• 検索結果がありません。

-観光地と古戯台-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "-観光地と古戯台- "

Copied!
36
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

上海・江蘇古典舞台事情

-観光地と古戯台-

川島 郁夫

はじめに

1.上海市の古戯台

1.1 上海市内の会館と戯台 1.2 上海市街区の現存古戯台 2.江蘇省の古戯台

2.1 無錫市の古戯台 2.2 蘇州市街区の古戯台

2.3 蘇州崑山市および盛澤県の戯台 終わりに

はじめに

中国江南地域の伝統建築は、豪壮・質朴を基調とする北方のそれとは対照的に、木と石を巧 みに配合した独特の精美秀麗な様式を備えており、時代・場所・建築の種類ごとに様々に変化 に富んだ造形美を織りなしている。その特徴を明瞭な形で表現する代表例としてしばしば挙げ られるのが寺院、廟宇といった宗教建築、あるいは富裕士人層の豪奢な私邸等である。しかし、

こうした壮麗華美な装飾が施された比較的規模の大きな建造物ばかりが、江南伝統様式の特徴 を具現するわけではない。例えば江蘇・浙江両省の郷村部では、同地に祖籍を置く由緒ある名 家の宗廟や祠堂、牌坊といった先祖崇拝・先賢顕昭を目的とする宗族社会の象徴的建築が至る 所にある。洗練された士大夫の邸宅とは全く趣を異にする佇まいであるが、これらの建物も、

何世代にもわたって地域独自に醸成された古典様式の美が、熟練した職人の技によって細部に 至るまで盛り込まれた造形物なのである。

こうした江南伝統の文化様式美を集約した建築物に、演劇用の舞台、いわゆる戯台がある。

中国の伝統演劇は、少なくとも近代以前においては、人々の日常における感情表現の手段とし て最も普遍的な文化活動であった。信仰宗教の場でのセレモニー、冠婚葬祭の儀式に伴う恒例 行事、あるいは普段の身近な娯楽として、演劇は中国人の精神に深く根をおろした生活の一部

(2)

分であり続けた。従って、その表現の場である戯台の存在は彼らの社会生活、特に同郷、同業 といった限定的な地域社会にとって大きな意義を有している。後述するように、地域ごとに様々 な形で組織される中国人コミュニティの拠点にしばしば戯台が設置されたのはこのためである。

中国古典劇の本領は何といっても歌曲にある。特に清代中期以降全国各地で急速に勢力を伸 ばし、今日300種とも500種ともいわれる伝統地方劇は、土着的な香りの高い旋律を駆使する 音楽と、頗る直截な心情表現を旨とする歌詞との融合がその持ち味である。劇の構成、例えば 俳優の人数や楽隊の規模、道具の配置等も劇種によって大きな隔たりがある。芝居に用いられ る言葉は地方色豊かな方言が基本であり、演じられる故事もその地方特有の説話に基づくもの が少なくないから、その地方の出身者以外には非常に馴染みにくく、それが伝播し上演に至る 範囲も意外に狭い(全国的な流布した京劇や越劇などは例外的な存在である)。古典演劇は、文 字を主要な媒体とする詩文や小説と異なり、極めて顕著な地域限定性を有するのである。

伝統演劇の上演に用いられる戯台の規模や形状は、場所ごとに明白な違いを見せることが多 い。同じ南方と言っても、長江下流の江蘇・浙江両省を中心としたいわゆる江南地方の舞台と、

隣接する福建省に残存する舞台とでは、様式・構造・規模の差は歴然としている。また、筆者 のような門外漢には判別は困難だが、同地の専門家に言わせると、同一の省内でも街が変われ ば舞台の造りは違い、一見してどの地方のものかが判ると言う。これらは上に述べた個々の地 方劇の演出法・構成法の違いに起因するところが大きいので、その微妙な違いに特別なこだわ りを持つのは当然のことなのである。ある意味では強い閉鎖性ということもできようが、見方 を変えれば、地方劇は、こうした色濃い地方色を備えることで他の地方劇に対して自身のアイ デンティティを保ってきたことも確かである。

南方演劇が最盛期を迎えた明末から清代末期の間、長江下流の河口一帯に広がるいわゆる三 角州地区には、至るところに意匠を凝らした古戯台が見られ、独自の様式美の繊細華麗を競っ ていた。しかし、民国以降の急激な社会変化の中でその数を減らし、殊に60年代の文化大革命 時代の歴史文化遺産破壊の渦に巻き込まれ、多くが姿を消したことはよく知られるところであ る。更に近年、それに追い討ちをかけたのが驚くべきスピードで進む人口流入による、江蘇・

浙江両省大都市の急激な変貌である。もともと人口の密集が著しかった上海市は、2012年現在 で常住人口2300万人とも言われるが、これを別にしても、上海市周辺の大都市ではここ10年 の年平均人口増加率が軒並み2%を超え、旧来からの居住民の人口、いわゆる戸籍人口と他郷 から流入している移住者の人口に不均衡を生じ、これが深刻な社会問題になっている。流入人 口の問題が最も顕在化しているのは江蘇省蘇州市であろう。筆者が1999年に同市を訪れた際に は全市の戸籍人口は600万人弱、外部からの流入人口はごく僅かであったが、10年後の2009

(3)

年夏に古典演劇に関する資料収集のための調査で同市を訪問した際には、既に1000万人の大台 を軽く突破していた(因みに2011年には全市総人口は1250余に達し、そのうち外来流動人口 は624万,全体の約半数を占めるとの報告がある)。蘇州に隣接する無錫市は全市常住人口約 637万人、浙江省嘉興市は全市常住人口約450万人という数字が残っている。人口集中によっ てこれら大都市市街区の環境は大きく変わり、居住施設や道路の整備・拡張のため古風な街並 みや伝統的古建築は消滅の危機に瀕していると言われる。蘇州市や無錫市では、すでに20年も 前から行われていた市内を縦横に走る水溝の埋め立てが加速的に進み、市街区の風景はここ数 年で一変した。かつての江南水郷都市の趣が、観光用に指定整備されたごく一部の地域を除い て急速に姿を消しつつあることはよく知られているところである。筆者が2009年夏特別研修を 利用して訪れた上海市と江蘇・浙江両省の都市数ヶ所でも、以上のような状況はほぼ同じであ った。

都市部に残された古典建築の中でも、戯台は真先に解体・撤去の対象にされるものの一つか も知れない。通常地域コミュニティの拠点に置かれるため、街中の繁華な場所に設けられるこ とが多く、市街の再開発の際にはビル建設や道路整備の障害になりやすい。また、宗教建築に 併設される場合も、どちらかといえば象徴的附属的な性格であるため、本殿よりも保存が後回 しになりがちであり、しかも修復には専門の職人の手が必要なので時間と費用がかかる、など がその理由である。しかし、何よりも若者中心に急速に進む欧化の流れの中で、伝統地方劇が かつての人気がなくなったことと、今日では空調等の近代的設備が完備した大劇場での公演が 一般化したため、古戯台が上演用舞台としての存在意義を失ったことが大きい。中国政府によ る文化遺産保護政策が80年代後半から本格的に進められ、古戯台も当然その重要な対象となっ ているが、その多くが観光資源の開発と確保と結びついているのも、言わば必然のことなので ある。

2009年の特別研修では、訪問に先立ち、調査の主要目的である大都市市街区における古戯台 の保存状況について事前に文献資料に当たり、それに基づいてスケジュールを組んだ。本稿で 述べる長江河口一帯の地域については約10日という滞在日程を予定していたので、できる限り 効率よく現地をめぐり多くの映像資料を収集するためである。その結果、厦門市から赴く際に 航空機を使う関係で上海市を起点とし、次いで揚州市・無錫市・蘇州市・の順にバスで移動し ながら現地で作業を進めた。しかし、揚州市では残念ながら目標としていた古戯台の損傷が激 しく撮影に堪えなかったので、実際に報告するのは上海市を含む3ヶ所である(浙江省の古戯 台については稿を改めて報告する)。何れの地でも観光との関係が密接であったので、このこと も合わせて考えてみたい。

(4)

1.上海市の古戯台

1.1 上海市内の会館と戯台

上海市は時あたかも2010年5月から始まる国力を総動員した一大イベント、万国博覧会へ向 けての準備に大わらわで、街の至る所で道路・ビル・橋梁などインフラ整備のための公共工事 が昼夜兼行で続けられていた。万博開催決定が市街区の再開発を促し、その影響は当然ながら 市内に残された有形の文化遺産にも及ぶ。本稿の冒頭にも述べたように、長江下流一帯の大都 市では市街地開発による古建築の破壊・消滅が著しいから、急激な都市近代化の象徴上海市は、

恐らくそれが最も甚だしいのではなかろうかと想像していた。もともと上海は江南の花と詠わ れる蘇州・杭州などの古都に比べれば歴史は遥かに短く、特に現在市の中心部となっている黄 浦江河口付近の虹口・閘北・黄浦・静安区周辺は、清代半ば、特に1842年の南京条約による開 港以降に発展を遂げた地区である。現存する古建築も江南独特の古風な木造伝統様式のものは 少なく、比較的頑丈な石あるいは煉瓦作りで西欧風の外観を持つものが多い。これらは創建か らの時間経過が比較的短いので、本来なら十分に原形を保ち得る個体が多いはずであるが、残 念ながら20世紀前半に同地でたびたび起きた軍事的衝突の混乱の際に多大な被害を受け、相当 量の歴史的建造物が倒壊・焼失した。戦後こうした有形の歴史遺産が漸く価値を見直され始め た矢先、60年代半ばからの文革によって再び激しい破壊の渦に巻き込まれた。こうした受難の 時代を経て、最近は観光資源としての価値が再認識され始め、修繕・保護への取り組みが各方 面で叫ばれてきてはいるが、それでも環境は決して良いとは言えない。まして筆者が調査の主 な対象とした木造躯体を基本とする古い舞台については、急ピッチで近代化が進む中でほとん ど手つかずのまま放置されていた場合が多く、保存はやはり厳しい状況にあるという印象が強 かった1)

近代的な設備を備えた劇場が古典演劇の上演場所として定着する以前の舞台は、それが設置 される場所によって概ね以下の5種類に分けられる(勿論、これら5種の用途を兼ねる場合も 少なくないが)。

(1).王侯貴族の宮殿に設置される官製戯台。

(2).道観、城隍廟、土地神等を廟宇に設置され、その祭祀の場となる神廟戯台。

(3).同郷人ないしは同業者の互助組織(会館・公所)に設置される戯台。

(4).血縁関係で結ばれた宗族が先祖昭彰を目的に設ける宗祠・家廟の内に設置される戯台。

(5).地方有力者や郷神の個人用住宅内に置かれる私邸戯台。

現在中国全土に保存されている古い舞台の中で数量的に最も多いのは恐らく(2)であり、これ

(5)

に次ぐのが(4)である。(1)(5)はもともと数が非常に少なく、(1)は一般の目に触れることのない 特殊な場所にしか置かれないのが普通である。(5)は個人的な趣味としての観劇に供されるもの なので、それ自体相当贅沢であるし、これを受け継いだ子孫が代々維持・保存するのに相当の 困難が伴う。筆者が今回収集した資料を見る限りでは、上海市内には(1)(5)に属する古戯台は 存在が確認できなかった。

上海市内に限ると、他に比してその存在の多さが目立つのが(3)である(以下、この種の戯台 を「会館戯台」と称す)。(3)が置かれる会館とは、中国社会独特の民間組織「幇」の活動拠点 を指す。(同郷人組織を「会館」、同業者組織を「公所」と呼ぶのが原則であるが、両者は重な り合う場合が多いので厳密には区別できない)。「幇」は省外や海外などの異郷にある同業・同 郷人によって構成され、血縁関係を含むこともあるが、必ずしもそれを前提としない地縁組織 である。「幇」組織は同郷・同業者の経済活動面での互助を主な目的とするため、会館は基本的 には主要都市中心の市街区、特に商工業市域に建てられるのが普通で、大部分が郷村地域、あ るいは都市でも郊外地区にある(4)とは、多くの点で対照的である。

会館にはしばしば同郷人の信仰の対象となる諸神を奉祀する廟が併設されるため、地域的な 信仰対象の違いが神廟の違いとして明白に見てとれる。山西・陝西地方の「幇」では関聖大帝 廟(関帝廟)、福建系の「幇」では媽祖廟、江西系「幇」では許真君廟など、各会館によって設 けられている神廟には地方色が濃厚に現れるのである。また、特定の職種に従事する商工業者 が信仰対象とするいわゆる「行業神」がそれらと並んで合祀されることも少なくない(木匠・

石匠業者では魯班、陶磁器業では竈神、金融業者では財神趙公明など)。「幇」は厳格な規律性 と団結性を要求する組織であり、会館の神廟における祭祀は、同一神への信仰を通じて連帯意 識を確認する手段という意味合いが強い。

もちろん、会館に設けられた神廟でも、節季ごとの祭礼には様々な宗教行事が執り行われる。

地方劇の上演もその一環であって、会館戯台が設けられる本来の理由はそこにある。だが、こ れらは必ずしも(2)で行われるような純粋に信仰を目的として昇華された儀式というわけでは なく、多分に娯楽的な要素を持つ場合が多い。会館には商業活動の振興以外に文化交流の促進 という目的があり、「幇」と会館所在地の住民の間の交際の場を提供する役割も担っている。そ れ故、会館内の舞台で演じられるのは必ずしも「幇」地元の地方劇ではなく、会館の所在地に 所縁の深い芝居が上演されることも珍しくない。

上海はもともと海運業の基地として発達し、清末以降全土から膨大な数の商工業者が移り住 んで一大発展を遂げ、中国最大の商業都市となった歴史がある。「幇」の数も北京と並んで多く、

その関係で市内中心部の狭い範囲に各地の会館が軒を接していた時代もある。人民共和国成立

(6)

の1949年当時に設定された市政30区内に存在が確認された戯台のうち、過半数が会館戯台で あるという事情もこの点から極めて自然なことなのである2)

1.2 上海市街区の現存古戯台

上海市街区内に残る会館戯台中最も古いのは中山南路会館街に位置する商船会館に設けられ たものである。商船会館は清の康熙54年(1715年)の創建で,乾隆29年(1764年)重修され、

その後幾度にもわたって増改築が行われた。運営の母体は、かつて長江下流地域で運輸・漁労 に活躍した大型帆船(沙船-ジャンク)を運行する業者の幇である。現存する資料に拠れば、

会館の総面積は10000㎡を超え、当時撮影された写真から、戯台は上海地区では唯一の二層屋 根(上部は八角形)の全面に漆細工を施した豪壮華麗な造りであったことが判る。しかし、こ の商船会館は海運業の近代化と共に沙船の運行業者が衰微する中、1954年に活動を停止した。

その後も建物自体は存続し,1987年には上海市人民政府により市級文物保護単位に指定された が,すでに民家として使用されているため補修の手が届かないのが現状である。戯楼、戯台と も本来の面目を失うほどに傷みが激しく、今後の保存が危ぶまれている。

一方、同じ中山南路沿いのこの商船会館から程近い場所にあるのが三山会館である。この会 館の創建は1909年と比較的新しい。三山の名は福建省の省会(省都)福州の城内に聳える三座 の山、即ち九仙山,閩山,越王山(一説に于山、冶山、鳥石山を指すともいう)に因んでおり、

福州の果物商人の幇が共同出資し、営業所を兼ねて海神媽祖を祀った神廟天后宮を設けて建て た会館である。また、ここは民国初年の1927年3月21日、時の軍閥政府による統治排除に立 ち上がった上海労働組合による第3次武装蜂起が起きた際労働者たちの拠点となり、その後上 海総工会糾察隊滬南総本部が置かれた場所として知られる。

上海市内の残存する会館としては、唯一創建当時の所在地にほぼ完全な形で残されており、

館内の舞台も極めて保存状態がよいと聞いていたので非常に楽しみにしていた。ところが、現 地を訪れてみると折悪しく館内修復工事および上海会館史陳列館建設のため2009年1月1日よ り閉館中との告知が張り出してあり、残念ながら門の外から中を覗くことしかできなかった。

(告知書に記された2010年4月1日まで閉鎖というのは、明らかに上海万博開催に間に合わせ るための日程であろうから、恐らくは急遽観光スポット整備の一環として始められたものでは ないかと想像する)。

三山会館は総面積約1000m2で、精緻な石彫の装飾で飾られた本館は上海市内に残る晩清時 代の会館建築の特徴を備えた唯一の備えた貴重な建物である。外観こそ古びて傷みが目立つも のの、抗戦時期以来の戦禍による破壊を免れ今日まで残ったのは非常に幸運だったと言える。

(尚、2012年7月現在の同会館の公式Webサイトの記事に拠れば、改修工事は既に完了し、

(7)

赤煉瓦造りの牆壁やアーチ型の大門等が原形の まま復元され公開された。また、新たにオープ ンした上海会館史陳列館は、戦前この界隈に集 中していた全国各地の会館の写真を多く展示し、

貴重な歴史的資料を提供してくれているとのこ とである)。

三山会館はほぼ創建当時の位置に保存されて いるが、このような例はむしろ珍しい。上海で は市街区の急速な膨張に伴って再開発のための 区画整理が常時行われているので、古戯台のよ うな非生産的な建物は原所在地にそのまま残す ことが困難である。文化財として保存が決定さ

れた場合には、多くが一旦解体された後、他所へ移築・重修される。上海市に残存する古戯台 の場合、移築先として選ばれるのはほとんどが市内のよく知られた観光地である。その代表例 は黄浦区安仁街に位置する上海随一の観光名所豫園内にある古戯台である。

この豫園に設けられた二ヶ所の古典的な野外舞台のうちの一つは、乾隆年間に隣接する城隍 廟の後庭として建設された内園の中にある。木彫と石柱を組み合わせ、床高をたっぷりとった 躯体、広々した中庭を前に置き、正面には貴賓観覧用の楼閣(還雲楼の名がある)と左右両側 には一般者鑑賞用の二階建て観覧席(看楼あるいは看廊と呼ばれる)が取り囲んだ形は典型的 な江南会館様式の戯楼である(ただしこの看楼はオリジナルのものではなく、1988年内園の拡 張工事に伴い、同済大学陳従周教授の設計により建てられたものである)。規模は壮大、舞台天 井の「百鳥朝鳳」と呼ばれる渦状の藻井や金の塗装を施した豪華な金具装飾など、細部の造り 込みは精緻を極め、「江南第一台」と称されている。この戯楼はもともと閘北区塘沽路の閘北銭 業公所内に設けられていたもので、文革中の1974年に解体され、戯台共々この豫園に移築され た。銭業公所そのものは既に取り壊されて現存しないが、本来この会館は規模が大変大きく、

敷地内に二座の戯台を有していた3)。しかし、移築に際し、諸事情により全ての建築物を原形 のまま一括して豫園に再建するのではなく、戯台一座を先に豫園に移し、もう一座の戯台は別 に移築先を選ぶことになった。2年後の1976年に残る一座の戯台は現在嘉定区中心部の滙龍潭 公園内に再建されている。

三山会館正門

(8)

同様の方式で会館内の舞台が移築された例としては、かつて旧南市区人民路にあった四明公 所内の古戯台が挙げられる。四明公所は18世紀末に上海在住の寧波出身商工業者の互助組織の 拠点として建てられた会館であり(1898年所有権を主張するフランス租界当局との間に起きた 紛争が引き金となり、仏兵による一般民衆の殺傷事件に発展したことはよく知られる)、内部に 設けられた舞台は関帝を筆頭とする諸神を祀る祭礼や会員の娯楽用に供されたものである。四 明公所そのものは赤煉瓦造りの門が歴史文化財として残されるのみであるが、幸い戦禍を逃れ て保存されていた戯台は、1984年に上海市西南部の青浦区淀山湖畔に建てられた大観園の開園

戯台正面還雲楼 戯台天井部の螺旋状藻井

豫園古戯台

(9)

に伴って同地に移築・再建され現在に至っている。

以上に挙げたような有形文化財の移築・保存は上海においてはもはや一般的なやり方になっ たが、これは上海だけに限られるものではなく、蘇州や紹興等の江南一帯の大都市部でも、修 理保存のため原所在地から他所(特に観光名所)へ移されて復元される例は珍しくない。観光 スポットが選ばれるのは、市街地の開発工事の影響を受けない数少ない場所であり、文化財の 保護に適しているからであるが、同時に、観光客の招致の上での効果が期待されていることも、

大きな理由の一つに違いない。

このような他所への移築を前提とする保存の方法に対しては一部に疑問を呈する向きもある。

個々の文化財がその歴史的背景と切り離されてしまうことは避けられないし、それにもまして 撤去の際、貴重な文化財の一部が破損・紛失する事例が少なくないことが大きな理由である。

勿論、現地の住民には長年慣れ親しんだ建物への愛着は強く、やはり原所在地での修復あるい は再建を望む声は根強い4)。しかし、上海のように急激な人口膨張が進行する大都市では、様々 な社会的要請から開発を優先せざるを得ない事情があり、上述のような理想的な文化財保護の 形態はごく例外的にしか実現しないのが現実である5)

上海滙龍潭公園内戯台(旧閘北銭業公所より移築)

上海滙龍潭公園内戯台(旧閘北銭業公所より移築)

(10)

2.江蘇省の古戯台 2.1 無錫市の古戯台

無錫市は、長江と名勝太湖に挟まれた物産豊かな水郷地帯に古くから栄えた古城で、歴史文 物と風光明媚な自然に恵まれ、東に隣接する蘇州と共に江蘇省随一の観光都市である。その一 方で、無錫は近代以降中国でいち早く民族資本が形成され、水運・紡績を中心にした一大商業 都市でもあった。特に1980年代の改革開放政策開始直後から工業化をめざして海外の資本導 入・企業誘致を積極的に行い、日本をはじめとする先端企業が次々に進出した。現在、市政府 を中心として街区を一周する環状道路管内の崇安区周辺は高層ビルが建ち並ぶ近代都市に変貌 しており、急速に経済発展する江南一帯の都市のシンボル的存在と言っても過言ではない。

こうした新旧両面の顔を併せ持つ無錫市は、開発事業の推進に当たり、常に文化遺産の保護 との両立という難題を抱えている。市政府の対応は非常に合理的かつ明快で、西部の錫恵公園 や太湖周辺の蠡湖・西堤地区など広々とした風景区を設ける他、市街区にも特定の保護地区を 設定し、エリアを截然と分けることでこれに当たろうとする方針が見てとれる。街中を縦横に 伸びる水路と、それに沿って立ち並ぶ楊柳というような昔ながらの風情は望むべくもないが、

現状ではやむを得ないことではないかと感じた。筆者が調査に訪れた市内三ヶ所の古戯台はい ずれも管理が周到で修復・保存状態も非常によかった。

市政府の庁舎のある崇安区学前路は正しく市の中心部に位置するが、庁舎から徒歩10分足ら ずの場所に国家重点文物保護単位に指定されている欽使第(薛福成故居)がある。薛福成は清 の同治年間に曽国藩、李鴻章ら当時の軍・政府の中枢にあった高官の幕僚として主に外交の舞 台で活躍、旧来の官僚機構の体制を批判し、洋学導入を提唱した、いわゆる初期維新派の中心 人物である。著書『籌洋芻議』は、19世紀末に変法自強を中心思想として朝廷の内部改革を推 進した黄遵憲、康有為、梁啓超らに大きな影響を与えたとされる。外交官として英仏伊の公使 を歴任した経験から西欧文化に明るく、自らも民族資本育成、実業振興、文教事業の推進に携 わった。この故居は執務用公館を兼ねて1890年に着工し、4年の歳月を要して落成したが、同 年薛福成は海外から帰国した直後に上海で病死したため、この屋敷で時を過ごすことはほとん どなかった。

如何にも江南風の漆喰の白壁に囲まれた邸宅は入口から見るとさほど大きくは見えないが、

敷地の総面積は21000㎡と広大で、建物の内部も無垢の銘木を床や柱にふんだんに使った部屋 が幾重にも続いていて驚くほど広い。家具や調度品も一つ一つに精巧な木彫・象嵌が施され、

玲瓏を絵に描いたような贅を極めた逸品揃いである。この建物は基本的には清代江南住宅の伝 統様式に従っているのだが、一部にステンドグラス風の窓やシャンデリヤ調の照明など洋式建

(11)

築の要素が混在しており、長年の海外生活で自然に身につけた西洋文化への傾斜が反映されて いて興味深い。

邸の中央に設けられた、瀟洒な中庭の一角に建てられた古戯台は、無錫市内の残る唯一の私 邸戯台である。個人の住宅内に設けられたこの種の私設の舞台は江南一帯でも極めて数が少な く、2009年の調査で訪れ得たのはこの薛福成故居と福建省福州市三坊七巷にある鄭氏私邸内水 榭戯台の二ヶ所のみであった。水榭戯台は明万暦年間の創建であるから、この舞台はそれより 300年以上後のものであるが、池と石と植木で造形した箱庭に「恕翬斯飛」型の反り屋根の舞 台を設け、池を隔てた縁台から芝居を鑑賞するという形式は同じである。舞台は幅約6m、奥 行き約5mと私邸内の舞台としては大きい部類に入る。全て木造、後方の壁には丸型の木彫装 飾(これも江蘇省の古戯台に頻見する様式でこの舞台では「雲中翔鳥」模様が施されていた)、 舞台の縁は格子模様の仕切りで囲み、左右後方に「入相」「出將」と書かれた登場・退場口、舞 台裏に役者の控えの間を設けた、古典戯台の常套的なスタイルをしている。実演に接する機会 には恵まれていないが、この広さから考えて、恐らく崑劇あるいは錫劇(無錫地方独特の伝統 地方劇)のような小規模な芝居に適した舞台であろう。

この舞台は明代のそれと違って、柱と天井の接合部分や屋根内部の装飾は比較的簡素で、他 に頻見する細かい寄木細工の天井装飾(藻井)や人・動物を象った複雑な文様の支柱(牛腿)、 派手な飾り金具などは省かれている。また、舞台後方の壁には唐草や格子調の伝統的な模様が 多用されているのだが、方円を大胆に組み合わせたデザインや暗紫色と淡青色の対比を強調し た色づかいは非常にモダンで、どことなく唐・洋折衷的な趣がある。恐らくこの戯台は、私邸 に置かれた古典劇用の舞台としては最後のものの一つであろうが、西洋風の意匠を加味した風 格は他に類を見ないものと言ってよいであろう。

洋館弾子房の室内 薛福成故居広間内の様子

薛福成故居広間内の様子 洋館弾子房の室内

(12)

無錫市滞在中に訪れた残る二ヶ所の古戯台は、いずれも前掲の分類に従えば(2)すなわち宗教 祭祀の場に設けられた神廟戯台に属するものである。一ヶ所は市街区西部の錫恵名勝区にある 張中丞廟、今ひとつは同じく市政府庁舎から東南に2㎞ほどの南長街風景区に位置する南水仙 廟の境内にある。この二廟は、いずれも王朝が外寇による国難に瀕した際、一命を賭して防御 に当たった英烈の士の功業を顕彰するために建てられたという点で共通している。廟内の古戯 台についても、創建の年代こそ異なるものの、舞台の大きさや形状、観客席の配置など多くの 点で非常に似通っており、江蘇地域の神廟戯台の様式の典型を示すものと言ってよい。

張中丞廟は市中心部を東西に走る人民路を西に向かい、京杭運河に架かる錫山大橋を渡った ところに広がる鬱蒼とした緑樹に包まれた錫恵公園の東側の中腹にある。この一帯は恵山直街 と呼ばれる小径に沿って、名刹恵山寺をはじめ呉地方に所縁の深い陸贄、胡瑗、范仲淹、李綱 ら歴代の名士を祀った100を超える祠堂が建ち並ぶ無錫屈指の観光名所である。かつて、無錫 には「十大神廟」と呼ばれる祠堂に各々特色ある大小の戯台が設けられており、恵山直街の春 申君大王廟にも立派な舞台があったが、1950年代の錫恵公園造営に伴って取り壊され、現存す るのは張中丞廟のそれのみとなった。

張中丞とは唐玄宗の開元末の進士で、河南南陽の人。中央から出仕して郷里河南の清河・真 源などの県令を務めた張巡である。張巡は、真源県県令在任中に勃発した安史の乱に抗して挙

薛福成故居内古戯台

(13)

兵し、賊軍10余万に包囲されると侍御史許遠と共に睢陽(現在の商丘)に籠城したが、孤立無 援のまま奮戦空しく捕虜となり、部下36人と共に殉職した。後にその死を悼んだ李翰撰「張中 丞傳」に中唐の大詩人韓愈が悲憤慷慨に満ちた叙と曲を付したことで広く世に知られるところ となった。張巡を祀った祠廟の創建は南宋の建炎2年(1128年)で、明成化9年(1473年)に 現在の場所に移され,清同治8年(1869年)に重修されたものが現存の建築である。恵山地区 最大の民間信仰の廟宇とされ敷地面積は2400㎡、1987年,市当局は100万余元を投入して当時 廟内に居住していた54戸の民家を移転させ、1990年から1991年にかけて大規模な修復を実施 し、1995年4月江蘇省文物保護単位に指定されて現在に至っている。

戯台は非常に大きな石製の方形箱型の礎台に載っており、屋根を支える全面2本の石柱以外 は全て木造、舞台板、入口の柱や壁面、屋根周りに至るまで濃い暗紅色で統一されている。舞 台は約6m四方でやや大型、部材はどれも太くて頑丈であり、窓周りや壁には一面に中国風格 子模様の透かし彫りの飾りが施され、舞台上天井には八角形組木造りの精巧な藻井がついてい るが、他の顔料による色づけや装飾用の金具などはほとんどないので、全体に頗る質朴で重厚 な印象を与える。礎台は前後7m×左右7mほどで、改修からそれほど時間が経っていないので 真新しいが、壁面は手彫りの石材を斜め格子模様に組み上げるなど、なかなか凝った造りをし ている。

この戯台の特徴の一つは、台座の地上高が3mを超え、舞台板面が左右に並ぶ看楼の二階席 とほぼ同じ高さにあることである。前述の上海豫園の舞台も床高約2.5mであったが、この舞 台はそれを50cm以上回っている。同じ無錫市内の南水仙廟や西門街西墩の西水仙廟(今回は 未見)の舞台も同様に高い台座を持っており、更に後述する蘇州の古戯台、あるいは隣接する 鎮江市等にも同様の形式のものが多く、江蘇地方特有のスタイルではないかと思われる6)。こ の位置関係だと正面や看楼の一階席からは完全に舞台を見上げる形になり、必然的に観客と舞 台の距離は広がることになる。今日、この舞台での芝居上演の様子を記録した映像資料が手元 にないので確かめられないが、福建省や浙江省の一部の古戯台のような、低い台座を取り囲ん で座った観客が、間近に役者の立居振舞いを食い入るように見るという芝居見物の風景は、恐 らくここにはないであろう。

この恵山風景区では、旧暦の3月末に東嶽大帝(一般に東嶽を以て称される泰山府君ではな く、小説『封神演義』に見える古代商の武成王黄飛虎を指し、民間道教では泰山神として信仰 を集める)の廟を中心とする神廟祭祀、いわゆる「廟会」が盛大に催される。この廟会は元末 明初の文献に記録があり、明朝を経て清末から民国初年頃最盛期を迎え、今日でも毎年20万人 を超える観光客が見物に訪れる。廟会祭祀最大の呼び物は「出会」と称し、各廟の主神(老爺)

の神像を舁き駕籠に乗せて廟外にくり出し、大勢の楽隊を引き連れ数時間かけて街を練り歩く

(14)

儀式である。街路では至るところに臨時の仮設舞台が設置され、歌や円舞や曲芸といった民間 芸能が終日演じられて街中が沸き返るような賑わいに包まれるそうである。しかし、普段の張 中丞廟近辺は人通りも少なく、至って静かでのんびりとした場所で、戯台の周りには長椅子や 机が置かれ、老人たちが三々五々集って余暇を楽しむ空間になっている。

南長街は市中心部から南東に真直ぐ伸びる、いわゆる「古運河」に沿った4kmほどの道で、

南水仙廟はその中ほどに位置する。無錫市では現在でも市内を流れる運河を利用した貨物の運 搬が行われているが、実際の物流経路として機能しているのは市中心部の西南側を流れる京杭 運河であって、北東側を流れ、下流で京杭運河と合流する古運河は川幅が狭く、観光用の遊覧 船が行き来するのみで実用的な貨物運搬にはほとんど使われていない。古運河はそれ自体が無 錫の歴史を物語る有形文物として保存されており、南長街全体が市によって歴史文化保護区に 指定されている。

南水仙廟は創建年代こそ張中丞廟よりかなり遅れるものの、建立の由来・経緯はよく似た点 がある。本来、この廟は「双忠祠」と称し、南宋末の忠臣文天祥の部下で、モンゴル族侵攻に 抗して果てた尹玉、麻士龍両将軍の鎮魂のために建てられたのが始まりとされる。その後、運 河を利用して物資を運んだ兵士や漁民などがここを通過する際、船を泊めて祈祷を捧げたこと から「水仙」の名が付いた。更に康熙22年(1683年),地元民が明の嘉靖年間に民兵を率いて 倭寇に抵抗した知事王其勤を記念して,双忠祠の南側に神廟を建立、王其勤の故郷である湖北 省松滋に因んで「松滋王侯廟」と命名し,尹・麻両神と合祀した。境内には、この他に同郷の 最高神である玉皇大帝や、民間信仰では主要な神とされる財神を祀る殿宇もあり、典型的な諸 神合祀の廟である。乾隆46年(1718年)に最初の改修が行われてから、幾度かの損壊と重修

張中丞廟戯台正面

台側面の看楼(観客席)

(15)

を繰り返し、その際に現存の山門・戯台・大殿が増築された。民国時代には小中学校として使 われたこともあり、解放戦争時期には共産党の地下組織が置かれたこともあるという。現在、

この建物は正式には「水仙道院」であり、無錫市道教協会の本部が置かれて市の宗教活動の中 心となっている。

境内の壁に掲げられた、2009年3月20日付の廟改修の経緯を記した「縁啓(起)」によると、

数ヶ月前に大規模な修復が行われたらしく、門楼、戯台、看楼等の建物、あるいは境内の各所 に置かれた香炉・燭台・宝鼎などは金・黒・深紅の塗装が真新しく色鮮やかである。舞台正面 の屋根部分に、恐らく夜間のライトアップ用であろうと思われる大型の照明灯が取り付けられ ており、この改修が観光客招致を目的にしていることが見てとれる。戯台前の中庭は横幅が奥 行より広いという珍しい形をしており、左右の看楼から舞台までは最も遠いところで30m近い 距離があるので、恐らく二階席や中庭奥では俳優の肉声を聴いたり細かい仕草を堪能するのは 困難であろうと思う。最近、古典地方劇の上演には拡声用の装置や歌詞・台詞を表示する電光 掲示板の用意が当たり前になってきているが、この舞台でもそうした機器は必需品であろう。

現存の戯台は前述の張中丞廟内のそれとよく似て地上高3m余りの台座の上に屋根付きの舞 台が載っており、台座正面に開口幅2mほどの通路があって戯台後方の建物と内部でつながり、

通路は正面からそのまま建物の裏側まで抜けて廟入口の門楼に達している。こうした構造は江 蘇省内の神廟戯台に共通するものらしい。舞台板は幅約6m奥行約5mと規模もほぼ同じで、

舞台周りの勾欄や壁面に施された格子模様な装飾などもよく似ている。ただ、この舞台は他に 比して造りが非常に簡素で、伝統的な古戯台の常套を守っているとは言い難い部分もある。例 えば、屋根下天井部分の藻井、あるいは支柱上部によく見られる牛腿といった、この種の古戯

南長街南水仙廟門楼 戯台南側看楼

(16)

台に特有の装飾類が省かれていたり、屋根を支える左右の支柱に記されるはずの「楹聯」とい う対句の文字もないなどというのは、些か違和感を禁じ得ない点である。

上述の張中丞廟についても同様のことが言えるが、筆者の手元には、今見る南水仙廟戯台が どれほど清代の原形を留めているかを知る資料がない。ただ、江蘇・浙江の他地域で同時期に 創建され、当時の外観を今日までよく保存しているとされる舞台と比較すると、この舞台は原 戯台の姿を必ずしも忠実に反映していないのではないかという疑問が残る。古戯台のような伝 統様式の粋を集めた建築は、その復元に専門知識と高度な職人技を要求されるので、躯体の一 部の破損が激しいと原形を十全に復元するのが困難な場合も少なくないようである。2009年の 調査で訪れた他の都市には、ほぼ完全に損壊したある神廟が再建された際、同地の伝統様式と は全く異なる様式で戯台が建てられたという例もあった。

2.2 蘇州市街区の古戯台

蘇州は、古典演劇には最も縁の深い街の一つである。周知のごとく、現存最古の古典演劇 の一つで、現在なお多くの愛好者に支持され根強い人気を保ち続けている崑劇は、上海市と境 を接する東端部に位置する崑山で生まれたメロディ…いわゆる崑山腔を基調とする歌劇である。

その源は、古くは浙江省温州に発すると言われるが、現行の曲調や形式が固まったのは明代の 蘇州においてであるから、その意味で蘇州は事実上の発祥地であると言ってよい。崑劇は明中

南水仙廟内戯台

(17)

期から清代半ばまでの長きにわたって中国演劇界を席捲し、清代以降全国各地に勃興したあら ゆる地方劇に多大な影響を及ぼした。また、戦前から名優梅蘭芳や韓世昌らが日本やアメリカ で公演を成功させるなどの海外での評価も高く、2001年ユネスコにより「人類の口承・無形遺 産の傑作」の宣言を受け事実上の世界無形遺産に指定されている(筆者が調査より帰還した 2009年9月に正式登録)。現在、蘇州は公設・私設を含め、全国で最も数多くの崑劇劇団を擁 し、若手俳優の育成に最も注力している街であり、上演も頻繁に行われている。市中心街の平 江区観前街界隈では、蘇州蘇崑劇団の本拠である沁蘭庁や、それと隣り合う開明大戯院等はよ く知られるが、そうした本格的な劇団による公演以外にも、蘇州には日常的に崑劇の鑑賞がで きる場所が少なくない。例えば、市内の名勝旧跡の中でも特に人気のある「園林」と称される 江南庭園様式の名園や、近年明代江南水郷村落の風情をそのまま伝えるスポットとして注目を 集めている周荘鎮などには古戯台を模した舞台が設けられ、訪れる観光客向けに『牡丹亭』『長 生殿』等の名作の一段が常時演じられている。

一方、蘇州市内にある古戯台の保存についてはどうかというと、これがなかなか困難な状況 にあるように見える。かつて崑劇上演の主要な場所であった古戯台には明清時代の創建になる ものが多く、良い状態で残っていれば当然極めて価値の高い有形文化遺産である。解放後の 1959年の資料では、蘇州全市に保存が確認された古戯台は120数ヶ所あったが、老朽化のため 解体撤去されたり、文革中に破壊されたりして相当数が姿を消し、2000年の段階では約30ヶ 所に減少していた7)。更に加えて、冒頭で述べた如く、蘇州は新世紀に入って以降の数年間の 急激な変貌により、旧市街区のあちこちに残されていた古戯台の中の幾つかが、再開発の影響 を直接受けたらしい。2009年の現地調査でも、市街区内で近年までの所在を確認していた景德

平江区留園内での「牡丹亭」上演の様子 滄浪区盤門伍公祠内戯台での崑劇上演

(18)

路火神庙内戯台・宮巷原関帝廟戯台・閶門内天庫前武安会館内戯台・南顕子巷惠蔭園程公祠内 戯台等は既に取り壊され、王洗馬巷春申君神祠頭門戯楼や玄妙観傍梓義公所内戯台は、建物の 大部分が民家に改造され、戯台は躯体の一部のみが存するという状況であることがわかった8。 時間的な制約のためすべての舞台の現状を把握するには至らなかったが、資料に記された他の 舞台についても、同様の状況に置かれているであろうことは想像に難くない。

2009年の現地調査は8月4日から8日までの5日間であったが、明清以来の古戯台で現物の 存在を確認できたのは、たまたま閉館中で目睹の機会を得なかった金閭区閶門外上塘街潮州会 馆戯台を含む7ヶ所であった。上に挙げた留園や盤門等の著名な観光地の他に、蘇州市市街区 や崑山市・千灯鎮には古戯台の様式を模した舞台が何か所かある。これらは歴史文物ではない が、今日的な伝統芸能上演の場として興味深いものがあるので、明清時代の古建築と併せ、以 下日付の順に従って紹介したい。

8月4日

蘇州市街区は約1650km2で、調査の目標である古戯台はほとんどが護城河と呼ばれる矩形の 運河に囲まれた旧市街とその周辺部、平江区・滄浪区・金閭区に集中している。護城河の内側 は12km2ほどの面積で、市バスと徒歩だけでも一日で何とか回れないことはない広さである。

今回は可能な限りタクシーを使わず、現地までの風景を含めて歩いて見るという方針なので、

バスの便のよい蘇州駅近くの運河沿いのホテルを拠点とした。しかし、この一帯は市販の交通 地図に載らない細い路地が縦横に走っており、場所によっては目的地到着に相当手間取った。

(そもそも地図を頼りに場所探しをするという習慣が当地の人々にはほとんどなく、地元住民 でも地理についてはそれほど頼りにはならないのが常である)。なお、2009年7月末には福建 省中部から浙江省南部かけての海上に大型の台風が接近し、特に台湾と温州市は洪水等の災害 に見舞われたが、幸い蘇州市は進路からそれていたため事なきを得たそうである。7月中は連 日の猛暑で外出もはばかられるほどだったそうで、台風が去った後はむしろ日差しが和らいで 過ごしやすくなり、日中外回りで見て歩く身には何より有難かった。

午前9時にホテルから歩いて20分ほどで東北路の中ほどにある名園拙政園に到着、蘇州八園 中でも最も名高い典型的な明代様式の園林である。入口付近は大型バスで乗り付けた団体の観 光客でごった返しており、案内表示を見ながら配置を確認している一人旅の私は、待ち構えた ガイドに何度も声をかけられる。しかし、今回の目標は拙政園ではなく隣接し、2006年10月 に落成したばかりの蘇州博物館の新館である。当地は清代中期に江南一帯を一時支配しに太平 天国の統治下において、洪秀全によって忠王に封じられた李秀成の王府が置かれた場所で、呉

(19)

地方に点在する新石器時代の遺跡からの出土品や宋元明清の各王朝時代の貴重な書画骨董が常 設展示され、先着3000人まで無料拝観できるので非常に人気が高い。

李秀成が同治2年(1863年)に蘇州を撤退した後、江蘇巡撫として赴任した直隸南皮の人張 之萬らが、同治11年に大金を投じ拙政園敷地内に河北省同郷人会組織の拠点として八旗奉直会 館を設立した。張之萬は道光27年(1847年)の科挙で状元及第し、官は内閣大学士、兵部尚 書、吏部尚書を歴任する一方、山水画の大家としても知られる典型的な北方の名門士大夫であ る(因みに、清末洋務派の重鎮張之洞は従弟に当たる)。現存する舞台は、八旗奉直会館設立の 際に旧屋敷の一角に建築されたものとされ、江南地方には極めて僅かしか残されていない完全 な室内古戯台であるとともに、生粋の北方人であった張之萬の趣味が濃厚に反映されている。

様式は明らかに蘇州に残る他の古戯台と異なり、直線的な造形を基調としたスタイルをして いる。上演舞台は屋外設置の戯台よりずっと大きく横約6.2m、奥行約8.7m、舞台から天井ま での高さ約4.4m、全て木製で四隅の柱で支えられた平らな方形格子組みの天井を冠し、全体に 濃い朱と黒の2色に塗り分けられている。舞台の正面と左右が完全に開放されており、また台 座が地上高約1mと低いので観客は俳優の表情を至近距離で見ることができる。屋根や柱周り には南方の屋外戯台特有の意匠を凝らした彫刻や装飾はほとんどなく、あっさりとしたデザイ ンで統一されている。建物自体の天井は9m近くあり、室内は広々しているが、それでも室内 なので外部からの雑音も気にならない。まずもって、ゆっくりと芝居を堪能するには絶好の舞 台である。

こうした屋内の戯台の形式は、清代中葉以降、特に北京を中心に盛んに開設された観劇用舞 台そのものである。特に、舞台の間近に紅木の椅子やテーブルが並べた観客席を設ける配置な どは。実際、現存するこの種の舞台…例えば北京市の恭王府花園内戯楼や正乙祠戯樓、あるい は湖広会館や陽平会館の室内舞台にそっくりなことは一見して判る。ちょうどこの舞台が出来 た頃から、京劇を筆頭とする地方劇が全国的に流行し、集客を前提とした「茶園」と呼ばれる 常設の劇場が次々に建てられることになるが、当時の様子を描いた絵を見ると、そのほとんど がこれと同様の造りである。また、近年中国各地で建設された古典演劇用の劇場も、デザイン こそ現代風に洗練されてはいるが、舞台と観客席の基本的な配置は「茶園」のそれを踏襲した ものである。その意味で、この忠王府内戯台はそうした近代的劇場の先駆けとも言えよう。

蘇州博物館の古戯台は、すでに観光名所の一つになっていて、特に外国人向けの企画では崑 劇鑑賞を含んだツアーが実施されている様子がしばしばマスコミに取り上げられている。この 日も、舞台後方に「第四届中国崑劇芸術節蘭芽劇団祝賀演出」の垂幕が掛けられており、恐ら く崑劇実演のイベント実施中だったのであろう。

(20)

蘇州博物館に続いて訪れたのは、護城河内を平江区(北)と滄浪区(南)に分けて東西に走 る干将路からほど近い、平江区中張家巷にある全晋会館(中国崑曲博物館)である。旧市街の 中でも、ここは人民路や観前街といった繁華街の喧騒から少し離れた、緑の多い比較的閑静な 住宅地である。同じ中張家巷のすぐ西側には、崑劇と並んで蘇州を代表する伝統芸能である「評 弾」に関する資料を専門に展示する蘇州評弾博物館があり、当地の名門蘇州大学も南に10分ほ ど歩いた場所にある。

全晋会館は山西幇すなわち山西商工業者の同郷人・同業者の互助組織の拠点であり、他の地 方では山西会館・山陝会館・晋商会館等の名称を持ち、全国の会館組織の中でも最も裾野の広 いものの一つに数えられる。蘇州全晋会館は乾隆30年(1765年)、山西行商者が共同出資して 閶門外山塘街に門を構えたのが創建とされ、咸豊10年(1860年)太平天国の乱の際に倒壊、

光緒5年(1879年)再建されたのが現在の建物である。総面積約6000m2、門楼、大殿、戯楼 等から成るが、大殿は再建当初のものではない。山西幇が共通の神として信奉するのは関公す なわち関羽であり、現存する他の山西会館の多くには関帝廟が併設されている。蘇州全晋会館 にも、嘗ては関帝像を安置した荘厳な大殿があって、旧暦の9月13日(関羽の生誕祭)や5 月13日(同じく命日)には盛大な催しが行われ、鎮魂のための社戯が演じられた。その大殿は 1976年火災により焼失、現大殿は1986年同じ蘇州市の謝衙前霊鷲寺から移築されたものであ る。同市に残る会館建築の中では、上塘街潮州会馆と共に現在最も保存状態が良く、歴史文化

蘇州博物館室内古戯台

(21)

財として1963年には蘇州市の市級文物保護単位に登録され、続いて1982年には江蘇省省級、

2006年には全国文物保護単位に指定されている。

館内の戯台は会館の最後の修復が行われた1982年からの3年間に光緒時代の姿を復元したも ので、前掲の蘇州博物館室内戯台とは異なり江蘇省の古戯台の最も常套的な定式に沿った形を している。大殿の南正面に北向きに鎮座し、両翼に二階建ての看楼を連ねて馬蹄形を構成する のも、この地方の戯台に共通した伝統的な配置である。石造りの基礎の上に載った舞台下の台

座は約2.7m、その他木造部分はこの地方独特の濃紅紫色と金色の塗装で統一されており、舞台

板面は約6.5m四方の正方形で唐草格子模様の柵(「呉王靠」と呼ばれる)に囲まれ、看楼は正

面幅約17m、奥行30mと長く、全体としてこの種の会館建築に付属する戯台としては大規模

なものと言える。看楼の内部は花梨の机一台と長椅子二脚ずつが置かれた衝立で仕切られた観 覧席(二階は個室)になっていて、実際に崑劇等が演じられる際には、この上ない贅沢な芝居 鑑賞の場を提供してくれる。

看楼二階の観覧席(個室)

戯台屋根上部の飾り瓦

天井部藻井

(22)

屋根周りの木彫装飾も非常に手が込んでいる。屋根は他に比して一段と高く、頂上左右に置 かれた龍吻とよばれる龍を象った飾り瓦の間には複雑な透かし彫り格子模様の欄間で繋がれ、

そこから瓦に沿って降りる梁の最下部には別の飾り瓦(本戯台は対の孔雀)が載せられるのは、

江蘇省の古戯台に共通の造形である。屋根天井の直径4m高さ3mという大型ドーム型の藻井 は、18本の渦巻が螺旋状に巻き上がる「鶏籠頂」という図柄であるが、細かく見るとこれらは 一つ一つ手で彫られた吉祥の蝙蝠を324個連ねたものである。その他、正面左右の支柱の上部 には金の獅子が後肢を振り上げた形を象った牛腿など、どの部分の彫刻も精巧を極め、江南建 築の粋を結集した観がある。

全晋会館の館内に併設される中国崑曲博物館の前身は、1986年に開設された蘇州戯曲博物館 であり、2003年に改称して一般に無料開放された。蘇州戯曲博物館は崑劇に関する歴史資料の 保存を早くから手掛け、各地から明代著名作家の手筆本や抄本、稀少な版本などを含め、全国 で最も多い数千点の崑曲資料を収集所蔵している。これらの一部は古戯台正面の大殿内に設置 された陳列室で公開されており、役者が身に着ける衣装や扮装用の小道具、更に明代の演劇の 上演場所に関連して家具・匾額・対聯・緋毛氈等の常時展示している。また、大殿内には明代 様式の広間を模した空間に室内舞台が再現され、特に海外を含めた観光客向けに頻繁に崑劇の 実演を行っているということである。

蘇州全晋会館戯台全景

(23)

8月5日

嘉応会館は、護城河の西側、南西に位置する京杭運河に流れ込む胥江の分岐点近く、河に沿 って走る滄浪区棗市街に面して立っている。かつてこの一帯は胥江を利用して積荷を運搬する 小型帆船が盛んに往来し、川沿いには新鮮な食料品を商う露店が籠を並べる商業地区であった。

現在は、整備された幅広い道路に沿って近代的なビルや集合住宅が立ち並び、胥江両側も護岸 工事が完了してモダンな街灯が並び、その景観は細い路地が入り組んで走る旧市街とは随分と 異なって見える。会館の建物は、方形の格子窓を連ねた白壁の塀に囲まれ、両端に鯱龍の飾り 瓦を配した黒瓦の切妻屋根に大壁の楼という伝統的な会館の様式で、周囲の近代建築の中にあ っては少々場違いなほどに古めかしい印象を与える。この会館は、台湾南部の佛光山寺を拠点 として活動する臨済宗の宗教グループが2007年5月に修復し、11月同グループが経営する大 陸初の美術館をオープンしたばかりだから、建物そのものは塗装も真白で非常に新しい。訪問 当日には、華南地方の伝統工芸である剪紙細工の展示会が行われていた。

嘉応会館は広東省嘉応州(現在の梅州市)の客家系商工業者600人余りが共同出資し、清嘉 慶14年(1809年)から4年の歳月を要して創建された。蘇州は、乾隆年間には既に梅州商人 の江南地域における経済活動の中心地であり、会館は梅州客家幇の商取引の拠点として役割を 担ったが、その一方、同郷人を対象とする種々の互助事業運営のための基地としてなったこと は、前出の潮州会館と同様である。ただし、会館そのものの運営がすでに仏教グループの手に 委ねられているためか、この種の会館建築に調節される神廟はなく、かつて行われたであろう 宗教祭祀についても、その詳細は不明である。

蘇州中国崑曲博物館内室内舞台

(24)

「崑曲辭典」の解説によると、戯台は道光6年(1826年)の創建、その後光緒31年(1905 年)に重建されたもので、会館建築の定式に従って建物のちょうど中央、例によって本殿に対 面して北向きに設けられあり、青天井ではあるが外部からは屋根部分がわずかに見えるのみで ある。構造は台座部分の基礎のみが石製でその他は木製、前掲の無錫張中丞廟や南水仙廟、蘇 州全晋会館の古戯台に酷似した、背の高い台座にそのまま舞台を載せた造りで、大きさもほぼ 同程度である。透かし彫りの彫刻が施された屋根周りの欄干や唐草模様の格子窓を含め、江蘇 省の古戯台に頻見する濃い暗紅色一色に塗られており、藻井や牛腿等の装飾は省かれ、金やそ の他の顔料による塗装もないので全体に質素な外観である。

一階の台座部分正面には、4枚のガラス扉が取付けられていて、そのまま内部の展示室につ ながっている。左右の看楼の奥にある階段から二階に上がってみると、普通舞台の裏側に設け られる役者の出入り用の梯段や楽屋に当たる空間がなく、そのまま看楼につながっていて観客 用の机や椅子が並べられている。元々は舞台の西南側に階段が設けられていたが、恐らくこれ は、建物を美術館として改築する際にこのような形にしたものと想像される。しかし、実際に 芝居を上演するとなれば、この構造では甚だ不便であろう。この日は展示会の責任者と思われ る女性が筆者の質問に親切に対応してくれたのだが、美術館としてオープンして以来、古典演 劇の実演は特別のイベント以外では行われないと聞いて納得した。

棗市街嘉応会館遠景 嘉応会館正面入口

(25)

この日訪れたもう一ヶ所の戯台は、嘉応会館から護城河を渡り、東北へ1.5kmほど歩いた滄 浪区西美巷沿いの況公祠の中にある。この界隈は最近開発された閑静な住宅地で、整備舗装さ れた道の両側に街路樹が立ち並び、レトロ調の白壁と緑に囲まれた建売住宅、いわゆる「花園 住宅」が軒を連ねる場所である。況公祠の門構えは小型の牌防に似た石と瓦造りの古風なもの で、うっかりすると通り過ぎてしまいそうなほど地味な存在であるが、中は意外に広い。門を 入ると12m四方ほどの空間があって南側に演劇用の舞台、その正面には硬山式と呼ばれる享堂

(本殿)が向かい合わせに建っている。享堂の中には演劇用舞台とよく似たデザインの衝立を 持った評弾専用の演台が設けられており、享堂の奥には池と砌石で造園した蘇州式小庭園が続 き、四季折々の風情が楽しめるよう多種多様の草木が園内一面に植込まれている。況公祠は 2002年に滄浪区政府が約300万余元をかけて1000m2の敷地に憩いと娯楽の場を整備し、区の 文化活動中心に指定した。2007年広布の況公祠の簡介(概説)によれば、当施設では主として 呉地域の民間芸能である地方劇や評弾を中心に10を超える芸術団体が定期公演を行っている そうである。この日はそれらの実演こそ目にすることはできなかったが、地元住民と思しき大 勢の老人たちが集って、茶を啜りながら伝統楽器の練習や雑談に興じていた。

当祠の主神況鍾は江西靖安の人、字は伯律。『明史』巻161によると宣徳5年(1430年)に 蘇州の知府を務めたが、権勢に阿らず、清廉剛直を以て世に聞こえ、貪官汚吏を懲らして賦役 を免じ、州民に益するところ甚だ大きかった。正統6年(1441年)10年の任が満ちた折には州 民2万人余りが留任を願い出、翌年鍾が亡くなると死を悼んで祠を建て、その功績を称えたの が況公祠の由来であるという。ただ況鍾の名が知られるのは、史書の記される事跡よりは、む

嘉応会館館内古戯台

(26)

しろ清代に朱素臣よって著された崑劇『十五貫』(原名『双熊夢』)によるところが大きい。『十 五貫』は明馮夢龍撰『醒世恒言』の巻33『十五貫戯言成巧禍』を敷衍して書かれた芝居で、原 作では夫殺しの濡れ衣を着せられた妾と見ず知らずの若者二人が、結審を急いだ不見識な裁判 官によって死罪に処されるという結末が書きかえられ、名判官況鍾の明察によって冤罪が晴ら されることになっている。朱素臣は物語の場を杭州から蘇州に移し、廉官況鍾の名声を借りて 悲劇に終わった原話を脚色したわけである。『十五貫』は1956年、「百花斉放百家争鳴」運動渦 中の北京で、浙江崑蘇州劇団による全編公演が行われ、「人民日報」は社説で称賛したことによ り広く知られるようになった。

況公祠は清代に数度損壊と重修を繰り返し、現存の建築は民国22年(1941年)再建された ものである。現在残る戯台は板面が縦横約4.5m四方、台座の高さも1m足らずという小型であ り、俳優の出入りも舞台横二ヶ所に簡単な階段がついているだけで、伝統様式の古戯台に見ら れる意匠を凝らした木彫の装飾や天井の藻井などもなく、屋根上の瓦なども至って平凡な造り に過ぎない9)。館内の掲示によれば、況公祠は1963年蘇州市文物保護単位に指定され、1993 年と1994年に相前後して改修が行われたというが、従前の舞台との違いは近年の改修によって 面目を一新したと見るのが正しいであろう。

西美巷況公祠内戯台 大殿内評弾舞台

(27)

8月7日

午前中に、平江区から名勝閶門をくぐって護城河を西へ渡り、金閶区に入って蘇州四大名園 の一つ留園を見学。典型的な江南園林の風雅な石庭を巡りながら、園内の各所に設置される舞 台で演じられる崑曲や評弾のパフォーマンスを堪能した後、少し引き返して閶門へ通じる上塘 街を少し北上した所にある、蘇州の有名な古鎮山塘街へ向かう。この一帯は運河から分かれて 流れる幾筋かの水溝の両岸に白壁と黒瓦の商店や古家が立ち並び、その間を細い路地が続く、

水郷蘇州の昔ながらの面影を留めた場所である。当地の歴史は古く、唐の宝暦年間に蘇州刺史 に任じられた白居易が西側の虎丘から閶門まで約7里(3.5km)ほどの水路を開いたのが始ま りとされ、爾来運河を利用した物産の集散地として賑わった。明清時代は蘇州が最も栄えた時 期で、茶楼酒肆や会館が軒を連ね、その繁華は長編小説『紅楼夢』にも「最是紅塵中一二等富 貴風流之地」と記されるほどであった。清の高宗乾隆帝が特に山塘街の風景を愛し、別邸清漪 園(現在の頤和園の前身)造成の折、園内にこれを模した蘇州街を造ったことはよく知られる。

山塘街界隈は蘇州市と金閶区政府が2002年から歴史文物保護地域として修復工事を実施し実 行に移し、2004年正式に一般公開された。中でも街路の入口にある白公祠(白居易記念館)か ら先に400mほど続く七里山塘景区の石畳の路地は老街と呼ばれ、市内でも特に人気のある観 光スポットであり、平日でも見物客の往来が絶えない。

山塘老街を北西に300mほど歩くと、左右に朱塗りの格子窓の看楼を伴い、屋根の左右に派 手な六連の朱紅の飾り提灯を垂らした美しい古戯台が現れる。高い台座の上に方形の舞台を載 せ、四隅の丸い支柱で支えられた黒瓦の「恕翬斯飛」(反り屋根)を頂いた姿は江蘇省の他の古 戯台で見慣れた造形で、ちょうど前述の全晋会館の古戯台を小型にしたような印象である。た だ、細かく見てみると、天井周りや柱部分の作りは至って簡素で、凝った細工の藻井や牛腿あ るいは金塗装の飾りなどはない。看楼の窓格子も単純は方眼模様で、全晋会館のような複雑な 唐草模様の透かし彫りとは比べるべくもない。筆者は、一見してこれは恐らく由緒ある古戯台 ではなく、後述するような観光地によく見かける伝統様式を模した新しい建物であろうと想像 した。ところが舞台前の街路に立てられた縁起を示す碑を見ると、これは市の保護建築に指定 されており、2003年に蘇州齊門外の安齊王廟から移築されたものであることが記されている。

移築の経緯等については碑には全く記されていないのだが、少なくとも山塘街の全面修復が実 施された時期に当地に移されたことは確かである。

原所在地とされる平江区齊門外を地図で調べてみると、宿泊中のホテルから徒歩10分ほどの 距離、時間的にも十分間に合うので、急いでバスに乗ってホテルへ戻り、改めて手元の資料を 確かめてみた。すると、非常に興味深いことに、安齊王廟は蘇州政府が認める対外開放宗教活 動場所として現存していたのである。

(28)

安齊王廟は蘇州市を東西に横切って走る鉄道の南側、蘇州駅から東約1.2kmの護城河に沿っ た東匯路に面して建っている。中国独特の黄土色の壁に囲まれた山門・配殿・大殿の三層から 成廟宇は真新しく、間口15mほどでそれほど目立つ建築ではない。壁には掲げられた「安齊王 廟簡介」(廟の沿革を示す記録)には、創建は清の康熙3年(1664年)、その後同治(1862~1874 年)・民国の時に重修、その後に「2003年按原結構重建」と記される。その間の詳細な経緯は 不明であるが、原形に基づいて復元されたとあるので,恐らくそれ以前に解体されていたか、損 傷が激しい状態にあったのであろうと思われる10)

一方、創建あるいは重修当時の廟内にあった舞台については、1991年当時の資料には当地に 古戯台が存在していたことが明記されている(前出注7「蘇州文物」)おり、また別の資料には、

移築以前の物と思われる古戯台の写真が掲載されている11)。以上のことから、現存する山塘老 街古戯台については、次の推測が成り立つであろう。

1). 安齊王廟には創建あるいは重修(恐らくは後者)以降に古典建築様式による舞台が建てら れ、2003年当時まで保存されていた。

2). 2003年蘇州市および金閶区政府による山塘街の修復工事に合わせ、安齊王廟内の古戯台を

解体し、現所在地に移築した。

3). これと並行して安齊王廟の再建・改修が実施され、現在の新廟が完成した。

前述の上海の数ヶ所の会館と同様、ここでも歴史文物として価値の高い古戯台を移築によっ て保存するという方法が取られていることがわかる。山塘街の全面的な整備・修復工事の際、

他所から移築された古建築は実は安齊王廟古戯台だけではなく、老街からほど近い上塘街に康 熙年間に福建紙商の幇が蘇州での拠点として設立した汀州会館も、同時に原所在地から新民橋 のたもとに移されている12)。勿論、この二ヶ所の古建築移転にあたり、指定の文物法の「現状

蘇州山塘老街古戯台 古戯台沿革を記す石碑

参照

関連したドキュメント

功しているが、このシステム化のためには腫大な時刻表のデータや運賃の等級

はじめに

/㎢で、全国の県庁所在都市中最低である。なお、鳥 取市は 5,368.2 人/㎢で 30 位、 全国の DID 人口密度の 平均値は 6,714.0 人/㎢である。DID

2018年(平成30年)9月末時点の人口は1万5,323人で す。スキーで有名なウィンターリゾートなので、1月にな ると宿 泊 施

住民登録では、鬼怒川筋が世帯数3 9 7戸、人口9 2 4人に、 湯西川筋は世帯数2 8 9戸、人口6 0 4人になっている(栗山

シンガポールは、人口の82%がHDB(Housing and

合併時(1959 年)には 3 万人を超えていた人口も、市外や 県外への若者の流出に伴う少子化、高齢化により、今(2013 年 12 月 31 日現在)では半数の

 1976(昭 51)年、国営東播用水開発事業で果樹段地 の造成が始まったものの、農政局は果樹品種の選定に難 航する。1978(昭