筑 波 大 学 先 史 学 ・ 考 古 学 研 究 第28号 77-94 2017
謂 査 報 告
J はじめに
霞ヶ浦沿岸の前期前方後円墳
一 土 浦 市 王 塚 古 墳 の 測 量 調 査 一
滝 沢 誠
茨城県南部に位置する霞ヶ浦( 西浦)1) は, 日本列島第二位の面積をもっ湖として知られてい
る が , 今 日 私 た ち が 自 に す る 姿 は 鬼怒川や小貝)11の 堆 積 作 用 に 加 え , 利 根 川 東 遷 事 業 や 新 田 開 発 の 結 果 と し て 近 世 以 降 に 形 づ く ら れ た も の で あ る 。 そ れ 以 前 の 歴 史 を 遡 れ ば , 縄 文 海 進 が ピ ー ク に 達 し た 約6. 000年前( 縄文時代前期) には 湾口を鹿島灘に開いた内湾( 古鬼怒
湾) の一部として存在し,その後は海退と陸化の作用を受けながらも,関東平野の東部を占め
る広大な内海の中心水域として存続しつづけたのである( 斎藤・井内・横田 1990. 豊田・池田
RPPSI RセS
根川低地や印揺沼までをも包含する広大な水域で、あったO
この広大な水域を取り巻く沿岸部には,過去の人間活動によって残された数多くの遺跡が存
在する。それらの調査・研究によって浮かび上がるのは それぞれの入江を中心として内海の
利用に適応した特色ある人間集団の営みである。本稿で取り上げる茨城県土浦市王塚古墳もそ
うした背景をもっ遺跡のーっとみられ その特般的な墳
丘形態は,内海の水上交通を媒介とした古墳時代前期の 首長間関係を解明する有力な手がかりとなりうる可能性 が あ る 。 し か し な が ら , 向 古 墳 に つ い て は . 1975年刊 行の
f
土 浦 市 史j に簡略な測量図( 第1函) が示されて いるのみで,その細部に関する情報は大幅に不足してい るのが現状である。今回の測量調査は,以上の問題意識をふまえながら, 王塚古墳の詳細な墳丘形態や規模を把握することを自的
として実施したものである。本稿では,その成果を詳し く報告するとともに,玉塚古墳の特徴的な墳丘形態をめ ぐる問題について若干の考察を試みることにしたい九
なお,今回の測量調査は,土浦市立博物館の依頼を受 け た 筑 波 大 学 考 古 学 研 究 室 ( 代 表 ・ 滝 沢 誠 ) が , 土 浦 市史編さん事業の一環として実施したものである。現地 での調査は,筑波大学人文・文化学群人文学類の「考古
学実習
CJ
ならびに向大学院人文社会科学研究科歴史・o 2 0 m
第l 図 玉塚古墳の! 日測量図 ( 1/1,250)
滝 沢 誠
人類学専攻の「先史学・考古学基礎実習」として. RPQU QR W セ 12 月19日の計12 日
間にわたって実施した。また,同年12月 24自. 2017年 l 月16日. 3月 21 日の計 3 日間,有 志による補足調査を実施した白調査担当者及び調査参加者は以下のとおりである。
務査担当者: 滝沢 誠( 筑波大学人文社会系・准教授)
常 木 晃 ( 筑 波 大 学 人 文 社 会 系 ・ 教 授 )
調査参加者: 皮巳祐樹,ブライ・フリパル・ペトラ,斉木 誠( 筑波大学大学院人文社会科
学研究科) . 五十嵐あゆみ,池田 駿,大城陶也,河嶋優輝,霜鳥太一,鈴木周哉,
水上輝士,森田なつみ,山本浩太郎,天羽涼花,荒井啓汰,新井 遥,岩津あ
ゆみ,親泊千明,田中 遼,田遺えり,谷村克巽,中村知誠,山本名織,横山
史織,脇菌大史( 筑波大学人文・文化学群人文学類)
II.
吉墳の位置と環境1. 古墳の位置
王塚古墳は,茨城県土浦市手野町に所在する市内最大の前方後円墳である。霞ヶ浦には,出
島半島を挟んで北西方向にのびるこつの大きな入江があり,北側を「高浜入り
J
.
南側を「土浦入り」と呼んでいる。このうち,土浦入りの最奥部には筑波山の西側を南流してきた桜) 11が
河 口 を 関 与 近 世 の 城 下 町 か ら 発 展 を 遂 げ た 現 在 の 土 浦 市 街 地 は , そ の 河 口 域 に 形 成 さ れ た 三
角川上に広がっている。王塚古墳は この土浦市街地中心部から北東方向に向かつて約
3
.3km
の地点に位置する( 第 3 図 8)。
地形的にみると,王塚古墳は桜 JIIの 東 側 か ら 土 浦 入 り の 北 側 に か け て つ づ く 新 治 台 地 の 縁 辺部に立地している。その基底部における標高は 22セ@ 25 m 低地部との比高は 16セ@ 19 mで あ る 。 さ ら に 微 地 形 に 呂 を 向 け る と , 古 墳 の す ぐ 南 東 側 に は 小 さ な 谷 が 入 り 込 み , 北 西 側 約
100 m の位置にも小さな谷がのびている。これら二つの谷によって挟まれた小台地は,先端幅
約 200mの 扇 状 を 呈 し て お り , 王 塚 古 墳 は そ の 南 東 側 に 突 き 出 し た 狭 小 な 舌 状 地 形 の
上部を占有するかたちで築かれている( 第2
図) 。また,その墳丘主軸は,北西から南東
の 方 向 に の び る 新 治 台 地 の 縁 辺 部 に 沿 っ て お り , 築 造 当 時 は , 西 側 眼 下 に 広 が る 土 浦
入り最奥部の一帯から 墳丘長 8 0 mを超え
る前方後円墳の側態を仰ぎ見ることができ たと思われる。
こうした立地上の特性は,台地斜面部の 自然浸食や台地直下に形成された集落によ る影響を避けがたいものとしている。現在, 寺 院 の 境 内 地 や 住 宅 地 が 直 下 に 迫 っ た 墳 丘 の西側から南側にかけては急峻な崖となっ
霞 ヶ 浦 沿 岸 の 前 期 前 方 後 円 墳
第3 図 王塚古墳周辺の古墳時代遺跡( 1 / 100,000)
1 常 名 瓢 箪 塚 古 墳 2 常 名 天 神 山 古 墳 3 北 西 原 遺 跡 4 山川古墳群 5 宝積遺跡、 6 東 台 遺 跡 7 東 台 古 墳 群 8 王 塚 古 墳 9 后 塚 古 墳 10 ドンドン塚古墳 11 馬 坂 古 墳 12 姫 塚 遺 跡 13 手 野 宮 脇 遺 跡 14 五 斗 落 遺 跡 15 大 儲 遺 跡 16 下郷古墳群 17 田村舟塚古墳群 18 八 幡 脇 遺 跡 19 尻 替 遺 跡 20 出荷天神塚古 墳 21 赤 塚 古 墳 ( 絹掛けは集落遺跡、黒丸及び黒枠は古墳・古墳群を示す。)
いる。一方,小さな谷に面した墳丘の南東側には緩斜面が広がっているが 住宅地との境界部
分は急崖となっている。なお 後で詳しく述べるように 前方部の東側斜面は明らかな改変を
被っており,その東側につづく地形も一様に旧状を留めているものとはみなしがたい。
2
.
周辺の遺跡(1) 后塚古墳とその潤辺
玉塚古墳北西側の平坦地には 同古墳の西側度下に仏堂を構える薬王寺の付属墓地がある。
この墓地を挟んで王塚古墳から北方に約 100m 離れた地点には,后塚古墳が存在する( 第2図
-第3函9)。この古墳については, 1985年に茨城大学考古学研究室による測量調査が行われ,
墳丘長65mの前方後方墳であるとの認識が示されている( 茂木・水野・長洲 1991)。そうした
成果に加えて,王塚吉墳が前期古墳に特徴的な柄鏡形の墳丘形態、をもつことから,土浦入りの 最奥部では,古墳時代前期の首長墳としてまず后塚古墳が築かれ,次いで王塚古墳が築かれた
との見方が有力である。
王塚古墳の周辺には,后塚古墳以外に自立った墳丘をもっ古墳は認められないが,小さな谷
を挟んで王塚古墳の南東側に広がる台地上には, ドンドン塚古墳( 消滅,第3図10) と馬坂古
墳( 河罰11) の存在が知られている( 茂木ほか1984) 。 再 古 墳 に つ い て は , 前 者 で 石 棺 の 発 見 が伝えられ,後者の潤闘で円筒埴輪が採集されていることから,いずれも古墳時代後期の円墳
とみられる。また 古墳時代の集落遺跡としては 后塚古墳の東側に姫塚遺跡( 同図 12) . そ
の北東側に手野宮脇遺跡( 同図 13) が存在する( 茂木ほか 1984)。両遺跡からは古墳時代前期
の土器が多数採集されており,王塚古墳や后塚古墳との関係が注呂される。近隣の遺跡で発掘
調査が行われているのは,王塚古墳の北方約0. 5 k mに位置する五斗落遺跡( 同図14) や大鑑遺
滝 沢 誠
跡( 向図15) である。これらの遺跡、では,古墳時代前期の竪穴住居跡がわずかに検出されてい
るものの,その大多数を占めるのは古墳時代後期から奈良・平安時代にかけて竪穴住居跡であ る( 柴・中根 1987)。
(2 ) 古境時代の遺跡群
これまでのところ,主塚古墳の周辺における遺跡の発掘調査は限られており,その実態を十
分に把握することはできない。それとは対照的に 王塚古壌が位置する手野町の隣接地医では
古墳時代の遺跡が数多く調査されている。
王塚古墳から南東に約1. 5セ@ 3. 0 k m離 れ た 土 浦 市 の 田 村 町 及 び 沖 宿 町 で は , 土 地 改 良 事 業 に伴う大規模な発掘調査が実施され,数多くの古墳時代遺跡が確認されている。そのうち,古
墳時代前期の玉作り工房と鍛冶工房が検出された沖宿町の八幡脇遺跡( 第 3国18) は,関東地
方における初期の玉生産や精錬鍛冶の存在を示す, きわめて注目すべき遺跡である( 関口ほか
2009)。また,この遺跡に程近い尻替遺跡、( 同図19) でも向様の鍛冶工房が検出されており( 小
林ほか 2007) ,南遺跡を残したのは,関東地方の中でもいち早く先進的な手工業生産を開始し
た人々であったと考えられる。このほか,沖宿町の北西側にあたる田村町では,古墳時代の集
落遺跡のほか,中期の前方後方墳( 田村舟塚群第 2 号墳) を含む田村舟塚古墳群( 関図17: 茂木・
塩谷1993) や,後期から終末期にかけての下郷古墳群( 関図 16: 関口・福田・窪田 2001) など
が調査されている。
玉塚古墳の北西約 0. 5k mには,新治台地内を貢流する境川によって形成された大きな関析
谷が存在する。その北東側に広がる土浦市木田余の台地上では土地区画整理事業に伴う大規模
な発掘調査が実施され,計 5 遺跡で古墳時代の遺構が確認されている。とくに,境 )11の開析谷
に面した宝積遺跡( 悶図的と東台遺跡( 向図 6) では,古墳時代前期の竪穴住居跡が多数検出
されるとともに,弥生時代後期の竪穴住居跡も 40軒近く検出されている( 鍛冶・藤原・石川
2002)。これらの遺跡は,弥生時代後期から古墳時代前期にかけての中核的な集落がこの地に
営まれていたことを物語っている。このほか,古墳時代中・後期の集落や後・終末期の古墳群
( 東台古墳群: 問図 7) も確認されており,長期に及ぶ土地利用の実態が明らかとなっている。
(3 ) 前期吉墳の分布
玉塚古墳と同様の規模をもっ前期古墳としては,その西北西約 4. 2 k mに位寵する常名天神 山古墳( 第 3 図 2) と,南東約 7. 1 k mに位置する田宿天神塚古墳( 伺図 20) が注目される。
常名天神山古墳は,桜} 11東岸の台地縁辺部に立地する墳丘長 70セ@ 75 mの前方後円墳である
( 茂木・水野・長洲 1991) 。その低平な前方部の特徴から,古墳時代前期の築造と推定される。
また,常名天神山古墳の東側に存在した常名瓢箪塚古墳( 消滅,同図
u
セもっ墳丘長 7 4 mの前方後円墳であったとされ( 茂木ほか 1984) ,同じく古墳時代前期の年代が
推定される。これらの前方後円墳が位置する土浦市常名の台地上では 古墳時代前期の大規模
な集落( 北西原遺跡・同図 3: 石
J
11. 藤原ほか 2004 など) や方形周溝墓群( 山川古墳群・同図 4: 小} 11 . 大淵・関口 2007) などが確認されている。霞ヶ浦沿岸の前期前方後円墳
方後円墳である。王塚古墳と同様に土浦入りに面した新治台地縁辺部に立地し, 1995年 に 筑
波大学による測量調査が行われている( 田中
.
8
高1996)。 そ の 際 , 墳 丘 か ら は 多 数 の 査 形 埴輪片が採集されており 向古墳の年代は古墳時代前期末頃に求められる。また,田宿天神塚古
墳の東方約 0. 8kmの地点には,墳丘長約 30m の前方後方墳とみられる赤塚古墳( 向図21) が
存在したとされるが,すでに消滅している( 茂木1985)。これらの古墳が築かれた加茂東部では,
古墳時代前期から後期に及ぶ大規模な遺跡の存在が推定されており, }11尻
J
11の開析谷に面した加茂西部でも複数の古墳時代遺跡が確認されている( 日高2001) 0
( 4
) 遺跡、分布の特徴以上のように,王塚古墳が築かれた新治台地の縁辺部には古墳時代の遺跡、が数多く存在する。 それらはある程度のまとまりをもって分布しており,先に紹介したものを北側から整理すると,
①土浦市常名の遺跡群( 常名台遺跡群) ,②岡市木田余台の遺跡群( 木田余台遺跡、群) ,③同市
手野町の遺跡群,④同市田村町の遺跡群,⑤同市沖宿町の遺跡群,⑤かすみがうら市加茂西部 の遺跡群,⑦岡市加茂東部の遺跡群としておよそ把握することができる。加えて,①と②の中 間に位置する土浦市真鍋町にも古墳時代の遺跡群が存在する可能性があることから,それらの
遺跡群は,概ね1セ@ 2kmの間隔をおいて分布していることがわかる。それらのうち,大規模
な発掘調査が実施された①や②などでは,古墳時代前期( あるいは弥生時代後期) からつづく
集落の存在が明らかとなっている。一方 王塚古墳が位置する③の状況は判然としないが,古
墳時代の各時期にわたる遺物が採集されていることから,ある程度継続的な集落の存在を推定 することは可能である。
こ う し た 集 落 遺 跡 の 分 布 状 況 と は 異 な り , 王 塚 古 墳 を は じ め と す る 前 期 古 墳 は , 特 定 の 遺 跡 群 に の み 対 応 し て い る 点 が 注 意 さ れ る 。 す な わ ち , 前 期 古 墳 は ① , ③ 及 び ⑦ に の み 認 め ら
れ,それぞれに少なくとも 2基が築造されている。このような古墳の存在形態からすると,当
該期の土浦入り北岸一帯には,それぞれの古墳の造営主体となりうる複数の有力集国が,周囲
5k I 古前後の領域を単位として割拠していた可能性が考えられる。
E
王 塚 古 墳 の 澱 量 調 査 1 . 古墳の現状現在の王塚古墳は スギやタケなどの植物によって墳丘全体が覆われている。後円部の西側
にはタケが群生し それ以外の大部分はスギを中心とする山林となっている。今回の調査の直
前までは,それらに加えて雑草や雑木が墳丘全体に密生し, どの地点に足を運ぶのにも一歩先
に進むのが容易な状況ではなかった。そうした植生環境が 王塚古墳の実態把握を長らく陸ん
できた大きな要国であると言っても過言ではない。今回の調査にあたっては,地権者の許可を
得てそれらの雑草や雑木を全面的に除去することとなったが,その作業には,調査開始後の3
日開を要し,その後の調査中も随時除去作業を継続する状態であった。
墳丘の残存状況については,後円部と前方部の西側部分が崖によって崩落している点が特筆 される。これは,自然侵蝕や集落の拡張によって台地斜面部が削り取られた結果とみられる。
また,後円部と前方部
φ
間が墳丘主軸と車交する方向に切り通されている点も見逃せない。そ滝 沢 誠
の中心部分は深さ 1m程度に掘り込まれ,まさに後円部と前方部が切り離されたような状況で
ある。なお,この切り通しにつづく平坦菌は,後円部の東側をめぐって現在の墓地方向にのび ていく道となっている。
セ
内から台地上の付属墓地に至る道がのびている。後円部から 1 0 mほど北側にある薬王寺の付
属墓地は,比較的新しい墓地区画によって構成され,その東側から後円部の北側にかけては, 雑草が生える程度の広い空間地となっている。一方,後円部と前方部の東側は,墳丘からつづ
くスギ林となっており 墳丘と同様に雑草や雑木が繁茂している。
2. 測量調査の成果
(1) 調査の方法
今回の測量調査では, レーザーレベルによる標高点の観測とトータルステーションによる
平面観測を組み合わせた方法を採用し, 25 cm毎の等高線を基本として1 /100縮尺の原図を作
成した。その基準となる標高は,古墳の南西約450m に位置する一級水準点( 標高4. 3121m) を利用し,水準測量によって古墳の北西側にベンチマークを設置した。また,測量の基準点に
ついては,後円部頂の中心点 ( 0 点) を通る墳丘の想定主軸線上に順次設寵したのち,それら
の 直 角 方 向 に 適 宜 増 設 し て い く 方 式 を 採 用 し た 。 そ の 後 , 相 互 に 見 通 せ る 基 準 点 を 観 測 し 必 要に応じて座標値を調整した。
第4図は,以上の方法によって得られた原図をトレースし,最終的に1/500の図に調整した
ものである。以下,同国にもとづいて,各部の状況を詳しくみていくことにしたい。
( 2 ) 後円部
後円部の直後は現状で約44mを測り その等高線はほぼ向心円状にめぐっている。西側の
墳裾部が一部崩落しているものの,全体としてみれば,後円部は本来の形状を比較的よく留め ている。なお,前方部側の切り通しは,前方部の高さに相当する部分から掘り込まれているた め,後円部の形状を大きく損なうものとはなっていない。
墳頂部には,直径11セ@ 12 mの正円形に近い平坦面が認められる。その標高は概ね31.75mで, やや高い北側の最高点は標高32. 011mである。また,その縁辺部は 標高31.50セ@ 31.75 mを
境に墳丘斜面へと移行している。平坦面の中心近くには絹があり それに付随する道によって
北西側が溝状に掘り込まれているものの,墳頭部全体が削平されたような形跡は認められない。
なお,平坦面の中心付近とその東側には,直径2 m前後の浅い窪みが存在する。
墳丘の斜面はほぼ連続的に傾斜し,明確な段築は認められないが,以下の点からその存在を 推定することができる。第一に,前方部側の標高28. 00セ@ 29. 00 mが幅6 m前後の緩斜面を形 成し,それよりも下方が前方部側に張り出している点が挙げられる。後述するように,前方部
の上面は標高27. 00m 付近で平坦面を形成していることから,前方部はそれにつづく斜面3) を
介して,この部分で後円部に接続しているとみられる。第二に,後円部の斜面を全体としてみ
た場合,標高28. 00m付近でわずかに傾斜が変化している点が挙げられる。この高さは,先に
. ,
霞ヶ浦沿岸の前期前方後円墳
位には段築の存在が予想され,その高さは前方部側緩斜面が始まる標高28. 75 m付近に求めら
れるD なお,北側や西側の墳裾部では,墳端から高さ約2 mまでに緩やかな傾斜が認められる。
現状では推測の域を出ないものの,この部分に最下段の可能性を考慮するならば,後円部は3
段築成ということになる。
墳 裾 部 に つ い て は , 北 西 側 か ら 北 側 に か け て の 残 存 状 況 が 比 較 的 良 好 で , 標 高24. 75セ@ 25. 00 mに墳端の傾斜変換が認められる。ただし,そこから東側に向かつて墳端は低くなり, 南 東 側 か ら く び れ 部 に か け て は , 標 高24. 00 m付 近 に 傾 斜 の 変 換 が 認 め ら れ る 。 な お , 東 側 の墳裾部には大きな穴が掘られており,その排出土が下方に流出している。また,その南側 に つ づ く 墳 裾 部 は 急 傾 斜 を な し て お り , 明 ら か に 改 変 を 被 っ て い る 。 一 方 , 西 側 の 未 崩 落 部
分では標高22. 50 m前後に傾斜の変換が認められ,それにつづく西側のくびれ部付近では標高
23. 75 m付近に傾斜の変換が認められる。つまり,後円部西側の墳端を全体としてみると,北 ( 24. 75 m) から西に向かつて2 m以上低くなったのち, くびれ部に向かつて 1m以上高くなる という高低差を生じている。これは,後円部西側の自然地形が当初から強く傾斜していたこと に起因するものであろう。
(3) 前方部
前方部は,前端部を含む西側の114が崖の崩落によって失われている。また,後円部との間
エセャャ
大きく削り取られ,東側の斜面が急傾斜となるなど,後円部に比べて変形が著しい。
そうした残存状況の中にあって,前方部の上面は本来の形状に近いものとみられる。その平
面形は極端に細長く,見かけ上の幅は後円部側で約3 m,前端側で約4 mを測り,長さは2 0 m
以上に及んでいる。また,標高は約27. 00 mで,両端を除いてほぼ平坦である。このような上
面の状況は, きわめて狭長な前方部の形態をうかがわせるものである。
先述のように,前方部の側面は改変が著しい。ただし,西側の崩落部分と削り取られた部分
TセYュ
23. 50 m付 近 に 求 め ら れ る 。 一 方 東側の側面については くびれ部から前端部にいたる2/3 ほどの範囲が削り取られたように急傾斜となっており,改変を被っているのは明らかである。
また,残り 1/3ほどの範囲も急傾斜をなしており,墳端も明確ではないことから,本来の斜面
とみるのは困難である。
前方部の前面は,東側の2/3程度が残存している。そこでは,標高27. 00 m付近に上端が認
められ,標高24. 00セ@ 24. 25 mに下端が求められる。その傾斜は西側斜面に比べて緩やかであ
るが,すぐ南側に平坦面が存在することから,墳端の位置は比較的明瞭である。一方,上端の
位置を西側斜面の傾斜角に合わせて復元すると,現状よりも 2 mほど南側となる。その位置は,
標 高26. 25 mの等高線がめぐる付近であり,東側隅角部の残存状況とも整合性が高い。これら のことから,現在の緩やかな斜面は,墳丘の流失によって生じたものと推定される。
なお,以上に述べた前方部の各斜面においては,段築の存在を示すような事実を確認するこ
と は で き な い 九 ま た 後円部を含めた墳丘全体をつうじて,葺石の存在を確認することはで
滝 沢 誠
(4 ) 外部施設
UセWュ
西側は急傾斜の崖となっているが,後円部西側に残存する墳端が他の部分よりもかなり低い位
置にあることから 築造当時も墳丘近くにまで、台地斜面が追っていたものとみられる。こうし
た状況から判断する限り 墳丘の西側に周溝の存在を想定することは難しい。
墳丘の東側は台地の斜面が墳丘の間際にまで迫り 周囲の状況把握を函難にしている。この
斜面の下方は谷部の道路によって削り取られているが,墳丘に迫る斜面白体も谷側からの侵蝕 を 受 け て い る と み ら れ る 。 た だ し 狭 小 な 谷 部 の 規 模 か ら み て , 築 造 当 時 の 墳 丘 東 側 に 大 き な スペースがあったとは考えにくく,この部分にも周溝の存在を想定することは困難である。
墳丘の北側一帯では,周囲の状況を面的に確認することができる。全体としては,北から南 に 向 か つ て 緩 や か に 傾 斜 し て お り , 部 分 的 に み る と , 墳 丘 の 北 側 で は 北 西 か ら 南 東 の 方 向 に 墳丘の北西側では北東から南西の方向に向かう緩斜面となっている。いずれも自然地形を反映
したものとみられ 屈溝の存在を直接示すような微地形の変化は認められない。
以 上 の 事 実 か ら 考 え る と , 王 塚 古 墳 に 周 溝 が 存 在 す る と し て も 後 円 部 の 北 側 か ら 北 西 側 に か け て の み で は な い か と 推 定 さ れ る 九 一 方 , そ れ 以 外 の 部 分 で は , 自 然 地 形 を 利 用 し て 墳 裾 部 を 削 り 出 し て い る と み る のが妥当であろう。
N.
墳 丘 形 態 か ら み た 王 塚 古 墳 1. 墳丘の復元本節では,今回の調査のまとめとして王塚 古墳の墳丘形態を復元し,その系譜や年代を 探っておきたい。また,それらをふまえたう えで,王塚古墳が霞ヶ浦沿岸に築かれた背景 についても考えてみたい。
第5図は,今回の調査成果をもとに作成し
た王塚古墳の墳丘復元図である。発掘調査を 経たものではないため,細部については多分 に検討の余地を残しているが,前節で述べた 各部の所見から総合的に判断し,可能な限り の復元を試みたものである。その要点を記し ておくと,変形が著しい前方部については, 前面と西側面の墳端を基準としながら,上部 の平坦面が示す方向性を手がかりとして西半 分 を ま ず 復 元 し そ れ を 東 半 分 に 折 り 返 す と いう方法によって復元を行っている。また,
86
o 1 0 m
ヒ認詔お=
霞ヶ浦沿岸の前期前方後円墳
既述のように,前方部前面については現状よりも 2 mほど南側に上端を復元する案としているD
さらに,後円部の段築については,想定される位置に上段の下端ラインのみを示している。こ うした復元によって得られた墳丘各部の計測値は,次のとおりである。
墳 丘 長 さ 約8 4m /主軸方向( 前方部方向) N - 152 0
- E ( 磁北基準)
後円部 直径約 45 m /墳頂部平坦面径12. 5 m / 上段径約 28 m /高さ( 北側) 7. 0 m' (東 側) 8. 0 m . ( 西側) 9. 5m
前 方 部 長 さ 約3 9m /前端幅約 25 m ( 復元) / 高さ( 西側) 3. 5 m . ( 南側) 3. 0 m 以上の復元によって明らかなように,王塚古墳の墳丘形態は,狭長で低平な前方部をもっ点
に最大の特徴が認められる。具体的に述べると,後円部径に対する前方部長の説合は約 8 7 %で,
前方部長は墳丘長の半分近くを占めている。また,前方部の幅は狭く,その側縁部はほとんど
開かないとみられる。さらに,後円部と前方部の間には約 5 mの高低差がある。これらの特徴は,
以前の測量菌からもおよそうかがえるものであるが,今回の測量調査によってより詳細な把握 が可能となった点は大きな成果と言えよう。
2
.
系譜と年代前項で述べた墳丘形態の特徴は,王塚古墳の築造年代を古墳時代前期に位置づけてきた従来 の見解を基本的に支持するものである。加えて,近年の研究成果を参照するならば,その系譜 や年代についてさらに具体的な議論を進めることが可能である。
前方後円墳の墳丘形態については,これまでに数多くの研究が行われており,とくに上田宏
範による築造企画論はよく知られている( 上回 1969)。茨城県域では,その上田をはじめとして,
茂木雅博や日高慎,塩谷修らが前方後円墳の墳丘形態について検討を加えている( 上回 1985,
茂 木1988, 日高 1998,塩谷 2000など) 。一方, 2000年代以降には,畿内の前期大型前方後円 壌に関する研究が進展し,津田秀実や岸本直文らは,大和東南部において箸墓古墳から変化し ていく系列と,それとは別に桜井茶臼山古墳から変化していく系列が存在することを詳細に論
じている( 津田 2000・2005,岸本 2005.2008など) 。
これらの議論の中で,
i
桜井茶臼山系列J
( i 畢田 2005) や「副系列J
(岸本 2008) とされる畿 内の前期大型前方後円墳については, き わ め て 細 長 い 前 方 部 を も っ 点 に 王 塚 古 墳 と の 共 通 性がうかがえる。この系列は,大和東南部に順次築かれた,桜井茶臼山古墳( 墳丘長約 195m) ,
メ ス リ 山 古 墳 ( 墳 丘 長 約 235m) , 渋 谷 向 山 古 墳 ( 墳 丘 長 約300 m) の 3 古墳から構成され,
後 円 部 3 段・前方部 2 段の境丘構造を共有するなど 箸墓系列( 主系列) とは異なる設計原理
で築かれたものと考えられている。また,桜井茶臼山古墳については,京都府椿井大塚山古墳
( 墳丘長約 175m) や大阪府忍向古墳( 墳丘長約90m) との相似関係が指摘されるとともに( 岸
本 2005) ,静両県寺谷銚子塚古墳( 墳丘長約 108 m) や東京都宝葉山古墳( 推定墳丘長 97. 5 m) ,
茨城県星神社古墳( 墳丘長約100 m) といった東自本諸古墳との相似関係も指摘されている( 藤
原2005)
。
王塚古墳の墳丘形態をめぐる従来の議論では 茂木雅捧が上回宏範の分類法による 6 :3:2
の比率となることを指摘している( 茂木1988)。また,土孟谷1r多は,狭長な前方部に着目しなが
v
滝 沢 誠
第6国 王塚古墳( 1 /1,000) と桜井茶臼山古墳( 左: 1/2,321) ・メスリ山古墳( 右. : 1/2,798)
2000 : 125頁) 。そうした従来の見方に対し,ここでは近年の研究成果をふまえつつ,王塚吉
墳の墳丘形態が桜井茶臼山系列の影響下に成立したものである可能性を指摘しておきたい6)。
王塚古墳の墳丘構造については,後円部が 3 段となる可能性があり,その上段は前方部から独
立しているとみられる。こうした墳丘構造のあり方も 上記の系譜的理解と符合するものであ
ろっ。
そこで,桜井茶臼山系列の古墳と王塚古墳のさらなる比較を行うために作成したのが第 6 図
である。桜井茶臼山系列の変遷については,後円部上段の発達( 後日部上段斜面長の増加) に
加え,前方部側縁の直線化( メスリ山古墳) と前方部幅の拡大( 渋谷向山古墳) が指摘されてい
る( 津田2000,岸本2008など) 。ここでは,前方部幅が拡大した段階の渋谷向山古墳を除き,
桜井茶臼山古墳とメス1) 山古墳を比較対象としているが,後円部と前方部の構成比など,いず
れも平面形態はよく似ている。一方,壌丘の構造に着自すると 王塚古墳の後円部における上
段斜面長の比率は 桜井茶白山古墳よりもメスリ山古墳のそれに近い。
以上のように,王塚古墳の墳丘形態には桜井茶臼山系列との関係がうかがえ,その壌丘構造 にはより後出的な要素が認められる。こうした見方に大きな誤りがなければ,従来古壊時代前 期後半に位置づけてきた王塚古墳の築造年代についても相応の見直しが必要となる。おそらく
王塚古墳の築造年代は古墳時代前期前半にまで遡り,
4
世紀初頭頃の築造とみられているメスリ山古墳( 岸本2008) の年代から大幅に遅れたものとはならないであろう。
霞 ヶ 浦 沿 岸 の 前 期 前 方 後 円 墳
7 伊 勢 山
3 綴 音 塚
6 浅 間 塚 4 愛 宕 山
第7図 霞ヶ浦沿岸における「王塚タイプ J の前方後円墳
( 地図の縮尺は1 /500,000 ,古墳の縮尺は1/3 ,000。網掛けは推定される古墳時代の水域を示す。)
3. 王塚古墳と霞ヶ浦沿岸の前期前方後円墳
王塚古墳の墳丘形態に対する上記の理解をふまえたうえで,最後に霞ヶ浦沿岸の前期前方後 円墳と王塚古墳の関係について述べておきたい。
霞ヶ浦沿岸には,吉墳時代前期に築かれたとみられる前方後円墳が点在している。それらの うち,発掘調査が実施されたものはごく一部で,ほとんどは測量調査のみにとどまっている。 したがって,限られた情報によらざるをえないが,それらの多くは王塚古墳と同様に幅が狭く 直線的な前方部を備えている点が注話される。
第7図は,そうした特徴をもっ前方後円墳の分布を示したものである。具体的にみると,王
塚 古 墳 が 位 置 す る 土 浦 入 り に は , 美 浦 村 愛 宕 山 古 墳 ( 高 檎1990) と同観音山古墳( 大竹ほか 1981) が 存 在 し 桜
JI
I
下流域の土浦市常名天神山古墳( 茂木・水野・長洲 1991) も同様の特徴を備えている。また,高浜入りには小美玉市羽黒古墳( 早稲田大学考古学研究室1973) ,護ケ
j甫南端には潮来市浅間塚古墳( 茂木ほか1980) が存在し,北浦東岸には鹿嶋市伊勢山古墳( 茂
滝 沢 誠
取市大戸天神台古墳も狭長な前方部を有している( 萩原・白井1999) 。
いまこれらについて詳細な検討を加える余裕はないが,前方部の長さに着目すると,後円部
径に対する前方部長の割合が 9 0 %程度のものと. 7 0 %程度のものに大別することが可能であ
る。すなわち,前者には王塚古墳,伊勢山古墳,大戸天神台古墳が該当し後者には常名天神 山古墳,愛宕山古墳,観音山古墳,浅間塚古墳,羽黒古墳が該当する口この両者は,紹が狭く 直線的な前方部を備えている点や,後円部上段が前方部から独立している点で共通し,類縁的 な関係にあるとみてよいだろう九その具体的な関係を採る手がかりは乏しいが,先に示した 王塚古墳のあらたな年代観を前提とし,造形埴輸を伴う羽黒吉墳の年代が前期後半に求められ る点を考慮するならば,前者から後者への変化を想定することも一案である。ここでは,王塚 古墳などの築造を契機として成立したとみられる霞ヶ浦沿岸に特徴的な前期前方後円墳の一群 を,仮に「王塚タイプ」として把握しておくことにしたい。
ところで,これに関連して注意すべきは,霞ヶ浦沿岸には王塚タイプと異なる墳丘形態をも
っ前期前方後円墳も存在するという事実である。かすみがうら市田宿天神塚古墳( 田中・日高
1996) と石関市熊野古墳( 田中 1997) は,狭いくびれ部から前端に向かつて広がる前方部を有
し王塚タイプの諸古墳とは明らかに区別される。そこで周辺に巨を広げると,土浦入りに河
口を開く桜川の中流域には 同様の墳丘形態をもっ前期前方後円墳として つくば市山木古墳
( 上}11名ほか1972) が認められる。また さらに北側の小貝}11中流域に位置する筑西市灯火山
古墳( 瀬谷1990) や,茨城県南部最大の前期古墳である筑西市葦閉山古墳( 三木1991) も同様
の形態をもっ可能性が高い8)。
桜}11中流域や小貝
JIIq
コ流域などに築かれたこれらの古墳の墳丘形態、がどのような系譜関係を有するのかについては,なお慎重な検討が必要である。とはいえ,その分布域が王塚タイプの 分布域と一部で重複しつつも,その北西側に別の分布域を形成している点はきわめて重要であ
る。おそらく,一定の範囲で墳丘形態を共有する前期の前方後円墳は 各小地域を基盤とする
有力首長どうしが,より広範囲での結びつきを強化するにいたった姿を物語るものであろう。
それは.
r
常陸国風土記J
が伝える国造のクニの範圏と符合するものではないが,… 定地域の有力首長どうしを結びつける政治留が古墳時代前期にすでに形成されていたことを示している九 そうした政治歯の形成にあたり,王塚タイプ。が築かれた霞ヶ浦沿岸では,広大な内海を利用し た水上交通がきわめて大きな役割を果たしていたとみて間違いないであろう。
V.
おわりに本稿では,あらたに実施した王塚古墳の測量調査について報告するとともに,その成果にも とづいて同古墳の墳丘形態を復元し,そこから浮かび、上がる系譜関係や年代について検討を加 えた。さらに,王塚古墳と同様の墳丘形態をもっ前期前方後円墳が霞ヶ浦沿岸を中心に分布し ていることを指摘し,それらの背後に広大な内海を結び、つける水上交通の役割を推定した。
もとより測量調査の成果にもとづく議論には限界を伴うが,王塚古墳が桜井茶臼山系列に連 なる古墳として築かれ,同古墳と類縁関係にある王塚タイフ。の古墳が霞ヶ浦沿岸を中心に認め られるとすれば,それは東日本の一地域にかかわる問題にとどまらず,当該期のヤマト王権と
地方勢力の関係を読み解く重要な手がかりともなろうG
霞ヶ浦沿岸の前期前方後円墳
桜 井 茶 臼 山 系 列 を 構 成 す る 桜 井 茶 臼 山 古 墳 と メ ス リ 山 古 墳 に つ い て は , そ れ ら の 立 地 的 特 性 と 武 器 類 を 中 心 と し た 副 葬 品 組 成 か ら , 東 日 本 に 通 じ る 重 要 ル ー ト を 掌 握 し た 軍 事 的 性 格 の 強 い 被 葬 者 が 想 定 さ れ て い る ( 岸 本2005 ・2008)。 ま た , 桜 井 茶 白 山 吉 墳 と 直 接 的 に 築 造 企 画 を 共 有 す る 吉 墳 が 東 海 以 東 の 地 域 に 認 め ら れ る こ と か ら , 向 古 墳 の 被 葬 者 は ヤ マ ト 王 権 の 中 枢 に あ っ て 東 日 本 の 地 方 経 営 に あ た っ た 人 物 で あ る と の 指 摘 も な さ れ て い る ( 藤 原2005)。
先 述 の よ う に , 王 塚 古 墳 の 墳 丘 構 造 に は 後 出 的 な 要 素 が 認 め ら れ る も の の , 広 く 桜 井 茶 臼 山 系 列 に 連 な る 古 墳 の 展 開 と し て み て よ い な ら ば , 王 塚 古 墳 の 被 葬 者 は , 両 巨 大 古 墳 の 被 葬 者 が 主 導 し た 地 方 政 策 に 関 与 し た 人 物 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 し か も , 霞 ヶ 浦 治 岸 に は 同 一 系 譜 の 前 期 前 方 後 円 墳 ( 玉 塚 タ イ プ ) が 集 中 し て い る こ と か ら , ヤ マ ト 王 権 が 伺 地 域 を よ り 重 視 し 在 地 の 有 力 首 長 も 王 権 と の 関 係 に 特 定 の 意 識 を 保 持 し つ づ け て い た こ と が 想 定 さ れ る 。
現 状 の 分 布 か ら 推 察 す る と , 桜 井 茶 臼 山 系 列 の 東 方 へ の 展 開 は , 太 平 洋 岸 ル ー ト を 通 じ た ヤ マ ト 王 権 に よ る 地 方 支 配 の 伸 張 と 関 係 が あ り , 霞 ヶ 浦 沿 岸 に 分 布 す る 王 塚 タ イ プ は , さ ら に 北 方 世 界 へ と 通 じ る ル ー ト の 結 節 点 と し て 広 大 な 内 海 域 の 掌 握 が 重 視 さ れ て い た こ と を 示 唆 す る も の で あ ろ う 。 ま た , こ う し た 動 き は , 王 塚 古 墳 に 近 い 八 幡 脇 遺 跡 に お い て 古 墳 時 代 前 期 中 葉 頃 の 玉 生 産 や 精 錬 鍛 冶 の 存 在 が 確 認 さ れ て い る 事 実 と も 無 縁 で は な い と み ら れ , あ ら た な 段 階 を 迎 え た ヤ マ ト 王 権 と の 関 係 は , 政 治 的 あ る い は 軍 事 的 な 側 面 に と ど ま ら ず , 先 進 的 な 手 工 業 技 術 の 導 入 と い う 側 面 を も 併 せ も つ も の で あ っ た 可 能 性 が 考 え ら れ よ う 。
今回報告した王塚古墳は,以上のような歴史的背景が考えられるきわめて重要な古墳である。 そ の 理 解 を さ ら に 深 化 さ せ て い く た め に は , 先 行 し て 築 か れ た と み ら れ る 后 塚 古 墳 な ど の 前 方 後 方 墳 に つ い て も 詳 細 な 検 討 を 行 う 必 要 が あ る 。 ま た 周 辺 の 集 落 遺 跡 や 生 産 遺 跡 と の 関 係 に つ い て も 整 理 が 必 要 で あ る 。 い ず れ も 今 後 の 課 題 と し な け れ ば な ら な い が 本 稿 で 示 し た 王 塚 古 墳 の 測 量 調 査 成 果 が 今 後 の 研 究 の あ ら た な 基 礎 デ ー タ と な り う る な ら ば , 当 面 の 自 的 は 達 せ
られたものと言えよう。
謝 辞
今 回 の 調 査 に 際 し て は , 地 権 者 で あ る 薬 王 寺 ( 総 代 ・ 大 塚 勅 男 氏 ), 大 塚 由 夫 氏 , 瀬 古 j畢登 氏 に ご 快 諾 を い た だ く と と も に 手 野 町 区 長 の 小 野 豊 氏 に ご 協 力 を い た だ い た 。 あ ら た め て 厚く御礼を申し上げたい。
現 地 で の 調 査 に あ た っ て は , 土 浦 市 教 育 委 員 会 , 土 浦 市 立 博 物 館 , 上 大 津 公 民 館 に ご 協 力 を い た だ く と と も に , 下 記 の 方 々 か ら 有 益 な ご 助 言 を 賜 っ た 。 記 し て 感 謝 の 意 を 表 し た い 。
石川 功 , 亀 井 翼 , 木 塚 久 仁 子 , 黒 津 春 彦 , 塩 谷 修 , 中 津 達 也 , 比 毛 君 男 , 一 木 絵 理 , 茂 木 雅 博 , 谷 中 隆( 五十音}II真,敬称略)
な お , 本 稿 の 内 容 に は , 平 成28 年 度 科 学 研 究 費 助 成 事 業 ・ 基 盤 研 究
( C
)
I
伊 豆 半 島 の 前 期 古 墳 と 東 日 本 太 平 洋 岸 域 の 拠 点 形 成 に 関 す る 基 礎 的 研 究J
( 研究代表者: 滝沢 誠 , 課 題 番 号 :16K03151 ) による研究成果の一部が反映されていることを付記しておきたい。
註
滝 沢 誠
2) 今回の測量調査にあわせて,墳頂部の地中レーダー探査を実施した。その成果については,日I j 途報告の 機会を設けることにしたい。
3) この斜面は高低差1. 5m程度で,前方部上面から後円部上段テラスに至る斜道のような役割を果たして いた可能性があるO
4) 後阿部と前方部の間の切り通しは,その両端において標高 25. 00m付近まで掘り込まれている。ただし 墳丘自体はそれよりも下方につづいており,切り通しの開削にあたっては,この高さ付近における傾斜 の変化( 段築?) が意識されていた可能性も考えられる。
5) 現状における後円部後端の高さは,前方部前端の高さよりも約1 m高い。後円部側にのみ周溝をめぐら すことにより,こうした高低差を調整していた可能性が考えられる。
6) かつて上田宏範は常陸における前方後円墳の築造企画を検討し大洗町に所在する鏡塚古墳が桜井茶臼 山古墳やメスリ山古墳と向型式 ( 6:3:1. 5) であることを指摘している( 上田1985) 0 し か し そ の 後 の発掘調査によか鏡塚古墳( 日下ヶ塚古墳) の墳丘はかなりの改変を被っていることが明らかとなり, その墳丘形態は上田の推定と大きく異なるものであることが判明している( 蓉沼・三井 2015)。 7) 以前にも同様の指摘があり,塩谷修は,王塚古墳と伊勢山古墳の墳丘形態が近似していることや,常名
天神山古墳の墳丘形態は王塚古墳のそれを継承したものである可能性に言及している( 塩谷 2000)。また, 大戸天神台古墳の測量調査報告では,その墳丘形態が対岸に位置する浅間塚古墳や伊勢山古墳と近似し ていることが指摘されている( 萩原・白井1999)。なお,千葉県内には,大戸天神台古墳と同棟の墳丘 形態をもっ前方後円墳として,君津市飯龍塚古墳や袖ケ浦市坂戸神社古墳が存在す二る( 白井 2004)。 8) 田中裕と日高慎は,これらの古墳の墳丘形態に共通性があることをいち早く指摘しその背景に何らか
の政治的紐帝があったと想定している( 田中・日高1996)。
9) 桜)11中流域と小異)11中流域で墳丘形態を共有する前方後円墳の被葬者については,突出した規模をもっ 葦関山古墳の被葬者を上位とする政治的な優劣関係を形成していたとみられるが( 滝沢 2015:173頁) , 王塚タイプの前方後円墳どうしには決定的な規模の差が認められない。 同様の政治留を形成しながら も,有力首長どうしの結合形態に差異が想定されることの意味については,今後検討を進めていく必要 がある。
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第4図 筆 者 作 成 。 第5図 筆 者 作 成 。
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