ドイツ・キリスト教民主主義政治史試論
その他のタイトル Christian Democracy in Germany
著者 土倉 莞爾
雑誌名 關西大學法學論集
巻 56
号 4
ページ 735‑773
発行年 2006‑12‑15
URL http://hdl.handle.net/10112/12369
ドイツ・キリスト教民主主義政治史試論
﹁例
えば
︑ Eu
︱つをとっても︑その思想的・政治的背骨をなす点で現代ヨーロッパを理解するために不可欠なヵ
トリック思想﹂︵田口二00
六︑二六︶を政治史的に解明するためには︑キリスト教民主主義を研究することが重要 な課題であるが︑実は︑そのキリスト教民主主義が︑西ヨーロッパの各国において︑それぞれ違った現象形態をとっ
てい
るこ
とが
︑ いっそう典味深い考察をもたらすように思われる︒ここでは︑ドイツに視角を限定して検討してみた
い︒なお︑筆者は︑﹁ヨーロッパ・キリスト教民王主義﹂︵土倉︑二
00
三︑五六ー一︱六︶や︑﹁ベルギー・キリスト教
民王
主義
﹂︵
土倉
︑二
0
五︑五ニ︱ー五六五︶についてすでに試論している︒0
ドイツでは︑キリスト教民主主義という言葉にはあまり馴染みがない︒﹁キリスト教民主同盟﹂という政党はある が︑それはもともと﹁キリスト教民主主義﹂を示すものではなく︑反ナチズムという意味での﹁民主的﹂という言葉 に︑後からキリスト教の両派に跨るという意味で﹁キリスト教﹂という言葉が付け加わったものであり︑﹁キリスト
ドイツ
土
・キリスト教民主主義政治史試論
倉
︵ 七
三 五
︶
莞
爾
関法
教民主主義﹂という︱つの言葉ではなかった︵西川︑
第二次世界大戦後の現象である︒というのは︑ビスマルク︑ヴィルヘルム︑
党N
en tr um
はカトリック政党であったが︑自由民主主義の教義に全面的に加担していたとは言えないからである︒
中央党はカトリックの利益を支え︑擁護するために︑民主主義制度に無条件に加担したのではなく︑その制度を利用 した︒たしかに︑中央党は一九世紀の大半を市民権
c i v i l r i g h
t s
を支持することに費やした︒だが︑それは︑文化闘
争
Ku lt ur ka mp
f がとくにそうであるが︑基本的にはカトリックの権利だと考えたからである︒中央党はヴァイマル
いくつかの有名な例外はあるものの︑カトリックの政治 共和制期︑議会や内閣において重要な役割を演じた︒だが︑
一九︱四年以前のドイツの構造的で擬似専制的な社会的政治的システムが消
滅したことを嘆いていた
( I r v i n g ,
19 79 , 1 0ー 1 1 )
0
一九 八八
︑
一九四五年以前のドイツのキリスト教民主主義政党を語ることは適当でないにしても︑たしかなこ とは︑重要なカトリック政党とカトリックの政治運動が存在したということである︒さらに言えば︑この政党と運動 は第二次世界大戦後のドイツのキリスト教民主主義政党
(C Du
│c su )
一八
0五年の憲法に
ヴァイマル期の重要な政党であった中央
に吸収され︑その政党の芯を形成する︒
したがって︑ドイツの政治的カトリシズムの発展︑とりわけ中央党の性格と目標について考察することは重要である
( I r v i n g , 1 97 9,
1 1 )
︒ ナ
尖 稿
た
J
﹁ ド ー
1
ツ ・
七 ﹁
l J スト部が早や王主睾岱政治中とと題したゆえんであることを御了解いただきたい︒
さて
︑ ドイツでもっとも早く成立したカトリック政党はプロイセンのカトリック議員連盟
Ka th ol is ch eF ra kt io n
である︒プロイセンのカトリシズムは一八四八年の三月革命の中で非常に有利な地位を獲得し︑
もカトリック教会の自由とプロテスタンティズムとの対等性を規定させることに成功した︒しかし︑﹁反動の時代﹂
しか
しな
がら
︑
家たちは︑君主制が過ぎ去ったことや︑
第五六巻四号
一七
︶︒
基本
的に
は︑
ドイツ・キリスト教民主主義は
︵ 七
三 六
︶
ドイ
ツ・
キリ
スト
教民
主主
義政
治史
試論
ローマ帝国が崩壊してドイツ諸邦の再編が行われた時︑
合併されたということである︒ドイツのカトリシズムの中心であるラインラントがプロイセンに合併されたことなど
が︑その代表的な例である︒第二は︑ドイツの統一がプロイセン主導のもとに行われ︑
トリアを中心としたドイツの統一というカトリシズムの夢が破れた︑ということである︒第三は︑そのドイツ帝国成 立後まもなく文化闘争︵反プロイセン的なカトリック教会へのビスマルクの闘争・弾圧︶
政治的にはドイツのカトリシズムは︑
あり
︑
る︵
ノイ
マン
︑
一九
六一
︑四
七六
︶︒
一九
七七
︑六
O )
︒
に入ると︑プロイセン政府はこの憲法を無視して一連の反カトリック的な政策を打ち出してくるようになった︒カト
セン
の大
臣︑
一八五二年の選挙で六八名のカトリック的議員を当選させたが︑この議員たち がプロイセンの下院で結成したのがカトリック議員連盟であった︵西川︑
フォン・ラウマー
V o
n R a u m e r の反カトリック的教育政策に対する戦いにおいて組織されたものであ プロイセンはカトリシズムとの関係では二つの側面を持っていた︒まず︑プロイセンはプロテスタント的な権力で
一八世紀以来の国教化政策と結合して反カトリック的な政策を打ち出してくるという側面を持っている︒しか し︑プロイセンでは自由主義のグループはなおその権力を握るところまでは行かず︑強力な保守主義の勢力が存在し ているという側面も持っている︒この最初の側面が出て来る時︑カトリシズムは自由主義と提携してでもそれと闘う ことになる︒これがカトリック議員連盟の初期の政策である︒しかし︑この側面が出て来ない時︑
の自由主義に対する闘いの中で政府の支持を求め︑保守主義と提携しようとする︵西川︑ リシズムはこの動きに激しく抵抗し︑
カトリシズムはそ
一九世紀になってから三度にわたる大きな打撃を受けた︒その第一は︑神聖
カトリック系の地域はその多くがプロテスタント系の諸邦に
カトリック大国であるオース
という厳しい迫害を受けた
︵ 七
三 七
︶
一九七七︑五五︶︒カトリック派は︑プロイ
中央
党は
︑
ドイツ帝国の成立とほぼ同じ頃に生まれ︑ 全体としては中央党として統一されていった︵西川︑
一九
七七
︑六
0ー
六 一
︶ ︒
政党
は︑
一九九二︑四八︶︒中央党がその強力な地位を手に入れたのは一八七0年代のことだった︒
この地位は︑帝国議会の全三九七議席のうちおよそ一
0
0議席を維持しつつ︑
かし︑そのような状況のなかで︑中央党は︑党指導者のルードヴィヒ・ヴィントホルスト
Lu
dw
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W i
n d
t h
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とビ
スマルクとの間に続けられた議会対立に端的に現れているように︑当然︑野党的立場にあった︒中央党は︑
年の関税再導入や一八八0年代のビスマルクの社会立法の多くを支持したにもかかわらず︑
ていたのがヴィントホルストであって︑彼はカトリック教徒で︑
ドイツのカトリック政党は︑バーデンのカトリック人民党︑バイエルンの愛国党︑プロイセンの中央党という三つ
の形で成立した︒それらはいずれもそれぞれの国の状況に応じたものであったが︑同時にそれらはカトリシズム内部
の異なった傾向をあらわすものであった︒地域的にも分かれ︑内部的にも対立する傾向をはらんだ三つのカトリック
一八七一年のドイツ帝国が成立するとバーデンやバイエルンの内部ではそれぞれの党名を残しながらドイツ
一九三三年ナチス体制の確立とともに消滅したカトリック政
党である︒中央党はこの約六0年の間主役の役割を果たすことはなかったが︑少なくとも脇役としてそれなりに重要
ベル グ︑
一 九
六 九
︑
一 六
ー 一
七 ︶
︒
とんど政治的に疎外されていたのである︵プラックボーン︑ ということである︵西川︑
関 法 第 五 六 巻 四 号
一九八八︑二三二︶︒文化闘争の時に中央党の特質を体現し
かつてのハノーファー王の大臣であった︵ローゼン
一八
九
0年に至るまでほ
一八
七九
一九︱四年まで保持されていった︒し
四
︵ 七
三 八
︶
ドイ
ツ・
キリ
スト
教民
主主
義政
治史
試論
の票
p i v o 邑
b l o c o f v o t e
s を保持する議席を維持した︒当初から︑この党の強力な点は︑どちらかと言えば︑さまざまな
社会集団の利害の調整を目指した社会的政治的プログラムを練成するところにあった
( v a n K e r s b e r g e n ,
19 95 , 3 8)
0
0
%以上のカトリック教徒が中央党を支持した︒ ︵
ダー
レン
ドル
フ︑
二 0
0六
︑六
五︶
︒
とした宗教政党で︑
一九
九二
︑四
六︶
︒中
央党
Ne
nt ru
mは一八七0
年に設立されたが︑全体としてはっきり カトリックの政治的共同体を確立することによって早くから主要な政治勢力に成長していった︒
ドイツにおけるカトリック教会の利害の政治的代表であるというその強力な宗教政党的性格は︑大部分は︑
ク教徒が大きな少数派であったことによって説明できる︒そして︑文化闘争は︑後述するように︑
ク教会のドイツ帝国における反国家的な役割を弱めるものとして︑ビスマルクが考えたものであった︒事実︑中央党 は帝国の反対陣営に位置していた︒中央党は︑プロイセンのプロテスタンティズムに鋭く対比される宗教的な性格を 持つだけでなく︑多様な反ブルジョワと反資本主義勢力︵聖職者︑農民︑労働者︶
五
カト
リッ
ローマ・カトリッ
から成立し︑貴族的な軍事階級や 自由主義的ブルジョワジーとは間違いなく異なるところの階級横断
c r o s
, cs
l a s s
的な社会構成を持っているがゆえに そうであった
( v a n K e r s b e r g e n ,
19 95 , 38
)︒カトリックの連帯は固有の伝統や外部の圧力の影響を受けた︒しかし︑連
帯の政治的帰結として︑ドイツ帝国とヴァイマル共和国のすべての時代を通じて︑中央党は驚くべき安定性を誇った 内部的には対立が残っていた中央党を︱つに統一させたのが文化闘争であった︒文化闘争はカトリシズムを統一させ
ただけでなく︑カトリシズムの世界をいっそう中央党に結集させる効果を持っていた︵西川︑
は︑教会やカトリックの宗教的︑文化的社会的組織を混乱させはしたが︑政治的統一には有利な効果をもたらした︒八 な役割を果たしてきた︵西川︑
一八七一年から一九︱二年まで︑帝国議会で平均二四%という政治的要
︵ 七
三 九
︶
一九
七七
︑六
一︶
︒文
化闘
争
︵ 七 四
O )
ビスマルクが文化闘争を推進した背景として︑普通︑次の三つが考えられる︒第一は︑国内における帝国の敵と ヨーロッパにおけるカトリック大国との復讐のための同盟が抱いているアルプスの夢に対する先制攻撃であったとい うことである︒第二は︑ビスマルクのポーランド政策の一環であったということである︒第三は︑ドイツ帝国成立後︑
敵を国外に求めることのできなくなったビスマルクは︑
西川知一によれば︑文化闘争は当時準与党的な地位にあった国民自由党
Za t
i o n a l l i b e r a l e P a r t e
i などの自由主義の反
えに少しも共鳴していなかった︒彼は︑ポーランドの民族的運動︑ラインラントの反プロイセン的感情と抗争するた めに反教権主義的キャンペーンを闘争の手段とするために関心を持ったのにすぎなかった︒彼は社会民主党と中央党 の同盟を怖れた︒そして党を潰すために教会と戦ったのである
( E v a n s
̀
1 89 1, 55)
︒ビスマルクが帝国の究極的崩壊後
における中央党と社会民主党との間の同盟を予言したことは︑宰相の政治的素質の証左となる︒この予言はヴァイマ
勢力
が︑
動行
は︑
カトリックのフランス︑
カトリシズムを帝国の敵にしようとしたことである︒しかし︑
一 九
七 七
︑ 一九六一︑四七七︶︒ビスマルクにとって︑国内の彼に対するすべての反対
カトリックのオーストリアと組んで︑そしてそれをヴァチカンが助けて︑彼を破滅 させるのではないかという﹁悪夢﹂があった
( R o h l ,
19 66 , 6 4)
︒
一八
七
0年代のプロイセンの文化闘争は一面ではヴァチカン会議の決定に由来し︑また他面では︑ドイツ統一をめ
ぐるカトリックの大ドイッ
g r o s s d e u s t c h
運動の敗北の結果に由来する︒カトリック教会に対する国家の自由主義的 ドイツ語圏の地域では︑最初にバーデン︑次にスイス︑
ーオ
スト
リア
︑ バイエルン︑そして最後にプロイセ
ンで起こった︒他方︑﹁文化闘争﹂という劇的な言葉で言い切るような情緒的な抗争の昂揚はプロイセンだけだった ル連合において現実に実現した︵ノイマン︑ 教権主義的な性格からも生まれたものである︵西川︑
1 0 ‑
︱‑)︒ビスマルクは自由主義者の非宗教的な考
関 法 第 五 六 巻 四 号
六
リック右翼の間でもふたたび表面化した︵ブラックボーン︑
七
ンダルが起こった際には︑ い隠すマントである︑と右翼の側では広くみなされていた︒
一八
九
0年代における証券取引所や商品取引所のスキャ
文化
闘争
は︑
( E v a n s ,
19 81 , 3 8‑ 39
)︒オーストリアの早々とした敗北と大ドイツ運動の死滅によるドイツのカトリックの落胆は大き
かった
( E v a n s ,
19 81 , 2 5. W i n d e l l ,
19 54 , 2
7) ︒
国民自由主義は文化闘争やそれに類似した諸方策を熱烈に支持したが︑このことによって明白にされたことは︑
トリック教会とカトリック系諸学校が︑
れていたことである︒もちろん︑
ヵ
ブルジョア的プロテスタント思想の特異な変種による主要な受難者に数えら ブルジョア自由主義陣営の分裂・衰退はドイツだけに存在したのではない︒宗派的 相違の政治的影響やそこから生じるブルジョア自由主義の弱体化は︑何もドイツに限定されたことではなかった︒そ れと比較可能な状況はスイスやベルギーでも展開された︵ブラックボーン︑
一般的には自由放任主義的資本主義という﹁詐欺師﹂の繁栄を︑特殊的にはユダヤ人利害の繁栄を覆
ユダヤ人の隠れた政治的影響力に対する非難が︑主農主義者︑反ユダヤ主義者そしてカト
一九
九二
Ib
︑
一九
八三
︑
︱ 四
八 ︶
︒
︱四
ニー
一四
三︶
︒ 一八七五年は文化闘争が頂点に達した年だった︒その年の二月︑新聞﹃フランクファルター・ツワイトゥング
F r a n k f u r t e r Z e i t u n g
﹄は︑罰金︑逮捕者︑その他の処罰のリストを発表した︒それによれば︑二四一人の聖職者︑
三六人の編集者︑それに加えてそれ以外のニ︱
0人の中央党員︑その他二
0人の逮捕者︑七四件の家宅捜索︑
人の追放・抑留︑五五件の集会ならびに組織の解散であった︒これらの悲惨な結果はカトリックの団結を強化し︑受 難という道徳的武装を提供するという予想通りの結果となった︒中央党はいっそうの選挙の支持を得て︑カトリック の新聞は世論を結集するために状況をいっそう有利に状況を書きたてた︒ヴィントホルストの党と新聞に対する巧み
ドイ
ツ・
キリ
スト
教民
主主
義政
治史
試論
︵ 七
四 一
︶
1 0
1
︱ ︱
れて
いる
西︵
川︑
な操作は彼をドイツ・カトリックの比類なき指導者へと押し上げていった
( E v a n s ,
19 81 , 7 6)
0
一八七一年の選挙に比べて︑中央党はその議員を五八人から九一人 に増やし︑その得票率を一八・六%から二七・九%に上げた︒中央党に投票したカトリック系選挙民は一八七一年には ナショナリストの攻撃に対して︑左翼の側にいた︒有名なのは︑中央党はビスマルクの社会主義鎮圧法に反対したこ
とである
( F o g a r t y ,
19 57 , 3 04
) ︒
党と教会ヒエラルヒーの間の緊張は︑文化闘争末期にすでに現れていた︒この時︑ビスマルクはローマ教会と直接 交渉をする方を選び︑そうすることで中央党の土台を掘り崩し︑その地位を弱められると考えたのだった︒中央党と ヴァチカン政庁の関係は︑この事件以後︑決して完全には修復されず︑
ヽクボーン
一九
八八
︑二
三三
ーニ
三四
︶︒
一九
七七
︑六
五ー
六六
︶
0
︵ 七
四 二
︶ 指導者たちは︑多くの重大問題に干渉しようとするローマ教会と有力なドイッ司教たちの意図を退けていた︵ブラッ
中央党は一般的に貴族政党であり︑少なくとも一八九
0年ごろまでは保守的な貴族グループによって指導されたとさ
一九七七︑六二︶︒ヴィントホルストは︑政治的な安定性のためには影響力ある貴族制が必要である︑と 考えていた︒何故なら︑彼は︑
( W i n d e l l , 1 95 4, 70
‑7 1)
︒ド
イツ
では
︑
六0
%弱
っだ
たが
︑
フランスが困難に陥っているのは大革命で貴族制を破壊したからである︑と確信していた カトリシズムの中で活躍したブルジョワジーはまず存在しなかった︒
で当選してきた五八名の議員の中でも工場主
F a b r i k a n t と
され
るの
はわ
かず
一人
であ
った
︵西
川︑
プロイセンは︑プロテスタントの優越する中小邦に対してプロテスタントの核心をなしていたが︑しかし帝国にお
一八七四年にはその八三%にも達した︵西川︑
一八七一年選挙
一八
八
0年代末期から九0年代にかけて︑党
一九七七︑六一頁︶︒文化闘争の間︑中央党は右翼
文化闘争の本格化した一八七四年の選挙では︑
関法第五六巻四号
八
ドイツ・キリスト教民主主義政治史試論
九九
二
l
a︑二ニ︶︒ドイツ中央党で重要なことは︑プロイセンではラインラントが︑ドイツ全体ではラインラントと
一八
九
0年代までは中央党はたしかに貴族政党であった︒しかし一
八九
0年頃からのいわゆる﹁民主化過程
D e m o
k r
a t
i s
i e
r u
n g
s p
r o
z e
s s
﹂の中で貴族がその指導的な地位を失うと︑中央 党に対するカトリック教会の影響力はますます強化されていった︒ドイツのカトリシズムの政治的指導においては︑
大司教その他の司教が支配的な地位を占めている︒中央党の創設者の世代がなお政治的に活躍している間はそうでも なかったが︑このことは世紀の転換以来ますます注目されるようになった︒それは一面では文化闘争の遺産であった︒
しかし︑同時に︑それは中央党の地盤がこうした教権的民主制の地域にあったことによると考えられる︵西川︑
七七︑六七ー六八︶︒カトリック系選挙民に対する聖職者の選挙支配についての政府報告書によれば︑おそらく誇張さ れているだろうが︑聖職者が積極的に投票所へ選挙民を狩り出し︑中央党以外の政党に投票しないよう仕向けていた ことについては︑ほとんど疑いがない︒それに逆らえば︑司祭の怒りを招くだけでなく︑そのうえさらに官憲当局の 怒りを買うことを意味しただろう︒とはいえ︑イギリス人歴史家︑
I
・ファーによれば︑この投票パターンは一八九 三年総選挙で打ち破られる︒この時︑農民同盟がそれまで中央党の強力な地盤であったいくつかの選挙区に食い込ん だのである︒中央党が候補者を立てた三九の帝国議会選挙区のうち︑たった九選挙区のみが前回総選挙の得票率をよ
一九
九二
︑七
五︶
︒
一八
九
0年代半ばに︑農民同盟が予期していなかった奇襲によって勝利をつかんだものの︑その後は多くの関連す
る諸要因の作用によってカトリック系の運動が農民同盟を圧倒し始めたのである︒まず︑ うやく維持したにすぎなかった︵ファー︑ バイエルンが中央党の中心であったことである︒ けるカトリック教徒の半数以上を含んでいた
九
︵ブ
ラッ
クボ
ーン
︑ カトリック農民協会は︑農
︵ 七
四 三
︶
︵バイエルンの二倍以上のカトリック教徒がいた︶
一 九
i f i c a t i o n f o r
c e ﹂として保持された︒ されたのである
( B l a c k b o u r n ,
19 77 , 4 33 .
び結
つい
てい
た︵
ファ
ー︑
持続的に貢献した︒それはやがて︑
ヽ
ファ
ー
︵七
四四
︶ 民同盟内部の過激派の影響力に対抗する保守派として政府から歓迎された︒カトリック系組織や聖職者の過度な影響 力に対して官僚層が本来的に持っていた敵意は︑官僚と聖職者の双方に農民同盟のアジテーターたちから投げつけら れた罵晋雑言によって薄められた︒バイエルンの一定地域に広がっていた反教権主義の雰囲気にもかかわらず︑依然︑
農村の聖職者は︑政府が農民感情の早急な安定を促進しうると期待した数少ない社会組織の︱つだった︒より急進的 な農民同盟とは違って︑中央党系の農民運動は︑協同組合運動を党の政治戦略の補完物として確立するのにはるかに
ユダヤ人の高利貸しの毒牙から農民を解放するために必要な︑幅広い財政的・法 的サービス—|'こうしたものは支持を得るためのごくあたりまえの手段だった—|gをも含むようになった。反ユダヤ 主義︑教条的な反自由主義︑農民的ポピュリズム︑そして中小農民のための大幅な財政的援助︑これらはカトリック 諸組織の活動を特徴づけていたものであるが︑こうした混合物は︑ゲオルク・ハイム
Ge or g He im
の名前と密接に
一九九二︑八八ー八九︶︒いずれにせよ︑バイエルンは政治的結社が増加し︑政治的に活性化 権政策が終わった時でさえ︑
一九
九二
九 ︑
九︶
︒
文化闘争が一九八0
年代初期にしだいに緩和され︑最後に一八八七年に終結された時︑すなわちビスマルクの反教 カトリックの組合と政治的な強さは︑全ドイツ・カトリックの﹁大統一勢力
gr an d u
n
関 法 第 五 六 巻 四 号
一九︱四年以前のヴュルテンベルクの中央党のブラックボーンの研究
( B l a
‑ c k b o u r n ,
19 80 , 10 0‑ 11 9)
2 i .
︑ キ
U士6
︑ ぺ
u士
6
は4
5初沢血年未
E
5の
江
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クを 叩
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幻 し
gみ入れ︑睦凹殊利益を緩和し調整することにおいて︑
ドイツ・カトリック政治の顕著で特徴的な能力を論証している
( v a n K e r s b e r g e n ,
19 95 , 3 9)
︒ブラックボーンは南ドイ
ツのカトリック勢力について西ドイツ史学会では正面から扱われなかったテーマの具体的な研究に着手した︵望田︑
10
ドイツ・キリスト教民主主義政治史試論
一九八八︑二ニ六︶︒ヴュルテンベルクは︑帝国内にあってとくに民主的な伝統を持っていた︒
各国で絶対主義的な政体が樹立された時にも︑ヴュルテンベルクでは身分制議会が維持された︒このように王権が弱
頃に
なっ
て︑
一八一九年の邦憲法は︑国王と等族の合意によって制定された︵服部︑
とおして︑不滅のままとされた
( E v a n s ,
19 81 , 9 3)
︒
一 九
八 七
一 ︑
九 八
七 ︑
の政治的意味は決して単純なものではなかった︵ブラックボーン︑
一 九
八 七
︑ 文化闘争における自由主義的なプログラムの恒久的な遺産は︑反教権政策が成功したフランスやイタリアに比べると 貧弱であった︒教会に対する国家の財政的支援︑宗派系学校制度︑学校における宗教教育は︑帝国末期︑両大戦間を
一八九五年から一九︱四年のヴュルテンベルクの中央党の経済・
社会政策は社会民主党と激しく対立するものであった
( B l a c k b o u r n ,
19 76 , 2 47 )
ことも明記しておきたい︒
一八
九
0年
グレーバーG包
be
rを中心とした教養市民層の間でヴュルテンベルク中央党を結成しようとする動きが
10
九︶︒グレーバーは社会民主党をモデルにした大衆組織を中央党にも導入するよ
︱ ︱
四 ︒
B l a c k b o u r n ,
19 80 ,
111)。ム王r1
ッ芸頑切介で中ー土〈平兄が一芦〖して反対したのは教 育改革だった︒中央党指導者は教育改革が伝統的な権威の源泉を掘り崩すことを恐れた︒この中央党のポピュリズム
一九
八八
︑二
四一
0
B l a c k b o u r n ,
19 75 , 8 44
‑8 45
) 0
ドイツは︑ヴィルヘルム時代に経済的躍進を果たしながら︑それと対照的に︑成熟した政治・憲法体制を発展させ
ることはできなかった︒近年︑
ドイツの政治体制の弱点に関する多くの有力な一般論が定立された︒まず︑強引に推 し進められた国民統一のために︑国民的・憲法的・宗教的・経済的な一連の対立が重なり合って生じることになった︒
この遺産が︑ドイツ社会と諸政党双方の慢性的な分裂であった︒第二に︑ビスマルクの操作は諸政党を去勢し︑否定
的役割だけを演じることしかできないようにしてしまった︒第三に︑諸政党は経済的利害の代弁者と化し︑これがさ うに主張している︵服部︑ 活発になった︵服部︑ か
った
ため
︑
︵ 七
四 五
︶
10
六︶
︒全
体と
して
︑
一八世紀にヨーロッパ
このような中央党に対する低い評価は︑
一 九
0
0年
七の
六︑
000名から一九
らに現状に対する挑戦を弱まらせた︒ところで︑これまでこの枠組みに適応するにはあまりにも愚鈍だとされてきた のは︑中央党である︒中央党を視野の狭い日和見主義的な政党とする見解はこれまで頑固に生き残ってきた︒しかし︑
もの
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る︵
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一九︱四年以前の同党の決定的な政治的位置を考えた時︑きわめて不適切な 一九 八八
︑ニ ニ九 ーニ 三一
︶︒ 中央党のこの重要な能力は︑中央党が一八九
OI
︱九︱四年の間ドイツの政治システムにおいて要の位置をとるこ とによって全国的なレベルでいっそう強化された︒事実︑この時期のすべての内閣はこのカトリック政党の支持に依 存していた︒中央党の権力の位置は︑社会主義者との連立
c o a l
i t i o
n の可能性によってさらに強化された︒もっとも︑
そのような連合の見込みはその時期にはあまり誇張されてはならない︒ドイツにおける政治的カトリシズムを強化す る重要な役割を演じる加盟組合によって支えられる社会活動の支援がそれに加わる︒ブルーカラー労働者の組合であ る﹁キリスト教労働組合﹂は︑第一次世界大戦前の時期に︑加盟員数が︑
年のほとんど三五一︑
000
名というピークに達するまで成長した︒そして︑
ホワイトカラー労働者の﹁ドイツ従業
員総連合﹂は︑同時期に︑四0 ︑000名からほとんど一五0 ︑000名に成長した
a n ( v
K e r s
b e r g
e n ,
19 95 , 3 9)
0
一八
九
0年以降︑それまで帝国議会でビスマルクの与党を形成していた国民自由党と保守党が大きく凋落していく
なかで︑中央党の持つ一
0
0票は決定的な役割を持つようになった︒その後︑中央党は議会における要の位置を利用
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て頼みの綱となった︒
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に至る歴代宰相にとっ
一八
九
0年以降︑政府による中央党を除外した絶対多数与党を作ろうとする試みー︱九
0六
年から九年までビューローが行なったそれ│ーーは︑失敗した︵ブラックボーン︑
関 法 第 五 六 巻 四 号
一九
八八
︑二
三二
︶︒ ︵
七四
六︶
︵ 早 川 ︑
ドイ
ツ・
キリ
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教民
主主
義政
治史
試論
一九
八六
︑八
0 ︒N
e e n d e r ,
19 64
. 426ー
42
7)
0
において劣勢であったことも注目に値する︵野田︑
一九
八八
︑二
三六
︒早
川︑
一 九
0八年に︑プロイセンのカトリック教徒は︑全人口
︱四三︶︒全人口におけるカトリック教徒の占める割合
一 九 ︶ ︒ カトリック市民たちの中には以下のような不満の声が増大していた︒すなわち︑経営・商業界に入ったり︑法律・
医術関係の職業を選ぶカトリック教徒仲間がきわめて少数である︑と︒それというのも︑彼らの信じるところでは︑
きわめて多くの才能あるカトリック教徒たちが︑まったく異なった原理に基づいて機能していた社会において︑彼ら 全体が蒙っていた不利な状況のために︑聖職者の地位に心を動かされたからであった︵ブラックボーン︑
カトリック系市民が社会的に上昇することは決して容易なことではなかった︵服部︑
19 78 , 169ー
17 0)
︒ 士 6
4﹂
︑
一 九
八 八
︑ 態は個人的な財産統計に明らかに反映されていた︒例えば︑
一九
八七
︑ 徒の相対的貧困状態は︑どの邦でも同様に見られた
( B l a
c k b o
u r n ,
19 78 , 16 4. ブ
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︑
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( E v a n s ,
19 81 , 14 0. R o h l ,
19 67 , 10 9)
︒九0年代の中央党指導層は︑
ことによってのみ︑
一 九
八 三
︑
10
九 ︒
B l a c
k b o u
r n ,
カトリック教徒の職業上の地位に関しては︑彼らが将校︑高級官僚︑教師︑自由職業等の分野 と比較して︑貧しい農村や小都市には多くのカトリック教徒が住み︑反対に豊かな都市には少なかった︒こうした状
の三分の一を占めていたにもかかわらず︑所得税総額のうち︑わずか六分の一しか納めていなかった︒カトリック教 一九八六︑八七︶︒カトリック教徒はドイツ帝国やプロイセンの官僚制の高い地位に就くことは明らかに不可能であっ
カトリックが有する政治権力を抑制的に行使する カトリック中産階級はその正当な人口比に応じた数の公務員や大学教授職に就けると結論した 中央党はカトリシズムの世界に限定された政党であった︒もっとも︑中央党の創設者たちは中央党をプロテスタン
︵ 七
四 七
︶
一 般
に ︑
ントまでがカトリック市民であったとされている︵西川︑ に限られていたことに示されている︒ある研究では︑ とんどが聖職者や市民組織の指導者たちから成り立っていたことや︑中央党に投票するものが事実上カトリック市民 央党は最後までカトリシズムの世界に限定された政党であった︒この点は︑中央党の中央や地方における指導者のほ ティズムの世界にも開放しようとしたし︑またその後も何度か﹁塔から出よう﹂という試みが行われた︒しかし︑中
一九二四年の選挙で中央党に投票したものは︑その九八パーセ 一九九二︑四九︶︒しかし中央党にはまた︑もう︱つの面が 存在していた︒それは︑中央党がカトリシズムの世界を構成するさまざまな階級の利益を代表するという面であった︒
中央党のこの面は︑文化闘争が下火となってきた一八八
0年代から次第にはっきりと現れて来ることとなった︒重要
なことは︑この面が表面化するということは︑カトリシズムの世界を構成するさまざまな階級の間の対立が中央党内 に持ち込まれ︑それによって中央党自身が分解の危機にさらされるということである︵西川︑
一九世紀末の政治史には︑それまで争っていた保守党や自由主義政党が民主主義運動や社会主義運動と対 抗するために︑また保護貿易政策や帝国主義的諸政策を推進するために︑
る︒ドイツでもその例外ではなく︑﹁保守派の権力がまだゆるがないうちにそれが起こった﹂ドイツでは︑皇帝や軍 部︑官僚が中心となってそれが推進されることとなった︒しかしドイツのこの動きには︑
それが帝国議会であった︒帝国議会ではこの動きの担い手であるドイツ保守党︑帝国党︑国民自由党が短期間を除い ては過半数を獲得することができなかったからである︒そこで彼らは中央党の協力を求めようとしたのであった︒中 央党のほうでは︑創設以来実権を握っていた貴族層がまずこの求めに応じようとした︒しかし︑文化闘争の苦い経験 を持つ中央党は簡単にそれに応じることはできなかった︒そこで︑貴族層の中からは中央党を離脱する者も現れ︑貴
関 法 第 五 六 巻 四 号
︱つ
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︱つに結集していこうとする動きが見られ
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︵ 七
四 八
︶
一九
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教民
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義政
治史
試論
一 五
族層は中央党の実権を失うことになった︒この過程は中央党の﹁民主化過程﹂と呼ばれている︒中央党は﹁民主化過 程﹂以後の新しい指導者のもとで︑政府に協力的となっていった︒とくに一八九七年頃から一九〇六年までの﹁結集 政策﹂︵農業保護関税と艦隊増強との二大政策によるユンカーとブルジョアジーの連帯︶
党を﹁統治政党﹂と呼ぶものさえ出てきたのであった︵西川︑
一 九
九 ︱
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五 ︱
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五 二
︶ ︒
の時代がそれであり︑この
時期にはほぼ全面的な支持を中央党から期待することができたのであった︒それだけに中央党の比重も増大し︑中央 党の団結を脅かしていた農民とプチ・ブルジョアジーからしばしば草の根の心情的圧力を受けて︑産業資本主義体制
に対するこれらの集団の不満の代弁者になっていた︒こうした中央党の政策は︑ヴィルヘルム期の歴代政府のそれと
一九八八︑二三八︶︒第一次世界大戦前ですら︑中央党選挙民の大部分は︑党 の指導部に反して︑工業労働者︑小農民︑ぶどう栽培業者︑職人︑商店主であった︒党の選挙民は︑よく言われてき たことであるが︑ドイツ社会のミクロコスモスを形成していた
( E v a n s ,
19 81 ,
1 1 2
) ︒
一九世紀末頃︑ドイツ・カトリック市民が部分的に国民文化に適応するようになると︑事態も好転していった︑と いうのが︑イスラエルの歴史学者︑ガブリエール・モーツキンの所説である︒彼の主張は三点にわたる︒まず︑
で︑国家を自由主義の単なる同盟者と見なさず︑議会政治の利点を認識した者たちが市民層の中に生まれ︑彼らが
︵中央党の︶政治における指導的な役割を引き受けたことである︒第二に︑二
0世紀の最初の二︑三0年に他国では早
期に見られたようなカトリックの知識層が徐々に成熟してきたことである︒第三に︑そうこうするうちに︑愛国的に なったカトリック教徒が︑ドイツのナショナリズムがプロテスタントによって必然的に支配されるに相違ないことを
ほどなく悟ったことである︵モーツキン︑二000
︑一
八︱
│︱
八二
︶︒
決して矛盾しなかった︵ブラックボーン︑
︵ 七
四 九
︶
一 方
一九︱四年までに︑中央党は︑