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人権の戦後史 : 1950年代の静岡県を中心に (田中 克志先生退職記念号)

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(1)

人権の戦後史 : 1950年代の静岡県を中心に (田中 克志先生退職記念号)

著者 橋本 誠一

雑誌名 静岡法務雑誌

6

ページ 3‑25

発行年 2014‑03‑31

出版者 静岡大学法科大学院

URL http://doi.org/10.14945/00007821

(2)

■ 論

人権 の戦後史‑1950年代の静岡県 を中心 に一

目 次

は じめに

 

戦後の人権状況―刑事司法 を中心 に

 

人権擁護行政一人権侵犯事件を中心に

 

人権啓発行政―静岡県の広報活動を中心 に

おわ りに

I  

は じめに

日本国憲法 の制定 (1946年11月 3日 公布)によって、戦後の日本国家 は、一人ひと りの国民を個人 として尊重す るとい う個人主義 (indi宙dualism)を基底 に、 自由主 (liberalism)と 民主主義 〈

demOcracy)を

理念 的支柱 とす る国家へ と再編 され

(1)。

本稿 の主題 に関 して言えば、憲法第3章で保障 され る基本的人権 は、個人主 義、 自由主義、民主主義 とい う理念的諸価値を個別 に具体化 した ものということがで

きる

(2)。

ところで、人権 という理念がある国に定着 したというためには、国家組織が人権理 念を基軸 として組織・ 運用 され るだけでな く、国民が人権 の政治的 。法的価値を受容 し、現実生活の場 においてその価値の実現を日常的に追求す ることが必要であろう。

イェー リング (Rudolf von Jhering,1818〜 1892)の 言い方を借用すれば、 ここでは

「 権利のための闘争」を行 うことが国民一人 ひとりの倫理的義務 として要求 される

(3)。

(1)この点 については、 とくにラー トブル フ著・ 碧海純一訳『法学入門 (ラー トブル フ著作集 3巻

)』

東京大学 出版会、1961年17頁以下、を参照。

(2)人権概念 の歴史 について は、高柳信一「近代国家 にお ける基本的人権」(東京大学社会科 学研究所編『基本的人権』第

1(総

)、

東京大学出版会、1968年、所収

)、

リン・ ハ ン ト 著・ 松浦義弘訳『人権 を創造す る』(岩波書店、2011年

)参

照。

(3)イ ェー リング著・ 村上淳一訳『権利のための闘争』岩波書店、1982年

(3)

静岡法務雑誌 第 6号 (2014年 3月

)

筆者の関心 は、憲法制定か ら60年余の時間を経て、人権 とい う理念がはた して前述 のような意味で地域社会のなかに定着 したのか という問題を歴史実証的に考察す るこ とにある。本稿 はその作業の第一着手 として、静岡県 という地域社会について、そ し てお もに戦後間 もない1950年代 までの時期を対象 に考察 しようとするものである。

そこで本稿 は、具体的に以下の問題を取 り上 げる。第一 に、後述するように、1950 年代 までの人権問題の中心 は刑事被告人等 に対する人権侵害であったことか ら、当時、

当該人権侵害を くり返 し発生 させていた構造的要因について考察する。第二 に、新憲 法の下で開始 された人権擁護行政に着 目し、被害者の救済 と国民への人権啓発を任務 とす る人権擁護行政の実態を可能な限 り明 らかに し、その問題点 について考える。そ して最後 に、以上の考察を踏 まえ、60年代以降への展望 と今後の課題 について言及 し たい。

 

戦後の人権状況―刑事司法を中心 に

旧刑事訴訟法 〈大正刑事訴訟法)の改正

刑事司法 における戦後改革 は、新憲法施行 のを目前 に控えた1947(昭22)年 4月

19日「 日本国憲法の施行に伴 う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律」(法律第76号 以下、「 応急措置法」 という。)によって開始 された (同5月 3日 施行

)(5)。

6)

いうまで もな く、戦前 にも大 日本帝国憲法 (1889年 2月11日公布)が「臣民の権利」

を定 め、「 日本臣民ハ法律二依ルニ非スシテ逮捕監禁審問虎罰 ヲ受 クルコ トナシ」(第 23条

)、

「 日本臣民ハ法律二定 メタル場合 ヲ除ク外其 ノ許諾ナクシテ住所 二侵入 セラレ 及捜索セ ラル ヽコ トナ シ」(第25条)などの規定を設 けていた。 その限 りで近代憲法

として最低限の (国民の権利 。自由を保障す るために国家権力を制限す るという)体

裁を備えていた。 しか し、 これ らの憲法規定を具体化すべ き法律 ― いわゆる大正刑 事訴訟法 (1922年 5月 5日 法律第75号)一の もとで被疑者・ 被告人の人権侵害が 日常

戦後憲法史については、渡辺治『 日本国憲法「改正」史』(日本評論社、1987年

)、

杉原泰 雄ほか編『 日本国憲法史年表』(勁草書房、1998年)を参照。

司法制度の戦後改革については、東京大学社会科学研究所編『戦後改革』4〔司法改革〕

(東京大学出版会、1975年

)、

A・ オプラー著

/内

藤頼博監

/納

屋廣美・高地茂世訳『 日本 占領 と法制改革』(日本評論社、1990年)などを、また警察制度の戦後改革については、

星野安二郎「警察制度の改革」(東京大学社会科学研究所編『戦後改革』3〔政治過程〕 東京大学出版会、1974年

)、

広中俊雄『警備公安警察の研究』(岩波書店、1973年

)、

大日 方純夫「近代 日本の警察と地域社会』(筑摩書房、2000年)340頁以下、などを参照。

応急措置法公布当日の4月19日、人権蹂躙の温床ともいうべき違警罪即決例が廃止された。

(4)

的 に横行 して いた ことは周知 の通 りであ る

(7)。

そ こで前述 の応急措置法 は、大正刑訴法 を 日本国憲法の趣 旨に適合す るよ うに解釈 す る ことを裁判官 らに義務 づ けるとともに、 お もに以下 のよ うな応急的改正 を施 し (8)(そ の内容 は1948年7月 10日公布 の新刑事訴訟法 (法律第131号)(9)に継承 され、

現在 に至 る

)。

(1)被疑者 は、身体 の拘束 を受 けた場合 には弁護人 を選任す ることがで きると定 めた (第 3条

)。

つ ま り、 捜査段階か ら被疑者 に弁護人選任権 を与 えた

(10)。

あわせて犯罪事実 および弁護人選任権 の告知 を義務づ けた (第 6条

)。

(2)令状主義を徹底 した。すなわち、検察官・ 司法警察官 による勾引状・ 勾留状 の発給 を禁 じ (第 7条 1項

)、

裁半J官の令状 がなければ逮捕・ 勾留・ 押収・

捜索・検証がで きないとした (第 7条2項、第8条1号)。

1)。

その一方で、

緊急逮捕制度 を設 けた (第 8条2号

)。

(3)勾留状 の請求が あつた 日か ら10日以 内に公訴 の提起がなか った ときは、直 ち に被疑者 を釈放 しなければな らない、 と規定 した (第 8条5号)(1'。

この点 については、 とくに布施辰治『司法機関改善論・ 暗々刑事裁判の時弊』(布施辰治 法律事務所、1917年

)、

小田中聰樹『 刑事訴訟法の歴史的分析』(日本評論社、1976年

)

などを参照。

応急措置法 の内容 については、小田中聰樹「刑事裁判制度の改革」(前掲『戦後改革』4

司法改革〕)232頁以下、参照。

新刑事訴訟法の立法過程 については、前掲 。小田中「 刑事裁判制度 の改革」213頁以下、

参照。

(10)大正刑訴法 は、公訴提起後=予審手続の段階か らしか弁護人 の選任 を認 めなか った (第 39条

)。

大正刑訴法については、牧野英一『 刑事訴訟法 (重訂第15版

)』

(有斐閣、19280、

前掲・ 小田中『 刑事訴訟法の歴史的分析』などを参照。

(11)大正刑訴法の もとで も、原則 と して裁判所が勾引状や勾留状 を発す るとされていた (第 93条

)。

しか し、 その一方で、現行犯や現行犯 に準ずべ き場合だけでな く、要急事件 (急 速 を要 し判事 に勾引状 を請求で きないとき)について も、検事が自 ら勾引状を発 し、被 疑者 の身柄 を48時間拘束す ることがで きる、 と規定 されていた (第 123条

)。

さらに勾留 (勾留期間 は原則2ヶ月、 lヶ月単位の更新が可能)について も、急速を要 し判事 の勾留 状 を求 めることができないときは、検察官が 自ら勾留状 を発す ることがで きるとしてい (第129条

)。

押収・ 捜索 もほぼ これ と同様で、裁判所の令状 によることを原則 としつ つ も(第150条

)、

要急事件 (第123条)や現行犯事件で急速を要す るときは、公訴提起前 に限 り、検事・ 司法警察官は押収・ 捜索をす ることがで きるとした (第170条

)。

(12)大正刑訴法 も、勾留状 を発 した事件 につ き 3日 以内に公訴 を提起 しなか ったときは、検 事 は直ちに被告人 を釈放 しなければな らないと定 めていたが (第371条3項

)、

事実上 形骸化 していたといわざるをえない。

(つ

(5)

静岡法務雑誌 第 6号 (2014年 3月

)

(4)自己に不利益 な供述を強要 されない (黙秘権の保障

)(13)、

強制 。拷問等 によ る自白または不当な長期抑留・ 拘禁後の自由は証拠 とすることができない、そ して自己に不利益な唯―の証拠が本人の自白である場合には有罪 とされ、 また は刑罰を科せ られない、 と定めた (第10条

)(14)。

(5)検

察官、弁護人だけでな く、被告人 に も証人尋間権を保障 した (第11条

)。

このほか、予審を廃止 し (第 9条

)、

供述録取書の証拠能力を制限 し (第12条

)、

跳躍上告 を認 めた (第14条

)。

応急措置法 (そ して同法を継承す る新刑事訴訟法)は、捜査機関 (警察・検察)が

被疑者・被告人に一方的かつ恣意的な取調べを行 うとい う仕組みを改め、被疑者 。被 告人 に弁護人選任権、黙秘権などの法的な「武器」=権利を与えることで、捜査機関 に対す る反撃 の機会 を保障 しようとするものであ った

(15)。

そ ぅすることで初めて、

捜査機関 と被疑者 。被告人の関係 は権力的な支配服従関係か らより対等・ 平等 な権利 義務関係に転換することが可能 になる。そ して、 こうした関係性を前提に、適正手続 (due prOcess of law)の 理念 に基づいて (捜査か ら公判 に至 る)諸手続が遂行 され

ることが期待 された。

このように刑事司法における人権保障 とは、捜査機関 と被疑者・ 被告人の間の権力 的な支配服従関係を対等平等な権利義務関係に置 き換えることを意味 した。それゆえ、

それは現実社会の権力的関係を解体するとい う意味です ぐれて実践的な課題であり、

それを達成す るには各当事者 による「権利のための闘争」が不可欠であった。

(13)大正刑訴法 は、「被告人二対 シテハ被告事件 ヲ告 ケ其 ノ事件二付陳述 スヘキコ トア リヤ否 ヲ問 フヘ シJ(第134条)と定めるのみで、(黙秘権 はいうまで もな く

)被

告人 に供述の義 務があるのか否かについて何 も規定 していない。学説上 は、被告人 に供述 の義務 はない

とす るのが多数説であった (前掲・ 牧野『刑事訴訟法』262頁以下

)。

(14)大正刑訴法 は、区裁判所 において被告人が 自白 したときは、訴訟関係人 に異議がない場 合 に限 り、他の証拠 を取 り調べな くて もよい、 と規定 した (第346条

)。

また、判例 も、

被告人が犯罪事実 を自白 した場合、被告人の自白のみによって犯罪事実 を認定 して も不 法ではない、 とした (大判大正13年 1月 25日大審院刑事判例集3巻20頁、大判昭和13年 8月18日大審院刑事判例集17巻635頁も同旨

)。

それでは、その自白が強制、拷問等 によつ て不当に得 られた場合 はどうなるのか?違法収集証拠 としてその証拠能力を否定 される のか?残念なが ら、 この点を争点 とした判例 は管見の限 りで存在 しない。

(15)応急措置法 には不十分 な点 もあ った。 この点 について、小田中は「被疑者の弁護人 の権 限の範囲が不明確であること、逮捕の理由 として F罪を犯 したことを疑 うに足 りる相当 な理由』のみがあげ られていること、 自白法則が強制 。拷問 。脅迫 による自白に限定 さ れていること、補強法則が公判廷の自白に及ぶか否かが明確でない こと、証人等 の供述 録取書の証拠能力の制限の例外が曖昧で広いことなど」(前掲・ 小田中「刑事裁判制度 の 改革J236頁)を指摘する。

6

(6)

あ る警 察 官僚 の人権観

人権が権力的関係の解体を指向す る理念であるとすれば、旧体制を支えてきた警察・

検察官僚がそれに反発するのはある意味で当然の反応であった。当時、静岡県警察本 部長 の職 にあ った加藤陽三 もその一人であった。加藤 は旧内務官僚出身で、戦前 。戦 後を通 してエ リー ト警察官僚の道を歩んだ人物である

(16)。

1948(昭23)年 5月 、加 藤 は、地元新聞の特集「憲法施行一周年を顧 る」 に寄稿 して次 のように述べた。

犯罪 の捜査 は憲法の個人 の基本的人権擁護 と自由を尊重 している (が

)、

この こ とによって犯罪捜査の上 に従来 と異 り相当大 きな不利不便が生 じている、捜索、

逮捕 は一々令状がなければ執行出来ず、現行犯でないと無暗に検そ くできぬ とい う悩みがあ (る

)。 (1つ

新憲法下 の刑事司法に対す る率直な不満の表明である。 この発言の背景 には、彼の 権威主義的国家観があった。加藤 は、同 じ記事のなかで、「一人の犯罪容疑者個 々の 権利 と自由を擁護 し過 ぎて全体 としての国家の権利 自由を擁護 されない」、「 全体の社 会の秩序が保持 されて こそ個人 の権利 自由が擁護 され る」 と主張 していた。 このよう な国家 。社会 を個人 に優位 させる権威主義的国家観

(1の

は帝国憲法下の ものではあっ て も、 日本国憲法下のそれではない

(19)。

(16)加藤陽三 (1910〜1989)は、 その後、1950年 8月 に警察予備隊人事局長 に移動後 は防衛 官僚 として歩み続 け、防衛庁防衛局長、防衛事務次官 などを歴任 した。退職後 は、衆議 院議員を2期勤めた (加藤陽三追想録刊行会編『加藤陽三追想録』0日藤陽三追想録刊行 会、1993年

)。

『 私録・ 自衛隊史―警察予備隊か ら今 日まで」

(「

月刊政策」政治月報社、

1979年)などの著書がある。

(17)『静岡新聞』1948年 5月 3日 付。 なお、丸カ ッコは橋本が付 した ものである。以下、同 じ。

(1の 権威主義的国家観 にはいろいろなヴァリエーションがあるが、19世紀 において もっとも 代表的な ものは国家有機体説であった。 それは国家を君主、国家諸機関、国民を もって 組織 され る一つの有機体であるとし、あたか も人間の身体のような もの として説明 した。

国民 はそこでは人体の手足のごとく国家の一部であ り、国家の首脳たる君主の意思 によっ て支配 され るものであ った。 ここでは国家 (全)が常 に国民 (部

)に

優位す る。国 家有機体説 については、石 田雄「 国家有機体説」、鵜飼信成 ほか編『講座 日本近代法発達 史』2(勁草書房、1958年)233頁以下、参照。

(19)「国政 は、国民 の厳粛な信託 によるものであつて、その権威 は国民 に由来 し、 その権力 は 国民 の代表者が これを行使 し、 その福利 は国民が これを享受す るJとい う前文の一節 に 端的に示 されているよ うに、 日本国憲法 はジョン・ ロックの 《自然状態 における個人 の 固有権 (prOperty)→信託的社会契約 にもとづ く政府 の構築→ (政府が信託 目的に反 し たときの)人民 の抵抗権》 とい う三位一体的な思想 を正統 に受 け継 ぐものである。 ジョ ン・ ロック著・ 加藤節訳『完訳

 

統治二論』(岩波書店、2010年

)、

樋 口陽一『 比較憲法

全訂第二版〕』(青林書院、1992年、初版 は1977年)93頁以下、清宮四郎『憲法I・ 統治 の機構 〔第三版〕(有斐閣、1979年、初版 は1957年)60頁、 など参照。

(7)

静岡法務雑誌 第 6号 (2014年 3月

)

多発する冤罪事件

憲法や法律が変わ ったにもかかわ らず、制度運用の任 に当たる警察官僚の意識が旧 態依然であったとすれば、犯罪捜査の実態 はどうであ ったのか?。

)

周知のように、戦後の静岡県では、幸浦事件 (1948年12月事件発生、1963年 7月 罪確定

)(21)、

二俣事件 (1950年 1月 事件発生、1958年 1月無罪確定

)(22)、

小 島事件 (1950年 5月 事件発生、1959年12月無罪確定

)(23)、

島田事件 (1954年 3月 事件発生、

1989年 1月無罪確定)(24Dと、全国的に著名な冤罪事件が相次 いで発生 し、 いずれ も 一度 は死刑判決を受 けた被告人の無罪が確定 した。 これ らはいずれ も、明確 な物証が ないにもかかわ らず、捜査段階で拷問等の方法 によって虚偽の自白を強要 され、それ を根拠 に起訴 されたという点で共通 している。

(25)

静岡県内で発生 した冤罪事件 は、 これ ら著名事件に尽 きるわけではない。1950年 に限 って も、歴史の闇に埋 もれた冤罪事件がい くつ も存在 した。たとえば郵便行嚢小 切手抜取 り事件で有罪判決 (1948年 6月静岡地裁判決、1951年4月 東京高裁判決)を

(20)戦前静岡県 における人権蹂躙問題 については、拙著『 在野「法曹」 と地域社会』(法律文 化社、2005年

)、

とくに第一部を参照。

(21)幸浦事件 については、上田誠吉 。後藤昌次郎『 誤 まった裁判 ―八つの刑事事件』(岩波書 店、1960年

)、

青木英五郎『 事実誤認の実証的研究 ―自白を中心 として』(武蔵書房、1960

)、

大竹武七郎 ほか「 事実認定 における裁判官の判断―幸浦・ 二俣・ 小島事件判決 の実 証的研究」(『法律時報』36巻2号1964年 2月)などを参照。

(22)二俣事件で は1人の被告人が強盗殺人罪で起訴 され、幸浦事件 と同様 に自白の任意性を め ぐって裁判 は紛糾 した。本件 も他の事件 と同様、被告人 と犯罪 とを結 びつ ける物証 は 存在せず、 もっぱ ら警察段階での被告人の自白によって起訴 された。本件の きわめて異 例 ともいえる大 きな特徴 は、現職警察官が取調段階で警察 による拷間があ ったと告発 し、

それを法廷で証言 したことである。 しか し、その後、 この警察官 に対 して、検事 は偽証 罪で追求 し、警察 は官職を奪 い、「偏執狂」 との宣伝を行 うなどの迫害を加 えた。二俣事 件 については、前掲・ 上田ほか『誤 まった裁判』、前掲・ 青木『事実誤認 の実証的研究』、

前掲・ 大竹武七郎 ほか「事実認定 における裁判官の判断」などを参照。

(23)小島事件 については、前掲・ 大竹武七郎 ほか「 事実認定における裁判官の判断

J、

内田博

「小島事件」

(『

法律時報』42巻 12号1970年10月)など参照。

(24)島田事件 については、大出良知「 島田事件再審公判傍聴記」

(『

法学 セ ミナー』396号 1987年12月

)、

森源編著『 島田事件 レポー ト』(森源、1989年

)、

伊佐千尋『 島田事件』

(潮出版社、1989年

)、

同『 島田事件 ―死刑執行の恐怖 に怯える34年 8ヶ月の闘 いJ(新 舎、2005年)など参照。

(25)こ れ とは別 に、全国的に警察官 による被疑者射殺事件が頻発 していたことに も留意 して おきたい。 とくに1948年 5月21日に東京浅草で発生 した射殺事件の場合、遺族が国家賠 償請求訴訟 を提起 し、1950年10月 10日に東京地裁で戦後初の勝訴を勝ち取 った

(『

人権新 聞』1950年12月 5日 付

)。

静岡県内で も、浜松市で1948年 9月 1950年 1月 に相次 いで同 様の事件が発生 した

(『

静岡新聞』1948年 9月 14日付、1950年 1月11日

)。

8

(8)

受 け保釈中であった元被告人 は、1951年 9月 に真犯人を捕 まえ、 自らの潔白を証明 し

(26)◇

このほか、冤罪 とは断定 で きない ものの、 その可能性 を否定 で きない事件

(1955年 5月 に発生 した丸正事件97)な )も存在 した。

なぜ冤罪事件が くり返 し発生 したのか。 もちろん、その原因は多面的かつ複合的で ある。 まして本稿が考察す る時期 は戦後改革期であるため、過渡期 に固有の問題 も存 在 した。たとえば大正刑事訴訟法 は控訴審の構造を覆審制 (第一審 とは無関係 に新た な審理を行 う方式

)と

していたが、新刑訴法 はこれを事後審制 (第一審の審理内容を 事後的に審査する方式)に改めた。事後審制を厳格に貫 けば、第一審で審議 されなかっ た新証拠などは控訴審で事実認定 を行 う必要が必ず しもないことになって しまう。そ のため、当時、冤罪や不当量刑 を生み出 しかねないと危惧 されていた。

さまざまな要因のなかで本稿が とくに注 目す るのは警察・ 検察が戦前か ら抱えて き た構造的な問題である。当時、捜査機関は被疑者・ 被告人 に対 して圧倒的に優位な立 場 に立 っていた (こ の点 は現在で も変わ らないが

)。

捜査機関が必要 と判断すれば、

いつで も被疑者の身柄を拘束 し、長時間にわたる取調を行 うことができた (旧法下で は、事実上無制限 に勾留の更新が可能であった

)。

しか も、 それは密室の中で行われ ていた (旧法下での勾留中の接見交通 は、理由を付 ければいつで も禁止す ることがで きた

)。

これに対 し、被疑者 。被告人 は、か りに不法・不当な取調が行われて も、そ れに対抗 し反撃す るための「武器」(黙秘権や弁護人選任権 など)をほとん ど何 も与 え られていなか った。それゆえ、多 くの被疑者・被告人 は捜査機関に一方的に服従す るしか外 に道がなか ったのである。応急措置法後 もこの点で大 きな変化 はない。

それでは、 このような権力的構造の もとで、当時、 日常的にどのような捜査が行わ れていたのか。以下、 この点について見ていきたい。

傍証頼みの捜査

1948(昭23)年 1月29日午前2時35分頃、静岡市内のA方か ら出火 し同人宅を全焼、

さらに隣家の

C宅

を半焼 して午前3時頃鎮火 した。現場検証 の結果、焼 け跡か ら金属 性の鈍器様 の もので頭部を殴 られた

Aの

遺体が発見 された。放火殺人事件 と断定 した 静岡署 は、早 くも翌30日夕刻、近所 に住むBを被疑者 として署内に留置 した。

警察がBに目を付 けたのはもっぱ ら傍証 (情況証拠)によるもので、物証 は何 もな かった。その傍証 とは、以下のよ うな ものであった。

(1)Aの隣家である

Cの

居宅には、 Bと 内縁関係 にある

Dの

名義で50万円の火災 保険がかけ られていた。

(26)『静岡新聞』1951年 9月13日付。

(27)丸正事件 については、 とくに田中二郎 ほか編『戦後政治裁判史録』第2巻 (第一法規出 版、1980年

)、

家永三郎 ほか編『正木 ひろし著作集』第3巻 (三省堂、1983年)を参照。

(9)

静向法務雑誌 6号 (2014年 3月

)

(2)Bら は「被害者

Aは

、同夜、

B宅

に遊びに出かけ、午後8時頃火種を貫 って 帰 った」 と言い触 らしていた。

(3)火を放 った箇所 は

C宅

に接 して計画的に行われていた。

(4)火災後Bが家人その他 に対 し「保険会社か ら人が調べに くるか らそのまま手 をつ けずにおけ」 と言 っていた。

(2)(4)は放火事件 と被疑者 を直接結 びつ ける事実 とはいいがたい し、(3)はたんな る憶測にす ぎない。警察 はもっぱ ら(1)の事実 だけを傍証に して、《保険金詐取 を目的 に、

Bが

Aを殺害・ 放火 した事件》 とい う構図を描 いたと考えて間違 いないだろう。

いったんで きあが って しまうと、 この構図 は一人歩 きを始める。たとえば被害者

Aの

シャツのポケ ッ トに千円近い百円札 の東が残 っていたことについて、警察 は、 自らの 構図 に即 して こう解釈 した。

Bが

同夜

Aに

放火の相談を持ちかけて (千円近い金を

)

先渡 したが指酢 られ、生か しておけば面倒 と殺 した」、 と。 これは物証 も自供 もない 段階での見立てであった。

ところが驚 くべ きことに、静岡警察署長 はこの段階で早 くもこう断定 した。「

の割出 しはすでに成功 した。・・、升 日中には解決 の見通 しがつ く」、 と

(20。

署長 のい̀E人 う「解決の見通 し」 とは、警察が見立てた事件の構図に従 って、間 もな く被疑者が 自 供す るだろうという見通 しであった。実際、被疑者Bは31日午後

5時

頃、「るE行 一 切 を自白」 した。

か くして翌 日の新聞は、「静岡市殺人放火事件解決/B遂に口を割 る/静岡署天晴 れス ピー ド検挙」 との大見出 しをつ け、被疑者Bの自供内容を次のように報 じた (□

は判読不能の文字であることを示す

)。

最初一万五千円の貸金の催促を したところ、Aが「明 日になった ら返 してやる」

と咬呵を切 ったことか ら遂に口論 とな り、

Bが

「 この恩知 らず」 と罵倒 したため

□□の喧嘩 となり、カツとした

Bは

夢中で□□の丸太棒で

Aの

頭部 を殴打 して殺 害 したが、 その処置に困 り、Aがあたか も失火で焼死 した如 く見せ るため死体 に 枕をあてがい布団を冠せ、¨・マツチで放火 し、毒 (を)食わば皿 まで と火災保 険金の詐欺を思いついたものである

(29)

しか し、被疑者が自供 したにもかかわ らず、その後の捜査は混迷の度を深めてい く。

2月 2日 に静岡地方検察庁に送 られたBはそこで否認に転 じ、その後の取調で も否認 を続 けたか らである。他方、兇器 (丸太棒)などの物的証拠 も一向に発見 されなか っ た。そのため、勾留期限満了を目前 に控えた2月10日、検察はBを釈放 して しまった。

その理由について、静岡地検の白神検事正 は、次のように語 った。すなわち、警察で

以上 は、「静岡新聞』1948年 1月 31日付 による。

『静岡新聞』1948年 2月 1日付。

28

29     0

(10)

Bの

自白を辿 ってみると、「保険金 と殺人が結 びつかぬ ものがあ り、 それに肝心の 物的証拠が全然無 い」、警察 は「貸 し金 を催促 して反抗 したか らカツとなって丸太棒 で撲 り殺 した」 とい うが、「一万五千円の金を貸 してある男を殺 して しまったでは金 が取れないではないか」、 と

(30)。

このよ うに検察 は、物証がないうえに被疑者 の自 白内容 にも合理性がないと判断 した。警察の捜査結果 は全面的に否定 されたのである。

ところで、被疑者Bは、なぜ警察の捜査段階で自白 したのか。 この点について、B

は新聞記者 との間で次 のよ うなや りとりを行 っている。

【問】君 は一度 はっきりと自白 しているが?

答】 いつまで も水掛論 を続 けていては取調が永びき聴取書 も出来ないか らうそ の自白を したのだ、裁判 になった ら本当のことをいおうと思 った

【問】や らなか ったのな ら何故最後 まで頑張 らなか ったか

答】 ごう問されてはとこわ くなって嘘を言 ったのだ

(31)

これによれば、本件の場合、実際に拷間が加えられたわけではな く、被疑者自身が 拷問への恐怖心か ら警察 に迎合す る姿勢をとったといえそ うである。 そこに警察側が 見立てた事件の構図が押 しつ けられ、「 裁半1で本当の ことをいえばいい」 と安易 に考 えた被告人がそのまま「 自供」に至 ったという経緯のようである。 しか し、前述のよ

うに、その供述内容 は検察 さえ納得 させ られないものであった。

さて、被疑者

Bを

釈放 した後 も、警察 はあ くまで

Bを

真犯人 と見な し、 もっば ら傍 証固めの捜査 に励んだ。そのようななか、地元新聞は警察が蒐集 した傍証12点につい

て詳 しく報 じた

(32)。

以下、参考 までにそのなかのい くつかを紹介 してお こう。

(1)火災のあった1月29日か ら約10日前、Bは Cに対 して「火事を起 こしそ うだ か ら荷物 を俺の家へ運んでおけ」 と語 っている。

(2)火事の前 日、Bは、世間へ知れぬように戸を締めて荷造 りし、子 どもに自宅 へ運ばせている。

(3)1月28日午後8時頃、Bは自宅を出て約1時間 くらい帰宅 しなか った。

(4)Bは同時刻 に毎夜行 く

C宅

へは顔を見せず、 ア リバイが成立 しない。

5)火災が納 まった後、Bは近所の人 に「 お騒がせ してすまぬ」 と言 い、夜が明 けて も謝罪 して歩 いた。

(6)1月 29日

Bは

朝早 く保険会社 を 2ヶ 所訪れ、火事 にな った ことを告 げ、

「人が焼 け死んでいる」 と話 している。

これ ら傍証 とされるものを見て も明 らかなように、 この段階に至 って も、警察は、

『 静岡新聞』1948年 2月12日付。

『静岡新聞』1948年 2月 12日付。

『静岡新聞』1948年 2月18日付。

(11)

静岡法務雑誌 第 6号 (2014年 3月

)

被疑者 と犯行を直接結びつける物証を何 も得 ることができなか った。結局、警察の捜 査 はいたず らに傍証の数を増やすだけで、何 ら事件の核心に迫 るものではなか った。

そのため、捜査 は間 もな く頓挫せざるをえなか った。

警察の捜査が再開されるのは6月 に入 ってか らであった。6月 3日 、

Bは

任意出頭 の形で警察 による再取調を受 けることになった。そ して、 これ と前後 して、検察 も関 係者 の取調を開始 した。つまり、今回の捜査 は警察・検察合同で行われたのである。

2月10日被疑者Bの釈放 によって生 まれた警察 と検察の軋蝶 は、 このときまでにはす でに解消 されていたようである。 ここで注 目したいのは、警察・ 検察合同捜査の基本 が傍証固めに置かれていたことである。なぜ、 こうなって しまったのか。 この間の事 情を静岡署の堀内捜査課長 は次のよ うに語 った。

(警察 は)Bに対す る犯罪容疑 は必ず成立するとの確信で取調べを進めている、

火災を伴 った殺人事件 とて火災 と消火で当時現場 は極度 にごったがえ し、科学的 証拠の採取が困難で、傍証 に基 くことが 自然多いので、 これによって証拠足 らず と措置 され る場合、県都治安 に及 ぼす影響 も大 きいので、全力をあげてお り、

(その ことを)検察当局 も理解 されたことは何 よりもうれ しいことだ。

(33)

要す るに、2月 の時点では物証がない、 自供 にも合理性がないとして被疑者 を釈放 した検察であったが、いまやその原則的立場を放棄 し、

B犯

行説だけでな く、傍証中 心 に立証するという点で も、警察に完全 に同調 していた。警察・ 検察の合同捜査 はこ

うして実現 したのである。

その後、警察・ 検察の捜査 は、殺人放火だけでな く、横領、脅迫、同意堕胎罪の被 疑事実を加えて起訴 に至 った。殺人放火だけでは物的証拠がな く、有罪の立証 も困難 であったため、余罪を追及 して併合罪で有罪判決 に持ち込 もうというのが警察 。検察 の作戦であった。いわば合わせ技で一本をね らうというやり方である。そ して、本件 は、9月 6日 、静岡地方裁判所第1号法廷で第 1回 公判が開廷 された。公判では、足 立達夫、池 ヶ谷信一、中田駁郎04)ら静岡県内の有力弁護士が弁護人 として立 ち、無 罪論を展開 した。 しか し、翌1949(昭24)年 3月 9日 、静岡地裁は検察側 の求刑 の通 り死刑判決を言い渡 した (その後被告人Bは控訴 したが、確定判決の詳細 は不明であ

)(35)。

かっては検察でさえ、物証が存在せず、 自白も合理性がないと認めていた事

件がわずか1年余後 には死刑判決 となって しまった。それは決 して確実な証拠が得 ら れたか らではない。兇器などの物証 は最後 まで発見 されなか った。

『静岡新聞』1948年 6月 5日 付。

各弁護人 の略歴 については、拙稿「 静岡県代言人・ 弁護士人名一覧」、『 静岡県近代史研 究』第24号1998年10月、参照。なお、「一覧」最新版は、「法制史の部屋」(http://wWW

geOcities ip/jlShashi/1ink/SiZuOka zalya hosO html、 )に

掲 幸出し て い る 。

『静岡新聞』1949年 3月10日付。

(12)

これまでやや詳 しく放火殺人事件の顛末を述べてきたのは、当時の日常的な捜査手 法を確認するためであった。 この事件 における捜査のあり方 は、当時 としては別段特 異な ものではなか った。本件では、幸浦事件など著名な冤罪事件 と異な り、捜査機関 が拷問などで虚偽の自白を強制 したわけで も、証拠をねつ造 したわけで もない。被告 人 に有利な証言を した証人が偽証罪で逮捕 されたわけで もない。その意味で ごく日常 的な刑事事件であった。 しか し、 その日常性のなかに、 きわめて本質的な問題点―

冤罪を発生 させ る構造的要因――が はらまれていたのである。

当時の警察 にとって、傍証 によって事件の構図を描いて被疑者を特定 し、被疑者の 身柄を拘束 した後 は、その構図に従 って 自供 に追 い込むとい うのが通常 の捜査手法で あった。 しか し、事件の構図の描 き方 は、往々に して恣意的かつ独断的な ものに陥 り がちである。 それゆえ、事件の構図が事実 に反す る場合で も、被疑者 はその構図 に沿

う形で自供を迫 られ る。 そ こに虚偽の自白を強制 される危険が存在 した。 もちろん、

捜査の結果、何 も物証が得 られなければ、警察 は新 たな事件 の構図を描 き直せばよい のだが、実際 はそれ とは逆 に、捜査機関が自らの構図に固執 し、物証を軽視 して、傍 証だけで強引に起訴 に持 ち込 もうとす る場合が見 られた。本稿で取 り上 げた放火殺人 事件 はまさにその典型例であった。 いうまで もな く、幸浦事件などの著名 な冤罪事件

もこのような構造的要因 によって生 み出された ものである。

検察 と裁判所のチェック機能

日本国憲法の精神、新刑訴法の趣 旨か らいえば、傍証頼みの捜査・ 起訴 は原則的に 許 されない。それゆえ、前述の放火殺人事件では、検察 は当初警察の捜査のあり方を チェックしよ うとしていた。 しか し、すでに見 たように、 そのチェック機台ヨま瞬 く間 に消え失せて しまった。 なぜ、 このようなことになったのだろうか。

これに関連 して、当時、地元新聞が興味深 い記事を掲載 した。それは、冤罪事件の 一つである二俣事件が1951(昭26)年 9月29日に東京高裁 (控訴審)の判決言渡 を迎 えるにあた り、検察批判 の世論 を意識 した最高検察庁が異例の声明を出そ うとしてい ると報 じるものであった。 それによれば、「声明書の内容 は今 のところ判明 しないJ

が、以下の諸点を強調す るものになるだろうという。

第一 に、「 いわゆ る民主的刑法」 には「 はっきり犯人 と判 っているもので も釈放 し、害毒 を流Jす という欠陥がある。

第二 に、「 人権を尊重 し科学捜査 によって犯人を摘発す る」 ことにな っているが、

「科学捜査一本でゆ く機構・ 機能が整備 されていない」。

第二 に、「物的証拠 は もちろん最重要であるが、情況証拠、心的証拠 も軽 くみる ことが出来 ない

J。

第四に、「 このよ うな状態で は『証拠がなければよいではないか』 とい う考え方 13

(13)

静岡法務雑誌

 

6号 (2014年 3月

)

を助 長 し犯 罪 を増加 させ るお それ が あ る」。

(36)

この記事 によれば、最高検 自体が傍証頼みの捜査を積極的に擁護 しよ うとしていた ことになる

G7)。

傍証頼みの捜査手法 に依存 し、物的証拠に基づ く科学捜査 に徹する 意思を持 ち合わせていないとい う点で、検察 は警察 と一体の存在であ ったといわざる をえない。そ うであれば、検察のチェック機能など望むべ くもないだろう。

それでは裁判所 はどうか。裁判所 は、警察 。検察の捜査手法をチェックしていたの か。前述の放火殺人事件第一審判決が言渡 された直後の1949(昭24)年3月18日、静 岡市 内で16戸の民家を灰儘 に帰す とい う放火事件が発生 した

(38)。

この事件 を一つの 事例 として考察 してみよう。本件 も物証がな く、 しか も被告人 は徹頭徹尾犯行を否認 していた。 にもかかわ らず、検察 はここで も保険金詐取を目的 とした放火事件 とい う 構図を見立て、起訴に及んだ。 しか し、5回の公判 を経 たところで、静岡地裁 は (公

判途 中にもかかわ らず)被告人の保釈 。出所を許可 した。物証 もないなか、「 新刑訴 法下被告(人)をいつまで も未決 につないでお くことも人権尊重の趣 旨にそむ くという 見地か ら」 というのがその理由であった。当時 としては、 きわめて異例 な決定であっ た。

しか し、 これを不満 とする検事の指揮の下、同年9月26日、釈放 された被告人 を詐 欺罪の容疑で静岡署に逮捕 。勾留 した。検察側の意図について、地元新聞は、 この逮 捕事実を もって被告が金 に困 っていたこと (放火の動機)を立証 し、 さらに他の余罪 の有無 も調べて併合審理を求める意向であるらしいと報 じた。 このときの検察の主張 は、「 た とえ物的証拠 はな くとも、 当時の状況証拠で行 くより以外 に手がな く、 あの 程度でAを被疑者 と決定 しなければ、放火は現行犯以外永久に検挙立件 は覚束ない」

というものであった。 しか し、別件逮捕の翌 日27日に地検が被疑者の勾留請求を行 っ たところ、地裁 は「被疑者に証拠隠滅の恐れはなく、 したがって勾留尋間の必要 はな い」 として請求を認めず、被告人を釈放 して しまった

(39)。

このように裁判所が物的証拠 を重視するという原則的立場をとる限 り、検察・ 警察 の捜査手法を一定程度チェックすることは可能であった。実際、 この時期、裁判所が

(36)『静岡新聞』1951年 9月18日付。

(37)なお、最高検声明が実際に発表 されたか否かは現時点で未確認である。 なお、聞蔵Iビ ジュアル「朝 日新聞縮刷版1879〜1989Jを「最高検」 で検索 したが、該 当す る記事 は見 出せなか った。

(38)以下 は、『静岡新聞』1949年 9月27日付 による。

(39)『静岡新聞』1949年 9月28日付。

14

(14)

検察 の令状請求 を認めなか った り④

)、

無罪判決を下す(41)の は決 して珍 しいことで はなか った。 しか し、そ うした事例 は一部 にとどまり、全体 としてみれば裁判所が有 効なチェック機能を発揮 していたといいがたいことは、数多 くの冤罪事件の発生によっ てすでに証明 されている。

 

人権擁護行政一人権侵犯事件を中心 に

人権擁護行政の開始

新憲法の人権理念を具体化するために新たに人権擁護行政が開始 された ことは重要

である

(42)。

それは、被疑者 。被告人 の人権侵害をは じめさまざまな人権侵害事件が

発生 した とき、 裁判所 だ けでな く行政機 関 による救済 も図 ろ うとす る もので あ っ

(43)。

それゆえ、人権擁護行政の充実 いかんは、人権の定着度 を大 きく左右す る間

題であったといってよい。

(40)ちなみに、戦後、 日本国憲法第64条1項に基づいて裁判官弾劾裁半1所が設 け られたが、

そ こに最初 に訴追 され たの は静 岡地方裁判所浜松支部 の天野判事 であ った (訴追提起 1948年 7月 1日、判決宣告1948年11月27日、判決 は不罷免)(裁判官弾劾裁判所事務局・

裁判官訴追委員会事務局編『裁判官弾劾制度運営二十年』両事務局、1967年76頁以下)。

天野判事 は、当時、検察 の逮捕状請求 を却下す るなど、検察側 に厳 しい態度 で臨んでい た人物である。 それだけに、 この弾劾事件 は検察が些細 な事 由を取 り上 げて同判事潰 し のために仕組んだ ものではなか ったか。当時か らそ うい う疑念が囁かれていた (たとえ ば『静岡新聞』1949年 2月 27日

)。

た しかに、当時、同判事の訴追 に当たった地検浜松 支部検事 自身、「天野判事 はつ ま らぬ ことに枝葉をつけて しゃべ り、警察官が逮捕状 の請 求の時誤記 あるいは要件を書 き落 としていると逮捕状 は出さぬ という形式主義 であった」

(『

静岡新聞』1949年 2月 27日)と批判す るなど、天野判事への敵意を隠そ うとは しな か った。裁判官弾劾裁判制度 について は、httpブ/WWW dangai gojp/index html(最 閲覧2014年 2月 8日)も参照。

(41)た とえば浜松簡易裁判所 は、1948年11月 に発生 した自転車盗難事件 について、被告人 の 現場不在証明がなされ、証拠不十分 として無罪判決を下 した。 しか し、同判決 はその後 検事控訴がなされた 0日刑訴法 による静岡地裁最後の控訴審

)。

控訴審担当検事 は原審判 断の根拠 となっていた証人の証言 を潰 していった。 その結果、1952年 3月19日、静岡地 裁 は懲役10ヶ月の有罪判決を下 した

(『

静岡新聞』1952年 3月20日

)。

(42)人権擁護行政の歴史 については、法務省人権擁護局『 人権擁護 の二十年』(法務省人権擁 護局、1968年)など参照。

(43)「公務員 の職務執行 にともな うもの以外の私人間の人権侵犯事件について も、 自由人権協 会や弁護士会 などの民間機関のほかに、裁判所以外 の国家機関が直接 にその解決 にの り だす とい うのは、諸外国に類例の少 ないまさに日本的特色であるといってよい」(潮見俊 隆「 日本 における人権侵害事件の実態 とその処理状況」、東京大学社会科学研究所編『基 本的人権2・ 歴史

1』

東京大学出版会、1968年254頁

)。

15

(15)

静岡法務雑誌 6号 (2014年 3月

)

最初 に、人権擁護制度 の確立過程 につ いて確認 してお こう。1947(昭 和22)年12月 17 日、法務庁設置法 は、行政府内における「一元的な法務 に開す る統轄機 関

Jと

して法 務総裁 を設置 し、 その統轄事項 の一つ として「 人権 の擁護Jを掲 げた。 そ して、翌年 2月15日 に法務総裁下 の担 当部局 と して人権擁護局 を設置 した (なお、 法務庁 は、

1949年 5月 に法務府、 さ らに1952年 7月 に法務省 に名称変更

)。

人権擁護局 の所掌事 項 は、 (1)人 権侵犯事件 の調査・ 情報収集、 (2)民 間 における人権擁護運動 の助長、

(3)人 身保護、 く4)貧困者 の訴訟援助 な どであ った。 これが戦後 日本 にお ける人権擁 護行政 の晴矢 である。

1948(昭 和23)年 7月 17日人権擁護委員令 は、「法務総裁J管轄 の人権擁護事務 を補 助す るため、各都道府県 に人権擁護委員 を設置 した。委員の定数 は全国で150名であっ

(同12月 末 の段階で実際 に委 嘱を受 けたの は67名

)。

そ して、翌 1949年 5月31日 人権擁護委員法 は、人権擁護委員制度 を抜本的 に拡充 し、2万人 を超 えない範囲で全 国の市町村 に人権擁護委員を配置す ることとした。同法 によれば、人権擁護委員 は法 務総裁 の委嘱 によって任命 され (任2年

)、

(1)自由人権思想 の啓 もう 。宣伝、(2) 民間 における人権擁護運動 の助長、 (3)人 権侵犯事件救済 のための調査・ 情報収集、

法務府人権擁護局へ の報告、 関係機関への勧告等、 (4)貧 困者への訴訟援助 な ど、 を その職務 と した。 こうして、 《法務総裁 (→後 に法務大臣)一人権擁護局―地方法務 局一人権擁護委員》 とい う人権擁護行政 の ライ ンが形成 された。

行政府の人権概念

人権擁護行政 を開始す るにあた り、当時 の行政府 (法務庁→法務府→法務省)や

法府 は人権概念 をどのよ うに理解 していたのだろ うか。法務庁設置法案 の国会審議過 程 を見 ると、担当大 臣である鈴木義男司法大 臣は、人権擁護局 の業務 につ いて、 ある ときは「行政各部 において人権蹂踏等 の事実が・…あつ たな らば敏活 に これを調査 し て現状回復 を図 る」。4)のが主 たる仕事 といい、別 の箇所で は「決 して官庁 だ けが人

権を蹂躙するのではなくして。 ・ ・良商尚主をもヾらなら程莉ヾ名誉ご信角年を侵善せ

られ、或 いは侵害の脅威 にさらされ るというよ うな場合 もある」 ので、「 そ うい うも のをむ しろ守つてやるという方面 に力を注 ぎたい」 と述べている

(45)。

要す るに、法 務庁設置法案が前提 とする人権概念 は、国家 (行政機関など)による国民の人権蹂躙、

すなわち 《国家 と個人》の問題だけでな く、「民間同士

J、

すなわち 《個人 と個人》の 問題 も含む ものであったといってよい。

参議院決算・ 司法連合委員会会議録1947年12月 3日5頁。引用は、国立国会図書館

「国会会議録検索 システム」(http://kokktt ndl go jp/)に よる。

参議院決算・司法連合委員会会議録1947年12月 3日 6頁 16

表 1  人権侵犯受理事件の種類 分類 項 目 内    容 居住 権 侵 害 正 当 な理 由が な いの に、 家 主 が店 子 を追 い出 した り、 この ため に居 住 の邪魔 を した り、無理 に他人 の家 に侵入 した り居座 って、住んで いる 人 を困 らせ た りす る場 合、 そ の他 ラ ジオや動 力 に よ り騒 音 を立 て他 人 の EIIに 迷 惑 をか けた場 合 b 強制 圧 迫 不 良顔 役 のゆす り、 か た り、工 場 にお け る工 員 の強制 労 働、土 木

参照

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