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(1)

軍都の解体から公園の再生へ ─鯖江市における近 代公共空間の形成に関する一考察─

著者 市川 秀和

雑誌名 福井大学地域環境研究教育センター研究紀要 「日

本海地域の自然と環境」

巻 7

ページ 103‑119

発行年 2000‑11‑01

URL http://hdl.handle.net/10098/7796

(2)

福井大学地域環境研究教育センター研究紀要

「日本海地域の自然と環境」

No 7, 103-119, 2000 

軍都の解体から公園の再生へ

一鯖江市における近代公共空間の形成に関する一考察一 From t h e  D i s s o l u t i o n  o f  M i l i t a r y  C i t y  t o  t h e  R e g e n e r a t i o n  o f  Nishiyama P a r k  

‑A s t u d y  on f o r m a t i o n  o f  t h e  modern p u b l i c  s p a c e  i n  Sabae City‑

市川秀和 (福井大学工学部)

要旨

福井県鯖江市(現人口 : 約 6 万 6 千人)は、今年2000 年 5月に市制 45 周年記念式典を挙行した。当市は、昭和30 年 l 月に 2 町 5 村の統合(人口 3 万 9千余人)から市制が開始され、さらにその直後に続いて北中山村 (1955.6) と 河和田村 (1957.3) が粁余曲折を経ての合併から誕生した地域である。 市制発足直後に着手された大規模な事業計 画が、中心部の「長泉寺山総合開発事業 J (鯖江地区と神明地区の境界)であり、 そこには市政拠点の建設による新 たな「市民意識」の形成・定着に向けた民主的メンタリティの躍動が濃厚かっ複雑に働いていた。さらに戦前の およそ半世紀にわたって固定化した「軍都 j というネガティヴな都市イメージ(負の遺産)からの脱却を狙ったか のように、うつく しく清らかで生活豊かな近代的都市イメージへの転換を求めた動向が、 その一連の事業の中で も「つつじの名所」として再生する「西山公園 J (矯陽渓 : 今年 40周年)に強く象徴されていたと思われる。

従って本稿では、このような敗戦後の時代転換と市制施行にともなって、「軍都」から「つつじの名所J へと 都市イメージを大きく変貌させた鯖江市に着目し、その相反する都市イメージから読み取れる公共空間の場所的 意味をめぐって考察したい。鯖江市を取り上げる本稿は、前稿 1) の福井市に引き続き、福井県各地域にみる近代 公共空間の独自な形成過程の場所論的究明を試みる一連の研究の第二報である。

1  .はじめに-近代日本における 「 軍都 」 と 「公園 」 の功罪ー

近代日本の地方都市にみる都市計画史上の数多い史的展開のなかでも、「軍都」の果たした重要性 について、本康宏史氏は次のような基本的視座を提示されている。

日本近代の都市形成史 ・ 発達史を考える際、箪隊の駐留ならびに軍事関係施設の存在は極めて大きな要素のひとつとい えよう。城下町を前身として近代的発展をとげた地方中核都市(県都)の多くは、とくにこうした色彩が濃い。 とりわけ、

明治期を起点として、師団司令部が設置された各都市は、いわゆる「軍都J と称され、さまざまなレベルにおいて軍事的 諸特徴が刻印されてきたものと考えられる 2) 。

戦前の大日本帝国では、明治維新以来、欧米諸国からの外交重圧に対抗しようと、富国強兵をスロー ガンに「軍国 J としての国家形成に猛進したのであるが、これを全国一律に浸透させて統制管理する ための拠点づくりこそが、近世城下町の都市構造を基盤に据えた「軍都」の配置・強化であったとい える。それは、明治後期の日清・日露の大戦を契機にその計画推進が急速に徹底されていった。つま り、軍事力ないし軍事的価値を過度に重視して戦争を正当化・讃美する軍国主義 (Militarism) の基本 姿勢から、軍備及び軍事施設を都市計画上で特権的・優越的に扱う「筆者GJ が拠点となって、全国各 地域の政治・経済・社会・文化・生活のあらゆる領域を軍事的に充実化させたわけである 3) 。それに よって日本の各地域の主要中核都市には、近世城下町の都市骨格の上に、「軍都 J の大規模な計画性 キーワード(鯖江市、軍都、西山公園、公共空間、都市イメージ、場所論)

Hidekazu I c h i k a w a   C F a c u l t y  o f  Engineering , Fukui U n i v e r s i t y )  

‑ 103 

(3)

市川秀和

図-1.)現在の鯖江市中心部(鯖江地区・神明地区)の空間構造 参照:鯖江市都市計画マスタープラン 1997 に加筆したもの

の付与された事態が多々見られることになった。 従って、現代の画一的で均質な都市空間を個性豊か で魅力ある場所の創造へと向けた再開発整備等を推進するためには、かかる「軍都」による歴史的ア イデンティティの事態を汲み取ることも、有効な方法のーっと思われる。

さらに、先の本誌前号に記載された拙稿 4) で指摘したように、明治の欧化政策の下で欧米から導入 した新たな近代都市装置としての「公園:

P u b l i c  

GardenJ もまた、現代の都市空間を考える上で重要 な要因であることは、最早繰り返すまでもあるまい。近代日本の初期「公園 J とは、近世以来の伝統 的な行楽地を引き継ぐことになったとはいえ、日本各地に擬似的な欧米風の都市生活スタイノレを速急 に普及せしめるための制度上の産物にすぎなかったことが、その施行経緯から明瞭である。 十八世紀 西欧の大都市における市民階級の台頭と産業革命を背景に誕生する「公園」の本来の機能は、日本の 近代に充分定着させることは叶わなかった。 日本に定着した「公園 J とは、市民の生活要求から生み 出された快適な都市装置ではなく、行政の制度的手続きから与えられる「上からの公共空間 J なので あり、従って行政側の意図次第で多様に転用されるオープンスペースなのであった。戦前の公園とは、

政治的宗教的舞台や軍事用地に多々利用され、またある時は博覧会場に仮設利用されるなど、時代趨 勢の動向を映し出してきたとも受け取れる。このように行政主導によって誕生した「公園」は、遂に 市民の実生活に深く受け入れられる公共空間にはなりえず、現在でも実態的に変わることはなく、「誰 もいない公園」が日常光景として目に止まるばかりである。 日本における「緑の公共空間」としての

「公園」は、都市の災害時での非日常的防災機能に偏重するあまり、その面積確保率が強調されるば かりで、 市民の都市生活に快適な場所を提供する「公園 j 本来の日常的機能の充実が今後いっそう試 みられはしないのか。 「公園」の抱える現代的課題の根は、実に奥深いといわなければならい。

以上のように「軍都」と「公園」はともに、明治新政府の下で創り出された近代日本の「公共性 J を表明する都市計画上の重要な史的要因であって、現代に引き継ぐ問題性は少なくない。 ここに取り 上げる鯖江市において、明治以降から今日に到る都市構造の展開過程や公共空間の変質様態、 また都 市イメージの相対転換などの都市計画史上の検討課題を考えるとき、かかる「軍都」と 「公園」は実 に中心的な問題として浮上してくるのである。 よって本稿では以下に、敗戦後の時代転換と市制発足 にともなって、「軍都」から「公園:つつじの名所」へと都市イメージを大きく変貌させるに到った 鯖江市に着目して、そのアンヴィパレンスな都市イメージに基づく場所論的考察を試みる 5)。

104 

(4)

軍都の解体から公閣の再生へ

間部家人封笠町勺時間江圏

図 -2.) 中世の鯖江・誠照寺の門前町 出典 『鯖江市史通史編上巻~1993 

明治維新首今日時江圃

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図ふ)近世の鯖江・五万石の城下町 出典・『鯖江市史通史編上巻~1993 

2. 鯖江中心部の歴史的諸場所の形成過程

-北園街道の誠照寺門前町(中世)から藩主間部家の城下町(近世)へー

「軍都」と「公園」をキーワードに して、鯖江における戦中戦後の都市イメージの変遷を読み解く 本論の前に、現在の中心部(図ー1.)がどのよ うに形成されてきたのかを簡潔に振り返っておきたい。

鎌倉初期(承元元年,1207) に浄土真宗開祖親鷺が、越後への配流の途中にこの地を立ち寄ったことに由 来して創建された誠照寺(越前回派本山の一つ)の門前町として、鯖江の街づくりの歴史は、まず今日の鯖 江地区を中心に始まったとされている 6) 。北園街道沿いの門前町とはいえ、茶店や旅館などを商う家 並みが僅かに数軒見られた程度であり、また府中(武生)と北ノ庄(福井)に挟まれた土地柄もあって目 立った宿場と しても発達せず、久しく都びた集落であったようである(図-2.)。

しかし江戸中期を節目に、鯖江は大きく変わり始めた。それは、間部家の統治による鯖江藩五万石 の誕生を迎えたからである。初代藩主となる間部詮言(1690-1724)が、越後国村上から当地へ転封を 幕府より命じられたのは享保 5年 (172 1)であり 、 翌年の春から移転作業が本格的に始まった。多数の 藩士が移り住むものの、誠照寺に南接する幕府の代官屋敷が既設するだけで居住地が確保できず、取 り敢えず領内の農家に分宿しなければならぬ有り様だ、ったようである。この初代詮言の時代から五万 石の街づくり整備の基礎は、鯖江地区内で着実に進められた(図-3.) 7)。

‑ 105‑

(5)

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(6)

軍都の解体から公園の再生へ

初代詮言から九代詮道に到るおよそ 150 年以上に及ぶ鯖江藩五万石の城下町区域(鯖江地区)は、北 国街道に沿って藩邸と誠照寺を中心に、北は長泉寺山・西山の南麓から南は王山まで到る洪積台地の 上に細長く形成された(前頁、図 -4.) 。こうして江戸中期から明治末までの鯖江は、武生と福井を結 ぶ北園街道や日野川水運の交通中継地として繁栄したものの(図・5.) 、西の日野川と東の黒津川に挟 まれて南北に伸びる狭小な台地という地勢条件に制約されてきたために、この城下町は東西方面に市 街化を拡大することは遂に叶わなかった。つまり現在の鯖江地区内に限定され続けてきたのである。

なお因みに、江戸後期の天保 11 年( 1840) には、歴代藩主の念願であった築城許可が幕府より漸く認 可されたため、当時の七代藩主詮勝によって築城計画が城下町北端の長泉寺山南麓地帯に進められた ものの、狭小な台地という地勢的条件が決定的要因となった上に、 前年の大飢僅による領内の極度な 困窮状況なども重なって断念された 8) 。従って中世の誠照寺門前町から始まる鯖江の街づくりは、近 世中期以降に到って五万石城下町へと整備されたものの、その特有な地勢的条件等から中世以来の市 街地(鯖江地区)以上に拡大発展出来ず、また「城の無い城下町」でしかなかったわけである。

こうして未発達な近世城下町に引き継ぐべき産業や文化などは特になく、幕末維新の新たな時代を 迎えて衰退を余儀なくされた鯖江の住民にとって、今一度の都市繁栄へ向けられた願し、は、実に根強 かったものと想像される。 そのとき、近代の鯖江が選択した道とは、激動する国内外の情勢のなかで、

「連隊の駐留」による都市復活・活性化であった。殊に長泉寺 ・西山の丘陵地を真ん中に旧城下町区 域(鯖江地区、当時・今立郡鯖江町)と南北対称に位置する神明地区(当時:丹羽郡神明村)の住民にと っては、近世江戸期を通じて全く未開発な小寒村地域を脱し切れなかっただけに、旧城下町の鯖江地 区の住民以上に、かかる願望は切実なものであったろう。 神明地区を舞台にして、新たな近代の鯖江 は、「軍都」への道を歩み出していくのである。

日野川水運の主な船着場

「白鬼女 J から 「吉江J の問に、幾つもの 船着場があったという。

23 町

北園街道の宿駅と里程

鯖江の城下町

凡例

ニ=36.1 (約 3.9km l 町=約 109

1 1 1 

図・5.) 北園街道と日野川水運

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日野川水運の繁栄を伝える伝統看板 提供・出村仏壇店(鯖江市深江町)

出典 『鯖江市史通史編上巻~ 1993 

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(7)

秀和

3.  r 軍都鯖江J の誕生から繁栄、

3  ‑1 

.)歩兵第三十六連隊の創設

日清戦争 (1894-95) の直後、陸軍省は、「軍国主義」の高まる時勢において軍備増強を推進すべく、

既に維新直後からの六個師団に加えてさらに六個師団の増設を実施し、また続く日露戦争の戦勝後に もその傾向をますます強化した。 こうした日清日露の大戦にかけての全国各地における師団増設を示

したものが、図・ 6.) と表・ 1) であるの。

鯖江歩兵第三十六連隊の創設は、日清戦争後の明治 29 年(1896) の師団増設時であり、金沢城内に 設置された第九師団司令部の管理下に編入された(表-2.)。 この創設時点では未だ鯖江の新兵舎が完 成していなかったため、この歩兵第三十六連隊は一時的に名古屋の歩兵第十九・ 三十三連隊兵舎内に 駐屯していたものの、翌明治 30 年 8 月には曲青江の新兵舎に入った(図ー7.) 。そしてさらにこの翌年 3 月に、宮中正殿にて勅語とともに「軍旗 J (図-8.)が親授されて、「鯖江歩兵第三十六連隊」は実質的 に成立したのである 10)。 この歩兵連隊の創設から、それまで原野でしかなかった鯖江の神明地区が 一挙に繁栄化して、その賑やかな街の光景(次頁、図 -9.

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12.) からは、「軍都」 あるいは「軍国日本 j の実態とその雰囲気なるものが、濃厚に伝わってくるのである。

そして解体へ

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ー工兵第九大隊(金沢)

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全十八個師団司令部の位置を 日本全図の上に丸数字で示す。

(金沢)(金沢)(金沢)(敦賀)(敦賀)(鯖江)

表・2.) 第九師団創設の編制と 鯖江歩兵第三十六連隊 出典註 2) の本康氏の論考「軍都金沢」

維新直後の鎮台から師団へ(六個師団設置)

第一師団・近衛(東京)、第二師団(仙台)、第三師団(名古屋) 第四師団(大阪)、第五師団(広島)、第六師団(熊本)

日清戦争後の設置(六個師団増設) 第七師団(旭川[)、第八師団(弘前)、第九師団(金沢) 第十師団(姫路上第十一師団(善通寺)、第十二師団(小倉)

日露戦争後の設置(六個師団増設)

第十三師団(高田)、第十四師団(宇都宮)、第十五師団(盆僑) 第十六師団(京都)、第十七師団(岡山)、第十八師団(久留米)

‑ 108‑

表-1.)戦前の師団司令部の設置時期

(8)

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図司9.-1 )軍旗祭の街頭風景(兵舎表門の方を見たもの) 毎年4月15日の「軍旗祭」 には、最大行事である式典 と模擬戦のほか、相撲大会 や演芸会、仮装行列などが 一般市民にも聞かれて、将 兵官民が一体となって、終 日楽しく賑わった。‑'. 

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亡コ 図-10.)兵営舎表門から出征する部隊\ム一品

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陸軍基地は当初、北側の経ヶ岳南麓に あったものの、南の旧射撃場の周囲に 民家が増えて建ち並んで、きたために、 大正3年に両者の場所を入れ替えた。

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明治後期より昭和初期に至る商店分布図 水落・北出地区は主として、明治後期より大正末期ごろの分布。 片町・新道地区は主として、昭和初期ごろの分布。 r( :商工業者 0印の内訳ート~軍人・箪関係技術職 L.一般民家

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備考 L三十六連隊略図は創設当時のものである。 2.営庭の一本必はまだ植えられていない。_当時の連隊炊事場は、大隊毎に設けられており、明治454Jl 蒸気炊きんのための炊事場を改善したときに、第2大隊後方に まとめられた。

北野ヘ

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!日 水車駅ヘ 出典『鯖江歩兵第三十六連隊の創設』鯖江市神明公民館1997図-12.)兵営舎前の道沿いに立ち並ぶ商店街

(11)

市川秀和

3  ‑

2.) 鯖江(神明地区)の選定経緯と街の繁栄、そして敗戦による軍都解体

では何故に歩兵第三十六連隊は鯖江(神明地区)の地に設置されたのであろうか。金沢の第九師団管 轄下の福井嶺北地域内に連隊の配置を実施計画する際、まず「福井案」と「鯖江案」の両案が考えら れていたようであり、 J鯖江案」の優位な選定理由(表-3.) は以下のとおりであった。

①連隊設置に必要な土地確保に有利である。

(福井市の市街化の広がりに比すれば、鯖江・神明地区は山林・原野が多かった。)

②鯖江台地は地盤が強固な上に、日野川 ・浅水川 ・黒津川など水域に恵まれている。

③旧北陸道沿いであることから道幅なども広く、軍隊の通行等に支障がない。

④近隣の鯖江の城下町は、将校や下士官の娯楽等に対して充分な受入が可能である。

(実際は連隊設置に伴って、正門前には新たに繁華街が形成された・後述。)

⑤明治 29 年に福井・敦賀間の北陸線が開通し、交通便には支障がない。

(大正 13 年に福武線・鯖浦線が開通し、連隊正門前に兵営駅が設置された。) 女最大決定要因:備江の住民による地域の活性化を狙った積極的な誘致運動。

表-3.) 鯖江(神明地区)の選定理由

以上の 5 つが鯖江・神明地区の選定理由として考えられたわけであるが、何よりも地元の神明地区 住民による連隊を歓迎する雰囲気が最も大きく働いて、陸軍省に決断を促したと言われている。連隊 設置の連絡が陸軍省より鯖江の地元各地に届くと、神明村役場ではいち早く会合を開いて意見調整を 試み、そして直ちに用地確保の運動が住民側からの積極的な尽力で進められた。既に言及したように、

鯖江地区が城下町の中心部として繁栄を享受してきたのに比べ、北接する神明地区には目立った開発 は進んでいなかったという背景がある。かかる史的事情から、神明地区住民による連隊誘致への熱烈 な歓迎ぶりは、連隊用地の積極的な提供等に明らかであったろう。そして連隊誘致へ寄せた住民の期 待どおりに、神明地区はもとより、|日城下町中心部の鯖江地区においても、明治末から一躍繁栄を得 ることになったのである 11) 。そこで因みに『福井懸史第三冊第三編懸治時代~(三秀舎大正 11 年、 東洋書院

昭和 55 年復干IJ)には、鯖江の「兵営設置と市況繁栄」について次のような記述が見られる。

移住者相次ぎ、人口欄密し、三十五年末の統計三千三百余人のもの、大正に入りて四千人台に上 り、国勢調査の結果は四千三百余人を示せり。大正九年総戸数八百六十三戸の内、商業三百六十 二戸、製造業百四十六戸、交通・労働業何れも一百戸を越えたり。

これは、前頁(図ー 12.) の連隊正門前の賑やかな商店街の模様を実に明瞭に物語る内容であろう。また 連隊駐留の神明地区や鯖江地区の具体的な人口増加については、下の表 -4.) のとおりである。

明 23(1890) 明 35(1902) 大 9(1920)  昭 5(1930)  昭 15(1940)  昭 22(1947)

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神明村 2

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463/462 2

,

924/528 3

,

596/729 3

,

872/811 4

,

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,

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154 鯖江町 2

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958/830 3

,

378/784 4

,

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552

表 -4.) 明治末・大正・昭和初期にみる神明地区と鯖江地区における人口増加の推移

出典 『福井県史資料編 17 統計~ 1993  このように連隊駐留によって、住民の生活は著しく活性化して潤ったことから、鯖江の都市繁栄は まさに「軍都j という都市イメージの形成とともに実現したといえる。今日の鯖江の有力な「眼鏡産 業」や「繊維産業 J もまた、かかる戦前の「軍都 J による都市興隆の途上に合わせて着実に成長して きた経緯を決して見落としてはなるまい。しかしながら「軍都 J からの繁栄を享受した時期は短く、

緊迫する時勢の盛表に奔放されて徐々に衰退し、遂に第二次大戦の敗戦を迎えるとその情況は一転し て急落した。つまり「軍都 j としての鯖江は、完全な解体を強いられたわけである。連合国司令部に

(12)

軍都の解体から公園の再生へ

よる民主化が進められるとき、「軍国日本」の精神をおよそ半世紀にわたって標楊してきた「軍都」

の都市イメージは、鯖江の住民にとって最早既に「負の遺産j にすぎず、いち早くそのイメージを拭 い去り、新たな出発へのひたむきな努力があるのみであった。敗戦直後、「軍都」の残津である多く の兵舎群は、帰還した兵士やその家族たちの仮寓に転用され、さらに新制の福井大学学芸部校舎に使

われた。 戦後の混乱期に遅々と進まぬ鯖江の再出発は、昭和 30 年の市制発足に託されていた 12)。

そこで次章では、敗戦を契機に戦前の「軍都」を捨て去った鯖江が、市制によ っ て「つつじの名所 」 として新出発する動向を詳細に考察するが、この前にまず、その「つつじの名所」に再生する「西山

公園 J の歴史的背景から論及を始めたい。

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4.  r 西山公園」の成立から荒廃、そして再生へ 4 ・1.)公園前史:七代藩主間部詮勝と需陽渓

戦後の鯖江市発足と同時に、この新生都市に相応しいイメージを 表象する「西山公園」の前史については、江戸後期の鯖江藩七代藩

主間部詮勝( 1802-1885) の時代まで遡る。現存する詮勝による石碑

「構陽渓 J (安政 3 年)には「輿衆同柴 J (図・ 13.) と銘記のように 13) 、

藩主が士民に遊覧の場を提供しようと、安政年間 (1854-1859) に城下 町北端の眺望に恵まれた西山全面を造園工事させて出来た庭園「縄 陽渓 J がその前身である 。 この「構陽渓」の完成時 の 模様は、 二代

安藤広重 14)によって北園街道から眺望された木版画から、おおよそ

知ることが出来そうである(図・ 14.) 。 広 く 聞 か れた「公共の 庭園 」 と

して造られながらも、完成直後から子供による植木等の悪戯が絶えず、

そ の防止対策の「御触書」が度々出されるなど、維持管理 は大変だ、 っ

たよ うである 15)。 図 -13.) 碑文「織陽渓J

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出典: 松井政治編 『新撰鯖江誌』 大正 3年 図 -14.) r需陽渓J (木版画)、二代安藤広重(喜斎立粛)筆

‑ 1 1 3 

(13)

市川秀和

図 -15.) 大正時代の 「脅陽渓J

出典 : W写真集鯖江』図書刊行会 1979p76‑77 

明治の新時代を迎えてからの「帯陽渓 J は、維新動乱のなかで一時期荒廃を余儀なくされたものの、

明治 22 年 4 月の今立郡鯖江町の町制施行とともに「町立構陽公園」として管理されるようになり、

また続く大正 4 年には御大典記念の一事業として桜や藤棚などの造園整備が実施されるなど、先の幕 末の完成頃の木版画に見られたような「梅林」等は様相を変え、「桜の名所 J 16) として定着したよう である(図-15.) 。しかし、戦況の拡大化にともなって「額陽渓」は徐々に荒廃化が甚だしくなり、圏 内の樹木は防空壕資材や燃料として伐採され、その跡地は菜園として活用されるなど、公園あるいは 庭園としての機能は完全に消滅してし、かざるを得なかった 17) 。この後、「構陽渓」あるいは「西山公 園 J が再び美しく整備されて脚光をあびるには、戦後十年も後の鯖江市発足まで待たねばならない。

4  ‑

2.) 市制発足と西山公園の再生 -fつつじの名所J を目指してー

敗戦直後の混乱期が漸く落ち着くようになった頃の 昭和 30 年 l 月に、 2 町 5 村(鯖江町・神明町・中河村

.片上村・立待村・吉川村・豊村)の合併によって誕 生した鯖江市では、真っ先に都市中核形成を狙って、

市庁舎建設計画等を含む「長泉寺山総合開発事業 J に 着手した。 しかし北中山村 (30.6) と河和田村 (32.3) の 粁余曲折を経た編入が完了する昭和 32 年を迎えるま では、この大規模な事業計画は本格的に進んでいなか った。 このような鯖江市の誕生をめぐる複雑な問題は、

図ー 16.) r踏雲峡・西山橋 J

出典 「鯖江市だ、より J より

若泉新一初代市長の急死 (32.12) や市庁舎位置の論議等 18) が象徴的に物語っている。ここに、新生鯖 江の出発と市民意識の結合に向けた明るく力強し、「都市イメージ J が求められたのではないだろうか。

こうした背景の中で、長泉寺山 と西山を結ぶ「踏雲峡 ・ 西山橋J (全長 30 t~ 、高さ 13 ~~、幅 2 .4 t~) が、昭和 33 年 3 月に「長泉寺山総合開発事業 j のーっとしてまず完成した(図 -16.) 。当時の「鯖江 市だより J には「夢のかけ橋」というタイトルで 19) 、まさに明るい未来へ架け渡す橋のように取り 上げられており、新しく発足した鯖江「市民の夢 j がーっとなって込められていたかのようである。

さらにこの「踏雲峡・西山橋 j の完成を機にして、西山(構陽渓)から長泉山(南面)にかけての一帯を

「西山公園 J として拡大化し、そこを「つつじの名所」に再生させる整備計画が本格的に始まったの である。 同年駄には、多数の市民による協力から 2, 100 株のつつじがまず植えられた。 その一方で、

大正期に植えられた桜による春の「さくらまつり J は従来どおり続けられてきたものの、「つつじJ

‑ 114 

(14)

軍都の解体から公園の再生へ

Bg 30.

1 .  

鯖江市発足。(北中山村 (306) . ViJ和田村 (323) 編入)

「長泉山総合開発事業(市庁舎建設・ 西山公園整備等)J の着手。

Bg 33

. 4 .  

「踏雲峡 ・西山橋J 完成 =宇 「西山公園(鰐陽渓) J の本格化整備。

11.  「つつじの名所 ・ 西山公園 J の再生を目指して、え100 株の植樹。

日召34

. 4 .  

「さくらまつり」従来通りに開幕。

つつじ植樹 4,000株を超え、つつじの宣伝を開始。

日百 35

. 4  

「さくら・つつじまつり」として開幕。

5.  「第 1 回つつじまつりJ の開幕。つつじ植樹 6,500 株。

「北陸ーの大つつじ園」として充実させようと、「つつじまつり」が 市祭の中心となって、「さくらまつり」の催し物は徐々に少なくなる。

9 .  

「つつじの西山」から「つつじの鯖江」へ: í つつじ一株運動」

今年、平成 12 年 5 月の「つつじまつり j は、 4 万 3 千株のつつじの中で開幕した。

表-5.) í 西山公園:つつじの名所j の再生

ー「市制発足J から「第 1 回 つつじまつりJ までの歩みー

図 -17.) í第 1 回つつじまつりj の 会場風景(上)と宣伝ポスター(右)

出典: r 広報さばえ」より

U 冷鵠,

a 山日 一 ?ι 『…

の植樹整備が着実に進められると、「さくらまつり」の催し物は徐々に少なくなった(表・5.) 20) 。そし て昭和 35 年 5 月には、 6, 500 株のつつじが一面に咲き誇る「第1 回つつじまつり」が一ヶ月間にわ たって開幕して、西山公園は完全に「つつじの名所」として再生するに到ったのである(図ー 17.) 。落 葉高木で単色の「さくら」が日本の古来から貴族の詩歌などに頻繁に登場してきたのとは大きく違っ て、中低木で多色な「つつじ(鎖ß踊) J は、近世後期から「庶民的な色合しリとして親しまれ始めたも のである 21) 。またつつじの鑑賞の特徴とは、さくらのように樹下から見上げることはできす、低く 刈り込まれて群生する樹形に付く多彩な群花を上から眺め見渡しながら楽しむものである。市制発足

と同時期に、西山公園を何故に「つつじの名所」として再生させようとしたのか、その理由や恨拠は 今では確かな資料もなく不明であるが、「新生 J あるいは「再生J した鯖江に生きる人々のこころを 一つに繋ぎ止めて、 全く新たな未来に歩み始めようとする強く 切実な願望が込められていたのではな いであろうか。「つつじ J の多彩な花に、戦後の人々のこころは温かく癒されたのではなかろうか。

さらに、こうして昭和 35 年 5 月に開催された「第 1 回つつじまつり j の勢いは、続く同年9 月に

「つつじの西山」から「つつじの鯖江」への拡大化に向けた「つつじ一株運動」が一ヶ月間にわたっ て繰り広げられ、市内各地につつじの花を咲き誇らせる努力が試みられた 22)。まさに戦後の鯖江市

l1 S

(15)

市川秀和

誕生と同時に創出された新鮮な都市イメ ージは「つつじ」によって象徴されるものであり、この模様 は広く県内外に知られていった。それから 40 年後の今年の「つつじまつり J に到つては、 4 万 3 千 株ものつつじの咲き誇る日本有数の「つつじの名所」として広く定着し、こうした現在の西山公園(図 -18.)へ数十万人の観光客が訪れるまでに発展してきたわけである。さらに言及するならば、現代の 鯖江市を強く印象づける 「眼鏡」 ・「繊維」・ 「漆器」という大規模な産業文化が育成できた土壌には、

かかる過酷な戦中戦後を経て市制発足時からの「つつじ」とい う美しい都市イメージによって大切に 培われてきた住民の温かな「郷土愛 j こそが、深く浸透しているのではなかろうか 23)。

この遊歩道は、「祈りの道」

と名付けられて、長泉寺山 の尾根をずっと通り、北端 の 「嶺北忠霊場J に到る。

道沿いには、 400 体以上の 石仏や句碑が市民活動によ って建立されている。

冒険の森

116

朝野陽山妙法寺(日蓮宗)

庭園「禽陽渓」の開設と同時に建立。

図 -18.) 現在の西山公園の全体状況 出典:鯖江市公園管理事務所発行のパンフレッ卜に

加筆したもの

(16)

軍都の解体から公園の再生へ

アンヴィパレンス

5. まとめー鯖江の近代にみる相反する都市イメージと「公共性」の概念ー

これまでの考察をまとめれば、以下の表司6.) と表-7.) のように整理され、現在の鯖江市における 都市イメージの変遷史が大まかに把握されるであろう。従って、戦中と戦後の全く異なる二つの時代 におかれた鯖江地域(現在の中心部)を包括的に象徴する都市イメージとは、中・近世期の城下町構造 を基礎にした「軍都」と「つつじの名所:西山公園 J という相反する性格によって特徴づけられ、さ らにその対立は「神明地区」と「鯖江地区」を分ける史的背景となった。また、「軍国主義 J

( M i l i t a r i s m )  

を標楊する[軍都 J に対して、「平和主義 J (Humanism) に支えられた豊かな近代的都市生活を標楊す る「つつじの名所・西山公園」という両義性を歴史的に形成させてきた鯖江の歩みから、実に敗戦後 の時代転換と国民の価値反応が明瞭に読み取られる。このような鯖江市にみる都市イメージ形成の歴 史は、現在の中心部の骨格そのものへ引き継がれ、再開発整備や景観構成における歴史的な規定条件 として現代的意義を有し続けていることは、図・ 19.) を見れば容易に確認されるであろう 24)。なお以 上のような特質は、鯖江市に限定された特有な事態では決してないものの、かかるアンヴィパレンス な性格を備えた都市にこそ、歴史的なアイデンティティによる魅力的な都市空間を実現する可能性が

潜在していることを敢えて付け加えて言及しておきたいと思う 25) 0 L  ̲ / 

幕末 明治後期 大正昭和 敗戦

軍 都 誕生 繁栄 ;解体

(連隊駐留)

西山公園 誕生 繁栄 荒廃 再生

(構陽渓)

表・6.) 鯖江の近代における「軍都J と 「公園j のアングィパレンス

中世 近世 近代① 近代② 門前町 =今 城下町 =辛 軍都 =辛 つつじの名所 (誠照寺) (間部落五万石) (連隊駐留) (西山公園) 日野川

表-7.) 鯖江の歴史にみる都市イメージの変遷 図-19.)鯖江中心部の空間構造

また本稿にて着目した「軍都」と「公園」はともに、日本近代の新たな都市構造を高々と表象する

「公共空間」の機能装置であった。ここから見えてくる「公共性 j の概念とは、一時代の政治体制や 趨勢が一個人の主体的意図とは無関係に絶対的規定するものであり、いわば「集団と個 J あるいは「時 代と人間」の複雑な歴史的関係を具体的な都市の公共空間に読み取るものであるお)。しかし絶対規 定された公共性であるがゆえに、時代体制の急変に直面するとき、即座に変容して相対化してしまう

というパラドックスが潜んでいるのも事実であろう。 かかる公共性の歴史的展開を考慮するならば、

現代都市生活に相応しい公共空間には如何なる様態が必要なのだろうか。現在、学際的な分野で注目 される人間環境学の基底にある哲学的場所論は、このための有効な視座を提示してくれると考える。 そこで本稿の問題意識に沿ってまず着想すべきことの一つは、 地域固有の歴史・伝統・ 生活・人間に 支えられてこそ創り出すことのできる「地域文化として j の「軍都(負の遺産)の再機能J や「公園のパ ラダイム J 27) であり、それらの取り組み方において新たな可能性が聞かれるのではないだろうか。

謝辞

本稿の直接の契機は、金沢学研究会における本康宏史氏の「軍都」研究からの示唆に拠っている。 これまでのことも振り返りながら、本康氏に深く感謝したい。 また、さまざまなご教示をいただいた 鯖江市役所・文化課の竹内氏にも感謝したい。

‑ 117‑

(17)

市川秀和

1) 拙稿「足羽山公園の成立と場所の政治学 ー福井市における近代公共空間の形成に関する一考察 」福井大学地 域環境教育研究センター紀要<日本海地域の自然と環境>第6 号,

p97-116

,

1 9 9 9 .  

2) 本康宏史 (1998) íí軍都」金沢一イメージと実態の変遷小史ーJ(本康編『金沢学③イメージ・オブ・金沢一伝 統都市像の形成と展開ー』 前田印刷出版部)からの引用。

また同様な指摘は、佐藤滋 (1995)~城下町の近代都市づくり』鹿島出版会等でも若干見受けられる。

なお、師団司令部の設置された中核都市を「軍都」と称する従来の通説によれば、ここに取り上げる鯖江市は その範暗には属さない。 しかし、鯖江市のような近世の小寒村地域で、は、明治以降の没落は極めて甚だしく、

また伝統的な産業や文化にも乏しかったために何の近代的発展契機も見いだせず、ただ軍隊の駐留こそが近代 都市へと向けた唯一の可能性を有していたものと思われる。故に、従来からの「軍都 J の定義から漏れてしま う鯖江市のような小都市における軍隊駐留の果たした都市史的意義についても、今後再評価されてよいのでは なかろうか。ただし、師団司令部の設置された都市と一連隊の駐留した小都市とは、同一レベルで扱うには無 理があり、両者の明らかな相違のあることは紛れもない事実である。なおこの両者の比較については、『福井 県の歴史散歩 H 山川出版社 1991)の中で使われている「連隊町」という言葉から示唆を得て、「軍都」と「連 隊町J と明瞭に区別した方が適切なのかも知れない。この詳細な検討は後日に譲り、本稿では従来からの「軍 都 J をいっそう広義に扱うこととして、鯖江市に着目することをお断りしておきたい。

3) 近代日本の 「軍国主義 Mi1itarismJ の盛衰については、猪木正道 (1995H 軍国日本の興亡』中公新蓄を参照。 4) 前掲註 1) に同じ。

5) 本稿では、鯖江市を「軍都J による視点、からの考察が有効で、あろうという仮の設定に基づいて試みるもので あり、敗戦後に「軍都(連隊駐留地)J から「つつじの名所 公園 j へと都市イメージを変質させた鯖江市の 変遷動向とその場所論的意味を解釈することだけに努めたい。さらに繰り返して触れると、師団司令部のあっ た都市との厳密な比較検証等の論及に関しては今後の課題とした上で、「軍都」としての鯖江における軍事施 設(兵舎 ・ 記念碑・墓地など)や軍事行事(慰霊祭・軍旗祭・凱旋パレードなど)等に関する詳細な考察も、近日 中に月 IJ 稿で取り組みたいと考えている。 なお、これまでに鯖江を「軍都」という視点、から積僅的に都市史的考 察を試みたものは全く見られない。ただ鯖江に歩兵連隊が駐留した史実については郷土史で度々触れられてき た程度で、ある。このような鯖江のほか、福井県内では敦賀の軍隊駐留についてもほぼ同様な状況である。 6) これ以前の古代については、 本稿と直接関係しないために省略する。

7) 鯖江藩五万石の城下町の町並み景観については、川上貢 (1992) í 越前鯖江の町並景観と町屋遺構について」

(~日本建築史論考』中央公論美術出版 1998 所収)という貴重な学術調査研究が知られる。

8) 吉田純一(1990) í 鯖江藩築城計画」福井工業大学研究紀要第 20 号(後に『福井の城』フェニックス出版に所収)や 竹内信夫 (1980) í鯖江藩城下町建設始末記 J (~鯖江市・そのふるさとの文化のルーツをさぐる』間部公をたたえる会) などを参照されたい。

9) 本康宏史 (2000) í 軍都における都市空間の諸相ー比較 「軍都j 論の一前提としてーJ 石川県立歴史博物館紀要 第 13 号を大いに参照した。

1 0 ) 

í 歩兵三十六連隊」の正確な設置場所とは、当時の丹羽郡神明村 ・ 立待村にかけての一帯(通称 .札里子)であ ったものの、この連隊を当初から「鯖江連隊」と一般的に広く呼ばれ、また全国の数多い連隊駐留地の中でも 特に「田舎連隊(鯖江・浜田・村松) J として知られていたという。

なお鯖江連隊の創設 ・選定理由・活動・戦後処理等については、『鯖江聯隊史』鯖江聯隊史蹟保存会 1956 や『鯖 江歩兵第三十六連隊史』鯖江三十六連隊史蹟保存会 1976 を参照した。

11) 連隊駐留による街の繁栄については、神明ふるさと再発見実行委員会 (1997) ~鯖江歩兵第三十六連隊の創設』

(鯖江市神明公民館)の中で、聞き取り調査等の記録がまとめられており、大いに参照した。さらに参考事例 として、『軍都高田の成立とその変遷』 新潟県社会科研究会 1980 や天野卓郎 (1983) r 軍都広島の変遷 j 歴史 公論第 9 巻第 5 号、中島隆 (1993) ~軍都の轍より 八日市私史近現代抄ー』新風舎等を参照したラ

12) 敗戦直後の時期に「軍都鯖江J のことを触れることは許されなかったであろうが、昭和 30 年の市制発足と 同時に、「鯖江連隊史蹟保存会 J (会長・若泉新一市長)が、県下の三百余名によって結成された(昭和 30 年 7 月)。

当会は鯖 i工連隊の施設群が徐々に消え去っていく 中で、その歴史を後世に伝え遣すことを目的に「記念碑建立」 と「連隊史編纂 J などを計画して募金活動を行い、翌 31 年 9 月に完了した。さらにその翌 32 年 9 月には、 111 兵営跡一幣を「三六町」とすることが市議会で決定された。そのほか、嶺北忠霊 i答を中心とした広大な旧陸軍 墓地が整備されるなど、神明地区の各地にはかつての「軍都鯖江」の残影を今なお見ることができる。

‑ 1 1 8 

(18)

軍都の解体から公園の再生へ

13) 石碑 「織陽渓」は、現在の西山公園内、妙法寺(山号 ・響陽山)の近傍に建っている。

また士民と共に楽しむ目的から造園された庭園としては、水戸藩主徳川斉昭が天保 13 年(1842) に造らせた「借 楽園 J が有名であるが、この鯖江務の「需陽渓」と何らかの関係があるのかどうか、現時点では不明である。

なお庭園「稽陽渓 J が、ほんとに藩主詮勝の意志によって造園されたものなのか、実は疑問は少なくない。 14) 二代安藤広重 (1826-1869)

初代広重(1797-1858)の弟子重宣(俗称 :森田鎮平)のことで、安政 6 年 (1859) 初代の養女お辰の入婿となって、

二代を襲名。師風をよく継承し、初代の最晩年の「名所江戸百景」や「絵本江戸土産」を補作する。慶応元年 ( 1865) に養家を去って、喜斎立粛と改名した。 名声は高くはない。因みに、慶応 3 年(1867) にお辰の新たな入 婿となった初代の弟子重政( 1842-1894) が三代広重となったが、みずからは二代目を自称しつつも、新たな作 風によって文明開化の世相を報道的に画く明治絵が多い。

なお、ほんとうに広重が当地の鯖江まで来てこれを描いたのかどうか、不確かな点も多く、この木版画をめぐ る疑問は少なくない。

15)  ~鯖江市史第 4 巻 H1984) には、万延元年( 1860)や文久元年 (1861)、明治 2 年 (1869) に出された「御触書」

が収められている。

16) 江戸時代には武家屋敷の庭園などに「梅林」が好まれたものの、明治維新後の公園等の公共的な場には、実 に積極的に「桜」が植えられた。その桜の植樹と近代天皇制の確立にともなうナショナリズムとの関係につい て、最近年の研究では、日本近代史の新たな視点として注目されている。 以下の文献を参照されたい。

高木博志 (1999) í桜とナショナリズム J ~世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』柏書房 大日方純夫 (2000) í 近代天皇制と三つの花 j 歴史評論 602 号

17) 昭和 20 年 4 月 16 日付の福井新聞紙上には、「名勝も戦列へJ という見出しで、県下の代表的な公園(気比の 松原、亀山城土止、霞ヶ城祉、西山公園、小浜公園、芦山公園、長山公園)が、激しい戦況のなかで変貌してゆ く様子を伝えている。構陽渓から西山公園への名称変更が、どの時点で成立したのかは現時点で不明確なもの の、この新聞では矯陽公園と並記されていることから、戦前はおそらく織陽と西山を混合して使用していたと 思われる。従って西山公園の名称のみが正式なものとなって一般に広く定着するのは、昭和 30 年市制発足以 降のことと考えてよいだろう。

18) 市庁舎建設位置をめぐる論議は、「北と南の対立感情 J ( I鯖江市だより j 第 26 号、昭和 32 年 i 月 1 日発行)が強 く働いて遅々としてまとまらなかったようである。つまり、鯖江市の都市中核を形成するための「長泉山総合 開発事業 J において、その中心事業となる市庁舎建設位置を争って「北の神明地区 J と「南の鯖江地区 j との 問で複雑なやり取りがあったと想像される。「軍都」の歴史をもっ神明地区と、「城下町」の歴史を引き継ぐ鯖 江地区との住民の聞には、同じ「鯖江市民J という共通した意識を生み出すまでには深い溝があったようであ る。それだからこそ、この両地区を一体化して新生鯖江の都市中核とすることが、市制発足時からの最大の課 題であり、その複雑な状況が、市庁舎建設位置論争に反映したと見るのが妥当と考えられる。

19) í 鯖江市だより」第 45 号、昭和 33 年 4 月 14 日発行。

因みに鯖江市広報誌「鯖江市だより J は、昭和 30 年 2 月 10 日付発行を第 l 号として始まり、その後の昭和 33 年 6 月 l 日付発行の第 47 号から「広報さばえ」と改名した。

20)  í広報さばえ J 第 77 号(昭和 35 年 4 月 5 日発行)には、「さくらまつり」から「つつじまつり」へ移っていく 状況が伝えられている。

21) 青木純子 (2000) í 江戸時代の園芸文化を探るく 10 ツツジ >J グリーン・エージ第 317 号 p.22-26 22)  í 広報さばえ J 第 82 号、昭和 35 年 9 月 5 日発行。

23)  í 郷土愛」、 つまりそれを現代の環境哲学思想に基づくならば、「人 J と「故郷」との相互関係から形成され る「場所愛(トポフィリア)J のことであり、これに関しては次の拙文で詳しく取り上げたことがある。

拙稿 (2000) í金沢とワイマール一日独の古都にみるトポフィリアの思想ーJ(櫛回清編『金沢学⑨トポス・オブ ・ 金沢 一イ云統都市の場所性をめくe ってー』 前田印刷出版部)

24) 先日作成されたばかりの『鯖江市中心市街地活性化基本計画』をはじめ、『第 3 次鯖江市総合計画』や『都市計 画マスタープラン』、『ファッションタウン計画』などの内容にも反映している。

25) アンヴィパレンスな性格の備えた都市の保持する魅力や可能性について、金沢とワイマールを例に考察した 拙稿(註 23) を参照していただきたい。

26) ハーパーマス(細谷貞雄訳 1973) ~公共性の構造転換』未来社は、「公共性」の史的概念をめぐって示唆深い。 27) 白幡洋三郎 (2000) í 地域文化としての公園」都市計画 223号 p.22-25

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