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自 己 表 現 と し て の 作 文 の 指 導

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(1)

自 己 表 現 と し て の 作 文 の 指 導

‑ 公 的 自 己 づ ‑ り と し て の 手 段 作 文 ‑ 安 河 内

一首韓活動力と言語能力と‑国語教室は子どもたちが言語活動をする壌

国語教室が子どもたちに育てるのは'言語能力であろうか'言

語活動力であろうか。このことについては拙著r「活動単元」に

よる新しい単元学習の展開‑小学校国語科・算数科J(二七頁明

治図書1九九七年)ですでに述べました.田近拘1氏は「言語行

動者の育成」'時枝誠記氏は「言語行為を遂行する能力を与える」'

倉薄紫書氏は「言語行為として経験させ'それを指導する」'西

尾実氏は「今後の国語教育は'この言語活動を地盤的領域とする

発展でなくてはならない」tと言います。これらを吟味したうえ

で私は'教科の指導目標を教室レベルにとらえ直す、ということ

の第一歩は'子どもが「生き生きと躍動する」、「活性化し、胎動

する」そのような「活動」をこそ教室の目標とすることであるt

としました。

これをふまえて構想される国語教室が育てる学力は'図1のよ

うになります。これもすでに述べた<拙著「過程像志向教育の国

語教室‑教材から媒材へ」(二二頁第1法規1九九三年)>ことで

す。図1のいちばん外には'言語の機能としての六つ「伝達」「行

為統御」「個体形成」「言語調整」「社会構成」「文化創造」を置き

ます。この六つの機能は'図中に示す「文字言語活動」(読む・書

⁚自 ‑)と「音声言語活動」(聞‑・話す)とによってなされます。図 1 国語教室が育 てる学 力

そして'この二つの言語活動は'「解釈的言語活動」(読む・聞

‑)と「表現的言語活動」(書‑・話す)とによって構成されま

す。この「解釈的」'「表現的」言語活動というところを'国語教

室の子どもの活動レベルでとらえ直したのが図の中核に置いた

l

(2)

()

「言語による往復活動」です。「言語による往復活動」には'次の三つがあります。

①もの⁚」とと言葉との間を往復する活動(意味論・セマンティ

クス的認識)

②言葉と言葉との間を往復する活動(統辞論・シンタクティス的

認識)

③言葉の送り手と受け手との間を往復する活動(語用論・プラグ

マティクス的認識)

そうすると国語教室というところは'端的にいえば'子どもが

この三つの往復活動を'先の六つの言語の機能が働‑ように進め

るところだ'となります。

けれども'今もって多‑の国語教室が育てようとしているのは、

言語力'言語能力tというよりはその一部でしかない言語知識を

分かることと覚えることのようです。そこでは'漢字の学習'文

法の学習'読みの学習'作文・発言・発表・討議など「表現」の

学習'そのどれをとっても'①②③の「言語による往復活動」は

貧弱で不十分です。したがって'「伝達」「行為統御」「個体形成」「言語調整」「社会構成」「文化創造」という言葉の機能もまた十

分に働かない。働かないどころか'例えば「個体形成」を進める

つもりが個体つぶしを'「社会構成」を進めるつもりが敵対関係

づくりをtの方向にさへ向かっているのです。2国語教室は子どもたちが言語活動によって言語文化づくりを

先の六つの言語の機能は'これを並列的にとらえていてもしよ

うがありません。図2のように構造化してとらえます。「伝達」「行為統御」「言語調整」「社会構成」という四つの機能は'それ 二

ぞれ

が図

中 ⇔

で示したように働き

合 っ

て'言

「文化創造」に向

かい

ます

。そ

して'その言語「文

化創

造」

のた

めの先の三つの「言語の往

復活

動」を行うその過程

とそ

の結

果 の

ところで'子ど

もたちの

人間

形成としての「個体

形成」

な さ

れる'となります。

そうする

と'

言語活動というもの

は '

言語文

化創

造のための手段

でも

あり

'目

的(言語活動そのも

のが

言語文

化そ

のものtという

意味で)で

あり、ということに

な り

ます

図2 六つの言語機能の相関

例え

ば'

詩「春の歌」(草野心

・小4上光村図

香)で

ディベ ー

トというゲー

ムをす

る(

これが創造する

言語文

化の

具体)とします。

する

その

ための準備段階

では

とう

ぜん「伝達」

「行

統御」

「言語調整」

「社

会構

成」

という言語の

機能

発揮

が必要となりま

す。そして、そのように言語が働

き出 す

めに

は'先の三つの「言語の往復活動」がなされなけれ

ばな りま

ん 。

これが手段とし

てな

されている言語活動の姿です。

そう

してデ

ベートというゲー

ムが始ま

りま

すと'これまで手段と

して

やって

た言語活動をデ

ベートの

形式

に沿うよう再構成す

るこ

とが必

要 で

す。そしてデ

ベートと

なる

わけです。このディ

ベー トと

う言

語活動'これ'

学習者・

子ど

もにとっては'目的

とし ての

語活

動の姿です「手段

とし

ての言語活動」と「

目的 とし

言語活動」の区分

は'多‑

の国

語教室でまだ明確で

な い よう

す 。

その結果'例え

(3)

ば作文について'国語教室の主流は今もつて作文すること自体は

目的(これを「日的作文」と私は称している)なのです。作文す

ること自体を手段にして(これを「手段作文」と称している)何

か他の言語文化づ‑りを進める実践'これが自覚的になされてい

る国語教室は少ないというのが現状です。

二目的としての作文と手段としての作文と‑文化創造に欠かせないコミュニケーションとしての言語活動

一の2項で「国語教室は子どもたちが言語活動によって言語文

化づ‑りをする場」としよう。そのためには'言葉の「文化創造」

の働きを国語教室にtと言いました。しかし'言うほどにそれは

簡単なことではありません。特に教師にとっては。

なぜかといえば'これまで私たちは「文化伝達の授業」ばかり

をやってきたからです。これを一挙に百八十度転換させて「文化

創造の授業」をというのですから'戸惑や難しさが先に立つのは

当然です。図3に示した(拙満「文化伝達の授業から文化的実践

の授業へJ(r月間国語教育」四六'七頁東京法令1九九八年三

月号)ように'「文化創造の授業」は基本的にはこのような構造

と過程で展開します。その中核となっているのが'コミュニケー

ション活動としての言語活動です。下の図3に見るように'まず

は今ある文化の発信者である作者や筆者との'次に文化創造の共

同(協同)者である学習仲間や教師との'そして創造した文化を

届ける相手との徹底したコミュニケーション'なかんずく対話す

るということがなければ、文化の創造は覚束ないのです。

コミュニケーションの手段にはいろいろあります。しかし'そ

の主たるものは'なんといっても言語です。話し言葉であり'書

安河内⁚自己表現としての作文の指導

媒材獲得

・媒材との対話

・学習仲間・教師との対話 ・自己表現の目的・相手・内容の決定(言語文化づくりの構想)

・言語文化づくりの計画立案」

自己づくり

・媒材の再構成

学習仲間・教師との対話

点検・評価

自己表現

≡ ・発表'刊行'演示tなど

・表現相手との対話(評価

)

」 文化づ くり̲」

文化創造の授# の構造 と過程

3

自己実現 き言葉です。こ

こでは書き言葉

である作文をと

りあげますが'

1の2項で述べ

たように'国語

教室が「文化創

造の授業」を展

開しようとした

とたんに、作文

は「日的作文」

もさることなが

ら「手段作文」

の必要が大とな

ります。

2文化創造に欠かせない手段作文

事例‑単元「わけを考えながら読もう「たんばばのちえLI

‑らのちえーさとうの木の巻」(福岡県三条木小2年‑級

亀川由美子教諭一九九八年六月の授業)

三素木は三素木砂糖といって昔から知られた砂糖の名産地で'

これを地域教材として早‑から取り入れた稔合的学習については'

一九九七年度に発表会を見'多くの感動と賛同が寄せられました。

本年はさらなる継続発展を願われてのこの授業研究というわけで

す。今回の授業は'国語科の説明文rたんばばのちえJで学んだrちえのはたらかせかたしを生活科の「さとうの木を育てる」た

めのお世話の仕方に活かし'そのことを一年生によ‑分かるよう

(4)

長崎大学教育学部紀要教科教育学第三十三号(一九九九年)

な劇にしようという学習です。

授業は'さとうの木の「草取りの場面のちえを1年生にもよく

わかるようなげさにしよう」のところ。「たんばばのちえ」から

学んだちえ'

①次のことを考えて今しな‑てはならないことを考えてする。

②どうしたらよりしやすくなるか考えてする。

③まわりのようすを見てどうしたらよいか考える。

④くりかえしなんどもする。

を手がかりにしながら劇の台本づくりとしての作文を進めます。

さてこの作文は'作文ができあがればそれで完'となる作文で

はありません。その作文は一年生に見せる劇の台本としてさらに

活用され'その活用の段階ではよりよい劇とするべ‑さらに加除

修正されるという'そういう作文です。これが私が言う「手段作

文」です。この「手段作文」のよさは'「目的作文」が'ややも

すれば'誰に'何のために書‑かのところを唆味にしたままで書

かれるがゆえに'「表出」止まりとなりがちなのに対し'誰に、

何のためにがしっかり自覚された真の「表現」となりえるところ

にあります。

ここのところを西尾実氏は、次のように言います。

表出は'「内から外へ」という一方的作用にとどまるが'表現は、「内

から外へ」という活動が'同時に'「外から内へ」という活動をふ‑んで

いる。表現は、表出作用と同時に自覚作用が行われるところに'独自の

意義をもつ活動である。そこに、表現の'したがって'これまでの親方

の'果して来た人間形成の重要な契横が見出される。(r西尾実国語教育

全集」第三巻中の二九三頁「書‑ことの教育﹄一九五二年習文社)

西尾氏が言う「表現の'‑果して来た人間形成の重要な契機が

見出される」のところは'十分な吟味が必要なところです。ここ

は'後の玉の2項で'さらに吟味を深めることにします。

また'倉津禁書氏は'次のように言います。

現代日本語教育において'作文教育が果たす役割は次のような点である。

‑民主的な語りあう人間を作るために'作文教育ではもっとコミュニ

ケーションの原則を重視しなければならない。‑作文教育は'話すことの教育と伴って'お互いに目標を分けあい'

また互いに長短相補って'適切な指導計画のもとに指導されなければ

ならない。

3作文では'個人の自由を(ママ)独創的な文が書けるから'これを

のばすとともに'その個性的な文をどのように大ぜいの人にわかって

もらいtかつそれをみんなからはね返らせてもらうか'ということに

ついて'考慮を払うような'「集団の中における言語主体としての意識」

を'固くさせなければならない。(r倉滞葉書国語教育全集」4中の三

九一貫r通じ合いの作文指導Jl九四五年河出書房r作文教育講座J

第六巻)

先の三奈木小学校の事例が'まさにこのことの具体なのです。

その詳細は'これもまた後の五の2項で見ることにします。

三日的作文と手段作文の区分

‑表出'表現と発達段階「目的作文」と「手段作文」とは次のように区分します。「目的作文」は、作文すること自体が目的となるもの。作文が

(5)

できあがれば作文活動は完了。したがって学習もそこで終わりと

なります運動会を終わってその感想文を善くなど'その典型的

な例です「目的作文」は'次の図4に示すように'子どもの発達段階に

即して多様な書かせ方がこれまでにも工夫され'小学校低学年か

ら高等学校まで幅広‑実践されてきま

た。小学校高学年から中・

表現

表出

図4 日的作文 と手段作文の区分

高等学校へと書き手が成長してい

くにしたがって'自己に向けて自

己づくりや自己発見のために書く

ことができるようになり'表出レ

ベルの作文から表現レベルの作文

へとその質を高めていきます。「手段作文」は'作文すること

自体が手段となるもの作文がで

きあがっても作文活動は完了とは

ならない。次の学習のための手段

として活用されますディベート

をするための主張文を書く'劇を

するための台本を書く'社会科で ば

○ ○

届けなどの文書の類)に立たされます。そして社会人となっ

て生活の必要に応じて書‑のはほとんどがこの「手段作文」です。2日的作文=文芸的雷くこと

手段作文=生活的、学習的雷くこと「日的作文」は'西尾実氏によれば「文芸的書くこと」'「手段

作文」は「生活的'学習的青‑こと」に相当するようです。

'

''

''

'''

''

''

'

''

'''

発表のための社会見学記を書く'

理科で観察したことの報告のための観察日記を善くなど'その典

型的事例です。まだあまりその自覚的実践はなされていません

目的と相手意識が強固になければ作文できませんので'小学校低

学年からいきなりは無理(

「先

生あの

ね 」

作文は表出レです)

のようです高学年から中

高等学校へと書き手が成長していく

にしたがって'いやでもおうでも書かなければならない場(例え

⁚自

'

<>t'

''

''

(6)

()

'

''

,J''

.(r西r書]

)

ここで大事なことは最後の「その両者は'常にならび行なわれ

なくてはならぬ」という氏の主張です。事例Ⅰに見た三奈木小学

校の具体はそれが可能なことの証左です。そうすると先に図4「目的作文と手段作文の区分」として示したことは'この点につ

いての修正が必要ということになります。

3日的作文コミュニケーションの間接性の作文

手段作文=コミュニケーションの直接性の作文「目的作文」は'倉揮発吉氏によれば「コミュニケーションの

間接性」の作文'「手段作文」は「コミュニケーションの直接性」

の作文tに相当するようです。

記 感 創 録 想 作

書 通

信 式 達

'

'

コミュニケーション

'

''

'

'

(r4'r作

)

ここでの倉滞氏の主張は'だから国語教室で進める作文は'「技能が必要な」'「既存形式を理解することも」必要な'「深い感

動と思考が必要な」'「指導にも手がかかる」'そういう「コミュ

ニケーションの間接性」の作文を'なのでしょう。倉滞氏は'こ

のように国語教室では'「コミュニケーションの間接性の作文」

の優位性を言います。が'二の2項で引用したように'氏は「作

文教育が果たす役割」のⅠに「民主的な語りあう人間を作るため

に'もっとコミュニケーションの原則を重視しなければならない」

と言います。「生きる力」を育もうというこれからの国語教室が'

もっと重視していかなくてはならないのはこのことでしょう。と

すれば'「コミュニケーションの直接性」の作文もまた国語教室

にしっかり位置づけられなければならないのです。

四私的自己表現としての作文と公的自己表現としての作文

作文=作自己O自己表現としての作文

作文を文を作ることとは考えないで自己を作る'自己を作るこ

とを文字によってすることと考えよう'というのが数年来の私の

主張です。

''

(7)

そもそも国語教室の間違いだったということに気づかれよう。/これか

らは'作文ではな‑'作自(己)としよう。自己をつ‑る営み'それが

国語教室では作文だtとしてみよう。そうすることによって'私たちは'「書‑ことがない」という子どものいちばんの悩みを払拭することができ

る。/こうすることのメリットはなにも国語教室に限ったことではある

まい。作自己は'例えば音楽教室では'作曲'演奏'歌唱という具体を

とるであろうLt図工教室では作図'作製、制作という具体をとるであ

ろうから。(拙稿「自己表現としての作文J七頁長崎大学教育学部教科教

育学研究報告第二二号一九九四年)

作文はすべて自己表現であるというとらえ方は'倉薄紫舌氏も「作文教育の大系」(一九五二年)の頃にはすでに構想されていた

ようです。

書‑ことの機能を'コミュニケーションの原則のうえからみようとする

のは'戦後の一傾向であってアメリカのまねであるtという人があるが正

しくない。それはアメリカ的ではなくて'言語の理論の,つえから認められ

るのである。二十世紀は'閉ざされた世界になっていくのではなく'開か

れた社会になっていこうとしている。世界の動きなのである。<略>コミュ

ニケーションは言語だけではないが'言語はコミュニケーションのもっと

も重要な通路であって'言語をなかだちとして、人々が開かれた同士の関

係を作ろうと出かけるのは'近代社会の'たいせつな生活の基本形態であ

る。<略>ある人々は'このようなコミュニケーションの論は'子どもに

はあてはまらないという。子どもは本来そのような意識を持たず、すべて

の作文は'本来「通達」のためではな‑て「自己表現」のものであるとい

う。なるほどへ子どもが開かれた社会の仲間入りをしていないことは事実

安河内⁚自己表現としての作文の指導 である。子どもにはコミュニケーションの意識は少ないのである。しかし'

だから'教育において言語のこの機能を無視してよいことにはならない。

かえって'そのような子どもであるからこそ'コミュニケーションの機能

を円滑にして'われわれは子どもに'開かれた社会への参加の身構えをさ

せるように指導すべきである。(「倉揮葉書国語教育全集」4中の四八貫r作文教育の大系J一九五二年金子書房)

倉滞氏は'すでに半世紀前に'「二十世紀は'閉ざされた世界

になっていくのではな‑'開かれた社会になっていこうとしてい

る」と喝破しています。二十1世紀もすぐそことなった今日では'

このことはもはや日々現実のこととなりました。そして「子ども

が開かれた社会の仲間入りをしていないことは事実である。子ど

もにはコミュニケーションの意識は少ないのである」という氏の

言い分も'子どもはすでに地域社会の1構成月である'子どもは

市民のひとりであるtという見方が市民権を得つつある今日に至っ

ては'どうやら変更せざるをえなくなりました。2個人的自我と社会的自我

先の‑項で引用した倉滞氏の言に注目すべき一文がありました。

次の1文です.

コミュニケーションの機能を円滑にして、われわれは子どもに'

開かれた社会への参加の身構えをさせるように指導すべきである。「開かれた社会への参加の身構えをさせるように指導すべきで

ある」とはどういうことでしょう。これを作文教育の場面で具体

化すれば'どういうことになるのでしょう。

これに関して西尾実氏が'奇し‑も時を同じ‑してこう言って

います。

(8)

()

'

''

'

'''

''

''

'

'調

''

'

''

''

''

'(r西

r書

)

''

''

'''

(同)

私が作文‑作自己O自己表現とした'その作られるべき自己に「個人的自我」と「社会的自我」の二つの方向がある'と倉滞氏

も西尾氏も言います。国語教室では'「目的作文」は「個人的自

我」づ‑りに'「手段作文」は「社会的自我」づくりに有効に働

くようです。社会に出れば必然的に学ぶことになるのだからとし ,しノ

てきた「手段作文」への取り組み'国語教室でも始める時です。

五目的作文と手段作文との区分

‑手段作文を国語教室の作文でもっと

三項'四項で述べたことを整理して'「目的作文」と「手段作

文」の区分を明らかにします。ここで三の2項で修正の要が生じ

ていた先の図4は'次の図5のように改めることにします。

作 括 国文 用 語 磨 座 oa4 笠 恵 畠

の 教 く表現

>‑

I の教

J

対 室 千

象 以 十手投作文 対 室象 の

と外 千 千 と作

しの

て作 千 畑 的作文 十 てし文

の文 」 O O‑‑J <表 出>

ミュニケーションの直叢性 コミュニケーションの間接性

図5 日的作文 と手段作文の区分

(9)

この図5をもとに'「目的作文」と「手段作文」の区分を整理

したのが'次の表‑「目的作文・手段作文対照表」です。

表1日的作文・手段作文対照表

日的作文

L作文すること自体が学習の目

的となる。

2.作文が出来上がるとそこで作

文活動は完了となる。

3

.書‑目的が明確でな‑ても育ける。4.書‑相手が明確でな‑ても書ける。

5.表出活動から表現活動までの

レベルの書‑活動となる。6.書く過程・書いた結果それぞ

れのところで'書‑対象(ち

の'こと'作者'筆者'関係

者)・書‑仲間・書‑相手と

の間接的なコミュニケーショ

ン活動がなされる。

7.主として私的自己(個人的自

我)づ‑りがなされる。

8

.国語教室では生活文'感想文'

創作などがその典型である。 手段作文

L作文はあることをなすための

手段となる。2.作文が出来上がっても作文活

動は完了とはならない。

3.書く目的が明確でないと書け

ない4.香‑相手が明確でないと享け

ない

5.表現活動のレベルの書‑活動

となる

6.書く過程・書いた結果それぞ

れのところで'書‑対象(も

の'こと'作者'筆者'関係

者)・書‑仲間・書く相手と

の直接的なコミュニケーショ

ン活動がなされる。㌣王として公的自己(社会的自

我)づ‑りがなされる。

8.国語教室では生活文'通信文'

シナリオ(台本)などがその

典型である。 9.作文の仕方は'主として国語

教室で習得される。

10.現在まで国語教室の作文の主流をなしてきた。 9.作文の仕方は'主として国語

教室で習得される必要がある。

同時に国語教室の外(社会的

な場)で必要に応じて習得さ

れる。

10.回語教室の作文としては自覚的にはあまりなされてこなかっ

た。

安河内⁚自己表現としての作文の指導 2なぜ手段作文をか

「これからの社会の変化に主体的に対応できるよう'思考力'

判断力'表現力などの能力の育成を重視するとともに'自ら学ぶ

意欲を高め主体的な学習の仕方を身に付けさせる観点から'体験

的な学習や問題解決的な学習などが充実するよう配慮する。」(教

育課程審議会答申1九八七年1月)と答申が出されて以来'「体験」をいかに体験として成立させるかは'各教室の1大関心

事となりました。しかし'今'体験の名の下になされている多く

の体験は'体験とはなっていません。書‑ことには'その体験を

体験たらしめる次のような働きがあります。そして'この働きを

もっともよ‑進めるのが「手段作文」なのです。

雷くことの働き

①書くことは'体験したことの中から善くに値する体験を取り

出す。

②書くことは'書‑ことによって取り出される体験(客体化さ

れ'だから客観化され'だから相対化される'自覚された体験)

と取り出されない体験(主観的なままで'客体化も相対化もさ

(10)

第三十三号(一九九九年)

れない無自覚な体験)と'強‑取り出される体験と弱‑取り出

される体験と、というように体験の区分けを進め'そうするこ

とで体験の構造化を進める。

③書‑ことは'体験の構造化を図ることによって'必然的に体

験の軽重化を進める。

④書‑ことは'体験の構造化を図ることによって'同時に'必

然的に体験間の比較検討や関連づけを進める。

⑤書くことは'③や④を進める過程で'体験の意味づけや価値

づけを進める。

⑥体験の全体像が①⑤の作業によって見えて‑る。

⑦体験の全体像が見えてくることによって'体験の評価が始まる。

⑧体験の評価ができることによって'次をどうするかの目鼻が

つく。

⑨以上によって'書‑ことは'体験したことの定着をよりいっ

そう確かにLtそれを活用することをいっそう進める。

このことを'次の事例2によって見てみましょう。

事例2「エコレンジャー報告」(長崎県南大浦小学校佐野木優

美教諭の実践一九九八年一学期小5学年)

「エコレンジャー」となったMOさんtATさんが'その対象

としたのはともに「つばめ」です。次がその報告文。

帰ると中、つばめが空を飛ぶ練習をしていました。

何羽かうまく空の回りを飛んでいました。

でも'1‑3羽は'飛ばないので5分間くらいかんきつしていたら'

けっきょく飛びませんでした。

私は'飛べたらいいのにと思いました。(MOさん)

一〇

Moさんは「帰ると中」いろいろな体験をしたはずです。その

中から書‑に値する体験として「つばめ」のことを取り出しまし

た。しかも「飛ぶ」ところをです。この時点でMOさんの体験は

はやくも二分割されました。書‑に値する体験とそうでない体験

とにです。そして'前者の体験には「飛ぶ練習」という命名'つ

まりたんに「飛ぶ」のではなく、「飛ぶ練習」という意味が与え

られました。

次に'「飛ぶ練習」をしている「つばめ」のうちから「うま‑」

飛んでいる「何羽」かをまず取り出します。それから「飛ばない」

「1‑3羽」を取り出します。そして'この二つの体験を「でも」

という表現で結び付け'飛んでいるのより「飛ばない」「1‑3

羽」の体験のほうを大事にするのです。この時点でMOさんの体

験はさらに二分割されました。善くに値する体験のうち'「飛ん

でい」るのより「飛ばない」ほうをとらえた体験のほうに重きを

おくというようにです。そして'その「飛ばない」ほうをとらえ

ようとする自分の行動体験には'「かんきつ」という命名を与え

ます。つまり'たんなる行動ではない'これは「かんきつ」なん

だと'価値づけをしたわけです。「私は'飛べたらいいのにと思

いました」というのは'以上の構造化し、価値づけした体験に対

するMoさんの評価です。これによってMOさんの体験は'目の

前のツバメのようすだけが刻み込まれた体験ではなく'そこをふ

まえたうえでこれから先の「つばめ」のことを案じる体験であっ

たことが判明します。体験はこうして真に体験となってMOさん

の人格に組み込まれていきます。

今「体験は'こうして真に体験となってMOさんの人格に組み

込まれてい‑」と申しました。ということは体験には「真の」と

(11)

「真のではない」のと'二つがあるということです。「真の」体

験とは'「真のではない」体験が浄化され'純化され'整理され'

方向づけられることによって手中のものとなったものです。「其

のではない」体験は'あれもこれもがいっしょ‑たになって一つ

の袋に詰め込まれている'そしてそこからはパトスを突き動かさ

ずにはおかないエネルギーが瞬時もおかず燃え立っているtとい

う混沌とした状態にあるものです。しかし'この状態は'月日が

たつにつれてやがてはそのエネルギーを消滅させていきます。そ

こで'そうはさせないためにも'それは浄化され'純化され'整

理され'方向づけられなければなりません。このことを体験の経

験化とも言います。「真の」体験が経験'「真のではない」体験が

体験というわけです。いずれにしろ'このようなことをもっとも

効果的に進めさせてくれるもの'それが善くということです。

ではtATさんの場合の体験はどのようにして経験となってい

くのでしょう。

67日'日曜日。たまたま通ったつばめの巣の近くで'子つばめが

飛ぶ練習をしていました。前は5ひきつばめがいたのに'いつのまにか

3びきになっていました。私は'2ひき飛んで行ってしまったのだと思

封叫.のこりの3びきのうち2ひさは'私の目の前で飛んで行きま

した。ところが'‑ぴきまだうろうろしていました。私は'早く飛んで すがたを見ませんでした。(ATさん)

ATさんの場合'書‑に値する体験として「飛ぶ」ところを取

り出し(体験の二分割)'それを「練習」と意味づけたところま

ではMOさんと同じです。違うのは'この二分割された体験がさ

らに二分割されるところで'「前は5ひさ子つばめがいたのに」

と過去の体験をもってきて今の体験と比較検討したところ、とも

う一つは「5ひき」と具体的に数を明示したところです.これに

よって'「5ひき」のうちの「3びき」と「2ひき」は'「のこり

の3びきのうち」の「2ひき」と「‑ぴき」はtとMOさんに比

べてATさんの体験はたいへん精練なものとなりました。そして'

行けばいいのにと思いましたがtもしかしたら'生まれ育ったこの巣の

近くをはなれるのがいやなのかなあと思いました。空を見上げると'つ

ばめの群れのようなものが、ぐるぐるぐるぐるそらを回っています。私

は'このつばめを待っているのかもと思いました。なのに、このつばめ

は'いっこうに飛ぼうとしません。私は'最後まで'このつばめの飛ぶ

安河内⁚自己表現としての作文の指導 この精赦さゆえにと思いました表現(文中‑線部)が4箇所(Moさんは‑箇所)にも見られることとなりましたOこの引風

川対日村表現はtMOさんの場合は体験の評価でしたがtATさ

んの場合は体験の解釈'意味づけとなっています。それだけMO

さんのよりATさんの体験度のほうが高いといえます。

さて、では'このように体験度の高さ低さをも左右するこの精

赦さは'精練な体験があったからこそ精微に書‑こととなったの

か'精徹に書‑ことがあったからこそ精練な体験となりえたのか'

どちらなのでしょう。それは'精敵に書くことがあったからこそ

なのではないでしょうか。なぜなら'体験度に高低はあれ'体験

という以上は体験でないものより精赦であるがゆえに体験たりえ

ているわけですから、Moさんの場合も「何羽か」「1‑3羽」

などと唆味な表現に堕することがなければ'もっと深い体験が得

られたのでした。

先の二の2項でさらに吟味を深める必要ありと言った西尾氏の

一一

(12)

第三十三号(一九九九年)

言'「表現は'‑‑自覚作用が行われるところに'独自の意義を

もつ活動である。そこに表現の、‑‑‑果たして来た人間形成の

重要な契機が見出される。」とは'こういうことだと解されましょ

六国語教室の手段作文の方法

‑一年生に見せる劇の台本づくり‑一人ひとりの作文を堪り

合わせて

事例Ⅰで紹介した単元「わけを考えながら読もう「たんばばの

ちえ」〜ぼくらのちえーさとうの木の巻」(福岡県三条木小

‑組亀川由美子教諭一九九八年六月)の作文は次のようでした。

事例2まず'クラス一人ひと‑が作文を書きます。次のように

です。

4月になるときとうの木をうえます。うえるときペアをくんでや

りました。うえるときは'めが出ているほうを上むきにうえます。め

が出てないほうを下むきにうえました。なぜめが出てるところを'上

むきに出てないほうを下むきにするかというと'めがよこむきにでる

からです。(上村君)

・4月になると'さとうの木をうえました。さとうの木のうえ方は'

さとうの木のなえは'竹じょうのかたちです。/なえのながいほうを

上にすこしでているほうを下のほうにうえるとき'2人ペアをくみ

ました。1人めは自分です。もう1人石井けんたろうくんでした。さ

とうの木のうえ方は'よこにならべてうえました。/なぜすこし出て

いるほうを下にするかと首ゆう(ママ)とすこしでているほうを上に

うえるとでているほうがはえないからです。(池田君)

4月になるとおいしいさとうの木をうえます。さとうの木のなえを 二一

見るとちょっとめがでていました。めをちょっとみえるようにして土

をかぶせます。/うえるときはふたりずつペアでよこにうえました。

/なぜめがでているほうを上にするというと下むきにうえるとめがで

にくくなるからです。(いしばしさん)

4月のはるになるときとうの木をうえました。2‑グループをつ‑

りました。なるみは'ひろみちゃんとtLました。/さとうの木は'

よこむきにうえました。めがでてるのを'上にしてめがでてないのを'

下むきにうえました。/そのわけは'メガでているのを下むきにする

とめがあまりでないからです。でも下がわに'小さなめがでてるほう

があるけどそれは'小さいからまがってでて‑るからです。(古川さん)

ここに紹介したのは四人の作品ですが'劇の台本はこれらクラ

ス一人ひとりの作文を桂り合わせて作ります。したがってこれら

の作文は、公的自己表現としての劇の台本づくりのための'私的

自己表現としての手段作文といえます。これらを緩り合わせた公

的自己表現としての手段作文である劇の台本は'次のような作文

となりました。

4月の春になって'さとうの木をうえました。さいしょ'ちょっとめ

が出ていました。はたけは'みやはらさんが'たがやしてくれました0

みんなペアーをくんでやりました。

めが出ているところを上に'出ていないところを下むきにうえました。

みやはらさんにうえ方をおしえてもらいました。みんながんばりまし

た。

なぜ'すこし出ているほうを下にしてうえるかというと、めがでやす

いからです。

(13)

下にするとめがまがってしまうからです。よこむきにうえるのは、め

がよこからはえないようにするためです。

2一人ひとりの作文を緩り合わせという共同(協同)作文で

事例‑事例3で紹介した段落に続けて'次の草取りの段落が書

かれます。

①5月27日になって'はじめてさとうの木の草とりをしました。

②みんなグループでしました。

③さとうの木のまわりには'草がいっぱいはえています。

④りょうてをつかって草をとりました。

「私的自己表現としての手段作文」を出し合って'④の文まで

は以上のようにすらすらと「公的自己表現としての手段作文」が

できました。さてその次です。まず'したことを表す文が次のよ

うにできました。

⑤土がかたかったから'水をかけてやわらか‑してとりました。

⑥ねっこまでぬきました。

⑦手もよごれて足もよごれました。

これに'なぜそうするのか'その理由を「たんばほのちえ」に

ならって挿入しなければなりません。理由の一つは「そのわけは

ねっこからとらないとまたすぐ草がはえて‑るからです。」とい

う文。二つは「さとうきびのえいようをすって'さとうきびがか

れてしまうからです。」という文。ここで'一つめの文の置‑位

置を⑥の次にするか'⑦の次にするかでもめます。やがて'「そ

安河内⁚自己表現としての作文の指導 の」とあるから⑥にすぐ続けておかないとだめだtという意見が

出て決着です。これにはびっくりしました。それに合わせて⑦の

文は⑥の前に移動させられ'結局'次のようにおさまりました。

⑤土がかたかったから'水をかけてやわらかくしてからとりました。

⑥手もよごれて足もよごれました。

⑦ねっこまでとれました。

⑧そのわけは'ねっこからとらないとまた'すぐ草がはえて‑るからです。

⑨草をねっこまでとらないと'さとうの木のえいようをすいとられてし

まうからです。

この学習の様子から'私たちは'この単元学習でもくろまれた

次のような作文の力が'的確に子どものものとなった手応えを十

分に得ることができます。

標単 元

事象と原因を表す表現や事柄の順序を示す表現に気づき'

それらの表現を使って「ぽ‑らのちえ〜さとうの木の巻」

を文章や劇に表現することができる。

㈲主語'述語'修飾語、被修飾語の関係に注意したり'指示

語・凄続語の使い方を知り'正し‑使うことができる。

事例5単元r立花道雪の伝記を作ろうJ(福岡県立花小学校6

学年)

立花小学校は立花山のすぐふもとに位置します。立花山は'か

って立花城が築かれ'政治・経済・文化の一つの中核でありまし

た。今は原生林の保護地区です。立花小学校にとっては恰好の地

域教材として理科'社会科'図工科'国語科など'多‑の教科学

習で活用されています。立花小学校は'もう一〇年以上も作文の

一三

参照

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