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滋賀県湖北地方のオコナイとその建築

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(1)

滋賀県湖北地方のオコナイとその建築 祭礼建築論の試み 黒田龍二 O ﹃昌昆§島﹀﹃6庄甘6日穗宮夢o穿庁o昇ロξ80吟ロの匡噌㊥﹁昏6言﹁oぎ国砦⑫ユ日6艮嘗印ω竃ξ合一甘6言穗目8目

はじめに

0問題の所在

②湖北のオコナイとその建築の概要

③切妻型の堂

0入母屋型の堂・社

⑤浄信寺︵木之本町︶地蔵堂のオコナイ

0切妻型と入母屋型の分布と歴史的領域性

⑦切妻型︑入母屋型の成立事情 む す び

資料編 1・2

門論 文 要旨﹈

日本各地の祭礼の研究は民俗学を中心に膨大な蓄積がある︒一方︑建築史学におい

は︑寺社建築の歴史的研究また文化財調査や発掘調査による即物的研究が積み重ね

られてきている︒近年にいたり︑寺院建築に関してはその機能たる法会あるいは寺院

社会との関わりに関する研究が深まりつつある︒その反面︑多くの場合は神社がその

となる祭礼と建築の関係に関する研究は︑いまだ緒についていない︒その原因は︑

祭礼が多様な側面をもつ複合的な存在であって︑建築との関連を見据える視座が定ま

らないためである︒本稿は︑そのような視座の確立を厨指して︑滋賀県湖北地方のオ

ナイとその場となる建築との関係について考察した︒

 湖北のオコナイの場となる寺社は︑形態的に二種類ある︒ひとつは切妻型の大規模

な堂で木之本町︑余呉町の山間部に十棟︑もうひとつは方三間以下の規模の入母屋型

もので︑こちらは仏堂・神社本殿の区80がなく︑高月町︑湖北町を中心とする乎野 は頭屋宅で行われる︒シュウシを堂で行う場合は村人の人数に限りがあるが︑頭屋宅 礼的な飲食を中心とするシュウシー−座の行事が︑切妻型では堂で行われ︑入母屋型で 部に約七十棟を数える︒これらの建築形態の相違に関係するのは宮座行事であり︑儀

行うなら村内を組分けしてそれぞれに頭屋をおけばよいから︑村の発展と人口の増

加に対応できる︒切妻型のオコナイはモロトー−村の有力者主導の形跡があり︑中世的

な組織に起源をもつ︒入母屋型のオコナイでは村人の平等原理︑座敷をもつ民家の広

な成立が社会条件であり︑それは近世後半以後近代へかけての村落社会の発展に対

応したものである︒

祭礼と建築の関係を見るには︑祭祀︑芸能風流︑人的組織などのどの事項が場の形

態に関わるのかを検討することが有効である︒オコナイを宮座行事としてみるなら︑

較対象となる事例の範囲は一挙にひろがることになるのである︒

275

(2)

国立歴史民俗博物館研究報告

  第98集2003年3月

はじめに

  祭 礼を建築史学から考察するということの直接的な意味は︑祭礼関連 施設の年代︑機能︑形態について歴史的な考察を行うことを意味するで

あろうが︑それが祭礼の本質的な部分の解明につながるとはいえない︒

祭 礼という機能に建築形態が即応するとは限らないし︑建物は増改築さ れたり︑建て替えられたりして変化していくのが普通であり︑また建築

事情︑例えば流派や流行︑技術の限界︑財力の限界︑法規制など が 建築形態に対して大きな影響力をもつ場合があるからである︒建築史

的考察は建築物の歴史を明らかにはするが︑問題はその先にある︒同時

に祭礼の方でもその本質的な部分は何かといえば︑祭祀であるのか芸能︑

風流︑宮座行事その他であるのかをめぐって︑建築に関するのと同じよ

うな問題が生じるであろう︒さらにいえば︑祭礼は目的においても機能

においても複合的な存在であって︑おそらく祭礼自体がまずは慎重に吟

味されるべき位相にある︒それにしても祭礼の場は祭礼そのものと密接

な関係をもつとみるべきであろうから︑建築の側から祭礼に接近するこ

とは無駄ではない筈である︒ただ祭礼のどの部分が︑建築を含む祭礼の

総 体的な場とどのような関係をもつのかを見極め得る視座を模索し︑一 般 性をもつ方法論を確立しなければならない︒

 さて︑同類の祭祀・祭礼が多数存在し︑同じような建築物がそれに付 随している場合は︑祭礼と建築との双方において個別の偶発的要素を捨

象することが容易であり︑建築史学的方法から得られる年代︑機能︑形

関する歴史観は︑祭祀・祭礼のひとつの理解を提示しうるであろう︒

滋賀県の湖北地方におけるオコナイとその関連施設は︑そのような考察

を行うことのできる好例である︒

従来の湖北地方のオコナイに関する研究においては︑その宗教的な起 る修正会の系譜を引く行事が近世を経て今に残ってきたものと理解され 源と意義に論点が集中している︒現状のオコナイは︑古代︑中世におけ

きた︒そのような理解の上で︑この行事に対する村人の意識の厳しさ や 特 この地域に濃密な分布をもつことが問題とされている︒しかしな がら︑この地方のオコナイの年代観を古代中世に置く限り︑現状のオコ

ナイとその関連施設は古い起源のものが崩れて訳の分からないものに

なったとしか捉えられず︑現在の祭礼とその施設に対しての正当な評価

は不可能となるのではないだろうか︒本稿では︑現在残っているオコナ

イ関連施設の調査研究から︑湖北のオコナイの具体的な像を描きだし︑

建築との関係を明らかにしようとした︒以下の記述から︑建築的にみた

この地域のオコナイ関連施設は特異なものであり︑まっとうな評価を得

るべきものであることが理解されよう︒ここ二︑三年のうちにも重要な

オコナイ関連施設が姿を消しているので︑完全なものではないが︑ある

程度網羅的に行った調査資料を付載して︑理解と保存の資としたい︒

0 問題の所在

  ることは︑井上頼寿の﹃近江祭禮風土記﹄によって夙に知られるところ         滋賀県の湖北地方にオコナイと呼ばれる正月行事が濃密に分布してい である︒この書物によって湖北の全てのオコナイが収集された訳ではな

とはいえ︑ほぼ網羅的といって差し支えなく︑貴重な資料集としての 役割を果たしている︒収集例は二四五箇所にのぼるのだが︑それは誰が み も一群の行事として 括できる単純な次第をもっている︒だが︑オ

ナイの対象となる仏堂や神社は複雑な様相を呈する︒全国通有の形態

仏 堂あるいは神社が行事の場となるのは当然として︑三分の一にあた

る約八十箇所の堂と社は︑この地方に特有の形式をもっているのである︒

このことに早く気づいたのは脊古真哉氏で︑﹁己高山をめぐる宗教文化

276

(3)

[滋賀県湖北地方のオコナイとその建築】 黒田龍二

      ー滋賀県伊香郡木之本町・高月町ー﹂において次のように述べている︒

   これまでの調査から気づいた点を二点挙げておくと︑仏堂形態の差    −己高山おこないの地域では仏堂は入母屋造で平入りの建築で︑壁    

に覆われているのは仏像を安置する内陣だけで︑外陣は吹放ちと

   なっているものがほとんどであるが︑この地域より北側の菅山寺信    仰圏を含む地域には︑切妻造りで妻入りの建築で︑屋根に覆われた    宏壮な外陣をもつものが多いことが注目される︒オコナイ行事の実     施 際のちがいがあるのであろう︒

 ここにオコナイに使用される建物には入母屋造と切妻造の二形態のあ

ることが指摘されているとともに︑オコナイの行事と建築形態を関連づ

ける視点が持ち込まれている︵図1︶︒以下の考察は全面的に脊古氏の

論に則って展開するが︑それには次のような問題があり︑若干の補足が 必 要 である︒まず︑建築形態の決定については︑大工の流派︑法規制︑

流行など祭礼の本質には直接関わらない事項が作用する可能性を否定で

きない︒また︑祭礼が建築形態をある程度決定するとしても︑オコナイ

だけがその決定に関与したとは限らない︒

 第一の問題については︑切妻型は分布域は狭いが︑建築年代が江戸時

代全体に渡っており︑大工の流派や流行が作用する要素は排除できる︒

入 母 屋 型においては建築年代はほぼ十八世紀から近代となり︑多数が建 造される時期もあるが︑分布の範囲が広範囲である︒中には大工を特定 できる建物もあり︑様式的にみて特定の大工だけが造っているとは考え

られない︒法規制についてはこれらは村持ちの堂社であり︑大規模なも

を造ろうとした訳ではないから︑特に問題はないと思われる︒第二の

問題については︑脊古氏もオコナイとともに灯明祭︑野神祭がこの地域

に広く分布することを指摘している︒灯明祭という名称は湖北に多いよ

うだが︑同じ時期に灯明祭︑百灯祭︑百八灯祭︑千灯祭などの名称の祭

が湖東から大津市まである︒野神祭は湖東の広範囲に分布し湖西にもあ る︒問題のオコナイは滋賀県内では湖北と対比される湖南のものが著名

であるし︑正月行事とみれば全国的なものである︒しかし︑湖北のオコ

ナイは以下にいくつか紹介するが︑やはり灯明祭︑野神祭とは異なって

特有の一群を形成し︑その分布はこの地に特有の建築形態の分布とおよ

そ対応する︒

は︑滋賀県教育委員会﹃滋賀県の近世社寺建築﹄においても述べられて        ヨ   湖北に分布するこの二つの形態の建物が少し変わった建物であること

る︒例えば市町村別概要の項に︑次のような記述がある︒

 先ず入母屋型の建築について  

○湖北町  ︵前文略︶三間社には入母屋造を採用して華やかに飾る

   傾向が強い︒入母屋造本殿は三間仏堂と外観でほとんど変わらず︑

  一般に軸部の成が高く︑正面の向拝柱が著しく高いことなど共通の     特色が認められる︒

びわ町  神社本殿および仏堂に入母屋造三間堂が多いこと︑

高月町  神社本殿・仏堂ともに方三間入母屋造が多く︑東浅井郡    と類似の傾向があるが︑日吉神社本殿・高野神社薬師堂など比較的     規模の大きなものが目につく︒

次に切妻型の建築について

木之本町  旧木之本以外の寺院建築では福王寺薬師堂が興味を引    く︒切妻造妻入の堂で︑古代以来の身舎・庇の制を残し︑庶民信仰    によって保たれてきた仏堂にふさわしい︒同種のものに金居原薬師    堂があり︑また余呉町にも源昌寺薬師堂が残り︑伊香郡一帯に存在    する形式としてとらえることができる︒

 このように建築史学の立場からは︑木之本町と余呉町には切妻造︑そ

湖北地方には入母屋造の一風変わった建築群が存在することは明

らかになっていた︒入母屋造の建物においては︑同一形式が神社本殿に

も仏堂にも用いられていることも知られていた︒

277

(4)

国立歴史民俗博物館研究報告   第98集 2003年3月

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 、

 ︺

︑\

\︑

福井県

、▲05

\一  〉\!^−r\

         ・」

4竹鵠

琵琶湖

人▲02▲訂

    0

凡 例

●地方霊場寺社

▲切妻型

●入母屋型

■その他

数字は調査票と対応する

讐1還▲

菅峙●令1。

姉ノ〃

木之本町 杉09

ノ〃

 4

15●27

●28

●29 30

43●:●55

 ●5052  53

︑ー\㌦

\ ノー・L、

  、

己高山●

   9唱4

54●,ノ

天野ノ〃

●59

●60

●62

 浅井町

長浜市

戸一 1㌔,

〜声V ノ

       /

    輻,

 観音寺

 ●70

山東町

71● 、

 72

ハ、

ー心

岐阜県

/ノ人

㍉/・へ/

ノ /︐︶ノ

 、

\/

図1 切妻型と入母屋型の分布

278

(5)

[滋賀県湖北地方のオコナイとその建築】 黒田龍二

  以 上 ことを踏まえて︑ここでは脊古氏のいう﹁入母屋造で平入りの の﹂を切妻型の堂と呼ぶことにする︒ともにオコナイの対象となる切妻         建築﹂を入母屋型の堂・社︑﹁切妻造りで︵中略︶宏壮な外陣をもつも 型 堂と入母屋型の堂・社においては︑脊古氏の指摘のように︑オコナ

イの実施の際の違いはあるにはあるが︑行事の細部を捨象すれば︑内容

や 次第はほぼ一律である︒二つの形態の建物におけるオコナイの行事の 何 が異なるのかといえば︑一部の行事の行われる場が異なるのである︒

行事の場が異なることと建築形態が異なることとの間に対応関係がある

ことは︑容易にみてとれるのだが︑さてそれはどのようなことを意味す

るのかがここでの主題である︒

② 湖北のオコナイとその建築の概要

 ﹃近江祭禮風土記﹄はその対象としたオコナイの分布域について﹁東

隣の岐阜県にも少々は及び︑北は福井県との国境西は西浅井村あたり︑

中略︶南は坂田郡の天野川辺が端となる︒この郡の南にはさのみ関心

ない所がある︒一番生活の内に侵み入って気分の充実しているのは︑

伊香と東浅井の両郡である︒﹂と記し︑記述の範囲は余呉町︑木之本町︑

西浅井町︑高月町︑湖北町︑びわ町︑虎姫町︑浅井町︑山東町︑長浜市

となっている︒三田村耕治もオコナイの中心部に関する認識は同じで︑

南限については天野川の南側の地域にはなく︑西限については高島郡の      ハら 海津︑朽木村にあるという︒ここでの建物に関する調査範囲もほぼ同様

であるが︑西浅井町と山東町では湖北に特有の型の堂・社の存在は希薄

になっているので︑全集落についての調査はひとまずみあわせ︑密度高

く存在する地域についての知見を得ることに努めた︒

 オコナイの内容も﹃近江祭禮風土記﹄にほぼ尽くされているといって 過言ではない︒この調査は昭和十七︑八年頃を中心に行われ︑本書刊行

昭和三十五年頃まで資料を追加している︒記載の習俗は明治時代を基

準にしたといい︑随時江戸時代の様子の聞き取りも収載されており︑得

難い資料集である︒ただ︑文献の引用はなるべく省略に従ったという点

が 残 念 である︒この書を通読すると︑オコナイの基本部分は以下の四つ

事 項 からなり︑これはどの集落においてもさほどの変化はない︒

① 献供1その年の頭人が餅を掲き︑鏡餅として堂または社に上げる︒

 ②座ーオコナイを担う構成員の厳粛な盃事︑食事︒

③ 次 人の決定︒

④餅の分配ー堂または社から餅を下げ︑切って村人に分配する︒

 一連の行事に伴う飾りや実施方法には各村の特徴があるとはいえ︑基

本的な筋書きは画一的でさえある︒しかし︑祭礼の場となる建築物︑つ

まり鏡餅を奉納する社または堂︑そして座の行われる場所に注目すると

大きな相違がみられ︑三乃至四に分類されよう︒

  鏡餅を奉納する社または堂については︑先述のようにこの地域に特徴

的な型が二種類ある︒一つは余呉町と木之本町の山間部にある切妻型の

堂︑もう一つはその他の湖北地域平野部に散在する入母屋型の堂・社で

ある︒オコナイの筋書きがほとんど同じであるのに︑全く異なる形の建

物が用いられるのは何故だろうか︒この二者は︑形態が異なるとともに

使われ方も大きく異なる︒切妻型の堂は内部に広い空間があり︑奥の仏

壇に餅を奉納するとともに︑その前方で座が行われるのである︒入母屋 型 堂・社は柱間で三間四方を基本とし︑内部は切妻型の堂に比べて狭

く︑そこで座が行われることはない︒座は頭屋で行われるのである︒

  鏡餅を奉納する場の建築形式は次の四種類になるであろう︒

 イ 切妻型の堂

 ロ入母屋型の堂・社

 ハ 一般的な形式の神社本殿・拝殿

 二 一般的な形式の仏堂

279

(6)

国立歴史民俗博物館研究報告

  第98集2003年3月

 イとロは︑この地の特有な形式であり︑先述のような形態と機能の相

違が認められる︒ハについては︑次のような変化が考えられるであろう︒

餅を備える場が本殿であったり︑拝殿であったりする相違  

簸︑頭渡し︑盃事が拝殿で行われたり︑頭屋で行われたりする相違  しかしこの相違は本質的なものではない︒第一に︑本殿と拝殿からな

る建築構成は日本のどの地域でもみられ︑この地域の必然性から生み出

されたものではない︒また︑一般論として建築形式と行事形態の関係は

直接的なものではなく︑行事は建築物にある程度まで合わせることがで

きるし︑逆に便利なものがあれば影響される︒つまり︑本殿しかない場

合の使用法はロと変わらない筈であり︑そこに拝殿が加わることによっ

て︑神前での籔︑頭渡し︑盃事が行い得ることとなり︑上記のような変

化 が 生じると考えることができる︒二については︑小規模仏堂の場合は

と同様である︒

 イ︑ロのようなこの地に特有の形式とハ︑このような全国に通有の形

と︑どちらが本質的であるのか︑どちらが古いのかという問題は解決困

難である︒ただ言えることは︑一般的な形態の建物に対する強い要求が

あったかどうかは定かではないが︑この地に特有な建築形態については

ある時代に特に要求されたことは確かである︒よって︑ここではこの地

特有な形態である切妻造の堂と入母屋造の堂・社について考察し︑で

きる限りその時代を限定するとともにそのような建築形態が誕生した背

景を探ろうと思う︒

③ 切妻型の堂

1 堂の名称

木 之

本町杉野中の堂には﹁福王寺﹂と書いた寛永十七年︵一六四〇︶ 同じく正面に﹁石道寺﹂の額を掲げるが︑村人はそれよりも単に﹁ドウ﹂ 銘の鰐口があり︑堂正面に﹁福王寺﹂の額を掲げる︒同町杉野向の堂は

「ドウサン﹂と呼ぶ︒杉野向の堂では村人が奉納した床板の裏面に﹁堂

様行﹂という明治頃の墨書があり︑おそらくドウサンオコナイと読む︒

また︑襖の桟には﹁宮行﹂とあり︑これはミヤオコナイと読むのであろ

う︒このミヤについては様々な推測が可能で︑境内の白山神社を指す︑

村人は本尊を神と考えている︑この建物自体をミヤと考えているなどが 思 浮かぶが︑憶測の域を出ない︒ ﹃近江祭禮風土記﹄には﹁堂﹂と﹁食

堂﹂が出てくる︒﹁堂﹂の方は︑﹁宮﹂の対語として使われる場合が多く︑

この切妻造の堂のみを指す訳ではない︒﹁食堂﹂の方は他の地域では出

こず︑杉野中︑杉野向︑上丹生の項に出る︒杉野中︑向においては﹁食

堂﹂が現存の切妻造の堂をさすことに間違いない︒上丹生に関しては﹁江

戸時代には祝詞の後に﹃しゅうし﹄とて座が食堂︵今無い︶で行われた﹂

と記され︑項末に﹁昭和十七年調﹂とある︒だから昭和十七年には堂は

なくなっていたのだが︑神社には切妻の堂を改築したと思われる神輿蔵

が 現存し︑これが上丹生の食堂であったと推定する︒ちなみにこの建物

には︑明治三十四年の区長︑世話人︑請負人などの名前を記した木札が

打ちつけられており︑その年代に改築されたと推定される︒下丹生の丹 調査報告書﹄によると︑大規模な切妻型の堂を三分の一ほどに縮めたも         生神社の社務所は︑余呉町教育委員会﹃高時川ダム建設地域民俗文化財

で︑昔は﹁食堂﹂と呼んでいたという︒よって﹃近江祭禮風土記﹄や

高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書﹄は忠実に現地の言葉を採

用したと思われ︑﹁食堂﹂は切妻の堂をさす言葉と考えられる︒

2

杉 野向の堂︵調査票切妻型の堂09︶

 行事次第の事例として︑

る︵図2︶︒

平成七年の木之本町杉野向のオコナイをあげ

280

(7)

[滋賀県湖北地方のオコナイとその建築] 黒田龍二

二月十四日

 午後三時頃

 同 六時頃

二月十五日  午前五時

火の番  釈迦十六善神 阿弥陀三尊 当屋で餅掲き

餅掲き終了 小豆餅の振る舞い

踊り込み

宮入り火祭り

十人程が肩車で輪になり︑回り

ながら土足のまま道から当屋宅

ダイドコロに三回踊り込む︒

松明を参道の両側に指し︑当屋 から行列をつくって鏡餅を運ぶ︒

中央に太鼓叩きが二人背中 合わせに立って︑太鼓を叩き︑

周りを左回りに松明をもっ

た村人が騒ぎながら回る︒

める

1き[亘]

r−… 叫一一一♀−

  8花

物入

i    餅OQQ

Gら1♂・・鴫叩㌔・G口540つ合ロ7  6・◇(}ロ76ロ⑤σロ9  8ロ○

  突き,. °二こ       給㌧三三三ぐ

ムシロ しきつ

仕場     下足

〔ニ ー『二]

図2 杉野向、阿弥陀堂における つ    シュウシの座(1gg7.2.15)

同 五時五十分頃  下堂

午後十二時     シュウシ

同 十二時二十五分

十二時四十分

夕刻 会議

座  この年の当屋となった宮前家の主屋

統的な形態を踏襲し︑オコナイの当屋を勤められるようになっている︒

を入った所は土間だが︑その奥の食事室と勝手が伝統的平面では土

間になると考えれば︑その右手にある座敷部は四間取り座敷を基本とし

て︑背面側に若干拡張したものとみることが出来るが︑祭の最中でもあ

るので詳しい調査はしていない︒餅摘きは入口を入った所の土間に莚を

敷き︑中央に臼を置く︒最後は多人数で縦杵で掲き︑そのまま持ち上げ

鴨居の辺に打ちつけた板になすりつける︒土間から座敷へ上がったと

ころはダイドコロで︑ここで餅の形を整えたり︑準備したりする︒その

奥の居間には︑親類や村人がたむろしている︒ダイドコロの上手が座敷

で︑ここへは女性は入れない︒当屋行事の正式の場であり︑鏡餅もこの

部屋に飾る︒

 堂は︑細長い縦長の平面で︑奥の一間通りの中央に厨子を置き︑その

向かって左は火の番をするところ︑右は物入れとなる︒厨子の中には︑

阿弥陀如来座像と︑立像の観音︑勢至像がある︒厨子の左横には釈迦十

六善神の図を掛ける︒火の番は︑十五日未明の宮入りのあと︑正午にシュ

番を残して全員家に帰る︒

着物姿に数珠︑扇子をもち本尊

に参拝後︑当屋に挨拶

村の会計報告など

袴︑羽織着用

配 膳

当屋挨拶盃事︑食事

当渡し

鏡開き

図3︶は古い建物ではないが伝

281

(8)

国立歴史民俗博物館研究報告

  第98集2003年3月

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点線は、日常は建具があるが この日は全てはずす

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一一 十一一一一一

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   カッテ

 1  占_一,..

!図_

花︑餅を飾る

 /

土間にムシロ

をしく

4入゜

差鴨居に

餅をつける 女人結界、これよりザシキ側

へは女は入れない

 Ψ

前の道から家の中まで 3回踊り込み

       図3 杉野向、宮前家(1997.2.14)

ウシが始まるまで堂を守る役割である︒正面入り口を入った所の左側の

一間四方程度の場は︑シュウシの時の配膳場になる︒座が始まる前の報 告会は奥左の火の番の場所の前あたりに集まって行われ︑座とは異なる

ものであることが明瞭である︒

  座は本座と脇座からなり︑本座はむかって右側をやや広くとり︑脇座

は左側になる︒しかし︑当屋は一軒であるからオコナイは一組である︒

当屋は五人組の組受けで︑﹃近江祭禮風土記﹄によると天明三年︵一七

八三︶から五人組のオコナイが確認できるという︒

  杉 野向の堂は残念ながら平成九年六月六日︑七日に取り壊されたが︑

重 要な建物と判断したので︑取り壊しと平行して実測調査をさせて頂き︑

一般図を作成したので末尾に資料として掲載する︵資料編1︶︒規模は 柱間数で正面三間︑側面五間︑切妻造妻入りの建物である︒堂内は四本

柱 があるのみで︑これに巧みに梁を差して束をささえ︑天井は張らず

に広々とした空間を造っている︒側柱は栗材で一応面取り角柱に仕上げ

はいるが︑野物の歪みをもつものが多く︑蛤刃の手斧仕上げが歴然と

している︒堂内の四本の柱位置は正面から二間目と仏壇前面柱筋のそれ

ぞ れ 入 側筋にある︒これらは樽の隅丸方形断面材で︑太さは直径三十セ

ンチから三十五センチの太い材である︒床板は︑図では板割りを整えて

るが︑実際は木の歪みそのままに波打つような栗材である︒現

在の板は明治二十四年に村人が奉納した板が多いと見られ︑多数の読み

くい墨書があった︒前述のように﹁堂様﹂﹁堂様行い﹂という墨書が

あり︑村人に聞くと堂は﹁ドウサン﹂と呼ばれてきたという︒このオコ

ナイは﹁堂様﹂の﹁行い﹂であることが分かるのだが︑一方︑襖の桟に

もっとしっかりした書体で﹁宮行﹂と記す墨書もあり︑これはおそら

くミヤオコナイで︑呼称も単純ではない︒屋根は現在は簡単な板屋根の

上にトタン板を張っているが︑昔は栗の板材によるこけら葺だったとい

う︒壁は横板壁で︑柱に縦溝を彫って嵌め込んでいる︒創建当初の材と

見られるものも散見し︑栗材である︒従って︑中央の太い柱が櫻である

以 外は︑ほとんど栗材で造られた建物だった︒

 昭和三十六年に梁を入れ換えたという墨書をもつ梁が一本あるが︑基

本的な骨組みは当初の形態を守っている︒奥の一間通りは︑前方の床面

から高さ三十五・三センチに床を張り︑板壁で三間に仕切り︑その中央

間に本尊を入れた厨子を安置する︒奥一間通りの中央間を除く両脇間の

現在の床板の下には︑前方と同じ高さの根太及び床板が残存していたか

ら︑両脇の間はもとは前方と同じ高さの床だった︒仏壇上の差鴨居は中

282

(9)

[滋賀県湖北地方のオコナイとその建築] 黒田龍二

古のもので元は八寸下にあり︑内法はもとは五尺二寸五分であった︒お

そらく︑現在の厨子をつくって入れる時に鴨居を高くしたのであろう︒

両側面奥から二間目は現在片引き戸となっているが︑柱に板壁の溝彫が

あり︑元は板壁だった︒つまり当初は正面にしか開口部のない非常に閉

鎖的な平面形態であった︒建築年代については確証がない︒他の類似遺

構との比較からはおそらく十七世紀後半の建築ではないかと推定する︒

厨 子 前の木製の盃の基台には︑﹁奉上御/寳前/江州伊/香郡/杉野

/向村江/口内/享保拾/三年/月日﹂とあり︑杉野向には享保十三年 以前から堂があったであろう︒

3 杉野中︑杉野上の堂

  杉 野は︑上︑中︑向に分かれてオコナイがあり︑上と中にも堂がある︒

  杉 野中の薬師堂︵調査票 切妻型07︶は︑切妻型の堂のなかで最も古

遺 構として重要である︒堂の規模︑平面形態などほとんど杉野向の堂

と同じである︒仏壇の差鴨居が改造によって高くなっている点も同じで

あるが︑本尊は薬師如来である︒小屋の架構すなわち梁の架け方も異な

る︒柱には別の仕ロがあり︑架構の部材も中古のもので︑当初材ではな

い︒オコナイも向とほとんど同じ行事次第で︑二月七〜八日に行われる

(図

4︶︒当屋を五人組で受けるのも同じだが︑こちらでは当屋が二軒あ

る︒つまり︑同時平行で二組のオコナイが進行する︒このことによって︑

まず二月八日未明の宮入の際︑参道の入口で二組が出会ったとき︑神儀

という儀式的な挨拶がある︒シュウシの座も正規のオコナイの組が 二 組あるので︑向の座の性格とは異なる︒昭和七年の﹃神事祝詞座席順

 ︵7>序録﹄には︑

  一 座ヲ組ム事

   中座神主着座次二右側二区長左側二代理者次二敬体︵挨拶の意︶受︑

   両側二区議員及ビ年長者︵名誉職と訂正︶ヲ以テ座ヲ組ム

   脇座ハ年長順ニョリ座ヲ組ム遅参者ハ末席二座スル事

とあり︑中央に村の権威者が座を組んでいる︒

  堂 建築年代に関する確証はないが︑鰐口銘に﹁福王寺 薬師堂 寛

永十七年正月吉辰﹂とあるのに近い年代の建設と推定される︒

  杉 野 上 堂︵調査票 切妻型08︶は︑切妻平入りの立ちの高い建物の

周に裳階を付けたような複雑な形で︑中や向の堂とは異なる外観をも    へ ね つが︑中に入ると内部は全く同じであることが分かる︒高橋勇編﹃伊香

おこない﹄によると︑オコナイの次第も中︑向とほとんど同じである

が︑どういう理由か﹃近江祭禮風土記﹄には収録されていない︒この堂

は火災に遭ったから新しく建て替えたという︒その年代は明らかでない

が︑内部に嘉永七年︵一八五四︶の奉納額がかかっており︑様式もその

頃のものとみて差し支えないので︑幕末または明治時代に火災にあって

再建されたようである︒

十六善神

藍[詞罐

   一一一一一4

 紺  

 ロo

   O

花・二◇   口

 9ロ

 O口

(〉ロロ<) (}o

  ロつ Gロ

(.b◇●(〉ロ

ロ<) Gロ ロo

廿o

図4 杉野中、薬師堂における

   シュウシの座(1996.2.8)

283

(10)

国立歴史民俗博物館研究報告   第98集 2003年3月

4 その他の切妻型の堂

 ︵1︶余呉町鷲見 八幡神社 阿弥陀堂︵調査票 切妻型01︶       ﹃高時川ダム建設地域民俗文化財調査報告書﹄には八幡神社の行事と

して掲載されている︒同書によると︑昭和四十四年の段階で三年前から      ︵10︶

廃 止となっている︒﹃近江祭禮風土記﹄にも﹃伊香のおこない﹄にも︑

堂を使用したという記述はない︒次の講元︵当屋︶を決める簸は講元の

神前でおこなう︒  ︵3︶余呉町下丹生 丹生神社 社務所︵調査票 切妻型04︶

  本 殿 向かって右横に妻正面をみせて建っている︒正面の形式は切妻

型に通有のものでかなり大規模であるが︑規模に比べて奥行きが著しく

短い︒もとはこの三倍の奥行きの建物で︑食堂と呼ばれていたと伝える︒

また︑食堂は現在本殿が建っている石積み基壇上にあったので︑その向       は 

左手にある地蔵堂が﹁堂の上の地蔵さん﹂と呼ばれるという︒食

堂を移築して小さくし︑神社本殿を造ったのは明治以後のことであろう

から︑それ以前のこの境内の中心部には大きな食堂があったことになる︒

 ︵2︶余呉町上丹生 丹生神社 観音堂︵調査票 切妻型03︶

     同      八幡神社 薬師堂︵源昌寺︶ ︵調査票 切妻型02︶

  八幡神社は丹生神社の摂社と言われる︒上丹生は二十二組の五人組に 分 かれ︑丹生神社の大塔と八幡神社の後塔とで︑別にオコナイを実施す

るから十一年で一巡する︒丹生神社に観音堂があったというのは地元で

聞き取りである︒﹃近江祭禮風土記﹄に﹁江戸時代には祝詞のあとに

『しゅうし﹄とて座が食堂︵今無い︶で行われた﹂と書かれている︒こ れは木之本町杉野と全く同じであるから︑上丹生にも切妻型の堂があり︑

そこで座が行われていたことは確かである︒今︑境内に切妻型の堂に良

く似た神輿蔵があるので︑これが﹃近江祭禮風土記﹄のいう﹁食堂﹂で

あり︑それは多くの場合仏堂であるから︑地元の古老がいう観音堂だっ

たのではないかと推定する︒

 薬師堂は現在源昌寺に属するが︑上丹生区の所有でもと長福寺といい︑

      け  八幡神社の神宮寺であった︒八幡神社は丹生神社の飛地境内社であると

ことである︒この堂は宝永五年︵一七〇八︶の建築で明らかに切妻型

であるが︑オコナイに使用されたという確証はない︒  ︵4︶余呉町椿坂 八幡神社 阿弥陀堂︵調査票 切妻型05︶

 この建物は入母屋造桟瓦葺であり︑形式上厳密には切妻型とはいえな 誠一﹃近江のオコナイ﹄によると︑現在の座は北座︑南座から構成され         が︑使用法については杉野の堂と同じく︑ここで座が行われる︒中島

おり︑北座は守護の系統︑南座は土着の系統であるという︒六十年程

前までは︑それぞれに養子などでこの地に入った者で構成する中座があ

り︑合計四座あったという︒全員が着座すると︑本尊阿弥陀如来の開扉︑

大 般若経転読︑説教のあと座となる︒図録の写真をみると︑本尊前の向 か

右側の柱に釈迦十六善神画像をかけ︑その前で大般若経転読を

行っている︒

 ︵5︶木之本町 金居原 八幡神社 薬師堂︵調査票 切妻型06︶

 この建物の内部には︑寛政十二年︵一八〇〇︶の額があり︑様式的に

その頃か少し前の建物と推定される︒﹃近江祭禮風土記﹄に﹁お鏡は神

社と薬師に供え式は堂で行う︒堂のぐるりの棚にお花を供え︑﹃だあ︵座︶﹄

とて式をする﹂と書かれているうちの﹁堂﹂に相当するであろう︒内部

構成は︑内陣奥行きが柱間二間と広い点と︑外陣に絵様をほどこした虹

梁型飛貫が縦横にかかっている点に特色がある︒特に後者は︑時代の進

284

(11)

[滋賀県湖北地方のオコナイとその建築] 黒田龍二

展にともなう技術と流行を示しており︑

れることの根拠となる︒ 建築年代が十八世紀後期とみら

 ︵6︶木之本町大見 医王寺 地蔵堂︵調査票 切妻型剛︶

 この堂も入母屋造であり︑厳密には切妻型とは言えないが︑屋根形式

は草葺であることによるもので︑内部の平面形は切妻型と同じである︒

天保二年︵一八三一︶︑安政五年︵一八五八︶の額があり︑建築年代は

十八世紀後期から十九世紀前期と推定する︒﹃近江祭禮風土記﹄による

と︑牛頭天王︵現在の大見神社︶のオコナイで︑﹁もろと﹂という古い

家が十五軒あり︑年齢順に当たるという︒また村は上下に分かれ︑各堂

があって下の堂が医王寺であり︑地蔵と不動を祀るという︒座の場につ

は不明である︒

5

もろと座および大般若経

 ﹃近江祭禮風土記﹄は杉野中︑向の座について﹁もろと座﹂を構成す

る人がいて権威をもっていること︑大見の堂について﹁もろと﹂という

古い家柄が十五軒あってオコナイにあたっていることを伝えている︒下

丹 生 では︑﹁と渡し﹂に神職︑諸頭頭︑別当が立ち会うとある︒椿坂に

は︑守護の系統と土着の系統によって座が構成されているという

中島誠一氏の報告がある︒これらのことは︑現在のように村の全戸が参

加する形態以前に︑村の有力者によって特権的な座が構成されていた時

期があったことを示すだろう︒

 行事に関しては︑現在は宗教性が無くなっている事例が多いのだが︑

オコナイに際して杉野中︑向の堂では︑厨子の横に釈迦十六善神の画像

を掛ける︒これは︑かつて大般若経による法会が付随していたことを示

している︒椿坂の八幡神社阿弥陀堂では︑現在も十六善神の画像をかけ

僧侶による大般若経転読がある︒

  大        ね  般若経については︑滋賀県教育委員会﹃滋賀県大般若波羅蜜多経調 査 報 告書一︑二﹄に県下の中世以前の大般若経に関する詳しい調査報告 があり︑以下の記述はその報告書による︒

  木 之 本町金居原区所蔵の写本巻子大般若経は︑ここでとりあげた八幡

神社薬師堂に保管されていた︒平安時代と鎌倉時代の写本を中心に版本

を二巻含む︒四二七巻は室町時代の巻子版本で︑至徳二年︵二二八五︶﹂

識 語 後に別筆で﹁今ハ金原住宝﹂とある︒至徳二年以後︑この地域

ものとなった︒

  杉野の大般若経は︑横山神社に鎌倉時代を主とする写本巻子の経と室

町時代の版本折本の二群がある︒写本には︑建暦三年︵一二↓三︶僧慶

幸の識語をもつ巻︑永享十一年︵一四三九︶円乗の識語をもつ巻がある︒

横山神社はもと山上にあり︑鎌倉時代に社僧慶幸が八幡宮別当になった

ことから八幡宮を勧請し︑のち永享十一年に現地に移したと伝える︒金

居原区所蔵の大般若経とも関連があるらしい︒また室町時代の版本折本

経 の見返しには﹁横山大明神/伊香郡杉野向村組︵以下略︶﹂の墨書が

ある︒従って︑向村という村落単位で大般若経に関わっていたことが確

認 できる︒

 ダム建設による水没予定地で︑数年前に建造物も含めて全村が姿を消

した余呉町鷲見には︑この問題を考える上で非常に重要な識語をもつ西

念寺所蔵大般若経がある︒これは︑応永二十七年︵一四二〇︶四月から 応永二十八年四月にかけて写された巻子で︑小比丘祥英による百巻の一

筆書写経である︒この経は︑﹁惣社山上大明神御経﹂であり︑﹁鷲見村惣

村御経﹂であった︒

 第六百巻識語に︑

    大 般若経第六百巻之内一百巻永代鷲見村/惣社山上大明神御経也/

   右祈願天下太平興隆仏法為也/恭伏値如来金言理趣三蔵流伝/法孫     比 丘祥英書写畢之次願者/上酬四恩下資三有無辺法界流通者/応永

285

(12)

国立歴史民俗博物館研究報告   第98集 2003年3月

    廿 八年辛丑七月十日/幹縁小比丘祥英謹記之

とあり︑

  巻中に    近江州伊香郡余呉庄鷲見惣村御経也 とある︒ これによって十五世紀︑鷲見村には惣社山上大明神を中心とする惣村

が 形成され︑大般若経は惣村に属し︑おそらく村の行事に経が用いられ

たことも推測されよう︒この経とともに西念寺には︑室町時代初期の十

六善神像も伝えられている︒

  大見の医王寺の経は伝来不明の東福寺版で︑折本版本である︒巻二九 五 紙背に﹁大箕村惣中或医王寺什物欺﹂と記されており︑惣中というの

は前述のオコナイにあたる十五軒の﹁もろと﹂をさす可能性が高い︒

  上 丹 生と下丹生の丹生神社にも大般若経が伝わる︒上丹生の丹生の経

は︑春日版巻子で永仁四年︵一二九六︶九月︑藤原国末が丹生天満天神

御宝前に奉納したものである︒下丹生の丹生神社には五巻の経が残るが︑

来歴不詳である︒

  現在もオコナイに大般若経転読がある椿坂の大般若経は︑応永の始め

頃には摺られていた版本で︑文明十七年︵一四八五︶と天文十一年二

五 四二︶に修理が行われており︑天文の修理は菅山寺信舜坊で行われて

ることから︑その時まで菅山寺にあったと考えられている︒もとは巻 子 であったのを折本にしているが︑その時期は明らかでない︒椿坂に移っ

た時期も明らかでないが︑経巻とともに室町時代の十六善神像が伝わっ

ることから︑室町時代の内に移されたと報告書は推定している︒

  以 上 ことから︑山間部の切妻型の堂におけるオコナイの組織は︑特

権的なモロトによる中世惣村の宮座行事の性格をもつことが分かる︒

④入母屋型の堂・社

  入母屋型の堂は︑湖北の平野部に広く分布する︒典型例における建築

的特色は次の如くである︒平面規模は正面三間︑側面三間で︑入母屋造

平入の屋根をかける︒基壇の上に建ち︑四方に縁をまわし︑正面中央一

間に向拝と階を設ける︒内部は板敷きとし︑中央奥に仏壇を設ける︒建

具は正面一間通りを開放的に︑他を閉鎖的に扱う︒正面一間通りが開放

場合は︑正面から一間奥の柱筋に開放可能な建具を入れる︒正面一間 通りも囲う場合は︑正面の柱筋と両側面の正面側の柱間に取り外しまた

は開閉可能な建具を入れる︒両側面の奥側二間と背面柱筋は多くの場合

板 壁 である︒背面中央間と両側面の中央間に建具が入る場合があるが︑

とんど使用しないと思われる︒四面の側柱上の頭貫は全ての柱間で虹

梁形となる場合が多い︒

  典 型的なものは一種独特の気分をもっているが︑この形式自体は湖北 以 外 地 域にあっても不思議はない形式であり︑厳密に規定することは

難しい︒この地域のなかにおいても︑ここでいう入母屋型の堂と判断す

るかどうかに苦しむ場合がある︒独特の雰囲気は︑この形式が仏堂に限

らず神社本殿として建っている場合があり︑それでも不釣り合いではな

点から生じている︒建築的には基壇の上に建つ立ちの高い建物で︑前

方が開放的︑後方が閉鎖的で︑神社建築に近い性格をもつといってもよ

オコナイはジンジー−神事と観念され︑村の最も重要な祭であり︑堂

社はその象徴である鏡餅を神仏に捧げる場である点に神社建築に近い 聖 性表現の源を求めることができるであろう︒

1

高野神社薬師堂︵高月町高野︶︵調査表入母屋型9︶

オコナイの事例として高月町高野の事例をあげるが︑行事の全体を実

286

(13)

[滋賀県湖北地方のオコナイとその建築] 黒田龍二

見したわけではないので﹃近江祭禮風土記﹄を基本として記述する︵図5︶︒

 高野には先頭︑二頭︑三頭︑後頭の四組の頭屋がある︒

 二月五日      餅掲

    八日早朝     献供︒上記の順に薬師堂に上げる︒

午前八時

午前十一時頃

午後午後六時

   九日

 ﹃近江祭禮風土記﹄

後に二頭︑

神将         によると︑

     三頭が加わったという︒

この行事次第をみると切妻型とは異なり︑ 頭屋宅で本膳の座︒一軒一名宛出座

餅を下げ︑次番の頭屋へ送る︒

頭 屋 宅 で後座︒親類を招く︒

頭 屋 宅 で

とう渡し﹄

新頭屋でお鏡を割り︑親類に配る︒

    以前は先頭︑後頭の二組であったが︑

堂においては何の儀式もな

+二神将 毘沙門薬師如来不動テ

      ノ

   //

ooo◇oo ◇oooo 口

   ○   O o

    口 ◎

1「

←/

 1 一一一一一一

 l  l

四組の餅を 四組のハ

並べる。

参入 柱に餅花を

飾る。

図5 高野神社薬師堂における餅の奉納(1996.3.8)

く︑単に餅を堂に上げて︑ある時間飾っておくに過ぎない︒その代わり︑

ここには四組もの餅と花が上がり︑村人は四組に分かれて各頭屋宅で座

を行う︒ 

堂は典型的な入母屋型の堂で︑正面一間通りも囲う型である︒正面は 三間とも半蔀︑両側面の正面側の柱間は引違戸︑向かって右側面中央間

も引違戸とし︑他は板壁とする︒資料としては︑寛文九年︵一六六九︶

薬師如来宮殿造立棟札写︑元禄二年︵=ハ八九︶の御厨子建立棟札写 があるが︑様式的には現存堂のものとは考えられず︑現在の堂は十八世 紀中期から後期の建築と推定される︒寛文の宮殿造立棟札写では︑表に

宮殿造立者の庄屋以下七名の名前︑裏に﹁十二神井大師之再興/惣中﹂

とあり︑元禄の札には表に﹁御厨子建立/村中﹂裏に﹁高野村﹂とあり︑

一貫して村人による造営である︒

2

入 母 屋 型

堂・社における仏堂と本殿の併存

  入 母 屋 型 堂・社の形式は仏堂にも神社本殿にも採用されていること

は先に述べた︒その著しい事例として︑神社の本殿と境内仏堂がほぼ同

形式で建てられている例を紹介する︒

 ︵1︶岡本神社本殿および観音堂︵湖北町丁野︶︵調査票 入母屋型29︑30︶

 湖北町丁野の岡本神社の本殿はほぼ南面し︑前方に拝殿がある︒拝殿

東側に少し離れて観音堂がある︒拝殿と観音堂の中間の少し北寄りに

稲荷社︑拝殿の西側の北寄りに地蔵堂という境内構成である︒この中の

観音堂と本殿が入母屋型の堂・社であり︑しかも観音堂の方が古く︑お

そらく明治に入ってから本殿を観音堂にならってつくったと推定する︒

入 母 屋 型 堂・社が︑この地方では堂とも社とも区別せずに認識されて

たことを示す好例である︒

  現 在 年間の神事は︑籔によって決まった十軒の当屋が毎年分担して

287

(14)

国立歴史民俗博物館研究報告

  第98集2003年3月

運営される︒二月十七日に餅掲︑十八日が本日で先ず観音堂︑本殿︑稲 荷社︑地蔵堂の順に鏡餅を供えていく︒その後︑神社横の公民館で︑直

会があり︑籔で次年度の頭屋を決める︒直会が公民館で行われるのは昭

和四十七年の竣工以来のことで︑それ以前は一番の頭屋宅で行われてい

た︒村の全戸の中から十軒を当てる方式は明治四十二年の虎姫地震以後

れ︑頭屋が三軒あったという︒        ︵15︶ ことで︑その前は他の地区にみられるように東︑南︑北の三区に分か   観音堂は正面一間通りを囲う入母屋型の堂で︑背面にも両開板扉があ

るが︑堂内では背面扉に接して厨子を置くため︑扉は形だけのものであ

る︒内部は一室で︑同時期の厨子のなかに平安期の十一面観音座像を安

置する︒縁束にも雲状の肘木をつけるなど装飾性豊かな建築で︑虹梁絵

様の特徴から後述の比伎多理神社本殿と同じ長浜の大工藤岡氏の作と考

えてよい︒詳しい調査はしていないので︑建築年代は推定であるが︑十

八 世 紀後期から十九世紀初期と考えられる︒

 本殿もほとんど同一形式であるが︑背面中央は板壁︑両側面中央間を

引違戸とする点などが異なる︒基壇は一段と高く︑縁束下には石製の礎

盤 があり︑観音堂よりも立派に見せようとする意図が読み取れる︒建築

年代は十九世紀後期とみられ︑拝殿とその前の参道もすべて近代のもの

と見られる︒この本殿は︑観音堂と形式がよく似ていることに加えて︑

縁束にやはり肘木が付く点をみると︑観音堂を模したものであろう︒明

治以前の状態を考えると︑観音堂と本殿の間にある稲荷社が一間社流造

で︑十八世紀前期頃の建築と見られる点が注意をひく︒江戸時代には現

稲 荷 社と観音堂が主要建物だったのであり︑明治にはいってから神 社 本

殿を立派にするために現本殿を建設したと推定される︒  ︵2︶比伎多理神社本殿および観音堂︵湖北町今西∀

                                        ︵調査票 入母屋型40︑41︶

 湖北町今西の比伎多理神社本殿および観音堂は︑前項の推定的な建設 近世社寺建築調査が行われた建物で︑詳細は﹃滋賀県の近世社寺建築﹄        む  経緯とは逆の事例である︒本殿︑観音堂とも県教育委員会による滋賀県

に報告がある︒

 本殿は︑棟札により文化元年︵一八〇四︶の建築で長浜の大工藤岡氏

作である︒こちらは︑正面一間通りを囲う型の入母屋造の社である︒

桁行三間梁間三間で︑正面側と両側面の正面側の柱間を扉とする︒堂内

後方を区切って内陣とし︑前方は畳敷きとなっている︒

 観音堂は︑平面図のみをみると県下に多い前室付き三間社流造と同様 であるが︑前室付き流造の場合は︑前室の床や内法長押が身舎部分より

も低くなり︑正面側の柱も短くなるのに対して︑この堂ではそれらを同

高にして入母屋屋根をかけるため︑ここでいう入母屋型の堂になってい

る︒正面三間側面三間の建物で︑正面一間通りは吹放しとし︑正面から

一間奥の柱筋と両側面中央間に扉を設け︑背面柱筋と両側面の背面側柱

間を板壁とする︒明治二十六年︵一八九三︶の建築とされる︒

  平面の性格は本殿の方が仏堂に近く︑観音堂の方が神社建築に近い︒

しかも建築年代は本殿が古く︑観音堂が新しい︒それにこの神社が式内

社に指定されていることを考えると︑また特殊な事情があったのかも知 れない︒オコナイの様子は実見していないし︑﹃近江祭禮風土記﹄の記 述 からは観音堂と本殿の関係は明らかにならない︒のちの調査を待つ事 とする︒

浄 信寺︵木之本町︶地蔵堂のオコナイ

地蔵信仰で著名な木之本の浄信寺地蔵堂にもオコナイがある︒地蔵堂

288

(15)

[滋賀県湖北地方のオコナイとその建築] 黒田龍二

は正面五間の本格的仏堂であり︑今まで述べてきた村落仏堂とは比較に

ならない規模を有する︒その理由はいうまでもなく︑村落仏堂は一村落

仏堂に過ぎないが︑浄信寺地蔵堂は交通の要衝にあって貴賎上下の信 仰を集める都市的な寺院に成長したからである︒それはそれとして︑こ

オコナイと建築の関係はどのように捉えるべきであろうか︒﹃近江祭

禮風土記﹄が浄信寺地蔵堂のオコナイに関しては実に冷淡で︑ただオコ

ナイがあることを指摘するにとどめたのは卓見というべきか︑木之本に

は意富良神社のオコナイに紙面を費やすのみであった︒井上頼寿

は︑木之本の集落のオコナイは意富良神社のものであり︑地蔵堂のオコ

ナイについて﹁木之本には行いが多く︑この他︑秋葉さん・豊川さん・

天神さん・地蔵さん・観音さんにも行いがある﹂と書く如く︑庶民信仰

任意の講の一種と捉えたのであろう︒井上の考えについては憶測の域

を出ないけれども︑その維持基盤に注目すれば地蔵堂オコナイと一般的

な集落のオコナイとは同一ではないことは明らかである︒地蔵堂のオコ

ナイと集落のオコナイの関係については︑次の三つの場合が想定できよ

う︒ ︵1︶地蔵堂のオコナイは集落のオコナイより以前のもの

 ︵2︶地蔵堂のオコナイは集落のオコナイから派生したもの

 ︵3︶地蔵堂のオコナイは集落のオコナイとは別系統のもの

くつかの前提を必要とするが︑神戸市に地蔵堂のオコナイと非常に

よく似た祭があることから︑私は地蔵堂のオコナイは集落のオコナイと

は別系統のものと考えている︒まず︑浄信寺地蔵堂オコナイの概要を紹

介したのち︑神戸市多聞寺のお塔祭の次第を紹介してこの問題を考える︒

とが棟札から知られる︒正面柱間五間︑側面柱間八間で︑正面側の二間         ︵17︶  浄信寺は時宗に属し︑地蔵堂は宝暦五年︵一七五五︶の建築であるこ 通りを礼堂︑その奥四間分を内陣および脇陣︑その後方を後戸とする中 世仏堂形式をとる︒塔役の資格は現在は信仰者なら誰でもあるとされて

り︑受塔人の申し出がなければ︑地蔵講︑町内の還暦の人︑病気全快

      ︵18︶

平百姓が台頭して相剋があり︑家筋を限らなくなったという︒塔を受け        ︵19︶ 人などがなる︒また︑近世には塔役は村の有力者で構成されていたが︑

ると一年間本尊掛軸を自宅で守り︑来年のこの日献塔方となって本尊に

餅を上げる︒当日の次第は次の如くである︵図6︶︒

   荘厳     入堂着座︵献塔方︹南側︺︑受塔方︹北側︺︑法中︑給仕︶

 法要差定     焼香讃/三實禮/四奉請/開経偏/地蔵経/心経/御真言/回願/

   十念    

 導師結界を出る

   

 給仕頭火鉢をだす

   籔/御盃︵地蔵堂の座︶

   

 導師結界中に帰る

書院・庫裏へ

曇『∴璽鯉し曇

  φd)666◇φφ◇もb

図6 浄信寺地蔵堂オコナイの座(1997.3.24)

289

(16)

国立歴史民俗博物館研究報告

  第98集2003年3月

    心 経/御真言/回願/十念/四弘誓願/斯願若剋果/十念    

 導師祝いの言葉

    三禮退堂    なおらい︵書院の座︶

 御盃というのが座に相当し︑現在は盃だけで終わっているが︑十年前

までは膳が出て子供六人が給仕をし︑長時間にわたる無言の会食が行わ

れたという︒場は内陣であり︑本尊前の中央に方丈がすわり︑その右側

に献塔方︑左側に受塔方が並んで座が行われる︒この座は住職と献塔方︑

受塔方の座であり︑祭の基盤をなす来訪信者の座は︑なおらいという形

で最後に書院で設けられることに注意したい︒

       ︵20︶  神戸市北区有野の多聞寺は真言宗に属し︑本堂は元禄三年︵一六九〇︶

建築で正面柱間三間︑側面柱間五間の規模である︒正面側二間通りに

は虹梁がかかって礼堂の扱いとなるが︑内陣部分は壇と高座で一杯なの

で︑お塔祭の時は建具も取り払い堂内を一体として使う︒お塔祭は現在

二月十一日に行われる︒これはやはり新旧塔人の交代の儀式であり︑

形態は異なるけれども餅が登場すること︑厳重な座があることなど浄信

寺地蔵堂オコナイと非常によく似ている︒このお塔祭の村落としての基

は上唐櫃と下唐櫃の二つの集落があるが︑それぞれの集落には山王

神社がある︒上唐櫃は一月三日にオトウがあってトウヤの交代が行われ      ︵21︶るし︑下唐櫃では︑一月一日の鬼打ちの時に宮守の交代を行う︒寺壇関

係を詳しく調べるにはいたっていないが︑この地域には真宗寺院もある から多聞寺のお塔祭は︑檀家あるいは信者の祭であると考えられる︒行

事は次のようなものである︵図7︶︒

  本尊開扉/献膳供/大般若経転読/宝塔受承式/大護摩供奉修   大 般若経転読に続く宝塔受承式がここでいう座である︒座は本堂で行

われ︑本尊前の中央に特定の家柄の司会者と多聞寺住職︑その右には下

唐櫃の区長と旧塔人︑左側には上唐櫃の区長と新塔人がならび︑膳を前

     む しエ  む      むむむむむむむりむ

γ膳[コ㌦巌

      口[コ10 −

一一ミヘー一一一ミー

       

新G・\、\  ・・

炎σ・  し  ・

 ◎一ロロロロロロロロロロ

    旧塔人

  ◇e

        φ        φ    φ一

・0区長・

φ住職

φ司会者

φ区長φーじ

φ︸

藷\ \べ二

    女人結界

L ユ

図7 多聞寺(神戸市)

       参入 お塔祭の座(1997.2.11)

290

(17)

[滋賀県湖北地方のオコナイとその建築] 黒田龍二

にして盃事が進行する︒餅は白餅二重の上に赤餅二重を置き︑その四重

前方に赤餅一重を立てかけ︑下に裏白を敷き︑五皿の品が付いたもの が 二 足 膳に載る︒これを新旧塔人と住職で計十一膳用意し︑須弥壇上

に奉献したのち︑盃事が終わるとそれぞれの分を持ち帰る︒この座も住

職と新旧塔人の座である︒当日は広範囲の信者が集まって活気を呈する

が︑信者には会館の方で接待がある︒

  浄 信寺地蔵堂と多聞寺との双方の座の形式および出席者は同質であり︑

地 元集落に信仰基盤を限らないことも同じである︒この観点からすると︑

宗派による法要形式の相違を除けば︑二つの祭は同じ性格のものとみる

ことができる︒湖北における座の原則は宮座構成員が何らかの形で出席

することにあるから︑浄信寺における新旧塔人と僧侶だけの座はその原

則に従っていない︒浄信寺では式のあと書院の座があって信者が集まる

ようだが︑これはなおらいという位置づけで︑神事としての座ではない︒

浄 信寺も多聞寺も古刹であって︑祭が中世起源である可能性は否定でき

ないが︑そのことはここでは追求しない︒似た祭が遠隔地にあることか

ら︑双方の地はおそらく地続き的な関係にはなく︑関係付けるとすれば

広汎な関係を想定することとなろう︒

 湖北の村落の宮座における座の意義ならびに神事性との比較において︑

浄信寺地蔵堂のオコナイは︑村のオコナイとは別ものとみるべきである︒

ただ餅の形は神戸の多聞寺が三段重ねの小豆にまぶした餅であるのに対

して︑浄信寺は一枚の巨大な鏡餅で湖北の形によっている︒

0 切 妻型と入母屋型の分布と歴史的領域性

 切妻型の堂は︑木之本町と余呉町の山間部に十棟が確認された︒調査

範囲内ではこれが全数であり︑このうち二棟がすでに取り壊された︒

入母屋型の堂・社は湖北の平野部に分布し七十二棟を数えたが︑こちら 地域にもわずかに入母屋型の堂・社がみられるが︑基本的には重複しな さを保つことが難しいから︑およその数である︒切妻型の堂が所在する は典型例からすると形の崩れたものをどこまで含めるかという点で厳密

状 況 から︑これらは或る分布域をもつといえる︒建築形式の相違はオ

ナイの実施方法の相違と対応するから︑オコナイの実施方法が或る分

布域をもつこととなる︒そのような分布を説明しうるような歴史的な領

域 性 があったのかどうかをここで検討する︒

 オコナイの淵源を寺院修正会に求める観点からは︑中世以来の地方霊        ︵22︶ 場寺院の影響圏の検討が必要であり︑和田光生﹁湖北オコナイの成立に つ

1地方霊場寺院と村落寺院の影響﹂︑脊古真哉﹁己高山をめぐる

   ︵23︶宗教文化﹂で詳しい考察が行われている︒和田氏は︑中世から湖北地域

に影響力をもった菅山寺︑己高山︑観音寺︑竹生島の四つの地方霊場寺

院の信仰圏を検討し︑脊古氏は己高山信仰圏を中心に検討された︒

  切妻型の分布域は菅山寺の影響圏に多いといってよく︑余呉川と高時

川上流が含まれるが︑高時川支流の杉野川の谷筋の集落である杉野︑金

居原への影響はあったかどうかわからない︒杉野︑金居原への影響につ

は︑脊古氏が分析した己高山信仰圏も微妙である︒己高山信仰圏は

高月町平野部全域を覆い︑杉野川筋の音羽までが含まれるから︑その少

し上流の杉野向︑中︑上︑金居原は谷筋からいうと己高山信仰圏に属す

る可能性がある︒しかし己高山信仰圏の中心部となる高月町平野部は︑

濃密な入母屋型の分布圏なのである︒入母屋型は︑さらに湖北町︑びわ

町︑虎姫町︑浅井町︑山東町に及ぶ︒

  杉野︑金居原を除外すれば︑切妻型は菅山寺の圏内︑入母屋型は己高

山の圏内ということができるが︑現在の湖北のオコナイは行事の厳しさ

からくる神事性は認められるが︑法要を中心とする宗教色は極めて薄い︒

切妻型においては大般若経の法要があったことは明らかだが︑現在は一

カ所で実修されているに過ぎない︒入母屋型においては堂は餅を奉納す

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参照

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