奈良学ナイトレッスン 平成26年度 第5夜 ~ 知っているつもりの東大寺─聖武天皇と光明皇后─ ~ 日時:平成 26 年 8 月 28 日(木) 19:00~20:30 会場:奈良まほろば館 2 階 講師:西山厚(にしやま あつし)帝塚山大学教授 内容: 1.聖武天皇の本当の願い 2.後に東大寺になる小さなお堂 3.光明皇后はこんな人 4.阿修羅像は、誰が何のために造ったのか 5.聖武天皇がとても大切にした教え 6.光明皇后の悲しみから生まれたもの 7.「知る」とは他人事にしないこと 1.聖武天皇の本当の願い 奈良にほんのわずかでも関心のある人なら、東大寺を知らない人はいないと 思いますが、案外、東大寺に関して、多くの人が知らないこともたくさんある、 そんな話をしてみたいと思っています。 言うまでもなく奈良の大仏様は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。奈良時代に、聖 武天皇が大仏を造ったのは、誰もが知っていることです。聖武天皇がどうして 奈良の都に大仏を造ったのか、小学校の6年になれば、社会科の時間に勉強す るので、日本中の小学校6年生はみんな知っている。しかし、聖武天皇がなぜ 大仏を造ったかを、学校で先生がどんなふうに子ども達に説明をなさっている のか、少し疑問に思うのです。 聖武天皇は大仏を造った理由をご自身でこんなふうに言っておられます。 「すべての動物、すべての植物が、ともに栄える世の中を作りたい。だから私 は大仏を造ることを決意した」 これが、聖武天皇が大仏を造った本当の理由でした。しかし、考えてみたら、 「すべての動物、すべての植物が、ともに栄える世の中」とは、どんな世の中 なのでしょう? そんな世の中は本当にあるのだろうか、存在するのだろう か? という疑問が湧いてきます。私はたぶん、そんな世の中はないと思って
います。あり得ないと思います。それどころか、すべての人間がともに栄える 世の中すらないと私は思っています。 いま、世界中でますます戦いが広がってきました。シリアやイラクやアフガ ニスタンやウクライナやその他、いろいろなところで戦いは大きくなってきて いて、戦っている人たちは、皆、幸せを求めて、平和を求めて戦っているので すが、幸せの考え方が人によってまったく違うので、戦いはなくならない。み んな、幸せ求めて殺し合う、これが人類の歴史であって、これからもきっと、 変わらないのではないかと私は思っているのです。 「すべての動物、すべての植物」どころか、すべての人間がみんな幸せにな る世の中というのも絶対に未来永劫こない、と私は思っているのですが、聖武 天皇は本気なのです。聖武天皇は本気で、こういう世の中を作りたいと思って いる。従って聖武天皇はとても苦しむことになります。なぜなら、出来ないか ら。出来ないことを本気でやろうとするので、聖武天皇はとても苦しむことに なります。 そして聖武天皇は変なことを言うのです。あの大きな大仏様を造るのは、と ても大変。さらに、大仏を入れるための大きな大仏殿も造らなければならない。 今の大仏殿も世界最大級の木造建築ですが、奈良時代の大仏殿は今よりもっと 大きかった。それほどのものを造らなければならないのに、「大きな力で造る な。たくさんの富で造るな」とおっしゃった。大きな力こそ、たくさんの富こ そ、必要なのではないのだろうかと普通なら思います。 では、どうするのですか? 聖武天皇は、また変なことを言うのです。「一 本の草を持ってきた人にも、ひと握りの土を持ってきた人にも、手伝ってもら いなさい」と。一本の草を持ってやって来て、「私も大仏造りを手伝いたい。 何かやらせてください」と言う人がいたら、その人に手伝ってもらいなさい。 土を握ってやって来て「私も大仏造りに協力したいです」と言う人がいたら、 その人に手伝ってもらいなさい、と聖武天皇は言います。 一本の草など持ってきて、何の役に立つのでしょうか? 土を握ってやって きて、「私にもやらせてください」と言われても、そんなことが何の役に立つ でしょうか? まったく、何の役にも立たないですね。それよりも、大きな力 のほうが、たくさんの富のほうが、絶対に役に立つと思うのです。聖武天皇は
いったい、どういう人なのでしょうか? 何を考えている人なのでしょう? 聖武天皇がこういう考えになったのは、理由があります。どんなことにも理 由があるのです。聖武天皇もきっと、始めからそういう考えの人であったので はなく、わけがあって、こういう考え方になっていったのだろうと思うのです。 そのわけとは何か。 聖武天皇の時代は、とてもたいへんな時代でした。干ばつ、飢饉。まとまっ た雨が3年くらい降らなくて、穀物はみな枯れていく。そうすると食べるもの がなくなって、多くの人が餓えに苦しみ、そして死んでいく。 その上、大きな地震が起きて、たくさんの人が死んだ。それから、天然痘と いう病気が大流行して、また、たくさんの人が死んだ。 そういう中でも、内乱が起きて人間は戦うのですね。聖武天皇は、すべてこ れは、自分のせいだとおっしゃった。「責めは我ひとりにあり」と言われた。 私の政治が素晴らしければ、こんなことにはならない。私の政治が悪いから、 天が罰を与えたのだとおっしゃるのですね。 聖武天皇は、牢屋に囚人がいる、それは私のせいだというのです。私の政治 が素晴らしければ、みんな幸せになって、悪いことをする人は一人もいなくな る。だから、牢屋は空っぽになるはずだ。だが今、牢屋には囚人がたくさんい る。それは自分の政治が悪いからだ、私のせいだというのです。 そんなことはないのですよ。牢屋が空っぽでないのは、聖武天皇のせいでは ない。悪い人間が悪いことをするわけではなくて、悪いことをやらざるを得な いような状況になったら、誰だって悪いことをするのです。聖武天皇のせいで はありません。 雨が降らないのも、地震が起きたのも、天然痘が流行ったのも、牢屋が空っ ぽでないのも、聖武天皇のせいではありません。しかし、聖武天皇は本当にそ れを自分のせいだ、しかも、自分だけのせいだと思っている。みんなに幸せに なってほしいと本当に心の底から思っているのに、現実は、逆、逆、逆。しか もそれは、自分のせいなのです。聖武天皇はとても苦しみます。 歴史を勉強する時に大事なことは、一つだけしかありません。それは、他人 事にしない、ということです。聖武天皇がこの時、どんな気持ちになったか、 どれほど苦しんだかを想像してみることが大事です。
1250年も昔の人です。聖武天皇は赤の他人ですが、そう思っているうち は、歴史というものは理解出来ない。この時、聖武天皇がどんな気持ちだった のだろうか。聖武天皇がどれほど苦しんだのだろうか。そういうことを想像し てみる必要があるのです。 もちろん、本当のことはわかりません。私たちは聖武天皇みたいに立派な人 ではありませんから、自分のせいでもないことを、自分のせいだと思って苦し んだりはしません。聖武天皇がその時、どんな気持ちであったか、どれほど苦 しんだのか、本当のところは想像出来ないかもしれないが、少し、近づいてみ ることは出来ると思います。それが大事なのです。 皆さんは3年前の3月11日に、どこでどんなことをしておられましたか。 私は、夜はずっとテレビを見ていました。そして、真っ黒い波がやってきて、 町を飲み込み、すべてを壊し、そういう映像をずうっと見ていました。途中か ら、何も言えなくなって、ただ、涙だけが流れて、でもずっと画面を見ていま した。 やがて何日かが過ぎて、自衛隊の人が雪降る中で、死んだ人の収容作業をし ている画像もテレビでずっと見ていました。あの3年前の3月から4月にかけ て、日本人は変わったように思われました。みんな、心を開いてとても優しく なった。自分のことをとやかく言うような人はいなくなって、みんながみんな のことを考えていたあの頃、3年前の3月から4月頃。 でもあれから3年半が過ぎ、もうあれは風化しました。被災地の人たち、あ るいは自分の身内を亡くした人は、いつまで経っても風化することはないかも しれませんが、遠く離れたところにいて、直接の被害を受けていない人間にと っては、徐々に風化していっていることは間違いないと思います。しかしそれ は、悪いことではないです。人は忘れていく。忘れてはいけないことだって、 人は徐々に忘れていくのです。だから人は、生き続けることが出来るのであっ て、忘れることが別に悪いことではないと私は思っています。 でもきっと聖武天皇という人は、3年前の3月から4月の頃の日本人の、あ あいう気持ちをずっと持ち続けた人ではないかと私は想像しています。人は、 むやみに心を開いたりしない。むやみに心を開くと傷つきますから。でも、聖 武天皇はずっとあの時の気持ちを持ち続けていたような、そんな人ではなかっ
たのだろうかと思います。 そして、苦しみの中で大仏を造ろうと思いつくのです。その時に、大きな力 で造って何の意味があるか、たくさんの富で造って何の意味があるか。大きな 力やたくさんの富は、むしろ害悪に過ぎない。 それよりも、一本の草しか持っていない、土を握ってやってくることしか出 来ないが、でも本当にみんなが幸せになる世の中を造りたい。そのために大仏 を造ろうというのだったら、自分もそれに関わりたい。お前、何が出来ると言 われたら、何も出来ないけれど、でも、何か自分にもやらせて欲しい、自分も 何かそれに関わりたいという人が次々に現れてくれることが、聖武天皇の願い だったのではないだろうか。極端に言えば、大仏は出来なくても構わない、そ ういう人がたくさん現れてくれることが、聖武天皇の本当の願いだったのでは ないだろうか。 そして、大仏は出来たのです。そんなやり方で、西暦752年4月9日に大 仏は出来た。 開眼というのは、魂を入れる儀式のことです。どんなに苦労の末に大仏が出 来ても、出来ただけでは作り物に過ぎません。魂を入れた時に、初めて本当の 仏様になる。その儀式が開眼です。 当時の記録を見ると、大仏造りに関わった人は260万人。当時の日本の人 口はおよそ500万人と推定されています。260万というと、その半分です ね。そんなにたくさんの人が、直接あるいは間接に関わって、大仏は出来た。 小さな力をたくさん集めて大仏は出来た。これがすごく大事なことです。大仏 様の一番大事なところはこれ。小さな力をたくさん集めて大仏は出来た。今か ら1262年前のことです。 2.後に東大寺になる小さなお堂 聖武天皇は大宝元(701)年に生まれました。天皇になる前の名前は首皇 子(おびとのみこ)とおっしゃいました。 お父さんは文武天皇、お母さんは藤原宮子という女性。父方の祖父は草壁皇 子、父方の祖母は元明天皇。そして母方の祖父は藤原不比等、父方の曾祖父は、
天武天皇、曾祖母は持統天皇。古代日 本のオールスターキャスト、そうそう たるメンバーがみんな勢揃いという感 じです。こういう血を引いて、聖武天 皇は701年に生まれたわけです。 しかし、聖武天皇のお母さんは、聖 武天皇を産んで心を病み、宮中の奥深 くに籠もってしまう。だから、聖武天 皇はお母さんを知らない。そして、お 父さんは707年に亡くなった。かぞ えの7歳、満でいうと6歳、幼稚園の 年長さんの時にお父さんが死んだので す。 そのような子どもが必ずこんなふう になるとは限りません。人は皆、違い ますから。でも、お父さんも元気で、お母さんも元気で、お父さんからもお母 さんからも愛され大事にされて育った子どもと、お母さんを知らない、お父さん も小さい時に死んだという子どもでは、やはりどこか違うところがあるでしょ うね。 そして、724年に24歳で聖武天皇が即位するのです。奈良時代はまだ、 肖像画のない時代です。明治の時に写真が入ってきて、写真を撮られると魂が 抜かれるという話がありましたが、実は肖像画も同じような意味合いがあって、 奈良時代も平安時代も肖像画がない。平安時代の終わりくらいになってから、 ようやく肖像画が描かれるようになってくるので、聖武天皇の肖像画はないし、 肖像彫刻もない。だから、聖武天皇がどんな顔をしていたか、どんな姿をして いたかというのは、まったくわかりません。 鎌倉時代になってから天皇の肖像画が出来るのですが、それは鎌倉時代の服 を着た聖武天皇なので、まったく参考にならない。だから私は、聖武天皇の肖 像画が必要な時には、奈良市立六条小学校の子どもが描いた絵を使っているの です。私の中では一番いい、聖武天皇の肖像画です。
聖武天皇は24歳で天皇になりました。天皇になってまずやったことは、お 寺、神社をきれいにすることでした。「神を敬い、仏を尊ぶることは、清浄を 先とす」、神様を大事に思うなら、仏様を大事に思うならば、お寺や神社はき れいにしなければいかん。 こんなことをわざわざ言うわけだから、その頃は、お寺や神社があまりきれ いでなかった。「諸国の神祇の社の内に、多く穢臭有り」、神社の中が臭い。 神社の境内で動物を飼っていたりした。それはいかん。坊さんにも自分の寺を 掃除しなさいと。それが聖武天皇の最初の大仕事だったのです。 それから、天皇になった翌年、死刑、流刑の軽減を命じる。先程、牢屋に囚 人がいるのは自分のせいだと聖武天皇が考えていたと言いました。囚人たちが 可哀想だから、重い刑罰を与えるのは駄目だというのです。重い刑罰を与える と、もうその人が更正しない。囚人を更正させるためには、罪は少し軽い方が いいというのが聖武天皇の考え方です。 それから、日本中の重い病気の人を、国として治療しなさい、面倒みなさい、 食料も与えなさいと命じます。 そして、神亀3(726)年は全国的に豊作だったので、聖武天皇はとても 喜んで、税金は免除すると発表しました。 それから、役人でいい仕事をした人に褒美を与える。近年、政治主導で官僚 のいいなりになってはいかんという話がよく出てきますが、官僚というのはと ても大事です。官僚が駄目な国は潰れます。官僚は、国にとって本当に大事な 存在で、日本も多くの官僚はいい仕事をしているのです。聖武天皇はそのこと をわかっていて、いい仕事をする官僚にはご褒美をあげるのですね。 そして、神亀4(727)年、27歳の時に、ついに念願の皇子、長男が誕 生しました。聖武天皇はここまでは、幸せだったのです。たとえお母さんを知 らず、お父さんは早くに亡くなってしまったけれど、27歳まではそれでもま だ幸せだったのですね。 聖武天皇と光明皇后の間には、初めに女の子が生まれた。奈良時代は、女性 の天皇もたくさんいる。奈良時代の天皇は7人。うち4人が女性です。奈良時 代には女性の天皇のほうが多いのです。21世紀の今は、女性は天皇になれな い。法律でそう決まっている。奈良時代はそうではなかった。しかし、奈良時
代も基本は男性がなるのです。なるべき男性がまだ若すぎるという場合に、女 性がしばらく天皇になって中継ぎを務めるという場合に女性が天皇になるので す。 最初、女の子が生まれた。もちろん、聖武天皇も光明皇后もとても喜んだに 違いないのですが、跡継ぎということを考えれば、皇子が生まれて欲しいと思 っていたと思います。ところがなかなか生まれなかった。最初の女の子が生ま れてから9年経って、ついに待望の皇子が生まれたのですね。聖武天皇はとて も喜んで、生まれて間もない皇子を皇太子にした。 赤ちゃんを皇太子にした、これは前代未聞、空前絶後のこと。しかしそれは、 聖武天皇がその皇子にどれほど大きな期待を寄せていたかを物語ることだと思 います。 しかしその子は病気でした。聖武天皇、光明皇后は、あらゆる手だてを尽く しますが、病気はよくならない。悪くなる一方。もうこれは人間の力では無理、 仏様にすがるしかないと2人は考えて、観音菩薩の像を177体造った。そし て、観音経を177巻写経した。観音様の力でなんとかこの死にかけている我 が子を助けてもらおうと思って、一生懸命力を尽くすのです。しかし、その子 は死んだ。神亀5(728)年9月13日、その皇子は満1歳を迎えることな く亡くなったのです。 近鉄奈良駅から車だと数分のところに、この皇子のお墓があります。奈良時 代は、6歳になるまでに死んだ子どもはお葬式をやってはいけない。これは、 悲しいですよ。自分の子どもが死んで、それだけでも大きな衝撃を受けている わけですが、お葬式をやってはいけないのは、悲しいです。 聖武天皇は、平城京の東の端にある山にこの皇子の冥福を祈って、小さなお 堂を建てました。山房と資料には出てきますが。この山房が後に東大寺になる のです。「知っているつもりの東大寺」(笑)、東大寺はこういうお寺なのです。 3.光明皇后はこんな人 天平12(740)年、聖武天皇は光明皇后と一緒に河内国、今の大阪の知 識寺に行って、そこで盧舎那仏を拝し、大仏造立を決意する。
知識寺の「知識」というのは、今の私たちが使っているのとはまったく違う 言葉です。仏教の信仰のもとさまざまに活動する人々のこと、あるいはそうい う人たちがつくったものを「知識」というのです。 この大阪で、仏教の信仰を持って活動をしていた人たちが、皆で力を合わせ て知識寺を造り、そこに盧舎那仏を造ったのを見たのですね。その時に聖武天 皇は、大仏を造ろうと思い立ったと記録には出てきます。東大寺の大仏様も同 じ盧舎那仏ですが、実は聖武天皇はもっと早い時期から、盧舎那仏を造りたい と思っていたのです。しかし、何を造るかではなく、どのように造るかをいろ いろお考えになっていたようです。この時に、そうか、小さな力をたくさん集 めて造るのだ、と気づいたのだと思われます。 そして、大仏造りにかかる前に、国分寺、国分尼寺を日本中に造ろうという 命令を出します。天平13(741)年2月14日、国分寺、国分尼寺建立の 詔(みことのり・天皇のことば)。 日本の国を護る、日本のみんなを幸せにするために、日本中に国立寺院を造 ったのです。男性のお坊さんのお寺が国分寺、女性の尼さんのお寺が国分尼寺。 災害が次々に起きている中で、本当にみんなを幸せにするために、日本中に国 立のお寺を造る。そして、そこのお坊さんや尼さんは、みな国家公務員です。 公務として仏教のことをやるお寺を日本中に造ったのです。 それを造ろうと言った日が2月14日。2月14日はバレンタインデーでは ないのです(笑)。皆さん、来年から2月14日になるたびにこのことを思い出 していただきたいのです。聖武天皇が、さまざまな災害の中で苦しむ人たちを なんとか救いたい、助けたいと思って、日本中に国分寺・国分尼寺、国立寺院を 造ろうと言った日が2月14日なのです。 国分寺のような制度は、中国に例がありました。聖武天皇が参考にしたこと は間違いないと思います。中国では、国分寺といわないで、大雲寺といいまし た。実は、中国では3回行われていて、1回目は大雲寺、2回目は龍興寺、3 回目は開元寺といいました。 私はこういうことを全然知らなかった頃、中国のあちこちに開元寺があるの で、同じ名前の寺が多いなと思っていました。龍興寺もあちこちにあるのです。 中国の人は同じ名前を付けるのだなと思っていたのですが、そうではなくて、
これは、中国全土に大雲寺を造り、龍興寺を造り、開元寺を造ったのですね。 日本の国分寺なのです。 大雲寺は690年に則天武后(そくてんぶこう)、中国の長い歴史の中で唯一 皇帝になった女性が造った。そして、707年に中宗という皇帝が龍興寺、7 38年に玄宗皇帝、楊貴妃と結婚した人ですが、開元寺を造った。 そして、大雲寺と龍興寺の情報は、道慈(どうじ)が遣唐使として向こうに 行って、そのことを知って、日本に帰ってきた。玄宗皇帝の開元寺については、 玄昉(げんぼう)が情報をもたらしたのだと思うのですが、国分寺・国分尼寺 を造ろうと言った段階では、まだ開元寺の情報は、聖武天皇は知らなかったと 思います。 ただし、中国の場合には、男性の坊さんの寺だけです。日本で国分尼寺がセ ットになっているのは、たぶん、光明皇后のアイデアではないかと思っていま す。 国分寺の正式な名前は、金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのう ごこくのてら)といって、金光明最勝王経というお経を読んでいると、そこに 四天王が現れてその国を護ってくれるという信仰に基づくお寺です。 国分尼寺のほうは、正式には法華滅罪之寺。こちらは法華経を読むことによ って、滅罪、つまり罪を滅ぼす罪をなくすということです。かつては女性の罪 をなくす、と解釈していた研究者も結構いましたが、大間違いです。これは、 国の罪です。国家の罪。先程の聖武天皇の、自分の政治がよくないから天が災 いを与える、という考え方です。みんなが悪いことをしていると必ず災いが起 きる。しかし人間は、何かやってしまう。そうすると必ず災いが起きてしまう。 やってしまった悪いことも消し去ってくれたら災いは起きないわけです。つま り、法華経を読むことによって、みんながやってしまった罪がなくなって、災 いも起きない、そういうことを国分尼寺ではやっていました。 国分寺、国分尼寺、それぞれのお坊さん、尼さんが日本に災いが起きないよ うに、仏教の力で日本が護られるように、一所懸命日本中でやっていた。その 大和国の国分寺が東大寺です。 そして、天平15(743)年10月15日、ついに聖武天皇は大仏を造ろ うということを発表しました。そして、最初に言いましたように、「すべての動
物、すべての植物が、ともに栄える世の中を作りたい。だから私は大仏を造ろ うと思う」とおっしゃった。 ここで、光明皇后について、少し見ていたきいと思います。光明皇后のお父 さんは藤原不比等です。さらにそのお父さんは藤原鎌足です。鎌足といえば、 大化の改新の立役者。中大兄皇子、のちの天智天皇と一緒に日本を変える大仕 事をした人ですね。鎌足のことは大概の人は知っているし、光明皇后も、みな、 名前は知っているけれども、鎌足の孫娘が光明皇后だということは知らない人 が多いです。 そして、鎌足、不比等は古代日本の最も優れた政治家の2人と言ってもいい。 光明皇后はそういう優れた政治家の血を引いているのですね。 同時にまた鎌足は、非常にあつい仏教の信仰を持っていた人です。釈迦三尊 像を造ります。そして、この釈迦三尊が後に興福寺の本尊になります。 さて、光明皇后はお父さんの藤原不比等が大好き。後に光明皇后は不比等が 書いた書を東大寺に献納します。その時に添えた文章の中に、「妾(しょう)の 珍財、これに過ぎるものなし」、「私の持っている宝物の中でこれ以上のものは ない。お父さんの書が私の持っている最高の宝物だ」ということを書いていま す。これは、天皇のハンコが全面に押してある大事な公文書です。公文書に、 「お父さんの書が最高だ」と書いた日本唯一の女性ですね(笑)。お父さんが大 好きなのです。 藤原不比等という人が、奈良時代の日本を作った人だからです。平城京に都 をもってきたのもの、大宝律令という法律を作ったのも、大宝という年号をつ けたのも、みな、藤原不比等。お父さんが奈良時代の日本の形を作った。光明 皇后はお父さんをとても敬愛していたのです。 天平17(745)年、光明皇后は、亡くなったお父さんの家を寺に造り替 えました。それが法華寺です。法華寺は、大和国の国分尼寺となります。奈良の 都には、国分寺として東大寺、国分尼寺として法華寺が作られるのですね。 法華寺は尼寺ですが、お父さんの家だったところです。だから光明皇后にと って法華寺はお父さんの思い出の場所です。光明皇后は、法華寺に行くたびに、 お父さんを思い出したに違いない。法華寺はそういう場所でもあるのです。 法華寺のご本尊は十一面観音。この十一面観音は、室町時代の本を見ると、
光明皇后の姿を写したと書かれています。そして、不思議な像だと書いてある。 右手が長いのです。手が長いほど、遠くの人を助けることが出来るから、古い 時代の仏像は手が長いことがよくあります。 仏様は、蓮台の上に載っているのですが、この観音様は、右足が少しだけ蓮 台からはみ出ています。最初は違ったのですよ。最初は真ん中に立っていたの ですが、知らない間に右の足が外に出てしまったといいます。不思議な話がい ろいろあるのです。 観音菩薩は、男性でしょうか、女性でしょうか? 実は、性別はありません。 菩薩、如来には性別がない。薬師如来も文殊菩薩も観音菩薩も、男でも女でも ない。観音菩薩の場合は、優しそうで、見るからに女性的な観音様は日本中あ ちこちにいらっしゃいますが、性別はないのですね。しかし、この法華寺のご 本尊は女性です。背中から見たら、女の人の体です。 このお像は光明皇后が亡くなってから50年ほどしてから造られた像だと思 いますが、その時に、光明皇后をイメージして造られた可能性は十二分にある と思います。先程言いましたように、肖像画や肖像彫刻がない時代です。つま り光明皇后がどんな人だったのか、どんな顔をしていたのか、まったく誰にも わからない。しかし、光明皇后のさまざまにおやりになったこと、光明皇后の イメージは伝わっていて、それを投影してこの観音像は造られたのではないか という気がします。 4.阿修羅像は、誰が何のために造ったのか さて、今度は光明皇后のお母さんです。お母さんは橘三千代(たちばなのみ ちよ)という人です。橘三千代は、元は違う男性と結婚していて、子どもが3 人いました。しかし、離婚しました。そして藤原不比等と再婚し、生まれた子 どもが光明皇后になるわけですね。 21世紀の日本では、こういう女性の子どもが皇后になることは不可能です。 バツイチで前のご主人との間に子どもが3人いるという女性の子どもが皇室に 入ることは出来ないです。でも、奈良時代はそんなことはまったく関係ないの です。奈良時代のほうが、もっと考え方が自由な気がしますね。
奈良時代は、男女は平等です。国分寺と国分尼寺も平等。平安時代の半ば頃 から男尊女卑になっていくのです。その頃には、国分尼寺の尼さんが国分寺の 坊さんの服の洗濯をするようになってきて、やがて、国分尼寺は潰れていきま すが、奈良時代はそんなことはありません。国分寺は国分寺で頑張っているし、 国分尼寺は国分尼寺で頑張っている、そういう時代です。 天平5(733)年、正月11日、橘三千代が亡くなりました。光明皇后の お母さんは仏教の信仰があつかった人です。光明皇后も言うまでもなく仏教の 信仰があついのですが、それはたぶん、このお母さんの影響だと思います。 橘三千代が亡くなって、光明皇后はお母さんの冥福を祈って興福寺に西金堂 を建てました。今の興福寺に五重塔、東金堂はありますが、西金堂はありませ ん。「西金堂跡」という石碑が建っているだけです。 かつてこの西金堂に、日本人が一番好きな仏像が安置されていました。何年 か前にアンケートが行われて、ダントツ第1位になった阿修羅です。西金堂は 何度も焼けて、そのたびに何度も再建されましたが、ついに今から300年近 く前に焼けた時に、再建することが出来ず、今日に至っています。この阿修羅 像も、何度も堂が焼けた時に、炎の中から救い出された。 4年ほど前に、東京国立博物館で「国宝阿修羅展」がありました。それを9 4万人の人が見に行った。明治以来、日本の文化財の展覧会で、一番人が入っ たのが、「国宝阿修羅展」でした。この展覧会を見に行かなくても、1年365 日、いつでも奈良に行ったら(笑)、興福寺に行ったら見ることが出来るのです が。 もし、その94万人の人たちに、「ところで阿修羅は、誰が何のために造った のか知っていますか?」と聞いたら、たぶん、大半の人はご存じなかったと思 います。阿修羅は、光明皇后が亡くなったお母さんの冥福を祈って造ったので す。阿修羅に向かい合った時に、その向こうに光明皇后の深い悲しみを見なけ ればいけない。お母さんを亡くした、光明皇后の悲しみがこの阿修羅には籠も っているのですね。 仏像は、元気いっぱい幸せいっぱいの人が作ったりしません。何か深い悲し みがあったり、深い苦しみがあったり、あるいは、聖武天皇が大仏を造ったよ うに、本当にみんなが幸せになってほしいと思ったり、そういう時に仏像は造
られるのです。日本には何十万体も仏像がありますが、誰が何のために造った のかわからない仏像がほとんどです。けれども、ほとんどの仏像は、悲しみや 苦しみの中から造られたものなのですね。阿修羅もまた、光明皇后がお母さん を亡くして、その悲しみの中で造った仏像です。 そして阿修羅は、ご存じのように単独行動しているわけではなくて、8人で チームを作っている。それを八部衆といいます。阿修羅はよく、少年のようだ と言われます。八部衆はみな、少年っぽいのですね。 例えば、五部浄(ごぶじょう)。みなさんは五部浄を見て、何歳くらいだと思 いますか? 人によって見方はいろいろでしょうけれども、少なくとも大人だ と思う人はいないでしょうね。私は小学校5年生くらいのイメージです。五部 浄は子どもではありません。興福寺西金堂においてだけ子どもなのです。どう してなのでしょう? これは私の考えなのですが、興福寺西金堂は、もちろん亡くなったお母さん のために造ったものです。しかし、お母さんが亡くなる4年4カ月前に子ども が死んでいるわけです。満1歳を迎えることなく、その子どもが死んで、4年 4カ月後にお母さんが亡くなった。私は、西金堂は、そして西金堂の仏像は、 お母さんばかりではなく、死んだ我が子のためにも造ったものではないだろう か、と思っています。その子が元気だったら、満で6歳になっているのですね。 「死んだ子の年を数える」という言い方があります。親はずっと死んだ子ど ものことを思い続ける。もし、あの子が元気だったら、今度の春には小学校だ、 とか、元気だったら、来年は成人式を迎えるな、ということをいつまでも思い 続ける。特に女親はそういうことをずっと思い続ける。光明皇后もまた、死ん だ子どものことをずっと思い続けていたに違いない。 八部衆の中に沙羯羅(さから)という像があります。この沙羯羅像は何歳く らいだと思いますか? 私は、幼稚園児、6歳くらいに見える。本来、沙羯羅 は龍の王様ですから、こんな子どもではありません。興福寺西金堂でだけ、幼 稚園児の姿をして沙羯羅は立っていた。私は、光明皇后が亡くなった子どもの 姿をこんなふうに表現したのだろうと思っています。 天平9(737)年、光明皇后の4人のお兄さんが天然痘にかかって、全員 死にました。光明皇后は日本の国を造ったお父さんが大好きだった。そしてお
父さんは亡くなったが、4人のお兄さんがいて、4人とも今でいう大臣になっ ているのですね。4人のお兄さんが、お父さんが造ったこの日本を守っていっ てくれるはずだったのだけれど、4人とも死んでしまったのです。 その時光明皇后は、きっと、自分がもっと頑張らなければと思ったに違いな い。もちろん、聖武天皇はおられるわけですが、天皇の仕事と天皇でない者と の仕事はまた違いますから。聖武天皇を支えて、日本の国、お父さんが造った この日本の国の形を私が守っていかねばならない、と、きっとこの時強く光明 皇后は思ったのではないかと思います。 5.聖武天皇がとても大切にした教え 天平12(740)年、聖武天皇は平城京を離れます。そして、4年6カ月 ほど平城京を離れることが起きるのです。聖武天皇はノイローゼ気味になって いたために奈良を離れて放浪したのだと、昔は研究者もほぼ全員、そんなこと を言っていました。でも、それは変なのですよ。 聖武天皇は、考えがあって私は平城京を出る、と言っているのです。そうお っしゃっているのだから、どんな考えなのだろう? と考えてみればいいのに、 聖武天皇は精神的にも弱くて、いろいろなことがあるので、都を離れてあちこ ちフラフラしているようなイメージをかつて研究者は皆、持っていたのですね。 大間違いなのですよ。ちゃんと考えがあって、聖武天皇は行動しているのです。 聖武天皇は平城京ではない所に大仏を造ろうとしていた。そして、平城京を 出て東に向かい、遠くから伊勢神宮を拝み、そして北上する。実はこのコース は、ひいお祖父ちゃんである天武天皇が壬申の乱の時に通ったコースです。ひ いお祖父ちゃんが通ったコースを回っていくのですが、また平城京の近くまで 戻ってきて、恭仁京(くにきょう)という都を建設し始めるのです。 恭仁京の近くに紫香楽宮(しがらきのみや)の造営をします。しかし数年で 恭仁京は放置されることになる。恭仁京の大きな特徴は、都の真ん中を東西に 川が流れていることです。これが変わっている。中国の都・長安の一つ前の都 は洛陽ですが、洛陽はまさに、都のど真ん中を川が東西に流れている。聖武天 皇は、洛陽の都の情報を知っていて、平城京に代わる新しい都を造ろうと考え、
洛陽を一つのモデルにしたように思われます。 そして、洛陽の郊外に龍門という場所があって、そこに大仏があるのです。 都から少し離れたところに大仏を造る、それが聖武天皇の構想。平城京ではな くて、恭仁京、そして恭仁京から少し離れたところに紫香楽宮を造営し、そこ に大仏を造るというのが聖武天皇の構想なのです。それを実現するために、聖 武天皇は平城京を出た。 しかし、聖武天皇の構想は破れる、夢破れるのです。聖武天皇は役人全員に 「都はどこがいい?」というアンケートを採るのです。これは日本歴史上、極 めて珍しい例です。そうしたら、ほとんどの官僚が、「奈良、平城京」といった ので、聖武天皇は平城京に戻るのです。役人にアンケートを採った天皇は聖武 天皇だけです。聖武天皇の考え方はちょっと普通ではないですね。聖武天皇の 中には上下関係がないのですよ。不思議な人です。 大仏を造り始めて、そして天皇自ら肉体労働をするのですが、結局、役人た ちが皆、奈良に帰りたいと言って、奈良に戻る。亡くなった子どものために造 った小さなお堂が徐々に発展して大きくなって、大和国の国分寺である東大寺 になり、そして、そこに大仏は造られることになるのですね。 天平18(746)年10月6日、天皇と光明皇后は一緒に、金鍾寺(こん しゅじ)に行く。金鍾寺はのちの東大寺のことですが、この時はまだ東大寺と いう名前はない。東大寺は、元々は固有名詞というよりも、平城京の東にある 大きな寺という意味で東大寺といっていたのが、固有名詞化するのです。 今も万灯会や万燈籠という行事がありますが、金鍾寺に行って、1万5千7 百もの灯をつけた。それはどうやら、大仏さんの原型が出来たから。大仏は、 まず土で原型を造って、型どりをして、そこに銅を流し込んで造っていきます。 原型が出来た時に、数千人のお坊さんを集めて、そこで大法要を行った。そし て、1万5千7百もの明かりを灯して、午前2時くらいまで法要をして、平城 宮に帰ったという記録が出てきます。東大寺で大仏造りは徐々に進んでいくの ですね。 そして、完成の3年前、聖武天皇はみなと一緒に造りかけの大仏のところに 行って、「私は三宝の奴だ」と宣言する。三宝というのは、仏教のことです。「私 は仏に仕える下僕である」と宣言する。これは有名な話なのですが、どういう
場面でどういう状況で言ったかというのが、実はとても大事。 造りかけの大仏さんの前で、光明皇后と、最初に生まれた女の子が女性とし て初めての皇太子になっていて、そして役人たち、のみならず、一般庶民も一 緒に来ている。聖武天皇は上下関係のない人です。庶民も一緒に造りかけの大 仏さんのところに行って、「私は三宝の奴だ」と宣言するのですね。 聖武天皇は、やがて自分の娘に天皇を譲るのですが、その時にまた、不思議 なことを言うのですよ。「お前は天皇を奴にしても、奴を天皇にしてもいい。好 きにせよ」と。こんな発言をした日本歴史上、唯一の人です。聖武天皇の中に は、上下関係とか身分とかないのです。そんなことはどうでもいいことなので す。「すべての動物、すべての植物が、ともに栄える世の中を作りたい」、ただ それだけの人なのですね。 そして、大仏が出来ました。 盧舎那仏は、華厳経というお経に出てくる。聖武天皇はたくさんのお経の中 で、華厳経が一番大事だと言っておられました。華厳経を中心にして仏教を考 えたいとはっきり言っておられるのですね。では華厳経とはどんなお経なので しょう? 「厳」は、今は「きびしい」という時にこの字を使いますけれども、そうい う意味ではなくて、「かざる」という意味です。つまり華厳とは、「花で飾る」 という意味です。「花」は、flower ではなく、人の行い、あるいは存在そのも のが「花」です。 誰かが誰かのために、何か小さな良いことをした。そうするとそれは、小さ な一つのお花になって、世界を飾るのです。華厳経の説く蓮華蔵世界というの があります。大仏様も昔は人間で、いろいろな修行をやっていたらしいのです。 その時に、自らの実践によって、すでに蓮華蔵世界は美しく飾られているので すが、さらに今度は私たちが、私たちの実践によってこの世界を美しく飾って いこうと説かれているお経が華厳経なのです。 そして聖武天皇は、華厳経が一番大事だとおっしゃった。世界には、本当に さまざまな苦しみ悲しみがいっぱいあり、さまざまな災い、さまざまな戦いが 2014年の今も続いています。どうしようもないように思われるこの現実が あるが、しかし、私たちが何かをすることで、それは小さなお花となって、こ
の世界が飾られていく。それをやっていこうという教えなのです。そして聖武 天皇はその教えをとても大事に思っていたのです。 一本の草など何の意味があるのか、ひと握りの土など何の意味があるのか。 意味はあるのです。例えば、重い障害をもって生まれてきた子どもがいる。そ して生後間もなくその子どもは死んだという時に、その子が生まれてきたこと にどんな意味があったのか、わからなくなることもあると思います。しかし、 意味があるのです。華厳経はそれを説くのです。どんな存在も尊い。そしてそ の存在そのものが一つの小さなお花なのです。だから、もしかしたら何の価値 もないように見えるかもしれない重い障害を持った一人の小さな子どもは、そ の子どもが一つのお花で、この世界を美しく飾っているのです。そういう教え なのですよ、華厳経は。そして聖武天皇は、この華厳経を一番大事にしていた。 6.光明皇后の悲しみから生まれたもの 大仏開眼、大仏様に魂を入れた人は菩提僊那(ぼだいせんな)という人でし た。菩提僊那が大きな筆で魂を入れた。そしてその筆には、青い長い紐が結び つけられていて、聖武天皇始め参列した人たちは、みんな青い紐を握って、菩 提僊那が魂を入れた時に、結縁、縁を結んだのですね。 鎌倉時代に描かれた大仏開眼の絵があります。奈良時代の姿ではありません が、聖武天皇も描かれています。その聖武天皇の周りにお坊さんが3人座って いる。お隣が菩提僊那、手前が行基さん、もう一人が良弁さん。菩提僊那は、 目が青いインド人です。インドから来た菩提僊那が大仏さんに魂を入れたので す。 直前までは、聖武天皇が自分で入れるつもりでした。この時すでに出家して、 お坊さんになっている。自分で入れようと思っていたのですが、聖武天皇は病 気だった。元々は4月8日に予定されていた開眼供養は、4月9日に行われま す。その直前の3月21日段階で、聖武天皇はついに断念したのです。その日 までは自分でするつもりだったのですが、もう無理。 「私はもう疲れ弱って、立ったり座ったりすることも出来ない。もう魂を入 れることも出来ない。だから誰かが代わってやってくれ。私に代わってそれが
出来るのは菩提僊那、和上、あなたしかいない。断らないでください」と書い た手紙を3月21日に菩提僊那に出した。そして4月8日、たぶんその日は、 聖武天皇の具合がすごく悪くて1日延期になったのだと思うのです。そして4 月9日に菩提僊那が大仏様に魂を入れた。 その時、聖武天皇は参列し、青い紐を握った。聖武天皇がその時、どんな気 持ちだったのか、それを想像してみる必要があります。この時聖武天皇がどん なに嬉しかったかを想像出来る人は、先程、聖武天皇がどれほど苦しんだかを 想像出来た人だけです。聖武天皇の苦しみが想像出来なかった人には、この時 の聖武天皇の喜びは想像出来ない。 苦しむということはいいことなのですよ。苦しむことはマイナスではない。 本当に苦しんだ人だけが本当の喜びを知ることが出来る。本当の喜びなんて知 らなくてもいいから、本当の苦しみを感じたくないという考え方もあると思う のですが、苦しみは、好きで苦しむわけではなく、そうなってしまうわけです。 その時は本当に苦しいのだけれど、でもそれは少しも悪いことではない。苦し んだからこそ、本当の喜びを知ることが出来るし、苦しみの中からしか生まれ てこないものがあるはずなのです。大仏はまさに、聖武天皇の苦しみの中から 生まれたものなのですね。 その開眼の時に、光明皇后がかぶっていた冠についていた飾りがあります。 残念ながら冠自体はバラバラになってしまったのですが、ついていた飾りは残 っています。聖武天皇が大仏開眼の時に履いていた赤い靴も残っています。動 物の皮を赤く染めて、真珠をはめた靴です。これらは正倉院に残っています。 そして大仏が出来た4年後に聖武天皇は亡くなった。56歳でした。 私はいつも思うのです。聖武天皇が生きている間に大仏が出来て本当によか ったなと。聖武天皇は病気がちで、危篤になったこともあったのです。本当に 聖武天皇が生きている間に大仏が出来てよかったな、その時聖武天皇は喜んだ だろうな、嬉しかっただろうな、ということをしみじみと思います。 聖武天皇が大事にしていたものがたくさん残されて、それを光明皇后は大仏 に献納し、それが正倉院に納められて21世紀まで伝わりました。 聖武天皇が大事にしていたものを大仏に献納した時に、光明皇后は目録を作 りました。宝物目録。その巻物を開くと、「聖武天皇とは末永くいついつまでも
幸せに暮らしたかったのに、思いがけず天皇が早くに亡くなってしまってとて も悲しい」ということが書いてある。 そしてその文章が終わってからいよいよ宝物のリストが始まります。目録を 作る時に、順番は大事だと思います。なんでもいいから、手当たり次第に書い ていくぞ、といういい加減なことはないと思います。聖武天皇が大事にしてい たものを大仏様に献納するわけです。全体をちゃんと整理してよくよく考えて 順番を決めたと思いますね。 筆頭に来るのは一番大事なものだと思います。「御袈裟」と書いてあります。 袈裟は、お坊さんが着る衣です。「御」がついているから、これはお坊さんにな っていた聖武天皇の袈裟。これが真っ先にきているのですね。 では最後は何か。一番大事なものが最初にくるのだったら、大事ではないも のが最後にくることになるのでしょうか。最後は、「御床」が2つと書いてある。 御床というのは、ベッドです。聖武天皇のベッドと光明皇后のベッド、2つの シングルベッドが目録の最後に記されています。光明皇后は、ベッドも大仏様 に献納したのですね。 夜寝るとき、その2つのシングルベッドは密着していたのか、離れていたの か、という問題があるのですが、結論を言うと、2つのベッドは密着していた。 なんでも調べていけばわかるもので、「御床二張」と書いてある下に注記があっ て、「覆一條」、ベッドカバーが1枚と書いてある。そして、「亘両床」、2つの ベッドでベッドカバーは1枚と書いてある。 でも、これだけではまだわからない。もしこのベッドカバーがとても大きか ったら、どんなに離れていても2つを覆うことが出来る。幸いにベッドカバー も正倉院に残っているので、大きさが分かる。 まず2つのベッドを並べて、その上に畳を敷いて、ふとんを敷いて、その上 にベッドカバーがちょうどかかる大きさになっているので、2つのベッドは密 着していたことがわかる。聖武天皇と光明皇后は仲良しカップルだったのです。 ちなみに、聖武天皇のお墓ですが、正面が聖武天皇のお墓で、その右手に光 明皇后のお墓がある。聖武天皇のお墓と光明皇后のお墓はくっついているので す。聖武天皇と光明皇后は、生前はベッドがくっつき、亡くなってからはお墓 がくっついているのですね。天皇と皇后のお墓がすぐ傍にあるのは、聖武天皇
と光明皇后だけです。 2人は本当に仲良しカップルなのですが、それならば、変だと思うことがあ ります。そんなに仲良しで、聖武天皇が亡くなり、大事にしていたものが残っ たのだったら、どうして光明皇后はそれを自分の手元において、大事にしなか たのか、ということです。一点も残さずすべて大仏様に献納してしまった。せ めて少しくらい自分の手元に残せばいいのに、変ですね。 実は光明皇后が自分で、その理由を書いてくれています。「目にふれると、く ずれ、くだけてしまう」と書いています。それらの品々が手元にあると、目に ふれる。そうすると光明皇后は昔のことを思い出してしまう。楽器もたくさん あります。それを聖武天皇が光明皇后のために弾いてくれたことがあっただろ うし、その逆もきっとあったに違いない、その楽器が目にふれると、その時の ことを思い出してしまう。それが光明皇后には、つらいのですね。 何年か経てば懐かしい思い出になったかもしれないけれども、今の光明皇后 には、ただそれはつらいだけ。つらくて、悲しくて、その悲しみに耐えられな くて、自分の心がくずれ、くだけてしまう、と書いている。そうであるならば、 それらの品々はとても大事なものだけれども、全部大仏様に献納しよう。 奈良にはたくさん寺があり、たくさん仏像があるのに、なぜ大仏なのか。聖 武天皇が人生の後半のすべてをかけて造ったのが大仏だからですね。聖武天皇 にとって一番大事な存在は大仏です。その大仏様に聖武天皇が大事にしていた ものを全部お供えして、併せて聖武天皇の冥福をお祈りしたいと書いてあるの です。 光明皇后がすべてを手放したのは、悲しみに耐えられなかったからです。そ の結果、それらの品々は21世紀に残った。光明皇后が献納しなかったら、そ れらは残らなかった。 毎年秋に奈良国立博物館で正倉院展が行われ、それらの品々も展示されます。 とてもきれいな素晴らしいものですが、それらの品々は光明皇后が悲しみに耐 えられなくて手放したものです。 聖武天皇の苦しみから大仏は生まれ、光明皇后の悲しみから正倉院宝物は生 まれたのです。
7.「知る」とは他人事にしないこと 聖武天皇の筆跡も残っています。『雑集(ざっしゅう)』といいます。聖武天 皇の字はすごい字で、大きくすればするほどすごくなっていくのです。あまり にも素晴らしいので、今から16年前、奈良国立博物館に新しい展示館が出来 た時に、当時の館長から看板の文字にいいのを考えろと言われて、聖武天皇に 書いてもらうことにしました(笑)。『雑集』の中から文字を探して、横に並べ たました。どこにも書いていないので知らない人が多いのですが、入館者は聖 武天皇の字の下をくぐって正倉院展に入っていく。 奈良市の登美ヶ丘小学校で、「聖武天皇の字を書こう」という授業が行われた ことがあります。私は毎年、奈良教育大に集中講義に行っているのですが、そ の時の学生が小学校の先生になった。彼女が「先生、小学校に来て聖武天皇の 話を子ども達にしてください。そのあと、みんなで字を書く授業をしたい」と。 小学校に行って、子ども達にいろいろ話をしました。 聖武天皇の字を書けるのは、聖武天皇だけです。表面を真似するのは難しく ないかも知れないが、本当の聖武天皇の字を書こうと思ったら、聖武天皇にな らないといけない。聖武天皇がどんな人生を送り、どんな苦しみとどんな喜び を知ったかを知らないと、聖武天皇の字は書けない、というのが私の考えで、 そういう授業をやった。それが終わって子ども達は『雑集』の中から1つだけ 字を選んで書く。その1つだけを徹底的に練習して、清書して、白いうちわに 張って、自分だけの聖武天皇うちわを作るという授業です。これは、本当に素 晴らしい授業でした。 6年生の授業として行い、全員から感想文をもらいました。6年2組のある 女の子からこんな感想文をもらったのです。 「聖武天皇と光明皇后の話を聞いて、お互いどちらもとっても好き同士だった んだなと思いました。ベッドが2つくっついているなんて、本当に仲がとても 良かったのだと思います」 小学校でベッドの話をしていいかなと思ったのですが(笑)、まあ、いいので はないかなと話してみたら、大正解、大成功で。女の子はこういう話が好きで すね(笑)。
「本当に仲がとても良かったのだと思います。光明皇后が聖武天皇のものを 見ると、『くだけてしまう』くらい悲しくなると書いていましたが、とてもいい 話だと思います。死んでしまって帰って来ない人のものだけが残る。目にふれ て、すべてがくだけてしまうくらいなら、大仏にまわそう、私も少しわかる気 がして悲しくなりました。光明皇后と聖武天皇の間に生まれた女の子は元気で よかったと思いましたが、次に生まれてきた男の子は亡くなりました。その時 に必死で看病したと言われていますが、私はぜったい本当だろうと思います」 今までたくさんの人にお話ししてきて、しかし、光明皇后と聖武天皇との間 に生まれた女の子が元気でよかったという感想を言ってくれたのは、この子が 初めてです。 満1歳になることなく死んだ男の子が可哀想だとずっと思っていましたが、 最初に生まれた女の子が元気でよかったということは、私自身は一度も思った ことがなかったです。だから、これを読んだ時にどきっとしました。そして、 「その時に必死で看病したと言われていますが、私はぜったい本当だろうと思 います」というのは、とても素敵な感想文ですね。 この子にとって、他人事ではない。聖武天皇、光明皇后が、自分の子どもを 必死になって看病している、それはもう他人の話ではないのですね。本当に素 晴らしい感想文。私はこの感想文を宝物にしています。 光明皇后の字も残っています。王羲之(おうぎし)という中国の書の名人の 書いた『楽毅論(がっきろん)』を写したと言われているのですが、よく見ると 全然違っていて、しかも脱字が3カ所ある。 本当は、「志」という字があるはずのところに、ない。光明皇后が書き漏らし た。「王」という字が入るはずのところに、ない。「生」という字が入るはずの ところにない。そして、カタカナの「レ」のような印があります。順番を間違 えたのです。「燕主之」とくるのを、「燕之主」と先に書いてしまった。光明皇 后は「あっ」とか言いながら、逆さまだという印を付けたのです。光明皇后は、 そういう方(笑)。 文章の最後にある「天平十六年十月三日 藤三娘」は、藤原不比等の三女と いう意味ですが、十という字がえらく太いのです。書き間違えたのです(笑)。 天平十六年なのに、天平六年と書こうとした。点を打って横まで引いた時に、
「あっ、違う。今年は十六年だ」と、そこで太くしたわけですね。そして、ま た急に細くしたら十だけ目立つので、徐々に細くしていって元に戻したのです。 光明皇后はこういう方なのです。 光明皇后は、聖武天皇が大事にしていたものを大仏様に献納した同じ日に、 60種類の薬も献納しました。こちらは大事に保管するのではなく、病気の人 のために使ってくださいと記されています。これは本当に使われました。種類 や数は減っているのですが、まだ残っていて、時々正倉院展で展示されます。 その手紙の最後に「使ってください」と書いてあって、さらに、「この薬を飲 んだらどんな病気も治る、この薬を飲んだらどんな苦しみもなくなる」と書い てある。体の病、心の病、どんなものも全部この薬で治ると書いてあるのです が、さらにもう一つ次の行に、「夭折(ようせつ)することなし」。この薬を飲 めば幼いうちに死なないと書いてある。この「無夭折」という3文字を書いた 時に、光明皇后は、28年前に夭折した自分の子どものことを考えていたに違 いない。もうあれから28年経ったのです。そして、今度は聖武天皇が亡くな った。「夭折することなし」、この言葉は、光明皇后が死んだ我が子のことを思 い続けていたことを示す3文字だと思います。 光明皇后は、身寄りのない人のために、そして病気の人のために「悲田院」 「施薬院」を730年に作った。実は、「悲田院」「施薬院」を最初に作ったの は、光明皇后ではありません。その7年前に興福寺に出来ています。それを作 った人はわからないのです。私は、作ったのは光明皇后のお母さん橘三千代だ と思っています。 光明皇后のお父さん、藤原不比等は720年に亡くなった。その翌年、橘三 千代は出家しました。そしてその2年後、興福寺に「悲田院」と「施薬院」が 作られるのですが、私は橘三千代がつくったのではないかと思うのです。 そしてまた34年経って、757年に孝謙天皇が「施薬院」に広い土地を寄 進します。聖武天皇と光明皇后との間に最初に産まれた女の子が、聖武天皇の 跡を継いで孝謙天皇になったわけですが、彼女はたぶん、自分の祖母、橘三千 代が作った施薬院にさらにてこ入れをしようとしたと思うのです。757年は、 聖武天皇が亡くなった翌年です。お父さんが死んだ翌年です。723年は、藤 原不比等が亡くなった3年後。そして、光明皇后が施薬院、悲田院を作ったの
が730年。それは、子どもが死んだ2年後ですね。 大事な人が亡くなった時に、自分の悲しみだけで終わらせずに、病気の人を 救う施設を作りたい、というところに、個人の悲しみが大きな行動につながっ たのだと思うのです。そして、ご主人を亡くした橘三千代は施薬院を作った。 お父さんを亡くした孝謙天皇は、興福寺の施薬院にさらにてこ入れをした。個 人の悲しみがみんなの幸せを願う気持ちへつながっていく。 光明皇后が建てた法華寺、お父さんの家のあとに作ったお寺には、「からぶろ」 というサウナ風呂があります。これはお話なのですけれど、平安時代の終わり にこんなお話が生まれるのです。 東大寺や法華寺を建て終えた光明皇后が「やるべきことは全部やったわ」と 満足していたら、「まだやっていないことがある」と天から声がした。湯屋(お 風呂)を造れということらしい。そこで皇后は湯屋を造り、やってきた人の垢 を流そうと誓う。そこに「乞丐(こつがい)」と呼ばれるみすぼらしい人がやっ てきた。あまりの汚さに垢を流すのを光明皇后が躊躇すると、誓いを破ること になるぞとおどされ、嫌々ながら垢を流す。 終わってから光明皇后が「こんなこと、誰にも言ってはだめよ」と口止めす ると、乞丐は光り輝いて、「阿閦(あしゅく)如来がここへ来て垢擦りしてもら ったことは誰にも言うな」と言って飛び去っていった。 この話は、うぬぼれたり、誰にも言うなと言ったり、光明皇后は人格者とし ては描かれていない。でも、人間らしく可愛らしく思える。完璧な聖女として 描かれていないのがいい。光明皇后は本当に可愛い人だと思っている私のイメ ージに合うのです。 このお風呂の話は、あとの時代になればなるほど、過激な内容に変わってい きます。光明皇后が千人の体を洗うという誓いを立てたところ、最後にひどい 病気の人がやってきて、体じゅうが膿んでいるのですけれど、全身の膿を口で 吸い出せと命じたのです。光明皇后は言われた通り、男の全身に唇を這わせて 膿を吸っていくのですが、これはかなり官能的な場面です。しかし皇后が膿を 吸い終わると、その病人はまたまた阿閦如来になって飛んで行ったというお話 になるのですね。 これはお話ですが、光明皇后が貧しい人や病気の人の救済活動をしたのは紛
れもない事実で、それが少し姿を変え、話が変わりながら、あとの時代にもず っと伝えられていくのです。 今回は、「知っているつもりの東大寺」、東大寺のことでも知らないことがき っとたくさんあったと思うのです。 知ることはとても大事。でもそれは、知識を増やすという意味ではありませ ん。私は別に、知識なんかたくさんなくてもいいと思っているのです。知識が 増えれば増えるほど、人間は駄目になると私は思っています。しかし、聖武天 皇がどれほど苦しんだか、そしてその苦しみの中から大仏が生まれたのだ、と か、光明皇后がどれほど深く悲しんだか、そしてその悲しみの中から正倉院宝 物は生まれたのだ、とか、そういうことを知ることは、絶対大事なことだと私 は思っています。 大事なことを知る、それは大事。私の言う「知る」とは、知ったら、それに 思いを馳せることです。1250年も昔に死んだ人に思いを馳せ、1250年 昔に死んだ人に共感したり、近づいたり、寄り添ったり。そういうふうに出来 るようになることが、本当の知ることであって、それは他人事にしないという ことです。その時その人はどんな気持ちだったのだろうかと想像することによ って、本当に知ることができ、時を超えて歴史の物語の中に入っていけるので はないかと、私は思っています。