翻刻・曳尾庵雑記 よく人の知るところあるが︑他は未刊である︒
曳 尾 庵 雑 記
﹃我衣﹄巻一下
﹃曳 尾庵 雑記
﹄︵
﹃我 衣﹄ 巻一 下︶ 曳尾 庵︵ 加藤 玄悦
︶編
︒写 本︒ 半紙 本(
‑=
︱︱
‑・
︱ ︱‑ x
一 六
・一
糎 ︶
︑袋綴一冊︒墨付七六丁︵丁付ナシ︶︒毎半
葉十一行︒布目白地枝梅銀摺模様紙表紙︒外題︑左肩﹁曳尾庵雑記﹂︵本文と異箪︑打付書︶︒
本﹂︒印記︑巻首﹁凌霜文庫﹂︑﹁清箔舎蔵﹂︒請求記号イ五•一四五八特。 右肩貼紙﹁宝暦二年/曳尾庵/自筆
宝暦二年︵一菩一︶より文化五年(‑︿穴︶に至るまでの事件の年表風雑記︒巻末の永代橋の落ちた事件を記した末に︑﹁別本夢の憂橋
には一事も不残記し置ぬ﹂とある︒曳尾庵の﹃我衣﹄は十九巻あり︑巻一の上・中は﹃燕石十種﹄第一輯第五冊に収められていて︑
幸田成友﹁我衣とその著者﹂︵﹃幸田成友著作集﹄六︶に︑﹁本書巻一の上中と巻一二以後とは︑各ミ一貫したる著述なれども︑その
中間なる巻一下及び巻二に至りては全く前後と連絡を欠き︑一見解す可からざるが如しと雖も︑巻一上中即ち最も広く世に知られた
る﹃我衣﹄の一部は︑実に曳尾庵の著述にあらず︒文化二年に於て彼が一古書を抄録増補せるものなること︑並に巻一下は松乎鳩翁
の筆記を借請け︑之に若干の増補を加へたるものなること︑本書巻十七に載する次の文によりて明かなり﹂
と記
す︒
此わが衣といふ書は︑往し寛政の始︑古写本あまた求得し中に︑寛永の比より宝暦の初までの異説奇話︑時世装の転じたる︑
或は時々の流行の言葉︑男女風俗のうつりかはる︑衣類笠より木履に至る迄︑其図を顕し︑年月をよく
したる書一冊あり︒m L
刻翻
柴 田
光
彦
‑ 23 ‑
しくて
益なき市とは思へども︑好古の癖やみがたく︑其中より抄出して壱巻百枚
とぢ物とす︒或日松平嶋翁9へ謁せし折から︑此
書の物語申士しに︑翁君仰ありしは︑予若かりし時より世のなかのさた︑あまさず洩さず筆記せし物あり︒夫れは宝暦の初
より四五年以前迄の
L J J
共也しが︑近頃老衰して筆を採る事不能︒
益ある事もあるべしと仰ありて︑
とニノ巻との間にさしはさみて︑
うことになる︒
汝其書に是を合せて︑猶後ちのぃ訃も記録せば
︑少しは世に
則御側なる小林金次郎に命じて︑
一ノニとせし冊子也︒
御書庫を尋しめ給ひ︑
愚老に借し与へ給ひぬ︒是則壱巻
文中︑前
半の
一
冊の抄本が︑﹃燕石十種﹄本所収の﹃我衣﹄に該当し︑後にいう鳩翁から借用して写したのが︑すなわち本書とい
ところで
﹃燕石十種﹄には﹃夢の浮橋﹄が第二輯に︑
﹃夢の浮橋附録﹄
が第四輯に収められている︒"
間者は大田南畝の編︑後者は
盟島屋十右衛門︵春の屋成文︶の編とされている︒本書に引く
﹁別本夢の憂梢には一事も不残記し置ぬ﹂とある記述の仕方は︑曳尾
庵
の編と見るより他はとりようがない︒これをどう解すべきか迷うことになるが︑試みに﹃国書総目録
﹄の﹁夢の浮栖﹂の項を引
いてみる︒別名が︑
﹁夢
の憂
橋
﹂で︑著者が曳尾俺元亀老人︵大田南畝︶編︑文化
五年序とある︒これでみる限り曳尾庵と南畝が
同
一人となり︑合点がいかないが︑
一方
で
︑曳尾庵自身が
n
ら﹁
記し樹ぬ﹂とあるのをどうう
けとめたらよいのか迷わざるを得ない︒
そこで︑
﹃燕石十種﹄によ
ってこの本をみることにする︒巻頭に杏花園の題詩があり︑終りに﹁ゆめのうきはしは杏花園のおきな
の例の箪まめなるすさみなるべし︑
:かくいふは︑しのばずの池にとしへぬるいし亀なり
﹂
との祓文があり︑
﹁追加﹂があっ
て ︑
その
後に
︑
﹁此書は杏花園大人の編集し給ひしを︑借りまゐらせて︑いとなみのひま/\'
う
つしおき侍るになん︑見る人回向し
給ヘ
や︑念仏申給へや︑文宝亭﹂とあって二世蜀
山︑亀
屋文宝の写木によっ
いて
る︒
園の
践文
に︑
﹁:
不忍池の老石亀はいかにも曳尾庵玄︵元︶亀と紛わ
一層頭が混乱してく
るが︑文宝亭と曳尾庵とは別人であることはいうまで
もない︒﹃燕石十種﹄の﹁夢の浮橋附録﹂
の杏
花
•おのれも、其日舟にて祭見にゆきしに
」とあって、「:’•その4
ち、其日のことゞもあはれなる物語を書あっめ
て︑夢のうきはしと名付しかば︑今此書を附録として︑南畝文印に蔵む﹂とあり︑南畝自らのものと記し︑﹃南畝文庫蔵書目﹄巻
‑ 24 ‑
末に
翻 刻
・曳 尾 庵 雑 氾
れたる事もまた多くあるなるぺし︒﹂
︵傍
点邪
者︶
杏園七人﹂
東京大学総合図書館の洒竹文彫︑﹁猾巣雑頷﹂は斎藤月容が諸本を書写したものであるが︑その五三に︑問題の﹁夢の浮橋﹂を蔵
している︒見返しに﹁曳尾裔元亀老人輯/夢の浮橋/全一巻
﹂
と記
され
︑
﹁文化五辰霜降て後の一日
あやふきに近づかざるハ君子のいましめ
︑ 悔
てのちに慎む人ハあれど︑
四列年仲の秋十九日になんありけらし︑深川冨岡八幡宮の祭礼久し
く行れざりしを︑氏子等信敬の余り︑其行装に奇疵を飾︑
をかたらひ是をもよほして︑ 風流をた<ミにして神威をまさ
むと︑金銭ををしまず︑専其まうけをなす︒此うわさ遠近にひゞき渡りて
︑我も人も其日な
らざるよう言の4
しり
︑聞
伝て
︑
昼夜其事のミかまびすして︑其あたれる日は︑老となく若となく魂うごき心いさミて︑彼
われ先にとむれ行事
︑ 御
府内ハいふ
もさらなり︑近村遠境まで目を燈かざるハなかりき︒終に ハ禍足もとよりおこりて︑
場にのぞミたる人の︑ 千人にちかき男女老幼︑
片時の間に水くづとなり果ぬるべ誠に古今未曾有の事也︒
万死をいで4一生を終るも少からず︒
されどくさ/\の物語︑ひとつ/\不思議ならざるハなし︒三
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
四十日が間ハ同じ様なる事をまた少し引たがへていひふらしける
︒
夫が中にたしかなる物語をときあきらめ︑箪まめに書と
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ゞめたる人あり︒是をつゞりて一冊子となせしを︑
曳尾庵は南畝の本を写し︑更に加えていたのてある︒南畝のものも︑
一︑予は其祭の前日︑目白坂の娘方より︑
翌の
祭礼
``
︑た
く思
ひし
由申
す辿
ゆへ
に︑
も見せんと其朝より心がまえして待たるに︑共朝用事つどひて参りがたく︑援も/\おしき事の由申遣す︒はや朝五ッ時頃
より我が家の前を群集して︑往来の男女︑外もきらず︑是も又一種の見物也︒似思ふやう︑
' J
‑ ‑ ‑ 1
ハ深川への通り筋にもあら
が﹁別本夢の憂橋﹂と称していることである︒
︑﹁時事﹂
の項
に
﹁夢の憂栢一
咎 写
﹁同附録
いかにも世間に雷嗚するなれバ いとまあるたび毎にまたうつして︑紙籠の費しける︒
子供等に 又かく危き
さあれどこれもも
諸記を器めて成ったものであったものであった︒そして巻 つ4しミて後によくつ4しむ人ハ稀也︒こ4に文化 曳尾商誌﹂の序がある︒ 一
巻 写
﹂
とあ
れば
︑
もはや疑うべく
もな
︒い
ただ問題は曳尾庵
と︑半ハ止りたく思ひ居たるところへ︑ ず︒こ4
ぷ凡一里余も道遠き所さへかくの如し︒深川近所ハ中ミ爪も立まじなど思ひつゞけ︑子供をつれてハいかゞあらん
不思議の用事出来て柳橋の万八楼に登る︒子供等は本意なく思ひしにや︒顔もちょ
からざりき︒扱荊婦に申をくハ︑もしょき連どにてもあるならバ︑祭ハ永代橋東より西に渡る故二︑橘の西よりわたり行バ︑
祭に向ひて見物する故︑残る所なし︒心得ぬ人ならバ其越たのミてよと︑丁と死すべき事ををしへて︑投柳橋へ趣んとする
頃ハ四ツ過也︒宿を出て和泉橋にか4る時︑橋落たりといふ噂︑行かふ人口とに云︒南無三宝と取てかへし︑宿にいたりて︑
しか人\のよし申含︑かならず子供出すべからずと止めて︑又柳橋へおもむきぬ︒其余の事ハ一我衣︳五巻目に委しく記したれ
バ︑こ4にもらしぬ︒
文化十一戌年水無月中読写
この書はさらに︑文化十四年の書写を経て︑嘉永三年十月に月苓の借覧書写するところとなり︑﹁先老莞斎翁の卿﹂を加え︑当時
なお︑洒竹文庫に蔵する﹃曳尾奄肇記﹄は内題も外題も同じであるが︑内容は︑﹃我衣﹄巻一上に当るものであり︑美濃本十行に
記されている︒また天理図書館蔵︑曳尾庵自箪﹃園の木の葉﹄七冊もまた本書と同筆である︒
二︑本文中に項目の変り目毎に朱〇印を捺しているが︑脱漏と思われるものもあり︑東京大学南葵文庫本を参考にして
( O )
を補った︒また本文の誤脱は︵︶を付してそれを示した︒
三︑改行は︑概ね原本に準じたが︑
とし
た︒
几例 月苓四歳であったことを記している︒
便宜的に年度が変っているところで改行したところもあり︑ 一︑翻刻に当り︑読み易いように句読点・濁点を付した︒
その場合は傍注に︵ツヅク︶
曳 尾 奄
‑ 26 ‑
0
同一 酉二 年︑ 諸国 麻疹 流行
︒
O
同戌 四年
︑ 立土持千本突参詣群集︒
O
宝暦こよミ御改有之︒
木行川さらいあり︒
0
同五亥年︑十万八千人の焼死の百年忌回向院にて供養︒
0
九州大風吹︒O
同六子年︑下総国古河にて弘法水と いふ薬水出ル︒参詣群集︒
O
東叡山仁王門立 ︒
( O )
江
戸大 火︒
( O )
同七丑年︑中国︑関東共大水︒
O
七月︑聖護院峯入︒
( 0 )
同八寅年︑鹿嶋本地仏両国二て開帳︒九月雷鳴︒
0
同九卯年︑加州金沢大火︒
O
深川天王山霊雲院︑始て
建禅宗︑本堂
山︑
門︑
稲荷の社︑座鋪井三階作り結構
元
成﹂
( ‑ オ
︶し が
︑
神田大事︱︱焼ル°其後再建
︑此所本ハ
榊原家の下やしき也︒
O
金森何某殿滅亡︒江戸所在に浪人林の物貰ひ幣し︒此節御触有之︑物もらい脇ざし
帯し候事停止。O
法恩念仏発行、韮麟丘心紐屯戸
.
~: 0
市川柏筵が発句とて言はやす︒へやがてミよ棒くらはせんそばの花︒
( O )
二の丸御普請有之︑品川御殿山
ラビ9ゞ
ふ土を取寄かつぎ所とか船聰しく積に出る︒
0
深川八翻 刻
・ 曳 尾 庵 雑 記
三崎之幡随院
〇宝暦二申年︑天満宮八百五拾年忌所ミ開帳有之︒
のもの︑仲間通用金といへる物を栴へ融通せしが是も﹂ ぷ大坂衰微の始となりたりとかや︒夫までハ大坂豪富
0
同十二
午年
︑
御誕
生︒
0
大坂大雷︒此秋大坂豪富の町人︑年ミ奢移甚︱︱付分限に応じ御用金被仰 付︑其外厳敷御穿緊ありて種ミの禁を立られたり︒是
家基公 都鳥かな へおもふ
ことなき身ながらもふる郷の猶なっかしき
詠に 川へ也︒関東御下向の後︑隅田 惇信院殿と︑
御朱印御改有之︒
︵ マ マ
︶
( O )
惇信院様
O
御台成ハ波の宮と申奉り︑閑院宮姫宮称
0
同十一巳年︑親鸞上人五百年忌︒
家重公
幡境内にて大蔵大夫勧進能興行︒
O
同十辰年︑神田旅籠町
ぷ出
這火
を西
明側
石角
屋い
心戸
と目
いの
□ふ
火広
も小
i
とo
深川洲崎にて焼止ル°此節米蔵︑新川酒問屋︑霊雲院も類焼︒仙
台の蔵やしきは残る︒
a m
昇望 0
円光大師五百五十年忌︑慧浄と
諮ス
°﹂
︵ 一 ウ
︶〇 五月
︑
様と奉称︒九月
軍将 宣下
︒
大御所御他界︑奉
御成有之︑其時の御 大御所
‑ 27 ‑
石町鐘つき堂の娘は美人にして観櫨首なりと言ふら
し︒是等ハ皆無拠浮説なり︒其中におかしきベ 灸治すれバ︑何
年 之 内 に 死 す な ど
4て信用する人多 御厨子ハ ︵
ニ オ
︶同時に制止
あり
︒
此仲間金止たるゆへ︑大坂中殊
之外︑差支に成たり︒此通用金ハ大坂にて為替金之仲
間︑又大坂仕送りを取扱ふ者共百両包をこしらへ︑上
封に銘ミ名判を連書して︑包たる中ハ銅を小判の形り
に招へ重サも百両の斤目に等しく持置て︑急l
:人 用之
時ハ真の小判にまじへ遣ひしゅへ︑巨万の金も即時に
す時ハ︑上封の名判ある方へ持ゆけバ︑其儘真金に引
かへらるゆへ︑数万金の通用差つかへなく︑全眈ハ銀
¢堀出したりと云︒其節公儀より御吟味有之
︑ 相 済 ︑
御城女中¢寄進のよし︒
( O )
同其比の噂に︑
す︒おもふ︱︱彼もの︱︱意趣有人の言
出し
たる 説也
︒
0
同比
︑染 井に
て人の女房の前陰に馳這入りたりと言︒
0
同︑戸隠大明神開帳之節神楽を舞ふ神子女︑殊之外御即
位︒
O
宝暦年中︑亀有村の観音ハ ﹂ ︵
︱ ‑ ウ
︶同所の沼
巳の
ヘ久かたの何とて虫のさまたげん我住里ハ芦原の国
︵ マ マ
︶
かよふ雑説人を惑す事折ふしはや
る ︒
( 0 )
同︑又其後
いつ の
比にハ大雷鳴とて世間一統に南天の葉を煎
しの
みし事もあり︒
O
同︑灸を忌む日と て長
崎にて試し人
ありと云て売歩行者あ
りし が︑
今
世に
も人と是を写
し︑壁などに張置て︑何の年の人ハいつの月︑何の日︑
0
同十三未年︑最明時頼五百年忌︒十一月廿七日
︑
札をつかふやうなる物にて︑夫¢ハ猶槌成物成と云︒
もあ
り︒
かきて門戸にはる︒虫の形をこと人\しく書たるなど
0
同︑っ
4がといふ虫出て災をなすとて︑其究に班を 弁ずる事にて甚融用宜かりきと︒若右百両両他国へ遣歳にて没すともいふ︒ 都にて烏丸殿•土御門殿不首尾風聞、此節烏石先生御咎を蒙る︒是ハ大師号勅許を願ひし力事起上
広 沢
り︑其 門人
後烏
石﹂
︵ 三 オ
︶ハ本願寺に同居
し ︑
安永八年八十 親王といふ詞はやる︒
O
同︑親鷺上人遠忌の時に︑京 此神子の名にて口ずさ
``
︑に
残
り申候︒〇あんぽん丹の 美人也と評判也︒今におゑんといふおどり子と
申ハ
‑ 28 ‑
んと或人の説なり︒
と遠ひたり︒又︑門松を納るにも七日の朝未明にとり
しが
︑今ハ六日の夜か︑或ハ昼過ると取納む︒又︑夏
季になると鋏抱打江戸中所ミを歩行︑鳶鷹を打取ける
0
明和元申年︑朝鮮人来朝︑此節帰国の時大坂にて朝鮮人に手を負せ候処︑其通辞過去り︑又江戸ぷも役人中﹂
翻 刻
・ 曳 尾 庵 雑 記
種とのおもしろき説あれども︑悉<永けれバ妥に略ス0 を朝鮮人に不遣︑其事洩ん事を恐れ殺したるとかや︑ たる通辞ハ対州の者にて︑鈴木伝蔵といふ人参の金子ふ已下の日蝕ハしるさず候よし︒已後少しにても記し
りの御代官飯塚伊兵衛殿ー—委しく承り候。朝鮮人数し
成 ︒
O
夏の
比日蝕有之処︑
暦︱
︱無
之
︑是¢以前も三分 成よし︒
0
本文如斯︒是ハ予若年の時︑此節朝鮮人掛 ︵四 オ︶発足して︑右一件吟味之上長崎表にて死罪獄門に
の内妙法寺日蓮上人︑深川浄心寺にて開帳︒此節ぷ張
くの
内
にて
止
な
〇 六 郷 新
田大明神はやる︒
0
中野堀 が︑或時玉凱て人に怪我させしふ相止ム °
改名任官ス︒
( O )
深川にてそば切稲荷はやる︒しバら
の年玉茶わんに限るやうにて有しが
︑是も今ハむかし
聞へて勇ましく覚へしが︑
いつとなく今ハなし︒女中 〇宝暦の末、明和の始までハ大晦日夜——店ミ扇売のこゑ罪の時︑朝鮮人も検使に立たるが︑首を落して血の流
是ハ
公方様巳の御年なれバヶ様に言出したる物やら
年の
人ハ
忌﹂
む︵
三ウ︶日なく︑年中かまひなしと有り︒
朝鮮人難岐の夢と書一冊︑作り物語に書たる物有り︒其 節江戸発駕の御目付ハ曲淵庄九郎殿麟炉戸旦戸[[五
︵ マ マ
︶
其外御小人目付等︑輩る着之前日伝蔵を召捕たり︒死
る4をミて︑朝鮮人上下共手を当て目をふさぎたりと
文字・かや︒殺されたるハ﹂︵四ウ
︶ テ ソ ソ ウ セ イ と て 上 官
失 念
也と
聞へ
し︒
O
琉球人来朝︒〇秩父三十四所観音︑護国寺にて開帳︒参詣群集す︒
0
関東筋百姓騒動ス︒此節︑伊奈半左衛門殿︑備前守と 灌符といへる物はやる︒
O
朝鮮種人参発行︑是か広東人参売買御停
止 ︑ 其後寛政元酉年か又売買御免︱︱
相
由候
︒
O
芝浦ふ壱丈余の魚上る︒後両国ミセ物芝居に出る︑色白く鱗無之︑鮫の類也
名︒
をマ
ンポ
ウと
いふ
︒﹂
宮有
之︒
O
八月大風︑深川三十三間堂吹倒す︒
O
諸国迄なりたり︒此めくり大キに行ハる︒
0
伊勢両宮御迂来る︒半死半生魚も多くあり︑海うなぎ︑こ
ちの類あ
またうかびミちて︑人ミ幣しく取得たり︒され共毒あ にハ飢饉に及ぶ︒天明七
年未の此ハ小売百文ニ︱一合に
かき海にがしほと云物出て魚悉く死し︑内川
うへ
かミ
ふ︒果して段と天気不順︑米穀次第に高直になり︑終
枚余死たり︒納屋か注進ー︳付鯉
一切
払底︑其外江戸ち ︵五 ウ
︶ に しても米穀高直にして︑夫婦離散の前表也とい
れ共絶て雨ふらず︒
壬月の末︑神奈川いけすの鯉三千 くりハ米久離にかよひ︑又女久離にも通ズ0
いづ
れ﹂ 牢︑此時鬼入何となく止ム0此節ミな人の咄
しに
︑
め
後かるた御吟味有之︑八丁堀山城屋やと云かるた問入畑もの抒ハ一向に枯果たるゆへ︑
肴の
価︑野菜ものよ 也︒
O
めくりと言物︑後ニハ鬼を加へ鬼入といふ︒其4有共︑やがて晴て暑気甚しきゆへ︑近在の田
丁
われ
︑
︑な茶せん星ともいふ︒勃星 失 ︒
O
ほうき星出る︒人``︑な稲星といふ︒又異な星と日はじめて雨降︑され
共﹂
︵ 六 オ
︶思ふやうにハふらず︒
0
明和二酉年四月︑日光にて万部の御法会有之︒
O
御堀浚
有ル
︒
︵ツヅク︶
( O )
明和三戌年︑岩舷地
蔵目黒にて開帳︒
O
紀州淡嶋︑浅卿にて開帳︒
O
七月
︑
大坂
雪降
︒
O
同四亥年︑関東筋川
て御手伝御普請︒
O
同五子年︑真鍮銭出ル︒四文ヅ︑にて通用五匁銀出ル0
0
四月五日︑新吉原残ず焼も云︒此の方にみゆる︑ 風邪流行︑虫つく︒江戸にも虫多く飛行︑土俗此虫を
カチ
とい
ふ︒
旱枯
︱︱
付︑壬六月中上より麦
稗こ
ぶじき
?︵
頭注
︑御
食夫
か︶
被下
︑江戸近在︑七歳巳下と五十巳
上のものを除ぎ︑人数毎︱︱給ハりぬ︒年賦にして上納 其後冷つよく段と雨ふりけり︒夏の中夕立
少し斗りづ
り却而賤しく︑又近江の湖ちかき田地ハ百年未曾有の
豊作なるよし︑京都及東海道筋都て旱損︑雨乞度とな 月︑壬六月︑七月まで打つゞき日
でり
にて
︑
七月十八 五六日成べし︒夫も日を隔て時ミふりたる斗
にて
︑六 被仰付︑今年梅雨中雨一切ふらず︒僅にふりたる事 ︵五 オ
︶〇唐鳥色ミ︑両国にてミセ物に出る事はやる︒
‑ 30 ‑
深川八幡町近辺︑
度と
出
火有之中[‑河岸につみ置たる
〇八月︑大風︑人家多く倒
︑
廻船のもやひ切て永代橋 をつきぬき︑大橋前にて止ル︒又壱艘ハ石
川嶋と佃じ
まの間へ吹上ゲ︑
人足にて引出ス︒
0
深川﹂ ︵ 七 オ
︶永
代
杉の葉より出火︑
本所小梅まで焼る︒其節霊厳寺本堂
焼亡︑
皆人申けるハ
︑高野山
を作りたる所へ女人群集
翻 刻
・ 曳 尾 庵 雑 記
院ハ本売女屋の若ィ者にて
︑
売女なども召抱へ候者也 汰も相止ム°髪切ハ狐をつかひて切らせるよし︒大善
寺二築
山 ︑ 泉水をこしらへ︑高野
山を写したり︒其比︑
吹出物するおこり風と云︒
0
江戸中髪切と云事流行︑所ミの祈薦者共御吟味︑入牢数多有之︑其内髪切の沙 院︑髪切の守札を出し候所︑御詮義有之︑入牢︑此節
ハ女の髪を切
︑此節湯しま大根畑に住せし修験者大善 何となく人の誓を切︑其切口ねばりて甚くさし︒多く
御即 位有 之︒
O
伊勢参宮群集︒
O
四月︑江戸雪ふる︒
〇
此風の四五年前に︑風邪一統流行す︒掘疹のごとし
︒
回向院にて八月十一日か開帳︒後水尾院
︑
院の御衣︑衰竜の御衣︑大嘗会御衣冠等︑
あこ め扇
︑
御持念珠︑
種との物披露有り︒
O
明和 八年 卯四 月︑
引かぜにしるもしらぬも大かたはせき るものにはせき斗り也
︑へ
これやこのゆくもかへるも
東福門
るよしにて︑喰たる人多く食傷したり︒町に棗ぐ白米︑
︵ 術 ︶ 百文 に九 合︑ 庭に
︵﹂ 六
ウ︶にある草木も多くは枯はてた
り︒今年冬に至りて犬多く病死せり︒
) ( 0
今年嵯峨の
釈迦
︑ 回向院にて開帳︑但六月十五日汐八月十五日ま で ︒
( O )
同時下総布施弁天︑
本所一ッ目の八幡御旅所
せし へゅ
︑・
其稼れにて出火多く有之由
︑申伝ふ︒後に
ハいつとなく高野
山を止
めにしたる眈世︒泉水
︑築山
を作り︑
其あやつりを致し︵候︶節︑右あやつり最中 道具建より出火闘賃ニ︱︱一町焼ャ°深
川も高野の 咎にて焼失有りしといふ︒〇ある年
︑引
風大
︱︱
流行
︑
家毎1
一不 残大 熱
︑咳噸出申
候︒此時往来四五日之間一
向︱
ーな
し︒
へ
世
の人がミナ引風になげられて﹂︵
七 ウ
︶出
一而
開帳
︒
( O )
京都伏見東福寺の塔中海蔵院毘沙
門天
り︒八月十八日︑初て大雨ふり︑
めづらしき事といヘ
ハ其時のま
4
にあり︒其後︑堺町人形芝居にて高野
山
‑ 31‑
しが︑何としてか修験者二成︑殊の外祈請はやり︑大
造に奢りくらし候︒此時高瀬﹂︵
八 オ
︶船の舟頭︑扇橋辺
にて児をいたし候所︑大︱︱はやり︑是亦御吟味の上入
牢︑ほどなく牢死也︒大善院も牢死也︒髪切まじない
の弼
︑
ヘ千はやふる神の氏子のかミなれバきれ共きれ
じ神のちからに
一向
宗相立︑江戸
詮義有之︑其中に有福の町人などあまた入牢被 死ねバ地獄の門徒たちかな︑そのころ皆申伝ふ落首
也 ︒
0
山県大式︑藤井右門といへるもの︑謀逆を企︑諸浪人と会合するの風聞有之︑其節に浪人弐人︑禅僧
壱人︑此一件を訴ふ︒早速御吟味有之処︑﹂︵八ウ︶恐れ
多き義企候義ハ無けれ共︑不敬の事共多く有之ゆへ︑
大弐死罪︑右門獄門に相成︑大弐ハ八丁堀永沢町の住居也。右三人の訴人ハ言訳不立儀有之、遠嶋―—成。此
節︑織田山城守殿不首尾にて国替被
仰付 けり
︒
肴にいつも法然へ此世から入牢のうきめミるものを
又此義太夫節より世上黄八丈を着用す︒いかなる事に
や︒しかし先年のはやりと今とは違ィにて︑当世ハ派
手なる嶋がら
候 ︒ ︱ ︱
O
俗人大ぜい集り︑山伏のけさをかけ︑錫杖をふり立︑梵天を持チ歩行︑祈濤をなし︑ 物ゆへ︑それより一向にすたり︑着腹致者も無之処︑今 0深JI洲崎1—塩焼場始て開発、去ながら塩ハ出来不申、
其所︱︱大文屋と云料理茶屋建︑殊之外はやる︒
O
先年深川海辺大工町にて︑かぼちゃと川海老と合食し
て家
内食傷す︒其内老人ハ死ス︒必合食すべからず︒
0
中橋おが
町に
︑
まきや薬といふ竜王湯の類ひなる薬商ふ
家有り︒元ハ甚貧なる真木屋なりけるが︑或人此薬法
を教へけるゆへ︑風と売出
し ︑
今ハ諸国まで弘り有福
の身の上と世ならし︒
O
長崎の唄ひ物﹂︵九 オ︶は
やり
︑
が長歌でどふりでかぼちやがとふなすさ卜
云 と
︒
O
昔八丈といふ上るりはやる︒此時比︑黄八丈紬を着用する
事
一統 也
︒中む
かし
︑黄八丈紬はやりけるが︑白子や
お熊不儀の事にて引廻し︑御仕置
成時黄八丈の着︱ ︱ ︑ 付︑余程の騒動也︒へ親鶯ハ淫乱ゆへに妻ももち酒や子供まで唄ひ歩行︑其比のはやり言
ばに
︑
ヘ年季野良 にて帰依する者あまた︑切支丹同やうのよし風聞︑御
一
rL b
イ 〇御蔵門徒と云︑
‑ 32 ‑
来此鯉を取得たり共︑
買取︑不忍の池へ放ちける︒
0
安永二年巳︑諸国疫病流行︑人多
く死
ス︒
日光人参を被下
置 ︒
O
摂励天王寺︑湯嶋天神︱︱
て開
帳
︑
迎の織聰しく︑殊の外評判︑見物群集ス︒しかし開帳
翻刻
・曳 尾 庵 雑 記
公儀より かまへて殺すまじき
由 ︑
戒め約
せし
とぞ
︒
O
同五年の比︑利根川にて捕へたるハ七尺余有りけり︒売に出せしを千住﹂(
+ オ
︶にて金三百疋ニ 僧多くの銭にかへて貰ひ請︑もとの淵へ放ちけり︒已 なけれバ︑造り酒屋の大桶に入置たり︒其所の寺の住
佃町
︱︱
迄仮
宅
出ル︒芳町の野良も仲町に仮宅出
ぢ
〇
南錬銀通用始ル︒文字ハ三井親和筆也︒
O
八月大嵐
︒
0
安永元の冬︑下総松戸にて川を干し︑鯉鮒の頬をとらへ市にひさぐ︑六尺余りの鯉を得たり︒是を入る物 を建立せし也︒此時吉原も類焼して深川仲町やぐら下 ふ御停止
の御
触有
之︒
O
安永元辰年二月廿九日︑晦日両日
江戸
﹂︵
九 ウ
︶大
火
︑朝四ッ時汐目黒行人坂上の寺火
元也︒今寺の跡へ其時の焼死人の菩提の為に五百羅漢 町ミをさんげ/\と云て修行し歩行事はやる︒公儀
を安置ス︒亀戸天満宮︱︱四神門立︒
O
護国寺二臼観音( O )
本所五百羅漢に惣門立︑又さしゐ堂建立︑百観音 ちてお出/\と呼ぶ時ハ狐出
ると
︑`
`︑
な人
見物
︱︱
行︒
り ︒
0
深川茶屋に裾やぐらといふ所出来る︒元ハ芦の の所為也︒其節牛の御前の別当追院1︱相成
︑其折建る
所石の鳥居︑
今猶
存ス
︒
O
安永三午年︑深川佐賀町の者願人にて︑浅草大川橋始てか4
る ︒
O
浅卿観音︑川ロ善光寺︑護国寺観音︑大師河原等︑開帳有之︒
O
中洲三股を筑立て三股冨永町と言︑此地ミセ物芝居︑水
茶屋出来︑
夏ハ
納涼
﹂の
︵ 十 ウ
︶場となる︒茶や人\のて
うちん聰しく︑殊之外に群集追ミ繁花なり︒売女あま
また有之︑此時是を地獄と号く︒後売女御改有之︒又
其後︑
家 作 不 残 取 払 被 仰 付
︑跡ハもとの中洲と成け
しげりたる所也︒
O
上野御本坊焼失︑表御門ばかり残る︒又上野山内の僧侶数多追院︑中にハ重き御方も有
之
由 ︑
真崎神明の境内に水茶屋の婆ミ油揚などをも 辺ぷ戦をこしらへ︑到着の日とて迎ひに出る︒皆山師
ハや
らず
︒
O
先年︑勅額牛の御前へ参候として本所‑ 33 ‑
べ廿三万疋程也といふ︒房の手にふれたるものをもらい行︑高貴の奥方ふ
て木戸を開キ往来常のごとし︒夫か毎夜五ツ時より木 に中番屋を仮にしつらひ︑家主︑月行事︑昼夜詰切︑
︵ママ︶
火消の人数不断︑火の元用心に歩行也︒同廿一日︑
0
還御︑廿日の宵より木戸を閉︑辻とを固る事前のごと
西の
﹂(
+ー
ウ
︶原
︑
事︑凡三万余疋︱︱及ぶ︒都而道中
︑
伝 馬 を 算 ヘ ミ れ
子なき女こ4に尋来り︑色との物を贈りて︑此女
同所天文原に仮小屋出来︑ひき来る馬を追入/\する
梅︑松ハながらへ
︑さくハ十二三にて死す︒貴賤の 浅卿梱寺の後:
新橋の向の馬場︑
て︑道中駄荷の用l
︱あ
てら
る
4o其馬小屋︑鳥越橋の
近比一角壱万斤程渡ると云︒前¢価大二下直と成︒
O
砂村辺1
て﹂
(+
ニオ
︶井
戸を
堀し
に︑
或日
夜
入て煉灯︱ ︱
をとも
し︑井に下ゲ堀しに︑
儀へ訴へ︑被下物有之︒
〇因に云︑此三
女を お梅
︑
お松
︑ おさくと名付る︒
らへたり︒又︑
よせ馬といふ事ありて︑房総¢召れ
柳橋若竹屋といふ船宿の女房一産三女を出生す︒
公
し︒町ミ小路にも木戸なき所ハ竹矢来にもがりをこし炎盛んにしてやけど致ス︒内壱人ハ
即死 と申
︒
O
両国 たちまち井の中¢燃出 ︑
戸を閉︑暁まで往来を送る︒町毎に上下の辻番のほか
ハ御社参下ハいしやさん〇悪星出ると風聞有之︒
O
〇諸国掘疹流行︒ヘ世の中のよくなるはしか此度ハ上 初て安置せしむ︒︵ママ︶
( O )
安永五申年四月日光︑
O
御社参有︑十三日江戸を御かり︑永代橋︑大橋往来なし︒船にてもてうちんを燈
︵ママ︶
し通船有之︒翌十三日昼八ツ時︑
O
御成相済たる由に
り
゜
八百やお七が帯解の小袖を裁縫せしと物語しといヘ木戸を閉︑夜は往来の人を拍子木にて送る︒昼も又し
神田お玉が池の大工喜兵衛が祖母百廿一歳に成けり︒
駕発
﹂(
+一 オ
に︶
て
︑十二日暮六ツ時ふ江戸町
ミ辻
ミ
十歳を宿下とす︒大ていハ御家人の中長寿の人多し︒
( O )
此節︑世上高寿のもの御尋有りしに︑都而書上たる 者十人余︱︱及べり°ミな江戸中の人と百歳已上にて
九
‑ 34 ‑
翻刻・曳尾庵雑記
也︒ふる<住居いたし候者也︒町内
じて近比ハ高尾大明神と云ならハせたり︒
O
今頭而目可遣をかけ︳ ︳ ︑︑ 行所而も是程の手数の中つもれバ二︑少 し
の地
代滞
也︒然るを何ものか︑中州にて死したる高尾が事と混
年余
︱︱
も
相成候地代の帳を残らず持出候︒依之︑
奉
度ミ替り候へ共︑彼絵馬やハ己前
ふ住居致
し来り︑百てなま首を得たる事こそ悦しとて、則今の地1—埋めて 候処︑左様之義二而ハ無之︑地立願 出候 処︑
其地
事ハ
何ともしれぬ女の首︑正月元日此所へ流付く︒武家に 風説あり︒其絵馬ハ則
観音の堂
内注連を曳たる絵馬迄
有之
由
︒江戸中評
判に及けるゆへ︑其辺二而悉<承り つのころ¢か︑高尾大明神と名付たり︒今ハ所ミ¢参 て︑唯今まで相続有之
由 ︑
其時代の絵馬の注文︑
儀へ持
出
申候所
︑御
吟味之上︑其居所を被下置候由︑
し、
公
りと
云︒
O
浅卿見付
外芦
町角の絵馬や
︑地代
滞り︑家
︵ マ マ ︶
主¢地立之儀︑及
0
公訴候処︑此絵馬やハ旧家にて︑頼朝公の時
︑浅抑
観 音 へ 寄 附 の 絵 馬 を 持 へ た る 家 に
く山にて三途川の姥はやる︒
( O )
永代橋御船蔵の地面
ル石
地
蔵流行
︑世上にて因果地蔵といふ︒又︑其後お らしけるが︑ し︑願がけなどせし人︑種ミの霊験もあるやう︱︱云ふ ふ
/\
︑
とはやり唄一統にうたひ申候︒
O
浅卿御蔵前
辺へ夜な/\狼出るよし風聞︒其所にてよくきけバ︑
人を喰付犬有りけるが︑﹂(
+ニ
ウ
︶今ハ何国へやらゆきた 有て︑読経の声と聞へ候ハ数多の蜂の声也
︒俄に参詣
一時の笑種と也けり︒
O
浅草寺境
内に有
の外に小サキ祠有り︒大川端大日堂の和尚勧進したる
由
︑則
堅牢地神也︒所の者ハ御けんろ様と云しが︑
詣も有之︑奉納物もみゆ︒其所の﹂︵
十三
ウ
︶武
家 の 説 ミ 社を建
︑其後大日堂の和尚を乞て︑堅牢地神と崇めし 之︑地蔵の雨覆を取はなし改候処︑後口の方に蜂の巣 へ所ハ両国柳橋︑三ツ子をうんだハわか竹屋︑たんのきこえ候よし︑風説有り︒伊奈半左衛門殿ぷ
御吟味有
幸といふべきか︒申触し候よし︒
O
品川辺二而石地蔵︑経をよミ候こゑ も三女に衣服等給ハり︑大に満たり︒是をこぼれ旨﹂
︵
十 ︳ ニ オ
︶被
仰
渡︳
︳付
︑今以住居いたし候をかよふニ
‑ 35 ‑
陣汐出火︑参詣の者怪我人多く
︑江戸かも駕籠にて迎候由︑終
︳︳
運上
の事
止相
︒
O
旦雇 座改
︱ー 出る
︒質 や
︑ り︒
O
上州にて絹運上の儀打こわし騒動致付︑所と︱ ︱
の疾をいのるに霊験ありとて︑願ほどきに櫛を奉納ス
0
繹 二 幌
0 0
盲人高
利の 金 を 貸 し 候 義
︑御詮義有
之︑盲人数多入牢︑其後牢死も有之︑鳥山検校追放
l‑
成︑又桶川何某と云人も遠嶋二成︒
0
上野仁王門ハ行人坂火事焼失す︒東叡山と申額か︱ ︱
4り有之し︑叉山王の御門彫物等も有之︑誠
︱︱
結構
な
る唐門造りなりしが︑是
も焼失︒其外ハ焼ズ︒其時の 火消ハ細川越中守殿也︒﹂
(+ 四
オ
︶
0
神田聖堂も行人坂火事 ︱ ︱
焼失︑朱塗の柱︑銅瓦ぶき
り候御門と表の御門とハのこり申候︒今の聖堂ハ其後
御建立也︒浅卿雷
神門︑右同火︱
︱焼
失︑
風神
︑
雷
神 ︑
左右
︱︱
し建
門也
︒
O
浄土宗と一向宗と浄土真宗と云︑
御上沙汰と成︑
真の 一字号之儀
付 ︑ ︱ ︱
り︱︱相成申候と︑下ミにて晒いたし候︒此節江戸中町
一万日の御預
人寺請状御吟味有之︒
O
安永六酉年︑浅卿観音︑湯嶋
天神開帳︒
O
諸国風邪流行︒
O
十月︑身延山七面の内 に︑﹂
︵十
四ウ
︶先
年日光中禅寺の湖船禅定とて
︑訟にて
湖の所ミ拝礼いたし候処︑其訟くつがへりて︑乗合の 人数不残湖中へ溺死︑其死骸一人もミヘ不申候由︒又
或年︑中禅
寺の
山へ女人来候
ゆへ
︑捕
へ吟味いた
し候
処︑越後ふ山越に欠落いたし候
︒山路に迷ひ此所へ来
る由申︑元来中禅寺ハ女
人禁制の場所といへ共︑ミち なき所を来りしゅへ︑無是非
︑彼女の頭に草履をゆひ
付︑四ツばいに這
ハせ
︑山
を追下し候よし︑女にハ銭
壱メ文与へ追払ひけるとなり︒
O
先年︑高野山へ女の の女也房
︒
山上の僧に揚代多くなりて︑彼僧
も其後ハ
下山せず︑色
すと
れども叶
ハざ るゆ へ
︑此女房︑男の
舷︱
ー出
立
︑終に登
山し
て彼 僧を
﹂( +五
︶オ 捕へ わめ きし
ゆへ
︑たちまち露顕し︑僧も女も御仕置になりしと聞 登
し山
たる事ありとい
へり
︒夫ハ麓の紙谷宿の売女屋 結構に有之︒大成殿額か4り有之けり︒杏檀の額か4 多かり
しと ぞ ︒
0
日光山中の僧の修験に成たる人の話ひの人多く出ル︒漸半死半生の肱にて帰府するものも
‑ 36 ‑
翻 刻
・曳 尾 庵 雑 記
真木屋︑迎上始る︒又︑何方の者か︑卒土婆の運上願
出候得︑とも不叶︑油運上︑両替運上始る︒
O
神田佐 久間町に︑医学館井神農廟建︑江戸中医師ぷ寄附金を 集む︒願候発起人は御医師多紀安元老也︒環い渭院〇松平陸奥守殿︑深川の蔵屋敷にて花火を上ゲ候節︑江
戸中の評判l
︱相成︑其夜幣敷群集︑或年花火有ける夜︑
にぐるとて上を下へさわぎけるが︑
俄l一人立さわぎ︑
武士の脇差鞘走り落たる上へ︑深川やぐら下辺の老人
転びて︑膝を突ぬかれ︑即死ス︒検使を受て引取
︑其
外﹂
︵十
五 ウ
︶怪我人余ほど有之︑込合候場所ヘハ小児な
どつれてハむざと行べからず︒
O
四ッ谷内藤新宿︑旅籠屋造りー一家を建
︑
飯盛御免有之︒
0
深川佃町海辺の方築立地︑家造り始而出来︑伊奈半左ェ門殿支配
成 ︒ ︳ 一
〇
佃嶋沖︱︱おいて狼姻上る︒其夜に至り幣し︒流星一
本上る︒其両三度有之︒
O
身延山出火後︑同 所
¢ 公
訴之義有之︑僧徒入牢有之︑上人牢死︑又流刑の僧も
あり︒是ハ
不受不施と云︑御法度の宗門をにんとせし
ふ事起れりと云︒
O
上野准后様︑浅卿伝法院︱︱御隠
倉八幡本地仏開帳の節︑神子の女をおすてとて︑殊之
大
有之候処︑喧嘩両成敗は
依田豊前守殿ハ先年町奉行被勤骰ゆへ︑右捌キ方御頼 其
事 公 辺 沙 汰
‑l相成候処︑掛りの役人か︑御留守居
数はやる︒札銀三匁位も有︑其外所ミ︱
︱御免無之︑冨
教多有之処︒﹂(+六オ︶天明八年の比︑博変厳敷御制禁ニ
相成︑
其 節 ぷ 小 冨 又 取 抜 無 尽
︑棒びき紋付等相止申
候︒谷中感応寺斗りハ前ミぷ有之ゆへ︑今も其偲興行
す︒一ッ
目 弁 天 ハ 芝 冨 か は る か 隻 初 ル
︒△豆"蒻
0
神出明神祭礼の日︑文化 九 年 か 楊 し
ま
天 神
︑ 目 黒 不 動 両 所 御 免 の
冨
始 ル
° 其 外 ハなし祭礼 の も の と 水 戸 殿 登 場 之 帰 り と 行 逢
︑ 及 喧 嘩 ミ
東照宮御掟被為置候由︑其
儀︱︱決着可致︑挨拶有之︑町の者皆遠岨ー
一 成 ︒
〇笠森稲荷境内1一水茶屋の娘を笠森おせんとて︑
評判高し︒又其少し後︑浅卿観音堂のうしろ︑楊枝ミ
せに
﹂
︵十六ウ︶いせし娘とよぶもの美婦也
︒叉山下水茶
屋の娘をとんだ茶釜といひふらす︒深川八幡にて︑鎌 取の冨興行始ル︒札金百疋ヅヽ也︒夫より所ミに冨興 居︑其時に表御門二滅金のかな物打︒
O
芝神明に百両をつらね灯し︑又は悼の先キにいくつともなく数多の〇陰門を御事といふ事はやる︒又あしき女をすべたと 詣大群集︒毎朝七ッ時汐諸方の人と集り大念仏︑提灯
らへ
︑及露顕︑引廻し
御 仕 置 被 仰 付 候
︒ 風︑大雨︑
洪水
︒
O
信州善光寺︑回向
院ー
一而
開帳
︑参 深川にて焼止
ル ︒
0
日光御宮御普請御手伝︒O
京師大 も︑成就不致候︒O
安永七年二月十二日︑石町¢出火 ︑
〇印幡沼堀割始ル︒大造成御物入御普請にて有けれど り候と︑本郷六丁目いせや吉兵衛物語り候︒ 出来由候︒寛政三亥年の御触にて︑其年の八月
ハ所 さ
を出し候ヘバ︑蜘の巣のやうなるもの︑指などへか4 時仲町の神酒棺筋り物の内に入り申候ミき橙︑此時は︱天気快晴︑諸人皆花ふり候辿︑空を詠メ居候︒
様 所との娘をミせ/\に筋り外評判壱枚画にいたし︑︑
置は やる
︒
しかし笠森おせんを一番とす︒△い辺
5[
琢
人 介 地 氏 の 妻 と 成 ル
° 此 弁 地 甚 左 衛 門
︑
文 化 の 比 ハ 御 賄 の 組 頭など勤しが
︑
文 化 七 八 の 比 病 死 ス
︒ 今 の 店 地一郎 が母ハお
0
深川永代寺に整といふ字︑七間に八間程の大文 せん字︑ 也 ︒
御成
之節
︑
御成之節︑開帳有之候
︱ ︱ 付
︑筋物可入
永代寺社役
被仰渡其節俄︱1 2 ︑
ぷ訪
物
等こ
しらゆる︒此
じま り ︑
﹂(
+ 七 オ
︶其 後所 ミー 一而 作
り︑猶追ミ美麗を尽し
にて
筋り不申候︒
入上
覧︒
0
同所祭礼の日︑所ミの氏大納言
上覧
旨︑
様御成先キ汐御不例︑﹂(+
七 ウ
︶二
月廿四日 大納言
孝恭院殿と︑御年御
通り筋ミな幕を張つゞけ候︒又家毎二戸を目張いたし
建置候︒其後︑鹿御之節︑御葬送の日誠
△此日誠
︱ ︱ 美
日にて糸遊ふの様成ものちら付候由︑手
〇銀吹場ハ深
J I ハ砂万年町真鍮銭吹場︑
村 ︑
小銭︑づ
<銭鋳物ハ亀井戸︑右三ヶ所也しが︑松平越中侯執政
の時に至り︑吹候義相止ム0又︑先年弐朱銀吹初の時
分︑深川
やぐら下の家守﹂︵十八オ︶弐朱判の似せをこし
御台様 子︑神酒檀と云を筋り候義︑前
ミか ハ
無之︒
拾八
歳也
︒
O
先年︑御台様︑増上寺へ御成之節︑御 戸中皆戸を差︑簾を下す︒奉号 御他界︑江 詰かけて尽夜ともに大群集也︒O
同八亥年
︑ 又是を見物が
てら
出ル人ミ
夜の
九ツ時分ぷ両国橋に てうちんをてらし︑祭礼の万度を持ごとくに持歩行︑
‑ 38 ‑
翻 刻
・曳 尾 庵 雑 記
なし︒又宝暦の末︑明和のはじめまでハ綿ぼうしの看 物を水にひたし︑髪をすく者多かりしが︑今ハたへて
後巻︱ーにあり︒宝暦の始の
此ハびなんかづらといふ びんさしも︑たぼさしも入て結ぶ也︒委しぎ事︑前巻︳用ゆる事︑用捨あり度もの也︒
O
前方下女奉公いた る︒△寛政年中たぼさし出て︑今以﹂(
+ 八 ウ
︶は
るや
︒
の内陣に用ゆる神具也︒心ある人ハ下駄
︑雪踏の鼻緒
の流
行︒
O
湿石を箱入にして売出ス ︒
O
女中の漿さしはやる︒其前たぼさしといふものありしが
︑今ハすた
此比本
多といふ髪流行︒
板ありしが︑今ハ其事無之︒
△ 芦 鯰 謬且°二闘
0
0
世間の人多くハ銀きせるをスゲ
持 ︒
O
女の
小袖
裏もやふはやる︒
O
女のかむる管笠す細見作りの御太刀をさしありく事︑一統の流行なりし
︵ 術 ︶
が︑
叉後にハ丼といふ紙﹂︵
十 九 オ
︶紙入はやり︑中に何
緒の裏は雪踏はやる︒抑︑八幡黒の皮ハ岩清水八幡宮
し候者︑銀のかんざしハ差不申︑``︑な銀ながしの類也︒
ゆかた
雨降節ハ合羽などいふもの少く︑木めんの浴衣を着し た り
︒ 誌 贄
0︱夫も今のゆかたとハ違ひ︑大なる
西 川 祐 信 及 享 保 比 ま で
︑
画 二 渇 上りの婦人のゆかたぞめなど``ヽ
紋のニッ三ツ付たるなど
付たる物なり︒鼈甲の厚キ櫛︑同
るべ
し︑
皆 大 成 紋 三 ッ四y付てあり是也︒
ふとき拌督︑又ハ銀むねのく
し︑ 近
年のはやり物也︒と
すの帯メ候事大ーーはやる︒八幡ぐろの雪踏
︑又
ハ朱
鼻
か︑間もなく其風俗相止
ム ︒
O
此比かばっちといふも着て着物のゑりを咽の元にてメ︑緋博多の帯︑緋どんにも
︑大小を細く栴てさしけれども︑
余り
`
r︑
もと
なく
やらした4かに物を入︑懐中大にふくらし︑長羽織を 〇
細身の御太刀といふて︑細き脇差流行︑武家方など 上るものをし
ほやと呼事始りけり︒
也など4
いひて狂ひけり︒夫よりして高ぶりて味噌を
き帯を胸高︱︱しめ︑髪を本田に結
懐︑
中の紙入
小サ ク︑
気違にして常に大名を我子也︑又ハ我ハ何の守が伯父持歩行︒青地の日傘ハ町家二而ハ御制
禁の
物也
︒
O
細 を︑今ハ通︑又通人と云︒深J I に塩売の親仁ありしが
いふ事ベ
めくりか出たる詞也︒又昔ハすいといひしたりて︑青地の日傘と成ル︒宝暦年中
地日傘青︱ ︱
改有之、停止。其節俄l—日傘に胡粉にてもやふを書て 御
‑ 39 ‑
家へ贈る︒此節田沼主殿頭やしきハ数百首有之由︒
O
く︒前方ハ大晦日宵¢参候︒△ 近 来 べ 冬 至
︑大晦日
< ヽ
︱二尺も延たるを花だんにも植︑鉢に植て︑権門大晦日の夜も来る︒是近年の事也︒
O
近年︑大神楽か
殊—ーはやり、種ミ花形、色合なども違ひて、珍敷物多
が︑其節厄はらひ来る︒冬至の夜厄はらひ今ハ来る
︒ 方ハ小キ草にて三月比三
銭位にて売歩行し処
︑近比ハ
二挺
﹂︵
廿
オ︶鞍と号し︑殊の外はやる
︒
O
桜草ハ︑前ゞ`
`︑
を合
せ候
事は
やる
︒又
︑ 一
人して大つゞミを打を︑ 致せしが
︑度
との類焼に︑昼夜売歩行けるゆへ︑今ハ
して︑遠くゆきすぐるをみて︑跡ふ追かけ買ふやうに
ず︑
放蜀にくらせしハ有がたき事共也
︒
O
宮古路薗八 結やうまで︑下賤の風上にうつり︑歴
ヽ こ
の武家方の奥
文使など4いふ物︑近比出来たり︒
0
深J I 茶や向キに
て︑上方女の髪の風を結ふものもミゆ︒
O
女かミ結と川
︱︱
有て
新
内ぶしといふ物はやる︒新内ハ仮の名にし
て︑実ハ本所辺の小普請の御家人也
︒
と云大夫︑ 一生露顕もせ
上方¢下ル°冨
木豊前大夫此時はやる︒所
との
娘子
供︑
此ふしを語ル分ハ桜卿の紋所を付︑髪を
切て若衆たばねに結ふ︒
O
又近
年︑
一︳ 一
絃 ︱
︱笛
︑太
鼓︑
つ
云女商人出来申候︒
O
霜賀新内といふ上るり語り
︑深
短冊にこしらへて売
︑叉生霊祭︱
︱杉
の葉
斗り売しも︑
今ハいがぎにこしらへて商ふ
︒
O
前方ハ酸をバ冬斗り飲しが︑今ハ四季ともに商ふ︒浅卿
門跡前1一あま酒や
出 し [
5戸
辻
王四季共に売しが﹂︵廿ウ︶始メなりと思
ハる
︒又︑前方ハあま酒売︑そばうり︑夜斗り歩行し
が︑買人も遠慮がりて︑手
前の家のまへにてハかハず
誰とても無遠慮︑わが家の前二而買やうにハ成たり︒
浅月門跡前︑横山町名物也︒近来所と︱︱
有 ︒
O
或年
︑ 御 城 に て 取 行 ひ 有 と て
︑
冬至の夜豆を打はやしける
りけり︒
O
七月七夕に
︑色
紙の
``
ヽ売
あり
きし
が
︑
今ハ
向︑町の風に化せらる4もミゆる也︒
O
町飛脚︑或ハをうりしが︑今ハけづりかけにこしらへて売やふにな
てかざりにこしら
へて
︑売歩行︑又けづり掛も柳の枝 かく近比
ハ﹂ (+ 九 ウ
︶目立事を専らにして︑衣装︑髪の正月のしめ筋り︑藁にて売歩行しが︑今ハしめになひ
‑ 40 ‑
翻 刻
・曳 尾 庵 雑 氾
0
近比︑ 三軒¢少きハなし︒姻
卿のはじまりハ一の巻に委し︒
らく焼と云流行︒所ミにらく焼を商ふ店多
し︒素人にても楽焼をする
人多
し︒
△取わけ宜物出来
しべ寛政の比︑﹂︵廿
一 ウ
︶水府中納言様︑御庭焼を後
楽園と号し︑誠︱︱精製に遊しける︒文化の此ガ楽焼あ
︵本 文︶
まり多くハなく也し︒
O
竜吐水といふもの︑始
て町奉 或ハやにぬきなどいふ事出来て︑刻たばこや︑壱町に の
小
山田︑今の女中ハ国府まじり也︒前ミハ館のあら
文と呼うり歩行しが︑近来木綿高︱︱直相成︑百文位二而
路政のはじめ比までハ七十二文︑
八十文位を上
とす︒尤銭六メ六百文也︒文化の六七の比ハヒ
相 成 候
︒
△
前方ハ向坪紙大かた半紙上田二限
/文也︒手ぬぐひも百
四文︑百八文位二成︒る︒但︑中位の人まで︑今ハ小半紙小ぎ<︱‑なる︒小 行所¢町火消へわたる︒
O
硝子細工大きに流行す︒ギヤマン彫︑
目鏡
類︑
又水晶印など此時¢はやる︒浅卿
︳ ︳ 唐
物 ︑
叉ハ硝子を商ふミせ出る︒惣肱に唐物︑阿蘭
主︑地代滞て地立︱︱相成︑社退転︑其跡へ借し長屋建
一夜の中に倒れける︒夫¢又社ハ前¢結構ニ
成︑六月祭礼の節︵参詣群集︑氏子も数多二成ル︒
O
浅卿低音︑三社権限の脇へ石碑立︒
O
浅卿三饒前と深川
大橋にひびくにミせ多く﹂︵廿ニ
オ︶ありける︒今ハ絶
形を押たるを`ヽヽるに︑半紙︱ばい有之候︒
0
前方ハ角力興行︑晴天八日也︒近来ハ晴 天
十日
︑ 叉
近ごろハ秋すもふなく︑寒中にて興行いたし候︒
O
芝0
江戸浄土宗の寺とに︑円光大師拝跡二十五ヶ所建︒元 酒 井 雅 楽 頭 殿 中 や し
( O )
小網町稲荷堀︱︱田沼殿やしき普請有︒
江戸
︳一
而泊
て売
ル
°
たし
候︒
O
近比︑南部宮古の梅潰︑皆人賞翫す︒今ハ 居も前ミハ土用中ぐきっと休ミ候処︑近来ハ暑中もい 切と云はやる︒△文化三四の比¢︑酒むし︑
丁子入︑
てな
し︒
O
釈迦嶽といふすもふ出候が︑大男にて手の 半紙近来はやり申候︒O
女中のたばこべ
五匁八文位
ける
に︑
¢甚しくなりたり︒
O
前方ハ手ぬぐひ弐尺五寸三拾八陀ものはやる︒O
八丁 堀 松 屋 河 岸
︑ 磯 部 大 神 宮 の 神
衣装にて︑物日/\にハ歩行也
︒ ﹂ ︵
廿一オ
︶ 文
化の初年 に大神楽絶る事なし︒角兵衛獅ミ︑女大夫など立派成 ハ
勿論
︑元日か八月十日
など ハ
別而大勢来ル︒四季共
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