ばっくとぅざぱすと その八
銅像を読む―二つの銅像、複数の歴史―
彦根城の北東に広がる金亀公園に井伊直弼の銅像が立っています。この立像は二代目で、初代が彦根 に建てられたのは1910年のことでした。しかしそれは二番手。直弼像が初めて立ったのはその前年、横浜 の地だったのです。なぜ横浜なのでしょうか。 横浜に港が開かれたのは幕末の1859年。1909年は横浜が開港してから50年を数えるときでした。そ れを祝福する祭典が開催され、開港記念日から数日のあいだ横浜は開港50年祭で賑わいました。亡き主 君の顕彰を切望していた旧彦根藩士有志にとって、横浜は井伊直弼の尽力で締結された条約にしたがって 開かれた港にほかなりません。その祝典にあわせて記念像を建立することは何より忠誠と主君復権の証と 考えられたことでしょう。 それというのも安政の大獄を断行した直弼は、吉田松陰を師と仰ぐ人びとにとっては憎むべき悪であり、松 下村塾が排出した為政者の確立した明治政府のもとでは、直弼の復権は容易に叶うものではなかったので す。現に、開港記念日に予定されていた銅像除幕式の延期は山県有朋など元老らの横槍だとの風聞が報 道され、招待された多くの政府高官は開港50年祭の式典にも欠席したのでした。その一方で銅像が建った 地元では町民こぞって直弼像建立を祝福し、神楽を奉納しました。また町には直弼とM・C・ペリーの人形が ペアとなった山車もくりだしました。市民にとってみれば、わが港都のお祝いごとをするのに国史上第一級の 人物が登場することは名誉であり、開港五十年を祝福するとき安政の大獄も桜田門外の変もほとんど意味 のない過去の出来事だったようにみえます。 二つの直弼像とそれをめぐる歴史の逸話は、歴史はつねに複数の相貌をもっていることを私たちに教えて くれます。しかも未来は過去の必然ではありませんし、過去とはいまの時点においてみつけられた現在の説 明因子なのだとも伝えてくれます。さてBack to the Past―横浜で史料を読んでいるころの私は、彦根に毎日通勤するなどとは夢にも思いませ
んでした。直弼もひとりの方は自分の立ち位置にとまどっているのではないでしょうか。横浜港をみおろせる ものの掃部山は横浜の場末で晴れの舞台とはいえません。やはり彦根城をみあぐ地こそが彼には相応しい でしょう。 ただしご当地なのに二番手、しかも二代めとなると、こうした顕彰行為を彼はどううけとめるのでしょうか。 直弼の顔がいくらか青ざめて見えるのは、もちろんそれが銅像だからなのですが。 (社会システム学科 阿部 安成)