『宇治拾遺物語』猿楽考
著者 廣田 收
雑誌名 人文學
号 204
ページ 47‑70
発行年 2019‑11‑15
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2020.0000000069
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語 ﹄ 猿 楽 考
廣 田
收
は じ めに
考 察の 前 提 と論 点 鎌
倉 初 期 に 成 立 し た﹃ 宇 治 拾 遺 物 語﹄ に は
︑い わ ゆ る
﹁瘤 取 爺
﹂の 昔 話 で 知 ら れ る 説 話︵ 第 三 話
﹁鬼 ニ 瘤 被レ
取 事︶
︶ が記 載さ れて いる
︒こ の説 話︵ 物語
︶に つい て は︑ か つて は
︑当 時 語ら れ て いた 昔 話 を そ! の! ま! ま! 記録 し た もの だ︑ とい う見 解も 存在 した
︒ 私 はす でに
︑平 安時 代の 物語 や資 料に 触れ ると とも に︑ 昔話 の採 録に つい て考 えて きた とい う立 場か ら︑ この 説話
︵ 物語
︶は
︑昔 話の 採録 資料 と対 照さ せる こと で昔 話と 同 じ 枠組 み を 共有 し つ つ︑ むし ろ 平! 安! 京! を 基 盤 とし て 織 り直 され たも ので
︑例 えば
︑描 かれ てい る鬼 のよ うす は︑
①﹃ 今昔 物語 集﹄ など にみ られ る︑ 都大 路に 出没 する
﹁百 鬼夜 行︵ やぎ ょう
︶﹂ の 表現 の類 型に 基づ くも の で あ るこ と
︑② 首領 の 鬼 が︑ 平安 時 代 の 儀式 語 を 用い て
﹁横 座 の鬼
﹂と 呼ば れて いる こと
︑ま た大 和言 葉で 帝の 御遊
︑詩 歌管 絃の 遊び をい う﹁ 御遊 び﹂ とい う表 現が みら れる こと
︑④ 翁が 鬼の 舞踊 に入 って 行っ てよ いも のか 躊躇
︵ち ゅう ちょ
︶す る︑ 物語 に特 有の 心内 叙述 があ るこ と︑
⑤翁 の舞 踊が あた
― 47 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
かも
﹁猿 楽﹂ のよ うす を思 わせ ると いう ふう に︑ 昔話 には みら れな い︑ 平! 安! 京! の 物語 に特 有の 特徴 が幾 つか ある こと を指 摘し たこ とが ある
⑴
さ らに
︑こ れら の特 徴は
︑テ キス トの 構築 性と いう 視点 から
︑物 語の 歴史 性を 帯び た表 現で あり
︑物 語の 表層 に属 する もの だと して
︑次 のよ うに 整理 でき ると いう こと を述 べた こと があ る︒ 少し 改良 を加 えて 示す と︑ 次の よう であ る︒
表 層
基 層
︵ 中 間 層
︶
深 層 説 明
話 柄
話 型
原 理 百 鬼 夜 行 の 表 現 類 型 横 座 と い う 儀 式 語 御 遊 び と い う 物 語 語
︵ 翁 の 心 内 叙 述
︶ 猿 楽 の 表 現 類 型
⁝
瘤 取 爺
隣 爺 型
誓 約 す
なわ ち︑ この 表は
︑本 説話 が昔 話の 表現 に比 べて 決定 的に 異な る点 とし て︑ 歴史 的に みる と都 市的
︑都 会的 な物 語と して 整え られ てい る︑ とい うこ とを 示し たも ので ある
︒ つ ま り︑ 総 括 的に い え ば︑ 本説 話
︵物 語︶ は︑ 隣 爺型 と い う﹁ 話 型﹂
narrative scheme
を さ ら に 深 層 に お い て 支 え る枠 組み とし て︑ 神話 にみ える
﹁誓 約︵ ウケ ヒ
︶﹂ の 原 理が 下! 敷! き! に な っ てい る
︒た だ︑ 説 話 が具 体 的 な形 を と るに
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 48 ―
は︑
﹁ 話 型﹂ と し て は﹁ 隣 爺 型﹂ の 枠 組 み が あ り
︑も う 少 し 具 体 的 な﹁ 話 柄﹂
type
と し て は﹁ 瘤 取 爺
﹂に 拠 っ て い る︑ とい うこ とが いえ る︒ さら に︑ 表現 の具 体性 を担 うも のが
︑百 鬼夜 行︑ 横座
︑御 遊び
︑猿 楽な どの 表現 類型 であ る︑ と考 える もの であ る⑵
︒ 付言 すれ ば︑ この よう な差 異は
︑説 話を みる まな ざ し の次 元 の 違 いに よ っ て見 え 方 が異 なる とい う問 題で ある とい うこ とが でき る︒ つ まり
︑こ の説 話︵ 物語
︶は 素材
︵そ れが 口承 のも のか
︑書 承の もの かは 今問 わな いと して も︶ をそ のま ま記 した わけ では な! く! て!
︑︵ これ も誰 と特 定は でき ない が︶ 編者 某に よっ て平! 安! 京! の! 物! 語! と して 表現 の整 えら れた もの であ る︑ とい うこ とが でき る︒ た だ︑ 右の 二つ の旧 稿制 作の 折︑ 私は
︑第 三話 の翁 の舞 踊り は︑ 当時 の民! 間! の! 猿楽 のさ まの 表現 であ ると 理解 して いた が︑ 今は
︑む しろ 貴! 族! 社! 会!
︑宮! 廷! 社! 会! の! 猿楽 を踏 まえ てい るの では ない かと 考え るに 至っ た︒ そ の根 拠と なる のが
︑同 じ﹃ 宇治
﹄に みえ る第 七四 話﹁ 陪従 家綱 兄弟
︑互 ニ謀 タル 事﹂ と︑ これ と同 一説 話と され る﹃ 十訓 抄﹄ 七ノ 一七 とに みえ る猿 楽の 叙述 であ る︒ なぜ
︑こ れら の説 話が 参考 にな るか とい うと
︑第 三話 とは 違っ て︑
﹁ 猿楽
﹂と いう 語が
︑明 確に 本文 中に みら れる から であ る︒ つま り︑ 残る 問題 は︑ 第三 話に おけ る翁 の舞 踊り は︑ 第七 四話 の猿 楽と 同質 のも のと みて よい のか
︑と いう こと であ る︒ 本稿 では この 問題 を考 えた い︒ 早
くか ら芸 能研 究や 歴史 学の 研究 では
︑こ の第 七四 話に は︑ 内侍 所神 楽の 折の 饗宴 に供 せら れた 芸能 のひ とつ とし て︑ 猿楽 がそ! の! ま! ま! 描! か! れ! て! い! る!
︑ とい うふ うに 考え られ てき た︒ ある いは
︑猿 楽が その まま 描か れて いる とい う暗! 黙! の! 了解 があ るよ うに みえ る︒
― 49 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
す なわ ち︑ まと めれ ば︑ 以下 のよ うな 問題 があ る︒ ま ずひ とつ の問 題は
︑文 献に みえ る散 楽・ 猿楽 は︑ 内容 から する と雅 楽か ら雑 芸ま で︑ 大き な幅 があ ると いう こと であ る︒ すな わち
︑猿 楽に は︑ 古代 以来 の宮 廷の 散楽 の伝 統に 対し て︑ 古代 末か ら中 世以 降︑ 民間 には 多種 多様 な芸 能と して の猿 楽が 複雑 に展 開し てお り︑ 調べ れば 調べ るほ ど︑ これ らを 全! 体! と! し! て! 捉 える こと は不 可能 だ︑ と感 じら れる こと であ る︒ そこ で︑ 早く 能勢 朝次 氏は
︑猿 楽に つい て︑ 民間 の猿 楽 と貴 族 社 会の 猿 楽 と を分 け る⑶
こ と で 考察 を始 めて おら れる ので
︑ひ とま ず今 この 考え に従 いた い︒ つ まり 私の 考え は︑ 陪従 の演 じる 第七 四話 にお ける
﹁猿 楽﹂ の事 例は
︑猿 楽一! 般! の もつ 属性 では なく て︑ 宮! 廷! 芸能 の散 楽も しく は猿 楽の 属性 であ
る︑ とい うふ うに 限定 的に 捉え るこ とに よっ て︑ 第七 四話 の猿 楽が 第三 話に おけ る瘤 取翁 の舞 踊り と同 質の もの だと いう ふう に︑ 論を 展開 でき るの では ない か︑ とい うこ とで ある
︒ も うひ とつ の問 題は
︑先 学の 調査 を辿 り直 して
︑歴 史資 料に 見え る猿 楽の 記事 を丹 念に 探し 直し
︑読 み直 して みて も︑ 実演 され た猿 楽の 具! 体! 的! な! 内容 その もの は殆 ど記 され ては おら ず︑ その 内実 は不 明で ある
︑と いう こと にと どま る こと で あ る︒ 言 い換 え れ ば
︑﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄第 七 四 話 に 描 か れ て い る 猿 楽 の さ ま が
︑ほ ん と う に 当 時 の 猿 楽 の
﹁ 実態
﹂そ のま まで ある と考 えて よい のか
︑と いう 疑問 が残 る︒ そ こで
︑古 代の 猿楽 を記 す資 料の 中か ら儀 式書
﹃江 家次 第﹄ や貴 族の 日記
﹃中 右記
﹄そ の他
を参 照し たい
︒も ちろ んこ れら には
︑わ ずか なが ら当 時の 猿楽 のよ うす が断! 片! 的! に! 垣 間見 えは する
︒た だ問 題は
︑こ の段 階で は︑ 猿楽 が独 立し て芸 能と して 演じ られ るの では なく
︑神 楽の 直会 の出 し物 とし て位 置付 けら れて いる こと が重 要で あり
︑猿 楽の 笑い だけ を強 調す るの は︑ 古代 信仰 のあ りか たを 云々 する には 片手 落ち にな るで あろ う︑ とい うこ とで ある
︒
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 50 ―
そ こで
︑﹁ 日 本の 古代 信仰 と芸 能﹂ とい う視 点か ら︑ 私 が 興味 を も つこ と は︑ ま ず猿 楽 は 儀 式の 中 で どの よ う に位 置付 けら れて いる か︑ また 誰に 向か って 演じ られ てい るか
︑と いう こと がが ポイ ント にな ると いう こと であ る︒ そ れら の解 明に よっ て︑ 同じ
﹃宇 治﹄ の中 に第 三話 とし て組 み込 まれ てい る瘤 取爺 の説 話︵ 物語
︶に おけ る翁 の舞 踊り は︑ 宮廷 芸能 のよ うな 猿楽 とい える かど うか
︒ま た︑ 結局 のと ころ
﹃宇 治﹄ 第三 話は
︑ど のよ うに 捉え られ るの か︑ 併せ て検 討し てみ たい
︒ 一
﹃ 宇治 拾 遺 物語
﹄ 第 七四 話 に おけ る 猿 楽
︵ 1︶
﹁内 侍所 の御 神楽
﹂と いう 表現 の意 味 儀 式と いう もの を考 える 上で
︑饗 宴の 構成 に関 する 倉林 正次 氏の 指摘 は重 要で ある
︒ 倉 林氏 は︑ まず
﹁園 韓神 祭﹂
﹁ 鎮魂 祭﹂
﹁十 二月 の内 侍所 御神 楽﹂ など 一連 の儀 式が
﹁神 祭り の本 義で ある 鎮魂 呪法 の 度繁 く も た れる 時 期﹂ の もの で あ ると す る⑷
︒そ し て︑ こ れ ら が﹁ い ず れ も 威 力 あ る 新 し い 魂 を 身 体 に 付 着 さ せ る︑ 鎮魂 呪術 的な 祭り
﹂で ある とい う︵ 同書
︑七
〇七
〜八 頁︶
︒ と ころ で︑ 内侍 所神 楽は 一条 朝に なり 創始 され た も の で︑ その 後 隔 年で 行 わ れ︑
﹁次 第 に 盛 んに 行 わ れる よ う にな り︑ やが てそ の後 半の 時代 に恒 例行 事と して 定着 をみ た﹂ とさ れる
︵同 書︑ 八〇 五頁
︶︒ さ て︑ 倉林 氏に よる と︑ もと もと
﹁昔 の内 侍所 御神 楽は 神鏡 を奉 斎す る温 明殿
︑つ まり 内侍 所と その 西側 にあ る綾 徽殿 との 間の 庭で 行わ れた
﹂も ので ある とい う︵ 同書
︑八
〇四 頁︶
︒ そし て︑
﹁こ の内 侍所 の前 に﹁ 清暑 堂神 楽﹂ と呼
― 51 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
ばれ る神 楽が あっ た﹂
︵ 傍点
・廣 田
︶が
︑こ れ は﹁ 大 嘗祭 の 時 に催 さ れ た﹂
﹁一 代 一 度 の儀
﹂で あ っ たと い う︵ 同 書︑ 八〇 七頁
︶︒ 特 に﹁ 大嘗 祭の 中で
︑第 二の 部分
︑辰 巳両 日節 会の とこ ろで 行わ れた
﹂と いう
︵同 書︑ 八〇 七頁
︶︒ 大嘗 祭﹁ 卯日 両斎 殿の 祭り は神 祭り の部 分に 相当 し︑ 辰巳 両日 の節 会は 直会 に︑ 午日 節会 は豊 明の 名称 の如 く︑ 宴会 に当 たる
﹂と いう
︵同 書︑ 八〇 八頁
︶︒ さ らに
︑﹁ 清暑 堂神 楽は 第三 の宴 会の 部分 に相 当す る﹂ とい う︒ た だ残 念な がら
︑後 にも 述べ るよ うに
︑儀 式書
﹃江 家次 第﹄ の記 述を みる と︑ 内侍 所御 神楽 の神 事の 核心 はか なら ずし も明 記さ れて いる とは いえ ない 憾︵ うら
︶み があ る︒ むし ろ︑ 倉林 氏が
﹃江 家次 第﹄ の記 述を もっ て︑ その まま が儀 式の 姿で あっ たと 捉え てお られ るの では ない かと 危惧 する もの であ る︒ 一 方
︑松 前 健 氏は 清 暑 堂神 楽 と 内侍 所 神 楽 との 違 い につ い て 次の よ う に 整理 さ れ てい る
︒す な わ ち
﹁内 侍 所 神 楽 は︑ 人長 の舞 や才 の男 の芸 など もあ って
︑ド ラマ 的で ある が︑ 清暑 堂神 楽は
︑王 卿や 群臣 が楽 器を 奏で
︑歌 唱す るこ とが 主で あっ て︑ 近衛 舎人 など も何 かを 演 じ る こと は
︑少 な くと も 古 い記 録 に は なか っ た﹂ と いう
︒そ し て︑
﹁ 内侍 所神 楽﹂ の神 楽は
﹁祭! で! あ! る! か ら︑ 神前 に御 拝が あっ たり
︑神 膳の 供進 があ り︑ また 物々 しい 人長 作法 があ るが
︑清 暑堂 では これ がな く︑ 主上 の出 御と とも に直 ちに 始め るの であ る
︒単 な る宴! 会! に! す! ぎ! な! い! か らで あ る﹂ と いう
⑸
︵傍 点︑ 廣田
︶︒ と ころ が︑
﹁ 賀茂 臨時 祭に おけ る才 の男 の芸 は︑ 十 一 世紀 中 葉 頃に 入 る と︑ 次第 に 散 楽 など の 風 を取 り 入 れて
︑上 品 さを 失 っ て いっ た
﹂と い う︵ 同書
︑二
〇 二 頁︶
︒さ ら に
﹁十 一 世紀 の 末 葉 に な る と
︑家 綱 と 知 定 が﹁ 散 楽 を 演 じ﹂
﹁ 是又 例 事 也﹂ と 記さ れ て いる こ と を紹 介 し
︑﹁ こ の家 綱 と 行綱 の 兄 弟が
︑内 侍 所 御 神楽 で の 才の 男 の 芸 の 披 露 に 際 し︑ 例の
﹁ふ りち う⁝
﹂の おこ わざ を披 露し て喝 采を 得た とい う﹂
﹁﹃ 宇 治拾 遺物 語﹄ の話 は有 名で ある
﹂と いう
︵同
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 52 ―
書︑ 二〇 二頁
︶︒ こ こで
︑﹃ 宇治
﹄の 叙! 述! を猿 楽の 歴史 的資! 料! と され てい るこ とに つい ては 問題 なし とし ない が︑ 倉林 氏と 考え の異 なる 点は
︑松 前氏 の理 解は
︑内 侍所 の存 在を 重視 した 考察 とみ える こと にあ る︒ も とも と清 暑堂 神楽 は︑ 大嘗 祭の 後に 催さ れた 宴会 的な もの であ った のに 対し て︑ 一条 朝に 創始 され た内 侍所 御神 楽は
︑天 皇に よる 神事
︑天 皇に よる 神楽
﹁御 覧﹂ を中 心に 据え たも のだ が︑ その 後の 宴会 的な 場に 猿楽 が求 めら れた もの とみ える
︒ さ て︑ 大江 匡房 の著 し た 儀 式書
﹃江 家 次 第﹄
﹁内 侍 所 神楽 事
﹂の 記 事︵ 天 永二
︵一 一 一 一︶ 年︶ は︑ 冒頭 に 神 鏡を めぐ る由 緒を 記す
︒す なわ ち︑ かつ て帝 王の 冠巾 子︵ こじ
︶に 結び 付け られ てい たが
︑帝 は夜 も冠 を離 すこ とが でき ない ゆえ にし ばし ば落 ちた とい う有 名な 故事 を記 す︒ 後︑ 神鏡 は垂 仁天 皇の 時に 別殿 に御 され
︑さ らに 神鏡 が飛 び出 した とい う︒ これ に関 して も有 名な 幾つ かの 故事 を記 す︒ そし て一 条院 御時 に︑ この 神楽 が始 めら れた とい う⑹
︒ 次 に︑ 設営 を記 す︒ ここ に︑ 温 明殿 南第 二間 神! 座! 前︑ 立廻 大 宋 御 屏風 四 帖︑ 其 内敷 小 莚 二枚
︑高 麗 半 帖 壱枚
︑為 御! 拝! 座!
︑︹ 東 面
︺御! 座! 左右 供燈 台各 一本
︹有 打敷
︑︺
︑ 第三 間西 簾下 敷 菅 円 座一 枚
︑為 覧! 御! 神! 楽! 座!
︑ 神 御唐 櫃 上 有 錦覆
︑其 上 本 引緋 綱 懸 鈴︑
︵ 同書
︑三 四五 頁︶ と室 礼が 記さ れて いる
︒ さ ら に︑ 内 侍 所 神 楽 の 式 次 第 が 二 度︑ 繰 り 返 し て 記 さ れ て い る
︒そ の 中 で
︑神 楽 の 次 第 は︑
﹁温 明 殿 神 殿 前
﹂に
﹁ 敷御 拝御 座﹂ が置 かれ てお り︑
﹁入 夜時 刻﹂ に帝 は﹁ 位袍
︑御 挿鞋
﹂の 姿で
﹁渡 御﹂ され る︒ そし て︑ 帝は
﹁御 内侍 所神 殿前
﹂の
﹁御 拝御 座﹂ に入 られ る︒ さら に︑ 神膳 を供 して
﹁主 上﹂ は﹁ 御笏
﹂を 召し て﹁ 御拝
﹂を 行な い︑ 終わ
― 53 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
ると
﹁女 官﹂ が鈴 を引 いて 三度 鳴 ら す︒ こ の神 事 が 終わ る と︑
﹁ 主上
﹂は
﹁額 間 御 座﹂ に 御す
︒こ こ か ら人 長 が 庭燎 の前 で行 事を する
︒す なわ ち︑ 琴・ 笛・ 篳篥
︵ひ ちり き︶ など を用 意し
︑勧 盃︑ 歌を 出し 舞を 起こ す︒ 次 に盃 酌が 一巡 する と︑ かつ て は人 長 の あ とに
︑﹁ 散! 楽!
﹂ に 奉仕 す る 者が い た
︒こ れ が終 わ る と︑ 佐井 波 利・ 星・ 朝倉
・楚 駒を 詠じ て人 長が 舞う
︒そ の後
︑各 々禄 を賜 ると いう 次第 であ る︒ こ のよ うに して
﹃江 家次 第﹄ が復! 元! す る内 侍所 神楽 の内 容は
︑倉 林 正次 氏 の 用語 を 用 い⑺
て ま と め︑ その 構 成 を復 元す ると 次の よう にな る︵
﹁
﹂ 内の 表現 は︑ 倉林 氏に よる 説明
︶︒ 儀式
︵﹁ 神祭 り﹂
︶ 温 明殿 の御 前に 置か れた 御拝 御座 に天 皇が 御す
︒ 天 皇の 御拝 があ り︑ 内侍 が唐 櫃の 鈴を 鳴ら す︒ 宴座
︵﹁ 雅楽 寮伶 人に よる 舞楽 奏舞
﹂︶ 温 明殿 の額 間の 御座 に天 皇が 御し
︑神 楽を 御覧 にな る︒ 穏座
︵﹁ 参加 者が 自演 自奏 し︑ 楽し みを 享受 する 管絃 の御 遊﹂
︶ 盃 酌を 一巡 させ る︒ 散 楽を 奉仕 する
︒ 禄 を賜 る︒ とい うこ とに なろ う︒ 最 初の 神事 の部 分は
︑﹃ 江 家次 第﹄ はこ れ以 上︑ 詳細 には 記さ れて い! な! い!
︒
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 54 ―
第 二段 階の 部分 には
﹁天 皇御 覧﹂ の座 が設 営さ れて いる から
︑天 照大 神を 祭祀 する 第一 段階 から
︑天 皇の 神楽 鑑賞 のた めに 儀礼 が転 換さ れた もの とみ える
︒こ のよ うに 見る と︑ 猿楽 は穏 座の 次第 の一! 部! に 属す る︒ この よう なあ りか たが
﹃江 家次 第﹄ によ って 復元 され た︑ 平安 時代 の内 侍所 神楽 の儀 式の 概要 であ る︒ か くて
︑平 安時 代か ら鎌 倉時 代へ 至る と︑ 内侍 所に おけ る猿 楽は どん どん 滑稽 味を 加え てい った と考 えら れる
︒
︵ 2︶
﹃中 右記
﹄そ の他 の日 記に みえ る猿 楽
﹁猿 楽﹂ と い う語 を 手 がか り に 猿楽 の 歴 史 的な 実 態 を考 察 す る方 法 は︑ 古 く 能勢 朝 次 氏 の
﹃能 楽 源 流 考﹄
︵岩 波 書 店︑ 一九 三八 年︶ に示 され たと おり であ る︒ あれ から 長き 日を 数え たが
︑最 近︑ 竹本 幹夫 氏の 報告 をう かが う機 会を 得た
︒竹 本氏 は︑
﹁ 猿楽
﹂の 事例 を︑
Ⅰ 雅 楽と 散楽
Ⅱ 相 撲節 会の 散楽
・猿 楽
Ⅲ 近 衛陪 従猿 楽
Ⅳ 貴 族に よる 淵酔 の猿 楽の 例
Ⅴ 修 正会 にお ける 寺院 扶持 の猿 楽
Ⅵ 推 参・ 祗候 の猿 楽
Ⅶ 延 年の 猿楽 に分 類さ れて いる
⑻
︒
― 55 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
竹 本氏 の報 告は まこ とに 詳細 なも ので ある が︑ 拝聴 した かぎ りで は結 局︑ 猿楽 の内 容を 具! 体! 的! に! 知る には
︑現 存の 歴史 資料 には 今も って 限界 があ るこ とを 痛感 せざ るを えな かっ た︒ そこ で︑ 竹本 氏の 成果 を踏 まえ
︑再 度︑ 右大 臣藤 原宗 忠の 日記
﹃中 右記
﹄を 対象 とし て︑ 竹本 氏の 分類 でい えば
︑Ⅰ
〜Ⅳ の範 囲に かぎ って
︑貴 族社 会あ るい は宮 廷社 会に おけ る﹁ 猿楽
﹂の 語の 用例 を確 認し てお こう
︒特 に︑ 散楽 ない しは 猿楽 の内 容の うか がえ る事 例を
︑簡 単に 瞥見 して おき たい
︒ち なみ に︑ なぜ
﹃中 右記
﹄な のか とい うと
︑こ の時 代の 歴史 資料 とし て代 表的 であ ると いう だけ でな く︑ すで に知 られ てい るよ うに
︑筆 者の 藤原 宗忠 は鳥 羽 天 皇 の清 暑 堂 神楽 に 召 人に 選 ば れ てお り
︑﹁ 歌 舞音 曲 に 秀で た家 の出 身﹂⑼ で ある
︒し たが って
︑古 代後 期一 一世 紀に おけ る猿 楽の 事例 を確 認す るに は都 合が よい から であ る︒
﹃ 中右 記﹄
・ 長和 二︵ 一〇 一三
︶年 八月 一日 条
相撲 御覧
﹁奏 猿楽
﹂と ある から
︑﹁ 猿楽
﹂は 楽曲 のひ とつ と認 識さ れた もの か︒ ちな みに
︑こ の事 例で は︑
﹁ 散楽
﹂と
﹁猿 楽﹂ とに は使 い分 けが ある かも しれ ない
︒
・ 寛仁 三︵ 一〇 一九
︶年 七月 二八 日条
相撲 抜出
﹁猿 楽﹂ は﹁ 奏舞 曲﹂ とあ るか ら︑ 基本 的に は舞 曲の ひと つと 認め られ る︒
・ 寛治 二︵ 一〇 八八
︶年 七月 二六 日条
相撲 御覧
﹁猿 楽﹂ には
﹁中 有雑 芸﹂ とい う割 注が ある ので
︑こ の場 合は 単な る﹁ 舞曲
﹂で はな く︑
﹁雑 芸﹂ の披 露が 含ま れて いる とみ える
︒竹 本氏 は﹁ 曲芸 など は﹃ 新猿 楽記
﹄に 通ず る﹂ とコ メン トさ れて いる
︒
・ 寛治 七︵ 一〇 九三
︶年 一〇 月三 日条
御幸 日吉 社
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 56 ―
神 事終 了後
︑改 めて 座を 敷き
︑御 神 楽 を 行う
︒﹁ 散 楽﹂ は﹁ 互 尽其 術
﹂と あ る︒ 寛治 二 年 の 事例 と 同 様の 内 容 をも つか
︒﹁ 在 座上 下本 山大 衆見 之︑ 莫不 含笑
﹂と あ り︑ 内 容は 滑 稽 なも の で あっ た と 考 えら れ る︒ な お︑ 陪従 に 家 綱の 名前 がみ える
︒ 竹 本氏 は︑ この 事例 につ いて
﹁宮 中の 御神 楽や 諸社 行幸 の際 の神 楽に は︑ 神事 の終 了後 の扈 従の 近衛 陪従 が散 楽・ 猿楽 を演 じる こと
︑相 撲節 会と 同様 であ った
︒こ れら は﹃ 宇治 拾遺 物語
﹄等 の説 話集 にも その 逸話 が採 録さ れる ほど 人気 が高 かっ たの であ ろう が︑ 散楽 芸と して は︑ 相撲 節会 の散 楽よ りも さら に内 容が 限定 され
︑ほ とん どコ ント 的な 所作 に限 定さ れて いる
︒そ の背 景に 猿楽 自体 の変 質も あろ うが
︑猿 楽と いえ ば滑 稽な もの
︑ふ ざけ たこ とと いう 貴族 社会 の通 念が
︑摂 関期 前後 から 固定 化し てい たら しい こと も与 って いよ う﹂ と論 じて おら れる
︒
・ 嘉保 元︵ 一〇 九四
︶年 正月 二日 条
臨時 客 こ の場 合は
︑神 事を 伴わ ない ので
︑催 馬楽 や朗 詠の 終了 後︑
﹁ 淵酔
︵ゑ んず い︶
﹂の 中の 座興 的性 格を もつ か︒ 竹本 氏は
︑こ の事 例に つい て﹁ 殿上 人に よる 淵酔 の際 の散 楽・ 猿楽 の例 は極 めて 多く
︑正 月の 賀宴 や五 節の 後の 帳代 前等 での 散楽
︑そ の他 の酒 宴な どで 演じ られ てい る︒ 儀式 の後 宴な どで は︑ 催馬 楽・ 朗詠
・今 様な どの 歌唱 の後 に散 楽に 移行 した
︒多 くは 乱舞
・雑 芸を 内容 とす るも ので あっ たこ とが わか る︒ 乱舞
・猿 楽を 並列 して 記す 例も ある が︑ 乱舞 も猿 楽芸 の一 部と 捉え るこ とが 出来 よう
︵以 下略
︶﹂ と 論じ てお られ る︒ そ の他
︑﹃ 中 右記
﹄に は﹁ 猿楽
﹂の 事例 に次 のよ うな もの があ る︒
・ 嘉保 元︵ 一〇 九四
︶年 正月 三日 条
朝覲 行幸
・ 嘉保 二︵ 一〇 九五
︶年 一一 月二 四日 条
節会
― 57 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
・ 承徳 元︵ 一〇 九七
︶年 正月 八日 条
御斎 会 なお
︑こ の事 例に は︑
﹁ 散楽
﹂の 演じ 手と して
︑家 綱・ 知定 等の 名前 がみ える
︒
・ 承徳 元︵ 一〇 九七
︶年 三月 二八 日条
春日 行幸
・ 承徳 二︵ 一〇 九八
︶年 一一 月二 一日 条
五節 か くて
︑残 念 な が ら﹃ 中右 記
﹄に は 内侍 所 神 楽に お け る 猿楽 の 事 例が 見 出 せ ない
︒さ ら に 注 目 す べ き 事 例 は
﹃兵 範 記﹄ に︑
・ 保元 三︵ 一〇 五八
︶年 六月 二八 日条
相撲 抜出 御覧 が み え る⑽
︒こ の 事 例 で は
︑猿 楽 の 内 容 が
﹁雑 芸﹂ で あ り︑
﹁荒 輪
・鼓 弄
・環
・高 足 二 足﹂ な ど が 例 示 さ れ て い る︒ なお
︑左 の相 撲が 庭に 進む とき
︑最 手に 家綱 の名 前が 見え る︒ ま た﹃ 長秋 記﹄ には
︑少 し時 代が 下が るが
︑
・ 元永 二︵ 一一 一九
︶年 一二 月八 日条
内侍 所神 楽 がみ える
⑾
︒こ れは
︑内 侍所 神楽 に伴 う散 楽の 事例 であ るが
︑残 念な がら 猿楽 の 具 体的 な 内 容 は詳 し く 記さ れ て いな い︒ ただ し︑ この 事例 には
︑演 じ手 とし て︑ 元輔 や清 仲の 名前 がみ える
︒ い ずれ にし ても
︑右 の﹃ 中右 記﹄ その 他多 くの 事例 によ れば
︑猿 楽は
︑貴 族社 会も しく は宮 廷社 会の 事例 でも
︑舞 曲・ 楽曲 のひ とつ と推 定さ れる 事例 から
︑雑 芸化 した もの とみ られ る事 例ま で︑ 多様 なさ まを みせ てい るこ とが 分か る︒ ただ
︑そ れが 歴史 的な 変化 を表 すも のか
︑演 じら れる 機会 ごと のち がい によ るも のな のか
︑即 断は でき ない
︒
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 58 ―
こ のよ うに
︑﹃ 江 家次 第﹄ に内 侍所 神楽 に関 する 記述 があ るこ とは すで にふ れた が︑
﹃江 家次 第﹄ は︑ 周知 のと おり 歴代 侍読 を輩 出し た大 江家 の学 者匡 房が 儀式 の復 元 を 試 みた も の で︑ この 限 り でも 儀 式 の 概! 要! は あ る程 度 掴︵ つ か︶ める
︒た だ︑ 源師 時の 日記
﹃長 秋記
﹄は
︑皇 后宮 権大 夫の 立場 から 見聞 のか ぎり を示 して いて
︑と ても 儀式 書の よう な内 容の 説明 はな く︑ 猿楽 の中 身を 知り たい とす る立 場か らみ れば
︑い ささ か物 足り ない
︒ 今 参 考 と して
︑儀 式 に おけ る 室 礼の 配 置 を 復元 し た﹃ 雲 図抄
﹄⑿
︵鳥 羽 院の 御 時︵ 院 政 の開 始 は 一一 二 九 年 以 降︶
︑ 蔵人 頭藤 原顕 隆の 制作 とい う︶ を併 せ見 ると
︑儀 式の 光景 と儀 式の 本義 がよ く理 解で きる
︒
﹃雲 図抄
﹄の 図の 上方
︵図 につ い て は省 略
︶が
︑神 鏡 を奉 安 す る温 明 殿︵ 内 侍 所︶ であ り
︑図 の 下方 が
︑綾 綺 殿で ある と考 えら れる
︒内 侍所 神楽 の祭 祀の 場所 は︑ この 両殿 舎の 間に
︵仮 設の 形で
︶設 営さ れる
︒ ま ず︑ 神事 は︑ 波形 の屏 風に 囲ま れた 部分 が天 皇の 御座 で︑ 屏風 は天 皇を 取り 囲み
︑天 皇は 上方
︵内 侍所
︶に 向い て座 し︑ 内侍 所に 向か って 拝礼 する
︒ 神 事が 終わ ると
︑次 に直 会・ 饗宴 が行 われ る︒ まず
︑天 皇は 綾綺 殿の 額間 に移 御さ れる
︒と ころ が︑ 天皇 の御 座を 囲む 屏風 は︑ 神事 のと きと は逆 で︑ 内侍 所を 背に して 設営 され る︒ 神楽 は︑ 天皇 に向 けて 奉納 され るが
︑殿 上人 たち は︑ 天皇 を通 して 内侍 所を 感じ ると いう 仕掛 けに なっ てい ると 見ら れる
︒ と こ ろ で︑ 中 本氏 は 内 侍所 神 楽 が﹁ 最初 か ら 神 前の 御 神 楽と し て 成立
﹂し た も の で あ る と し て
︑寛 弘 二
︵一
〇
〇 五︶ 年の 内侍 所の 焼失 を機 に﹁ 神鏡 の神 慮を 慰め るた めに
︑一 条天 皇に よっ て御 神楽 が行 われ た﹂ こと を創 始と する とい われ る⒀
︒ そう であ れば
︑神 楽は 単純 に天 皇に 奉納 され るだ けの も の では な く︑ 内 侍 所神 楽 の 理解 は
︑松 前 氏の 考え に添 って 理解 して よい であ ろう
︒
― 59 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
二 第四 七 話 にお け る 猿楽 の 構 成要 素 今
度は
︑﹃ 宇 治﹄ 第七 四話 の表 現に 即し て猿 楽の 描か れ方 をみ てみ よう
︒ 是 も今 は昔
︑陪 従は さも こそ はと いひ なが ら︑ これ は世 にな きほ どの 猿楽 なり けり
︒ 堀 川院 の御 時︑ 内侍 所の 御 神 楽 の夜
︑仰 に て︑
﹁ 今夜 め づ らし か ら ん 事︑ 仕れ
﹂と 仰 あ りけ れ ば︑ 職 事︑ 家綱 を召 して
︑此 よし 仰け り︒ 承て
︑﹁ 何 事を か せ ま し﹂ と案 じ て︑ 弟 行綱 を か たす み に ま ねき よ せ て︑
﹁か ゝ る 事︑ おほ せ下 され たれ ば︑ わが 案じ たる 事の あ る は︑ い かゞ あ る べき
﹂と い ひ けれ ば
︑﹁ い か やう な る 事を せ さ せ給 はん ずる ぞ﹂ と云 に︑ 家綱 がい ふや う︑
﹁ 庭火
︑し ろく 焼た るに
︑①
袴を たか く ひ きあ げ て︑ 細 脛を い だ し て
︑
﹁
② よ りに
! "
夜の ふけ
︑さ りに
! "
さむ きに
︑ふ り ちう ふ ぐ りを
︑あ り ち う あぶ ら ん
﹂と い ひて
︑③ 庭 火を 三め ぐり ばか り︑ 走め ぐら ん と思 ふ︒ いか ゞあ るべ き﹂ とい ふに
︑行 綱が いは く︑
﹁さ も 侍な ん
︒た ゞ し︑ 大や け の御 前 に て︑ 細 脛を か き いだ し て︑ ふ ぐり あ ぶ ら んな ど 候 はむ は
︑便 な く や 候 べ か ら ん
﹂と い ひ け れ ば
︑家 綱︑
﹁ まこ とに
︑さ いは れた り︒ さら ば︑ 異事 をこ そせ め︒ かし こう 申あ はせ てけ り﹂ とい ひけ る︒ 殿 上人 など
︑仰 を奉
︵う けた まは
︶り たれ ば︑ こよ ひ︑ いか なる 事を せん ずら んと
︑目 をす まし て待 つに
︑人 長﹁ 家綱 召す
﹂と 召せ ば︑ 家綱 出て
︑さ せる 事な きや うに て入 ぬれ ば︑ 上よ りも
︑そ のこ とと なき やう にお ぼし めす 程に
︑人 長︑ 又す ゝみ て︑
﹁ 行綱 召す
﹂と 召す 時︑ 行綱
︑①
誠に 寒げ なる 気色 をし て︑ ひざ を もゝ ま で かき あ げて
︑細 脛 を 出 して わ な なき
︑寒 げ な る声 に て
︑﹁
② より に
!
"
夜の ふ け て︑ さ り に
!
"
寒 き に
︑ふ り ち う
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 60 ―
ふ ぐり を
︑あ り ち うあ ぶ ら ん
﹂ と いひ て
︑③
庭火 を 十 ま はり ば か り︑ 走廻 り た りけ る に
︑上 よ り 下 ざ ま に い たる まで
︑大 かた どよ みた りけ り︒ 家 綱︑ かた すみ にか くれ て
︑﹁ き や つに
︑か な し う︑ はか ら れ ぬる こ と﹂ と て︑ 中 たが ひ し て︑ 目も 見 合 はせ ずし て︑ すぐ るほ どに
︑家 綱思 ける は
︑﹁ は か られ た る はに く け れど
︑さ て の み やむ べ き にあ ら ず﹂ と 思て
︑行 綱に いふ やう
︑﹁ こ の事
︑さ のみ ぞ あ る︒ さり と て︑ 兄 弟の 中
︑た が ひは つ べ き にあ ら ず﹂ と いひ け れ ば︑ 行く 綱︑ 喜て
︑ゆ きむ つび けり
︒ 賀 茂の 臨時 祭の 帰立 に︑ 御神 楽の ある
に︑ 行綱
︑家 綱に いふ やう
︑﹁ 人 長召 した てん 時︑ 竹台 のも とに より て︑ そゝ めか んず るに
︑﹁ あ れは
︑な んす る物 ぞ﹂ とは やい 給へ
︒そ の時
︑﹁ 竹豹 ぞ︑
! "
﹂と いひ て︑ 豹の まね をつ くさ ん﹂ とい ひけ れば
︑家 綱︑
﹁ こと にも あら ず︒ ての きは はや さん
﹂と 事う けし つ︒ さ て︑ 人長
︑た ちす ゝみ て︑
﹁﹁ 行 綱︑ 召す
﹂と いふ 時︑ 行綱
︑や をら たち て︑ 竹の 台の もと によ りて
︑這 ひあ りき て︑
﹁ あれ はな にす る ぞ や﹂ と いは ば
︑そ れ につ き て︑
﹁ 竹豹 ぞ
﹂と い は むと 待 程 に︑ 家綱
︑﹁ か れ は︑ なん ぞの 竹豹 ぞ﹂ と問 けれ ば︑ 詮に いは んと 思 ふ 竹 豹を
︑さ き に いは れ に けれ ば
︑い ふ べ き事 な く て︑ ふと 逃 げ て︑ 走入 にけ り︒ 此 事
︑上 ま で きこ し め して
︑中 く ゆ ゝし き 興 に てぞ 有 け ると か や︒ さ きに 行 綱 に は か ら れ た り け る 当
︵あ た り︶ とぞ いひ ける
⒁
︒ 猿
楽の 所作 は滑 稽で あれ ば何 でも よい のだ ろう か︒ 説話 の表 現に 即し てい うと
︑帝 が猿 楽に 今ま での もの は見 飽き
― 61 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
た︑
﹁ め! づ! ら! し! か! ら! ん! 事!
﹂を 求め た︒ とり わけ
﹁世 にな きほ どの 猿楽
﹂の 人た ちに 求め た︒ つま り︑
﹁猿 楽﹂ たち の演 じた 内容 は当 代に あっ ては
︑意 表を 突く 斬新 な意 匠で あっ たと いえ る︒ 第 七四 話に おい て︑ 家綱 の考 えた 猿楽 の所 作︵ 一回 目︶ の要 素︑
① 袴 をた かく ひき あげ て︑ 細脛 をい だし て︑
② よ りに
! "
夜の ふけ
︑さ りに
! "
さむ きに
︑ふ りち うふ ぐり
を︑ あり ちう あぶ らん
③ 庭 火を 三め ぐり ばか り︑ 走め ぐら ん と︑ 行綱 の実 行し た猿 楽の 所作
︵二 回目
︶と を比 べ ると
︑① は 装束 の 異 裝︑
②は 卑 猥 で滑 稽 な 言葉
︑③ は 乱舞
⒂
︑と いう 共通 点を 取り 出す こと がで きる
︒② は︑ 単に 卑猥 であ ると いう ので はな く︑ 猥褻 な言 葉の 冒頭 を導 く語 を重 ねて 挿入 して いて
︑リ ズミ カル で滑 稽な 遊! 戯! 的! な 表現 にな って いる
︒こ こに 描か れて いる 猿楽 は︑ それ まで のも のと 比べ て︑ 突出 して いる とす れば
︑② の部 分で ある
︒ そ うす ると
︑二 回目 の行 綱の 場合
︑行 綱 が﹁ 誠に 寒 げ な る気 色 を して
﹂﹁ ひ ざ をも ゝ ま で かき あ げ て﹂
﹁わ な な き︑ 寒げ なる 声に て﹂ など の表 現は
︑卑 猥な 言葉 を効 果的 なも のと する 行綱 の工! 夫! と みな せる
︒ま た︑ 家綱 は﹁ 庭火 を三 めぐ り﹂ する 考え をも ちか けた が︑ 行綱 の実 演し たこ とは
﹁庭 火を 十ま はり ばか り﹂ 走り 回っ たと ある
︒こ れも 予想 をは るか に超 えた
︑行 綱の 猿楽 ぶり を示 す演! 出! で あり
︑編 者か らい えば 誇! 張! であ った とい える
︒ も ち ろ ん︑ こ のよ う な 所作 が
﹃宇 治﹄ 固 有の も の︑ 独 自 のも の で! な! い! こ と は︑ 同一 説 話 で あ る
﹃十 訓 抄
﹄⒃
に お い ても ほぼ 同様 の表 現が 認め られ るか ら︑ 猿楽 的な 所作 は︑ 表現 類型 とし て成 立︑ 共有 され てい ると いえ る︒ そ れで は︑
﹃ 十訓 抄﹄ 中・ 七ノ 一七 にお ける 猿楽 の描 かれ 方を みて おこ う︒
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 62 ―
堀 河院 の御 時︑ おと とい にて
︑家 綱・ 行綱 とい ふ陪 従あ りけ り︒ 無双 の猿 楽ど もな り︒ 内 侍所 の御 神楽 の夜
︑﹁ 今 夜︑ めづ らし か ら むこ と
︑つ か うま つ る べし
﹂と 職 事 に て︑ この 二 人 に仰 せ ら れた りけ れば
︑こ とに ひき つく ろふ べき よ し 申 して
︑家 綱
︑弟 の 行綱 に い ふや う
︑﹁ か く こと に 仰 せ下 さ れ たり
︒わ れ思 ふ やう は
︑①
上の 袴 を 高 くか り あ げて
︑細 脛 を 出し て
︑③ 庭 火 を走 り 回 りて
︑を せ む やう に て
︑﹁
② よ りち う夜 更に ふけ
て︑ さり けう 寒き に︑ ふり けう ふぐ りを
︑あ りけ うあ ぶ ら む
﹂ と いひ て
︑③ と かへ り ば かり 走り めぐ らむ と 思ふ
︒い かが ある べき
﹂と いひ あは せけ れば
︑行 綱︑
﹁ま こと にさ りな む︒ た だし
︑お ほ や けの 御前 にて
︑ふ ぐり あぶ らむ など 候は む こ と︑ む げに げ び て︑ おそ れ や 候は む ず ら む﹂ とい ふ
︒﹁ か しこ く 申 し合 はせ けり
﹂と て︑ さし もな きこ とを して
︑入 りに けり
︒ そ の 次 に︑ 行 綱︑
① 脛 を かか げ て︑ の け さま に そ れか へ り て
︑ か の兄 が い ひ つ る こ と を た が へ ず︑
① 声 を 寒 げに わ な な かし て
︑ほ そ めて
︑︵
② が﹁ 欠 落﹂
︶③ 庭 火を 走 り 回 りた り け る に
︑お ほ か た
︑主 上 を は じ め 参 らせ て︑ 笑は せ給 ふこ とか ぎり なし
︒ そ のの ちに
︑弟 にな かた がひ て︑
﹁ 心憂 き こ とな り
︒か う ほど に お き出 さ る る こと
︑左 右 に 及ば ず
︒敵 に こそ あれ
﹂と て︑ 二三 年は 面︵ おも て︶ もむ か は ざ りけ り
︒兄 家 綱思 ふ や うや あ り け む︑
﹁こ の こ と︑ さら さ ら 不審 ある べか らず
︒さ のみ こそ あれ
︑こ れに より て兄 弟の 恨み はつ べき にあ らず
﹂と て︑ なか よく なり にけ れば
︑行 綱︑
﹁ これ 本意 なり
﹂と て︑ すぎ ゆく ほど に︑ 賀茂 の臨 時祭 の還 立︵ かへ りだ ち︶ の御 神楽 に︑
﹁今 夜︑ めづ らし から むこ と︑ つか うま つれ
﹂と 仰せ 下 さ れ けれ ば
︑行 綱︑ 兄 の家 綱 に いふ や う︑
﹁ こ の竹 台 の もと に
︑そ そ めき 行か む︒ それ を﹁ あれ は
︑な に す るも の ぞ﹂ と︑ は やし 給 へ︒ そ れに つ け て︑
﹁ 竹豹 ぞ
﹂と て︑ 豹 の振 舞 を つく
― 63 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
さ む﹂ とい ひ け れ ば︑ 家綱
︑﹁ お も しろ か り な む
︑手 の き は
︑は や さ む
﹂と い ひ け れ ば
︑行 綱
︑竹 台 の も と に︑ す るぼ ひ あ り きけ れ ば︑ 家 綱︑
﹁あ れ は︑ な にす る 竹 豹 ぞ﹂ とは や し たり け り
︒い は む と し た く し た る こ と を︑ さき にい はれ にけ れば
︑い ふべ きこ とな くて
︑ふ と入 りに けり
︒ こ のこ と︑ 上ま で聞 こし めし て︑ なか なか ゆゆ しき 御興 にて ぞあ りけ る︒ たが ひに はか られ たる
︑を かし
︒先 年の 答︑ こと に興 あり
⒄
︒
﹃ 十訓 抄
﹄の 場 合︑ 家 綱の 当 初 の計 画 に 対し て
︑行 綱 の 実行 し た こと は
﹁脛 を かか げ て
︑の け さ ま に そ れ か へ り て﹂ とあ り︑ これ は誇 張が 加え られ たも ので あ る︒ ま た︑
﹁ 声を 寒 げ にわ な な かし て
︑ほ そ め て﹂ は卑 猥 な 言葉 の 効 果を 高め るた めの 工夫 とい える
︒ た だし
︑﹁ か の兄 がい ひつ るこ とを たが へず
﹂と あ る ので
︑行 綱 の 時に は
︑滑 稽 で卑 猥 な 言 葉を 発 し なか っ た か! の! よ! う! に! 見 える かも しれ ない が︑ そう では ない
︒﹃ 十 訓抄
﹄は
︑表 現と して の繰 り返 しを 避! け! た! の であ る︒
﹃宇 治﹄ が繰 り返 しの 中で
︑面 白さ を伝 えよ うと した の に 対 して
︑﹃ 十 訓 抄﹄ の関 心 は そこ に な か った と い える
︒い う な らば
︑① の異 裝︑
③の 乱舞 に比 べて
︑特 に② 滑稽 で卑 猥な 言葉 は︑
﹃ 宇治
﹄だ けの 誇張 とい うよ りも
︑﹃ 宇治
﹄の こ! だ! わ! り! を示 した 部分 であ って
︑平 安時 代か ら鎌 倉時 代へ とい う時 代の 宮廷 にお ける 猿楽 の重 要な 構成 要素 とし て﹃ 宇治
﹄が こと さら 強調 した 可能 性が ある
︒こ の過 渡期 に︑ さら なる 誇張 や過 剰の 演出 など が求 めら れて いた もの とみ える
︒ い ずれ にし ても
︑② の要 件 は﹃ 宇 治﹄ 第 七四 話 に して も
︑﹃ 十 訓抄
﹄に し て も︑ ど ちら も
﹁珍 し から む こ と﹂ をい う帝! の! 所! 望! に 応え る形 で突 出し た演 出だ と考 える ほう がよ いで あろ う︒
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 64 ―
ま と め 第 七 四話 及 び 第三 話 は どう 読 め るの か 改
めて 言う こと でも ない が︑ 猿楽 の起 源 に つ いて は
︑﹃ 古 事記
﹄に お け る天 岩 戸 の 神話 や
﹃日 本 書紀
﹄に み え る俳 優︵ わざ をぎ
︶や 服属 儀礼 の伝 統が ある こと はよ く知 られ てい る︒ 逆に 言え ば︑ 猿楽 のも つ猥 褻で 滑稽 な属 性を
︑遥 か遠 く天 岩戸 の神 話に 求め るこ とは 誤り で は な い︒ ただ
︑そ の こ とだ け で は﹃ 宇治
﹄の 猿 楽 の 読み 解 け そう に な い︒ ある いは
︑こ の神 楽の
﹁前 身﹂ が︑
﹁ 宮廷 を祝 福し に参 入 し た神 人 団 の持 ち 伝 えた も の で あり
︑海 の 神 の信 仰 に 関係 の深 い八 幡系 統の 神事 芸で あっ たこ とは
︑阿 知女 が実 は阿 曇磯 良︵ あず みの いそ ら︶ とい う︑ 醜怪 な海 の精 霊と みな され る﹂⒅ と ころ に︑ この 神楽 の古 層が うか がえ る︒ た だ︑ 本稿 の目 的は 芸能 の起 源の 究明 にあ るの では なく
︑﹃ 宇 治﹄ の説 話解 釈に 尽き る︒ す なわ ち︑
﹃ 宇治
﹄の 研究 の側 から
︑も う一 度第 七 四 話の 表 現 を辿 っ て みる と
︑最 初 に﹁ こ れは 世 に なき ほ ど の猿 楽﹂ とし て︑ 家綱
・行 綱が 紹 介 さ れる
︒﹁ 内 侍 所の 御 神 楽﹂ の夜 に
︑帝 は﹁ 今 夜︑ め づら し か らん 事
︑仕 れ﹂ と 仰せ を下 した
︒そ こで
︑陪 従の 兄弟 は︑
﹁ 何事 を か せま し
﹂と 相 談す る
︒最 初︑ 家 綱が 思 い 切 った こ と を提 案 す るが
︑行 綱は
︑そ の考 えは 面白 いが
﹁お ほや けの 御前 にて
﹂行 なう には
︑そ のよ うな 所作 は﹁ 便な くや 候べ から ん﹂ と難 じた ので
︑家 綱は それ もそ うか な︑ 別の こと をし よう と思 い直 す︒ 家綱 と行 綱二 人の 意見 の対 立は
︑あ たか も古 代的 な規! 範! と
︑中 世的 な逸! 脱! の 対比 とみ える
︒ と ころ が行 綱は 裏切 って
︑家 綱の 提案 を﹁ 横取 り﹂ して 自分 が演 じて しま う︒ 行綱 が家 綱を 騙︵ だま
︶し てま でウ
― 65 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
ケを 狙っ て成 功し たこ とに つい て︑
﹁ 大や け﹂ の御 咎め があ った とは
︑説 話は 語っ てい ない
︒﹁ 大か たど よみ
﹂し たと いう ばか りで ある
︒す なわ ち﹁ 上よ り下 ざま にい たる まで
﹂と いう 表現 には
︑帝 も含 まれ ては いる であ ろう が︑ 満! 座! の喝 采を 浴び たこ とに 焦点 があ る︒ 一 方︑
﹃ 十訓 抄﹄ では
︑行 綱の 所作 に﹁ 主上 を は じめ 参 ら せて
︑笑 は せ 給ふ こ と か ぎり な し﹂ と あり
︑特 に 帝! が! 御 満悦 であ った こと を伝 えて いる こと と対 照的 であ る︒ 次 に︑ その 後︑ 今度 は家 綱が 騙し 打 ち を して
︑行 綱 に やり か え した こ と を︑
﹃ 宇治
﹄が
﹁此 事
︑上 ま でき こ し めし て︑ 中々 ゆゝ しき 興﹂ だっ たと いう のは
︑帝 が猿 楽の 中身 より も︑ この 兄弟 の駆 け引 きを 面白 いと 思っ たと いう こと であ る︒ 物語 の顛 末︵ てん まつ
︶は 終始
︑帝 がど う受 け止 める かに かか って いて
︑内 侍所 の神 々と の関 係は 一切 語ら れる こと はな い︒ もは や︑
﹃ 宇治
﹄の 説話 は︑ 古代 のも の で ある と い うよ り も︑ 中 世の も の へ と傾 斜 し てい る よ うに みえ る︒ 帝の 指示 と期 待を 越え た行 綱の 所作 とと もに
︑兄 弟の 猿楽 同士 の騙 し合 いの
﹁嗚 滸︵ をこ
︶さ 加減
﹂も また 見物 であ った とい う︑ 皮肉 な結 果を 招来 した とい うこ とが 重要 であ る︒ す なわ ち第 七四 話で は︑ 帝が 猿楽 の滑 稽さ を楽 しむ とい うだ けで なく
︑こ の兄 弟の 騙し 合い を帝 が聞 き及 び︑ いた く興 じら れた とい うこ とが
︑説 話の 主題 にか かわ る︒ ただ
︑帝 から 下賜
︵か し︶ され た禄 があ った かな かっ たか まで は記 され てい ない
︒あ くま でも 帝の 興の 有無 が物 語の 関心 事な ので ある
︒ 翻
︵ひ るが え︶ って 難し いの は︑ 第三 話で ある
︒興 味深 いこ とは
︑第 三話 にお いて
︑最 初に 横座 の鬼 が﹁ さも め! づ! ら! し! か! ら! ん! か! な! で! を見 ばや
﹂と 所望 した こと は︑ 第七 四話 の展 開の 契機 と類 似し てい る︒ 横座 の鬼 の意 向を 受け
︑鬼 たち が舞 い興 じる 中に
︑翁 は木 の洞 から 飛び 出し て舞 踊る こと にな る︒ 違う こと は︑ 横座 の鬼 は︑ いう まで もな いこ
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 66 ―
と だが 帝 で は なく
︑メ ル ヘ ンに い う
妖精
fairy
で あ り︑ 日 本で い え ば神
格
spirit
に 属 す る︒ でな け れ ば︑ 翁 の瘤 を 取 って やる こと はで きな い︒ 戯画 化さ れて いる とは いえ
︑鬼 と表 現さ れる 神格 が翁 のも てな しに よっ て満 足を 得る こと にお いて
︑翁 は瘤 を取 って もら える とい う福 や幸 を授 かる ので ある
︒ と ころ で﹃ 宇治
﹄の 場合
︑第 七四 話と 第三 話と の間 で︑ 猿楽 の内 容に つい て一 致し てい るわ けで はな い︒ 第三 話に あっ ては
︑① の異 裝と
③の 乱舞 は︑ 表現 こそ 違え
︑要 素と して は対 応し てい るが
︑② の卑 猥な 類型 表現 は﹁ 欠落
﹂し てい ると み! え! る!
︒ その こと をど うみ るか であ る︒ 第七 四話 と第 三話 とは
︑同 じ説 話集 の中 に組 み込 まれ てい るの であ るか ら︑ 両者 の間 にひ とま ず統 一性 を認 める こと があ って もよ い︒ つ ま り︑
﹃ 宇 治﹄ 第三 話 で は︑ 翁の 舞 踊 りは
︑神 格 た る 横座 の 鬼 に対 し て 献上 さ れ た も の で あ る
︒こ れ に 対 し て︑
﹃ 宇治
﹄第 七四 話に おい て猿 楽は
︑も はや 内侍 所の 神々 に 対 して で は なく
︑帝! そ! の! 人! に 対 し て 献上 さ れ たも の に すぎ ない
︒説 話が 堀河 院の 御時 のこ とと して 設定 され なが ら︑ 世! 俗! の! 卑 俗な 笑い に徹 した とこ ろに
﹃宇 治﹄ の中! 世! と して の説 話へ の傾! 斜! が みと めら れる
︒ 言 わず もが なの こと であ るが
︑付 言す れば
︑特 にこ の説 話は
︑源 隆国 の編 纂に なる
﹃宇 治大 納言 物語
﹄か ら引 き継 ぐ源 材で ある 可能 性が 高い
︒こ こで 詳し く論 じる 暇は な いが
︑例 え ば﹃ 古 事談
﹄に は
︑次 の よ うな 逸 話⒆
が 載 っ てい る︒ 帝 の御 装束 に奉 仕し た折
︑隆 国は 帝の 玉茎 を﹁ 探り 奉る
﹂こ とを した とい う︒ 主上 は︵ 怒っ て︶ 隆国 の冠 を撃 ち落 とし たが
︑﹁ 敢 へて 事と なさ ず﹂ に﹁ 本取 を放 ち﹂ した だけ だっ たと いう
︒し かも この よう な悪 戯は
﹁是 れ毎 度の 事﹂ だっ た とい う
︒そ の よ うな 行 動 と事 の 顛 末に
﹃宇 治 大 納 言物 語
﹄の 原 作者 と さ れる 源 隆 国 の
character
は
︑実 に よく
― 67 ―
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
出て いる と思 う︒ 屈託 がな く︑ 悪戯 を 好 み︑ 愚 かさ を 愛 する 精 神 こそ
︑﹃ 宇 治﹄ が﹃ 宇 治 大納 言 物 語﹄ から 引 き 継い だも ので あっ た︑ とい える だろ う︒ 注
猿 楽 に つ い て は
︑ 多 く の 先 行 研 究 が あ る こ と は 周 知 の と お り で あ る が
︑ 本 稿 を な す に あ た っ て
︑ 引 用 し た も の 以 外 の も の も 含 め て
︑ 特 に 学 恩 を 蒙 っ た も の を 挙 げ て
︑ 謝 意 を 表 し た い
︒
・ 林 屋 辰 三 郎
﹃ 中 世 芸 能 史 の 研 究
﹄ 岩 波 書 店
︑ 一 九 六
〇 年
︒
・ 倉 林 正 次
﹃ 祭 り の 構 造
﹄ 日 本 放 送 出 版 協 会
︑ 一 九 七 五 年
︒
・ 天 野 文 雄
﹃ 翁 猿 楽 の 研 究
﹄ 和 泉 書 院
︑ 一 九 九 五 年
︒
・ 田 口 和 夫
﹁ 宇 治 拾 遺 物 語 に お け る 猿 楽 の 影
﹂﹃ 説 話 と 伝 承 と 略 縁 起
﹄ 新 典 社
︑ 一 九 九 六 年
︒
・ 倉 林 正 次
﹃ 饗 宴 の 研 究 儀 礼 編
﹄/
﹃ 饗 宴 の 研 究 文 学 編
﹄/
﹃ 饗 宴 の 研 究 祭 祀 編
﹄ 桜 楓 社
︑ 一 九 八 七 年
︒
・ 小 峯 和 明
﹁ 方 法 と し て の
︿ 猿 楽
﹀﹂
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語 の 表 現 時 空
﹄ 若 草 書 房
︑ 一 九 九 九 年
︒
・ 植 木 行 宣
﹃ 中 世 芸 能 の 形 成 過 程 芸 能 文 化 史 論 集
Ⅰ
﹄ 岩 田 書 院
︑ 二
〇
〇 九 年
︒
・ 中 本 真 人
﹃ 宮 廷 御 神 楽 芸 能 史
﹄ 新 典 社
︑ 二
〇 一 三 年
︒
⑴ 廣 田 收
﹁ 瘤 取 翁 考
﹂﹃
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 表 現 の 研 究
﹄ 笠 間 書 院
︑ 二
〇
〇 三 年
︒ な お
︑ 早 く 奥 村 悦 三 氏 は
︑﹁ 横 座
﹂ と い う 語 に 注 目 し た
︑ 卓 越 し た 御 論 を 発 表 し て お ら れ た
︵﹁ 瘤 を な く す 話
﹂﹃ 研 究 紀 要
﹄︵ 光 華 女 子 大 学
︶ 第 二 三 号
︑ 一 九 八 五 年 一 二 月
︶ の だ が
︑ 二
〇
〇 三 年 当 時
︑ 拝 読 す る 機 会 を 失 し た
︒ こ の こ と に つ い て は す で に 少 し ば か り
﹃﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ の 中 の 昔 話
﹄ 新 典 社
︑ 二
〇
〇 九 年
︶ に お い て 触 れ た こ と が あ る
︒
⑵ 廣 田 收
﹁ 民 間 説 話 の 歴 史 性 と は 何 か
│﹃ 風 土 記
﹄ の 在 地 神 話 と 昔 話
︑ そ し て 中 世 神 話
﹂ 同 志 社 大 学 人 文 学 会 編
﹃ 人 文 学
﹄ 第 六 六 号
︑ 二
〇 一 七 年 三 月
︒ な お
︑ 誓 約
︵ ウ ケ ヒ
︶ に つ い て
︑ 土 橋 寛 氏 に よ る と
﹁ ウ ケ ヒ は 過 去
・ 現 在
・ 未 来 の 知 る こ と の で き な い
﹁ 真 実
﹂﹁
︵﹁ 神 意
﹂
﹃ 宇 治 拾 遺 物 語
﹄ 猿 楽 考
― 68 ―