九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
Two Works left by Chu-hui-an
楠本, 正継
https://doi.org/10.15017/2328826
出版情報:哲學年報. 14, pp.1-28, 1953-02-25. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
1
"
米子砒愈法などの荒政は人間の蛾も捉はれない旗い立場︑全髄的︑無的立場とし一﹂の同胞愛︑︵此辨については別に
詳論の磯會を持たねばならぬ︶の武現鞍u概とし︑辨理に即した加没がその大用︵大き証作用︶とI﹀し棚立される所
朱晦庵の二泄業 米子の大學章句花教本とする一系の思想は全撹大用といふ理念の下に︑末木から北︑明を経︑消代に瓦って大きな進股な遂げた︒右進於の結果として生じたものほ︑一に注蛮除政治經濟の面に於て︑米子の批倉法等に由来する號政︵凶年救濟の政︶施設の繼汰となり︑二に辻學術の面に於一﹂︑その俄側經仰邇解に由来す涌北大な燗制︵民栫︑悩習︑制度共他︶の研究となった︒そして︑此思想の教木が大學漱句であったことば︑大學術鎚及び同捕などの著述荘生み︑吹汎な政治技術とその迩徳の教育思想荘組織した︒拙柚﹁奄髄大用の思想﹂︵日本中圃會を報莞四︶ほ此間の事燗牡明かにしたものである︒しかし︑そこに止まり︑北子枇介法永どの蛯政︑北ぴに俄州經仰飛解そのもの︑械討には及んでゐないから︑以下木柚に於て此黙を袖って世き度い︒
朱晦庵の
=
一
一一
▲
遺 業
楠本正繼
」
︑bb︑Dも即ち︑か︑る意味で同胞愛の紬榊が生かさ薊忘爲には︑現疫存在に適した絲辮で具鶴的な施設が緋まれ・なけれぽ不
可能であり︑雌なる愛の心だけでは案脹に陥るが︑逆にその施縦だけでばまた無意味であり︑人間が自由淀失って現
蜜性の奴隷になるから︑此施設によって生する利益仕その主1同胞愛の締祁に包まれ︑自らそだに蹄っていくので准
ければならないといふのが根本の考へである︒然らば︑右吐倉法等の内葬念如何た愚ものであったか︒
米子肚倉といふ施設が姑駒七没けられたの匙宋の乾逝川年の一︲|とでおった︒針時︑建寧府楽憐縣に家居した米子が
飢伽牧濟の目的で豪家に勧めて所撒米を出させ︑仙矛下げて之を施した︒次で︑隣坑に雛賊起り︑人燗碓恐︑雌秋○
米も亦つきたので︑米子歎縣街肋に巾し一﹂常半倉の恂米六両布滋諦ひ受け一﹂郷人に配給したしその結果︑綱中飢餓蛍
菟れ賊に組するものもなく︑間もなく︑蹴定に卯した︒此冬︑收磁があり︑右の米は民間から返上したけれども︑米
子は常干倉に返納することの猫豫遊求め︑︸i−れ芹一元米として里中の民家に貯へおき︑年為の豆︑出蝋者に對して毎石︑
利恩米二斗の約束誼以て庇し典へ︑歳弊に收容す涌刀例とし︑小不作の際ほ利恩米潴半減︑大不作の際は全苑十るこ
と芹一定めた︒撤し︑山杼の細民は貯城の力なく︑祥迩の交︑燕米すでに雑言一る︒そEで倍袖の高利荘出して紫家から
擬食する遊蒐れす︑叉一方︑常千倉に藏された竹米欧州脈の嬰地に冊在叩て︑恩忠の及ぶ所市井の人に制莱り︑法規
雌愈のため︑關係竹吏の辨勿れ主炎キー来たし︑かくして疵出しの機含少く︑浮壌聚竣ルーなつ二︲一食へぬやらにたる有朧
であったから︑右の方法ぱ速力細民の困窮杜救ひ︑恂米の撤陳代謝が出来︑一蝿・剛得の埜所があつ一た︒此祗倉哉跿後
十四年間匡妓初併り出した北米衣川布荘常干介に返納したトー︑機倉三間に貯職され︾の米三千一両柄シ↓なった︒其後は
利息米遊や弘七毎打二升づ︑の椛米遊牧小るに止酌︑米子自ら士官及び士人欺人ルー共同に杵瑚卜︑敏散の時には府に に成り立つ︒ 朱晦庵竺︾泄業
一 一
k
巾して縣官一人注派泄し一参﹄出納遊朧脱させた︒かく一一︶︑一郷岡五十里の間凶年シ蝿倉左統がないぞ勺にたり︑前後三
十年の間には貯藏米五壬小にも及び︑里中凶年無しといふ寅紙をあげてゐる︒︵以上︑文言︑延和奏割Ⅶ︑Ⅲ九九︑祇倉
郡︑附女︑父丈八○︑補州流郷鯨批介籾琴厘所訊斌倉郡目安九九︶は洲東地方の荒政に鴬つた些寸が︑栄笈縣に於ける
經馳により︑責施の條目逓作つ一﹂奏上し︑一般に頒布され毎趣くに及び︑且つ久しきに亙包や一り計ったもので︑次の経験により︑寅施︵
やうになってゐる︒
一︑毎年十二月諸却︑毎年十二月諸部
Pに淵らせるQ
一︑右係貝の割
︑右係貝の到 一︑疵出しは毎年五月下旬︑米の端境期に於一﹂し︑その際には︑弧め︵四月上旬︶府に申請し一﹂その縣の浦弧官︵食
マ ス ト
︑ 〆
も︑らぬから浦︑怠惰柔弱でたいか白磁︶一︑人史︵仙話の吏︶一︑斗子︵升皿︶一花選探派泄虫年︶︑螂官と共同に事 落の献首︵五十人井︸一組とす愚肚倉の首長︶保正︵十人粗の顕︶同副﹁以上何れも民間人﹂に分
荊委任し一一﹄︑名諏遊鑿理する︒帳面の上で諸種の隠伏者が發見されたならぽ︑祗首︑院長︵人数細の長︶が尉司
ネホリタヅネ今ア︵日付役︶に云弓一姑追従し一︾ぃ縣に引渡し︑引致の家︵手引したもの︶も根究し一一﹂罪する︒これにょつ一毒し︑祗内の
蛮貝数莚計算し︑次毎一月中に新名簿キー以一﹂郷官の鮎橡井受け一﹂︵漏落.墹添あれば︑訴人芹許し︑吟味の上︑縣
に云つ一﹂根治する︶欺りがたけれ蘆︑その漣で人口キー啄決︑米穀淀指定し一﹂︑大人若干︑小兒はその小泄し嫁ずる︒
従出しの日には各戸毎に諦米状︵後出︶芹痔参させ︑これ壮帝雑に對照し一﹂裏書きし︑監官此壯辰Tろ一﹂配給す
来を待ち︑
を後にし︑一日一睡域︶
朱昨庵竺一辿柔 ザ③︒
一介に告示してそれぞれ期日花定め都︵臓域︶鞍分け一︾︸配給する︵速力壮先きに︑近所
一日平均收入六百文以上に該餅するもの︑・叉は自冴生薬があり︑衣食逓妖がいもの辻賛格
一 一 一
一︑返納の時も嫌出しの時に準いた手絞を取るが︑疵出しの時と逆に︑近所荘先きにし︑速方を後に狐し︑一日一厘 一︑若し幾年に鴬って官米粧従出すこ左註荊ふものあれ懐︑剛介堆開いて一介を残し︑飢繩に際してこれ滋開き︑専
ら深川蛎符緋田の外松葉のない民に賑從し︑かくて訓節キーはかる︒
一︑従出した米は奉一になって︵十一月下旬荘過ぎ魎勺箔に﹀返納するが︑先づ十月上伽に日井定恥て府に上申︑上記の
マスト⑪リbや係竹が人史︑斗子キー帯同して來蒲︑公共且つ概得のないや勺に受納する︒燕例ほ毎布耗米二斗キー牧めたけれ淫も︑
モト︒へり今これ潴收めず︑た鴬毎布三升誰收めて︑所訓折燗︵元米減︶叉は係人の伽米に術へ︑その米も正しく期日キー記帳
一 ︑ 朱晦唯の三辿業
と認めない︒撮出し注誰鐸ものほ期日に脳じて肱︵︸r一Nに大小のⅢ独荘川説する︶を具し︑十人を一組とする保を
結んで瓦に堂任迩持たせ︑十人以下はわたさ唖︒︵粁戸︶親しく翁に赴い一﹂米遊誠はぬぱたらぬ︒砒員保正及び同
副︑隊長︑大保長︑並びにおのおの念に赴き︑杵疫験遊し一﹂保の弔獅に對脈し︑偶人叉は頭複でたいこと遊硴めた
後︑嬢抑︑保論する︒︵献首︑保正等の人が保諦の俄裕ないものほ︑炊竹︑即消祗倉群理の何れかの黄任者が保誘す
ることで許可︶その日朧宙︑郷竹と共に術に入り︑右の壯によつ一一﹂順次配給す為︒保誇不硴磁︑叉は怖弊あるもの
は訴人することを許し︑堺怖に雌じて虎分矛一行ふ︒その除段喪りに側から従出しを阻止することは出来ない︒同時
に︑従出し鞍噸はいものにほ之壮弧ひない︒
一︑米荘牧支するには規定の蹄辮を使用して公平腫泄らせ︑現場では門の内外に出入する係りの人激と一定制限し︑
︸︲↓れ等が混雑に采じて請求遊制打取ることと防せぎ︑若し不正があったたらぱ︑被審者の告發没許し一﹂軍罰左施
す
二L上 』
Lて收支する︒
城とする︒牡杵︑除長各戸に告げ一﹂相戒め︑一様の乾伽粧米︵上く乾したかたいもみ米︶矛遥り︑狄雅且︿へ︵同保
マストリほ共に一壯として我任註狩た菩勾︶介に赴い系父納す③︒監官︑郷宙︑人史︑辻丁などこれ寿交紬し︑表りに期日
↓︑異トリをⅢ節︵はrみ︑仕切る︶したり︑数に過歩茅﹂多く皿らぬ︒餘平ぱ給米の約束によ一弓今年收米の人小︑斗子は首
尾注知る必要から︑次年炎出しの時まで交替させた︒
一︑米を收支したならば︑その縣で給する所の印牌︵切符の類︑﹄これは後出脾子ルー共に︑朱子別築一○に︑朱子が南 康軍で使った雛形が戦せ一﹂ある︶を毎日牌上し︑蛾後の日に︑総数を其乞一﹂府縣に告げ︑そこの帳面と照合する︒
一︑收支の日毎に飯米並びに路用とし一﹂前記派泄員︑祗公係員共他合計二十四人に對し︑計三十六布二斗の米を給す
る︒︵各員の任務︑滞在日に脳じ一﹂兼等芹ろける︶一年剛次ゆへ六十布四斗と蓉匂︒これに︑毎年の坤展修補穴どの
ため︑米九打︑以卜通計六十九布四斗没計上する︒
一︑右十人一組の保をつくる時の法式を定釣る︒その内には某里第轆都︵歴域︶の斌首某人︑餅識郡の大保長︑陳長
とともに細制排列した都内の人口とし一﹂︑一組の大小人の口数︑居住の地瑞遊著し︑産戸︵商人︶は庶錐︵一日平
均の收入銭︶の額を開説す愚︒或は内煙︵州人︶耕田︑開応︑買寅︑士茄︑外來︵これほ移入の年斗諜く︶註戸毎
に記入する︒一﹂れには大保長が料希︑誇印し︑隊長︑保正︑同副︑就杵が各癖名して表任滋負ふp
一︑次に︑上記誌米壯の式があげられる︒保頭︵保正︑同副か︶組内の各員︑大保長︑除長︑保長︑祗片等署名し
て併用の各両一坐數並びに返納の米の期限︑性賛︑耗米の加煉な塔矛約し︑保内の止余︽︑諏岐に對し︸﹂蓮辨査任キー負
ふ
︒ 一︑〃收支の米布は祗首︑保正︑同副が隊長︑保正に告げ︑隊長︑保正が各戸に告げるのであるが︑除辰荘縦ぐ時には
五朱晦庵2一通業
︵右の内︑都︑保などの正を定めることは張安瓶の保叩沙を本とするもの↓あらう︒朱子の泰こたよ三﹂諸路に下された献介法が
︑︑氷史食武志に兇一一全Lゐるがこれ仕十家キー保とな︷9とおり︑右朱子邪目で十人を保となすのと相迩がある︶
右堺日の後につい一﹂ゐる米子の奏文及び辛壯延和奏剖四︵前記︶によれば︑辨目によつ一﹂祗倉駐立一生ること非一噸ふ者
には北米とし一﹂は州螺の常干米牡従出し︑郷人中の特別な人士に我任堆持たせ一L牧散滋主らせ︑毎布利胤二斗左欺め
それが兀米の十倍に成った時に元米芹肯に返し︑其後は利恩米で牧散し︑毎滴耗米三升芹︸取ること︑又術人の特志家
で米キー出し一﹂元米とすること性願出でるものにはその便に從ひ︑利息米が滿ちれぱ返納させる︒叉︑郷土風体同じか
らいものには史に獄しきに随って約孟立て︑宮に申して遵守する荘許す︒かくて始めて︑久遠の利と六る︒その上︑
ナザヘヅ〃ん設世を伽は種所では︑宮司が抑勤すること駐得ない定めゆへ︑騒擬に到らぬと云ってゐる︒︵朱子文集八○︑難問乖南
轆縣侭氏批な記にも蝋ぃ雛沁・へら狂﹂ゐる︶此奏術倹惇脈八年末には聴許を得ており︑器地に下され︑諸所に斌倉の設世
芹見たのであるが︑今此唯に開心壮引くのは右献倉飛目の内容の待つ就含的經濟的慨仙ではたく︑またか︑る方面の︲
朱晦咋ご一泄業六
各戸で祗海について陳怖し︑祗首が公平にこれ逓補ふ︒︵献首が無ければ前記尉司に告げ一﹂定める︶ゼフカギー︑抑替や餓錦は郷禰公共に分掌し︑大口の收支ば朧官の械印証要し︑零粋の出納は郷官に黍いて公共にとりきばか
せる︒務めて均平逆要し︑私邪や人悩ごと荘許さない︒
一︑典年に遇−2﹂農家价米註願はす︑七︑八月に至つ一﹄上記産戸で誌噸するものはこれ駐許す︒
一︑批倉内の段宇︑什物は守倉人が平生切に注意し︑蟹損︑借出︑他用しないや一勺にする︒損失にあった時には郷官
鮎棟し︑守倉の人の女任と問ひ︑喋少の掘壌は逐時に修難し︑大改造を要する時には臨時に原因と典して府に告げ
乞米布遊支出する︒
’
L
史的堺燗でもない︒然らぽ何か︒それは寧忽那目を通じ一″︾見られる朱子その人の考方である︒朱子自身の語転用う
ソクリモチスヂミチトリシマリ三︑カク
れ髄︑誠倉那白の規模綱領を創立提報し︑その條理とし一﹂緒明ならしめ︑綜理をして繊密受八○祁武軍光深孵砿刎記︶ないしめ一︾﹂ゐ一︒此人の思想傾向で亨包先づ︑右砒意辨目遂見一一﹂何人も菰づく一﹂とはこれが飽くまで佃條とし一﹂︑注意
深く抜差しならぬやう︑擁排され一︾﹂ゐることであらう︒︵右に一凌那目逓あげ一一﹂︑頬迩厭はなかったのはその燕と不す 篇でぢた︶前述の如く︑砒倉法朧その根本に同胞愛の締紳がある︒そと﹂︑此締紳一百蝉同胞愛といと:種
子念その沌肺の状態駐脱し一﹂砒倉法といふ多枝多莱の樹木と成って繁茂しなければ託らないと考へた所に︑朱子が周
職放師父散辿人の官を誠んで︑その制度の詳細な勺︑古人が心思滋つくし︑しかも叉其糒祁詣法度に化し一!↑演政荘行っ
た邪に感じたわけがあり︑愛七九︑飛獅府沁陽縣大剛批介記塞照︒舞十鮴介法の柧本邪念は・す↓|に周職に在ると一パヘよう︶その
恩おの面口が見られる︒そこに始め一︾﹂全侭的姪耐た立場が大吉淀作用とし一﹂瓢現し︑雨者が相即する︒所訓︑全鵠大
用とはこれに外ならない︒然らば︑同胞愛の粘紳な何故にかくないなければなめなかったか︒南康︑次いで湖東地方
逆襲った飢鰹はこれ等の地力で政治の局に満った朱子に所訓︑磯訪︵此字は数左出一一﹂ゐる︶叉は鶴察洵究受一方級
納応服柾測合奏票郡件状中の文句︒締馳によ2﹂間ひきわめること︶の機會駐典へた︒朱子はこれにょつ一﹂深く人心物怖荘知
る糎至った︒朱子丈難十六及び二十に見︑各勾幾多の奏欣︑・同九︑十Ⅷ巻に見魯勾諸公移ぼ備さに此那街荘謬§これ
等に上肌ぱ︑南康の炎傷は從來政淌家の常套手段である祇礁やお座なりの巡脱など遊以一﹂し一﹂ぱ︑何らの礁腱も効果
哨雌く︑悲惨の状堆呈し一﹂ゐた︒朱子は此那荘繰返し述べ︑その救済方法とし一︾﹂︑蒲麥︑大小麥な涯一荘植﹂多﹂食糀と 補給させ︑布堤修築の工羽荘起し一一︲︾舟苓き花使にすると共に飢民に食を典へ︵尤潅初が迭晦庵南師と題する詩で推就蛙
カヒョネ虹甜火塊と︾五つたのはこれ弄錫るi潟娠祁髄中︶米穀の脇武に上って利没得んとし一一﹂牧繩する︸rヱギー蕊に︑又税金記祁減
朱恥唯2一通業七
朱晦庵墜一辿乗八
し︑軍備と桁き︑常平︑装倉の米潴發し︑桝戸の出米を牌諏︵前出︑印牌参照︑これは擬入れ︑併し︑爽渡すこルー遊禁︲
じ︑犯すものは︑愛けた考も典へた君も共に制され︾g﹂と牡記入︶牌子︵同上塞哩によって支給し︑叉出米の術民に對
する椎武壮とひ︑且つわづかに死亡転免がれた細民︵それは大病から新たに起き卜ろたものに異らぬ︶逓仙話して回
復させることが大切な−9M註力識し一﹂ゐる︒︸﹂Lには耐倉邪目を椛成する幾件かの細かい方法が取られ︸﹂ゐ為が︑こ
ウリョネの露には各種の訓究に辨心左用ひてゐることが目立つ︒例へぱ︑献家につい一︾しは雑出の除裕あるもの︑紙いものに
分け一﹁﹂︑各の戸数︑除裕の穀數︑小作人などの枇猪︑その爲の米数︑中庵者については︑自足し得一一しも︑小作人六ど
カヒョネの食莚滿たし得極もの︑戸数︑小作人などの姓我︑不足の米粒逆調べ︑共仙︑下戸緋米溌専寸るもの幾家︑その一りち
9門壮作るもの幾家︑戸名︑大小の人口︑別に經緋する所の錐︑田駐作らぬものの戸名と家敬︑大小の人n︑經擬する
所の業︑他人の田荘作る幾家︑各の戸希︑地宅の名︑大小の人口︑燕業の種類などと訓禿す︾弓︵別九︑取介杵下祁笈唖川
家及閲食之家︑久制論上戸一縣帷賑報米欺円寒照︒こ匹屋戒数がわが三﹄ゐる︶或は又︑縣毎に地岡遊作り︑川川︑水陸︑路經︑
人戸仕止の場虎駐謹き出し︑賑雑︵救済のための出米︶出來ぬ家︑出來一肉一家︑及び賑濟を要する家につき︑それ零れⅣ
別色の筆を以一一﹂閲んで印しをつけ︑逢一仔細に枇名︑大小口数鞍噸痢させた︒︵別九︑行工一嘱抄荊賑賊人戸︑同︑行垂一螺
︑b慨場︑叉︑詔一○六寒照︒こふでは洲束で同様の方法を川ひたことが記してある︶か凡る訓森が如何に寅怖に即唯し.誤兼無く
︑︑責悪比に及曾かや一勺に行ばれる︸﹂とに意を用ひたかは施行朋食未識抄倒人等羽前一○︶寒寅轆濟約束︵川︶などにも明
︑に窺はれ︑辿淋あれば訂正キー伸らたかつたことほ施行場所未識抄倒戸舸一○︶で分る︒又︑朱子丈錐十三延和奏
荊三によれば︑朱子ほ其後湘束荒政に街つくか上る調奔が常吏の自符︵勝手た振舞︶と術家の訓読︵言分け︶の爲
凧雌と生じて實数を得難きことを云ってゐる︒
I
か︑る訓森と内群とする施策ぼ災霧現場の綿辮な検在を行ふことによつ一﹂更に雛かさ左垳す︒此爲に朱子の唯つた
方法は︑先づ現存の苗畝を検し︑次で炎傷の田段左梅して︑未だ收刈に及ばぬ内に厭鷺荒熟の分数花見ておき︑然る
後︑熱田粒除いて荒畢の場庭を細松する︒又︑大約両倣の内︑三︑五十畝成熟営勾ものを熱田の激に入れ︑百畝の内
一︑二畝まで桁成熟せるものは荒田として取扱ふ︒田面大概黄熟し一﹂︑その中未だ穂を出さぬものあり︑出して青筌
たるものあり︑︑死なるものあり︑これらは並びに荒拙の部に入れる︒此睡別荘見藩さぬやうに注意する︒︵別九︑杵下
雌澗帆約束及幽一通川段毒照︶かkる洲在が法意と髄し一﹂遮定に行はれた場合には︑民衆が喜んだことは此虚に事蜜があ
がってゐる︒︵た野これが熟刑の・一庇一角逓途一霧脱し一一に繁林にたれば︑却つ一︾﹂炎傷の人民を擬す﹀﹂と莚米子は恐れた
が︑.又公正荘期することの困雌たことは︑同︑松雄乾逆振抑稔硯孕傷の一文を見ても分ることであふが︶朱子はかく
ウリ弔ネカヒマネ災侮現場貧術の武備逓調衣し︑その上に立つ一︶米穀雑︑僻の樺路逓考案し︑南康地方救荒の子逓打ったのであつ
乞︑諺ての結果二繭九千五両七十八戸︑大人十二繭七千六百七口︑小兒九繭二百七十六口荘救って汐弓︵削記︑級紬.:避
祗倉撫仙荘奏上するの確信は此州に熟しつLあったといへ一弓然るに︑此硴信は朱子が淋東救荒に従躯するに及んで
一聯切斑となり︑牡倉郡目がそこに結岱するのである︒即鵡︑朱子は湘東地方の災霧に営り︑祇礁や一時凌ぎの悩行
手段では如何ともなし難き淀知り︑孝宗の知遇滋得一王叫上一心に及んで︑新らしい策と一芸﹂心血花そ︑いでその救濟に
課した︒奏抹荒郡血欣茨一さによれば︑そこには此人の行勤と導いた商い態度︵同胞愛Iこれは此際の朱子に於て
ほ直ちに天子の心と身に髄すぁこと上たってゐた︶と的碓な知識に本づく吸い信念とがあり︑その態度は樅乎不抜で
トモガラ
あ︵〃た︒我友に興味があるのは此辨に外なめ洗い︒︵民壮韮肝同胞とし物を毒岬典として︑一脱同仁の愛矛溌く張横渠の西
銘の思想に對し︑朱子が異常の熱意滋待つてゐたことは語類一○六によく表はれてゐる︒南庶時代︑変際面に於ける
朱昨朕ど一世柔九
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朱晦庵2−泄乗一○
此人の妓大の關心邪は同胞愛の蛮現とし一﹂の政論施設と︑︑鹿洞書院の復興による教育施設の二つであったら勺︶清
朝の朱止糸は米子の行政愛民等の置邪が所訓術吏︵法と奉じ一︐︶過失の無いやうにやつ一︾﹂いく育吏︶と逝かに別であつ 一﹂︑全髄大用川部となし一一﹂見一母へからざ一g﹂と︵同胞愛と施識とが一身同慨滋成す︶駐桁摘した︵生十叩以考略拠聖が︑
それは深く米子の那業の性伐逓洞見したものである︒
8︐℃b李三﹂︑︐同胞愛の心は誕悪注生する施設となられぽならぬ︒古井田の制ばかkる意味転梓つもの上考へる學君もあっ
たけれども︑米子は此制度がすでに時代に相脳しくないものであることを知ってゐた︒︵語一○︽△朱子は老へる︑湖東
諸州荒撒のりち絲興府の飢荒は蛾も性しくへこれに比すれば南康の飢繊はたほ樂歳であった︒即ち︑蚊も熟せる所で
小牧に及ばず︑共他は七︑八分から十分一に過ぎぬ所があり︑黍く收入がない所もあり︑淵山等六縣雅論すれば平均
收入十分一に過ぎなかった︒されば︑朝廷︑米二十四画七千布︑鰻九繭批荘出し︑術︑婆州からの融通︑義倉錨三繭
八千七十五随一百文︑明州の義倉米五千布が到着し︑州縣も日夕賑濟をつとめ︑術吏のやN求滋解するものも皆奔走
し︑寄居の士大夫と雌敢夛﹂斐居せずといふ其合に意逓閉めても︑飢民荘救ふことが出來す︑︵詩類一○六にも街時
の救荒紫が時機手段を失し︑街悪民に及ぶ無きとと注云ってPSその窮状は上下に及んで︑持物を凝りつくし︑便
よりも寅却の能不能が問題とたつ一︾﹄おり︑撰入せんには筑店に総無く︑併金せんにぼ術家に力無く︑蕊業あるものも
技遊州ひる所なく︑運終するものも侭物な喪る所なく︒:.死亡するものも多かった︒︶﹂れは何に因るか︒米子は其原
因荘求める︒即ち︑紹典は地狄く︑人口糊密︑産する所は用に充つるに足り永いから︑幾年でも隣那にたよってゐ
る︒又︑宵銭な民に厳し︷一﹂紺を納めさした所訓和画法侃承のため︑互術の家無く︑水半に連遊し︑粂匁一﹂獄麥を夫
ひ︑些少の積戦も存の初めに出しつくし︑術家光︒つ己に窮乏し一﹂細民給淀仰ぐ所なく︑狼狐念辿︑以卜あやうになつ
たと老へられる︾大抵飢繊には派分以下なぃぱ椎趾が出来る︒侭ル︑五分の米溌十分の人に給寺︾e︲|と&なるかh
なぼ活き得よう︒然るに︑荒九分に及べば一分の米滋十倍の人に給する乙去↓ばやりにくい︒史に︑此無州荒計蝋の上
から数へてみると︑次のやるな︸参︲一と上.なる︒上記六脾の田二両寓畝︑毎畝米二打︑歳收四両膝汝布︑渚繩統計の結果
を用ふれば︑六縣の貧民約百三十寓口︑術家を併せて両川十測な下らぬ︒薮上︑丈ニハ券抹荒鞭從状FLよる︒久恭紹興府椰
監賀肺之不抄荊飢民状など人Ⅱ洲盃に關辿する肌紬分る︒殊に鮒一○六に嶢猟数を符ることに排しぞ毬に瓶天趾の方法を探川したこ
とを治ってゐる︶これが毎年四両繭禰の米で養はれ為︒︵上川及び州用芹除けば︶これすでに日計二升の激に及ばす︑所
謂樂歳でも餘椛ないものたることはすでに偏而有縦突︵循街で誰峠がある︶今十分一の歳收とす加茂︑牧め砲米約望
百六十測禰に對して︑收めた米ぱた増川十繭布︑緋乏の而倣此如く多額では︑所鋼袖助策な含一一とも主た信而有識実
と云はねばなる主い︒一︲一れでは︑從來柵世する所︑米を得一g|シ|一戸一︑二升︑一人一︑二今の判に渦ぎぬ︸r|と︑な
り︑た博大子鎚勢の意は分っても疫効は作はな咽若し︑又W三十繭の貧民葹撫く有司の手で救満するたあに氏両萬
︑︑︑℃︑︑℃石の米が入る︒これぼ今日帆延の力では不可能である︒是に於てか︑見Ⅲ考駄の蜜に木づく新たな旅行率目が必彼と
なるJ一なる愛の心は詳辮な幾多の那攻となつだ展州せざる逆得ない︒上述枇倉躯目仕かくして生れ出たもの︑一つ
であって︑其代表的意味万一排つものであらう︒批倉那側珠前述の如く綴地方に下され︑殊に台︑婆な贈遊姑訪漸次一︲|
れ註行ふものも生じた︒︵女九九︑帥岻枇な雌及びM七七−八○得洲命氾琴照後に勅励に在った睦殿山歎此邪目粧見て感歎
久しうし︑途に吹賑乢門に細入し一﹂︵象山令雄一叫仙朧雛二神︶自らも兄恢山と共匡﹄れ滋行つ↓た︒Ⅲ八︑與陳敢投錐一︑
三郷叉︑Ⅲ九典蛍監番︶それ念辿の外に鞭無く︑邸の外に通なき舟肌趙職仲︒これは近思録批鋤執戸.士児↓やそゐる繩子の批之
外無物︑物之外雌泣と爵猟円来たの弓あらう︶宋學の特色あ為立場が上く蕊押され︑物怖に伽した技術が條註し悉くきれ
朱唯庵ご一遺業
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1
1
I
朱晦唯2−世業二︶
てゐると見たからであると恩ふ︒︵帆し︑鞭山は朱子砒會法を柵拝みにしたわけではなく︑その峡陥をも自ら考へ︑別
に老柴する川もあった︒それ欣右典陳教授醤に見える︶抑も︑嬢山は腕に米子の手友であった︒その太械岡説キ︾諭す
鳥に到っては︑永子に對ルセ川迩の裳を娩き︑猯壯椣ハエ︑依放假叶の似︑其條諜︑以乞自ら信ずるに足り︑其習
熟︑以て自ら安んす為に足る︵卑山金塊再興朱元晦鋪二排︶と協って少しも似併しなかったけれども︑批倉法について
は右のやらな態度を蝋って︑蚊へて下瓜に立ったのは此場合朱子の州趾︑條諜が他まで﹁街﹂キー外れなかったからと
恩はれる︒批倉法は覗蛮の上に立つ︒zの故に︑その條謹の細符︑水花洲さぬ慨があるァ︲|ルぼ益その両側を發柿す
るわけとはなってもその統陥と蔵ならないと老へられたのであらう︒企ほ米子が台州知躯府仙女聚押幼した恐浦べき
諸丈安一︾ハ︑一九︶を識んで︑街時の職世上己諦話得たかったルぼ云へ︑又︑南米浦典與工商業の作者が猯摘したや
局に︑仲友に共原囚があったとぱ云へ︑︵た寅堕蕊煽八期塞照︶その追究深刻を極恥て正に法家捻察の書の如く︑執勤
至らざるなきに瀧くと共に︑却つ一て不愉快の念キーすら紫じ得たい︒︵陸象山の如きはzれ矛歯讃し盃︑人心に快なりと
云たけ融どもl雛山令集七︑典疎伸遊然る嘱肺奮法等腫室2在大雌の鍵溌編たにも拘ほらず︑それがずし鶴︑
障りとな2しゐないや一勺に恩はれる︒それは同胞愛の緒川が其上に森︑多﹂ゐたからでほお為詣いか︒湘東の政が資絞
逆あげたことについては洲東の民戸紗に先生︵米子一の徳潴湫ふといふ語が礎つ一℃ゐるし︑︵諦一○六︶﹁米元晦湖東救半
の政・⁝洲人が殊に頼みとしてゐる﹂といふ陸象山の言雌︵これは湖中親耕の醤と道途仰ふる所によるもので確かと
恩へる︒全鵯三六典測使尤延之害毒卿︶ぼよく此躯演花拠書をする︒
さて︑米子は湖東枇荒のため︑あらゆる手股花つくして災審の資僻話知悉し︑了一れに適切左救済方法花細み出した
のである︒その爲には︑古今に虹って救荒の策左検討する﹂﹂たも必鱒であつ七︑砿學米晦唯の知徽ほこ︑によくその
』
、
機能を渡抑する︒漸束救濟に際して︑永子の態度は妓初から熱意花持つ七ゐた︒平生容易に腰をあげぬ此人が即日単
車で途に上ったといふ︒それは飢繊救濟の秘訣に燗如てゐることである︒朱子が赴任の途中︑煕寧年間荒政の味︑炎
多くして益が無かったのはこれ花救ふこと通かつた爲と云へる蘇來波の帖遊見一﹂︑その言菜に感銘を受け︑↑山一をれ
に言及したのは尤もであった︒︵父二︑雌束玻與林子中帖︑同昨倣︑叉帆把撫救椛錐一戦件状︶沁來︑吐會法の制度は附代腫
創まるといはれる︒たrこれが常初焚倉の名で旭つ一た時仕郷批に識けられ︸﹂蝿利が有ったけれども︑後︑︑縣に移され
てから民衆による利用の便が矢はれて却つ七竹司に千鳥雌蔽の典となって来た︒此躯は前に五夫肚倉記にドハセ述べ
力と型・ふた所であるが次のやろな燕蜜もある︒現に南膿には栄子在任の畔︑かつ主﹄の大半に際し一﹂雑入した大批の米があつ
〃リゴネたけれども︑米価仏商く︑しかも法規のため兀佃左減ず一句﹂﹄たが出来す︑他に入米の手段もあったので︑途に糀出の
心リゴネ機滋失ひ︑其後久しく市脹官吏の群となったらLく︑朱子款先づ蝿出し後で典巾して罪滋竹つくきであつたシ云ひ
そのま&にした邪について後悔の言を臆してゐる︒詞一○乙又・南脹では五︑・六闘祁︑後に米子が知邪とたった津
州では六︑七禽郡に及ぶ常半倉貯藏の燕米が虫祥遊受けて浮瑛茶殻と化ルてゐた那蜜がある︒︵Uこれ咋一り先き︑耒安
石の肯茄法打はれ一一﹂弊脊遊生にてから︑古枇倉の逝意を識求Lk一句とした士大夫が例に荒目した所は右の祇鮎であっ
て︑其主とする狐ひは此間人の手にkつ七郷村の間に救洗の倉叩茄持ち度いシ|いふにあつた︒胡致厳の意見祇史杵兄
一五︑陳紀︑至徳三年の條︶の如き款その代衣的のものと云鼻尋へく︑民衆から述ざかつた貯撒雌の蝿意錐なことを論じ
てゐるo笠流通鑑細川三ハ︑南北朝仰陥乙巳︑抑韮僅一不附州闘王年批月︒陸に此文を節録してゐることから見れば︑米
子は此意見を鋪並したに述ひない︒かくて民間の手に卜ろ七僻述の地でも便利遊掛﹄hれる所に米倉をおく︾﹂とが必
要と老へられるに至り︑塊沁嘘の艇雛砒倉︑ついでぼぐその規棋に倣ったと稲する所の米子の楽淡脈︵五夫塊︶肚倉
朱陥唯2−抵誰二一
朱昨庵2↑泄業一四
が出現した︒肥かし︑米子枇倉は純粋に民間の經緋であった没は云ひ鮴い︒友人呂東紫が企霧Iたものは純粋に民間
人の手に世く杵であった︵丈七九︑装州金錐孵恥刎遡のに比ル︑朱子肚倉ばや︑異潟所があ一写しと前述にrろ︸し粁地出
來上ら︒同時にその經郷の主畷が民間人にあつ一た︸﹂とも亦疑洗れない︒前記︑尭牧洗撫硴状︑叉哉耽衝蠅川後附の炎
ソノムジ為グレクヒーb︑文を見一﹂も此堺は確かである︒此奏文の意が用ひらね−打その敵散の邪念本郷の↑脊老と公共に梢催し︑州縣散帷ぴに
アヅカリすりヘッナル干弧抑勅してはならぬ﹂事阿後附参照︸﹂とLなったと思熾れ為︒宙は紹興府の飢餓はすでに宵司の″庭及び雌く・な
つ一たればこそ枇倉辨目が出來たのであった︒米子語類︵二進に錠衡潴郷下におき宮司だし一︲↓時を巡脱さ抄るシいふ
衆に對する米子の反對意見が出てゐる︒その純時我宵司に暇がない︸︲一とと︑巡幌にrろ七郷人荒擾すたいふFあつ一夫o
も︑︵献倉堺日並びに荒政の關係資料に至る所公共の二字が見えアの為の武干﹄く其法の心底遊諮一ふものであらっ︶謎束發の
如きも米子砒倉と王安布育苗法との利脊相Ⅸするわけを育苗法がこれ記行鼻に有司淀以てし︑米子砒倉法が郷人を以
てした黙に見た︒︵武氏日抄︽ハセ︑梶川余熱縣李氏祁介記︒こふに班發は瓶の趣凌述・へた朱子の拠氏祇介妃中の文字に言及上く.︑杜
へ川の擢橘が民間に師輔ゐぱたらぬことを︑狼張し︑此偉韮科齋もこら肌介利碓神I王牌餅塊七に此鮎力激衙と︲|ゐる︶かく一一い︑砒倉經
瞥の主慨が民間人士に在↓g﹂とは亜要な親戦上な一電中井竹山辻其吐倉私議で平易に米子砒倉法の意溌説明していふ︑
枇へ冊トハ氏Ⅲ組合ニテ仲川二致ス米職卜巾ス心一宗峡︒狐︑村方並二所ノ學粁数人ヲ蝿北役人二定メ︑半雄撤抹無迄様二州改メ
・・・・祇介ノ縦︑民間ノ筋一一一落上之御川一一テハ無抑雌候鹿︑御役人立介一一テハ手飛ク候様二御曜候︒依之︑朱子社命ノ沙一一テモ︑
北掛リノ役二學将ヲ川上候那祁見へ巾候︒朱子ノ畔︑共所為ノ畢狩ト巾ハ州雌一一宵竹ヲ帯鵬候テモ︑役人ノ列ニテ無之候故︑何エ﹄
乎敢キ亦雌之穆肌︽民郡ノ事ヲ半生心カヶ候ハ峨肴ノ職分一一テ抑朧候︒父名聞ヲ側リ潔白ヲ州守り候モ畢滑池川ノ心掛一一テ抑雌候
へ・ハ︑祇介米ノ私曲を改候役︷ヌ維祁術仕峡︒火仙米子︽眼角皐新ヲ川上候雛ニト定被胱候︒
〆
清帆の米子學者李光地︑張仙行が坐丁枇倉法粧行ひ︑朱帆がその遮立荘緬った時︑股煕帝ぱ献倉といふものは地方
トリシマリロツカサドル
人士が其堺迩弛司する上から責任の所在が不明樅で種だの附雌あり︑伽かに小邑郷村に行ひ得るに過ぎぬと云
つ一﹂ゐる︵恥準錐一三一・朧墜ハ十年九月の陸が︑米子はすでに此黙に狐付い三しゐたと見︑え︑其範州が狭い場合には易いけ
れども︑澗速になれば六蚊しいことを述べたo喬一○さ即ち︑此蝿合肺倉は有名無賓となり︑翠な勾文且︿と准匂と考へ
られる︒そこで︑米子の榊想で念純州滋縣とし︑郷里の聰明誠術な人に委胞てこれ遊行鼻ととLなって來写弓聰明な・
れぱ欺かれぬし︑誠慌なれば人欺くに忍ばぬが︑仔柵の人は人に欺かれ︑術詐の人は私に流れるから︒︵Ⅲ︶叉︑米子
は穴典の大夫高商老がロ巴人の諸賢と共に經僻した枇倉に記して﹁治人あって治法なし﹂といふ語が平凡でほおっても
至論だと云ひ︑もともと歓祗倉が食物花郷村荒剛の所に錐あ七︾﹂れ詑主るに任職の吏を以てせす︑︸﹂れ荘収するに流徒
の刑刑滋以てするのでないから︑聰明︑忠怖︑明祭の人士が心を併せ力を一にし一﹂︑その出納を郡しみ︑姦孟札ぐの
でなければならぬこと滋述べてゐるo砒倉の經緋の主擬が民間噂あること黛愈だ﹁人﹂荘得ることの必亜を端したと
も云へよう︒この郡はすでに陸象山も折摘Lたことで診勾が︑︵前秘與陳敢授鈍こむ黄東發︑王砕齋諸人の丈︵何れ
も前組︶を見れば民間に人を祥ぬ乙とから歩寸杜介法がくづれていった様子が分る︒前記の如く︑丹束稚は有司の賢
迦ひ難き滋恐れ一﹂︑米子就倉法の純民間經緋でない不徹底滋批難し︑純粋に民間經糾とし一﹂献倉粒送る企喪な︷坐した
けれども︑民間に人逓得ることの困難さは﹁有司の豊辿ひ難き﹂に減ずるものではなかったのである︒次に︑祗倉法・
がその参考どして王安石の育苗法を持ってゐたごともまた疑へない︒宵て挫士に上つ一﹂あれ程反對された︵一羅余群五
℃も五︑陳新法疏︑再f唖此法について︑朱子は必ずしも全面的に灰對花表したわけではない︒米子は背小川立法の本意を
善とし︑た宮とれ詫給するに金逓以てして︑戦註以てせす︑これ遊虚す蒲に縣逓以てして郷壮以てせず︑職員に官吏
朱晦庵の二通業一五
1
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I
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朱晦庵竺一通業一六
トリクナイソグを以てして郷人士港子滋以てせず︑そのこれ逓行ふや︑聚倣娘疾の意滋以てして惇仙︑利忠︵民衆に同悩し︑嵐面目
にこれに順ってやっていく︶の心溌以てせず︑1以上のや弓な妖陥のゆへに王安布がよくこれと一邑に行ひ得ても︑
天下に行ひ鍔なかったと米子はいふ︒︵舸記︑金推縣祗な喝無論これは朱子の批詐であって︑背苗銭の使湘については異議もあ
るI文献迩考六︑市遡荒ど参照︶そし一﹂︑朱子はかく見る︸r一とが浜にたく此法の病根遊識り︑その要鶚に中るもの︵丈
室一︑群吸元徳普中の柵︶であったとの自循遊有し︑献倉法を作つ一た際には此鮎について老腫を淵らし︑その峡陥を除
かうと努力したものと思はれる︒されば︑樹時一部に朱子の就倉法について︑散背荊︵王安石と同様︑背曲錐を燐付
けるものだ︶の識りがあり.︑親友張南軒は米子がこの瀧りに激して散肖苗逓涛護したと怖じ一﹂苦言花呈し︑・川槻探察
するや弓望んでゐる︵南軒丈墓6︑馨朱元晦秘替館十登が︑これは淡解であつ一たら弓︒朱子は決して散背荊の誰りに
激して佃心から︑此法を辮謹したのではなかった︒南獅仕王安打の法が郁縣に於ける經験を以て天下に行ばんを欲し
たのは一通執って天下の務めに通ぜぬもので﹁立法その本なく︑用法その人無し﹂荷︶と云ひ︑米子が王安布の法を
取一・くしとするならば︑王安打と同一の態度に陥ると愛全しゐ為︒しかし︑後年の朱子は郷村に主髄性遊持たせこL
を単位とし︑國家がこれを諸地力に下ルー﹂自主的廷行ぱし小︑かくて飴駒七は杜倉法の時虐を通じての永遠性が生す
るといふ好へであった︒そし一し︑かLることが出來るのは此法が同胞愛の緒紳に文へられてゐたからに外ならなかっ
た︒殊に︑米子行倉法が前記年限の問一定の利恩米註取ったことは朱子もすでに異議あること詑知つ一﹂ゐた所で︵縦
へ︑その率が米の端境期にや稀を得ず倍額の高利を排って喪家の持米を併りてゐた細民にとって︑必ずしも高額でな
かったにせよ︶前記蝿元服の肚倉は利息を牧めない鮎について︑米子の祓倉と迷っており︑此同門の友︵何れも胡籍
溪門人︶は瓦に論議を戦はルー﹂やまなかったのであるが︑米子が元腰の言に三代王政の餘風あること滋認めながらも
I
、
遂に縦らなかった所以は︑利心が漸次批倉の藏米を坤加し︑悪典雅版あ.︑遂には無利息に至り得︾g﹂と︑なり︑結同
民利に遼沁されることを考へてゐたからと恩へる︒︵女八○︑弛冊工南城縣災氏枇介記︶此職に於て︑その旨趣は尤雌と同
じであって︑後に米子はその女︵元職︶の辿教滋忘れるもので蔵ないル淵してゐ鳥︒︵朋紀︑腱滋献な記︶前泄米子の乗安
縣︵五犬里︶祗倉の經醤が辮資さらいふ結果になった郡は米子花仙で自諭を裂付けす鳥ものと思ばせたかも知れ硯け
れども︑荒年が縦いな場合︑果してこれが行ばれ得涌や否や︑陸繋山ほすでにこLに不安遊腓ってゐた︵前記︑諸番︶
し︑後の肺倉が米子の法といふ箱目で高利花探した︸﹄上は麓東發の右の記にも云ってあふ︒かk息問題は免角とし一一﹂
米子牡倉法は憐時の蛮傭に沿ひ︑古来の制度逆改造資施Lた研に其特色があった︒此爲には︑資州の細ない槻察が必
要で︑前述の諸洲交は此必要に唯じて考案街行されたが︑そこに塁鯨して來たものは自然的︑物賀的條件に恥使され
る人間生活の經緯であり︑これに對する従来の制度の無力さであつ一た︒そルて︑右のや一っな人間生活の經緯の間に於
︑︑︑℃■bける法則欧米子の所洲﹁理﹂に含まれ︑その洲奔丘何じく﹁窮理﹂に含まれる︒︵た様に取らなければ米子蕊の理解
に諜支へが生する部分があるのであって︑此覗は從來もしばしば伽及した︶許通︑米子學でいふ﹁理﹂は主槻的で
﹁意見﹂に過ぎぬと老へられ﹀しゐる︒しかし︑右の﹁理﹂ほ果してさ−つであらうか︒又︑湖東時代の話であふが︑一
姉人あって︑その夫が養ふ乙と能はす︑父緋の意志で変家に師らうとし︑縣史も離忘&ことと許した︒門人之遊不可
とし︑夫肺の稚誼主張した︒zれに對し米子は﹁か︑ること我す今二﹂一選についてみ一﹂はいけない︒若し︑夫が不才
で其奨逓育てる﹄参﹂とが出来す︑妾も亦自給することが出来ねば仙力のない瓢であって︑大韮に拘泥し雌い︒た時妻の
其夫滋離れよると欲す愚のは別に仙折があぁのかも知れ顔故根究ルなければたらぬ﹂︵締一○六︶と云ってゐる︒か型
為考ほ主概的皿脳に浮んでくることではないや一うに凧はれ為︒
朱晦施g一通業一七
『
朱晦唯竺一泄業一↓八
朱子はしばしば醤者の投薬に言及し︑名瞥は識候を満得て極めて精なるゆへ病滋誠り︑それによって思切った投薬が
出來る︒露一○七︶王安打と雌人転活かす心に於ては礎りはないのであるが︑その失敗は病證の誤認によると老へた︒
同二一○︶南股︑断束︑沫州︵此庭のことは論及しなかったけれども︑其棚農の方法な見れば︑野菜と土淡との性質
孟考二﹂耕作技術を教へ︑著しく合理的である︒︐又︑股地の境界改正問題を虚理するに於ても︑同様な傾向が目立つ
ゲヅネモ膿メテゴ恥ヨマカニてゐて︑宋史食貨志に﹁訪問誹求︑繊悉術さに至る﹂とあるのは正しい︶に於ける米子の政治の一面は皆病證花正し
く審察し︑適切な投薬逓するといふ考力が働腰﹂ゐることに鍼づかれる︒所訓﹁理︲ぼ此場合︑那蛮に在る自然的な法
則であった︒されば常に繰返して﹁没﹂の字が読かれてゐる︒しかし︑那蛮とは何か︑それは一﹂Lでは特に祗會的︑
經濟的生活滋蟹む人間の存在逓振し一﹂ゐる︒朱子はか&る意味の辨賓を探り︑その容易なら餌性愛︑御し難い傾向滋
洞察しようとした︒南脹地力に於ける細民の困窮堺惰の如きはその一例であった︒即ち︑米子は近螂から米の移入を
仰ぐこと注考へ税遊免じ一﹂入荷の凹洲花岡つたが︑此米が多く米牙人︵米の仲買︶の手に貿占やられ一﹂勝に出た︒店
で乳では水遊入れて作和し価格荘墹し︑小升斗荘用いて愛出して厚利遊得︑細民の食が困難になった︒︵別九︑約束米牙不得
兜撹搬米人祁雑迦又︑城市の古井多く雄有るの家に棚代され︑衆人に汲ませなかった︒︵M︑約束庇叩不許關剛雑迦或は︑
早傷によって負債を挑へね細民は家帝や種子︑威審の類を蕪ほれ︑家屋︑桑剛︑田地を抑へられて他に流移したもの
もあった︒同︑戒約唯戸髄切紫亜亜此小遅此如き類に對しては︑米子は一変對繁注立て播世を講じて上記の如く大賊の
盤はあつ︸しも識者の認曹包所となつ一﹂ゐる︒︵帆退騨川與榊使尤延ナ蕪︶米子が友人黄子雁に答へた書翰︵練七︶に上れ
ば︑某都︵部落︶のものと云ってやつ一﹂來た述中の素性が分らす︑一方吐倉の茂米も少なくなってゐて庇く及び難い
有様が述べられ︑杜首︑保正等逓して保を結び︑欣粧共して來り誌はせる︾﹂との必要緋舞一難い所以がよく分る︒唐石
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I 、
といふ所で米子は野嬰桃夫逓待つこと笂客の如く少しの分け隔一﹂なく民衆荘して傭滋蒜さしめ上一勺としたと同時に︑
逮法のもの又は所謂免がれ七恥なきものに對しては雌遊以て臨んだ︒雌であ2﹂︸こそ﹁蛮悪細民に及錬﹂こと荘心得
てゐたが故にo認一○七︶米子は愉吏の逹世なものは奏劾し︑老病昏愚なものは閑職に移し︑側恨にし一﹂民滋愛し︑
才力︒あるものは成法に拘はらす抜擢すべきこと転奏した雨記延和宏制三米子の人間を見ることには少しの竹さも
許さない︒此人が人間の現蜜性とし一﹂﹁熱﹂︵肉髄的性愛︶の弧さ逓主張し︑敬齋筬女八墓などに見えるやらな堅苦
の功夫左説いたのは安易に救ひ難い人間存在の性質荘見たからである︒かLる人間の蜜情に即し壬竺﹂られた施設が
斌倉法等であるから︑その内詳は自ら極つ一﹂來る︒古い制度である此施設はか比る考え方から︑時代に相唯しく面目
ホド劃イ
通改めてその意義淀生かされることLなった︒朱子は怜好の二字遊諭くこと矛愛し︑﹁凡そ説.自ら恰好の庭あり﹂
ムグホネケリ念一○七︶と云った︒又︑毎に學者に語つ一﹂﹁凡そ堺柄には多くの剛勢披とするな﹂︷同︶と云ったと云ふ︒怜好のと
乙壼っに雌って郡をさばけば︑平易淡泊︑少しの努披もなどことlならう︒米子は燕.壷︑即ち人間の奮怖に相脳しい施
設逓︷坐﹂たこと以上の通りである︒しかし︑こ瓦に忘れ一﹂はなら鯉ことはか&る施設が同胞愛の精祁の必然的な要求
として行はれ︑此精祁が無ければ不可なることであら︸・前記崇笈縣宝火叩︶祗倉記︑金華牡倉記共にこれ通語る︒
.夕乎ノクfノ殊に流子の﹁徒善は以一﹂政となすに足らず︑徒法は以て自ら行ほる能はす﹂羅洪とといふ文句の朱子の注には﹁そ︑
の心あって︑共政の無いのが徒善であり︑其政あって其心の無いのが徒法である﹂と云ひ︑關雌鱗趾︵愛怖なのべ︑
信呼と歌った所の古詩︶の意あつ一﹂慾③後︑周官の法度淀行ふくしと云った程子の語を引い一﹂ゐる︒寵珪同胞愛⑪
bも心こそ砒倉の施設遊生んだ母胎であった︒郡武軍光継螂祗倉記安八gに︑疾病者援誰の設備が併世されてゐること
を特華し︑又︑江西迩司養濟院記︵岡七九︶注書いた朱子の思想は方友の赦倉記遊残した思想と決して別のものでは
朱晦施要一抵業一九
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F 1 且
■
■
■
■ B
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■
Ⅱ
■
■
■
■ B P I 旧
■
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砒倉法はやはり全慨的抵的な同胞愛の粘祁が︑云は鷺︑人間存在の邪疫遊通して街際政治經濟の面へ鵬附したもの
であり︑その大用であった︒然あに同じ意味万一以一︾﹂その皐術面への於開とし一言﹄現はれたのが︑朱子學に於ける洲制の
研究であった︒悲し︑就倉法の如きも職制の一極として取扱ふことが出来るのであって︑︵秦慈田の五澱通老たどさう
なつ一一﹂ゐる︶もともと澱制と云ばれるものの多くの部分は停一﹂行はれた共同生活の制度俄蒋の筈である︒即ち︑人間
相共に生きる心︑古くから仁といふ語で呼ばれるものは前記の語で云へぱ︑同胞愛の心であり︑にの節丈︵釿綜し︑訓
朱晦庵の二欽業二○
なかった︒こ入に覗術に切な立場がた時の利森の立場︑技術的な立場駐超えて︑しかも之を包み︑風に倫理的六る所以がある︒さ−勺でなければ︑米子が洲東荒政後︑特に力逓極めて所洲堺功派︵功利主義者︶を癖雌攻準した理由は理解しにくい︒米子は其祈天民︵此人が洲來で戸数洲森法と朱子に進・一面したことは前に云った︶に巻へた手翰で﹁平生蕊と鰯すに街ってば︑孟子の尺︵小︶註祉げ一一﹂郡︑大︶荘直りする利の立場の課︑キー論じた意思が分ってゐたつもりだった﹂と云ひ︑湘中︵東︶に至って明友の側の議論がこれと相灰するの誼惟しみ︑誰と利密と一邪で分別すべからすとい.鼻説に蹄いてゐる︒就倉法が後仙に残した蛮紙については時代で異って居り︑常に弊審の除去が必要であったけれども︑南宋以後︑浦棚に到るまで性交繼水され一一﹂おり︑我幽にまで共影群が見られることは人の知る通りである︒︵注︶昭和十七年二月二十日︑余は﹁米子の政那と共恐粗﹂と題して︑九州帝叫大果新聞に一女を戦せてゐる︒これ仗伽かの牢.歎
毫﹄はおったけれども︑同胞裳の釉祁が託か法雑政論施投の鍛術仙雑枡と緊密に洲待って成果をあげた率を諭じた鮎では︑共趣
旨全く本猫とMじである︒
三三
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和し︑美しく現はれたもの︶駈測と見る朱興る老方︵失孑︑玉山誰鍍︶は右の意味であった︒されば︑洲制の研究が同
胞愛の糒祁から徐友に開拓されて來ることはたやすく理解されよう︒職を節文とするわけは︑その特硬が︑一つの厩
い云はr杢磯的無的なものが面目花顯現して來一﹂︑網の目のやうに經緯魅成し組織滋成しでゐる所に在るからである︒
︵柵六W︶かつて︑老ナは澱花逝の鮠落と見一.﹂︑剛の首︵下一︶とたし︑槌播んじて器︵具︶となること芹一階しみ︑︵上一X︶ ロジメ
莊子は祁沌に叫鼻などの感官とつけてやつ・たためにその死を招いた︵脚帝王︶と云ひ︑その肱俄篇は一音律樂器とすて去
ること牡説いた︒然るに︑米子に於ては︑逆や︑桃や︑沖沌の皿以ぶべきが知られてゐると共に︑︵朱子が執捌に柾減の
語の意義荘主張しつ憶けたこと荘見よ︶湖となり︑器とたり︑耳鼻永だを布し︑︸︾門樂遊難術する所にこそ︑粂髄︑無
的なものの持つ大きな作用が考・へられ︑その相即關係が立てられた︒︑前記︑薙鶴大用の思想がこれである︒そして︑
右のやうな意味の職制の研究が籏現したものが︑即ち米子の依職經体迩解である︒然わぱ︑此書仕如何なる目営てに
よって︑如何なる内容と特色注持ち︑如何なる成果とあげた書であるか︒こ上に紘述し度いのは此害の一変の内容そ
のものでは炊く︑斌倉法の場合と同様︑内詳遊通じて折取される思想の傾向であ患︒抑も︑古典儒學で最も瓶要なも
のは慨であり︑︵一昔︶樂であった︒樂は絶え一﹂師承なく︑律尺の長短︑雄音の浦濁など︑その誼滋知るもの無く︑その
緋たる遊知らない︒︵丈一Ⅶ︑乞修三職制子︶叉︑澱の學は宋代に於て煕癖J以来︑王安打の政策により︑古經典の︸り箔で俄
職が礎されて︑猫り職記の科注存した︒そのため︑南宋に到含一﹂︑俵洲の畢遊修酌るものは少︽いくたった︒米子の謝
朧廟文集序妥七六︶に監西獄廟の謝騨が惟徹の學を修めて朱莱齋︵朱子の父︶から見出され︑徴時稀有の例とされ一﹂ゐ
る︒永子によれば︑俵測左應して職記遊取ることは本末脚例である︒何と江れぱ︑縦職こそ本經であって︑澱記はそ
の錐説︵意味花説明したもの︶に過ぎないから︒︵米子語類八四によれば︑米子が畏敬した程門の俊才呂典叔はすでに
朱晦碓堅一抵業一二
〆
1
朱晦庵2−抵業一三
惟猟を柵とし一﹂諸家の説と錐め一﹂測丞説く樅想壮持つ一︾﹂ゐたらしい︶されば︑朱子は樂については︑鐡律の制︑衝時
その迩意を得るものある牡見出し︑︵その根搬につい一﹂は必ずしも硴偏花持ってゐただけではないが︶更に参考駐加へ
一﹂一書となし︑以一﹂六藝の鋏と袖ひ︑慨につい一﹂ば︑隣測逓以て經となし柵記及び諸經史︑雑書の養料井坂って本經
の下に附け︑注疏諸旙の説遊具列し︑家︑郷︑學︑邦國︑王朝︑喪祭に皿為目録があげられてゐる︒︵削籾︑乞修三職捌
子︑文字へ然季欺鋪Ⅶ群︑叉︑朱在惟噛撫傅辿解︑錐後嗣琴川︶此際樂は喪料乏しく︑叉州制の中に包掘され得るから︑此
審の一部花成すに過ぎぬことNなったのであら叩︒右のや︸却なわけで︑朧洲維仰迩解は雌洲遊中心として行はれた職
制の綜合的組織的研究である︒元来︑陵測は雌誼キー以て咄るもの︑しかし米子は此經に軍複の個所多き矛一見︑愉類に
通することによって︑その先後︑彼此荘鵬艸参照して五に祁發明しゆき︑久しくして自ら邇批し得ること逓猟付いた︒
︵丈五九塔陳才卿雄九番︶叉︑朧澱の雌讃なるわけは︑此維が末逓分たす︑諸解縄文との關連もはつ切りしない所にある
から︑これと誠むためにはこれらの弊滋去ることが先決たること芹気付いた︒︵女五四綜朧仁辿そこで︑雌職が右の︐
讃法に從ひ︑それ注本とし︑中心として︑洲記などの喪料が整理されていくこと前述の如くである︒かくて︑澱樂の.
益髄が共妖陥莚補ほれ︑紛素と疎通されること︑たる︒満の江恢修は﹁其細類の法︑率に因つ一一﹂篇側雅立て︑分末以て
リツパ︒仰記I派稗Iを附しており︑差細細間が燦然だ︒秦洩以来こんな書物はない﹂︵職審綱岡内序︶と云ってゐる︒秦淡以来
此書無しといふのは米子の此書糊纂に手傅つた後述︶楊信齋以来.の識誹であって余は果してその然るや否やを知らな
いけれども︑澱制査料の難理方針とし一一﹂︑幾時で歎妓も優れたものであったことは縦へまい︒さて︑朱子によれば澱
記は秦洩上下諸儒が俵測荘解稗した書である︒また他訟のその間に附徐するものもあるけれども︒需八凹例へぱ︑
一︲儀澱に冠澱あれば脚記に斌綻があり︑朧洲に器測あれば洲記に艀義が論る﹂︵祇五︶﹁喪服の義については・洩僻自ら一ゞ
〜
家の學逓なした︒恢測喪服篇と以て宗となし︑洲記?りちで小記︑大傅諸捕は則ちその説遂申ねたものだ︒詳細丞極
ナサめて︑絲逓理め︑髪逓櫛るや一勺である︑云女﹂︵同八九︶とは米子の云ふ所︒洲記の賓料は何れも此意味で虚理されて
俵慨經仰通解に細入され︑これについ一﹂の注疏の説などがあげられ︑批判され︑更にこれを補ひ説明する諸費料︑例
へぱた仰︑國語等の文が引かれてゐる︒︵但し︑測記につい一﹂も︑一律にかく行はれ難い鮎もあるから︑米子は同書諸
篇の性質を吟味した上︑細かい征意荘與へること花怠らなかったI荊八肌塞照︶こ﹂に制度悩智がその意義の解明を︲
得て︑所訓﹁賓學﹂︵前記︑乞修職韮罰孑︶が成立するのであらう︒﹁街學﹂の思想は大切と思ふ︒それは古來の蚕料の
文献學的︑資證的吟味駐通じて︑人間生活の腫蛮性を究める學問となる︒されば︑賛料と吟味することは此書細纂上
の一條件となってゐる︒朱子は庇に自ら細纂遊企岡した洲書の資料として︑周澱により︑︵蜜は米子も発書とし一﹂分析
しにくい性愛荘持つ周澱の取扱ひに苦んだけれども︑澱の條目丞設くものとし一﹂︑此書を重く評便したl識八四︶經
傅と分ち︑國語︑雑書︑迂僻蕊術の説を多取しないことをあげ︑之に反して︑周測なしりぞけて郡牡して統紀なから
しめ︑經傳と合せて書として間別なからしめ︑多く國語︑雑記の言逓収って︑傅ふるものをして疑ひ︑詞ふものなして
砿はれしめるものは吾書でないと云ひ︵丈七一︑偶袖災記︶前記︑惟洲喪服箙の説明としての洲記の記述の選樺に徴つ
ては︑繋作な小記篇遂すてて大仰篇と取った0︵識八七︶叉︑測記祭法篇を疑ひ︑精罐恭庭するよう望んでゐる︒受六三︑
辨余正苅錐五逃︵た噂現行の惟澱經仰通解に國語や家語︑殊に自ら後仙の筈と云ったI譜三毛I孔叢子の丈を引用し
てあるのは其細纂に多人数の協力者遊持ち︑未完成の部分もあり︑妓後の仕上げ滋經なかった所も多いからであら
う︒もと︑かLる不碓なものは第二養料として用ひるつもりもあったらしい︒尤も︑中庶章句のやうに厳正な更訂左
經たものにさへ︑家語遊参照し一﹂ゐる所もあるから︑一概に云へ猟けれども︶蚕料の庭理につい再注意と要する他の
朱昨碓竺一批業一喜一
朱晩庵の二批業二四
一鞭は︑朱子が古經の駅略せる所逓注疏荘以て袖ひ︑専ら古經に任んじて直ちに仰注を陵すべからす︑又未だ安からぬ
時は儲にその縦ふ所遊論じ一﹂別に一書を作つ一﹂後人注待つべきであるとの意を洞してゐる︸ことであら−勺︵茎ハニー︑群余
正而錐三番に好諦撫を出と﹂ある︶これは宋代皐術の新傾︑たる難經に對する批判的態度誼恨璽に生かしたもので︑識見
ある學者でなければ出来ない蕊併であった︒か&る那雷の結果として瀧併の學の意義が認められたのは併然であらう︒
︵此半については︑右の外︑前記︑審李季章第四書︑同一四乞討論拠服鯏子の書奏蕊後など参照p書奏麓後で︑測把喪
服小記を労照として︑惟測疏中引く所の鄭玄の説により︑惟職喪服子夏仰の文遊解稗し︑催職本經の織略と考会﹂ゐ
る︶是に於一﹂か︑米子の澱制の學が後に清朝洩學者の興味を引くことLなった一因が︑米子學自身の内に存在したと云
へよう︒次に︑俵泄經仰通解は家洲から飴まり︑王朝棚に李勾までの髄系瞳なし︑それは大學の家齊から平天下に至る
順序による所の︑前記全鶴大用の思想から來た︒︵綾篇喪祭澱ほ門人黄勉齋︑梯信齋の手で完了した︒篇肯にある朱在の
記と儒齋の諸序は此書の委曲在つくす︒尤も︑朱在の記にも朱子文集の記紋と合はい所などがある︶此害は催職に篇
目あるものは主としてこれによったが︑篇目のないものは多く他書によって共統略花補うてゐる︒殊に︑新たに學洲逓
蒐架して︑畢制︑畢義︑臣澱︑鈍律︑錬律義︑詩樂︑測樂記︑︵清初の梁氏刊本は記を義に改めてゐて︑意味は此方が
よく分↓g書数︵これは今妖げてゐるけれども︑許恢の説丈序説︑九章弊經な入れる豫定であり︑梁氏刊本は此虎詮
も袖つた︶などを創立したのは米子薪心の存する所であった︒俵測經仰通解は俵測転什子とする職制の大規棋た細禰
であって︑其手続きとし一﹂は鉋まで蜜證的態度が取られた︒語類八四によれば︑朱子は某友學者の職學を蹴揚しふ斯學
が演證左要し︑證擁あり︑本によるべきで︑杜撰で私憶によってはなられと述べてゐる︒これは牡倉法の場合と一脈相
℃B通する所がある◎たご斌倉法は現代の物傭人心遊冷靜に知ることが前提となゎものであり︑儀測經仰邇解は主として 「
1 1
過小あ養料を正しく素直に縄め一﹂いくといふだけの相述があるに過鐸茂い︒此鮎に於一﹂︑同じく朱子の杢僻大用思想 ︑︑
の産物︵拙稲︑全磯大用の思想参照︶でありながら︑大學術義︵眞西川︶や同補︵丘鐙山︶︑率學格物通︵湛怖泉︶な
どと性伐が逵ひ︑著しく學術的である︒又︑同じく﹁洲制﹂に開するものでありたがら︑古經に本づき︑時併に肱じ︑簡
にし一﹂行ひ易く︑私家資用の爲矛一考会﹂畑纂された朱子の﹁家測﹂とも其目的が異るといはねばれらない︒こきで更に
述べておき度いのは此書細纂の桃様である︒それは此書の性笂︑引い一﹂朱子皐そのもの&特使滋明かにする︸ゞ﹂とにな
るから︒その邪につい一﹂先づ云ふくきば︑此書が妓初かh多くの蚕料を蒐築し︑多くの専門學君の協力荘得て行ふく
く計識されたことである︒即ち乞修三測劉丈前記︶記によれば︑朱子は測樂諸書の借礎と︑學徒十徐人の州致︵語類八
個によれば︑天下細迂識る學者を識く喚募豫定であった︶と︑此を案淵の前原赦間に住まはせて細類に從辨させんこと
をどひ︑北藷雑我を功夫.し一一﹂公家の猫となめ顔やうに配噸し一﹂ゐるが︑間も︽いく國都な去った爲︵紙八門︶此制子の奏
上は中止され︑朱子は門人知友の協力滋得︑自らの力と以て此邪業非行ふの己む荘得覗こと上たった︒夏断は其述朱
硬疑︵七︶に協力の人名と出してゐる︵これには辿淋もある︶が︑こ︑に必嘩.なのは人名淀知ることよりも寧ろその人為 の協力と指導した朱子の學術的態度と知ることである︒朱子は養料芹簡︑皿討議し薇八︑群馬寄之︑一徹九○︑粂正市に閲す
る條など︶同一の養料狂数人の門人に分委して指一ホ︑編修させ︑返送を待ち︑その内で糀なeものを採んで採用した
︵縦一︑拶双戒刎冬諦八帆諭修職蒋の睦此書は朱子の晩年︑免朧︑罷祠恩給中止︶の後︑営局から雌辿逓受けてゐる
といふ境遇で姑め一﹂編纂に落手されて居り︑土葬の一勺もに︑登祁に柵れ一﹂焼却されることの危桃があり︒癒一︑群蛍吹
卿洲遊又︑反對派の所訓侭畢の名に恐れて力花従す者なく︑和助け得るものは速方に居り︑我用に乏しくして人を
傭ふに邪祇き︑かくて抄窮が出来ぬことに群んだ︒︵丈五三︑然訓季唯柁蚤藩︶時励此如きのみならず︑衰老︑疾病︑日一
朱昨唯の二恥巡業三五
〃
I
朱晦庵g一職業一ニハ
莊脈つくからざる状態であった︒︵縦︑綜黄戒遡しかし︑朱子は醐雌を排し一﹂ほ宮その畢生の大業を遂行した︒︵諾八四
引︑與黄商伯蒋は卒去醐一士官r稗本性一十三日lにあり︑蛾後張三︑﹁協力Lた望ん三﹄ゐる︶儀測經体通解は以上のやうな手
段遊つくして細成されたし抑も︑米子學の功夫は居敬︑窮理であると云はれる︒そして︑居敬の手懸りは職であると
老へてよい︒即ち︑澱によって人間の生命が正しく育成される︒同時に︑窮理の手懸りを職に求めることも亦可能で
なければならない︒大學乖伽の思想によれば︑窮理は格物即ち物について行はれる︒凡そ理と云へぼ捕へ所がたく︑
本物遊離して老へられる時もあるけれども︑物と云へぱ︑理自らそこに在って離れるキー得たい︒︵語一五︶そして︑物を
人間斌會の方面に於て老へたものは職であるから︑儀概經傅通解が米子窮理の學︵所謂前記資學︶逆行った成果とす
る部は許されよ一う︒此際其内容が俵測を中心とするものであり︑研究方法が蜜證的である黙で洩儒の學と相通するも
のが生じ一﹂來た︒從って此郡業が沈學の新意義駐認識した清代諸學者から繼承發展されたことはこれ亦自然である︒
儀澱經傳通解に未完の部分があったことは前にも言及した︒殊に今︑綾篇となってゐる喪祭二職が茜︑楊二氏の手
に成った始末は前記楊信齋の諸序に見えてゐる︒即ち︑朱子の批業は其二門人によって先づ続行された︒しかもその
成絞が優れたものであったから︑朱子は黄勉齋綿する所の喪祭の規模を蛍し︑他日︑朱子自らの編纂に成る家郷邦國
王朝澱など淀取り︑悉く此規模を以一﹂更定するよう勉齋に望んでゐる︒︵有信齋の喪職後庄篭し︑かくて始めて此書
編纂の原意に合うて來るものと恩はれる︒夏斫は宋史湖志栽する所︑朱子が嘗て儀禰︑周官︑澱記を本となし︑朝廷︑
公卿︑大夫︑土民の漉逓編次し︑識く漢晉以下唐に及募諸儒の説を取つ一﹂︑孜計辨正︑以一﹂営代の典となさうとして
未だ成書に及ばずして没したとの文なあげ︑これは儀測經傳通解を指すもので︑前記乞修澱判子の丈字滋飾ったに過
ぎぬとし.︵述朱孜疑七︶秦悲田の如きはこれは別に企脚する所があったのであって︑通解を指すものではないと信じて
’