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特集号「日本列島形成史と次世代パラダイム(Part I)」― 巻頭言―/輸出科学の時代―日本列島の地体構造区分・造山運動研究史―

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輸出科学の時代

日本列島の地体構造区分・造山運動研究史

磯 﨑 行 雄

丸 山 茂 徳

**

柳 井 修 一

***

At the Stage of “Exporting Science”:

A Historical Review of Studies on the Geotectonic Subdivision and Orogeny of the Japanese Islands

Yukio ISOZAKI*, Shigenori MARUYAMA** and Shuichi YANAI*** Abstract

  A new historical review is presented on the progress of the geological sciences in Japan since the Meiji revolution in 1868. Geological knowledge, particularly studies of the geotectonic evolution and orogenic aspects, of the Japanese Islands has progressed through three distinct phases; (1) non-science stage, (2) colonial science stage, and (3) independent science stage, as modeled by Basalla (1967), who demonstrated a general pattern of transplanting cutting-edge scientific / technological knowledge from western Europe to the rest of the world. During the “non-science” stage from the 1860s to the 1890s, major geological aspects of the Japanese Islands, together with discoveries of unusual rocks, fossils etc., were initially described by foreign geologists (e.g. E. Naumann). In contrast, almost nothing was contributed by domestic geologists. During the “colonial science” stage, from the 1900s to the 1980s, research and education systems were transplanted effectively from western European countries. For example, applying the purely imported concept of geosyncline, the geotectonic history of the Japanese Islands was summarized for the first time by domestic geologists (e.g., Kobayashi, 1941; Minato

et al., 1965 etc.). The almost unidirectional acceptance of plate tectonics also followed at this stage, with the exception of the rare but outstanding contribution of A. Miyashiro during the 1960s-1970s. During the “independent science” stage from the 1980s, various new ideas and original techniques in geology were proposed by Japanese geologists with lesser help from the western countries than before; i.e., practical criteria for identifying ancient accretionary complex, exhumation tectonic of ultrahigh to high-P / T metamorphic rocks, and subhorizontal growth framework of subduction-related orogens. Furthermore, in the first decade of the 21st century, the geological science in Japan entered stage of (4), “exporting science” with the introduction of new paradigms, such as the application of detrital zircon chronology to subduction-related orogens, which efficiently recognizes new geotectonic subdivisions and allows paleogeographical reconstruction with much higher resolution than before. These new paradigms (ideas, techniques) from Japan are now on sale for applying to the rest of the world.

  * 東京大学大学院総合文化研究科宇宙地球科学教室

 ** 東京工業大学大学院理工学研究科地球惑星科学専攻

*** 株式会社ジオ・コミュニケーションズ

  * Department of Earth Science and Astronomy, Graduate School of Arts and Sciences, The University of Tokyo  ** Department of Earth and Planetary Sciences, Tokyo Institute of Technology

*** Japan Geocommunications Co. Ltd.

地学雑誌

Journal of Geography 119(2)378 391 2010

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I.は じ め に  世界初の地震学会は明治初頭の日本でつくられ た。定期的な会合や会誌には英語が用いられたこ とから,あたかも開国直後の日本に突如国際レベ ルの学会が出現したようにみえるが,実状はその 会員の 70%が当時日本を訪れていた外国人達で 構成されていた。地震がほとんど起きない西欧か ら来た外国人達は,東京滞在中に本国では未経験 だった地震を実体験し,驚くと同時に大いに興味 をもち,学会をつくったというのが真の経緯で あった(金, 2005)。したがって,この時代の日 本は,西欧の先進国の研究者に地震という研究材 料を提供しただけであって,自ら科学の最先端に 立って活躍した日本人研究者が大勢いたわけでは なかった。これは,長い鎖国の後,突如開国し て,西欧の知識を学習しはじめたばかりの明治初 期にあって,ある意味必然の状況であった。  地質学も同様であった。お雇い外国人教師とし て,ドイツからナウマン,アメリカからライマ ン,フランスからコワニエらが来日し,列島各地 の地質学的発見や記述を行った。なかでもナウマ ンは,日本列島全土の岩石・地層・化石の最初の 記述を行い,主要な地体構造とその起源に関する 考察を行って,当時のお雇い外国人教師のなかで 突出した業績を残した(山下, 1992, 1993a, b, c)。 これに対して,古くから経済価値が知られていた 金属鉱床の分布以外は,日本人による科学的発見 はほぼ皆無であった。このようなスタートを切っ た日本の地質学であったが,その後約一世紀半の 間に急速に成熟し,地質学関連の学会数・会員数 や国際学術誌への掲載論文数だけをみても,すで に先進国の仲間入りを果たしたといえるだろう。 明治維新という大胆な方向転換をはかった日本は アジアのなかでは際立った好スタートを切った が,その後,韓国,台湾,トルコ,そしていま中 国,インドが同じ道をたどって,日本に追いつこ うとしている。  日本の地質学史については,これまでにもいく つかのまとめがなされている(今井, 1966, 1993; 日 本 地 学 史 編 纂 委 員 会, 1992a, b, 1994, 1995, 1996, 2000, 2001, 2008, 2009など)が,その多 くは事実記載を主体とし,年表整理といった趣が 強い。しかし実際には,時代背景に即した大きな 研究の流れや,緩急のあるダイナミックな変遷が あったはずで,静的年表からだけでは一連の変化 の全体像を読み取りにくい。とくに日本列島の形 成史に関わる地体構造区分や造山運動論に関し て,あえて各時代の指導的・支配的概念の転換と いう観点から 20 世紀までの歴史的評価を試みた 例として,都城(オリジナル原稿は 1965-1966; 2009bに再印刷),磯﨑・丸山(1991),泊(2008) などがある。  さて,21 世紀に入ってすでに 10 年が経過しよ うという現時点で,再び日本の地質学研究史のな かで一つの時代を画する大きな変化が生まれよう としている(Isozaki et al., 2010 など)。そこで 本稿では,これまでの日本列島の地体構造論・造 山運動の研究史を現代的視点から改めて振り返 り,いま起こりつつある変化の科学史的意義の確 認を試みたい。地質学後進国として出発した日本 の地質学史を理解する上で,Basalla(1967)に よる科学技術の移動パタンの概念とその段階区分 の識別(図 1 参照)が有用である。以下,それ に従って整理を試みた上で,さらに付け加えるべ き発展段階があることに触れよう。 II.バサラによる 3 段階の科学伝達パタン  人類の歴史において,三大発明(火薬,羅針 盤,活版印刷)のほかにも,さまざまな革新的知 識・技術がおのおのの時代の先進国で生まれ,そ の後,周辺の発展途上国へと一方向に伝播するこ とを繰り返してきた。とくに 18 世紀以降の近代 科学においては,その主要な部分は西ヨーロッパ で構築され,順次,東ヨーロッパ,南北アメリ カ,そしてアジアへと伝わっていったことはよく Key words:geology, geotectonic subdivision, orogeny, Japan, paradigm

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知られている。むろんおのおのの地域 / 国の事情 によって,伝搬の速度や様式に多少の違いが生じ た。しかしながら,そこには明瞭な共通のパタン があることに米国の科学史学者 G. バサラが気づ いた。Basalla(1967)によれば,発展途上国の 側からみると新しい科学知識・技術を西欧の先進 国から受け入れる過程には,明瞭な 3 つの段階 が識別されるという。すなわち,(1)非科学 (non-science)の時代,(2)植民地科学(colonial science )の時代,そして(3)独立科学(inde-pendent science)の時代である(図 1)。  (1)は,先進国の研究者達が科学的後進国へ 赴き,そこで新しい事物や現象を発見する時代 で,発展途上国の側については研究の素材を先進 国へ提供する時代である。実際に科学と呼ぶべき 学術活動は外国人のみが行い,現地人には素材提 供の協力者がいるのみで,まだ本物の科学者はい ない。次の(2)は,先進国から新しい知識や技 術を積極的に取り入れ学ぶ時代である。具体的に は,大学や研究機関などのインフラが整備されは じめ,ある程度の数の研究者予備軍が教育される 時代である。ただし,その科学知識や技術の内容 はすべて先進国から直輸入されたものばかりであ る。やがて時間が経つと(2)の時代に教育され た研究者がさらに世代を重ね,国内の研究者集団 が十分に育ち,先進国から定常的に新しい知識や 技術を導入しなくても,大きな痛痒を感じないで すむレベルに達する。これが輸入元からの独立を 成し遂げた(3)の時代である。これらの 3 段階 は,必ずしも特定の明確な年代境界をもつわけで はなく,同国内の同時期に(1)と(2)が,あ るいは(2)と(3)が共存することが一般的で ある(図 1)。  本邦の地球科学の歴史は,まさにこのパタンを 踏んで発展してきたようにみえる。西欧の科学技 術の輸入が一気にはじまったのは明治初頭であっ たが,その文明開化期からほぼ一世紀半が経過し た。歴史的必然から日本の科学は,(1)の段階 からはじまらざるをえず,やがて 20 世紀になっ て必然的に(2)の段階に移行した。そしてよう やく 20 世紀後半に(3)の段階へ昇格しはじめ たが,実際にはその移行はスムーズには進まず, いまだに(2)の時代の精神構造を脱しきれない 研究者もいる。しかし,20 世紀末には日本の地 球科学もほぼ(3)の時代に移行し,さらに 21 世紀の最初の 10 年が終わろうとする現時点では, 一部の分野では,日本独自の研究手法の開発やア イデアの提案がなされ,今度はかつての先進国で あった欧米に新しい考えや技術を輸出できるよう になった。この状態はバサラによる(3)の時代 図 1  西 欧 諸 国 か ら 非 西 欧 諸 国 へ の 科 学・技 術 の 伝 搬 の 一 般 的 パ タ ン と 3 つ の 段 階(Basalla, 1967 を 改 変).日 本 の 地 質 学,と く に 地 体 構 造 論 や 造 山 運 動 論 の 研 究 史 に お い て は,明 治 初 期 の 「1. 非 科 学 の 時 代」,明 治 後 半 か ら 昭 和 中 頃 ま で の「2. 植 民 地 科 学 の 時 代」,そ し て 昭 和 末 期 か ら 平 成 の「3. 独 立 科 学 の 時 代」 が 識 別 さ れ る.お の お の,1 で は E. ナ ウ マ ン,2 で は 小 林 貞 一 ら が 代 表 的 な 役 割 を 果 た し た.都 城 秋 穂 は 2 の 時 代 に 現 れ た 特 異 な 例 外 で あっ た.3 の 時 代 に は,付 加 体 や 高 圧 変 成 帯 の 理 解 が 日 本 独 自 に 進 み,や が て バ サ ラ が 記 述 し な かっ た 「4. 輸出科学の時代」へと移行する礎が築かれた. Fig. 1 A general pattern and 3 distinct stages of transplanting science / technology from Western Europe to the rest of the world (modified from Basalla, 1967). Modern geological knowledge, particularly studies of the geotectonic evolution and orogenic aspects, of the Japanese Islands has progressed through three distinct stages; (1) non-science stage (the 1860s-1890s), (2) colonial science stage (the 1900s-1970s), and (3) independent science stage (the 1980s-). During the 2000s, geosciences in Japan entered the (4) exporting science (from Japan) stage that was not described by Basalla (1967).

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よりもさらに進んだ段階,すなわち科学・技術の 輸入一辺倒から転換し,もともとの先進国であっ た欧米に対してアイデア・技術を輸出できる(4) 輸出科学の時代として識別できるだろう。  日本列島に住む日本人地質学者にとって,国土 の地質およびその形成史の理解は不可避の研究対 象であり,まず世界の地質の理解よりも先に日本 の地質の理解が優先されたのは科学後進国として 出発せざるをえなかった日本の実情であった。日 本列島の形成史に関しては,その基礎となる地体 構造区分とそれをつくった造山運動の説明が主な 研究テーマであり,明治初頭の近代地質学の開始 以来数多くの研究がなされてきた。この日本の地 体構造区分・造山運動論の研究史については,バ サラが識別した 3 つの段階が明瞭に認められる。 すなわち,明治前半のお雇い外国人教師と初期留 学生派遣の時代が(1)非科学(non-science)の 時代,明治後半から昭和後半までの日本国内での 大学・研究所などの基礎インフラ整備の時代が (2)植民地科学(colonial science)の時代,そ して昭和末期から平成の国産研究者層の充実の時 代が(3)独立科学(independent science)の時 代にほぼ相当する。以下にこの 3 段階について 順次説明する。 III.非科学の時代  明治初頭の日本はまさに非科学の段階にあっ た。地質学は英国で生まれ,欧州本土そして北米 で発展した。日本には,明治新政府が外国人教師 を雇うことによってはじめて地質学が輸入され た。外国人教師のなかでは,ナウマン(Edmund Naumann; 1854-1927) が 最 も 偉 大 で あ っ た。 彼は地形図づくりからはじめ,日本列島という未 開地の最初の地質図を完成させた。さらに,日本 列 島 の 地 質 を 特 徴 づ け る 複 数 の 帯 を 定 義 し, フォッサマグナや中央構造線などの主要構造線を 識別することによって今日の大局的な地体構造区 分を明らかにした。それらの重要な構造線の起源 について,日本海の拡大とその後の伊豆半島の衝 突によって本州弧の大構造ができたと考えた。こ れは現在でも正しい。  ナウマンがミュンヘン大学を卒業して,東京に 赴任したのは,彼が 20 歳の時であった。ナウマ ンは 2 年間,東京大学の初代地質学教授を勤め, 教育の傍ら日本列島の地質図を完成させることに 熱中した。その後,東京大学から新設の地質調査 所へと活躍の場を移し,各地の野外調査を続け た。地方での機能的な交通手段としては馬しかな かった時代にありながら,驚くべきことにナウマ ンはその滞在期間 10 年の間に地球の 1/4 周に相 当する約 1 万 km を踏破した。彼の主な業績は, 以下のとおりである。(1)褶曲した古生代地層 や結晶片岩などの造山帯産物の発見,(2)東北 日本と西南日本の境界としてのフォッサマグナの 認定,(3)年代の異なる地質体の帯状配列の発 見,(4)日本海の拡大と伊豆弧の衝突による帯 状配列の屈曲の考察,そして(5)まったく異な る地質体を隣接させる巨大断層としての中央構造 線とフォッサマグナの認識である。以下,これら について順に説明する。  (1)当時の欧州地質学者の常識に従って,ナ ウマンが来日前に抱いていた日本列島のイメージ は,ハワイや仏領ポリネシアの島々と同様,すべ て火山島からなるというものであった。したがっ て,列島の表層から基盤まですべて火山岩のみが 観察されると考えていた。しかし,現地で地質調 査すると強く変形した古生層,領家花崗岩・変成 岩さらには三波川結晶片岩など予想外の岩石が広 く分布することに彼は驚いた。それらの岩石は ヨーロッパアルプスなど彼が大陸で見慣れた岩石 にほかならなかったからである。そこでナウマン は,日本列島はもともとアジア大陸の一部であっ たが,二次的な日本海の拡大によって,見かけ上 海洋内の火山島弧になったと考えた。  (2)広範な地域の地質調査結果に基づき,日 本列島はフォッサマグナという地溝帯(リフト) で東北日本と西南日本に分離されていることを明 らかにした。そこに限って厚い第三紀堆積盆地が 狭長に発達することにも気づいた。  (3)列島各地での化石の発見や変成岩の追跡 に基づき,日本列島がほぼ列島の伸びの方向に平 行な複数の年代の異なる細い帯(belt)に細分で

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きること,すなわち列島の帯状地体構造区分の本 質を明らかにした。  (4)フォッサマグナの存在,そこに分布する 第三系,そしてフォッサマグナをはさむ形で古期 地質体の帯状構造が屈曲することを発見し,この 配列こそが日本海拡大の証拠であるとナウマンは 考えた。すなわち日本列島はアジア大陸から分 離,漂移した後に,南側で伊豆弧と衝突したため に,本州の帯状地体構造が大きく屈曲したと考え た。  (5)中央構造線の両側には,三波川変成岩と 領家花崗岩・変成岩というまったく性質の異なる 岩石群が分布しており,フォッサマグナと同様 に,日本列島の大構造を支配する巨大断層である ことを看破した。  ナウマンはこれらの成果を手に,帰国後ミュン ヘン大学を中心に積極的に講演と執筆を行った が,当時は誰も日本列島の地質に興味を示さな かった。その理由として,当時は地向斜造山論で すらまだモデル化される以前の段階にあり,日本 などといういわば極東の辺境の地域地質に興味を もつ西欧研究者が少なかったことが推察される。 時代としては,地質学の中心がフランスからドイ ツ・オーストリアへ移動しようとしていた頃であ り,欧米で議論された地向斜造山論も,ドイツの シュティレ(Hans Stille)によって体系化され る前夜であった。地向斜造山論はヨーロッパアル プスや,ヘルシニアあるいはカレドニア造山帯の 研究に基づいて構築された。これらはいずれも大 陸衝突型の造山帯であり,日本のような太平洋型 の造山帯ではなかったことも,日本の地質との接 点がなかったもう 1 つの理由であったのであろ う。  しかし,ナウマンの一連の業績は時代を超えて 燦然と輝いている。なぜなら,彼の観察・考察は プレートテクトニクスに基づいて解釈する現代の 地質学から評価しても,すべて本質をついている からである。これに対して,当時の日本人自身に よる研究は皆無であり,明治初期の日本は,ナウ マンに一方的に研究材料を提供するだけで,自ら 科学研究をする以前の段階であった。当時の貨幣 価値から判断して,彼の年棒は約 1 億円に相当 したらしいが,西欧の知識の急速な吸収を願った 明治政府にとっては充分元がとれる投資であった ことになる。  小藤文次郎(1856-1935)は,初期の政府派遣 留学生の代表であった。彼はドイツへ留学し (1880-1884 年),多くの分野(地質学,岩石学, 鉱物学,地震学,火山学など)の基礎知識を学ん だ。また帰国に際しては当時,所蔵文献が皆無に 等しかった母国のために可能な限りの書籍 / 論文 別刷を持ち帰った。ナウマンの後を引き継ぎ, 1885年から 1921 年まで東京大学教授として多 方面の知識を欧州から伝達し,優れた教育者とし て多くの後進を育てた。小藤のほかにも,横山 又次郎,神保小虎,やや遅れて矢部長克,佐川 栄次郎らもこのような留学経験をもち,日本に当 時最新であった西欧の知識や技術を次々と輸入し た。彼らが国内で育てた次の世代の日本人地質学 者が,日本列島の構造発達史を議論する上での基 礎的・記載的なデータを積み上げた。ただし,こ の段階の日本の地質学は,濃尾地震に伴う活断層 崖の写真以外には,西欧諸国に注目されるような 成果をほとんど残していない。しかし明治後半に なると国力も向上し,やがて日本人教師の手でと りあえず自前の教育ができるようになって,非科 学の時代から次の段階である植民地科学の時代に 移行しはじめた。 IV.植民地科学の時代  ナウマンに代表されるお雇い外国人教師の時 代,そして欧州への留学生派遣の時代を経て,日 本の地域地質が徐々に記載されるようになり,日 本列島の精密な地質図がつくられ,鉱産資源の探 査を目的とした地質調査が時間をかけて進んだ。 やがて初期記載の時代が終わり,最初の総合化・ 体系化の時期となった。一方,19 世紀までは西 欧にあった科学研究の中心は 20 世紀に入ってか ら徐々にアメリカに移動しつつあった。  その頃,米国にほぼ 10 年滞在した小林貞一 (1901-1996)は,シュティレがまとめて間もな い地向斜概念を学んで帰国し,日本人による最初

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の日本列島構造発達史の集大成モデルを提唱した (Kobayashi, 1941)。夭折した小澤儀明の跡を継 いだ小林は,近代地質学を導入してから約 50 年 の間に蓄積されたデータを整理し,日本列島の基 盤を構成する岩石・地層が帯状配列すること,ま た産出化石の年代が日本海側から太平洋に向かっ て段階的に若くなるパタンがあることを見いだし た。とくに古生代後半,中生代後半,そして新生 代の地層が厚く堆積した地域が明瞭に識別できる ことに注目し,おのおのの地層群堆積およびその 後の変形・変成として記録された 3 回の主要な 地向斜形成・造山運動が起きたと説明した。これ はナウマンからはじまった日本の地質学の歴史の なかで,はじめて日本人自身による列島形成史の まとめという意味で,それまでの非科学の時代に 完全な終止符を打つ,大きな成果であった。  第二次大戦をはさんで日本の政治や経済は大き く変化し,そして思想面でも自由主義・民主主義 が広まった。その流れのなかで当時の若い世代の 研究者達は,すでに権力化していた帝国大学の民 主化を模索しはじめ,その権威の象徴として小林 の学説が標的にされた。具体的研究手法として は,従来よりもはるかに精度の高い詳細な地質図 の作成がなされるようになった。その結果,議論 が緻密化し,各地で小林モデルの批判・修正がな された(市川ほか, 1955, 1972; Minato et al., 1965 など)。しかし,小林のモデルも,それを批判・ 修正したモデルも,ともに欧米でつくられた地向 斜概念(とくにドイツのシュティレの地向斜論) を日本の具体的地質記載に単純に当てはめただけ という域を越えず,1970 年代まではバサラのい う典型的な植民地科学の時代が続いた。換言する と,日本の地質学は西欧の研究者にとって,まだ 何か新しい考え方を学ぶべき魅力的対象ではな かった。このような傾向は,後述する都城秋穂の 業績を除けば,1960 年代後半になってプレート テクトニクスが現れた時も同様であった。  プレートテクトニクスの体系は,日本で地向斜 の部分修正モデルのまとめが出版された 1965 年 の直後にあたる 1968 年に米国を中心に構築され た。とくに現世の海洋底に関して,古地磁気など 地球物理学的データが急速に得られたことが大き かったことは広く知られている(Oreskes, 2001 など)。それを地質学,とくに造山運動論にとり 入れ当時としては見事にまとめてみせたのが Dewey and Bird(1970)で,造山帯の分類を示 す彼らの多数の断面図は Deweygram と呼ばれ て,その後頻繁に引用された。すると日本でも直 後の 1971-1972 年には Dewey and Bird(1970) の考えを表面的に日本列島に適用した,ある意味 で「見よう見まね」ともいえる解釈やモデルが現 れた(堀越, 1972; 市川ほか, 1972 など)。一方で, 現在に近い新生代だけはプレートテクトニクスで 説明するが,中生代以前については依然として地 向斜で説明するといった新概念の受け入れにあ たって奇妙な妥協をした研究者もいた(木村, 1976, 1983)。いずれも独自の考えというよりは, 欧米で新しく現れた考え方を無理矢理あるいは躊 躇しながら従来の枠組みに当てはめようとした結 果の折衷案であった。1970 年代におけるオフィ オライト,メランジュなどいくつかの舶来片仮名 用語をめぐっての日本の地質の再解釈・説明もそ の路線上にあり,このような傾向は 1980 年代に なっても続いた。一方で,これらを欧米崇拝主義 だとして反発し,実際には当時まだ発展途上国に すぎなかった旧共産圏のソビエト連邦や中国から 反プレートテクトニクス的考えを学ぼうとする研 究者たちもいた(例えば, 藤田・鈴木, 1981)が, これとて根底にある発想は同じで,外国産のアイ デアに隷属する植民地科学の態度にほかならな かった。  最近の日本における典型的な植民地科学的活動 としては,1970 年代末に北米西岸地域の地質か ら新たに提唱された「テレーン」説を誰がいちは やく日本に適用するのかという競争があげられる だろう。テレーン説は簡単にいうとミニチュア版 の大陸移動説であった。大陸とは呼べないサイズ の複数の小陸塊や島弧が過去の海洋中には多数散 在し,それらがプレートの沈み込みに伴って順次 大陸縁辺に衝突・付加し,大陸縁を海側へと成 長させるという考えである。その考えの応用例 として,日本のなかにあって特異な地質をもつ

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南部北上帯や黒瀬川帯があげられた(Saito and Hashimoto, 1982)。ところが,その頃には,日 本列島の主要な地体構造単元(帯)が過去の付加 体からなることが判明しはじめていた(勘米良, 1976など)。付加体はあくまで海溝で形成される 地質体であって,沈み込み以前の海洋プレート上 に既存の陸塊をなしていたわけではない。それに もかかわらず,日本各地の付加体からなる領域に ついてまでも,従来の帯という名称を廃し,テ レーンと呼びかえるブームが起きた(水谷, 1988; Ichikawa et al., 1990)。しかし Sengor and Dewey (1991)らが“a new hat on an old head”と揶

揄したように,これは単に言葉の置き換えによっ て何か新しい知識を得た錯覚をおこしただけで, 実際は無用な混乱を残しただけであった。このよ うな発想の根底には,まさに植民地科学時代の精 神が根深く内在していたといえるだろう。さらに 各テレーン(帯)が海溝の内側で横ずれ再配列す るという「テレーン再配列プロセス」が熱心に議 論され(山北・大藤, 2000 など),なかにはマン トル起源の蛇紋岩を含む横ずれ構造帯ができたと 解釈した研究者もいた(Taira et al., 1983)。し かし,これらの説明にも本来の独創性はなく,し かも誤っていたことが後に地殻弾性波探査によっ て実証されつつある(佐藤ほか, 2005; 伊藤・佐藤, 2010)。 V.自立科学の時代  1)パイオニア  日本での「テレーン騒動」は,日本の地質学が 自立科学の時代へ移行する転換期に起きたいわば 最後の典型的植民地科学の象徴であった。1980 年代になると,ようやく日本からも“脱”植民地 科学的研究が現れはじめた。実は,1950 年代の植 民地科学時代のまっただなかにありながら,都城 秋穂だけは,独創的な研究を進めていた。彼の自 伝(都城, 2009a)にその理由・経緯が明らかに されているが,都城はそれまでの光学顕微鏡観察 に基づく記載中心の岩石学に熱力学を導入し,変 成岩岩石学の体系化と日本の広域変成帯の記載学 的研究,さらに日本列島の熱流量と地形,火山分 布を参考に,「対の変成作用」の新概念を確立し た(Miyashiro, 1961, 1973a)。またオフィオラ イトという舶来概念の一般的解釈に対して真正面 から反論を述べる(Miyashiro, 1973b)という, およそ植民地科学時代の日本人研究者には考えら れない独創的な研究を行った。これはバサラが指 摘した,次の時代の先駆者はその前の時代が終わ るよりもずっと前に現れるという例にあたり,日 本の地質学史のなかでの都城の特異性は際立って いる。  2)海洋プレート層序  日本の地質学が本格的に独立科学の時代にさし かかったのは 1980 年代はじめであった。当時の 日本から生まれた独創的な研究として,微化石層 序を用いた過去の遠洋深海堆積物の認定と過去の 付加体の内部構造解析の手法確立があげられる。 これは当時,大阪市立大学の大学院生であった 松田哲夫(1947-2002)と彼の共同研究者達が 行った,美濃・丹波帯および秩父累帯における研 究によってもたらされた。なかでも愛知 / 岐阜県 境の木曽川沿いの犬山地域で行った,層状チャー トの「一枚おろし」と称した高分解能のコノドン ト層序と放散虫による周囲の砕屑岩の年代決定の 研究が重要であった。犬山地域にはきわめて厚い 複数のチャート層が見かけ上,厚い砂岩層と整合 的に交互層をなしており,それまで一連整合で堆 積した地向斜の地層の典型例として,高等学校の 「地学」教科書に掲載されたりしていた。しかし 微化石を用いた「一枚おろし」研究の結果,すべ て整合という理解は完全な誤りで,実際にはほぼ 水平な複数の断層によってもともと一続きだった 薄い地層が何度も繰り返し累重する duplex 構造 の実態が解明された。  その結果を一般化して,付加体の本質を特徴づ ける「海洋プレート層序」(ocean plate stratig-raphy)概念が確立された(Isozaki et al., 1990; Matsuda and Isozaki, 1991)。付加体の概念はす でに Seely et al.(1974),勘米良(1976)によっ て,また「海洋プレート層序」の原型ともいえる 「プレート層序」の概念自体も Chipping(1971)

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し,付加体をつくった海溝やプレートの形態がす でに消えてしまった過去の造山帯中に,付加され た過去の海洋プレート物質を認定し,そのなかか ら微化石を用いてプレート層序を復元する具体的 な方法論は未知であった。その具体的解析方法を はじめて示したのが犬山地域の研究であった。過 去の付加体の内部構造解析において構成層の各部 分の正確な年代決定が不可欠だが,とくにコノド ント化石に基づくトリアス紀 ジュラ紀前期の放 散虫化石層序の確立が鍵となった。さらに二次的 混合を受けた混在岩相についても,松田を中心と した大和大峰研究グループ(1981)が広範囲を 微化石マッピングする研究スタイルを開発して, 外来ブロックと周囲の基質との年代差を明確に し,付加体の内部構造の理解を進めた。松田らに よる初期の試行錯誤の末,1980-1981 年頃に一 旦パラダイムができあがると,すぐに日本中を巻 き込んだ放散虫研究ブームが訪れた。日本各地で それまで秩父古生層あるいは秩父地向斜の堆積物 とされていた地質体が,ジュラ紀あるいはペルム 紀の付加体として明確に定義・識別されるように なった。まさに新しいパラダイム出現によって, 次の通常科学の時代が拓かれた。ほぼ同じ頃に 四万十帯の白亜紀 古第三紀付加体についても詳 しい調査がなされた(平ほか, 1980 など)が,こ の時代における問題として,付加体の認定が可能 なのは海洋プレート起源物質が存在する場合に限 られるという制限があった。とくに四万十帯の付 加体のようにほぼ 99%が砂岩・泥岩から構成され ている場合については年代決定が曖昧なまま残さ れた。この問題の解決には後述するジルコン学の 登場までさらに 30 年近く待たねばならなかった。  海洋プレート層序の概念は,付加体の認定のほ かに,海溝からマントル深部へと沈み込んだ海洋 プレートに関する情報(沈み込んだ方向,時期, さらに沈み込み時のプレートの年齢など)の復元 を可能にする。現存する海洋プレートの相対運動 から求められた過去 180 Ma までのプレート相対 運動復元と,陸上の付加体の記録から,過去のプ レ ート 古 地 理 が 復 元 さ れ た(Maruyama and Seno, 1986)。これらの一連の研究から太平洋型 造山運動にとって中央海嶺沈み込みが決定的に重 要であることが確認された(Maruyama, 1997)。 海洋プレート層序概念は,日本列島各地の付加体 解析に利用されただけでなく,1980 年代後半に なると,北米西岸のフランシスカン層群まで拡大 され,アメリカの研究者にも受け入れられた (Sedlock and Isozaki, 1990; Isozaki and Blake,

1994; Kimura et al., 1996など)。一方,英国で は Leggett et al.(1982)がいちはやく,古生代 の付加体にこの概念を適用して,付加体の成長極 性の議論に発展させた。  3)高圧変成付加体と造山帯の水平内部構造  放散虫化石の抽出による付加体の認定が日本中 で一段落した 1980 年代後半になって,次の大き な進展が起きた。三波川変成岩に代表される日本 の低温高圧型変成岩について,その原岩が付加体 である(Toriumi, 1981)ことが確実となり,具 体的には散点的ながら微化石に基づく原岩形成年 代の推定とその後に起きたはずの変成作用の年代 が識別して議論されるようになった(Isozaki and Itaya, 1990)。とくに高圧型変成岩に隣接す る弱変成付加体の原岩形成年代と変成年代の識別 が大きな理解の転換を迫った(磯﨑・板谷, 1991 など)。弱変成付加体が日本列島に分布する面積 は少なくないにも関わらず,明確な変成度を示す 鉱物が少ない,あるいは変成作用によって微化石 の抽出が困難である等の理由で,それまで変成岩 研究者および微化石研究者のどちらもがこれらの 岩石を主要な研究対象として選んでこなかった。 しかし,弱変成付加体の泥質岩から丁寧に細粒白 雲母を分離し,多数の K-Ar 年代を測定する一 方,保存の悪い化石を根気強く抽出する試みに よって,それまで帰属が不明瞭だった地質体が付 加体あるいは高圧変成岩として明確に年代によっ て定義することが可能となった。その結果,隣接 する付加体同士の境界も野外で明確に認定できる ようになり(西村ほか, 1989; 鈴木ほか, 1990; 高見ほか, 1990; 河戸ほか, 1991 など),日本列島 の地体構造区分は,新たな枠組みのなかで,再定 義された。これは,19 世紀末の地向斜以前のナ ウマンの時代,そして 20 世紀中頃から後半の地

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向斜で説明する小林達の時代を経て,改めてプ レートテクトニクスの枠組みのなかで日本列島の 地体構造区分が整理されたという意味をもってい た。  微化石の年代と放射性年代の測定を組み合わせ て,非変成から高圧変成を受けた種々の付加体す べての関係が明らかにされ,異なる形成年代の付 加体間の初生的境界はすべて低角度断層であるこ とが解明された。その結果,構造的に下位に向 かって付加体の年代が系統的に若くなることが解 明され(磯﨑・板谷, 1991; 磯﨑・丸山, 1991), 表層の地質から指摘されたこの大構造は後に弾性 波探査から支持されている(佐藤ほか, 2005; 伊藤・佐藤, 2010)。アルプス・ヒマラヤ造山帯 のような大陸・大陸衝突型造山帯では,低角度の ナップが累重する構造が支配的であることが伝統 的に知られていたが,海洋プレートが一方的に沈 み込み続ける太平洋型(あるいはコルディエラ 型,都城型)造山帯においても同様な構造が発達 することは,従来のテクトニクスの常識にはな かった新知見であった。さらに高圧変成岩の年代 決定の精度が向上し,また付加体の海洋プレート 層序に基づく考察から,中央海嶺の沈み込みと高 圧変成帯の上昇および花崗岩バソリスの形成に年 代的対応が認められた。これは太平洋型造山帯の 中核をなす花崗岩帯の形成と広域変成帯の上昇が 間欠的に起きたことを示しており,このような造 山プロセスが約 1 億年の周期をもつことが判明 した。Dewey and Bird(1970)がコルディエラ 型と呼んだプレート沈み込み型造山帯において, このような海嶺の沈み込みによって間欠的なリズ ムがつくられることはプレートテクトニクスに基 づく造山運動論のなかでははじめて指摘されたこ とであった。これらの日本で解明された地質学的 現象は,単に顕生代の日本列島という固有の場所 と時間においてのみ認められるものではなく,同 様なテクトニック・セッティングでさえあれば世 界中のどこでもまたいつでも認められるべき一般 的な現象であった。例えば,当時詳細は不明で あったにもかかわらず,かつて同様のセッティン グにあったと考えられる顕生代の北米西岸やオー ストラリア東岸でも同様の地質体の分布や構造が 認められるはずだと予想することが可能となり, 実際に後年それが実証された。科学研究全般のな かにおいて,このような予測可能性を含んだ一般 的抽象概念の提案は,個別の自然現象の発見・記 載とは本質的に異なっており,より高次元の貢献 であったといえる。 VI.新理論やモデルを輸出する時代  プレートテクトニクスの構築直後には,表面的 な物真似しかできなかった日本の地質学であった が,上述のように 1990 年前後には,西欧にない 新たな概念をつくりだすことができるまでに成熟 した。本稿は地体構造区分や造山運動論に焦点を 当てているが,これ以外にも,日本のレベル向上 を示す好例がいくつかある。これは日本の地質学 がようやく植民地科学の時代から完全脱却したこ とを意味している。次に,それらの成果も眺めな がら,科学後進国といえども順調に成熟すればや がて必然的に到達すべきもう 1 つの段階,すな わちバサラが提案しなかった 4 つ目の最終段階 があることについて議論する。  Miyashiro(1961, 1973a)による対の変成作 用の概念は,学問後進国から突然,奇跡的に現れ た独創的概念であった。その後やや時間があいた ものの,日本の地質学・地球物理学研究の充実と ともに,1980 年代以降ではホットスポットの軌跡 に基づく過去のプレート運動の復元と陸上の造山 運動を結びつける考え方(Seno and Maruyama, 1984; Maruyama and Seno, 1986),付加体がも つ海洋プレート層序の概念(Isozaki et al., 1990; Matsuda and Isozaki, 1991),海嶺沈み込みと高 圧変成帯の間歇的上昇をモデル化した太平洋型造 山運動モデル(Maruyama, 1997),沈み込んだ 海洋プレートの 660 km 深度での滞留と間歇的な 崩落を含む全地球規模のプルームテクトニクス (Maruyama, 1994)などが,次々と世界に発信 される時代となった。とくに 20 世紀の最後の 10 年は,日本の地質学が欧米に追いつき,一部は完 全に追い越して,新しい概念を世界へ逆輸出しは じめた時代となった。要するにこれまでの先進国

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であった欧米の研究者達が日本の地域地質学から 一般的な概念を学んで,それを世界の他の部分に 適用するという,従来ありえなかった状況が起き はじめている。  さらに 21 世紀に入って大きな進展が起こりつ つある。例えば,砕屑性ジルコン年代学の登場に より,過去の付加体および高圧変成岩の識別・同 定に新しい基準が加わった。その結果,日本の代 表的高圧変成帯としてこれまで一括されてきた三 波川帯が,実はまったく異なる時期に形成された 2種の高圧変成帯からなることが判明した(Aoki

et al., 2009; Tsutsumi et al., 2009; 青木ほか, 2010; 大藤ほか, 2010)。また陸源砕屑物の後背地(大 陸縁,海洋内の孤立した島弧など)の把握によっ て,従来に比べてはるかに正確な古地理の復元が 可 能 と な っ た(Isozaki et al., 2010; 中 間 ほ か, 2010, 投稿中)。その結果,プレート沈み込み帯 において付加体の形成と同様に,既存の付加体・ 島弧地殻の構造侵食の重要性が浮き彫りになりつ つある。かつて von Huene and Scholle(1991) は,環太平洋の前弧域の弾性波探査と深海掘削の 情報に基づいて,沈み込み帯で構造侵食が頻繁に 起きたことを指摘したが,陸上の地質に基づいて その普遍性が議論されたことはなかった。現世の プレート沈み込み帯の半分以上では付加体の形成 は起きておらず,逆に一旦できた付加体が構造的 に削られている場合も多い。過去の日本列島にお いてかつて存在した付加体や弧地殻が縮小・消失 したことが砕屑性ジルコン年代学から明らかに なった。したがって,アジア東縁の日本列島の成 長は定常的にあるいは一方的に海側へ進んだので はなく,前弧域の成長と縮退が繰り返し起きたと 理解される。このような砕屑性ジルコン年代学と いう新たな研究手法の開発そのものは新しいパラ ダイムの創出であり,とくに造山論における貢献 が大きいので,今後急速に普及すると考えられ る。  地球科学の他分野でも,地震波の高精度解析あ るいはマントル・トモグラフィーによる日本列島 や東アジアの地下構造の推定(東北大学の長谷川 グループや名古屋大学・東京大学地震研究所の 深尾グループの一連の研究)など欧米にない目覚 ましい成果が日本から生まれており,それら地球 物理学分野からの貢献と地質学・岩石学の成果が 融合して,さらに新しい総合的概念が生みだされ ようとしている。そういった意味で,日本の地質 学もようやく 20 世紀末から 21 世紀初頭になっ て真の科学技術先進国のレベルに達したと評価で きる。とくに都城のように大きく時代に先行する 特異な単独例ではなく,ある程度の人数を擁する まとまった研究者世代がようやく日本で育ったと いえる。さらにアジアでは近年,日本の後を猛追 してきた中国,インド,台湾,韓国,トルコの研 究者達が活躍し,すでに一部では日本を追い越し ている。  このようなアジア諸国の状態を,バサラが区分 した 3 番目の「独立科学の時代」として一括す るのは妥当ではない。なぜなら,従来の先進国の 仲間入りを果たすだけではなく,もともとの後進 国が従来の先進国を追い越し,最先進国になると いう明らかに別のより高い次元の段階に移ったと 考えられるからである。この段階を「輸出科学の 時代」と呼ぼう。実際に地質学全体の歴史を眺め ても,同様のことはしばしば起きたらしい。これ まで地質学の中心は,黎明期の英国から,やがて 大陸のドイツ・オーストリアに移り,次に 20 世 紀中頃になるとアメリカが地質学のみならずほぼ すべての分野において科学超大国となった。バサ ラが議論したのは主に西欧からアジアなどの後進 国への科学の伝播であって,広い意味での西欧文 化圏にあたるアメリカやカナダなどは彼の概念に 直接当てはまらないかもしれない。そういった意 味では,地質学において,かつての西欧以外の科 学後進国のなかからはじめて科学的独立を果た し,さらに概念の輸出を開始した最初の例が日本 であったといえるかもしれない。

 Thomson Reuter 社の Web of Science によれ ば,1999 年 1 月から 2010 年 1 月までの約 11 年 間における日本の地球科学の学術論文被引用回数 総数は世界で第 7 位であった(表 1)。上位 6 位 までは,上から順にアメリカ合衆国,英国,ドイ ツ,フランス,カナダ,オーストラリアと,西欧

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表 1 地球科学関係分野の学術論文被引用回数の国別順位上位 30 傑(Thomson Reuter, 2010 を一部改変). Table 1  Standing of top-30 countries in terms of total citation numbers of geo-science articles in international

journals (modified from Thomson Reuter, 2010).

順位 国名 (人口:百万人) 論文総数(編) 被引用総数(回) 被引用回数 / 編 被引用回数 / 千人 人口当り順位 citation ranking nation (population: million) total paper no. total citations (times) citation per article citation per 1k capita population-normalized ranking 1 USA (314) 88854 1236760 13.92 3.94 14 2 UK (62) 31190 413496 13.26 6.63 6 3 Germany (82) 25475 324708 12.75 3.96 13 4 France (62) 22822 276951 12.14 4.47 12 5 Canada (34) 18855 200294 10.62 5.89 9 6 Australia (21) 13378 164864 12.32 7.85 5 7 Japan (127) 16597 149009 8.98 1.17 20 8 China (1353) 21967 143058 6.51 0.11 − 9 Italy (60) 13262 124128 9.36 2.07 17 10 Switzerland (8) 6998 103474 14.79 12.93 1 11 Netherland (17) 6711 90093 13.42 5.30 10 12 Russia (141) 20144 75856 3.77 0.54 22 13 Spain (45) 7391 63275 8.56 1.41 18 14 Sweden (9) 5010 59470 11.87 6.61 7 15 Norway (5) 4991 54784 10.98 10.96 2 16 Danemark (5) 3364 44287 13.16 8.86 3 17 India (1198) 8631 39642 4.59 0.033 − 18 NewZealand (4) 3221 35212 10.93 8.08 4 19 Belgium (11) 2964 33192 11.20 3.02 15 20 Brasil (194) 3788 29577 7.81 0.15 − 21 Finland (5) 2472 29527 11.94 5.91 8 22 Austria (8) 3008 29309 9.74 2.54 16 23 Taiwan (23) 2861 23434 8.19 1.02 21 24 SouthAfrica (50) 3041 23135 7.61 0.46 23 25 Israel (7) 1856 33868 12.32 4.84 11 26 Greece (11) 2396 21915 9.15 1.99 19 27 SouthKorea (48) 2856 20541 7.19 0.43 24 28 Turkey (75) 2838 19129 6.74 0.256 26 29 Mexico (110) 2469 17164 6.95 0.156 − 30 Argentina (40) 2658 15920 5.99 0.398 25 近代科学の基礎・発展を支えてきた西欧および北米諸国が圧倒的に上位を占める.アジアでは日本が最高位の 7 位 にいるが,8 位に中国が肉薄し,以下,17 位にインド,23 位に台湾,27 位に韓国,そして 28 位にトルコの順で続 く.中南米ではブラジル,メキシコ,アルゼンチンがそれぞれ 20 位,29 位,30 位に位置する.人口比で比べると, 西欧諸国の優位がさらに顕著になり,合計で 1 位の米国も 14 位に,そしてアジアからは日本が 20 位,台湾が 21 位, 韓国が 24 位,トルコが 26 位となる.

The higher positions are occupied mostly by the countries in Western Europe and North America where the basics of modern-day sciences were built. Among Asian countries, Japan is ranked at no. 7, China at no. 8, India at no. 17, Taiwan at no. 23, South Korea at no. 24, and Turkey at no. 28, respectively. From Middle-South America, Brasil, Mexico, and Argentina are ranked at no. 20, 29, and 30, respectively. With respect to the population of each country, the standing of citation frequency is modified as shown in the right-end column; Japan at no. 20, Taiwan at no. 21, South Korea at no. 24, and Turkey at no. 26, respectively.

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およびそれらから派生した国々が占めている。日 本のすぐ背後の 8 位には中国が迫っており,そ の後に少し間を空けてインドが 17 位,台湾が 23 位,韓国が 27 位,トルコが 28 位と西欧諸国の なかにアジアの 6 カ国が上位 30 傑に参入してい る。ただし各国の被引用回数と人口との比で並べ 替えると,アジアの国々の順位はさらに低くな り,西欧諸国が上位を独占する状況はより鮮明に なる。これは基礎的学問など文化的財産を築くに はまず社会構造と経済の長期安定が不可欠である ことを示しており,それらの点で大きく先行した 西欧諸国が優位を占めるのは当然の結果といえ る。アジアのなかでわずかに日本が優位に立って いることは,いちはやく明治維新という離れ業を 成し遂げたことの遺産であろう。とはいうもの の,このような世界の学術活動度リストの上位に アジアから複数の国々が顔をだすなどということ は 20 世紀中頃まではありえなかったことを考え ると,質的および量的にその牽引車として日本が 果たした役割は大きかったといえる。 VII.お わ り に  本稿では,明治初頭から現在までの約 140 年 間における日本の地体構造論・造山運動論の研究 史(それはほぼ日本の地質学史にあたる)を,極 東のある科学後進国がいかにして先進国入りを果 たしたのかという観点から眺めてみた。日本の地 質学はバサラが提案したとおりの道筋を歩み,ア ジアではじめて先進国入りを果たしたが,今の位 置づけは彼の観点だけでは正確に把握できない。 なぜなら,日本の地質学はこれまでの後進国にな い成果をあげ,すでにバサラが想定しえなかった 段階に達したからである。言い換えれば,彼が考 察した 1960 年代にはまだアジアなどの非西欧後 進国から真の科学先進国入りした例が地質学以外 でもきわめて少なかったので,その当時彼が第 4 の時代すなわち「輸出科学の時代」を想定しえな かったのはある意味当然であったといえよう。  ちなみに,明治初頭に同様なスタートを切った にもかかわらず,素粒子物理学や天文学などはす でに昭和中頃 後半には「輸出科学の時代」に到 達した。これは学問分野の性格の違いを反映して いる可能性がある。すなわち可能な限り単純な系 のなかで論理を突き詰める方向を目指す要素還元 主義的学問分野と,地質学や生態学のようにきわ めて多数の要素からなる複雑系を対象とする学問 領域とを比べると,後者の方が全体像を捉えるま でにより長い時間を要することに関係しているの かもしれない。  本論はあくまで著者達の私見ではあるが,日本 の地体構造論・造山運動論の歴史を対象に,西欧 以外の科学後進国がいかにして先進国に追いつき 追い越すのかという視点からの再整理を試みたも ので,日本地質学の「坂の上の雲」物語といえる かもしれない。個人の研究者はあくまで研究者コ ミュニティーのなかの一員にすぎないが,その各 個人は学問進歩の大きな流れのなかでの自らの位 置づけを正確に把握し,次の時代に向けて何を研 究すべきかを考える必要がある。さもないと,先 人達が導き,築いてくれたそのコミュニティー全 体の現時点のレベルを保持できないばかりか,同 様に「坂の上の雲」を目指して背後に迫る他の発 展途上国に容易に追い抜かれてしまうであろう。 歴史を学び理解することの意味は,あくまで自身 の位置を見つめ直し,さらに将来の指針を探る上 での判断基準とすることにある。21 世紀初期時 点における日本の地質学の現状も,やがて将来の 歴史評価の俎上にのることになるが,そのなかで 20世紀よりもさらに大きく飛躍した時代だった と評価される成果を残したいものである。 謝 辞  粗稿について有益なコメントをくださった酒井治孝, 笠原順三,江里口良治,板谷徹丸,椚座圭太郎の諸氏 に感謝する。本邦の地体構造区分・造山運動論におけ る独立科学の時代の先駆者であった故松田哲夫博士に 小論を捧げる。

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表 1 地球科学関係分野の学術論文被引用回数の国別順位上位 30 傑(Thomson Reuter, 2010 を一部改変). Table 1  Standing of top-30 countries in terms of total citation numbers of geo-science articles in international

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