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戦間期オーストリアにおける登山思想―

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https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja

戦間期オーストリアにおける登山思想―

労働者登山家協会自然の友のリベラル性 Thoughts of Mountain Climbers in Interwar Austria:

Liberality by the Alpine Association for Workers, the Friends of Nature

古川 高子 Takako FURUKAWA

東京外国語大学世界言語社会教育センター

Center for Global Language and Society in Higher Education,

Tokyo University of Foreign Studies

はじめに

1.

1

次世界大戦前における急進的リベラル登山思想

1.1.

急進的リベラル登山家ラマーの思想

1.2.

自然の友による急進的リベラル登山思想の受容

2.

ブルジョワ登山家の選別意識形成

2.1.

山岳戦

2.2.

山岳戦で生まれたブルジョワ登山家の「仲間」意識

2.3.

「貴族」としての登山家

3.

労働者登山家の選別意識形成

3.1.

山岳戦で生まれた労働者登山家の「精神的高揚」

3.2.

男性性と「ドイツ人」であること、平等性の希求

3.3.

「社会主義的登山」との妥協

おわりに

キーワード:山岳戦 国民化 アルピニズム

Keywords: Mountain Warfare, Nationalization, Alpinism

(2)

戦間期オーストリアにおける登山思想―

労働者登山家協会自然の友のリベラル性 Thoughts of Mountain Climbers in Interwar Austria:

Liberality by the Alpine Association for Workers, the Friends of Nature

古川 高子 Takako FURUKAWA

東京外国語大学世界言語社会教育センター

Center for Global Language and Society in Higher Education,

Tokyo University of Foreign Studies

はじめに

1.

1

次世界大戦前における急進的リベラル登山思想

1.1.

急進的リベラル登山家ラマーの思想

1.2.

自然の友による急進的リベラル登山思想の受容

2.

ブルジョワ登山家の選別意識形成

2.1.

山岳戦

2.2.

山岳戦で生まれたブルジョワ登山家の「仲間」意識

2.3.

「貴族」としての登山家

3.

労働者登山家の選別意識形成

3.1.

山岳戦で生まれた労働者登山家の「精神的高揚」

3.2.

男性性と「ドイツ人」であること、平等性の希求

3.3.

「社会主義的登山」との妥協

おわりに

キーワード:山岳戦 国民化 アルピニズム

Keywords: Mountain Warfare, Nationalization, Alpinism

【要旨】

本稿は、

19

世紀後半から広がるオーストリアの登山家たちのリベラル登山思想が、世紀転換 期に設立された労働者登山家協会自然の友によっても受容され、第1次世界大戦を経て政治的 に対立する陣営社会となった戦間期に至るまで維持されていた事実を提示し、労働者登山家は、

社会民主党が求める「手段としての登山」を通じた社会主義社会の実現には関心を抱かなかっ た理由を思想的に探究するものである。労働者登山家は苦しい登攀の後に頂上に立つことで、

自立心や自我、あるいは個性を見出し、さらに山上ではブルジョワ登山家と平等であり登山仲 間であるという意識を抱くようになった。自由主義社会のリベラル思想には、登山可能な経済 力のある男性ならば、労働者でさえも平等であるとみなす寛容さがあった。その思想に同意し て労働者登山を広めた自然の友は、実際の社会においてブルジョワジーとの平等感や仲間意識 を既に獲得していたため、未来社会に希望を託す党の方針には同意できなかったのである。

Main theme of this article is to clarify, how the mountain climbers’ association for workers in Austria, the Friends of Nature, accepted liberal mountain climbing thoughts by bourgeois mountain climbers. The workers’ alpine club maintained such thoughts even during the interwar period of political conflicts. The worker’s mountain climbers had experienced sense of equality, independence and friendship with bourgeois mountain climbers on the top of mountains after hard climbing. Therefore, they did not need struggling for the socialist society as the Social Democratic Party hoped. They believed that their ideal equal society had already come true in the real world. It was generous of liberal bourgeois climbers, especially intellectuals, to admit strenuous efforts by male worker’s mountain climbers.

はじめに

登山家たちが残す山行記には登攀の記録とともに、時として登山家の自然観、社会観、職業 観そして登攀自体に対する意識も記された。本稿ではそれらを読み解きながら第

1

次世界大戦 前後のオーストリアの登山家、とくに労働者登山家の思想に注目し、彼らがいかにしてブルジ ョワ登山家たちが有していたリベラルな登山思想を受容し、それを変容させながらも、自分た ちがリベラルな登山家であろうとしていたかを明らかにしていく。

戦間期のオーストリアでは、連邦レヴェルにおいてはカトリック司祭や保守層の利害を代表 するキリスト教社会党が政治を担ったが、首都のウィーンは社会民主党が

1918

年から

1934

年 の内戦で敗退するまで市政を司り、「黒の中にある赤い孤島」とも表象し得る社会だった。そこ に

19

世紀の自由主義社会を率いていたドイツ系リベラル(以下、リベラルと略記)の思想を受 け継いだドイツナショナルも加わって、いわば三つ巴の陣営社会が築かれつつあったのである。

(3)

本稿で分析する登山家たちもそれぞれの陣営にあった複数の登山家協会に所属していた。しか し、オーストリアにおいては

19

世紀後半に設立されたドイツ語圏最大の登山家協会ドイツ・オ ーストリア・アルペン協会(以下、アルペン協会と略記)1)の中でも最古のオーストリア支部 がウィーンにあって大きな力を持ち、それ以外の登山家協会を配下に置いていたため、登山家 諸協会は往々にして共通する思想を有していた。

この協会を主として構成していたのはリベラルと呼ばれるブルジョワジーであり、財産権や 市場競争を重視し、経済的知的自立のための努力を求め、教養としてのドイツ語とドイツ文化 を理解する男性を理念像としており、彼らはその条件に見合えば、民族への帰属に関わらず「ド イツ国民」であるという思想を抱いていた。しかし、彼らが理想としていた「国民」には、こ れらの条件に当てはまらず、自立できないとみなされた女性や経済的階層的に劣っているとさ れた労働者などは含まれなかった。とはいえ、努力して経済的自立を果たそうとする男性労働 者や職人に対してはこの思想をもって啓蒙し、その「国民」の内側に繰り入れるだけの寛容さ は有していた。

アルペン協会に集った登山家たちはこのリベラルの理想を登山に当てはめた。彼らは登山を 自立的個人の人格形成や心身鍛錬の手段、教養を高めるための文化活動だとみなし、登山を通 じて辺境の山村を開発することで新しい思想や行動様式を広めて地域住民を啓蒙し、生活水準 を上げることが公共の福利に資するものだと考えていたのである[

Gidl: 33-35

]。アルペン協会 は富裕層からなっていたため、多くの避難小屋(以下、小屋と略記)を有していた。リベラル だった彼らは表だった支配はせず、他協会会員にも自協会が有する小屋を会員割引料金で利用 させていた。しかし、アルペン協会の小屋を会員割引料金で利用できるのは、少なくとも一軒 の自前の小屋を保有することができた登山家協会のみだった。

19

世紀後半から

20

世紀初頭の 時代に、ウィーンから離れたアルプスに小屋を建てるには莫大な費用がかかり、簡単に実現で きるものではなかったのである。だが、努力して自前の小屋を持てた暁には、数多くのアルペ ン協会の小屋を会員と同じ割引料金で利用することができた。これは小さな登山家協会にとっ ては魅力的であり、その権利の付与は、一人前の登山家協会としてアルペン協会以外の登山家 協会からも承認されることをも意味していた。それゆえ、登山家協会はアルペン協会の思想に 賛同してその傘下に入っていったのである[古川

2014

]。

さて、世紀転換期に向かう産業社会発展の時代、登山人口が増え、多様な階層からなる登山 家協会が生まれたが、その中の一つに自然の友があった。

1873

年の大恐慌後、第

2

次産業革命 が起こる中、農村から都市への人口の集中と住宅難によって病気が蔓延していたウィーンにお いて、登山を通じて労働者の健康を改善しようとした社会民主党員である左派リベラルの知識 人の発案をもとに、社会民主党に共鳴する職人親方や学生らが集まってこの協会を

1895

年に設

(4)

立した。小さく貧しい登山家協会ではあったものの、その協会の指導層は既存のブルジョワ登 山家協会に属する優秀な登山家たちであり、当時の登山家たちのリベラルな思想を共有する 人々であった。アルペン協会の小屋を利用しなければ、登攀することが難しいほど大きな勢力 を持っていたアルペン協会に、自らが登山家協会であることを認めさせる、これが当面の目標 となった。設立から

10

年を経た

1905

年、ティロールの山中に小屋を建てる計画を公にすると、

アルペン協会の中でも最も権威があり、多くの小屋をもつオーストリア支部から小屋利用の割 引を獲得することができたのである[古川

2002; 2008; 2014

2)

では、この労働者向け登山家協会自然の友はブルジョワジー登山家が有していたリベラルな 登山思想をどう受容し、発展させていくのか。ここでは、第

1

次世界大戦を挟んだ時期の変化 を中心に検討するが、先に大戦前の彼らによって行われた受容の状況を押さえ、それが大戦後 にどう変化するのかをみていきたい。

本稿は戦間期オーストリアについての歴史叙述の通説である陣営対立論を自由主義と国民主 義の連続性という視点から捉え直す作業の一環であり、労働者によるリベラル思想の維持を明 示することで、戦間期における政治的支配が民衆の生活世界にまで浸透したとする全体主義論 を批判的に再考することが意図されている。

以下、第

1

章では第

1

次世界大戦前のブルジョワ層登山家の思想およびそれが労働者層登山 家にどのように受容されたかをまとめる。第

2

章では第

1

次世界大戦によるブルジョワ層登山 家の意識の変容を、同じく第

3

章では労働者層登山家の意識の変化を検討し、双方とも山岳戦 を体験したことから共同性や選別意識、さらには登山家にのみ当てはまる平等感などが涵養さ れたことを明らかにしていく。

1. 第 1 次世界大戦前における急進的リベラル登山思想 1.1. 急進的リベラル登山家ラマーの思想

自然の友は、その設立時期にかけて広まった急進的登山思想を主張する登山家ラマー3)を模 範とした。ラマーはアルペン協会が推奨していたガイド付きで、費用・日程に余裕があり、自分 の足で登るという苦しみはあるが、自然を楽しみ景観を眺めて精神性を高めることを重視する 登山、そして直接間接に地元民の生活を豊かにし、彼らに啓蒙をもたらすのが登山であると述 べて正当化する当時の登山家たちの発言を批判した。ラマーが望んだのは、自己と登山の関係 を問い、登山自体に自己実現を求めるものだった。経済的再編の時代、日常では職業の専門化 が進み、全体性という点で男性性が脅かされていると感じた若い世代が、味気ない労働・生活 状況とは異なるものを願ったのである。彼らは単独、ガイドレス、高山・難関登山を行う業績

(5)

志向型の登山を求め、速さ、高さ、強さを個人的業績として承認させようとした。その中にあ ってラマーは、業績のみではなく、むしろ登山行為によって人間の自立性や精神力が高まるこ とを認識すべきだとした。産業主義、大都市の文明や機械の奴隷になってしまっている人間は、

自然に立ち向かえる登山を通して、本来人間が有していた人間性を取り戻すことができるとい うのである[

Lammer 1908

]。そして、安心を求めてガイドに頼っても実際の危険は減らないの であるから、むしろ自ら進んで生死の限界を体験すべきであり、一般に真・善・美とみなされ るもの一切が、生死を分ける瞬間は無価値なものとなり、生きる力にしがみつくようなその一 瞬を経てはじめて生の意味が理解できると主張したのであった[

Lammer 1922: 156

]。社会に善 をもたらすものが登山であると主張したアルペン協会の登山がリベラル登山だとすれば、ラマ ーの登山は善をもたらす登山という発想自体を批判する急進的リベラル登山ともいえるものだ った。とはいえ、ガイド登山を彼が嫌うのは、ガイドが自らの意志からではなく、生活のため、

経済面から登攀せざるを得ない状況にあることへの批判が根底にあったからであり、弱者へ視 線を投げかけることも忘れていなかった[

Walkner 1996: 294-300; Günther: 164-167

]。彼は労働 者層の登山についても寛容であり、「強き自我による相手なしの競争、報酬を目当てにしない闘 いが自己形成の源となる。その体験は労働者一般大衆にも開かれているべきである」[NF 1907:

173; MDÖA 1908: 47-49

]と述べて、自然の友の活動を称賛し、彼の急進的思想をもって自然の

友を啓蒙しようとしたのであった。

1.2. 自然の友による急進的リベラル登山思想の受容

自然の友は登山家協会としての力を示すため、機関誌『自然の友』が創刊されるやいなや当 時、最難関と目されていたダッハシュタイン南壁やエンスタール最高峰のホッホトア北壁登攀 に挑み、ラマーも所属していた急進的登山を推進するオーストリア・アルペンクラブのメンバ ーと達成時間を競った様子を掲載した[古川

2002: 290

]。近郊の山地やウィーンの森への遠足、

東アルプスへのガイド付きツアー案内と共に会員同士のパーティ、ガイドレス登山や難関(ヴ ァリエーションルートやクライミング)登山、登攀時間や標高、登山の困難さも記した登攀記 を積極的にその雑誌に取り入れ、アルペンクラブやアルペン協会諸支部にも属す二重会員をも 機関誌に示すようになった[NF 1902: 33; 1903: 11-12, 53, 86, 93-96; 1904: 41, 74, 126]。ウィーン の登山家諸協会から構成されるウィーン救援委員会(

1895

年結成)に入会し、共同の救援活動 も行うなど本格的な登山を開始したのである[ÖAZ 1899: 46; Happisch 1970: 80; NF 1902: 86]。

自然の友は、労働者であるということによって周囲のブルジョワ登山家協会から見下されな いように、ブルジョワ登山家たちが通常、登山家に対して用いるツーリスト

Tourist

という言 葉に「善良で品行が良く登攀能力がある登山家」という意味を持たせた4)。そして登山家協会

(6)

志向型の登山を求め、速さ、高さ、強さを個人的業績として承認させようとした。その中にあ ってラマーは、業績のみではなく、むしろ登山行為によって人間の自立性や精神力が高まるこ とを認識すべきだとした。産業主義、大都市の文明や機械の奴隷になってしまっている人間は、

自然に立ち向かえる登山を通して、本来人間が有していた人間性を取り戻すことができるとい うのである[

Lammer 1908

]。そして、安心を求めてガイドに頼っても実際の危険は減らないの であるから、むしろ自ら進んで生死の限界を体験すべきであり、一般に真・善・美とみなされ るもの一切が、生死を分ける瞬間は無価値なものとなり、生きる力にしがみつくようなその一 瞬を経てはじめて生の意味が理解できると主張したのであった[

Lammer 1922: 156

]。社会に善 をもたらすものが登山であると主張したアルペン協会の登山がリベラル登山だとすれば、ラマ ーの登山は善をもたらす登山という発想自体を批判する急進的リベラル登山ともいえるものだ った。とはいえ、ガイド登山を彼が嫌うのは、ガイドが自らの意志からではなく、生活のため、

経済面から登攀せざるを得ない状況にあることへの批判が根底にあったからであり、弱者へ視 線を投げかけることも忘れていなかった[

Walkner 1996: 294-300; Günther: 164-167

]。彼は労働 者層の登山についても寛容であり、「強き自我による相手なしの競争、報酬を目当てにしない闘 いが自己形成の源となる。その体験は労働者一般大衆にも開かれているべきである」[NF 1907:

173; MDÖA 1908: 47-49

]と述べて、自然の友の活動を称賛し、彼の急進的思想をもって自然の

友を啓蒙しようとしたのであった。

1.2. 自然の友による急進的リベラル登山思想の受容

自然の友は登山家協会としての力を示すため、機関誌『自然の友』が創刊されるやいなや当 時、最難関と目されていたダッハシュタイン南壁やエンスタール最高峰のホッホトア北壁登攀 に挑み、ラマーも所属していた急進的登山を推進するオーストリア・アルペンクラブのメンバ ーと達成時間を競った様子を掲載した[古川

2002: 290

]。近郊の山地やウィーンの森への遠足、

東アルプスへのガイド付きツアー案内と共に会員同士のパーティ、ガイドレス登山や難関(ヴ ァリエーションルートやクライミング)登山、登攀時間や標高、登山の困難さも記した登攀記 を積極的にその雑誌に取り入れ、アルペンクラブやアルペン協会諸支部にも属す二重会員をも 機関誌に示すようになった[NF 1902: 33; 1903: 11-12, 53, 86, 93-96; 1904: 41, 74, 126]。ウィーン の登山家諸協会から構成されるウィーン救援委員会(

1895

年結成)に入会し、共同の救援活動 も行うなど本格的な登山を開始したのである[ÖAZ 1899: 46; Happisch 1970: 80; NF 1902: 86]。

自然の友は、労働者であるということによって周囲のブルジョワ登山家協会から見下されな いように、ブルジョワ登山家たちが通常、登山家に対して用いるツーリスト

Tourist

という言 葉に「善良で品行が良く登攀能力がある登山家」という意味を持たせた4)。そして登山家協会

自然の友に属す限りにおいては、遭難者の遺体の写真を撮るような「不品行なツーリストであ ってはならない」と主張し、登山ルールを守らない会員たちを注意した。いわば「ツーリスト」

という言葉に善の意味を持たせ啓蒙しようとしたのである。また、一般会員たちにとってツー リストとなることは憧れでもあったゆえ、「ツーリストの衣装を着けると新しい人間となる」と も記された。平地においては階級差と職業差を感じながらも、山上ではツーリストとなること で、ブルジョワ層の登山家と平等になると認識するようになったのである[NF 1904: 109, 129]。

しかし、ツーリストになるのは難しく、身体的精神的にまずは強靱でなくてはならないと指導 層が指南した。心身の弱い者は羞恥心や自惚れから不可能なことをしがちであると注意がなさ れ、一握りの頑強で勇敢な登山家のみがアルプス世界の自然を享受できるとされた。さらに、

ガイドレスツアーを好むのはガイド料の節約という点からばかりではなく、アイゼンなしでは 登れないような「険しい雪氷の壁」を登り、「自分自身の知識と力でより困難なことを克服する ときにのみ喜びを見出す」からだと述べている。つまり、自制も含めて善悪の判断ができるツ ーリストとして、ラマーが述べる危険を乗り越えることができる自立した人間として、山頂を 克服することが求められていたのである[NF 1902: 3; 1904: 88]。

自然の友の登山家は、変化に富む自然と格闘することで人間の尊厳が増し、自然の持つ無言 の力強い言葉と会話をすることで人間の力も発展するのであるから、業績のみを求めるのは本 来のアルピニズムではなく、登山は人間を高め、幸福に導くものとして捉えられるべきである と主張した[NF 1906: 153-154; 1914: 200]。この見解は、ラマーが述べた業績や記録ではなく登 攀の過程自体を重視し、人間のあらゆる能力の向上こそが登山の目的であるとする主張に一致 するであろう。

このような「ガイドレス登山を行う優秀な高山ツーリスト」が所属していることを自然の友 は誇りにしていた。それゆえ、会員が「未熟である」ことと労働者ツーリストであることが結 びつけられて解釈される場合には強く抗議した。自分たちの協会に所属する会員は豊かな経験 を有し、他の名望ある登山家協会の会員達にも受け入れられていると明言し、軽々しい判定を 下すべきではないと主張した。そして、それを裏付けるための克己と努力を会員に要求するこ とになったのである。軽い気持ちで向こう見ずな行いをして死者が出た場合には、「名誉心に駆 られ、狭いスポーツ仲間の間で大胆不敵さ」が求められていたからだと誌面で責め、徹底的に 啓蒙する必要を説いた。だが一方で、「詩人の言葉」として「山の上には自由がある。山の上、

そこは素晴らしい」といった寸言をも雑誌に記しており、会員を厳格に処すのも努力に値する だけの価値や魅力が登山にあることを多くの労働者登山家に伝えようとしていたからだと考え られる[NF 1902: 71; 1904: 89; 1906: 142; 1907: 131-133; 194-196]。

また、ツーリストへの帰属感は彼らだけが得ることができる仲間意識をも生み出した。ガイ

(7)

ドレスで南ティロールのチェベダレ山に登った会員は、通過した温泉場メラーン

/

メラノを「病 人と自分を病人だと思い込むことが許される」社会階級がいる場所だとみなし、「そそくさと釘 付き登山靴に履き替えて平地を逃げだし」山に向かった。

2273m

にあるアルペン協会ドレスデ ン支部の小屋に泊まったが、「そこにいたわずかばかりの同じ登攀の意図をもつ仲間たちと楽し い夜と稀にみる静かな夜を過ごせたことに感謝した」と記している。有閑階級とは異なる存在 だと意識しながらも、この筆者は登山家としてブルジョワ登山家たちとの一体感を有していた といえよう。ここからは労働者階級としての意識よりもむしろ、一人前の登山家であるという 自負心が読みとれる。彼は「偉大なドロミーティの壮大な崇高さをもつ」山頂に仲間と立った 時、「二人の大胆不敵な小さな人間が高貴な目的を達成した」とも表現しているところから、階 層・階級ではなく人間と自然という対比で思考していたと考えられる[NF 1902: 33; 1903: 2;

1904: 88

]。もちろん、自然の友ではブルジョワ登山家協会会員たちが行っていた山中での挨拶

「ベルク・ハイル」の代わりに「ベルク・フライ」という挨拶を会員同士では行うことが推奨 されていたが、登攀自体に階層差があったわけではなかったのである。

こうして「時間と金」[NF 1903: 90]という障害を克服した後にようやく得られる平等と自 由を意識していたからこそ、自然の友は闘いの過程を重視し、精神性の高い登山を行った。そ の範例だったのがラマーである。ラマーはアルペン協会ニュースレター(

1910

10

31

日付)

にロッククライミングや登山において実際に賞金付競技が行われている現実を批判する文章を 載せ、最新のタイムウォッチを利用した記録作りは他のスポーツでならば可能だろうが、登山 においては不可能であり、個々人の業績を相互に比較するのは登山家の本質からいっても適当 とはいえないゆえ「私は拒否する」と主張した。自然との連帯感を理解してこそ登山は可能で あるのに、競技では参加者も観客もそれを無視するから、というのが登山競技を拒否した理由 であった。自然の友は、

1911

3

月号の機関誌『自然の友』において「我々はラマー教授と同 じ立場にあり」、彼の文章に刺激されて協会雑誌への競争的スポーツに関する記事掲載禁止の決 定を下したと述べた[NF 1910: 76-79, 128; 1911: 20-21; MDÖA 1910: 243-245; 古川

2004: 297

]。

自然の友の指導層は以降、戦間期を通じて公的な競技会について否定的な態度を採り続けた。

彼らにとっての登山は自然との対話を通じた自己陶冶・啓蒙の手段でもあり、それはラマーに よる啓蒙の成果でもあったのである。

では、このような

19

世紀自由主義社会の思想下に形作られた自立や平等を希求する登山は、

1

次世界大戦を経てどうなるのか。次章以降でブルジョワ層登山家と労働者層登山家の登山に 関する意識の変化を検討していく。

(8)

2. ブルジョワ登山家の選別意識形成 2.1. 山岳戦

1

次世界大戦によって、これまでにないほどの人員がアルプスに投入されることになった。

それは

1915

年に始まった戦いが二重君主国南縁にある東アルプスを挟んでドイツ・オーストリ ア側とイタリアとの間での山岳戦となったからである。スキーやハーケン等の登山補助用具の 利用、登山道の開発、簡易ロープウェイやリフトの設置等に加えて双方の登山家が兵士として 投入された。

1907

年の時点で軍と協定を結び、戦時には小屋と登山道を供出することになって いたアルペン協会は、

1914

8

月、戦争が開始されるや「栄誉のための戦いと祖国の防衛」と に同意したことを表明し、登山家の有する身体的屈強さと精神的忍耐強さが戦争を遂行するの に適していると述べて、戦争に全面的に協力すると宣言した[MDÖA 1914: 201, 230-2315)。 そして

1915

4

月、イタリアがロンドン秘密条約により「未回収のイタリア」の返還と引き替 えに三国協商側に加わり参戦したことで、その宣言が現実になったのである

まず、協会が有していた道路や小屋(既存の毛布や食品、救援用具なども含む)が軍により 徴用された。戦地の小屋は軍の「高山で唯一住むことができる宿舎」になり、一部には軍の指 令部が入り、銃後の小屋は軍事演習時の休憩所や監視所、ラジオ局ともなった。アルペン協会 の小屋の約三分の二が戦地またはその近くにあり、見渡しのきく場所にあった小屋は、イタリ ア側から標的とされる一方で、ドイツ側の団結の象徴ともなった。そうした小屋は、会員兵士 たちの「オーストリアの国家思想の守り手であり、ドイツ人の闘士」であるという士気を喚起 させたと言われている。アルペン協会は山岳戦に向けた兵士の訓練、登山家の選別や山岳地図 の提供なども行い、全面的に大戦に協力した。戦地での地理等に詳しい人物を顧問として徴用 することが許可され、その氏名リストはアルペン協会諸支部から軍務省に伝えられた。経験の ある登山家は優先的に山岳戦に送られ、さらに未召集の場合でも協力依頼できるようになった のである[ZDÖA 1919: 183; Gidl: 343-345]。

2.2. 山岳戦で生まれたブルジョワ登山家の「仲間」意識

では、参戦した登山家たちの意識はどのようなものだったのか。アルピニズム6)の言説分析 を行ったギュンターに依れば、山岳戦を通じて意識の平等化・民主化が進んだ。登山を戦争の 準備であると考える登山家の一人レンカーは、

1917

年、アルペン協会ニュースレターに「戦争 における登山家」という論考を著し、次のように述べた。登山家である将校や兵士が山岳戦に よって山岳ガイド以外にはじめて山地住民と直接的に接触し、スポーツとしての登山の意味を 知らずにいた山農にクライミングを行う勇気、岩の選別眼、氷雪のテクニックなどを教え、彼 らに野心や関心を芽生えさせ、それによって登山家と地元住民の将来にわたる平和的関係が作

(9)

り出された。ギュンターはこの様子をアルピニズムの大衆化の機縁とし、戦争が生み出した肯 定的な副作用だとして「戦争が登山家を作った」と述べた。ギュンターはまたレンカーの論文 から、スキーの際に一兵卒が転んだ将校を見て笑ったが、将校自身も笑ってごまかすことで上 手く切り抜けたという例を挙げて、彼らが軍務以外で平等な人間同士として、山仲間として接 することが可能となり、社会的格差が解消される効果があったと解釈した。平地戦では塹壕共 同体が生まれたが、山岳戦では登山仲間によって連帯感が生じたというのである。さらにギュ ンターは、山岳戦では決闘のごとく「一人の男対一人の男」という「伝統的な騎士同士の闘い」

が行われた上、敵方であるイタリア側の山岳兵士アルピニを、敵というよりもむしろ優秀な兵 士であり、素晴らしい、大胆なアルピニストでもあると指摘し、登山家同士の繋がりを強調し た[MDÖA 1917: 55-57, 140-145; Günther :251-254, 261-2637)

こうしてギュンターは、第

1

次世界大戦が農民をアルピニズムに引き入れ登山家にすること で、平等な社会関係を築いていくという発想が登山家に生まれたゆえ、山中では社会的格差が 解消され、敵をも登山家という枠内に引き入れて考える傾向が出現したことを指摘した。いわ ば、登山家の思考の地平が大戦によって拡大されたということになる。だが、登山がリベラル による文化活動であったことを想起すれば、ここには自発的か強制的かの差異を問わず「登山 家となる」という前提があったことに注意が向けられなければならない。労働者層からなる自 然の友の会員が山行によって平等になると考えていたように、山岳戦を戦った登山家たちも、

山農は登山家となってはじめて社会的格差が解消されるとみなしていた。そこには一定の階層 差、登山家である「我々」が他の兵士あるいはスポーツとしての登山を知らない人々より優れ ているという意識が隠れてはいないだろうか。山岳戦を経験した登山家が山行記を書く時点で、

山農・兵卒を「登山仲間」に、「敵」を「騎士」へと上昇させている点、あるいは強いられた戦 いであったものが、自発的な「決闘」であるとみなされている点により高位にある登山家の意 識が心性のレヴェルで表象されていると考えられるのである。それは登山家たちの排他性とも いえるものであった。彼らによる登山の拡大は、登山を民主化させるのではなく、男性中心の 階層的排他的思考を持つ人々を増加させることさえ意味していたであろう。

こうして自立性の重視、自然への対峙を通した理解、文化活動としての登山と捉えるリベラ ル登山家たちの思想は、大戦を通じて他に対する優位あるいは排他性を強調しつつ、仲間意識 という形で維持された。その「我々意識」は敵に対して戦った「ドイツ人登山家」という集合 的意識ともなり得たのである。

2.3. 「貴族」としての登山家

敗戦後解体されたオーストリア・ハンガリー二重君主国の「残部」となったオーストリアに

(10)

居住していたドイツ語話者は、領域や人口が極端に縮小し、依って立つ主要産業が失われ「生 存不能」な国家とみなされたにもかかわらずドイツとの合邦が適わなかったため、不安定なオ ーストリア国家への帰属意識を持てずにいた。それと踵を返すように、二重君主国時代に支配 的地位にあったドイツ語話者であるという意識が前面に出てきた。いわば、彼らは「ドイツ国 民」「ドイツ人」でありながら「オーストリア国家」に属するという帰属の不一致の状態に陥っ たのである。ここでは大戦後に登山家たちが有した「ドイツ人」意識がどのようなものだった のかを考察する。

1919

10

月、第

1

次世界大戦後初のアルペン協会ニュルンベルク大会において第

1

会長シ ドウは、山への愛と山の眺望によって生じる精神的解放の希求が理想であることに変わりはな いとして、協会の非政治性の維持を強調しながらも、ドイツ語圏の政治的境界(国境のこと)

を越えた繋がりを求め、武器の代わりに自然の暴力と格闘することで身体的堅強さを培う必要 性を唱えた。同大会では「登山家グループ

Bergsteigergruppe

」を自称する人々も現れた。彼ら は主としてドイツのバイエルンラント支部とミュンヘン・ホッホラント支部会員から構成され た任意団体で、この大会で採択されたニュルンベルク指針の大枠を用意した[MDÖA 1919: 125;

Günther: 93

]。そこでは「ドイツ人」の男性性が強調され、登山を困難に立ち向かう登山家の

養成と身体的・精神的訓練だとし、小屋や登山道の建設を「登山家の欲求に見合ったもの」に するべきであると記された。さらに登山家はあらゆる権利義務において平等であり、同時に共 同体という意識を共有するべきだとも述べられた。支部単位で加入した登山家グループは

1920

年代活発に行動し、ニュルンベルク指針に同意する諸支部を勧誘し、登山家グループに引き入 れようとした。彼らは

1923

年のバート・テルツ大会においても小屋をできる限り減らすととも にアルコール禁止、小屋への避暑客や登山と無関係な映画撮影関係者等の宿泊禁止、羽布団、

蓄音機などの使用禁止、未婚の男女の同室宿泊禁止といった道徳的な規則の制定を動議とした。

それを執行委員会がまとめ、決議を促し、経済的不安定さも相まってさしたる反対もなく承認 されたことは、

1919

年以降、登山の大衆化に反対し、小屋無しでも登ることができる人々に登 山を限定する方向に同意する会員が協会にかなり存在したことを物語っている[MDÖA 1921:

17-18; 1923: 34, 49-50; Achrainer/Mailänder: 210-212, 215

]。

1922

年大会ではミュンヘン・ホッホラント支部長ミュラーが「山と山がドイツ民族再建のた めに有する意義」と題した講演を行った。彼は「ドイツ人とドイツ人青年たち」が山との格闘 で心身ともに強靱となり、自然の法則に基づく闘争によってハイマートへの愛情が突き動かさ れ、再びドイツ人が強い民族となり、「全ドイツ

Alldeutschland

という宝」が防衛されると主張 した。登山家グループの一員であったミュラーは、

1924

年の大会では登山をする際、自然との 格闘で「全自然の原始的力」を得て貴族となり、「天蓋の神と力を求める」ことになるが、それ

(11)

がまさに、「最高のものを求める際限のないファウスト的衝動であり、原ドイツの本質だ」と述 べ、登山の精神性を強調した。

1927

年大会においても彼は、「自然保護ばかりではなく、ドイ ツ人のハイマートおよびドイツ人の山の世界をドイツ的に維持すること」を主張し、協会定款 の第

1

条第

1

項設立目的の最後に「ドイツ人のハイマートへの愛を保護し強くすることで(東 アルプスの)美しさと原初性を維持すること」を付け加える動議を出したのであった[ZDÖA

1922:1-10; MDÖA 1924: 211; 1927: 224, 226

]。「ドイツ人」を自然に結びつけようとする発想は敗 戦やインフレにより依って立つ足場が弱まったと感じた「ドイツ人」がより大きな自然と自己 同一視し、そこに帰属を求めることで自己存在を確認し、「ドイツ人」としての意識を強めてい く過程であり、国民主義の土台となる。そこに社会ダーヴィニズム的発想が加わって、人間と 環境としての自然の境目を取り去る発想へと至り、美しい自然の中にいるだけで人間そのもの も純化し、美しく、高貴なものになっていく、という考え方が示されたのである8)

一方、アルペン協会内には「協会を大きくしてきた居心地の良さを求めるツーリストを顧慮 するべきである」と主張する会員もいた。その代表的な人物がオーストリア支部の

E.

ピヒル とツーリズムが盛んであったインスブルック支部代表フォルシャー=マイヤーであった。

1925

年、登山家グループに属すバイエルンラント支部は、小屋や登山道建設は完了したのでこれ以 上は必要なく、アルペン協会を登山家のみからなる協会へ作り替えるべきだと要求した。いわ ば、東アルプスでのツアーを容易く行うために小屋や登山道を建設するというアルペン協会設 立以来の目的を変更すべきだとしたのである。それに対しフォルシャー=マイヤーが高山にお ける登山道や小屋建設は終わってはおらず、ウィンタースポーツ用にさらに多くの小屋が増 築・改築されるべきだと反対し、ピヒルもこれに同意した[MDÖA 1911: 196; 1919: 104, 130,

1925: 233-236; Achrainer/Mailänder: 212

9)

小屋建設に関してはこのような意見の相違があったとはいえ、オーストリア側もドイツ側も 登山家たちの意識は「ドイツ人」であることの共通性によって一致していた。ピヒルは既に

1925

年大会でハイマート保護を提唱しており、オーストリア側からドイツとの合邦で完成される「全 ドイツ」を主張する政治運動家でもあった。そして

1921

年にはユダヤ教徒を協会から排斥する 運動を開始した上、

1923

年、アルペン協会の入会資格を「敵国の外国人」から剥奪しようとも していた。これに対してミュラーはドイツ側から「全ドイツ」思想を主張しており、両者はツ ーリズムを登山家ではない「ドイツ人」一般に開くか否かの点で相違していただけだったので ある[MDÖA 1925:245-24; 古川

2018a

10)

一方、「ドイツ人」であることを強調する傾向は、ピヒルと対立したラマーの主張にも窺える。

ラマーは大戦前には記していなかった文章を

1921

年、高山での競技に関する論考に付け加えた。

彼は言う。英国のスポーツは商業的なものになっており、「文化」を疎外する点で「非ドイツ的」

(12)

がまさに、「最高のものを求める際限のないファウスト的衝動であり、原ドイツの本質だ」と述 べ、登山の精神性を強調した。

1927

年大会においても彼は、「自然保護ばかりではなく、ドイ ツ人のハイマートおよびドイツ人の山の世界をドイツ的に維持すること」を主張し、協会定款 の第

1

条第

1

項設立目的の最後に「ドイツ人のハイマートへの愛を保護し強くすることで(東 アルプスの)美しさと原初性を維持すること」を付け加える動議を出したのであった[ZDÖA

1922:1-10; MDÖA 1924: 211; 1927: 224, 226

]。「ドイツ人」を自然に結びつけようとする発想は敗 戦やインフレにより依って立つ足場が弱まったと感じた「ドイツ人」がより大きな自然と自己 同一視し、そこに帰属を求めることで自己存在を確認し、「ドイツ人」としての意識を強めてい く過程であり、国民主義の土台となる。そこに社会ダーヴィニズム的発想が加わって、人間と 環境としての自然の境目を取り去る発想へと至り、美しい自然の中にいるだけで人間そのもの も純化し、美しく、高貴なものになっていく、という考え方が示されたのである8)

一方、アルペン協会内には「協会を大きくしてきた居心地の良さを求めるツーリストを顧慮 するべきである」と主張する会員もいた。その代表的な人物がオーストリア支部の

E.

ピヒル とツーリズムが盛んであったインスブルック支部代表フォルシャー=マイヤーであった。

1925

年、登山家グループに属すバイエルンラント支部は、小屋や登山道建設は完了したのでこれ以 上は必要なく、アルペン協会を登山家のみからなる協会へ作り替えるべきだと要求した。いわ ば、東アルプスでのツアーを容易く行うために小屋や登山道を建設するというアルペン協会設 立以来の目的を変更すべきだとしたのである。それに対しフォルシャー=マイヤーが高山にお ける登山道や小屋建設は終わってはおらず、ウィンタースポーツ用にさらに多くの小屋が増 築・改築されるべきだと反対し、ピヒルもこれに同意した[MDÖA 1911: 196; 1919: 104, 130,

1925: 233-236; Achrainer/Mailänder: 212

9)

小屋建設に関してはこのような意見の相違があったとはいえ、オーストリア側もドイツ側も 登山家たちの意識は「ドイツ人」であることの共通性によって一致していた。ピヒルは既に

1925

年大会でハイマート保護を提唱しており、オーストリア側からドイツとの合邦で完成される「全 ドイツ」を主張する政治運動家でもあった。そして

1921

年にはユダヤ教徒を協会から排斥する 運動を開始した上、

1923

年、アルペン協会の入会資格を「敵国の外国人」から剥奪しようとも していた。これに対してミュラーはドイツ側から「全ドイツ」思想を主張しており、両者はツ ーリズムを登山家ではない「ドイツ人」一般に開くか否かの点で相違していただけだったので ある[MDÖA 1925:245-24; 古川

2018a

10)

一方、「ドイツ人」であることを強調する傾向は、ピヒルと対立したラマーの主張にも窺える。

ラマーは大戦前には記していなかった文章を

1921

年、高山での競技に関する論考に付け加えた。

彼は言う。英国のスポーツは商業的なものになっており、「文化」を疎外する点で「非ドイツ的」

であり、「私たちの民族

Volk

を健康に、強く美しく育成したいならば、私たちの青年を空気と 太陽の中で力強く、あらゆる面で活動させ、大きな自然に合致するまで成長させなくてはなら ない」。そしてその理由として、「人種衛生学」「優生学」という学問名を列挙したのである[

Pichl : 161-164; Lammer 1923: 251; ÖAZ 1911: 19-25

11)。さらに、同年の別の文章においてもラマーは 山が神の象徴であり、山が自分に力を与えて助けてくれるとし、その神的な感覚が「北方諸国

の魂

Nordländerseele

」であり、その感覚をもって山に挑む人々は、個々人の差異を超えて一つ

の共同体を形成するとも述べた[

Lammer 1923: 160-161

]。いわば北方民族説を称揚する発言を 行ったのであった。

こうして第

1

次世界大戦後、ブルジョワ層の登山家たちは、登山を一般に開くか否かに関わ らず、自分たちは山岳戦へと特別に投入されたという選別意識と階層を越える仲間意識を持っ た上、そこに「ドイツ人」意識を付け加えた。アルピニズム史を専門とするアムシュテッター はこの様子を、「ドイツ民族」を登山によって堅強にすることができると考えるブルジョワ層登 山家が「貴族」であると自認し、次世代を担う青年育成の役目を引き受けようとしたのだと述 べた。そしてその理由をプロレタリアートによる大衆登山とは異なることに求めたのである。

ABZ 1934: 37; Amstädter: 345, 400-401]。共和国の成立に伴い貴族の存在が否定された当時、

それに代えて優秀な登山家を「貴族」とみなす意識が生じたのであろう。だが、呼称は異なれ ども、同様な選別意識は、労働者登山家にも生まれていたのであった。

3. 労働者登山家の選別意識形成

第1次世界大戦に参戦した登山家たちは、自然の中で行う登山が男性の心身を健康にし、「国 民」あるいは「ドイツ民族」を健全にすることに繋がると考えるようになった。それは敗戦に 伴う無力感を克服し、未来へと繋げる一つの方策でもあった。ブルジョワ登山家協会は戦後、

アーリア条項の導入など制度的に反ユダヤ主義を導入するが、それに反対する登山家も存在し た。その代表的な例がラマーである。彼は人種思想や「北方神話」を肯定しながら、反ユダヤ 主義者ではなかったのである12)。自然の友の名誉会長ロウラウアーも

1920

年、会員だったオー ストリア・ツーリストクラブにアーリア条項が導入される際には反対し、それを受けて自然の 友は

1921

年以降、反ユダヤ主義者ピヒルが率いるアルペン協会オーストリア支部から排除され たユダヤ教徒を受け入れた[

Amstädter: 276-278;

古川

2014

]。そして、自然の友はブルジョワ 登山家協会との連携は続ける一方で、「ドイツ民族」としての登山を主張するようになるととも に、

20

年代半ばには「社会主義的登山」に関する論考も機関誌に載せ、ブルジョワ登山家協会 の進める登山とは異なるものを模索しはじめる。ここでは自然の友が「社会主義的登山」とリ ベラル登山をいかに折衷したのか、さらにそこに国民化の方向性を付加することでいかにして

(13)

独自な登山を創り上げようとしたのかについて論じていく。

3.1. 山岳戦で生まれた労働者登山家の「精神的高揚」

戦地の野蛮さや悲惨さを体験する中で、「埃にまみれた西ロシアの大地から南ティロールのチ ンネへと転戦を志願した」会員達も多かった。南ティロールには難関な高山が多く、ウィーン からはなかなか行けない場所でもあったゆえ、憧れの地だったのである。イタリア戦線に向か った会員は「カルストを練習した後、

1400m

程度の易しい山、そしてイタリアの自然の美しさ も楽しんでいる」という便りを自然の友宛に送ってきた。自然の友の指導層の一人もイタリア 戦線におり、ヴェネチア平原のタリアメント川にいる様子を伝えてきた。彼は北側にヴェネチ ア・アルプスが見える場所で、リエンツからみたドロミーティを思い出し、「爆弾や軍服、武器 を置いて、草原を歩き回りたい。砲弾の火を見て私たちが戦争中であることを思い出さないで すめば(どんなにいいだろう)」と書いてきた[NF 1917: 64-65; 1918: 39; M. Wien, NF 1918 (1/2):

V

]。

この描写が示唆するように自然の友はアルペン協会とは異なり、戦争中、反戦の態度を貫ら ぬいた。彼らは戦争反対の意見を機関誌『自然の友』に掲載したため、検閲で記事を押収され る場合もあった[NF 1917: 64-6513)。しかしほとんどの場合、戦争を批判するような表現はそ のまま『自然の友』に掲載された。野戦郵便でもたらされた書状には、静けさの中、鳥の声の み聞こえる山地で「緑の海」を歩きながら、「一体いつ、何によっても妨げられずに神のような 太陽の下をヴァンデルンすることができるのだろうか。

手榴弾や地雷に怯えずに、武器やガ スマスクなしで歩けるのはいつだろう。だが、そういう時代は再びやってくる。そのとき私た ち自然の友は、生命の泉へと巡礼し、とりわけ、こうしたきちがいじみた民衆殺戮を防ぐこと が必要だ」と記されていた[NF 1916: 160-161]。

自然の友は

1917

年、アルペンクラブの協会誌『オーストリア・アルペン新聞』に掲載された リンツのダイによる「戦後のスポーツ登山」という論文を引きながら、戦前から進展しつつあ った記録のみを追い求めるスポーツ登山は戦後には廃れ、登山家は自分の最高の力を試そうと はするが、戦争の恐怖を知ったからには無意識の内に生命を賭けるような危険なことは行わな くなるだろうと述べ、この論文の主張に同意した[NF 1917: 88-89]。また、戦争を通じて労働 者登山の意味を再吟味するような山行記も掲載された。『自然の友』

1918

11/12

月号の「頂 上の感慨」と題するウィーンの一会員から投稿された文章には、登山家が苦労しながら山頂に 至る経過が心理的描写とともに記されている。「私は下方の深淵を見つめ考える。私をここまで やって来させた力が自分にはあるのだと意識する。頂上を極める者を強いるような誇りに満た されるのだ。斜面から斜面へ、岩から岩へと格闘しながら、上に登っていく。歓声をあげて最

(14)

独自な登山を創り上げようとしたのかについて論じていく。

3.1. 山岳戦で生まれた労働者登山家の「精神的高揚」

戦地の野蛮さや悲惨さを体験する中で、「埃にまみれた西ロシアの大地から南ティロールのチ ンネへと転戦を志願した」会員達も多かった。南ティロールには難関な高山が多く、ウィーン からはなかなか行けない場所でもあったゆえ、憧れの地だったのである。イタリア戦線に向か った会員は「カルストを練習した後、

1400m

程度の易しい山、そしてイタリアの自然の美しさ も楽しんでいる」という便りを自然の友宛に送ってきた。自然の友の指導層の一人もイタリア 戦線におり、ヴェネチア平原のタリアメント川にいる様子を伝えてきた。彼は北側にヴェネチ ア・アルプスが見える場所で、リエンツからみたドロミーティを思い出し、「爆弾や軍服、武器 を置いて、草原を歩き回りたい。砲弾の火を見て私たちが戦争中であることを思い出さないで すめば(どんなにいいだろう)」と書いてきた[NF 1917: 64-65; 1918: 39; M. Wien, NF 1918 (1/2):

V

]。

この描写が示唆するように自然の友はアルペン協会とは異なり、戦争中、反戦の態度を貫ら ぬいた。彼らは戦争反対の意見を機関誌『自然の友』に掲載したため、検閲で記事を押収され る場合もあった[NF 1917: 64-6513)。しかしほとんどの場合、戦争を批判するような表現はそ のまま『自然の友』に掲載された。野戦郵便でもたらされた書状には、静けさの中、鳥の声の み聞こえる山地で「緑の海」を歩きながら、「一体いつ、何によっても妨げられずに神のような 太陽の下をヴァンデルンすることができるのだろうか。

手榴弾や地雷に怯えずに、武器やガ スマスクなしで歩けるのはいつだろう。だが、そういう時代は再びやってくる。そのとき私た ち自然の友は、生命の泉へと巡礼し、とりわけ、こうしたきちがいじみた民衆殺戮を防ぐこと が必要だ」と記されていた[NF 1916: 160-161]。

自然の友は

1917

年、アルペンクラブの協会誌『オーストリア・アルペン新聞』に掲載された リンツのダイによる「戦後のスポーツ登山」という論文を引きながら、戦前から進展しつつあ った記録のみを追い求めるスポーツ登山は戦後には廃れ、登山家は自分の最高の力を試そうと はするが、戦争の恐怖を知ったからには無意識の内に生命を賭けるような危険なことは行わな くなるだろうと述べ、この論文の主張に同意した[NF 1917: 88-89]。また、戦争を通じて労働 者登山の意味を再吟味するような山行記も掲載された。『自然の友』

1918

11/12

月号の「頂 上の感慨」と題するウィーンの一会員から投稿された文章には、登山家が苦労しながら山頂に 至る経過が心理的描写とともに記されている。「私は下方の深淵を見つめ考える。私をここまで やって来させた力が自分にはあるのだと意識する。頂上を極める者を強いるような誇りに満た されるのだ。斜面から斜面へ、岩から岩へと格闘しながら、上に登っていく。歓声をあげて最

も高いところへよじ登る。完登!勝利したときのような喜びが私の中にある。なんと苦労した ことか。だが、私たちは疲れてはいない。なんと多くの新しい形や色が嵐のように入り込んで くるのか。暗い影を思い出すような時代はもうないのである」。著者ポスプスは、仕事場での枯 渇した「生活感情を新しく発展させる」、それが山岳スポーツだと主張した。この文章には編集 後記が付され、「平凡な労働者が自ら世界をどのように構成しているのか」ということがよくわ かる文章ゆえ、一切、手を加えずに掲載したとされ、肉体的業績だけではなく、「精神的な高揚」

をも求めるのが新しい時代の登山なのだと付言された[NF 1918: 137-139]。この文章が出され たのは第

1

次世界大戦敗戦後の混乱の最中、共和国となり、労働者にも同権が与えられた時期 に当たっており、意気揚々とした未来をも期待する意識が伝わる内容を編集者側が掲載したか ったのだともいえよう。とはいえ、登山という点だけに目を向けると、一人の人間、労働者登 山家が生きていくための力は、登山を通して確認され、同時に完登できる人間としての自負心 が人を生かすであろう様子が伝わってくる。この時期より前の『自然の友』誌にはこのような 文章がなかったことは、編集後記からも理解される。つまり、戦争と敗戦、さらには共和国と なったことを通して、ブルジョワジーの模倣ではなく、精神的なものをも含めて登山の意義が 労働者層登山家に見出されるようになったということなのである。但し、そこには登山をする、

完登できる登山家であるという自負心を見出すことができ、リベラル登山の排他的要素も含ま れていた。

3.2. 男性性と「ドイツ人」であること、平等性の希求

登山を「ドイツ民族の本質と奥深く結びつくものだ」とする『自然の友』誌にも数は少ない が男性性を強く前面に出した登山も掲載された。

1920

年「闘いは男の本質である」と主張する ベルトゥルは、生存競争によって生じる闘いには心身の力が必要であり、それを鍛えるのが自 然の暴力との闘いである山行だとした。意識的に闘いと危険を求めることが心身を強め、内面 的価値を創造し、人生を楽しくさせ、男性は「行動

Tat

」への衝動を求めてはじめていきいき とするというのである[NF 1920: 86-88; 古川

2014: 13

14)。ラマーも

1914

年に「アルペン・

タート

Die alpine Tat

」という言葉を利用していたが、それは責任感をもって難しい山への登攀

を行うことを意味していた。その「タート」は神的な力を得て人間の全力を喚起・統合させ、

登攀という目標に向けてそれを行う際に見いだせる調和でもあり、それを行える人間が「完全 なる人間

Vollmensch

」だと主張した[

Lammer 1923: 155-161; Walkner 1995

205

]。

さらに、『自然の友』誌に寄稿されたラマーの文章にも「価値のあるドイツ的本質、つまり最 も深い自然感情という貴重な宝もの」といった表現が出現した[NF 1926: 63-64]。自然の友は、

1920

年代後半数回にわたって、これらの論文が掲載されたラマーの『若き泉』を紹介し、内容

(15)

を絶賛している[M. Wien, NF 1921 (11/12): IV ; NF 1932: 7815)

1929

年、同著作の第三版が 出た際には、ラマーの言葉は聞くに値する情熱を与え、愛さずにはいられない、ラマーの中に

「冷静で心を満たすアルピニスト」がおり、「男が山世界の自然の暴力との闘いを運命だと感じ てしまうような強い意志をもつ」姿を見出している。そして「下界ではしっかり地に足をつけ、

広くアモルファスな大衆とともにいる。…だが、そこから上に向かうと私の自我は山と同じほ どに大きくなり、鋭く突き出た個人へと舞い上がる」と述べた部分を「共同体と個人性への信 条告白」だとし、「大衆」とともにあっても登山をすることで個性を見出せ、自己の存在を意識 させるものだと評価した。そして「私たちは再び興奮しながら、山での闘いを読むことができ、

この著者独自の偉大さを体験」できると述べた[NF 1929: 183]。いわば、自然の友の活動に共 感を寄せるラマーを賞賛することを通じても、登山に男性性や「ドイツ人」であること、自己 そして個性の確立を意識的に見出そうとしていたのである。

3.3. 「社会主義的登山」との妥協

大戦後、

8

時間労働制と有給休暇制度の導入によりこれまで登山に憧れたてはいたが、実際 に山行できなかった人々が自然の友には入会するようになった。戦前と同様ブルジョワ登山家 協会の登山家に匹敵する会員が自然の友に所属することを本誌には記し続けたが、異なったの は労働者であるにもかかわらず、記録を挙げたことをアピールするようになった点である。ガ イドを雇えなかったが、酒やたばこ代を倹約したことによってガイドレスでモンブランに登頂 できた会員が、自分の望みをようやくかなえることができたと表現し、努力した様子を記した 場合などが好例である。そればかりではなく、自然の友は高山登山を行おうとする人々を援助 した。「本当に長い間、一度でいいからティロールへ、山の中へ行ってみたい」と願っていた「工 場労働者」であるドイツのある支部長は、倹約した生活を行い、来年こそはティロールへ行く 望みが「なんとかかなえられそうだ。他の同志も私と同様に夢を実現してほしい」という内容 をウィーンに手紙で伝えてきた。自然の友側もこれに優るものはないと述べて多くの会員に山 地へと足を運んで欲しいと意思表示した。初心者会員に対する無料ガイド、山地のスライド上 映会も行い、山地の支部と低地地方の支部とが相互に理解しあえるような活動を行った。そし て初心者が準備もせず、高山に登る傾向に対しては批判的態度をとり、該当地域の動植物学や 地質学の最低限の知識を身につけ、また心身の力を鍛えることに注意を促す戦前の態度を維持 した[NF 1921: 56; 1922: 55, 87; 1923: 109-110; 1924: 152; 1926: 224]。

しかしながら、多人数で登山を行う集団登山が推進されていたわけではなかった。

1928

7/8

月号の『自然の友』誌にヴァンデルンを何名ぐらいで行うべきかを記した文章が掲載された。

そこでは、ヴァンデルンや登山には一人で行くべきだと主張したのはラマーだったが、孤独な

(16)

を絶賛している[M. Wien, NF 1921 (11/12): IV ; NF 1932: 7815)

1929

年、同著作の第三版が 出た際には、ラマーの言葉は聞くに値する情熱を与え、愛さずにはいられない、ラマーの中に

「冷静で心を満たすアルピニスト」がおり、「男が山世界の自然の暴力との闘いを運命だと感じ てしまうような強い意志をもつ」姿を見出している。そして「下界ではしっかり地に足をつけ、

広くアモルファスな大衆とともにいる。…だが、そこから上に向かうと私の自我は山と同じほ どに大きくなり、鋭く突き出た個人へと舞い上がる」と述べた部分を「共同体と個人性への信 条告白」だとし、「大衆」とともにあっても登山をすることで個性を見出せ、自己の存在を意識 させるものだと評価した。そして「私たちは再び興奮しながら、山での闘いを読むことができ、

この著者独自の偉大さを体験」できると述べた[NF 1929: 183]。いわば、自然の友の活動に共 感を寄せるラマーを賞賛することを通じても、登山に男性性や「ドイツ人」であること、自己 そして個性の確立を意識的に見出そうとしていたのである。

3.3. 「社会主義的登山」との妥協

大戦後、

8

時間労働制と有給休暇制度の導入によりこれまで登山に憧れたてはいたが、実際 に山行できなかった人々が自然の友には入会するようになった。戦前と同様ブルジョワ登山家 協会の登山家に匹敵する会員が自然の友に所属することを本誌には記し続けたが、異なったの は労働者であるにもかかわらず、記録を挙げたことをアピールするようになった点である。ガ イドを雇えなかったが、酒やたばこ代を倹約したことによってガイドレスでモンブランに登頂 できた会員が、自分の望みをようやくかなえることができたと表現し、努力した様子を記した 場合などが好例である。そればかりではなく、自然の友は高山登山を行おうとする人々を援助 した。「本当に長い間、一度でいいからティロールへ、山の中へ行ってみたい」と願っていた「工 場労働者」であるドイツのある支部長は、倹約した生活を行い、来年こそはティロールへ行く 望みが「なんとかかなえられそうだ。他の同志も私と同様に夢を実現してほしい」という内容 をウィーンに手紙で伝えてきた。自然の友側もこれに優るものはないと述べて多くの会員に山 地へと足を運んで欲しいと意思表示した。初心者会員に対する無料ガイド、山地のスライド上 映会も行い、山地の支部と低地地方の支部とが相互に理解しあえるような活動を行った。そし て初心者が準備もせず、高山に登る傾向に対しては批判的態度をとり、該当地域の動植物学や 地質学の最低限の知識を身につけ、また心身の力を鍛えることに注意を促す戦前の態度を維持 した[NF 1921: 56; 1922: 55, 87; 1923: 109-110; 1924: 152; 1926: 224]。

しかしながら、多人数で登山を行う集団登山が推進されていたわけではなかった。

1928

7/8

月号の『自然の友』誌にヴァンデルンを何名ぐらいで行うべきかを記した文章が掲載された。

そこでは、ヴァンデルンや登山には一人で行くべきだと主張したのはラマーだったが、孤独な

ヴァンデルンの最中には話し相手も必要だから、

2

3

人程度の同志あるいは気のあった友人と 一緒に行うべきだと述べられている。そして、多人数で行うヴァンデルンの価値は認めるが、

人数が多いと散り散りになってガイドが苦労し、山行仲間を谷で追いかける羽目になるのは「ヴ ァンデルンの退化」であり、私たちはヴァンデルンに品格を求め、心身ともに強靱に、すばら しいものにするために努力しているのであり、それが私たちの活動の意味と目的だと主張する のである。この意見とほとんど同じ内容を持つ発言が同年

8

月、自然の友協会の大会で編集長 ハピッシュによって行われた。大人数のヴァンデルンを好まないハピッシュに対してはドイツ のシュヴァーベン・ガウ(=諸支部の地域別集団)の代表から、ハピッシュが推進するヴァン デルンは、「保守派のものであり、ブルジョワ的だ」と批判された。このガウ代表は、「私たち は社会主義的ではなくてはならず、社会ヴァンデルンを保護すべきであり」「政治的契機をより 強調し」、「労働者が敵と出会った時に自衛できるような世界観を創っていかなくてはならない」

と主張した。しかし、このガウ代表が発言している最中にも「それは政治組織がやるべきこと だ」というヤジが飛んでいるところから、協会全体として集団ヴァンデルンを否定はしないが、

積極的に進める方向にはなかったといえる。当時、協会内では小屋建設問題や『自然の友』誌 の強制購読に対する反対が平地にあるドイツ諸支部から出ており、登山を本格的に進めようと するオーストリア側と対立していたことも影響していたのであろう。この点から『自然の友』

誌での主張は、オーストリア側が推進する数人で行われる戦前からの登山をこれからも続けて いくという意思表示だったと考えられる[NF 1928: 185; NF. Protokoll, 1928: 11, 26]。

自然の友の青年エリートグループ・アルピニステンギルドで活躍したコルプは

1926

年、ラマ ーに触れながら、ザイルやハーケンなどの人工器具を用い、友人とともに行う場合にはそれほ ど危険は生じないが、単独登山や天気の悪い場合、克服し得ないような障害が生まれ、山と敵 対する時にこそ山が私たちを誘うのだ述べている。同じギルドに属したヤーラも「最も高い頂 上を登山靴の下に納めたいと願う征服者たちがいたが、

彼らの征服欲の中で最高位の王冠を かぶる山頂のうち、メイジュは最高の価値を有している。

…17

年間で

30

回以上の試みがなさ れたが、みな失敗に終わった。誇り高き女王メイジュは

8

人の重臣を従えているが、それらは ただの点景に過ぎない」と述べ、この峰に登攀した。彼らの発言からは集団でヴァンデルンし たいと思う様子は見えない。しかし、ヤーラはメイジュの壁を「やる」という「誇りに満ちた 望み」をかなえるために、「財布のひもを締めること」から始めなくてはならないとも記した。

つまり彼にとっての登山とは「最も小さな支出も何週間も我慢しなくてはならない」そういう ものだったのである。自然の友はこういう青年たちの登山欲求をかなえる必要があった。戦前 のリベラルな登山を継承する自然の友が、いかにして個々人の業績や文化的価値を認めながら、

貧しい青年たちに登山を行わせて生きがいを見出させるかが問題となっていたといえよう。そ

参照

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