医療経済学入門
丹野忠晋
∗
令和2
年10
月21
日1
医師誘発需要医師がどのように医療サービスの需要を発生させるかをみることにしま す.この現象は医療の情報の非対称性から出ています.
1.1
医師誘発需要の背景医療サービスの需要者と供給者の間に情報の非対称性があると重大な問 題が出てくることが分かりました.それは
2
つに分けることができます.一つはモラルハザードです.もう一つはアドバースセレクションです.
情報の非対称性は医療の需給だけではなく医療保険にも影を落とします.
その解決策として国民皆保険制度があります.しかし,万能ではなくその 問題点も指摘できます.
医師に掛かって検査を受けたことはないだろうか?医師が検査しましょ うというと大方の人は受け入れるだろう.医療の主体は我々個人です.自 己決定権があるのはいうまでもありません.しかし,普通は医師の意見や 決定に従っている.
医師は患者の状態や疾患に関して様々な情報や兆候を捉えることができ ます.一方,患者は僅かしか知り得ません.だから病院に行きます.専門 性を持つ供給者が情報の上で優位な地位にあります.この立場を利用して 需要者に成り代わって需要を誘うことを供給者誘発需要と言います.医療 の面では医師誘発需要と呼ばれます.検査で
CT
やMRI
などの高度な機 器を過剰に使うことも含まれます.手術をしたい医師が不必要に開腹手術 をするかも知れません.この医師誘発需要は医師と患者の情報の格差から来ています.不必要な 診察・検査を行えば患者の便益が低下します.無駄な通院で時間を犠牲に するかも知れません.保険や税で医療を賄っているので他の患者への資金 が不足し,医療財政が悪化するかも知れません.本当は必要な患者に手厚 く医療を提供すべきなのに他の人の医療に回っていれば,医療資源のムダ につながります.
∗拓殖大学政経学部. Email: [email protected]
1
しかし,このようなデメリットがありますが,その原因は情報の非対称 性です.ある疾患に対して我々が医学を学び対処する.そうすれば医師と 同程度の情報を持てます.しかし,それは現実的ではありません.したがっ て,医師誘発需要をある程度認めざるを得ないでしょう.問題は誘発需要 がどのくらいあって我々の便益を損なっている.そして,それをある程度 抑える方法は何かです.
1.1.1
誘発需要への対応まずは誘発需要を発生される情報の格差への対応を見てみましょう.個 人のレベルでは医師に掛からないように健康を維持することです.しか し,そうも言ってられません.自分の年齢や職業で罹りそうな病気には目 を光らせて日頃から医療情報にアクセスすることが重要です.急性疾患に あたっては,医療サービス需要の不確実性と突発性がその特徴です.この ようなケースが身の回りで起こったら他人事とは思わずに医療情報を収集 して,どのように対処すれば良いかを考えておくと良いでしょう.
社会レベルでは保険者は医療行為全般のチェックを行っています.レセ プトチェックにより,医療機関の請求に対し、審査側が医療保険行為とし て不適当と判断した項目を修正や変更を求めます.電子レセプトが普及し
AI
を使うなど技術が発達すれば,保険者の機能強化をさらに推し進め,誘 発需要への社会的対応がさらに効果を増すでしょう.1.1.2
データから誘発需要の可能性を探る病床数が多い地域は入院日数が多くなります.これは
Roemer (1961)
が 先駆的に発見したので,ローマー効果と呼びます.医師の誘発需要は医療 供給密度の高まりが1
人当たりの医療費を増加させます.この医療提供密 度は人口当たりの病床数や医師数で測ることが多いです.医師数と医療費 が相関関係にあるとしても,それが実際に因果関係にあるのでしょうか?それを立証するには深い経済学的な洞察が必要です.
協会けんぽの都道府県別・被保険者本人に関する支払データから,規準 化された病床数と医療費の関係の図があります.この図から両者は強い正 の相関があることが分かります.
この関係は国保や後期高齢者でも当てはまります.誘発需要が医療提供 密度と医療費の正の関係をもたらせているのか見極めが重要です.ある論 文では人口当たり医師数が
1%増加すると入院サービス使用量は 0.8%,外
来サービス使用量は0.4%
それぞれ不必要に増加すると推定しています.1.2
誘発需要の基本モデル誘発需要のモデルは
2
つあります.医師は患者よりも自分の利益を優先 すると仮定します.このとき患者の便益面から考察しましょう.2
図を用いて誘発需要を分析します.患者の医療サービスへの需要曲線が 当初
D
であるとします.医療サービス提供者の供給曲線はS
で表されて います.このとき点E
が均衡点です.一般の診療所では診療報酬は出来 高払いです.情報の非対称性を供給者が活用したとしましょう.医師は医 学的にみて必要以上の医療サービスを誘発します.このときの需要曲線はD
′ となります.新しい均衡点はE
′ です.この
2
つの均衡点の経済厚生(総余剰,社会的余剰)を比較すると,均 衡点E
で総余剰が最大化されています.しかし,均衡点E
′ では総余剰の 損失が発生しています.供給曲線で示される限界費用が本来の需要曲線で 示される限界便益を上回っています.このとき,その限界費用と限界便益 の差の合計が失われた余剰になります.よって,図に示されたグレーの部 分が厚生損失に対応します.よって,誘発需要が可能であれば,医療サービスは社会的に見て過剰に 供給されます.市場の資源配分は非効率的になります.医師が患者の忠実 な代理人として働いていません.
1.3
誘発需要の理論モデルある地域に医師が新たに診療所を開設する状況を検討しましょう.この 病院の開設を経済学では新規参入といいます.新規参入によって供給が増 えるので市場価格は下落します.それは医師の収入の減少をもたらします.
医師は収入を維持するために需要を誘発することを示します.
まず,当初の需要と供給を取り上げます.このとき需要曲線
D
と供給曲 線S
で表されています.その交点である均衡点E
0 で価格P
0 と医療サー ビスの量Q
0 が定まります.この地域は人口が多く治安も良い魅力的な場所だとしましょう.ある医 師が新たに診療所を設けたとします.供給者が増えますから供給曲線は右 にシフトします.シフト後の供給曲線を
S
′ とします.それと当初の需要 曲線D
との交点はE
1となります.新たな均衡点では価格はP
1に下落し,医療サービスの量は
Q
1に増えます.このとき,医師の所得が減少します.なぜならば,医療サービスは生活 必需品であり,その需要の価格弾力性は小さいと考えられるからです.医 療サービス需要の価格弾力性が
1
よりも小さければ,価格の低下によって 医療の支出額は減ります.つまり,P
1× Q
1< P
0× Q
0が成り立ちます
(このことはミクロ経済学のテキストで確認してください).
医師は所得が下がるので,需要を高めに誘導して所得を補うインセンティ ブが発生します.医師は患者に追加的な医療サービスを提案して,従って 貰います.丁寧な治療ということで追加の検査を実施したり,患者に通院 の頻度を高めることを示唆するのです.
患者が医師の提案を受け入れると,需要曲線は当初の
D
から誘発され た需要を含む需要曲線D
′ へ右にシフトします.均衡点はE
2 となり,均3
衡価格は
P
2に均衡医療サービス量はQ
2 になります.このように医師は 低下した所得の増加や回復を図ることができます.情報の非対称性がない通常の財やサービスでは,需要を誘発することに よって所得を維持することは難しいことは直ぐに分かるでしょう.八百屋 さんが売れ残りのキャベツをどんなに勧めても必要が無ければ買いません.
医療サービスは特殊なサービスです.経験に学んだりネットで調べるなど の努力をしても医師と患者の間の情報格差を埋めることは難しいでしょう.
そのため,医師の誘発需要によりムダなサービスを買わされていることに 気をつけなければ成りません.