研究ノート
ある戦闘的キリスト者の「大陸雄飛」と ブラジルでの教育活動
―岸本昻一と暁星学園をめぐって―
根 川 幸 男
I はじめに
近代日本人の海外移植民に、キリスト教およびキリスト者が果たした役割は大 きい。ハワイや米本土の日系社会で指導的役割を果たしたキリスト者については、
多くの先行研究が蓄積されてきた(1)。これに対し、1925年以降日本人移民の主たる 受入れ先となったブラジルを対象にした研究は空白領域が多い。
ブラジルへの日本人移民は1908年に始まるが、家族移民が条件であったため、
滞在が長期化する1920年代には子弟教育の問題が顕在化した。ハワイ・北米と同 じく、ブラジルの日系子弟教育においてもキリスト者の存在が顕著である。例え ば、ブラジル最初の日系寄宿舎学校である聖州義塾は、1925年に小林美登利牧師 によって設立された。また、信濃海外協会によって設立されたアリアンサ移住地 の第1アリアンサ中央小学校は、力行会員の指導で1926年に開かれた日曜学校を 起源とする(2)。1932年に岸本昻一によってサンパウロ市に設立された暁星学園もキ リスト教を教育の基盤としていた。聖州義塾と暁星学園は、戦前期ブラジルの日 系キリスト教教育機関の双璧といえるが、小林美登利と聖州義塾についてはすで にいくつかの論考が発表されているものの(3)、岸本昻一と暁星学園については、管 見の限り一編の論考も見られない。
小稿では、まず、岸本昻一という明治生まれの一日本人が、大陸雄飛(4)を経てキ リスト者となり、ブラジルに移民して教師を天職とし、暁星学園を設立・運営す るまでの足跡をたどる。その中で、一農村青年のキリスト教入信や海外雄飛の意 味を考察する。また、岸本が展開した戦闘的な教育理念をふまえ、暁星学園の教 育実践を検証し、戦前期ブラジルの日系子弟教育における歴史的意義を明らかに する。
小稿で依拠する資料としては、岸本の著作『移民の地平線(5)』(以下『地平線』
と略す)の断片的な自伝と松田時次『ブラジルコロニアの先駆者―岸本昻一の生 涯(6)』がある。岸本の幼少期から青年期についてはこれらによるが、彼の残した写 真アルバム(サンパウロ市の岸本家所蔵。以下「岸本家アルバム」と呼ぶ)の写 真といくつかの遺品を照合して、彼の足取りを検証していく(7)。1930年以後につい ては、ブラジルの邦字新聞記事、暁星学園機関誌などの記述、遺族や知人へのイ ンタビュー資料も合わせて検証し、岸本の教育理念と暁星学園での実践について、
その歴史的意義を確認したい。
Ⅱ 岸本昻一の大陸雄飛
1 満洲留学の物語
岸本昻一は、1898(明治31)年9月、新潟県北蒲原郡鴻沼村大字西塚ノ目(現 在の同県新発田市)に、父常太郎、母ナカの長男として生まれた(8)。彼の下には、
次男卓二、三男豊三、四男徳四郎と2人の妹がいる。岸本は、後述するように新 発田農学校に学ぶが、弟たちも、卓二が県立新発田中学校(現新発田高等学校)、
豊三は加茂農林学校(現加茂農林高等学校)、四男徳四郎は新発田中学校を経て 新潟師範学校と、上級学校に進学し卒業している。このことから、岸本家は当時 としては、かなり開明的で裕福な農家であったことが知られる。
岸本は、地元の島塚尋常小学校を卒業後、1911年4月に開校したばかりの北蒲
原郡立新発田農学校本科に第1期生として入学した。初代校長は、山梨県立農林 学校から着任した工藤斎であり、同校長は校訓を「知行合一」と定め、午前中は 学科、午後は実習とし、実践的な教育を重視した(9)。富農の長男に生まれ、地方農 家の後継者養成機関であった農学校に進学したのであるから、当然生家を継ぎ農 業に従事することが期待されていた。ところが、彼が同校在学中、ドイツ留学を 終えた三宅於蒐松が校長として赴任し、記念講演会を行った。その際、三宅は、
特にシベリアへの雄飛を奨励し、岸本はこの講演にすっかり魅了されたという。
彼はこの時の気持ちを、後に次のように記している。
此の校長の熱弁を講堂の隅つこの方に息を殺して聴いていたわたしは、「よ しつ、おれが行く、男子青年の日に立たざれば何れの日にか立つ、事の成敗 は眼中になし」と青年の純情一途の心で、心中に叫び、拳を固く握りしめて 居た(10)。
1914年、新発田農学校を卒業した岸本は、ひとまず家業に勤しむことになる。
また、1918年10月、近郷の農家の娘萩乃(旧姓清野)と結婚した(11)。ところが、『地 平線』によると、海外雄飛の夢は結婚してからもますますふくらむ一方で、非常 手段に訴え家出同然で満洲への渡航を企てる。決行前、新妻にひそかに胸中をう ちあけたが、彼女は義理の両親のもとで留守を守ることを決意し、夫の海外雄飛 に同意したという(12)。岸本にとっては最初の海外渡航であり、ロシア語を勉強する ため日露協会学校(13)のある満洲のハルビン行きを志した。ハルビンには、1918年10 月31日に到着したとされる(14)。最初の1年間は日露協会学校の夜間部に入学し、2、
3年は昼間部で勉強していく方針で、まず就職運動に乗り出したという。その時 の様子を岸本は次のように記している。「一人の知人もいない彼は、北満の広野 の町を日本人の経営する会社や商店を片つ端から訪れて就職運動に奔走した。三 井物産、三菱商事、松浦商会、小寺洋行、加藤公司などの大会社、商社から、場
末の三文商店に至るまで足を棒にして歩き廻つたが、支那語もロシヤ語も出来な い彼を使ってくれるところはなかった(15)」。最後に訪ねた満洲製粉の所長宅で食事 を供され、所長から、海外で仕事をするには語学が唯一の武器であり、自分の会 社では8割が現地人であるから、現地語を話せることが絶対必要条件であること を告げられる。また、現地人を使うには威圧ではなく友愛精神で接するべきであ り、「支那人と一緒にゴロ寝をするだけの気持ち」が必要だと諭される。打ちひ しがれて宿へ帰った岸本は、宿代を催促に来た主人に、就職活動が不首尾であっ たこと、明日から苦力となり「支那人やロシヤ人と一緒に生き、死んで行く覚悟」
について語る。そして、これを聞いた宿屋の主人から、陸軍の相澤大佐なる人物 を紹介される。「此のハルビンにも一千人の日本人が居るのぢやが、頭の出来る 奴は腹がない。腹の出来た奴は頭がない」と嘆く相澤は、岸本に惚れこみ、彼を 現地採用の軍属に任じる。仕事は、ハルビン陸軍倉庫の責任者であった。やがて この相澤の取り計らいで、彼は日露協会の露語科にも通うようになる(16)。以上が『地 平線』に記された故郷脱出から日露協会学校入学までの経緯である。
続く『地平線』の記述では、日露協会学校の夏休みに旅に出、日本人夫人のい る中国人一家と親しくなり、娘の日本語の家庭教師を務めるエピソードが語られ る(17)。しかしながら、同書の満洲時代の回想は突然このあたりで終わり、「母危篤 直ぐ帰れ」の電報に接し日本に呼び返されてしまう。岸本は驚いて帰郷するが、
母は元気で、一計をめぐらして彼を呼び戻したことを告げる。結果として、彼は ハルビンに戻ることを断念する(18)。この帰国の顛末には疑問が残る。軍属とはいえ、
陸軍倉庫の管理というのは「御国の為」の仕事であり、軍の機密にも預かる責任 を持つ。それが母の危篤を理由にしても簡単に辞職できるのかということである。
彼を見込んで倉庫管理の仕事に就けた相澤大佐との関係も不明瞭である。手持ち の資料にも、遺族へのインタビューでも、このことについて手がかりになる情報 はない。
2 シベリア出兵の物語
岸本の大陸雄飛には、もう1つの物語が存在するようである。それを岸本自身 の残した写真と遺品から紐解いてみたい。
岸本の三男イサク氏の元には、「陸軍歩兵上等兵岸本昻一 大正四年乃至九年戦 役ノ功ニ依リ勲八等白色桐葉章及金四百参拾円ヲ授ケ賜フ」という勲章授与証お よび勲章実物が保存されている。また、岸本自身もブラジル行きに当たって、「幸 いにしてシベリア出兵当時の戦功に依り勲八等白色桐葉章と共に四百三十円の論 考賞があつたのと、妻の嫁入の際の衣装を四百円で売り払ひ、これを旅費にし」
たと記している(19)。
岸本家アルバムには、軍服姿の岸本の写真が数枚残さ れており、これらを見ると、彼の大陸雄飛のもう1つの 物語がほのみえてくる。まず、写真1は単身撮影したも のであるが、襟章に「16」と見え、肩の階級章は上等兵 を表わす3つの星が見える(写真1参照)。明らかに明 治45年制定の帝国陸軍軍装であり、階級章があることか ら正規の陸軍第16連隊兵士であり、軍属とは考えられ ない(20)。また、同アルバムには、「零下四十度ノ雪ノシベ リヤニ鉄条網ヲ張りテ屯ス クノリンゲ駅 大正八年十二 月」(写真2参照)、「大正九年
四月九日、敵に包囲せられたる 孤立無援のスパスカヤより浦潮 に向はんとする刹那の光景」(写 真3参照)と書き入れのある写 真がある。第16連隊は、1919年 10月にシベリアに派兵され、ス パスカヤをふくむハンカ湖東南
写真1
写真2
岸方面で戦っている。1919年10 月の時点で彼は満21歳であり、
現役兵として年齢も合ってい る。さらに、「初年兵教育係リ トシテ内地返還 シベリア・ス パスカヤ市ニテ 大正九年九月」
(写真4参照)と書き入れられ た日本兵の集合写真があり、前 列左から2人目に岸本が写って いる。これらの写真は、岸本が 第16連隊の一兵士としてシベリ アに出役し、1919年から1920年 頃スパスカヤ方面に転戦、1920 年9月頃内地に召還されたこと を意味するようである。岸本ア ルバムの写真に依拠するなら、
日露協会学校露語科の2年生を 修了したはずの1920年には、岸本はスパスカヤにいたはずである(21)。このシベリア 出役と初年兵教育係としての帰還について、『地平線』にはふれられていないが、
同書のブラジル渡航後の部分に「シベリヤの市で十字砲火を潜つたことがあり、
北満で馬賊の襲撃を受けたことなどもあつて、多少弾雨の道を歩いた(22)」と記され ており、シベリアでの戦闘体験が確認できる。
以上のように、岸本が後年記述した書物と岸本家アルバムの写真を照合した場 合、満洲留学とシベリア出兵という2種の大陸雄飛の物語が浮かび上がってくる。
満洲からの一時帰国中に動員されたという想像もなりたたなくはないが、だとす ると岸本はなぜそれについて記さなかったのか。勲八等白色桐葉章と「金四百参
写真3
写真4
拾円」が授与された背景には相当の軍功があったものと考えられるが、それにつ いても彼は沈黙している。太平洋戦争中のブラジルでは日本人が敵性外国人とさ れ、岸本は戦時中に当局によって逮捕されている(23)。また、戦後は勝ち組・負け組 の抗争が続き、その後ブラジル当局といわゆる負け組によって勝ち組は排除され ていくが、その対立は長く尾を引いた。『地平線』の発行当時、終戦から15年が 経過していたとはいえ、正規の日本軍兵士としての経験を公言することをはばか る意識がはたらいたのかもしれない。
3 帰郷と挫折、キリスト教との出会いとブラジルへの出発
岸本は後に熱烈なキリスト者として知られるようになるが、いつ頃キリスト教 にふれたのであろうか。「満洲留学」が記された『地平線』には、陸軍倉庫の古 雑誌の中から雑誌『力行世界』を発見、「会長の南米一巡の記事を熱読」し、「斯 うした先覚者の足跡から民族発展の舞台が南へ移動拡大されつゝある事を」知り、
「自己の針路に対し再検討して見なければならなくなつて来た(24)」と記されている。
『力行世界』は日本力行会の機関誌である。同会は、ドイツ再洗礼派の島貫兵 太夫牧師が設立した東京労働会に起源を持つ、青年の苦学力行による海外渡航を 支援する団体であった。引用文中の「会長」というのは、日本人のブラジル移民 を奨励し、サンパウロ州内陸にアリアンサ移住地を建設する第2代会長永田稠で ある。ここに記された「南米一巡」の記事は、永田が1920年3月に北米に渡り、
同年6月に首都リオ・デ・ジャネイロからサンパウロ州やミナス・ジェライス州 を歩き回って日本人移民の可能性をさぐった旅行記である。永田自身がキリスト 者であり、『力行世界』には最新の南米移民情報や各地の力行会員の消息だけで なく、キリスト教や聖書の解説などが掲載されていたため、岸本は自然にキリス ト教に親しみを抱いたのではなかろうか。また、彼がシベリアかハルビンにいた とすれば、キリスト教にふれる機会は十分にあったことが想像される。
こうして、岸本は、彼の表現を借りると「北から南えママの転回(25)」を遂げることに
なる。「南」はブラジルを意味していた。帰郷後の彼は、当時の境遇を「故郷の 山河に蟄居半歳」と表現し、村の青年団長に祭り上げられたり、父の名代を務め たりで「次第に動きがつかなくなるやうな気がして来た」と回想する(26)。1921年1 月には長女松枝が生まれた。そんな故郷で鬱々とした日々の中、岸本はキリスト 教会に通い始めた。彼のキリスト教への入信当初の様子は、次のように描写され ている。
此の頃から私は教会へ通い出した。北越の野も山も谷も雪に埋もれた厳冬 の夜、新発田キリスト教会に通ひつゞけ、熱烈な求道の精神に燃えていつた。
キリスト教の世界観によって、自分の使命が将来とおして海外にあると自覚 するようになつていつた。斯くて幾十度か、両親及び親族の間を駆け廻つて 海外行きの許可をしてもらうべく懇願してみたが、徒に嘲笑罵倒を浴びせら れるばかりで問題にならなかつた(27)。
岸本家アルバムには、岸本が1958年に一時帰国した時に新発田キリスト教会を 訪れた写真があり、若い頃彼が通ったのが、この会衆派の教会であったことが知 られる。また、ここで彼は、海外雄飛をキリスト教の使命観と結びつけて考えて いる。この時、キリスト教とともに岸本の使命観を刺激したのは、永田の日本民 族南進論とブラジル行きであった。ただ、彼にとって、両親や親族との関係が大 きな問題であった。「そこで遂に教会の牧師に心情を語り意見をきいた。牧師は、
これに対し「神の意志は完全であるが、親の意志は完全ではない。我等は神の意 志に従うべきである。真理のために人類の大きい理想に向って進む場合は、家を 出るのも止むを得ないことだと言つて祈つてくれた」という(28)。
こうして岸本は、キリスト教によって海外雄飛を「使命」と自覚し、教会の牧 師によって「神の意志」を悟り、出奔同様に上京し力行会への入会を果たす。当 時の力行会は、永田を中心に、組合運営による新しい移住地建設の計画を進めて
おり、1922年1月に岡田忠雄長野県知事を総裁として信濃海外協会を発足させて いた。この移住地建設計画は紆余曲折を経た後、1924年末のアリアンサ移住地と して結実する。
しかし、ブラジルへの道は平坦ではなかった。力行会入会後、驚いて上京した 父に岸本は連れ戻されてしまう。帰郷した岸本は、親族会議にかけられ糾弾され たという。結局、岸本は分家するという名目で家督相続権をすべて弟に譲り、「一 坪の土地一厘の金も貰わない分家となつて、妻と子を抱え文字通り路傍に放り出 された(29)」という。
1922年9月13日、力行会で3ヶ月を過ごした後、岸本は、妻、長女とともに、
しかご丸でブラジルに向けて出発する。外務省外交史料館所蔵の「外国旅券下付 表」によると、岸本一家の旅券は、1922年7月1日、兵庫県庁から下付されている。
旅券番号は、第一九〇五九五号、旅行目的は「契約移民」となっている。つまり、
ブラジルで「コロノ」と呼ばれる底辺の契約農民として渡航したのであった。
Ⅲ 岸本のブラジル放浪と教育活動
1 学校教師となる
こうしてブラジルに渡った岸本は、レジストロ、セントラル鉄道沿線、サンパ ウロ郊外など、サンパウロ州内を転々とした(30)。その後、同州内陸ノロエステ鉄道 沿線のボラ植民地に入植し、一契約農民として生活を始めた。そこでは2年間の コーヒー栽培の請負契約で働き、最初は食うや食わずの生活が続いたらしい。農 場主との諍いでピストルをつきつけられたり(31)、大凶作に遭ったりと、他の農業移 民同様の辛酸を舐めている。また、ここで病気にかかった長女を医者にみせるこ ともできないまま亡くしている(32)。そして、1925年にはボラ植民地で5アルケール(33)
の土地を購入し、自作農に転身した。彼はこの時の気持ちを「これでブラジルの 百姓も落第せずに済んだだけでなく、将来の生きてゆく自信も与えられて来、新
移民当時の此の苦難の道が後日の私を形成していつてくれる大きな土台石となつ た」と回想している(34)。
当時の移民知識人の多くがそうであったように、岸本も農業のかたわら日系子 弟に日本語を教え始めた。岸本家アルバム写真によると、彼が最初に教鞭をとっ たのは同じくボラ植民地の小学校であったと推定され、子どもたちとの集合写真 に書き入れられた日付は「1928年8月8日」となっている。ボラ植民地で教師を 始めたのは、先述のように自作農となり、精神的・経済的余裕が生じたことも契 機となっているであろう。当時の日系農民は移動性が高かった。1930年には、同 じ内陸部の都市リンス近郊のウニオン植民地でも日本語学校を開き、当時の農村 地域の多くの教師がそうであったように、半農半教の生活が続いた。
岸本家アルバムで注目されるのは、「聖州義塾ノ日本語教師時代(一九二九年)」
という書き入れのある写真である。1929年というと、彼がウニオン植民地に移る 前である。これを裏付けるように、松田前掲書に「時あたかもノロエステ線沿線 での全学校が一時閉鎖されることになったのを機会に、彼は妻子をボラ植民地に 残し、単身サンパウロ市に出て、アルバイトに日本語教師をしながら自らも葡語 の勉強をしていた(35)」と記されている。写真と照合した結果、それは、当時サンパ ウロ唯一の日系寄宿舎学校であった聖州義塾で日本語を教えることであったと考 えられる。岸本はブラジル渡航時、しかご丸で小林美登利牧師の弟登次郎と同船 しており、同塾に寄宿し、日本語を教えながらポルトガル語を学習したものと考 えられる。小林美登利は1929年10月、約9ヶ月間の訪日後ブラジルに戻り、義塾 の改革を始めた(36)。この改革時のスタッフに岸本の名はないので、彼のサンパウロ 滞在と同塾での日本語教育は、おそらく農閑期のごく短期間であったと考えられ る。ただ、当時の義塾の状態については、「同年十月(主任留守中)に隣家(ガ ルボンブエノ街八七)を借り受けて事業の拡張をなす。之れ一面入塾希望者の強 請に依るものなりしと雖も門戸の拡大は濁流の浸入をも招き(…(37))」とあるように、
寄宿希望者が急増していた。岸本は、こうしたサンパウロ市での寄宿希望者のニー
ズについて認識を新たにしたことであろう。
内陸に戻った岸本は、リンス市のウニオンで公立小学校の教師にひとまず応募 した。「申込者三十余名あり、日系人の彼にはほとんど合格の見込みはないもの とあきらめていたところ、ウニオン市在住の知友、浅見氏の市への働きかけによ り採用されることとなった(38)」と、その経緯が記されている。「浅見氏」とは、移 民ジャーナリスト浅見哲之輔のことであり、彼も聖州義塾出身であった。このよ うに、小林と岸本というブラジル日系社会の二大教育者のネットワーク、聖州義 塾と暁星学園という二大キリスト教教育機関の歴史は各所で交錯している。
岸本は1933年に暁星学園を創設するが、1930年頃からサンパウロ市移転の前後 までは、先の岸本家アルバム写真とともに、邦字新聞の記事によってある程度知 ることができる。当時サンパウロ市で発行されていた邦字新聞『伯剌西爾時報』(以 下『時報』と略す)には次のような記事がある。
ウニオン植民地小学校公認
(…)教師は伯人マリサル・カマルゴ氏と日本人岸本昻一氏とで、学校責 任者は日本人会長内山吉蔵氏であるとのことである。(『時報』672号、1930 年9月11日)
岸本らが教えていた私設未公認の小学校だったものが、私立小学校として公認 されたことを伝える記事である。このウニオン植民地で岸本は聖書の研究会を 行っていたことが、当時同植民地に居住していたK.M.氏の証言によって知られ る(39)。また、この学校の休暇中、マリリア市近郊にあったカスカツタ植民地に出講 し、教師を務めていたことが新聞に記されている(40)。
2 出聖と暁星学園の創立
岸本は1931年末、それまで勤めていたウニオン小学校を辞任、次の記事のよう
に教え子10数名とともに出聖(41)、すなわちサンパウロ市に移転することとなった。
・ウマニヨン小学校補習科新設マ
リンス駅ウニオン小学校では来学期から小学部を終へた児童の為め補習科 を設け、尚ほ必要な課程を授ける事になつた。因に岸本教師は辞任して聖市 へ十余名の教へ子を伴ひ行き私塾を開く由。(『時報』747号、1931年12月18日)
これによると、彼が当時すでにサンパウロに私塾開設の意志を持っていたこと が知られる。ちなみに翌1932年3月に出された日本の外務省報告書には、ウニオ ン小学校は日本人教師1名にブラジル人教師2名、生徒数87名と記され、生徒数 からみると、比較的大きな小学校に発展していたことが知られる(42)。
では、岸本はなぜ発展しつつあったウニオン小学校教師の職を捨て、出聖に踏 み切ったのか。松田前掲書によると、岸本が「ノロエステの植民地で約十年間、
教師としての経験を重ねている間に、コロニアの農民たちから、「子供をサンパ ウロに出して勉強させたいが何とか(岸本)先生の力でわれわれの子供を預って 面倒見てもらえないか」という切実な要望が相次いで出てきた(43)」という。当時の ブラジルにおいて、出聖は、子どもにとっては上級学校への進学の、教師にとっ てはよりよい条件を持つ学校への転職の契機であった。ここで、ブラジル日系社 会の文脈における出聖の意味をもう少し掘り下げて考えてみよう。
前山(1996)は、ブラジル日系社会の立志伝中の人物中尾熊喜の評伝的研究 の中で、「ステータス」という概念を通じて、次のように2種の社会について述 べている。「すべての社会には構造というものがあり、構造はその社会の成員の ステータス(地位status)と役割(role)とから構成されている。個人のステー タスは家柄・人種・身分など個人の出生以前にすでに決定されている要因によっ て主として決定される場合と、個々人の資質・能力・努力・教育程度などによっ て獲得されたそれぞれの能力による場合とが考えられる。個人の努力によってス
テータスの変更しやすい社会は《開放的社会》と呼ばれ、《閉鎖的社会》に相対 する(44)」。また、「移民は「エンシャーダ」(鍬)一本になぞらえられ、三人の可動 力のある家族は、「エンシャーダ三本」と数えられた(45)」と、戦前ブラジルの農本 主義について述べている。どちらも岸本の出聖の動機を考える場合、示唆的であ る。
コロノ(契約農民)として底辺の農民生活を経験した岸本は、そうした農本主 義的価値観の世界にどっぷりとつかって生きてきた。教師になったとはいえ、半 農半教生活であり、給金は農民である父兄たちの懐から出ていた。ブラジル農村 の日系教育機関の教師が一般農民より一段下に見られがちであったのは、この点 にも由来する。岸本にとって、教師が独立した職能として優位性をもち得ない農 村は、上記の「閉鎖的社会」であった。サンパウロ市で教師になることは、こう した農本主義的価値観の世界から脱却し、より開放的な都市的価値観の世界、つ まり教師が独立した職能として優位性をもつ世界に転出することを意味してい た。岸本に即していうと、それは病気のわが子を医者にみせられずに死なせてし まうような貧しい境遇からの脱却も意味していた。聖州義塾で臨時教師を勤める ことによって、岸本はそれに気づき、自らの人生の転換の可能性に賭けたといえ るのではないか。この意味で、彼のかつての大陸雄飛、ブラジル渡航自体が、農 本主義的価値観の世界からの脱却をめざしていたともいえる。こうして岸本は、
何人かの教え子たちをともなって出聖した。このように、子弟をサンパウロで勉 強させたいという親の要望にしたがって教師が教え子を引率して出聖する例は、
当時のブラジル日系人の社会上昇の手段としていくつもの事例が確認できる。た だ、岸本のように、サンパウロ市に学校まで創設してしまった例はまれで、彼の 強い信念と行動力をものがたっている。
次に岸本の名が邦字新聞に現れるのは、1932年3月25日と26日にサンパウロ日 本人学校父兄会が主催した「第一回教育研究会」の記事である。出席者57名中の 1名として「聖公学園 岸本昻一」と彼の名が記されている(46)。岸本の所属である
「聖公学園」は、その名称からキリスト教教育機関で、聖公会と何らかの関係があっ たことが想像されるが、詳細は不明である。「暁星学園沿革概要」には、1932年 2月1日、「サンパウロ市コンソラソン街五四七番ニ創立開園ス。生徒寄宿舎ノ ミヲモツテ経営ス(47)」と記されており、この時の「聖公学園」が後の「暁星学園」
となることも推測できる。1932年4月の調査による「在伯邦人設立小学校一覧(48)」 には、聖公学園、暁星学園ともに名が見えない。暁星学園の初出は、「昭和九年 四月現在在伯日本人学校一覧表(49)」である。
岸本が出聖したとされる1932年は、7月に護憲革命が勃発し、サンパウロ市は じめ州内各地が戦場となり、政情も不安定であった。岸本家アルバムには、「イ タケーラ校創立当時ノ生徒七十一名 一九三二年十一月廿日」、「イタケーラ校ノ 情操教育 一九三二年十一月」の2枚がある。これは一時期サンパウロ市郊外の イタケーラに革命戦を避けたことを意味するのではないか。出聖の前後関係を整 理すると、1932年2月にコンソラソン通りに寄宿舎を開くが、7月革命勃発によ り郊外イタケーラに移転。さらに革命戦終息後に同市に戻り、本格的に暁星学園 の経営に乗り出した、と一応理解できる。
暁星学園創立から1930年代末に至るトピックを年表風に整理すると、次のよう になる。
1932年2月:サンパウロ市コンソラソン通りに寄宿舎学校「暁星学園」を創 立(50)
1932年7月:革命戦勃発により、郊外イタケーラに移転
1932年11月:学園敷地として、ピニェイロス区ミゲル・イササ通23の180平 方メートルを購入
1933年5月:サンパウロ州学務局より私立学校として公認。ただし、生徒は 全部市内の小中学校に通学し、学園内の授業は日本語による教 科のみ
1933年7月:柔道部を設け、寄宿生の正課とする(通学生には随意科目)
1934年1月:寄宿舎をドトール・ローザ通りに移す。また、教室をピニェイ ロス通りに移転
1934年2月:補習科を設置し、高等小学校卒業またはこれと同等以上の生徒 の受入れ開始
1934年3月:中学受験科(ポルトガル語)設置
1934年7月:新築校舎落成式挙行、寄宿舎および教室を新校舎に移す 1935年6月:生徒増加にともない1教室を増設
1937年1月:勤労科を設置し、苦学生の受入れ開始 1937年3月:青年部の葡語夜学科設置
1939年9月:葡語初等科設置(51)
暁星学園は、1933年5月に公認私立学校となり、翌34年7月には新校舎が完成 している。また、補習科・中学受験科・勤労科を設置するなど教育面でも内容を 充実させている。同時に、柔道家の富川富興を招いて柔道部を設け、寄宿生の正 課としている。前掲「昭和九年四月現在在伯日本人学校一覧表」には、同学園の 情報が次のように記されており、当時の様子を知ることができる。
名 称 所在地 経営者氏名 設立年月日 生徒数 修業年限・学科目 公認ノ 有無 暁星学園 同市ピニエイロ
ス、ドトルラウ
ザ街七五番 岸本昻一 昭和七年 二月一日 九五
尋 六 ヶ 年、
高二ヶ年修、読、算、
綴、体、唱 私立
(農学校出)、岸本昻一 鈴木悌一、
(高女修)岸本萩之
まだ勤労科や葡語科が設置される以前で、生徒数は95名、日本の小学校に準拠 し修業年限は尋常科6年と高等科2年、修身、読本、算術、綴り方、体操、唱歌 という科目があった。教師は岸本夫妻の他に、戦後にサンパウロ大学教授となっ て同大学日本文化研究所を設立する鈴木悌一が教鞭をとっていた。当時、ピニェ イロス地区は近郊農業を営む日系人が集まり、彼らを相手にする商店も現れ、日
本人街の様相を呈し始めていた。岸本は、サンパウロ市でも新興地区であったピ ニェイロスに教育機関を設け、その地区での先駆的教育者となったわけである。
こうして岸本の出聖は、暁星学園の発展とともに大きく花開いていく結果となる。
1937年1月には、勤労科(「勤労部」という記載もあり)を設置し、学資のない 苦学生を受け入れはじめる。同科による教育は「勤労教育開拓」と呼ばれ、寄宿 舎とともに、岸本の教育理念と暁星学園の特徴を体現するようになる。
1940年12月当時の同学園のスタッフは、次のように拡充されている。
園長: 岸本昻一 日語教師: 樋田徳重 日語教師: 谷垣みつえ 葡語教師: リヂヤ・ロチト 柔道教師: 富川富興 勤労作業主任: 後藤公一 寄宿舎舎監: 岸本萩乃(52)
1930年代末の同学園の生徒数は、200名を数えた(53)。当時のブラジル日系教育機 関の中では、大規模校と認識されるほどに成長していた。
IV 岸本の戦闘的教育理念と暁星学園における実践
岸本は、シベリアで実際に戦闘を経験しただけではなく、彼の教育理念と実践 そのものが「戦闘的」性格を帯びていた。ここでは、暁星学園の発展とともに展 開された岸本の教育理念とその実践について検証してみよう。
まず注目されるのが、暁星学園設立と前後してはじまる『暁星学園報』の執筆 と出版活動である。現存しているのは、小稿でもすでに何度か引用している第8
号(1939年9月)以降のものであり、1940年からは『曠野』と改称される。岸本 は、同誌第8号の巻頭において、「嵐の中に刹那の完成」と題し、自らを「一修 道者」と位置づけ、暁星学園を「民族青年の「教育の実験室」」と定義している(54)。 ここでいう「嵐」とは、30年代後半のブラジル・ナショナリズム台頭の中で、日 本語をはじめとする外国語教育が弾圧されたことを指す。自身を含め同学園に集 う教師や生徒を「修道者」と表現するところに、彼の宗教にねざす教育理念が看 取される。同時に、彼が同学園を「民族青年の「教育の実験室」」と定義した意 義は大きいであろう。それは、ブラジルという異国の排日の嵐の中で、日本人と その子弟がいかに定着・発展していくかという課題を、同学園における「教育の 実験」によって解決するという決意の表明と理解できるからである。ブラジルへ の移民自体が近代日本人の壮大な実験といえるが、岸本はそれを子弟教育の上で 自覚的にとらえていた。
次に、岸本は、同誌の「宗教―先づ魂の開拓から」という文章において、キリ スト教による人格形成について説く。
▽寄宿生は教会へ出席のこと
暁星学園の寄宿舎及勤労教育科の根本精神は、全宇宙を支配する人間以上 な大能者―神の存在を信じ、之を拝してゆく生活である。
若き青年学生の進路には、生活即パンの問題、思想の問題、性欲の問題が 縦横に彼等の身辺に迫りつゝあるのだ。
人間は学問したゞけで偉くなれるものではない。
又その社会が高められてゆくものでも無い。
失望、苦悶、悲哀、困難の暗黒なる人生のドン底から尚且つ敢然として立 上がり、邁進して行く生命の開拓が如何に必要であるか神への信仰の道がそ れである。
我々の魂の中に、高き理想の国―神の国が打ち建てられてゆく時、其所に
新らしい個人と、新らしい社会の発見があるのだ。
青年学生達が築きつゝある学問を真に生かしてゆくには、まづ之を運用す る所の個々の人格の建設からである。
茲に宗教に依つて魂の開拓をしてゆかねばならぬのである。
学園の寄宿生及勤労科の少年少女は日曜学校に、青年学生は教会へ毎日礼 拝に出席することは絶対的な鉄則となつてゐる。之をしてゆく為に導くので あつて、あとは自分の宗教を持つなり、家の宗教に入つてゆくなり、其人の 自由に委せてゐる。
現在此の方の指導に救世軍の田中大尉御夫妻が心血を濺えて尽力して下さ れてゐるので多大の感謝である(55)。
ここには、まず同学園の「寄宿舎及勤労教育科の根本精神は、全宇宙を支配す る人間以上な大能者―神の存在を信じ、之を拝してゆく生活である」とし、超自 然的な神の存在を認め、これを礼拝する生活を共有することが規定されている。
また、同学園の目的が学問だけでなく、あわせて「神への信仰の道」を歩んでい くことによる「個々の人格の建設」であるとする。さらに、寄宿生と勤労生は日 曜学校に、青年学生は毎日教会に出席することが「絶対的な鉄則」と規定されて いる。そして、ここでいう「教会」が救世軍であることが、最後の一行によって 知られる。
救世軍(The Salvation Army)はイギリスを起源とし、グローバルに展開す るプロテスタントの教派団体である。伝道、教育、社会福祉、医療といった活動 を推進するが、軍隊を模した階級制度やメンバーの軍服を模した制服・制帽・階 級章、軍隊用語の使用などが特徴的である。ブラジル日系人への救世軍の伝道(開 戦)は、田中三次によって、1936年8月頃に始められたことが確認される(56)。指揮 官に任じられた田中三次はフィリピンのマニラ獣医学校出身で救世軍での階級は 大尉であった。ブラジル救世軍の内部資料でも、同大尉によって、1936年9月2
日に「日系小隊」(Corpo Japonês)の集会が開かれたことが確認される(57)。先に注
(39)で引用したK.M.氏によると、岸本はこの救世軍の教えに共鳴し、日系小隊 設立時より熱烈な協力者となったという。寄宿生と勤労生は日曜学校、青年学生 は毎日教会に出席することを「絶対的な鉄則」としたことを考えると、救世軍の 教えと実践、生活における軍隊的規律と霊肉の救済を教育の根幹にすえたことが 明らかになる。先述のように、岸本は聖州義塾で教師をした時期もあり、長老派 や会衆派のプロテスタンティズムと接触していた。また、聖公会の伊藤八十二牧 師との接触もあった(58)。ブラジルはカトリック教国であり、カトリック教会との接 触はどこにいても容易である。このように、岸本はキリスト教と自身を結びつけ る機会には事欠かなかった。にもかかわらず、彼がどういう経緯でキリスト教諸 派の中から特に救世軍を選択し傾倒していったのか。岸本が戦後の1947年に出版 した『南米の戦野に孤立して』復刻版の「解説」には、次のように記されている。
救世軍の戦闘的な用語体系は、タイトルの「戦野」、そして本文中の「日本 移民軍」「古戦場」「植民戦線」「戦士」などによく表れている。世界の命運 を担った民族という自覚は、伝道の意欲の強いこの宗派の柱であり、異教徒 の蒙を力でもって啓くことを自らの使命とみなしていた。勤勉と倹約を彼の 信条としていたことは、本書の座談のはしばしからうかがえる。彼のなかで はキリストと二宮金次郎は両立する。彼の永住主義も、厳しい環境であれば あるほど、信仰の種をまく価値があるとする救世軍の教えに適う(59)。
すなわち、救世軍の「戦闘的」な表現や逆境をよしとする教えが、岸本の信条 と合致したということであろう。田中大尉の死後、岸本は『曠野』に長い追悼文 を書いており、田中の人格的な魅力に惹きつけられていたことがうかがえる(60)。し かし、それだけではなく、軍隊的な規律を重んじる救世軍の教えと言語表現に、
岸本が自らの軍歴とシベリアでの厳しい戦闘をくぐった彼の精神、体質と合致す
るものを見出したと考えられよう。
前掲「宗教―先づ魂の開拓」にも記された勤労科は、1937年1月、暁星学園に 設置されたが、同学園の活動の中で岸本の教育理念をもっとも反映したもので あったろう。同科は、同学園に付設された洗濯工場「チントゥラリア・アウロー ラ」(暁洗濯店)で、学資のない子どもたちに技術を習得させながら労働に従事 させ通学を可能にするシステムを確立した。こうした寄宿舎・勤労・教育三位一 体のシステムは、必ずしも同学園が最初ではなかったが、同学園の勤労科システ ムとして広く知られるようになった。
暁星学園の教育実践の特徴の3つ目として、男子寄宿生・勤労生に柔道が課さ れた。岸本は、武道の効用について次のように説いている。
厳格な武士的精神
此の国の二世達を育てゝゆくに必要な精神は、豪毅、果断、忍従の武士的 精神である。熱帯地特有のノラリ、クラリした覇気の乏しい青年では甚だ心 細い次第である。
何がやつて来ても動じない、線の太い有為の青少年たらしめるには、武道、
運動を大いにやらせ、日常生活に於てもスパルタ式の或る程度の鍛錬が必要 である。子供達を強く育てゝゆく訓練の必要を私は痛切に感じて居る者であ る(61)。
同学園の柔道部は、全伯学生武道大会に出場し、1937年から38年まで4度優勝 している(62)。岸本の文章の表現に注目してみると、「雌伏幾年、奮戦又奮戦、熱闘 又熱闘」とか「斃れて尚止まざる我等の暁星学生軍」、「白兵戦下に一城また、一 城を抜き」とかいうように、先にもふれた戦闘的表現が散りばめられている(63)。軍 隊にとって実戦が、救世軍にとって伝道が戦いであったように、岸本にとっては 排日の嵐の中で日系子弟を教育することは戦闘そのものであった。1939年という
時代状況を考えてみると、日中戦争が始まって2年、ブラジル日系社会でも銃後 運動が盛んに進められた時期であった。大陸で戦う同胞の労苦をよそに、徴兵猶 予によって海外で平和に日を送っていることの自責の念も背景にあったことが考 えられる。また、前掲『南米の戦野に孤立して』の冒頭には、「物質を目指して 来た旧き日本移民軍は、今や夜明けの大地に、その本来の精神の偉大さを昻揚す る新しき日本の戦士として欧米の陣営の前に立ちはだかっているのだ(64)」と記され ており、彼の戦闘的な表現と教育理念が戦後も衰えていないことを示している。
岸本家アルバムに残る写真(1944年の書き入れあり)には、制帽をかぶった勤 労科男子生徒たちの前で、制帽姿の岸本があたかも指揮官のように直立している 姿が写されている(写真5参照)。岸本から命じられ勤労科に学んだ三男のイサ ク氏によると、当時暁星学園では、朝礼と国民体操を毎朝行っており、勤労科男 子生徒には救世軍の軍帽に似た制帽をかぶせていたという。シベリアで軍人生活 を送った岸本は、救世軍の教えに傾倒するとともに、古巣の軍隊的規律によって、
勤労生たちを訓育したようである。イサク氏によると、厳しいスパルタ式教育で、
時にビンタやゲンコツによる制裁も行われたという。「父の元に子どもを連れて くる親は、煮るなり焼くなり、とにかくいい子になるよう躾けてほしいという人 が多かった。当時はだれもそういった扱いに疑問を持つ人もいなかったんでしょ うね」と同氏は回想する。ただ、救世軍は軍隊的規律を重んじはするが、暴力を ふるうということはありえない
とされている(65)ので、こうした制 裁は帝国陸軍兵士であった岸本 の資質に根づくものと考えられ る。
こうした岸本の教育理念に は、キリスト教(救世軍)の影
響とともに、「民族育英」とい 写真5
う言葉にも表れた「邦人発展主義の論理」を見ることができる。「邦人発展主義 の論理」とは、海外日本人において「一時的な出稼ぎではなく外国に定住し、し かもその土地に現地化することなく日本精神を堅持した状態を保持すること(66)」で あり、「日本精神を堅持した者の定着」こそが真の発展であるとする論理である(67)。 こうした論理は、岸本の次のような言葉にも現れている。
日本の大理想、八紘一宇とは即ち世界を家とし、万邦の民と調和しつつ民 族の新しき理想を行うてゆくことであって、民族の世界的理想への一階段と して邁進してきたのである。(…)盤根錯節の海外万里の広原に活路を拓いて、
登高の一道を究めんとする者の前に闘争の伴うことは当然であって、実にこ こに日本及び日本人の歴史が生成発展してゆくのであれば、我等は喜んで民 族の陣痛の苦しみを背負い、明日の黎明を創る為に迷雲を一掃し、土俵際の 一線で猛然と立ち直らねばならない(68)。
岸本は戦時中に当局によって逮捕・拘禁されるが、上記の著作はその体験をも とに記されたものであった。先の細川の「解説」は、岸本の思想に「キリスト教 の普遍主義と国家神道の世界観が重なりあっている」点を指摘している(69)。国家神 道の世界観は、日本を世界の中心とし、その言語や文化を至上とするものである が、キリスト者、非キリスト者を問わず、強弱の差はあれ当時の海外日本人に一 般的なものであった。岸本の戦闘的な教育理念は、彼の大陸での従軍体験とブラ ジルでの農村体験を資源とし、キリスト教の普遍主義、救世軍の戦闘的神学、邦 人発展主義の論理が交錯しながら形成され、暁星学園の実践の中で鍛えられて いったと考えられるのである。
V まとめにかえて
―岸本の教育活動と暁星学園の歴史的意義
小稿では、近代の一日本人が越境をくり返し、キリスト教にふれ、越境体験を 資源としながら、海外において教育者として成長していく過程を素描した。岸本 は、1930年代のサンパウロ市に暁星学園を設け、日系子弟教育の先駆者となった。
それは自身の出聖の希求とともに、子弟の社会上昇の機会をうかがう農村部の日 系父兄の希望と一致するものであった。特に、同学園が、30年代の経済恐慌と社 会不安の中、学資を持たざる日系子弟に、出聖と就学、技術習得、進学の道を拓 いた意義は大きい。
岸本の大陸での従軍体験、ブラジルの農村での苦闘は、彼の信仰心を強化し、
暁星学園特有の戦闘的教育理念と実践を生み出した。それは、キリスト教(救世 軍)の信仰に生き、軍隊式の厳しい規律の中、学習と労働、そして武道にいそし むことによって、「人格の建設」を行うことであった。またそれは、時に愛の鞭 をふるう過剰な教育実践となったが、当時の日系父兄には頼もしいものに感じら れたことであろう。そうした岸本の教育活動は日本とブラジルの両政府からも評 価され、彼は双方から教育功労者として表彰されている(70)。
岸本は1977 年に亡くなり、暁星学園もその歴史を終える。ただ、半世紀近い 教育の中から、戦後のブラジル日系社会を牽引していく多くの指導者たちを輩出 したことの歴史的意義は大きい。彼らは、宗教家、政治家、弁護士、実業家、翻 訳家、教育者など、ブラジル社会における多方面で活躍することになる。こうし た同学園が輩出した二世指導者たちについては、いずれ稿を改めて論じたい。
謝辞
小稿のもとになった調査を実施するに当って、2012年度同志社大学人文科学研 究所研究費の補助を受けた。また、岸本昻一氏のご遺族をはじめブラジルと日本 の多くの方々に資料収集にご協力いただいた。この場を借りて厚く御礼申上げた い。
注
(1) 例えば、飯田耕二郎「移民の先駆者・星名謙一郎の生涯」『キリスト教社会問題研 究』32号、1984年、146−172頁、杉井六郎『遊行する牧師―辻密太郎の生涯』教文 館、1985年、同志社大学人文科学研究所編『北米日本人キリスト教運動史』PMC出 版、1991年、飯田耕二郎「香蘭女塾と神田重英」沖田行司編『ハワイ日系社会の文 化と変容―1920年代マウイ島の事例』ナカニシヤ出版、1998年、84−107頁、中川芙 佐『土佐からハワイへ―奥村多喜衛の軌跡―』「奥村多喜衛とハワイ日系移民展」実 行委員会、2000年、吉田亮編著『アメリカ日本人移民の越境教育史』日本図書セン ター、2005年、吉田亮『ハワイ日系2世とキリスト教移民教育―戦間期ハワイアン・
ボードのアメリカ化教育活動』学術出版会、2008年、物部ひろみ「戦間期ハワイに おける日系二世女子教育―日本語学校から料理講習会まで―」『立命館言語文化研究』
20巻1号、2008年、187−199頁、吉田亮編著『アメリカ日系二世と越境教育―1930 年代を主にして』不二出版、2012年などの諸論考をあげることができる。
(2) ありあんさ移住地刊行会編『創設十年』1936年、115−116頁
(3) 五十嵐勇作「ブラジルで活躍した小林美登利」『同志社談叢』11巻 同志社社史資料 センター、1991年、181−187頁、根川幸男「近代における一日本人キリスト者の越 境ネットワーク形成―小林美登利の移動と遍歴を事例として―」『日本研究』第46集、
国際日本文化研究センター、2012年、125−150頁、同「戦前期ブラジルにおける日 系キリスト教教育機関の動向―1930年代前半の聖州義塾を事例として―」『経済学論 叢』64巻4号、同志社大学経済学会、2013年、173−198頁、同「日本的プロテスタン ティズムとブラジル移民」上村敏文・笠谷和比古編『日本の近代化とプロテスタンティ ズム』教文館、2013年、304−375頁など。
(4) ここでいう「大陸」とは、広く中国、ソ連極東地方を含むアジア大陸としたい。後 述するように、岸本は恩師の言葉によって海外雄飛を志すが、実際にはシベリア出 兵によって一兵士として大陸に渡った。彼は後年、この「雄飛」を満洲ハルビンへ
の自主的な留学として記している。極言すると、当時の青少年の雄飛先は、シベリ アであれ、満洲であれ、自分が活躍でき、冒険心を満足させられる土地であればど こでも問題なかったようだ。岸本の実際の「雄飛」先がシベリアでありながら、心 情的にはハルビンを志向していたことから、小稿では、両者を統合する地域イメー ジとして「大陸」という表現を用いることにした。
(5) 岸本丘陽『移民の地平線』曠野社、1960年。「丘陽」は岸本の筆名。
(6) 松田時次『ブラジルコロニアの先駆者―岸本昻一の生涯』新潟県海外移住家族会、
1998年
(7) 写真を史料として活用する試みは、近年になって一般化しつつある。例えば、井上 久士「歴史学における写真史料―南京事件の場合―」『歴史評論』No.606、2000年10 月、64−77頁を参照。特に、ブラジルでは戦中に日本語は敵性語とされたため、戦前・
戦中期の日本語史料はきわめて乏しい。したがって、写真や映像の史料価値はひじょ うに高いといえる。
(8) パウリスタ新聞社編『日本ブラジル交流人名事典』五月書房、1996年、85頁、松田 前掲注⑹書、18頁に加え、岸本昻一氏三男イサク氏に確認。
(9) 新発田市史編纂委員会『新発田市史・下巻』1981年、370頁
(10) 岸本前掲注⑸書、67−68頁
(11) 岸本家アルバム写真と書き入れによって確認。
(12) 岸本前掲注⑸書、68頁
(13) 日露協会学校は、設立当初は外務省所管の旧制専門学校であった。1920年5月に「日 本各地で一期生の入学試験が行われ(…)、同年9月24日、各県で選抜された学生は 東京市麹町区内幸町の日露協会本部に集まり、閑院宮載仁親王から親授された校旗 が壇上に掲げられるなか、日露協会学校の開校式が行われた」(芳地隆之『満洲の情 報基地ハルビン学院』新潮社、2010年、42頁)。岸本の入学はそれ以前になるが、同 協会は1915年に哈爾濱商品陳列館開所にともない、ロシア語講習所も開いていたの で、彼が学んだのはこの講習所だったとも考えられる。
(14) 松田前掲注⑹書の「岸本昻一の略歴年表」(以下、「略歴年表」と略)では、1918年に「シ ベリヤに単身渡り満洲で日本軍の軍属として現地採用となり軍用の倉庫管理主任と なる」(348頁)とある。
(15) 岸本前掲注⑸書、69頁
(16) 岸本前掲注⑸書、73−74頁
(17) 岸本前掲注⑸書、75−78頁
(18) 松田前掲注⑹書「略歴年表」348頁でも、1921年に「母危篤の報に接し急遽帰国」と なっている。
(19) 岸本前掲注⑸書、97頁
(20) 写真の鑑定には、戸部良一氏(国際日本文化研究センター教授)の助力を得た。写
真の書き入れ文字が岸本のものである点については、岸本イサク氏に確認した。
(21) 松田前掲注⑹書「岸本昻一の略歴年表」348頁によると、岸本は1920年9月に日露協 会学校ロシヤ語科の2年生を修了したことになっている。
(22)岸本前掲注⑸書、101頁
(23) この体験については、後掲の岸本の自著『南米の戦野に孤立して』において詳述さ れている。
(24) 岸本前掲注⑸書、91頁
(25) 岸本前掲注⑸書、91頁
(26) 岸本前掲注⑸書、92−93頁
(27) 岸本前掲注⑸書、93頁
(28) 岸本前掲注⑸書、93頁
(29) 岸本前掲注⑸書、97頁
(30) 岸本前掲注⑸書、108頁
(31) 岸本前掲注⑸書、111頁
(32) 岸本前掲注⑸書、115頁
(33) 1アルケール=約2.4ヘクタール。
(34) 岸本前掲注⑸書、116−117頁
(35) 松田前掲注⑹書、52−53頁
(36) 聖州義塾の1930年代の改革については、根川前掲注⑶『経済学論叢』掲載論文参照。
(37) 『聖州義塾々報』第1号
(38) 松田前掲注⑹書、53頁
(39) サンパウロ・ホーリネス教会牧師K.M.氏と彼の家族は、ウニオン植民地時代、病気 で生死の境をさまようなど過酷な境遇にあり、家長のH.M.氏以下、岸本の指導の下 キリスト教に入信するようになったという。同家は後に三弟のT.M.氏が暁星学園勤 労科に入学するなど、岸本と深い関係を結ぶことになるが、T.M.氏はサンパウロに 出た後に救世軍の熱心な信者となり、次弟A.M.氏の次男もまた牧師になっている。
(40) 『時報』686号、1930年12月18日
(41) 日本人移民の用語で、進学や就職、あるいは遊興を目的に農村から聖市(サンパウ ロ市)に出ること。
(42) 外務省通商局『伯国教育状況視察報告』1932年、43頁
(43) 松田前掲注⑹書、56頁
(44) 前山隆『エスニシティとブラジル日系人―文化人類学的研究―』御茶の水書房、
1996年、432頁
(45) 前山前掲注(44)書、210頁
(46) 『時報』773号、1932年3月28日
(47) 『暁星学園報』第8号、1939年9月、17頁
(48) 「在伯邦人設立小学校一覧」『伯剌西爾年鑑・後編』伯剌西爾時報社、1933年、110−
116頁
(49) 「昭和九年四月現在在伯日本人学校一覧表」『サンパウロ日本人学校父兄会々報』第 2号、1934年、1頁
(50) ただし、前掲の『時報』773号記事にあるように、同年3月の時点では、学校名は「聖 公学園」であった可能性もある。
(51) 『暁星学園報』第8号、岸本前掲注⑸書、松田前掲注⑹書その他により作成
(52) 『曠野』第13・14号、1940年12月、63頁
(53) 『暁星学園報』第8号、6頁
(54) 『暁星学園報』第8号、6頁
(55) 『暁星学園報』第8号、11頁
(56)『時報』1233号、1936年8月31日
(57) Exército de Salvação, Reunião de Salvação Comemorativa do Centenário da Imiga- ração Japonêsa ao Brasil, São Paulo, 2008.
(58) 岸本前掲注⑸書、100頁
(59) 細川周平「解説 国語の受難、民族の戦い」岸本昻一『南米の戦野に孤立して』(曠 野社1947年)東風社、2002年、復刻版、475頁
(60) 岸本昻一「救霊の戦士!!田中三次氏の生涯」『曠野』第12号、1940年8月、24−37頁
(61) 『暁星学園報』第8号、9頁
(62) 『暁星学園報』第8号、16頁
(63) 例えば、「武道」『暁星学園報』第8号、16頁
(64) 岸本前掲注(59)書、7頁
(65) 救世軍現サンパウロ小隊のE.W.大尉のご教示による。
(66) 小島勝『日本人学校の研究』玉川大学出版部、1999年、237頁
(67) 小島前掲注(66)書、247頁
(68) 岸本前掲注(59)書、190−191頁
(69) 細川前掲注(59)「解説」、466頁
(70) 岸本は1940年に帝国教育会から「海外教育功労者」として表彰され、戦後ブラジル 政府から1964年にコート・マガリャンエス章、1968年にロンドン勲章を受章。さら に1976年には日本政府から勲五等瑞宝章を授与されている。