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著者 わが国における法史学の歩み研究会, 岩野 英夫

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聞き書き・わが国における法史学の歩み(九) : 佐 藤篤士先生の法史学を語る

著者 わが国における法史学の歩み研究会, 岩野 英夫

雑誌名 同志社法學

巻 64

号 2

ページ 297‑402

発行年 2012‑07‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014069

(2)

同志社法学 六四巻二号一三五(   

― ―

佐藤篤士先生の法史学を語る

  岩  野  英 

一 二 略 三     調 四  )﹄    ﹂、       五  1   AEQUITASHUMANITAS 2 

二九七

(3)

(   同志社法学 六四巻二号一三六   LEX XII TABULARUM﹄・訂 LEX XII TABULARUM   ﹂・﹂・六 ――       、﹃   七 留           八           九 ――   調)﹄   

   二九八

(4)

同志社法学 六四巻二号一三七(    調 調)・﹂( ﹂(、論、目     写 

一 はじめに

岩野 佐藤篤士先生にインタビューをし、佐藤法史学の何たるかを時代との関係性の中で描き出す企画を立てたのがいつであったかを、今は思い出せません。勝田有恒先生(一橋大学)にもインタビューをお願いに行こうと考えていたのですが、お二人とも相次いで他界され、企画は頓挫してしまいました。 しかし、心残りがして、原田俊彦(早稲田大学)さんと相談をした結果、かたちを変えて企画を実現することにし、須藤忠臣(法律書出版・悠々社)さんに加わってもらい、三人で打ち合わせをし、下準備をしました。場所は早稲田大学でした。そ して、本日(平成二二︿二〇一〇﹀年五月一五日)、先生の門下生の足立清人(北星学園大学)、西村隆誉志(愛媛大学)、藤野奈津子(千葉商科大学)、そして先生をよく知る吉井蒼 (神奈川大学)の皆さんに来ていただいて、﹁佐藤篤士先生の法史学を語る﹂座談会をこのように開くことができました。 佐藤先生の法史学、とりわけローマ法研究が学界に何を伝えようとしたのか、何を遺したのかを明らかにできればと思っています。

稿

二 略 歴

原田 佐藤先生は、昭和九(一九三四)年三月に山形県鶴岡市でお生まれになりました。昭和二一(一九四六)年四月に県立鶴岡中学校に入学し、昭和二七(一九五二)年三月に県立鶴岡南高等学校を卒業、そのあと、昭和二九(一九五四)年四月に早稲田大学第一法学部に入り、昭和三三(一九五八)年四月に早稲田大学大学院法学研究科(民事法学)に進学されました。 昭和三六(一九六一)年に早稲田大学助手になられたあと、

二九九

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(   同志社法学 六四巻二号一三八

昭和三九(一九六四)年には早稲田大学専任講師、昭和四一(一九六六)年に早稲田大学助教授、昭和四六(一九七一)年に早稲田大学教授に昇進、昭和五〇(一九七五)年五月から翌年九月までは、ローマ大学で在外研究をされています。平成一六(二〇〇四年)三月に定年退職され、それからわずか二年後の平成一八(二〇〇六)年五月三一日に不帰の客となられました。

三 佐藤先生の視点と初期の研究

法史学研究会――佐藤先生との出会い原田 最初の報告は、佐藤先生の初期の研究をめぐるものです。須藤 恩師佐藤篤士先生のお人柄とその初期の研究の背景を浮き彫りにするのが、私に与えられた任務だと思います。 佐藤先生を恩師と呼ぶのは、一九六三(昭和三八)年に早稲田大学の法史学研究会(以下﹁法史研﹂という)に一年生のとき入部して以来、佐藤先生の指導の下に四年間を過ごしたことによります。昭和二五(一九五〇)年に中村吉三郎先生によって創設されたこの極度に地味な研究会を選んだのは、自分がどこに立っているのかも見定められない私にとって、歴史と思想は、法律学を学ぶ前にどうしても通過しなければならない前提と思えたからでした。 たかが高校三年間で学んだ知識は、受験という狭隘な壁に遮られて、取るに足らないものでした。日本の戦後史から始まっ て、明治法制史、フランス革命史、ロシア革命史、ドイツ・ワイマール共和国史、日中関係史、イタリア現代思想と続く読書は、果てしないもののように思えたし、そのたびに私は、自らの知識の貧弱さに打ちのめされ続けました。そんな私を、佐藤先生は、その師である中村吉三郎先生とともに、限りない包容力をもって見守ってくれたのだと、今更ながら思い返すのです。 そのようなことから、法史研で佐藤先生と身近に接してきた私に、そのお人柄と初期研究についての印象を体験的にまとめよとのご指示が岩野さんから下ったのだと思います。

検討のための文献など 佐藤篤士先生のお人柄と初期の研究の背景を探るために用いたのは、以下の三点です。一 聞き取り﹁佐藤篤士先生の生い立ちと研究生活の端緒﹂(佐藤先生の奥様とご子息への二〇〇九年一二月一三日のインタビュー)。  以下﹁聞き取り﹂という。【資料1】二 佐藤篤士先生の最初期の実態調査報告論文﹁初生子單独相続について――山形縣庄内地方︹大字︺大網中村部落﹂の抜粋(一九五六年早稲田祭にて発表)。  以下﹁実態調査報告﹂という。【資料6】  なお、標題にある﹁大網中村部落﹂は、昭和二九年の町村合併で﹁朝日村﹂に編入された。その経緯は実態調査報告の 三〇〇

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同志社法学 六四巻二号一三九(    第二章第一節に詳しい。以下﹁大網中村部落﹂を﹁朝日村﹂ともいう。三 佐藤篤士先生﹁農民との話し合いの中で――実態調査の体験から﹂(一九五六年一二月七日、早稲田大学第一法学部三年A組発行﹁容 光﹂に発表した随筆。  以下﹁随筆﹂という)。【資料4】 話のとっかかりとして、まず、﹁聞き取り﹂、﹁実態調査報告﹂、﹁随筆﹂の概略をまとめておきます。

ローマ法研究の開始時期――「聞き取り」【資料1】 私はまず、先生の奥様である静 様およびご子息の雄士様を、ご自宅に訪ねた。そのときの聞き取りによれば、佐藤先生は結婚した頃にはすでに楔形文字を研究されているので、大学院に進まれると同時にローマ法の研究に向かったということになる。それは、﹃古代ローマ法の研究﹄(敬文堂、昭和五〇年)の記述とも平仄が合う。すなわち、同書の﹁はしがき﹂で佐藤先生は、ローマ法研究の端緒を次のように述べている。

 ﹁法学部の学生時代法史学研究会に所属し、日本の近世・近代法研究を志していた私に、大学院に進学の際、ローマ法研究を勧めて下さったのは、中村吉三郎先生である。私は中村先生のもとでローマ法研究をスタートした﹂(ⅱ―ⅲ頁)。  この一節は、法史学研究会設立時(一九五〇年)の先輩会員から聞いた話とも符合する。その話とは、佐藤先生が当初志していた﹁日本の近世・近代法研究﹂からローマ法に転じた切っかけが、﹁民法は民 の法である。民法は、お高くとまっているものではない。民の法である民法の始まりはローマ法にある﹂という、中村先生の言葉だったのではないかというものである。 ﹁父は、ローマ法の先達が早稲田におられなかったので、その後、いろいろな先生を巡ったようです﹂という、ご子息・雄士氏の言葉も、﹃古代ローマ法の研究﹄の﹁はしがき﹂における次の記述と符合する。

  ﹁大学院でローマ法研究をはじめてみると苦難の連続であった。学部時代にはローマ法の講義を聴いたこともなく、まず原田慶吉著﹃ローマ法﹄を読むことからはじめねばならなかった﹂(ⅲ頁)。  ﹁モノグラフィに出てくる引用文献を読もうとしても、それらの文献のうち早稲田で利用できるものはきわめてすくなかったのである。こんなとき、私を励まし指導して下さったのは久保正幡先生である。⋮⋮とくに私のためにM・カーザー教授の大著Das römische Privatrecht I(1955)の読書会を開いて下さった﹂(ⅲ頁)。  ﹁片岡輝夫先生は大学院の学生のころ法制史学会での最初の研究報告の発表原稿を懇切に読んで指導された。また、久

三〇一

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(   同志社法学 六四巻二号一四〇

保先生を中心とする西洋近世法史研究会のメンバーのかたがたは、ヨーロッパの事情にうとかった私に多くの教示を与えられた﹂(ⅲ頁)。  ﹁私の論文一作ごとに寄せられたM・カーザー教授の懇切な批評には、まだ見ぬ異国の研究者に対するあたたかい思いやりがあり、学問の国際性を身をもって感じさせられた﹂(ⅲ頁)。

 先生のそのご苦労は、察するに余りある。不躾な聞き取りに快くお答えいただいた静様と雄士様に、心からの謝意を申し上げたい。

ローマ法研究に先立つ初期研究――「実態調査報告」【資料6】 ﹁聞き取り﹂に先立って、佐藤先生の原稿や資料の入った大きな箱を見せていただいた。そこには、﹁ローマ法講義要綱﹂【資料7】とともに﹁初生子單独相続について――山形縣庄内地方︹大字︺大網中村部落﹂と題する実態調査報告【資料6】と関係資料が山ほどあった。 報告の初稿は二〇〇字詰原稿用紙一五二枚、後日追補された改稿は二二二枚である。その大幅な追補は、法史研の会長であった中村吉三郎先生の命によってなされたのだと思われる。そのことは、奥様からの﹁聞き取り﹂および佐藤先生が法制史研究(法制史学会誌)四四号(一九九五年)に寄せた﹁中村吉三 郎先生を偲ぶ﹂の次の一節からも推測される。

  ﹁私が初めて先生の教えに接したのは、一九五四年(昭和二九年)早稲田大學第一法学部に入學して間もなく、先生を會長とする法史學研究会に入會した時である。先生は毎週の研究會に出席され熱心に學生を指導された。會員は、毎年正月お宅に伺って酒をいただきながら議論をたたかわせた。その時の先生の寸評は妙をえたものであり、励まされたものである﹂。

 ここでは、中村先生に提出されたであろうその調査報告の一部を抜粋するにとどめる。この実態調査の初稿は、先生が学部三年生のときの一九五六年(昭和三一年)の早稲田祭で発表されたものである。早稲田大学名誉教授の牛山積 先生から、この実態調査は、法史研と法社研(法社会学研究会)の合同発表会において、法社研による農家相続に関する実態調査(代表報告者・牛山積)とともに発表されたものであると伺った。 長男子家督相続という戦前までの相続の一般傾向とは異なる、佐藤先生の出生地山形県鶴岡町(現鶴岡市)における初生子単独相続という習わしについての疑問に端を発したこの実態調査は、﹁一部古老に尋ねた、いわゆる聴き取り調査﹂(﹁初生子單独相続について﹂第一章﹁問題の所在﹂)による司法省の﹃全国民事慣例類集﹄とは異なり、一九五六年の春と夏の二回にわ 三〇二

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同志社法学 六四巻二号一四一(    たって朝日村の全三一戸をつぶさに訪ね歩いて記録された、極めて実証性の高いものである。 遺された﹁調査日誌﹂【資料5】によれば、一九五六年春の調査は三月八日から三月二二日までとある。随筆﹁農民との話し合いの中で﹂に﹁文字通り雪五尺の山村を訪れて﹂と記されているように、その初日の三月八日は﹁曇のち吹雪﹂、一〇日﹁雪﹂、一一日﹁曇のち雪﹂、一二日﹁曇のち雨↓雪﹂とメモされている。 なお、その前年一九五五年の暮一二月二八日には朝日村役場の助役を訪ねて、朝日村大字大網の状況を確認している。翌年の一九五六年二月二四日には、同助役に次の一〇点の資料の取り揃えを依頼する手紙を出している。①村勢要覧(古いものがあれば)、②昭和二二年一〇月一日の臨時国勢調査の産業別、職業別集計、③選挙関係綴、④村民台帳、⑤住民登録、⑥戸籍簿、⑦壬申戸籍(明治五年のもの)、⑧除籍簿、⑨役職員名簿、⑩臨時農業センサス戸票および結果表。 以下、上記調査の実情を窺い知るために、調査開始日と最終日の日誌を掲げる。

  〔開始日〕(三月八日) 曇のち吹雪 朝一一時、朝日村役場訪ねる。宿泊所の決定↓朝日村落合本郷館。資料の所在を確かめる。壬申戸籍でなく、明治八年、一〇年の戸籍。臨時国勢調査(一〇月一日)集計、縣の方へ出したために、役場 にはなし。村民台帳なし。農業センサス戸票なし。村勢要覧古いものなし、昭和二八年度のあり。  早速、農業センサス結果表(二二・八・一)、二五年国勢調査照査表、二七年七月一日の男女別年齢一覧表を書くことにより、中村の概況をつかむ。名寄帳、宗門人別帳の所在を確かめる。バス代一二〇。  〔最終日〕(三月二二日) 雨 朝九時起床。トックリ(三合)並べて今野喜助氏、佐藤清三氏と共に四人で写真を撮る。それを終わって両氏の案内で住吉神社に行き、鰐口、仏像を見せてもらう。仏像は何時代のものか解らず。  一一時半、今野氏宅を辞し、農協の渡部氏に文書を返へし、大網を出る。梵字川の濁流を右手に、雨の中を二時間、一時三〇分、朝日村役場到着。なほ、今野氏宅に御礼として三〇〇〇円。佐藤一亀氏、宮崎直太氏、伊藤嬢に会ひ、礼を述べる。三時、役場を出て本郷館に向ひ、かりたのもをかへして、助役と会って礼を云ひ、三・三〇のバスにて鶴岡到着。

 なお、三月一七日の日誌には、﹁正午に宿本郷館に帰へり、役場の今野俊雄氏の案内で約九㎞の登道を調査地大網中村に向かう。梵字川の濁流に沿ひて約二時間半。五時三〇分頃、下村農協にたどりつく。⋮⋮助役伊藤氏と会ひ、夜七時、宿舎今野氏宅に入る。⋮⋮﹂とあることから、三月一七日に宿泊所の本郷館を引き払って、村民の今野氏宅に投宿させてもらうことに

三〇三

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(   同志社法学 六四巻二号一四二

なったと知れる。添付された本郷館の領収書が三月一〇日から一六日となっていることからも、それと判る。 この実態調査報告には、調査対象となった朝日村全戸の戸籍簿と家系図が付されているのだが、ここでは戸籍簿は省き、聞き取りを整理した統計表【資料6】を掲げるにとどめた(家系図は全戸にわたる細密なものであるが、プライバシー保護の観点から掲載を断念した)。 なお、﹃古代ローマ法の研究﹄の﹁はしがき﹂に﹁日本の近世・近代法研究を志していた私﹂(ⅱ頁)とあることからすると、佐藤先生の研究者としての当初の志がこの﹁実態調査﹂の延長上にあることが窺われる。ちなみに、佐藤先生の修士論文名は、日本の近代法研究のそれではなく﹁ローマ共和政初期における土地法の構造﹂であることを、早稲田大学法学部事務室で確認してもらった。

佐藤先生の眼差――「随筆」【資料4】 佐藤先生のご自宅に保管されていた資料の中には、﹁容光﹂と題されたクラス会雑誌が含まれていた。そこに収録されている﹁農民との話し合いの中で﹂という随筆の全文を【資料4】として収録した。﹁ローマ法﹂という研究分野の特殊性もあってか、佐藤先生が自らを語った文章が他に見出せないなかで、この短文には先生の肉声が凝縮している。 この随筆の冒頭の一節に、﹁都会にいて農村の封建性、後進 性云々などと論じ合っている分には構わないが、こうした農村の題を語る輩 ︹振り仮名は原文のママ︺が村落構造をおぼろげながら知り得ても、農村が何を考え、どんな亊に苦しんでいるかについては、案外無心なのではないだろうか﹂とある。 いかにも温厚であった佐藤先生にしては意外な、﹁農村の題を語る輩 が﹂という表現と、﹁農民と、且って︹原文ママ︺は農民であった労仂者とは、何故結びつく亊が出来ないのだろうか﹂という自問自答を考え合わせると、繰り返し朝日村を訪れるなかで、佐藤先生は農民たちに強い共感をもったのではないかと推測される。 続いて、農民の心をこう代弁する。﹁官公労は﹃自分達の賃金をあげる為に云々﹄と云ってストライキをやるけれども、自分達はストライキをしたら飯の食ひあげになる。しかも、自分達が苦しい生活の中から出した税金をもっと高くしろと要求するようなものではないか﹂。 しかし、佐藤先生は希望を失ってはいない。この随筆の末尾は、次のように結ばれている。﹁この基本的な矛盾、それから派出する幾夛大小の題を孕みつゝ、農村は今、資本主義の社会構の中に吸収されて、遅々としてゞはあるが前進している⋮⋮﹂。 佐藤先生の研究の最初期のこの実態調査は、その後の研究にとって重要な意味をもつことになったと思われる。都会と農村、労働者と農民、知識階級と非知識階級、国家と市民といった対 三〇四

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同志社法学 六四巻二号一四三(    抗概念が、その後の研究の全過程を通じて、佐藤先生のなかでせめぎ合い続けたのではないかと思われるからである。 文中に、﹁自分が土地を所有しているんだという意が、それを守ろうとする彼等を勢い保守的にならせ土地所有权者として、彼等は日本の社会を靜 4かに 44眺めている﹂︹傍点は原文のママ︺という一節がある。﹁彼等は日本の社会を靜 4かに 44眺めている﹂という言葉に、佐藤先生の眼差が重なってくるように思える。 ﹁佐藤先生は穏やかな性格であったけれど、思い込んだら梃子でも動かないところがあった﹂という、同期の牛山積先生の言葉にも表れているように、実態調査で体得したそれらの矛盾を内に抱え込み続けるが故に、佐藤先生は次のように強調し続けられたのではないだろうか。﹁あくまで実証的な研究をふまえつつ論じていかねばなるまい。もし実証的な研究が立論の前提とならなければ、それはいわゆる﹃あてはめ論﹄になりかねないからである﹂(前掲﹃古代ローマ法の研究﹄四四頁)。

四 研究の方法

「法と国家」という視点――『法学(上)』について原田 引き続いて、﹃法学(上)﹄を材料にして、佐藤先生の研究方法について、須藤さんから報告してもらいます。須藤 佐藤先生は、﹃法学(上)﹄(敬文堂、一九六七年)の﹁はしがき﹂を、﹁本書は、従来の法学概論の教科書とはまるで異 なった方式をとっている﹂と書き始め、﹁法もまた人間によってつくられるものだということを⋮⋮決して忘れないでもらいたいと思う。⋮⋮どのような理論も人間の生活を離れては意味がない﹂(一―二頁)と記している。 本書の本文は、﹁法の目標は平和であり、これに達する手段は闘争である。⋮⋮法の生涯は闘争である。諸々の民族の、国家権力の、階級の、個人の闘争である﹂というイェーリング﹃権利のための闘争﹄の引用から始まる。そして、﹁序説﹂で、﹁国家が発生して以降、今日までの人間の歴史をふりかえれば、一面においては権力を握る者と、それによって、支配抑圧される多くの者との法をめぐる対立抗争の歴史であった。このような過程を通じて社会規範、従って法規範も形成されてきたのである﹂(五頁)と、法と国家の関係を規定する。 ﹁法と国家﹂に関するこの視点は、﹃古代ローマ法の研究﹄でも鮮明である。その第一章﹁日本におけるローマ法学の発達﹂第五節﹁今後の展望﹂では、ローマ法の研究態度もしくは問題意識として、第一﹁建設的な相互批判と相互協力﹂、第二﹁法と国家﹂、第三﹁法イデオロギー﹂、第四﹁法の継受﹂、第五﹁法源の邦訳問題﹂をあげた上で、﹁このように、わが国のローマ法学が当面している問題はきわめて多岐にわたっている。本書ではそれらのうちの第二の点に焦点をあわせて、ローマ法史第一期の法のありかたを明らかにしようとしたのである﹂(四三―四六頁)と、本書の性格を述べる。すなわち、﹃古代ローマ

三〇五

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(   同志社法学 六四巻二号一四四

法の研究﹄もまた、﹁法と国家﹂に焦点を合わせて書かれているのである。 ﹁法と国家﹂の問題については、﹃法学(上)﹄の中のⅡ﹁法と国家権力﹂の冒頭で、﹁⋮⋮法は、国家ないし国家権力と密接な関わりあいをもっている。即ち、国家があってはじめて法が存在するのであり、法があって国家が存在しないということはあり得ない﹂(一三頁)として、法の位置づけに関する立場を鮮明にした上で、以下のように記述する。

  ﹁国家の発生する以前の社会は、原始共同体と呼ばれている﹂。原始共同体においては、﹁共同体の枠(氏族gensという血縁的関係を中核とした社会的宗教的関係)の中における共同労働と、それによって得た生産物の共同体構成員に対する平等な分配によって生存が保障されていたのである﹂。﹁しかし、生産力の発展、とりわけ採集・漁労・狩猟から農業への発展(粗放農業から集約農業へ)に基づく財貨の増大は、共同体構成員を養う以上の財貨を共同体に蓄積させることとなった。このようにして剰余の財貨と生産手段に対する私的所有が成立し、社会の階級的な分裂の可能性を生みだしたのである。⋮⋮このような過程を通じて、共同体の軍事的支配層は、共同体内において権力を握り、奴隷労働を独占しようとした。原始共同体的な紐帯はくずれ(氏族間の貧富の差の増大)、特権的支配者の形成が促進される。⋮⋮国家は、 このようにして形成された﹂(一四―一六頁)。

 ﹁はしがき﹂で述べられているように、確かに本書﹃法学(上)﹄の編成は、法哲学的、刑事法的、民事法的な法学概論や法学入門のような従来の教科書とは﹁まるで異なった方式﹂である。 ﹁Ⅰ序説﹂﹁Ⅱ法と国家権力﹂﹁Ⅲ法と経済﹂﹁Ⅳ法源と法の解釈﹂﹁Ⅴ法学の方法と今日の問題状況﹂の五章から成る、本文一六六頁の本書は、﹁Ⅲ法と経済﹂で売買や商品交換、私的所有権、契約、法的人格、過失責任主義、財産法と家族法、財産法の内部矛盾を扱い、﹁Ⅴ法学の方法と今日の問題状況﹂の叙述は、契約自由の原則の修正、市民法と社会法、無過失責任主義の採用、行政権の拡大と法の支配の原理、﹁安保体制﹂と法、憲法改正の思想、に及ぶ。 そして、それら全域において、法と国家、あるいは法と生活者の問題が、主調低音のように響き続ける。例えば、﹁Ⅲ法と経済﹂の﹁(a)財産法と家族法﹂では、相続に関して、法と国家と人々の生活が次のように描かれる。

  ﹁⋮⋮明治政府のもとにあって、家族制度イデオロギーが支配の道具として、社会とは切り離されて、採用されたのである。このように明治憲法下に於いてイデオロギーとして家督相続が定着したのである。実際社会との乖離は国民に法的擬制を強いることにもなったのである﹂(六八頁)。 三〇六

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同志社法学 六四巻二号一四五(    ﹁Ⅴ 法学の方法と今日の問題状況﹂の﹁(一)契約自由の原則の修正﹂では、﹁契約の附従化﹂について、以下のように叙述される。

  ﹁売買契約は市民法原理の中核であり、市民社会の経済法則を規律する規範の典型である。しかし、資本の独占化とともに、商品(売買の客体)の規格品化は顕著な事実となっている。売買の条件は一方的になされ、われわれの日用品であれば殆んど交渉の余地は残されていない。⋮⋮独占企業ないし独占体が一方的に一般民衆に売買条件を強制するという現象があらわれてくるのである。農村の一主婦が﹃おらのうちで麦や米を売る時は買う方で勝手に値段つける。おらが買う時は肥料だって鶏の飼料だっておらが値段つけたことはねえだ﹄といっているのは、まさにこのような現実の姿を浮きぼりにするものだといえる﹂(一二一―一二二頁)。

 この家族制度と売買契約についての一節の背景に、学生時代の前記農村調査が控えているのを読み取るのは容易であろう。そして、本書の最終章﹁Ⅴ法学の方法と今日の問題状況﹂の﹁⑹憲法改正の思想﹂の末尾は、こう結ばれている。

  ﹁何が真に国民の生活を保障し、何が真に人間らしい生活をもたらすものか、それを国民一人ひとりが考え、討論し、 探し求めねばならない。人間はすべて幸福を追求する権利を持っている。こうした権利が、政局担当者の恣意的な﹃政策﹄によって少しでも奪われていい筈はない。この素朴な感情こそが将に権利意識を支える中核となっているのである﹂(一六五―一六六頁)。

 こうして見ると、佐藤先生がその最初の論文(農村実態調査)で体得したであろう生活者への﹁共感﹂と、それと乖離する法・国家の在りようへの﹁警戒心﹂は、本書にも脈々と流れているように感じられる。であればこそ、﹁国民一人ひとりが考え、討論し、探し求めねばならない﹂という問いかけは、佐藤先生自らへの問いかけとも思われるのである。 佐藤先生は、﹁階級対立(市民と奴隷、領主と農民、資本家と労働者)の性格によって、法の構造もまた異なるのである。このように考えてくれば、階級対立の存する限り、法をめぐる闘争が続くのであり、法を語るにも、人間の生活や歴史をぬきにしては、何一つその本質にせまることはできないのである﹂(五頁)と、法および国家と生活者との関係を述べ、﹁法律万能主義にとらわれたり、あるいはわれわれの生活と遊離した衒学的な世界に引きずり込まれてしまう危険﹂(﹁はしがき﹂二頁)を避けなければならないこと、そのためには実証研究が重要だということを強く主張され、そしてご自身も常に実証を心がけられたのであろう。

三〇七

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(   同志社法学 六四巻二号一四六

 ﹁生活と遊離した衒学的な世界﹂への警戒心を語り、実証性を強調する佐藤先生の背後には、いつも農民たちの﹁静かに眺めている﹂眼があるように、私には思える。

「ヨーロッパ総体の法史」という視点――『法史学』について原田 では、次に、岩野さんに、﹃法史学﹄所収の﹁ヨーロッパ法史﹂を素材にして佐藤先生の研究方法について報告をしてもらいます。岩野 佐藤先生は、昭和四八(一九七三)年に公刊された﹃法史学﹄(評論社)において﹁ヨーロッパ法史﹂を分担執筆されている。目次は以下である(二四九―二五三頁)。 第一編﹁序論﹂:第一章﹁日本におけるヨーロッパ法史研究﹂(第一節﹁ローマ法学﹂、第二節﹁西洋法史学﹂)、第二章﹁ヨーロッパ法史研究の方法﹂(第一節﹁戦後におけるヨーロッパ法史研究﹂、第二節﹁ヨーロッパ法史研究の方向﹂)。 第二編﹁古代の法﹂:第一章﹁法と国家の発生﹂、第二章﹁古代東方法﹂(第一節﹁エジプト法﹂、第二節﹁楔形文字法﹂、第三節﹁ヘブライ法﹂)、第三章﹁古典古代社会の法﹂(第一節﹁ギリシャの法﹂、第二節﹁ローマ法﹂)、第四章﹁ゲルマン社会の法﹂。 第三編﹁中世の法﹂:第一章﹁ゲルマン民族の移動とローマ法文化﹂、第二章﹁フランク帝国の成立﹂(第一節﹁王権成立の前提﹂、第二節﹁メロヴィンガ王朝﹂、第三節﹁レーエン制の発生﹂、第四節﹁カロリンガ王朝﹂、第五節﹁ローマ帝国理念の形 成﹂)、第三章﹁教会法の成立﹂、第四章﹁ビザンツ社会の法﹂、第五章﹁封建社会の発達﹂(第一節﹁中世都市の勃興﹂、第二節﹁註釈学派と法学の発展﹂、第三節﹁農村の変化﹂、第四節﹁封建的国家体制の確立﹂、第五節﹁教会法の展開﹂)、第六章﹁国王と国民﹂(第一節﹁絶対王政の成立﹂、第二節﹁国王と議会﹂、第三節「裁判と法」)。 節の中にはさらに小見出しがついているものがある。例えば、第三編第五章第四節の場合は﹁一帝権と教権﹂、﹁二ドイツ帝国の国制﹂、﹁三フランスの国制﹂、﹁四イギリスの国制﹂、第三編第六章第二節の場合は﹁一イギリス﹂、﹁二フランス﹂、﹁三ドイツ﹂である。 長ながと目次を紹介したのは、この目次によって、佐藤先生が考えていた、ヨーロッパ法史叙述の構想を端的に知ることができるからである。 その構想は、﹁序論﹂(二五五―二七一頁)に配置されている研究史から導かれている。この研究史は、わが国におけるローマ法や西洋法制史の学問史を素描していてそれだけでも興味深く、また現代においてもなおその価値を失わない作品である。構想との関係で重要なのは研究史から導き出している次の四つの問題点である。 第一に、西洋の法史という場合の西洋がドイツやフランスなどの﹁各国別縦割法制史﹂や﹁法制度の歴史﹂になっていて、西洋という用語にふさわしい総合性がないこと。法系別に法史 三〇八

(14)

同志社法学 六四巻二号一四七(    を類別する叙述方法(法系論)も同様の脈絡の中で批判的に評価されている(二六四、二七〇頁)。例えば、佐藤先生が参考文献の一冊として挙げている田中周 友﹃世界法史概説﹄(有信堂、一九六〇年)は、エジプト法系、楔形文字法系、ヘブライ法系(以上の三法系を包括する概念が﹁古 代東方法文化﹂)、ギリシャ法系、ローマ法系、教会法系、海法系(以上の四法系を包括する概念が﹁古 典古代法文化﹂)など一六法系に世界の法を分類している。 第二に、イギリス法についてはほとんど触れられることがなかったこと。 第三に、法史の対象が近代にまで及んでいなかったこと。 第四に、久保正幡﹁ゲルマン法史の構想﹂(東京帝国大学編﹃東京帝国大学学術大観︹法学部、経済学部︺﹄一九四二年)が特に第一、第二の問題点に関係して﹁西洋法制史研究の一方法﹂を提案しているが、﹁しかしながら西洋法制史のあり方に関する論争ないし方法論の展開は戦前においてはついに実ることがなかった﹂こと。﹁しかも決定的なことは、法と密接な関わりを持つ国家論が西洋法史を専門とする人びとによっては論じられなかったこと⋮⋮﹂(二六五頁)。佐藤先生は、久保の方法を次のようにまとめている(二六四頁)。

  久保正幡は、﹁⋮⋮西洋法制史研究は、たんに日本法制史研究の参考手段たるにとどまらず、西洋法制史をそれとして 研究することが目的となるという意義を持つようになり、個別的考証的研究よりは、総合的考察的研究により、各国別の法制史に共通するなんらかの総合的史観ないし統一的体系の確立が必要であるとし、﹃ゲルマン法史﹄なる体系を提示した。そして、中世以降のヨーロッパ諸国の法制の発展を、ローマ法とゲルマン法の対立交流の歴史であるとし、ドイツ・フランス・イギリス・イタリアと諸国法制史間に差異はあっても、それは根本においてはローマ風ゲルマン風の法発展のたんなる態様上の差異に過ぎない。したがって、﹃ゲルマン法史﹄は、これらの差異のあるヨーロッパ諸国の法制史を通じてゲルマン法がローマ文化に接していらいいかにローマン化されたかの歴史を明らかにすることであるとしている。﹂

 以上の四つの問題点から導かれた課題の一つが、イギリスを含む西洋総体の、近代までの法史を描かなければならない、であり、もう一つは、その際の方法には国家論が取り込まれなければならない、である。佐藤先生は、前者については、通例に従い、エジプト、オリエントの古代法を含む西洋という枠組みで、イギリスにも目を向けながら叙述を進めている。ただ、紙数の関係もあって、近代の法史の記述は別の機会にゆずっている(四六〇頁)。 後者の国家論については、第二編﹁古代の法﹂の第一章の表題が﹁法と国家の発生﹂であることからわかるとおり、原始共

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