原理論と段階論との関連について
付
ll
宇 野 理 論 に お け る 原 理 論 の 構 造
i l
j炎
路
治
憲
let
じ め
① いわゆる宇野理論については︑これまで多くの批判検討がなされてきたが︑それらの批判の一つの中心点は︑宇野
理論において︑原理論と段階論とが形式的に切断され︑両者には内的な論理の連関が欠如している︑
とい
う占
⁝に
つい
その原理論においては︑完結性が強く要請され︑原理論は純粋な資本主義における経済的運
動法則を解明するものであり︑この法則はいわば同一次元における︑氷久にくりかえすものとして展開される︒したが
その経済的運動法則の結果として︑原理論世界の消滅の必然性は展開されえないのみなら てである︒教授の場合︑
って
︑原
理論
にお
いて
は︑
ず︑
かえ
って
︑
そのような永遠にくりかえすものとしての経済的運動法別であってこそ︑原理論は完結性を確保しう
るし
︑
またそれによってこそ︑資本主義の一般理論としての性格をもちうるのである︑とされている︒それにたいし
て︑段階論では︑論理的に原理論とは次元を異にした資本主義世界の歴史的過程において︑特定の発展段階における
ハ叫﹄u 指導的な国の︑特定の産業部門における特定の資本形態の典型的発展を追求される︒そして︑このような原理論と段
階論との論理の内的連関の追求は︑教授にあっては︑はじめから放棄されているのであって︑かえって︑それによっ
原理
論と
段階
論と
の関
連に
つい
て付
︵淡
路︶
270‑
富大
経済
論集
てこそ両者の科学的分析が可能であるという立場が堅持されているのである︒こうした考え方を︑方法論的に鮮明に
また体系的に打出しているのが︑教授のもっとも新しい著作である﹃経済学方法論﹄である︒
本稿は︑この著作の基調をなしている︑二︑三の中心点をめぐって︑教授の場合︑原理論と段階論の関連が何故に
切断されているのかという点に焦点をあわせて︑宇野理論における原理論の構造を検討しようとするものである︒
註①最近の宇野理論の批判にとって︑特徴的なことの一つは︑いわゆる正統流の立場からの批判のみならず︑宇野シュl
レに
属
する
とい
われ
てい
る人
々の
聞か
らも
批判
検討
のは
じま
って
いる
こと
であ
る︒
その
顕著
な一
例と
して
︑鈴
木鴻
一郎
﹁帝
国主
義と
原理
論﹂
︵﹃
脇村
義太
郎・
還膝
論文
集I
所収
︶︑
同じ
く鈴
木氏
編﹃
経済
学原
理論
﹄︵
上︶
︵下
︶︑
とく
に︵
上︶
序論
︑︵
下︶
補論
があ
る︒
なお
︑こ
うし
た最
近の
宇野
理論
批判
の概
観と
して
は︑
佐藤
金三
郎﹁
経済
学体
系に
おけ
る論
理的
展開
と暦
史的
発展
﹂︵
﹃経
評﹄
一九
六二
年十
二月
所収
︶は
すぐ
れた
論文
であ
り︑
また
便利
であ
る︒
宇野教授の経済学の体系において︑原理論と段階論とが形式的に切断され︑両者の論理の内的連関の追求が︑
tま
じ
めから放棄されているのは︑なぜであろうか︒
それは教授の場合︑資本主義世界の歴史的推移が︑マルクスの想定していたようにはならなかった︑という点の重
視が︑その経済思想の根底にあるからだ︑といえよう︒教授によれば︑資本主義世界の歴史的推移は︑純粋の資本主
義へますます接近する過程において︑資本主義が発展し消滅していったのではない︒そうではなく︑資本主義の発展
は︑その一定の段階において独占段階に移行したのであり︑しかもこの独占段階への移行は︑資本主義世界が純粋の
資本主義への接近を︑ますます進める過程としてではなく︑純粋の資本主義への接近からのつ逆転﹂としてなされた
ので
ある
︑
と主張される︒その点についての︑教授の見解をきこう︒
﹁マルクスが﹃資本論﹄を執筆した当時には殆んど予想されなかったような発展が︑資本主義のその後に見られた
ことになったのであって︑吾々は︑もはや単純に資本主義の発展は益々純粋の資本主義に近似してくるとはいえなく
なっている︒十九世紀末以後の︑いわゆる金融資木の時代は︑一面では資本主義化を伸張して︑従来︑資本主義的経
済の行われなかった地域にも︑特にイギリスに対して後進諸国をなす︑ドイツ︑アメリカ等々にも資本主義の顕著な
る発展が見られることになったのであるが︑他面ではしかしその資本主義化は必ずしもイギリスの十八世紀から十九
世紀六十年代迄に見られるような︑全面的な資本主義化の傾向を一訴すとはいえなくなってきた︒一方では高度の資本
主義的発展を見ながら他方では小生産者的な商品経済の残停を永く存続せしめることになったのである︒資木主義は
発生期をもったのに対して︑没落期を有することが明らかになってきた︒金融資本に基く帝国主義の時代を劃するこ
とになったのである︒それは資本主義の発展が︑益々純粋の資本主義社会に近似するといっただけでは︑理論的研究
の対象を歴史的に基礎づけるわけにはゆかないことを明らかにしたのである︒﹂弓経済学万法論﹄一九頁︶
﹁資本の構成のさらに一層急速なる高度化は︑生産力の増進を伴いつつ︑自ら必要とする以上に過剰の労働力を常
に供給しうることになるのであって︑いわゆる中小企業を残しつつ純粋化の傾向を骨骨し︑金融資本の時代をその末
期的現象とともに現出することになるのであった︒﹂弓経済学万法論﹄二六頁傍点i
淡路
︶
この独占段階への移行という点については︑
マル
クス
にお
いて
は︑
たとえば﹃資本論﹄第一巻・第二十四章・第七
271‑
節に展開されているように︑資本蓄積の過程において︑資本の集中がすすみ︑資本家による資本家の収奪︑大資本家
の数のたえざる減少︑資本独占の方向が想定されている︒しかしこれは︑純粋な資本主義における︑資本蓄積法則の
結果として︑独占化の方向の論理的必然性が︑示唆されているということであって︑マルクスにおいて資本主義が自
由競争の段階の後に︑あらたに独占段階をもっということが見透されていたわけではない︒マルクスの資本主義像︑
原理
論と
段階
論と
の関
連に
つい
Hて
︵淡
路︶
一一272一
富大経済論集
四
したがって社会主義像としては︑資本主義の消滅と社会主義への移行については︑
義が︑競争の過桂において資本の集中←独占化の傾向が必然的であるとしても︑それは必然的に独占段階に移行し︑
この独占段階を経過するのでなければ︑社会主義化しえないとは考えていなかったであろう︒むしろ︑特定の段階と 一九世紀の五︑六十年代の資本主
しての独占段階にたつする以前に︑資本主義の消滅←社会主義への移行という見透しをもっていたのではなかろう
か︒このような想定は︑独占段階への移行という︑資本主義の現実の推移を体験することのなかったマルクスとして
は︑当然のことである︒したがって︑資本主義が独占段階をもったということについては︑現在のわれわれの経済学
体系の構築にあたっては︑重視されなければならないはずである︒その点を宇野教授は強調されるのである︒教授は
マ戸クスのように︑資本主義の発展を一概に純粋の資本主義社会に ︑
IB
o
vv
z
︐ ﹁金融資本の時代を知る吾々にとっては︑
近接する歴史的過程とするわけにはゆかない︒一定の時期に発生するとともに︑一定の時期には再びまたその純粋化
の傾向をさえ阻害されるものとして歴史的一過程をなすという︑そういう社会としてその原理を明らかにしなければ
なら
ない
もの
とな
る︒
﹂︵
﹃方
法論
﹄二
五頁
︶
このように︑教授にあっては︑独占段階への移行は︑マルクスが想定していたような︑純粋の資本主義への近接を
それまでの近接の傾向からの逆転としてなされますますつよめた結果としてではなく︑逆に︑
一定
の段
階に
おい
て︑
たも
ので
ある
︑
とされるのである︒この点は︑宇野理論の理解のためには︑まず第一に留意さるべき点である︒
次に注意さるべきは︑資本主義世界の歴史的推移において︑逆転化傾向が︑いわば二重の過程として生じているこ
との︑教授による強調についてである︒資本主義は︑十九世紀末・二十世紀初頭において︑独占段階へ移行したので
あるが︑この移行が︑いわば逆転化の結果としてなされたことは︑先進国でも︑また後進国でも共通の現象であり︑
その意味では︑資本主義世界全体にとっての一般的普遍的傾向である︒ところが問題は︑自由主義段階における先進
国で
あり
︑
一応典型的な発展をとげたとみられるイギリスが︑独占段階においても依然として先進国・典型国として
とどまったのではなく︑自由主義段階における後進国であったドイツ︑またはアメリカが︑不均等発展の結果として
独占段階においては︑先進国イギリスを追いこして︑独占・金融資本形成の典型をしめすことになった︑という点で
あ
z w
このように後進国が︑先進国にたいして不均等発展をなし︑狙占・金融資本形成の積極面︑を代表するようにな
という点を︑教授は歴史の弁証法的な発展として重視される︒この点についての教授の主張は次のごとくであ
った
る ︑
﹁産業資本の時代から金融資本の時代への発展の過程は︑いずれも原理論に想定されるような︑純粋の商品経済過
程の内部での発展をなすものではない︒産業資本の時代にも︑具体的には資本家商品経済にとってはいわば不純な︑
異質的な要因を有していたのであるが︑それがまた特に後進国では急速なる先進国からの移入による資本主義化に伴
う複雑なる残存的諸要因を加えて︑新たなる段階で金融資本への発展を準備することになったのである︒この転化過
程もおそらくは︑歴史的過程の弁証法的な発展関係をなすものであって:::︒﹂︵﹁経済学と唯物史観﹂
1 1﹃
経評
﹄一
九五
八年
四月
号・
九頁
||
︶
‑273‑
註
②
ζの点について︑鈴木鴻一郎教授は︑前掲﹁帝国主義論と原理論﹂において︑独占段階においても︑第一次大戦までは︑依
然として︑イギリスがその典型国であったと主張されている︒その理由として︑二十世紀初頭において︑産業株を中心とする資本市場は︑イギリスで最も発達していたし︑また世界金融市場の中心がロンドンであり︑ポンドが世界貨幣の役割を果して
いたからである︑とされている︒この特徴的な見解についての立入った検討は︑いまはしない︒ただ︑産業株の資本市場を指
標と
する
見方
から
は︑
独占
段階
にお
いて
︑ド
イツ
︑ア
メリ
カが
︑先
進国
イギ
リス
にた
いし
て︑
急速
な経
済発
展を
とげ
た
ζと
の︑
不均
等発
展の
点が
暖昧
にな
るし
︑ま
た︑
Jポンドが世界貨幣であり︑ロンドンが世界金融市場の中心であった点は︑イギリス
の積
極面
では
なく
︑む
しろ
︑金
融帝
国と
して
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極面
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らわ
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標で
はな
かっ
たか
︑と
いう
点の
指摘
のみ
にと
どめ
る︒
原理
論と
段階
論と
の関
連に
つい
て付
︵淡
路︶
五
‑274一
富大経済論集
六
﹁弁証法的な発展﹂としての後進国の不均等発展を可能にしたのは︑
この
よう
な︑
﹁先進国は後進国の未来像であ
る﹂︵﹃資本論﹄第一巻・第一版序文︶という︑有名なマルクスの一言葉において含意されているような︑先進国と同型の発
展のコースによってではなく︑後進国独自のコースをたどったが故であった︒この後進国発展の独自のコースという
のは︑先進国の場合には︑独占段階にいたってはじまる逆転化傾向を︑後進国は︑その世界史的な位置づけの故に︑
資本主義化の初発からとることをよぎなくされたのであり︑後進国では︑この逆転的発展の傾向を利用する形で急速
な発展をとげたのである︒こうした点についての︑教授の主張を︑きこう︒
﹁﹃資本論﹄のように原理を問題にする場合には︑イギリスとドイツとの比較も︑マルクスのいっているよう仁
﹃産業的にヨリ発達している国は︑発達のヨリ低い国に対して︑その国自身の未来の像をしめすだけのこと﹄といっ
てよい︒後者は前者におくれて資本家的諸関係を展開することになるからである︒そしてまた原理論の﹃問題は︑資
本主義的生産の自然的法則から生ずる社会的敵対関係の発展程度の高いか低いかにあるのではない︒問題として取扱
うのは︑これらの法則自体である:::﹄ということにもなる︒しかし後進国としての問題はそれだけではない︒すで
に産業革命を経た資木主義をイギリスから輸入して資本主義化するドイツでは︑それがイギリスと同じ経過をとらな
いという点に新なる問題がある:::︒資本の原始的蓄積の過程が異るのである︒農村の分解がイギリス程に徹底的に
行われない内に︑資本家的大工業の発展を見るのであるが︑それも資本主義の発展とともに︑原理論で想定されるよ
うな純粋の資本主義に益々近似してくるというのであれば︑結局は後進国も先進国と閉じ様相を呈することにもなる
わけである︒ところが事実はそうではない︒特に金融資本の時代は︑それぞれの国で種々異った様相を呈することに
なるのであった︒L
弓方
法論
﹄四
O頁 ︶
このように︑後進国も資本主義化していくという本質的一般的傾向においては︑たしかに﹁先進国は後進国の未来
像である﹂といえようが︑しかし後進国の資本主義化の具体的なコース・型・階級構成・また展開される政策体系に
つい
ては
︑
たんに本質的一般的傾向でもって律しきれるものではない︒この後進国の特殊性の問題を︑一般的傾向と
の関連において立体的に展開するのでなければ︑後進国の分析は十全ではありえないだろう︒
しかも︑後進国は独占段階になると︑それまでの逆転的発展の傾向をいっそう強めることになるのであり︑こうし
て後進国は二重の意味での逆転的発展の結果として︑独占段階における積極面を代表することになるのである︒
現実の資本主義世界の歴史的推移は︑﹁先進国は後進国の未来像であり﹂︑また﹁ブルジョア階級はかれら自身の
姿に
型ど
って
世界
を創
造す
る﹂
︵﹃
共産
党宣
言﹄
︶
とい
った
︑
つまり資本主義世界全体が︑純粋の資本主義へますます接
また﹃資本論﹄で想定されているような形で発展し︑近するといった意味での︑いわば単一モデル的な構成をとり︑
消滅するのではなかった︒もちろん︑マルクスにおいて︑後進国の経済発展︑また資本主義世界の発展が︑単純に直
線的に先進国像に似せて形づくられ︑また先進国と同様の発展をするとは考えられてはいなかった︒
﹃共
産党
宣言
﹄
とほぼ同時期にかかれた﹁自由貿易問題﹂にみられるように︑先進国と後進国とは鋭い対抗関
係に
あり
︑
︵一
八四
八年
一月
九日
︶
﹁世界の工場﹂としてのイギリスにたいして︑後進国は農業国として固定化される傾向があり︑それ故に
先進国イギリスでは自由貿易が︑逆に後進国ドイツ︑アメリカでは保護貿易が要請される︑
する関係が重視されている︒しかし︑ といった両者の矛盾対抗
そのような対抗関係︑この対抗関係のもとでの後進国の特殊性を重視しながら
も︑そうした進国の後特殊性は︑後進国の発展の初期における例外的傾向であり︑後進国は結局は︑先進国に近似し
た発展のコースと型をとるようになるだろう︑
自由貿易になっていくだろうし︑ と想定されていたのではないか︒後進国も世界市場の中では︑結局︑
また圏内の階扱構成も前資本主義的な諸要因が比較的すみやかに分解され︑イギリ
ス型の三階級構成をとるようになり︑そのもとで自由競争がすすみ︑資本と賃労働の対立が激化していくだろう︑と
原理
論と
段階
論と
の間
関連
につ
いて
村︵
淡路
︶
七
‑276‑
富大
経済
論集
]\
想定されていたといえよう︒ところが︑現実の歴史的過程は︑後進国は先進国と異なる独自な発展のコースをたどる
ことにより︑先進国にたいして不均等な発展をとげ︑組占段階においては︑独占・金融資本形成の積極面を代表する
ことになったのである︒その意味では︑資本主義世界の発展像は︑けっして単一モデル的なものではなく︑先進国・
後進国の対抗しあう︑しかも独占段階においては後進国がむしろその積極面を一示すようになる﹁弁証法的発展﹂をと
﹁先進国は後進国の未来像である﹂といった単一モデル的げる複合モデル的なものであった︒かくして︑第一には︑
な発展を︑資本主義世界はしなかったという点で︑第二には︑自由主義段階における純粋の資本主義への接近からの
マルクスの資本主義像︑したがって社会主義像はあ逆転として︑組占段階をもったという点の︑これら二つの点で︑
⑤ らためて検討されねばならないであろう︒宇野教授の場合︑原理論と段階論また現状分析を明確に区別した上で︑経
済学の体系化をはかるという方法をとらざるをえなかった根拠は︑まさに右のような︑マルクスの想定とは異った資
本主義世界の歴史的推移にたいする歴史認識または歴史観が︑教授の経済思想の根底に流れているからだ︑といえよ
ぅ︒したがって︑教授のこうした根強い歴史認識または歴史観が見落されるときは︑原理論と段階論とを峻別し︑
し
かも両者の論理の通路を断ちきるということの積極的な意図も意義も十分に理解されないであろう︒
立王
③
一九
六二
年二
月号
︶を
参照
され
たい
︒
この
点に
つい
ては
︑拙
稿﹁
後進
国の
不均
等発
展の
論理
L︵
﹃世
界経
済評
論﹄
右のような立場において教授は︑まず原理論の完結性を強く要請されるのである︒原理論の完結性の要請のゆえに
﹃資本論﹄の論理を大きく変更されることになる︒
教授
は︑
その原理論においては︑
現実の資本主義世界の歴史的推移が﹃資木論﹄に想定されているような形で︑すなわち資本主義世界全体が︑純
枠の資本主義へますます接近する過程において︑発展し︑消概する︑ということにはならなかったのであるから︑原
理論||それは純粋の資本主義を想定し︑そこでの経済的運動法則を解明するものであるからーーそのものにおいて
資本主義の消滅の論理的必然性を展開しようとするのは︑あまり意味のないものだとする見解は︑それはそれなりに
首尾一貫したものであるといえる︒そこで教授は︑現実の資本主義世界の歴史的推移が︑﹃資本論﹄に想定されてい
るような形で発生・発展・消滅しなかったのであるから︑原理論は︑そうした点にわずらわされることなく︑純粋資
本主義における経済的運動法則の解明として︑純化され完結さ﹁れることによってこそ︑かえって資本主義のいかなる
時と場所においても︑妥当するものとしての一般理論の性格をもちうる︑とされるのである︒もちろん︑原理論は一
般理論として︑資本主義の時と場所にかかわりなく妥当するものであるという場合︑その妥当性はあくまでも︑その
本質的・普遍的傾向としてのものであり︑特定の段階の特定の国の資本主義を直接に説明しえないのは当然である︒
この点を端的にしめしているのは︑次の箇所である︒
﹁経済学の原理は︑如何なる時代の︑如何なる国の資本主義にも直ちにそのままにはあらわれない純粋の資本主義
社会の経済的運動法則として展開されるのであるが︑しかし如何なる時代︑如何なる国の資本主義も︑この原理的想
定なくしては︑科学的に分析し︑解明しえないという基本的規定を与えるものである︒それは資本主義社会の商品経
済的諸現象
l l
具体的には必ず非商品経済的要因によって︑多かれ少なかれ不純化されてあらわれる諸現象ーーを解
明す
る基
本的
概念
を与
える
もの
であ
る︒
﹂︵
﹃万
法論
﹄四
一頁
︶
このような原理論にたいして︑各発展段階を代表する︑指導的な国における特定の資本形態の典型的発展を追求す
71
7
ηノ ﹄
るものが︑教授の段階論なのである︒かくして教授の場合は︑原理論と段階論の両者はそれぞれの位置づけをあたえ
られて︑両者の分業関係︑補完関係があたえられている︑といえる︒一般理論としての原理論では︑純粋な資本主義
原理
論と
段階
論と
の関
連に
つい
て付
︵淡
路︶
九
‑278ー
富大経済論集
。
における三階級構成のもとでの︑階級聞の再生産構造における経済的運動法則が解明されるのであり︑この原理論を
もってしては︑段階論に固有なテlマである︑資本主義の各発展段階を劃する︑指導的な国における特定の産業にお
ける特定の資本形態の典型的発展は︑解明されえない︑
とい
うの
であ
る︒
教授によれば︑原理論はあくまでも資本主義の一般理論としての完結性を保つべきであり︑そこで展開されうるの
は︑純粋資本主義の︑いわば横断面における経済的運動法別であり︑この法則をもってしては︑資本主義発展の歴史
性︑すなわち資本主義の発生・発展・消棋の論理展開はなしえない︒この法則は︑いわば永遠に同一次元においてく
りかえすものとしての三階級聞の再生産構造を解明するものである︒この再生産の過程において︑資本主義の内的矛
盾の結果として︑週期的恐慌がくり返えされる︒しかし教授にあっては︑週期的にくり返えされる恐慌は︑その時そ
の時に解決されるのであり︑幾度恐慌をくり返えしても︑それによって﹃資本論﹄の場合には想定されているような
資本主義の消滅の必然性などは問題になりえないとされるのである︒もちろん教授にあっても︑週期的にくりかえす
恐慌が︑その時その時に解決されるというとき︑不況期における設備更新については︑原理論で展開されるとしてい
るが︑設備更新のくりかえしの結果として︑固定資本の巨大化︑したがって資本の有機的構成の高度化や経営規模の
拡大︑また資本の集中化の進展︑それらの結果として次第に独占化の方向がたどられざるをえない︑といった点は全
く問題にされていない︒教授の場合は︑恐慌からの景気回服過程としての不況期における設備更新と︑それによる新
たな生産力の発展というところまでは展開されるが︑それ以上にはすすまず︑原理論では︑永遠にくりかえすものと
しての恐慌の必然性の展開ということが中心となっているのである︒そして原理論が︑こうした構成をとらざるをえ
ない理由として︑資本主義世界の現実の独占の成立︑独占段階への移行については︑特定の国の特定産業における固
定資本の巨大化と︑資本調達における特定の方法といった具体的な問題を考えざるをえないが︑一般理論としての原
理論
では
︑
そうした具体的な点の展開はなされえないからだとされているのである︒
次に︑教授の原理論の構造にとって︑キイ・ポイントの役割を果している労働力の商品化の問題を検討しよう︒
教授によれば︑労働力なるものは︑資本主義社会にとって特殊な商品であり︑これは資本をもって資本主義的に生
産しえないものである︒労働力は︑資本主義の生産過程においてではなく︑消費過程における生産物であり︑かつま
た︑労働人口は︑実際の生産の場において労働力としての実をあげるまでには︑一定の長期間を必要とするが故に︑
資本の要請をただちに充しうるものではない︒この点について教授は︑
︑ ー ︑
j o
v uv
﹀
d
﹁資本主義は︑資本の自ら生産しえない︑人聞の消費生活の内に必然的に生産され︑増殖されるしかない労働力を
商品とすることによって︑始めて商品経済を全社会に徹底することができるのである︒﹂︵﹃方法論﹄一六一頁︶
ところが︑労働力は資本によって生産されえないものであるが故に︑資本の要請を充しえない︑という難点を︑資
本は相対的過剰人口の形成によって解決しようとする︒この点について教授は︑右の主張につづいて︑
﹁資本はその蓄積の増進とともに増大する労働力商品に対する需要を︑自ら有機的構成を高度化することによって
充足するのである︒労働人口の自然的増殖を基礎としながら︑いわゆる相対的過剰人口の形成によって労働力商品に
対する需要を自ら調節することになるのであ︒﹂︵﹃方法論﹄
一六
二頁
︶
このように︑資本は労働力にたいする需要が労働人口の自然的増殖によってみたされない点を︑相対的過剰人口の
‑279
形成によって︑調節することを認めた上で︑なおかつ教授は︑労働力商品について次のような特徴的な主張をされる︒
﹁ところが資本は︑この相対的過剰人口の形成による労働力商品に対する需要供給の調節も︑そう自由に行うわけ
原理
論と
段階
論と
の関
連に
つい
て付
︵淡
路︶
‑280一
富大経済論集
にはゆかない︒資本の有機的構成の高度化の根本をなす生産方法の改善なるものが︑実は資本自身の生み出すもので
はない︒:::︒特定の生産方法の採用は︑一度び投ぜられると幾年聞かは回収されえない︒したがってまた更新しえ
ない固定資本部分の投下を︑多かれ少なかれ前提とするのであって︑そう自由に生産方法の改善をなしうるものでは
ある資本の採用する新たなる生産方法は︑他の資本によっても採用され︑::︑
かかる生産方法の改善は一定の時期に集中して行われることになるのであるよ︵﹃方法論﹄一六二頁︶ ない︒かくしてまたその反面には︑
かくして︑資本は相対的過剰人口の形成によって︑労働力にたいする需給を調節しようとするのであるが︑資本の
有機的構成を高め︑したがって相対的過剰人口を増加させる固定資本の更新も︑資本にとっては︑自由に︑随時にお
こないうるものではなく︑景気循環の特定の時期に限定されざるをえないが故に︑相対的過剰人口をもってしでも︑
労働力需要をいつも十分に充しうるということにはならない︒労働力商品は︑資本主義的に生産しえないものなるが
故に︑この労働力の問題が︑資本主義そのものにとって︑結局は解決しえない︑根本的難点としてとどまるというの
が︑教授の主張なのである︒かくして教授は︑
﹁それは︵労働力は︶本来の生産過程における生産物ではなく︑消費過程の生産物であり︑その商品化は資本主義
社会の基礎をなすものであるが︑それ自身には無理である︒それは資本主義が全社会を商品経済的合理性をもって規
制するいわば代償をなすものであり︑資本家的商品経済が決して社会生活に本来的なものとはいえない︑また決して
現実的には純粋の資本主義社会を実現するものとはならない︑塵史的なる一社会にすぎないことを示すものといって
よい
︒﹂
︵﹃
方法
論﹄
一六
一頁
︶と
断定
され
るこ
とに
なる
ので
ある
︒
すなわち教授にあっては︑労働力なるものは︑資本主義的に生産しえないものであるが故に︑たとえ相対的過剰人
口をもってしでも︑労働力は︑資本主義社会にとっては︑いわば外部から導入される異質なものとしてとどまるので
あり︑この外的な異質なものとしての労働力を︑資本は完全には掌握しえないが故に︑資本主義社会そのものは︑歴
史的・過渡的な︑したがって結局は止揚されざるをえない社会である︑とされているのである︒つまり教授は︑資本
主義社会の歴史的・過渡的存在であるということの根拠を︑資本と賃労働の矛盾対抗関係の展開に求めるというより
も︑資本主義社会が︑資本主義的に生産しえない︑したがって自己にとっては︑外部から導入される︑外的な異質な
ものとしての労働力の商品化︑
充しうる限りは︑ という点に求めているのである︒この労働力が︑資本によって掌握され︑その需要を
それは労働力の自然的増殖によってであろうと︑または相対的過剰人口の形成・増大によってであ
ろうと︑労働力は資本主義にとっての難点をなすのではなく︑それに調和するものであるが︑逆に︑資本の需要を充
しえぬ場合︑すなわち︑その時点において不足の労働力は︑当然にもはや資本主義にとっての内的契機ではなくなっ
ているのであり︑その意味でこの外的な異質なものとしての労働力なるものが︑資本主義にとっての根本的難点であ
るとされているのである︒したがって︑こうした資本主義の難点についての把握は︑内的矛盾の展開としての経済恐
慌の
必然
性︑
または資本蓄積法則の把握というよりは︑むしろ︑資本主義にとっては︑外部から導入されたものであ
る異質なものとしての労働人口を起点とする資本主義の難点の把握であるといえよう︒このような論理構造をもっ原
理論をもってしては︑内的矛盾としての資本と賃労働の矛盾・対立の展開として︑原理論世界が︑どう発展し︑
また
消滅するかという点の︑論理展開のなしえないのは当然のことである︒しかし︑これを逆にいえば︑原理論と段階論
を峻別する教授の経済学体系からすれば︑そのような論理構造をもっ原理論こそ︑まさに要請されているのであると
いえよう︒資本主義社会にとって︑いわば外部から導入される異質なものとしての労働力を起点として展開される原
‑281‑
理論であるからこそ︑それは内的矛盾の展開による発展また消滅は問題とならず︑逆に論理の完結性をもちうるので
あり︑そこでは︑週期的恐慌を幾度くりかえしてもそれによって原理論世界が異った次元に移行するというようなこ
原理
論と
段階
論と
の関
連に
つい
て什
︵淡
路︶
282
富大経済論集
四
とは︑論理的に問題にする必要のないような原理論なのである︒その意味でこの原理論は︑
まさ
に教
授の
要請
一に
こた
える構造をもったものといえよう︒
そもそも労働力商品は︑資本主義社会にとって︑外的な異質なものであろうか︒いな︑けっしてそうではない︒古
典派経済学にとっては︑労働人口は︑資本主義社会にとって︑自然的要因として︑外的なものとして把握されてい
た︒しかしマルクスによる相対的過剰人口論は︑マルサス的な自然的人口論を止揚したものであり︑労働人口を自然
的制約から開放して︑社会的︑したがって資本主義にとって内的なものとして把握しなおしなものであることは︑経
済学史上の常識である︒もとより︑教授自身も︑その点は十分ふまえた上で︑なおかっ︑労働力を︑相対的過剰人口
をもってしでも︑景気循環の特定の時期には︑資本の需要を十分には充しえぬものとして︑他の諸生産手段とは別個
に︑労働力を特殊化される︒たしかに︑教授の力説されるごとく︑労働力は︑相対的過剰人口をもってしでも︑景気
循環の特定の時期には︑資本の要請に十分にこたえないものであり︑その意味では︑労働力商品は︑資本主義的に生
産しえないものとして︑それは資本主義社会にとって︑完全に内的契機とはいい切れない︒しかも︑この労働力の商
品化にこそ︑資本主義社会を︑単純商品社会から区別して︑資本主義社会たらしめる決め手があるのだから︑この問
題は︑資本主義社会にとって致命的な重要性をもつものである︒しかし︑景気循環の特定の時期においてのみ︑資本
の需要を充しえないという︑労働力需給の問題を︑労働力は資本の生産過程においては生産しえないという点に力点
をおいて︑これを他の商品とは別個な範臨時のものとして︑絶対化するのは問題である︒
たしかに労働力は︑資本が生産過程において生産しえないことは否定しえないが︑しかし資本の要請を充しえない
のは︑景気循環のただ特定の時期においてのみである︒常に資本の需要を充しうるものではないという意味では︑単
に労働力のみならず︑農産物︑原材料等にしても同様なのであり︑これらは労力とは異って︑資本主義的に自由に随
時に生産しうるものである︑とはいえない︒それらは︑資本の必要に応じて無制限に︑その需要を充しうるものでは
ない︒労働力は資本が生産過程において生産しえないのにたいして︑農産物・原材料は一応資本主義的に生産し︑採
堀しうるという点では具るが︑景気循環の過程で︑資本の需要を充しえぬ時期のあるという点では︑共通しているの
である︒もちろん︑資本の需要を充しえぬことがあるといっても︑労働力の場合は︑景気循環の特定の時期に定期的
天候・気候・地域等の自然的条件や環境によることが多く︑そのに生ずるのにたいして︑農産物・原材料の場合は︑
点では︑資本主義的生産にとって︑両者のもつ重要性に大きな差のあることは否定しえない︒しかし︑だからといっ
て両者を全く異質なものとして︑労働力のみを特殊化し︑絶対視することはゆるされない ω
註@こうした労働力商品を特殊佑する点についての宇野理論にたいする批判としては︑問稔﹁恐慌理論の問題点﹂︵講座﹃恐慌
論﹄一二巻二三四頁︶︑古川哲﹁宇野教授﹃恐慌一諭﹄の疑問点﹂︵﹃経評﹄一九五九年四月号所収︶を参照されたい︒もとより経済学の問題として︑労働力を他の商品と区別して︑これを重視するのは当然である︒しかし︑それを重
視せねばならぬ所以は︑教授の場合のごとく︑労働力は常に資本の需要を充しうるものではないという点でよりは︑
むしろ次の点にこそあるといえる︒第一に︑資本主義社会は︑労働力までも商品化するような社会であるという点か
らして︑ある社会において︑どの程度まで労働力が商品化されているかということは︑資本主義をして資本主義たら
しめるに足るほどの︑労働者階粧の形成がなされているか否か︑したがって基本的に資本家階級による労働力需要を
充しうるにたるだけの労働者階殻が形成されているか否かという点︑第二は︑右の第一の点を前提として︑資本と賃
の 口 η
ノ ム
労働との関係において︑労働者は二重の意味で自由であり︑彼自身生産手段を所有していないが放に︑資本に従属せ
したがって労働者は資本の下では労働力としての意味をもつにすぎず︑疎外された存在であり︑この疎
以上の二点においてこそ︑むしろ労働力商品化の問題は重視さるべきである︒
ざる
をえ
ず︑
外からいかに解放されるかという点︑
原理論と段階論との関連について付︵淡路︶
五
284‑
富大経済論集
」 」/',
そのものにとって根本的難点をなしている︑といった点のみを強調されるのは問題である︒
四
教授の原理論において展開される週期的恐慌と︑原理論の構造との関連について︑さらに検討しよう︒教授は︑主
張さ
れる
︒
﹁資
本家
的商
品経
済は
︑
一方では労働力という特殊の商品を積極的要因とし︑他方では固定資本の更新を消極的要
因として︑週期的恐慌によって媒介される景気の循環をもって発展することになる︒すなわち一定の生産関係の基礎
をなす一定の生産方法の下に︑資本はその基礎によってその規模を議々拡大し︑いわゆる好況期の発展をなすのであ
るが︑この発展はある程度まで行われると︑労働力商品に対する需要増加に伴う賃銀の騰貴によって利潤率を低下し
てゆき︑資本の増大にもかかわらず利潤量は増大しないという︑マルクスのいわゆる資本の過剰を来たすことにな
る︒新しい生産関係を展開する︑新たなる生産方法によるよりほかは︑その生産力を増進しないことになるのであ
る︒恐慌は︑資本が自らかかる転換を行う特殊の方式にほかならない︒﹂︵﹁方法論﹄一六二三頁︶
このように︑特殊の商品としての労働力を積極的要因として週期的恐慌の必然性を展開され︑この恐慌を契機とし
て︑生産力の増進に対応する新たな生産関係が展開されるとされている︒この意味では︑恐慌を契機とする︑生産関
係の更新としての経済発展は︑教授の場合にも︑その原理論において主張されているのである︒しかし︑教授の場合
に特徴的なのは︑原理論では︑このような週期的恐慌により生ずる生産関係の更新のつみ重ねにもかかわらず︑それに
よっては資本主義の発展段階の移行はもとより︑資本主義の消滅の必然性などは全く問題にされていない点である︒
それは他の商品とは異なりそれらとは別個には資本の︑労働力生産過程においては生産されえないものであるから︑