ない.

・すなわち経験的な自我はその対象を先験的な自我によって与え

られるままに受け入れるのみ.︵カント︶

哲学の根本問題︵その 一︹伊藤︶ とは認識の外にある対象を我々が捕捉するということである.        ヘ  ヘ  ヘ  へ 更掬論蜘︵!霞論的矧在論による雇酬二事物は外にある認識

なわち先験的自我は非実在である

E

は光の中にある︵ 識三言鋤o=のV︿︸ OV︸1が色等︼.三︶ゴ三として

似現三三一三5凱二する?︶けれども︑光波︵ 識?︶の内部にはない.

ル︶

第二図

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 ︐ dos. Gefen s!i︳d ei ︶にある口

精神二.三工こは内容の結合以外に何ものも作ることなく︵ 認 識・思考は新しく作られたものではなく相互に結合されたたけの 諸要素から成り:Sっている 十一一因縁分皆依一心芭三∋⊃巳

dv

d

aS

a bhavinhgt−mi⁝t?−my al︶i stllzヨご.︵・≦;言三︑二〜−差ヨ勢

 一.ご鋤三 世俗諦竺己二︑ご品巴γ.エ?︶我々が認識する一切のものは

    精神の外になければならない.

1

(8)

第三図 法華文化研究二26︑.卜六⁚亘

明するために莫大な困難を.要する.

 ︵科学的に証明された事実として︶世界には色彩二温

 度感覚︶がない  認識へ識二三コ﹇三?︶によって何

       ヘ  ヘ  ヘ  へ か色彩︵・温度感覚︶を作り出す︵ 似現一︶三三三9二

 する?︶.

夏在論二認識の本性を比較的よく再現する.

 認識者と外界との境界は物理的過程︵ 有機体 色境

口︸三−三ぱ二竺戸:眼b cak¥uh.−indiiya?の中て現れる出

来事︶と心理的過程︹ 精神か把握するもの 眼識

ea

skuivijfi︸lluL?︶との間の移行が成り立つところ︹

     意識?︶にある.

色の対象︵ 色境?︶か赤色の眼鏡によって黒色に見

えるのは眼鏡︵ 眼根?︶の働き︵ 眼識?﹀の結果︵

識二三︼︺C三言三三?︶としててある.

       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

事物をそれ自体としてではなく我々に作用しているもの

      へ  ︵ 事物・外界 触境?と我々の身体・皮膚 身根?と  の関係・温度の差異たる感覚 身識?︶として捕捉︵

     音︹識?︶する. とに大別する対応軌軸を要すると思う︒

しからは仏教の諸思想︵ことに法華教学︶における真理と認識の

根拠となる心識説︵ピ9−eご呂9弓庁○己m巨は︑果して観念論と実

在論とのいずれに相当するものなのであろうか..あるいは別の何も

なのであろうか.︑このことについて︑西洋哲学の諸体系と比較 ることによって︑以下に追究し明証したいと思う︒

1︶コざONミ︑〜︑ミO旨﹀ミ旨︑酎§G§キ§二p°46−p°US日本語訳六

 一︑1七九頁︒

2︶・︵3︶拙著﹃華厳菩薩道の基礎的研究﹄︵昭和六十三年︑.平

楽寺書店︶七二五 七八五頁︒

11︑大陸合理論と仏教諸思想︵ことに五梧説︶との対比 なお別言するに︑観念論には主観的︵subjeet㌔iNTe︶と客 di的 ︵ob−

jective︶ =批判的︵ζ一ご゜︒合勺ことの別あり︑実在論には素朴実在 と反省的実在論と科学的実在論との別もあり.

哲学は存在論︵○巳○言巴つ︶と認識Se︳ ︵Erkenntnislehi+e︶

西洋における近代哲学の時代は哲学が最も充実した時節である︒

世界観が神中心より人間中心に転向し︑英国側と大陸側とで独白の

想が相互に影響しあって展開したからである.︑すなわち学問は実

用的であるべしとするベーコンと数学に学んで合理を求めたデカル

(9)

トから出発する︒デカルトの設定したコギトと客観世界の二元論の 図はスピノザやライブ﹇Iッツがこれを継受し修正してゆく︒ロッ

クはホッブス独白の社会契約説を受けて更に白紙として生れる経験

を主張する︒この発想をバークリ−やヒュームが継受して徹底化

を計る︒それはまたフランスのルソ−によって啓蒙思想として展開

される︒.しかもカントは経験論と合理論を批判し綜合してドイツに

的観念論を樹立するからである.︑

よって︑先ず概要をスケッチしておこう︒

カルトは自分のうちなる理性こそが学問の絶対的な基礎となり

うるとする︒数学の解析法を一般化して︑形而上学を根とし︑自然

学を幹とし︑医学・道徳・機械︵工学︶を枝として︑諸学を統1し

て一体系にまとめあげようともする︒根となる形而上学の更なる基

として︑神の存在は法則に従って相互関連する自然の中に如何に

位置するのかを解決するために︑方法的懐疑という方法を採用する︒

すなわち人間を欺くものとして先ず外部的感覚を次に内部的感覚を

排除する︒更に欺く神が存在するとの仮定にもとついて生得的なる

学的観念をも否定する︒最後に一切を懐疑している自分は残る︒

なわち神が欺く存在だとしても︑その対象である私は存在してい

なければならぬとして︑コギト・エルゴ・スムという命題を得る︒

これに対して︑パスカルは人間を宇宙と神との間に位置づけ︑無

限と無との深淵の間を漂う不安定な中間者としてのみ存在する︑と

較哲学の根本問題;ての  ﹁伊・膝︸ 中間の姿だけであるのに︑デカルトはその限界を踏み越えようとし する︒人間が知りうるのは無から無限までの事象系列の中で︑その

点で傲慢にして誤謬である︒人間は広大な宇宙に比較すると一本

葦にすぎない︒しかしその思考は宇宙を対象として包むし︑自分

悲惨であることを知っている点で偉大である︒よって人間は中間

あるからこそ︑有限の範囲の彼岸に無限者としての神を想定せ

ざるを得ない︒これは理性の解明するところではない︒信仰による

ことを主張する︒

ピノザは人間を物体と精神との二つの異なる実体にまたがる存

とするパスカルの所見に反対する︒実体とはそれ自身で存在し考

えうるもの︵11他のものに依存しない自己原因︶であるから︑実体

複数あると見るのは︑白分以外のものに依存しないという実体の

定義に矛盾する︒神を万物の創造主とすると︑被造物の自然界と創

造主の神との二重の実体が存在することになって矛盾をきたす︒故

神は自然界の外部にある原因ではなく︑神11自然︵h精神・物体︶

と見なければならない︒すなわち神は思惟するものでもあり延長す

るものでもある︒相互に独立する思惟︵精神︶と延長︵物体︶とは

二つの属性として神という実体の本質を表現する︒二つは同一の秩

序の二側面である︵11物心平行論︶という︒自己原因である神は産

出する自然︵ー統一性・無限性において見られた神︶でもあり産出

された自然︵11多様性・有限性において見られた神︶でもある︒神

11

(10)

法華文化研究︹第...十六号一

とはこの自然界の姿である︑では人間とは何か︑人間を動かす感情

は︑自在力の表われである欲望︑その力の増大である喜び︑その

逆である悲しみの二︑つがある︑喜びを生む対象である善に愛を感じ

しみを生む対象である悪に憎を抱く︒欲望が感情に左右されすき

ると悪を生むから理性を正しくはたらかせることを要する︑という︑

これに対してライプニッツは︑実体についてデカルトの云う﹁存

在するのに白分以外を必要としない﹂︑スピノザの云う﹁他のもの

依存しない自己原因﹂という﹁それ白身で存在するもの﹂とする

定義に最もふさわしいもの︑それは︑もはや物体的には考えられな

として︑﹁それ自身で行為する能動的存在﹂と捉えて︑﹁真の一な

るもの﹂︑モナドと呼称する.この自然界は単純な実体で部分をも

ことなく︑結合・分離によって生成・消滅することもなく︑神以

外の他のモナドの影響を受けることのない︑無数のモナドの全体と

して存在する︒すなわち無数のモナドは全体として途切れることの

ない系列をなしており︑モナドのモナドとして︑その頂点が神であ

る︒モナド相互間の諸関係は神の予定調和のうちにあって神の意志

として最善の世界である︒人間は被創造物で欠如ある不完全

な存在なので罪を犯すが︑悔い改めれば神から許される︑とする..

カルトの二元論︑スピノザの一元論に続いて︑ライプニッツの

多元論が提示されたのであるo

クはデカルトが生得観A︐心の存在として神の観念を容認したこ

とに疑問を抱き暗に神の存在を否定する︒知性は生まれたてには

    ロ ひ白紙であり︑それに経験を積む中で様々の知識が書きこまれるとす

る経験論を創始する︑経験は外界の観察と心の内省となる..経験の

意識が捉える対象が観念である︒人は観察によって単純な観

を︑内省によって複合的に組み合わせて反省的概念を︑その繰り

しによって高度な複合観念や様々の知識を︑それ乙︑れ形成する︑

とする︒また物の性質を人の知覚と関係なく物に具わる固有の一次性質︵‖

大きさや数︑形や空間的位置なと︶と人に知覚されて初めて認識さ

れる1i次性質︵:色や匂いなど直接的に知覚されるものと︑人が働

きかけるときに物が発揮する力とに区分される︶とに区別し︑物に

含まれているこれらの性質と︑これらをもとに意識の中に形成され

諸観念とは無関係である︑と主張する︒

これに対して︑バークリーは物があるとは経験的に知覚されるこ

とであるとして︑ロックのいう﹁.性質を否定して︑知覚作用を営む

精神の存在こそが根源的な実在であるとして︑デカルトの生得観A︐心

論を支持するtt

ヒュ.ムはロックの思想を継承して︑経験において先ず心に現わ

れるのは印象であり︑それが繰り返されて観念が生まれる..観念は

る印象をもつが︑印象どうしには因果関係はない.︒観A︐心が連

合して知識となる自我とは瞬間的な知覚の束にすぎない.︒よって︑

(11)

なる日常的な知識も確実性をもたない︒そうであろうとの推測

出ない︒知識の原因は想像力に求められる︒想像は一定の条

と法則のもとでは︑およそのところたしかと思われる観念を生む︑

という︒

カルトによる学の数学化を受けて自然自体を科学的に理解する

可能性が啓かれた︒しかし果して白然現象を説明する法則と白然自

体のメカニズムとは同視されうるのであろうか︒

は︑認識は経験から始まるとして︑経験を超える神や魂

体的存在を否定する︒如何なる作用にも原因があるという因果

律も主観的信念であるから客観的妥当性をもたない︑と断定する︒

ここにあってカントは自然科学的認識の可能性を保証しようとす

る︒理性による自然認識を確実な事実と看倣すことから始める︒世

界は人間と無関係にあるのではない︒人間の理性によって成立して

る︒人間から独立して存在する対象を理性が認識するのではなく

して︑人間が認識して初めて対象は対象として出現する︒認識が対

象にではなく対象が認識に準拠する︒すなわち人間には認識能力と

      して固有の先天的な直観の形式と判断の形式とがあり︑それに従っ

象を認識し世界を構成する︒その世界は世界そのもの ︵=物自

体︶と区別されて現象と呼ぶ︒それは人間が無から何かを作り上げ

るという意味ではない︒知覚を通して入って来る雑多な情報を感性・

性・理性で整理し秩序だてることで初めて対象として姿を現わし

学の根本問題︵その.︶︵伊藤︶

識するということである︒しかし情報のもとになった対象そのも

識を超えた物自体であって知りえない︒人間は快不快の感情

右され自己愛にもとつく幸福の原理に従って自然科学的な法則

に則って行為する生物である︒しかし人間はかくすべしとする当為

形式として道徳律を意識する自然の因果律に拘束されない意志の

自由をもつ︑という︒

      /

・スカル

、.ξヨ吉}

フランシス・ベーコン

tデカルド〈

              1  スピノザ

●︑

ご二、                                   

1

2t A−.

ジャン・ジャックールソー,ノ 批判 綜合

、 カント

i!−tll

カントの認識論的観念論・客観的観念論︵09Φo吟一くΦ己Φ①=ωヨ︶・

判的wa︿r・IS︐K ︵kritischer ldealismus︶は︑大陸合理論と英国経験

とを総合する︒よって︑カント哲学を見るに先行して︑英国経験

J

(12)

W山姫い文化酊川究 ︹肋娼..f−ハ:b

∋三巳6涜∋︶の展開を参考にしなけれはならない︒これにつ

て︑ボヘンスキ−に要論を見出しえないのて︑桂壽一博七の﹃哲

学概説﹂の略説等を取要し︑本出修郎博十の﹃図説哲学入門﹄二

年︑理想社︶より図解を改造して転載し︑私見を付して参考

付す︒

英国経験論︵Φ日﹈巨巳゜・日︶はデカルト・スピノザ・ライプニッツ

等の大陸合理論︵rationalism︶に対する..

合理論は感覚的な知識に頼らず専ら理性的認識に訴える︒いわゆ

る理性論︵rationalism︶である︒よって︑先ず大陸合理論を見る︒

その代表者はルネ・デカルト︵完呂つごつコ・8﹁宕め一五九六 一六

〇︶である︒その合理論は﹃第一哲学省察﹂︵ミミ↑ミミ§箋§

I︶rima Phitosophia︐ 1641︶によると︑左の如くなる.︑

ω ︵第一省察︶感性的知覚および感覚的事物も︑数学的真理も一

を疑うことができる︒確実な認識は感覚にではなく理性に求め

るべきである︒

 ︵第二省察︶しかし思惟し疑う我の存在は確実にして疑いえな

いo r我思惟す︑故に我在り︵︵.︵︶gito e﹈go sum︶﹂という命題こ そ︑確実な基礎である︒これを範型として︵他概八︐心との区別が︶

 明晰かつ︵概念の諸性質が︶判明︵︹言5箕合゜・巨︵・︹o︶に知られ

ものが真である︒﹁我は︵心的諸作用をなす︶思惟者である

 ︵oc已己﹁雰︵・⌒︶巴5蒙︶﹂という意識も不可疑である.︑物体︵8下

 I︶Us︶も感性によってではなく思惟者としての我のljg神 ︵mens=

 知性または理性︶によって知られる.︑

 ︵第一二省察︶Nasu ︵cogitaio︶は像を表す︒それを観念︵己完︶

 と呼ぷ.︒起源より見て本有的・外来的・自ら作れるもの︵架空的︶

ありe人間は自分を有限で不完全なものと自覚し︑本来無

限で完全なものに関する観念をポより有っている︒よって直接由

 来する︒かかる真実・不変・永遠なる本質︵神・心・物体など︶

を表す観念を我︵ー精神︶の本性たる理性に直接由来する本有観

三︵・︵二三さε生得観念︶と称するc

1理性≡ご︵こは本有的に神の観念を有つ︒我︵11理性︶

内実在性︵realitas objc︸︷tiva︶を有つ以上︑その原

因として実在する神を認めざるをえない︒すなわち︵大前提︶最

 も完全なものは︵観念11︶自rL﹈ e中にその存在の根拠を含む︑

 ︵小前提︶神は最も完全なものである︑︵結論︶神は自己原因とし

存在する︒神の観念には︑その原因として実在する神が必然的

存在する︒

 神の無限に対して︑思惟を本質的属性とする精神︵∋つ⇒乙と

長を本質的属性とする物体︵つe.一︶緩︶とが..つの実体

 ︵substantia︶として相旦に独立して存在する︵日合芝冨日物心

 .1元論と︑思惟の︵とる偶然的な性質である︶様態は表象・意志・

(13)

判断などであり︑延長の様態は位置・形状・運動などである︒

中︑我11思惟者11精神とは︑仏教の唯識説︵<ご51eご−

mAtra−ぐada︶で云う︑意根︵己餌忌コ巳三吉︶を所依として法境

dha

rma−visaya︶を認識・推理・追想する第六識の意識︵∋きO−

vijfiFina︶ =kas!lM︐f−. ︵vastu−prativikalpa−v言雪巴と︑我︵鋤葺7

an︶なり我所︵Atmlya︶なりと執着︵m蚕︸ρ巴し思量する︵ヘヨき︶

      ま  な しき

M{ ︵manas︶であり︑自我意識である第七識の末rame ︵klimta

       てら まmano nama vijrtAna染汚意と名ける識︶も︑それに相当する︒

識︶頒﹄五偶には﹁vfi ︵==阿頼耶識巴昌甲く°︶に 存して起り︑それを所縁とするものが︑意と名けられる識であっ

て︑思量を自性︵.自体︶とするものである︵9宇鋤没二さ二当干

va

rtate tad−Alambanam mano nAma vijiiAnam mananAtmakam

    ぜ      ヂて  ツロ   びて

\)

とあり︑末那識は第八識を習気の所依︵ぐ翌︹巨鋤9.三︑こ

として起り︑かつそれを所縁として恒に我執︵巴日警巨三≦姶︶を

起すものである︑と知られる︒

中︑本有観念とは︑唯識説の﹃唯識一︑一卜頒釈﹂に﹁一切法を しめる可能力を有するから一切のものの種子である︵°・鶴ぐ午

dh

arm6tpAdana−Sakty−anugamfit saiva−<l.iam︶﹂といわれる阿頼       ヘ  へ 婁午ぐijfifina︶に相当するであろう.︑

*西洋哲学史では︑本有観念の如きものがもとになって他の観念

比較哲学の根本問題︵その. 一伊藤 

きるという考え方を理性論︵盃±oコ①=︒∋︶という︒

中︑理性︵田巳○︶の有つ本有観念のうち最大の観念内実在

原因として実在する神︶とは︑阿摩羅識︵㏄ヨ巴㌣eご目目︶

相当するであろう︒如来蔵思想で云う如来蔵︵宮巨鋼m①冨φ笛﹃11

bha︶自性−krsltk ︵praki:ti−pariSuddha−citta︐ pralqti−prabhfisva−

ra

t︐−a−darSana−citta︶︑華厳教学で云う第一義︵諦自性︶清浄心11

第一義諦・仏性︵buddha−dh飽tu︶・自体空・出纏如来蔵なる一心

も相当するであろう︒

精神と物体との二つの実体︵いわゆrQlllRsci dualism︶は︑

うpai$ ︵pafica−skandha︶ g¢U﹈ ︵rapa︶・受︵く︒合畠︶・

      へ S{ ︵sarpjfia︶.行︵め①日防冨8︶・識︵<ご謡塁︶の中︑色法・心法

ci

tta−dharma=受・想・行・識︶の色心二法に相当する︒また

磨倶舎論﹂に見る五位七十五法の中︑色法︵11五根・五境・

表色︶と心法︵11心王︶・心所有法︵11大地法・大善地法・大煩

悩地法・大不善地法・小煩悩地法・不定地法︶とに相当するであろ

う︒

カルトの場合には︑物体と精神が独立の実体だとすると︑物体

身体と精神の心とが相互交渉するのを如何に説明するかという身

問題︵いわゆるエリ−ザベート王女の難問︶が残る︒

カルトの答えて云く︑F心と身体とは頭の中の松果線に蓄積さ

(14)

      法華文化研究⌒第..ー六り・

れた動物精気を通して影響しあって情△︐心を起す﹂と.

 オランダのゲーリンクス︵﹀°︵言已=己︹×一六二五 一六六九︶は︑

身体の働きを機会として精神を︑精神の働きを機会として身体を︑

対応するように変化を起こす作用因は神に外ならないとする機会

原︶因msi ︵occasionalism︶を説く︑

ランスのマルブランシュ︵Z° de Malebianehe 1:︵11!八−1

七一五︶は︑−神は人間の精神の場所であり︑物体︵身体︶の本質

も神のうちに観念化された英知的延長︵si tendue intelligible︶とし

含まれているから︑精神と身体との相互作用も神の無限なる表象

ある限定として人間の精神に与えられる﹂と説く︒すなわち理性

的認識はプラトンUアウグスティヌス的な観念︵イデア︶によって

れるとする︒﹁認識は神のうちに見ること︵≦°・5ゴΦ︼二︶﹇2︶

ある﹂とも説く︑.

この︑いわゆる身心問題に対しては︑仏教においては︑有情数縁

起である十↓.有支縁起観中︑有支の相続︵σ︸5<芦●︼≡£目︵﹂巨︶

と称する縁起観に﹁識と共︵ 倶︑︶生する四取緬︵11色・受・想・

行︶が名色である︵<ご雪ξ±告已勢︵・巴岳這ξ飼旨︼声Sコ・古出己言

ll

Flnla−r﹇lpan!︶O名色の増長が六処である︵ロ鋤日午呂冨−己≦︑︵三ゴ巨 $iic.1−Ayatanani︶︑有漏なる根と境と識との一二の和︿﹇が触である

i

nd

yria−vi$aya−之ijiniAna−t vaya−t amavadhAnarp sa−sra之日﹀エ︼︾三︑r

ha

々とあるのをもってすれば︑解答となろう︒

なわち識︵1ーデカルトの精神の心にあたる︶と受・想・行︵11 神の作用︶・色︵ 物体の身体にあたる︶との相互依存関係︵−

」・芦どoU言三⊃・一︶三︑〜ズ豪莞︶︑根︵デカルトの物体の身体にあ

たる︶・境︵物体にあたる︶・識︵精神の心にあたる︶の共存・同時

生起・相互依存性︵すなわち縁起︶が︑簡明な命題をもって︑デカ

トにおける難問を解決していると云えよう︒

身心問題の困難性は精神・物体の一.元論にある︒これを克服する

ために︑スピノザ︵コ三︑ueh de Spinoza 1六三二 七七︶はユダヤ・

キリスト教的な神観を離れて異教的な汎神論︵冨巨三゜︒己︶をもっ

る一元論に徹する.︑

著工thカ ︵E︑ミつSミミミ込︹ミ︑芯﹁ミ8へSミミ乏さへ忘︶によ

ると︑神のみが自rjg6因 ︵causa sui︶として︑その存在の根拠を

内にもち︑ 一切の事象の原因として︑一切の結果を内にもつ内在因

る唯一のSI︿体 ︵g. ubst︐antia︶である︒

よって︑精神と物体︵ー身体︶は実体ではなく神の異なる両

面であり︑思惟と延長は神のもつ多くの属性中の11つである..故に

身心問題に対しては物心平行論︵﹇︶艶臣二勺言ヨ︶をもってする..

参照

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